金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年… 金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年12月21日)- 1923年(大正12年)1月16日)は、日本の政治家、神職、華族。貴族院男爵議員。有郷と表記される場合がある。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有久の二男として生まれる。元治元年7月7日(1864年8月8日)父の隠居に伴い家督を相続し第47代石見国造となる。1875年(明治8年)9月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 明治4年(1871年)物部神社権宮司に就任し、権大講義、大教正、神道大社教副管長などを歴任。明治元年(1868年)から川合国漢塾を設け神道教育と共に国漢教育を行い、また、皇典講究所委員にも就任した。
池田 甚之助(いけだ じんのすけ、1846年1月9日(弘化2… 池田 甚之助(いけだ じんのすけ、1846年1月9日(弘化2年12月12日)- 1901年(明治34年)10月27日)は、明治時代の政治家。池田家12代当主。貴族院多額納税者議員。秋田銀行の前身行の一つである、旧秋田銀行初代頭取。 出羽国山本郡高梨村(秋田県仙北郡高梨村、仙北村、仙北町を経て現大仙市)に生まれる。生家は豪農で庄屋を務めた。 大区小区制が敷かれると、1872年(明治5年)秋田県第八大区第二小区戸長となり、ついで高梨村戸長、初代高梨村長などを歴任した。明治期の秋田県の鉄道敷設に際しては発起人を務めた。 1890年(明治23年)秋田県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1891年(明治24年)10月15日まで在任した。
池田 寬治(いけだ かんじ/ひろはる、1846年(弘化3年)… 池田 寬治(いけだ かんじ/ひろはる、1846年(弘化3年) - 1881年(明治14年))は、明治時代の日本の外交官、幕末長崎の阿蘭陀通詞。別名は池田 政懋(いけだ まさよし)、呉 常十郎(ご じょうじゅうろう)。大学南校大助教や岩倉使節団四等書記官等を経て、のちに初代在天津領事や大蔵省長崎税関長を務めた。 1846年(弘化3年)、長崎の唐通事呉家に生まれる。1861年(文久元年)稽古通詞。1864年(元治元年)小通詞末席。フランス語を修め、阿蘭陀通詞からフランス語教員に転じ、1868年(明治元年)から長崎府仏学助教、仏学教授、仏学教導を歴任し、済美館や長崎府広運館(のちの長崎英語学校、長崎県立長崎中学校)で教鞭を執った。
花島 兵右衛門(はなじま ひょうえもん、1846年〈弘化3年… 花島 兵右衛門(はなじま ひょうえもん、1846年〈弘化3年〉- 1929年〈昭和4年〉)は日本の実業家。静岡県三島市(旧田方郡三島町)出身。日本で初めて練乳(煉乳、コンデンスミルク)の量産化に成功し「金鵄ミルク(きんしミルク)」として販売。このほか、女子教育の推進や三島銀行の設立、伊豆箱根鉄道の前身である豆相鉄道の創設に参加するなど、駿東地域の経済発展に貢献した。 幕末の1846年(弘化3年)に、現在の三島市中央町三丁目にあたる田方郡三島町竹林寺小路(ちくりんじこうじ)地区に生まれる。家業は造り酒屋だったが、ジェームス・ハミルトン・バラに出会い1886年(明治19年)にキリスト教(プロテスタント)に入信して酒屋を廃業。
石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正1… 石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正14年(1925年)10月10日)は、日本の武士、警察官、地方官吏である。会津藩士として戊辰戦争を、また西南戦争を戦った。田山花袋は義弟。旧姓生亀、雅号盤石。 会津藩士の生亀家に生まれる。父は可汲。戊辰戦争では佐川官兵衛麾下として北越戦争を戦い、重傷を受け若松へ後送されている。明治5年(1872年)に警察官となり、少警部に昇進。また明治10年(1877年)には陸軍歩兵中尉に任官した。西南戦争に出征し、再び負傷している。警察官としては五等警視 に昇り、淀橋警察署、富岡門前警察署、本郷警察署でそれぞれ署長を務めた。明治19年(1886年)から明治25年(1892年)まで東白川郡郡長を務めて退官した。
山口 新一(やまぐち しんいち、1846年(弘化2年12月)… 山口 新一(やまぐち しんいち、1846年(弘化2年12月) - 1909年(明治42年)11月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢学を学ぶ。製糸業を営む。諫早好古館教諭、諫早校校長、長崎県立諫早中学、佐賀県立神埼中学校各校長、長崎県会議員を務めた。また、諫早銀行を創立し、頭取となった。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において長崎2区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
猪狩 八郎(いかり はちろう、1846年(弘化3年7月) -… 猪狩 八郎(いかり はちろう、1846年(弘化3年7月) - 1905年(明治38年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国江刺郡片岡村(のち岩手県江刺郡岩谷堂町、江刺町、江刺市を経て現・奥州市)生まれ。農業を営む。片岡村戸長、胆沢江刺郡書記、西根三ヶ尻村戸長を経て、1889年の町村制施行による岩谷堂町発足により、初代町長に就任し、1897年まで務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において岩手4区から進歩党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から立候補したが落選した。1899年から再び岩谷堂町長に就任。1905年8月に退任し、間もなく死去した。
佐々木 高栄(高榮、ささき こうえい、1846年(弘化3年8… 佐々木 高栄(高榮、ささき こうえい、1846年(弘化3年8月) - 1915年(大正4年)7月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 安芸国安芸郡(のち広島県安芸郡、現・呉市)生まれ。安芸郡書記、広島県会議員、呉市会議員、同議長、和庄町長となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において広島1区から自由党公認で立候補して当選した、続く同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では立憲自由党公認で立候補して三選した。衆議院議員を3期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補したが落選した。1915年に死去した。
井上 利右衛門(いのうえ りえもん、1846年(弘化3年7月… 井上 利右衛門(いのうえ りえもん、1846年(弘化3年7月) - 1917年(大正6年)1月7日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。岐阜県吉城郡国府村長。 飛騨国、のちの岐阜県吉城郡国府村(国府町を経て現高山市)出身。 国府村長、吉城郡会議員、三郡連合会議員、徴兵参事員、岐阜県会議員を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第7区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
小倉 処平(おぐら しょへい、弘化3年(1846年)-明治1… 小倉 処平(おぐら しょへい、弘化3年(1846年)-明治10年(1877年)8月18日)は、日本の武士(飫肥藩士)、官僚、思想家。大学南校少舎長、大学権大丞、大蔵省七等出仕。通称は処平。諱は良儔。明治維新以降も小倉処平で知られる。 郷党からは「飫肥西郷」とも言われる。また小村寿太郎を見出したことで有名で、平田東助と共に貢進生制度を建議した。西南戦争では西郷隆盛率いる私学校党中心の西郷軍側についた党薩諸隊の一つ飫肥隊を統率し、西郷軍奇兵隊総軍監となる。和田越の戦いで戦傷し、可愛岳近くの高畑山で屠腹自害する。 石高65石で乗馬以上(馬廻)の飫肥藩士である長倉喜太郎の次男かつ長倉訒の弟として出生。父の妹で処平の叔母は平部嶠南の妻である。
国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1… 国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1915年(大正4年)12月25日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。秋田県権令。他の通称・千吉郎、号・水門。 長門国萩城下で長州藩士・国司右内、まし夫妻の息子として生まれた。安政4年(1857年)春、松下村塾に入り、安政5年(1858年)吉田松陰の野山再獄まで指導を受ける。文久3年(1863年)若殿様御前詰、元治2年(1865年)御小姓役となる。また、干城隊に入り、その後御楯隊に転じ、改組された整武隊に慶応3年(1867年)まで在籍した。慶応4年2月(1868年)、御蔵元順番検使役に任ぜられ、以後会計局検使、大坂検使役、会計局権大属などを歴任。
小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) -… 小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) - 1911年(明治44年)3月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国熊毛郡島田村(のち山口県熊毛郡島田村、周南町、光町を経て現・光市)生まれ。萩明倫館で学ぶ。熊毛郡御用掛、島田村会議員、同副議長、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員となる。 1893年9月、曽禰荒助の辞職による山口4区の補欠選挙に立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16… 長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16年(1883年)11月26日)は、幕末から明治期にかけての勤皇の志士、官僚、漢詩人、画家。漢学者長三洲の弟。明治初期の学制起草に関与し、のち陸軍省御用掛を務めた人物である。諱は革。通称は綱吉・四郎・子金、号は士金・斉などを用いた。画家としては長古雪として知られる。 弘化3年(1846年)に長梅外の子として生まれる。安政3年(1856年)1月、兄・長三洲の紹介により、11歳で咸宜園に入学した。 慶應3年(1867年)には忠勇隊に属し、幕末動乱期の活動にも関与した。 明治維新後、兄・三洲とともに新政府の教育制度整備に深く関わり、明治5年(1872年)には学制起草委員の一人として『学制一覧』の編集を担当した。
青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)… 青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)– 昭和3年(1928年)3月17日)は、長州藩出身の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。海軍の水路(測量)事業の草創期に参加し、水路部初期の功労者として知られる。春日丸の艦長を務めた。名は住眞とも。 周防国佐波郡、のちの山口県佐波郡佐波村(現防府市)に安政2年(または弘化3年(1846年))に生まれる。長州藩の船舶・水軍を管理運用し海上警備や輸送を担った船手組の出身である。父は長州藩士・青木住衛(三郎兵衛)。 維新後は海軍に入り、明治3年(1870年)5月の日英共同測量の一員となった。水路事業の拡充が進む中、明治5年(1872年)に水路局が廃止され水路寮が置かれると、創設期の中核要員として青木(ほか中村雄飛・五藤国幹ら)が挙げられ、長州藩から推薦され長崎で研修を受けた伝習生であり、北海道測量にも参加した有能の士である青木は明治6年9月から測量課長を務めた。
本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月… 本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月) - 1908年(明治41年)7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国吉敷郡嘉川村(のち山口県吉敷郡嘉川村、現・山口市)生まれ。嘉川村戸長、同村長、山口県会議員、吉敷郡会議員、同参事会員、同議長となる。また、山口県農会名誉会員、同幹事、同代表者となった。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において山口1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年1… 佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年11月25日〉 - 1921年〈大正10年〉7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。 常陸国太田内堀(現:茨城県常陸太田市内堀町)で醸造業を営む高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り、その堂主であり叔母の夫である佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。 明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。
井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2… 井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2年11月25日) - 1923年(大正12年)3月30日)は、明治から大正時代の政治家。神職。衆議院議員。 美濃国本巣郡、のちの岐阜県本巣郡穂積村(穂積町を経て現瑞穂市)に生まれる。1871年(明治4年)第七大区二小区年番戸長となり穂積村と前野村の戸長を兼ね、1873年(明治6年)神官教導職、1874年(明治7年)2月、第七大区二小区権区長を兼ね、同郡山口村住吉神社などの神官、区長を兼任した。 1877年(明治10年)農事や養蚕業の研究のため地方を回り、帰郷後は1879年(明治12年)4月に岐阜県会議員となり衛生会委員を兼ねた。1880年(明治13年)8月、県内の治水改修のため西濃11郡の有志者と治水共同社を設立し取締役を務め、木曽、揖斐、長良川の三大河川改修事業を政府に請願した。
古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(184… 古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(1845年12月22日)- 大正3年(1914年)12月21日)は、日本の海軍軍人(海軍少佐)、教育者。海城学園の創設者。 肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれ、20石取りの下級武士である古賀家の養子となる。佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わり、秋田の戦いに功績があって有栖川大総督宮から感状を下賜された。 1891年11月、私財を投じて有栖川宮を始めとする多くの皇族達の賛同を得て海軍予備校、後の海城学園を創設。以降、理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。
中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日… 中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日(弘化2年11月15日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県会議長。旧姓・飯田、幼名・格太郎。 大和国山辺郡長柄村(奈良県〔第一次〕山辺郡長柄村、堺県山辺郡長柄村、大阪府山辺郡長柄村、奈良県山辺郡長柄村、朝和村を経て現天理市長柄町)で、飯田嘉市の三男として生まれ、1872年(明治5年)同郡田村(山辺村、丹波市町を経て現:天理市)の中山平四郎の養嗣子となる。国学、漢学を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)大阪府会議員に当選。奈良県再設置運動に参加、1887年(明治20年)に奈良県が再設置され奈良県会議員となり、1894年(明治27年)まで在任し、同議長も務めた。
岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(184… 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の江戸時代後期から明治期の武士(土佐藩士)、官僚、華族である。初名は鉄五郎、のち精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。 土佐国幡多郡、のちの宿毛村貝塚(宿毛町を経て現宿毛市)に生まれる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。
松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘… 松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘化2年11月7日)- 1915年(大正4年)5月31日)は、明治期の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 大和国宇陀郡松山町(のち奈良県宇陀郡松山町、大宇陀町を経て現宇陀市)で松尾四良三郎の長男として生まれた。1885年(明治18年)4月、家督を相続。学区取締、奈良県会議員、大阪府会議員、同常置委員、勧業諮問会委員、町村会議員、連合町村会議員となる。大和銀行頭取、奈良県農工銀行取締役も務めた。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において奈良2区から大手倶楽部所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2… 岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2年11月4日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、幕末の高鍋藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍主計少将。貴族院勅選議員。幼名・虎雄。 日向国児湯郡高鍋石原(現宮崎県児湯郡高鍋町)で、高鍋藩士・岩村又之進の長男として生まれ、岩村武右衛門の養子となる。藩校明倫堂で学び、さらに江戸の安井息軒に師事した。戊辰戦争時、江戸で新政府の内国事務局参与であった藩主世嗣秋月種樹が、上杉鷹山以来親密な関係の米沢藩の行末を案じ、米沢藩に対して新政府へ恭順を勧める献策が認められ、その使者として岩村と坂田潔が選ばれ、戦乱の中で苦労して米沢に入り米沢藩を帰順に導いた。
井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年… 井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年11月3日〉- 1929年〈昭和4年〉3月22日)は、明治期の日本の海軍軍人。薩摩国(現:鹿児島県)出身。階級は元帥海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。 薩摩藩士・井上七郎の長男。幼名は直八。同郷で6歳年下の井上良智海軍中将との血縁はない。名前がよく似ている長州出身の井上馨とも関係がない。 1863年(文久3年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾り、野津鎮雄(後に陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれ、弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。
笠間 広盾(かさま ひろたて、弘化2年(1845年)12月 … 笠間 広盾(かさま ひろたて、弘化2年(1845年)12月 – 明治16年(1883年)11月25日)は柳河藩出身の海軍軍人。名は楯雄とも。のち海軍大佐に進み、従五位・勲四等。 柳河藩士として生まれ、旧筑後柳河藩士・笠間直の伯父にあたる。慶応4年4月には兵庫海軍出張所への出仕を命じられ、明治4年ごろに大尉となった。明治7年の佐賀の乱では江藤新平の行方探索のため肥前海上を捜索し、その功により正七位に叙された。同年10月ごろに少佐へ進み正六位となる 。 明治10年の西南戦争では孟春艦長として従軍して功を挙げ、明治11年1月4日に勲四等旭日小綬章を授与された。明治14年には中佐に進み、筑波艦長として明治15年にはオーストラリアへ派遣され、その卓越した手腕により川村純義四天王の一人と称された。
大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化… 大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化2年10月27日〉 - 1925年〈大正14年〉3月12日)は、日本の政治家(貴族院議員、衆議院議員、青森市会議員)、青森県の大地主、醸造家、青森県多額納税者、資産家、実業家。青森商業会議所会頭。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡蜆貝村(現・青森県青森市)出身。大坂彌吉の長男。漢学を修めた。幼くして両親と死別して孤児となった。一時ヤクザの世界に身を置いた。塩町に貸座敷・大金楼を開業した。のち酒造業、質屋を開いた。清酒醸造兼金銭貸付業を営んだ。 青森商業銀行、青湾貯蓄銀行、青森電燈会社、青森瓦斯会社などを設立した。青森商業銀行、青湾貯蓄銀行各頭取、青森電燈、青森倉庫、青森瓦斯各社長、青湾貯蓄銀行、歌舞伎座各取締役などをつとめた。
豊田 芙雄(とよだ ふゆ、弘化2年10月21日(1845年1… 豊田 芙雄(とよだ ふゆ、弘化2年10月21日(1845年11月20日) - 昭和16年(1941年)12月1日)は、女子教育家・幼児教育家。水戸大成女学校(現大成女子高等学校)校長などを歴任。女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などともいわれ、日本の女子教育界発展に大きく貢献したほか、日本の保母第1号とされる。藤田東湖の姪であり、豊田香窓の妻でもある。幼名は冬、冬子。のち芙雄と改めたが、後年は芙雄子と署名することが多かった。 水戸藩郡奉行・桑原信毅(桑原治兵衛)の次女として、常陸国水戸城下藤坂町(現・茨城県水戸市五軒町)に出生。母は藤田東湖の妹の雪子。幼少時から学問を好み、薙刀術穴沢流の伝授も受けた。
到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈184… 到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈1845年11月17日〉 - 1901年〈明治34年〉6月22日)は、宇佐神宮大宮司などを務めた明治時代の神職、男爵、正四位。 宇佐氏の流れを汲んで代々宇佐神宮の宮司を務めていた世襲家である到津家に、当主であった到津公嘏(公蝦?)の息子として生まれる。母である到津言子は、熊本藩士の娘で、歌人でもあった。 安政2年(1855年)に初めて宇佐神宮大宮司となり、以降、長く神職を務めた。明治5年(1872年)に華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となり、明治32年(1899年)には、正四位に叙された。この間、教導職では、明治5年(1872年)に権少教正に任じられ、明治12年(1879年)には少教正となり、明治17年(1884年)には職を解かれた。
西潟 為蔵(にしかた ためぞう、1845年11月14日(弘化… 西潟 為蔵(にしかた ためぞう、1845年11月14日(弘化2年10月15日)- 1924年(大正13年)9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員。 越後国蒲原郡下田郷福岡新田(現:新潟県三条市)で、地主・西潟浅五郎の長男として生まれる。目黒市左衛門、村松藩士・山上謙之助から漢籍を学ぶ。慶応2年(1866年)1月から3月にかけて東山・東海・南海・山陽・畿内・北陸を旅行して見聞を広めた。慶応4年8月29日(1868年10月14日)鹿峠・長沢組一揆の際に、百姓惣代として請願十ヶ条を纏め村松藩と交渉を行った。 明治5年9月(1872年10月)地主惣代として壬申地券交付取調、1874年、地租改正掛、1876年、第十八大区小八区村位等級調査委員となり地租改正事業で実績を残した。
井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈184… 井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈1845年11月14日〉 - 1886年〈明治19年〉12月14日)は、日本の実業家、技術者。明治時代初期の官吏。「日本の毛織物工業の父」と呼ばれた。 1845年11月14日(弘化2年10月15日)に厚狭郡宇津井村(現下関市)の庄屋である伯野家に次男として生まれ、同郡厚狭村(現山陽小野田市)の厚狭毛利家の家臣である井上家の養子となる。山口兵学校で蘭学を学び、奇兵隊隊長として倒幕に参加、1869年(明治2年)に木戸孝允と出会う。翌年に上京し、半年後に北白川宮能久親王に随行しドイツのベルリンへ留学。 当初は兵学を目的としていたが、殖産興業に変更し織物工場にて製絨技術を学ぶ。
木村 九蔵(きむら くぞう、弘化2年10月10日〈1845年… 木村 九蔵(きむら くぞう、弘化2年10月10日〈1845年11月9日〉 - 1898年〈明治31年〉1月29日)は埼玉県の養蚕家。競進社・日本蚕種貯蔵庫社長、埼玉県立児玉白楊高等学校校祖。一派温暖育を考案し、競進社模範蚕室を建設した。高山社の高山長五郎は実兄。 弘化2年(1845年)10月10日上野国緑野郡高山村の豪農高山寅蔵の五男として生まれた。幼名は巳之助。安政4年(1857年)父が多胡郡日野村に隠居すると、その隠宅で家事に従事した。 近隣農家から蚕卵紙を譲り受け、屋根裏で養蚕を試みたところ、良質な繭を得たので、翌年実家に呼び戻され、兄長五郎と養蚕の事業化を試みたが、蚕は一転して白彊病(英語版)(コシャリ病)で全滅してしまった。
田辺 有栄(たなべ ゆうえい、1845年11月6日(弘化2年… 田辺 有栄(たなべ ゆうえい、1845年11月6日(弘化2年10月7日) - 1911年(明治44年)9月14日)は、日本の政治家、実業家。 甲斐国山梨郡下於曽村(現・山梨県甲州市塩山下於曽)に生まれる。幼名は栄次郎。田辺家は御三卿領である田安家領で郡中総代を務める家柄で、当主・田辺周右衛門の長男。『東山梨郡誌』による略歴によれば、田辺は甲府の徽典館で学んだという。幼くして村内抗争で両親を失い一時は駿河国の幕臣河辺家に移る。1870年(明治3年)、明治維新後に帰郷し、下於曽村の名主となる。 明治維新を経た山梨県では、1872年(明治5年)に県庁が甲斐独自の税制であった大小切税法廃止を断行し、国中三郡の百姓を中心に反対運動が激化し、大小切騒動が起こる。
宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化… 宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化2年9月15日)- 1932年(昭和7年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 阿波国勝浦郡中郷村(現徳島県小松島市中郷町)で、素封家・宮本本右衛門の長男として生まれ、その後、家督を相続した。 1897年7月3日、徳島市前川町に徳島県初の紡績工場を経営する阿波紡績株式会社が設立され、宮本が初代社長に就任した。次の社長に板東倹吉が就任したが、赤字経営のため再び宮本が社長に就任して整理に当り、会社は堺紡績に合併した。 1904年6月10日に執行された、徳島県下15名の互選による貴族院多額納税者議員選挙で当選し、同年9月29日に就任し、1911年9月28日まで1期在任した。
木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(184… 木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。 長州藩士・木梨彦右衛門(大組、63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。 長州藩兵第1大隊長を経て明治4年(1871年)に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年(1872年)の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年(1873年)8月、依願免本官となり位階の返上をした。
阿部 興人(あべ おきと〈おきんど〉、1845年10月5日〈… 阿部 興人(あべ おきと〈おきんど〉、1845年10月5日〈弘化2年9月5日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の政治家・実業家。阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)出身。幼名は金兵衛。 阿波国木津村(現在の鳴門市撫養町木津)の名主・阿部猪蔵の5男として生まれる。その後、徳島藩士である阿部岸蔵の養嗣子となる。柴秋邨の思済塾に学び、後に塾頭となる。同じ塾生だった近藤廉平とは終生にわたる親友であった。1869年(明治2年)、益田武衛、南堅夫とともに外交御用となり上京。藩の給付を受けて慶應義塾に学んだが、すぐに帰郷した。 1870年(明治3年)、長州藩で起こった脱隊騒動の視察を命じられ、益田・南と共に徳大寺実則一行と蒸気船・戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察。
緒明 菊三郎(おあけ きくさぶろう、1845年(弘化2年)1… 緒明 菊三郎(おあけ きくさぶろう、1845年(弘化2年)10月2日 - 1909年(明治42年)1月6日)は、江戸時代の船大工、造船技師。明治時代の実業家、経営者。 船大工の棟梁の緒明嘉吉(おあけ かきち)の長男として伊豆国戸田村(現在の静岡県沼津市の一部)に生まれる。 1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督がフリゲート「ディアナ号」で下田に入港したが、同年12月23日(嘉永7年11月4日)に発生した安政東海地震に巻き込まれ、下田港内に停泊中だったディアナ号は津波で大破。修理のため戸田村へ回航したものの嵐に見舞われ航行不能となった末に、1855年1月17日(安政元年12月2日)に沈没してしまった。
横田 香苗(よこた かなえ、弘化2年8月21日〈1845年9… 横田 香苗(よこた かなえ、弘化2年8月21日〈1845年9月22日〉 - 1912年〈大正元年〉10月18日)は、明治時代の賞勲局官僚。賞勲局副総裁。錦鶏間祗候。 彦根藩士の横田俊輔の二男として近江国犬上郡彦根城下(滋賀県彦根市)に生まれ、のち横田和四郎の養子となる。内閣賞勲局に奉職し、同書記官を務めた。1898年(明治31年)10月、賞勲局副総裁に就任し、1912年(明治45年)5月24日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は青山霊園。
野沢 白華(のざわ はっか、1845年9月15日〈弘化2年8… 野沢 白華(のざわ はっか、1845年9月15日〈弘化2年8月14日〉- 1904年〈明治37年〉1月29日)は、明治時代の文人画家(南画家)。本名は龍(りゅう)。白華は号。 常陸国久慈郡辰ノ口村(現在の茨城県常陸大宮市辰ノ口)で出生。父は平重、母は義(よし)。野沢家は清和源氏の末裔を自称する家で、中世は甲斐武田氏に仕えていたと伝わる。永禄・天正年中(1558年-1592年)に辰ノ口村に移住土着し、以降は常陸佐竹氏に仕えたという。慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国へ移封されると帰農し、近世は代々同村の庄屋を務めた。白華の大叔父にあたる野沢四郎兵衛は「白仙」の号をもつ歌人、俳人であった。祖父の野沢新衛門は漢学者であり、居村に私塾を開いていた。
八尾 善四郎(やお ぜんしろう、1845年9月11日〈弘化2… 八尾 善四郎(やお ぜんしろう、1845年9月11日〈弘化2年8月10日〉 - 1918年)は、日本の実業家、政治家。神戸市会議員。兵庫運河社長。駒ヶ林魚類定市場取締役。族籍は兵庫県平民。兵庫運河を完成させた人物として知られる。 淡路津名郡岩屋村(現・淡路市)の長谷川八右衛門の次男として生まれ、5歳のときに兵庫西尻池の旧家八尾家の養子となる。船頭から身を起こして魚問屋として成功を収め、和歌山や四国まで事業を拡大させた。 1894年に安田善次郎、武井守正、谷勘兵衛らの出資の下、兵庫運河株式会社を設立し、新川運河を完成させたまま中断していた兵庫運河の建設工事を引き継ぎ、1898年に完成させた。1898年4月19日から1904年4月18日まで神戸市会議員をつとめた。
千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日〈1845年9… 千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日〈1845年9月7日〉 - 大正7年〈1918年〉1月3日)は、日本の宗教家、政治家。80代出雲国造、出雲大社宮司。神道大社教(1946年出雲大社教に改称)創立者で初代管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。 出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。その後、神道大社教に改称し管長に就任するなど、教派神道たる出雲大社教の礎を築いた。元老院議官を経て、第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。
立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日… 立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。 実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫。桑名藩士・立見尚志の養子となった。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。 藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス教官をして「立見は天成の軍人である。
長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm N… 長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm Nagayoshi Nagai, Nagajosi Nagai、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉- 1929年〈昭和4年〉2月10日)は、日本の薬学者、化学者、教育者。東京帝国大学名誉教授。日本薬学会初代会頭、大日本製薬技師長。日独協会理事長。帝国学士院会員。学位は哲学博士(ベルリン大学)、理学博士(明治天皇勅令)、薬学博士(明治天皇勅令)。名は直安、長吉。号は朴堂。ドイツ名はヴィルヘルム(Wilhelm)。エフェドリンの発見者、メタンフェタミンの合成者。 弘化2年6月20日(1845年7月24日)、阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現:徳島県徳島市中常三島町2丁目)に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。
小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1… 小林 乾一郎(こばやし けんいちろう、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 昭和4年(1929年)1月2日)は、日本の教育家、政治家。後の延岡市長鈴木憲太郎の実父。 明治時代の延岡を代表する教育者、政治家。衆議院議員として、明治期の宮崎県の発展に寄与した。また、延岡の女子教育に大きく貢献した「女児教舎」の提唱者であり、その総監督を務めた。民有林の国有化に反対し、「県北民有林と林業の父」とも称される。 1845年(弘化2年)、日向国延岡(現・宮崎県延岡市)生まれ。藩校廣業館で学んだ後長崎に遊学し、その後東京の大学南校に学ぶ。横浜修文館の英語教師を勤めた後、1873年(明治6年)に帰郷、延岡社学(亮天社)の英語教師となる。
谷口 清八(たにぐち せいはち、1845年7月16日(弘化2… 谷口 清八(たにぐち せいはち、1845年7月16日(弘化2年6月12日) - 1911年(明治44年)8月8日)は、日本の鋳物師、実業家。幼名は敬次郎。東谷口家11代目当主谷口清左衛門。俗称、鉄管王。 1845年(弘化2年)、 佐賀藩藩主鍋島家に、代々仕えてきた鋳物師谷口家の10代目当主(東谷口)の長男として、長瀬町に生まれる。幼名は敬次郎、1872年(明治4年)に11代目当主清左衛門を清八と改める。 先代と共に、反射炉の築城や鉄製大砲鋳造に尽力した後、1883年(明治16年)、谷口鉄工場を設立。1892年(明治25年)、鋳鉄管製造に成功、外国製品よりも品質がよいと評価され、「鉄管王」と称せられた。
長谷川 敬一郎(はせがわ けいいちろう、1845年7月14日… 長谷川 敬一郎(はせがわ けいいちろう、1845年7月14日(弘化2年6月10日)- 1918年(大正7年)9月28日)は、幕末から大正期の村役人、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、佐賀県会議長。 肥前国松浦郡久里村(佐賀県東松浦郡久里村大字久里を経て現唐津市久里)で、大庄屋・長谷川正平の長男として生まれる。15歳で平野組庄屋を務め、その後、久里村大庄屋となった。 1881年(明治14年)長崎県会議員に選出され、1883年(明治16年)5月に佐賀県が分離成立すると佐賀県会議員となり、県会議員に34年間在任し、同常置委員、同参事会員、同議長、東松浦郡町村組合議長なども務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙で佐賀県第2区から自由党所属で立候補したが次点で落選。
大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845… 大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845年7月13日) - 大正15年(1926年)3月6日)は、明治時代から大正時代にかけての書籍商、出版者。聚栄堂と号し、のちに大川屋書店となる。 弘化3年(1846年)に武蔵国入間郡横沼村(埼玉県入間郡三芳野村を経て現坂戸市)に生まれた。幼時に父に従って江戸に出て、八代目朝倉屋久兵衛に奉公した後、慶応4年(1868年)8月に独立し、深川西町において貸本業を営んだ。明治2年(1869年)に浅草区三好町7番地に移った。貸本業を明治27~28年(1894~1895年)まで継続しながら、並行して書籍の出版・取次・販売業を開始する。大川の出版物のほとんどは求版と相版で、自ら出版したものはわずかしかない。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(… 高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(弘化2年5月16日) - 1915年(大正4年)4月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・幸治郎。 陸奥仙台藩領栗原郡若柳村(宮城県若柳町を経て現栗原市)に生まれる。1884年(明治17年)若柳村会議員に当選。ついで宮城県会議員、栗原郡会議員、同参事会員のほか、栗原郡岩ヶ崎製糸会社社長、塩釜水産、第八十八銀行各取締役、第七十七銀行監査役などを歴任した。ほか、仙台米穀取引所の設立に関与した。 1900年(明治33年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年… 三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年5月12日) - 1908年(明治41年)8月20日)とは、日本の法曹。初代検事総長、大審院院長を歴任し、退官後は弁護士、貴族院議員を務めた。錦鶏間祗候。 旧暦弘化2年5月(1845年6月)、日向国(現在の宮崎県児湯郡高鍋町)高鍋藩士の家に生まれる。藩校明倫堂で学んだ後、遊学して安井息軒に師事。 明治2年(1869年)に新政府に出仕して高鍋藩の少参事を務めた後、地方官や大蔵省官吏を歴任。この間、大蔵省出仕のまま明治4年7月3日(1871年)、27歳で慶應義塾に入塾した。同塾が芝新銭座(現在の港区浜松町一丁目)から三田に移ったばかりで、同窓には猪飼麻次郎、九鬼隆一、雨山達也、矢野文雄、高嶺秀夫らがいた。
鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日… 鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日 - 大正15年(1926年)1月25日)は江戸時代の武士、明治時代の開拓者。幼名は軍次郎、通称は半蔵。 信濃国佐久郡小諸城下に小諸藩士・神戸安右衛門の次男に生まれ、同藩士の鳥居氏の養子となった。明治3年(1870年)知藩事牧野康済に抜擢され、為政党の幹事となり、藩命により御牧ヶ原の開墾に着手し、21年間のあいだに田畑1500ヘクタール、山林700ヘクタール、農家300戸を数えるほどになり、馬産と植林事業にも尽力した。また明治8年(1875年)からは軽井沢の官有原野100町歩と民有地を買収し、優良馬の牧場経営と大農法による飼料作物栽培を行い、防風のために落葉松林を植樹した。