菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19… 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は、日本の僧侶、政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。 個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。
泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5… 木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5年9月15日) - 1940年(昭和15年)10月1日)は、日本の検察官、宮内・台湾総督府官僚。高雄州知事、官選函館市長。 福島県出身。木村宗順の長男として生まれる。1899年7月10日、東京帝国大学法科大学を卒業。同年7月29日、司法官試補となり検事代理として神戸区裁判所詰を命ぜられた。 以後、神戸地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、徳島地方裁判所検事を歴任。1914年7月、宮内省に転じ同事務官に就任。以後、調度寮勤務、大礼準備委員、大礼使事務官、調度部勤務、大礼記録編纂委員会委員、久邇宮附、帝室林野管理局事務官などを務めた。 1923年6月、台湾総督府に転じ参事官に就任し、同年8月13日、同府税関長に任じられた。
山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧… 山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧暦)(1872年) - 没年不詳)は、日本、台湾、関東州、満洲の土木技術者。 福岡県士族山路圓の長男として、福岡県糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区箱崎)に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年7月第五高等学校工科を経て、1899年3月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1899年7月兵庫県技師となる。1901年台湾台中県土木課長に転じ、同年11月台湾総督府技師を経て、日露戦争終結直後の1905年9月、関東州民政署技師となる。1906年9月、関東都督府が設置されると関東都督府民政部技師兼土木課長に就任。ここで修猷館、五高、東大の後輩でもある倉塚良夫を推薦して参加させ、以後、山路と倉塚が中心となって、関東州の道路、上下水道の築造が推し進められた。
塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5… 塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5年9月14日) - 1946年(昭和21年)10月24日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育心理学者。文学博士。 兵庫県出身。1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1901年(明治34年)からドイツ・アメリカ合衆国に留学し心理学を研究した。帰国後、広島高等師範学校教授、文部省督学官、静岡高等学校長、東京高等学校校長を歴任した。1934年(昭和9年)より広島文理科大学学長・広島高等師範学校校長を務めた。
児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈… 児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈明治5年9月13日〉 - 1921年〈大正10年〉10月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。 和歌山県那賀郡粉河村(現在の紀の川市)に、後の衆議院議員児玉仲児の長男として生まれる。同志社卒業後、ミシガン大学に留学し、哲学博士の称号を受けた。帰国後、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学法科大学経済学講師、同志社大学講師、北海道拓殖銀行営業部長、富士製紙主事などを歴任した。 原敬の知遇を得、1900年(明治33年)に原が逓信省大臣に就任すると、秘書官に任命された。1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明… 藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明治5年9月10日) - 1931年(昭和6年)1月15日)は、日本の倫理学者。 1872年、山形県東田川郡狩川村出身。旧姓は石川。号は館山。東京帝国大学を卒業。卒業後は早稲田大学教授を経て、1913年より京都帝国大学教授となった。丁酉倫理会会員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9… 荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9月3日) - 1944年(昭和19年)9月11日)は、日本画家。長崎県大村生まれ。本名・朝長悌二郎。
池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年… 池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月9日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。位階勲等は正三位勲二等。 元岡山藩主・池田慶政の四男として生まれる。その後、旧備中生坂藩主・池田政礼の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)10月25日に子爵を襲爵した。 1887年(明治20年)アメリカ合衆国に留学し、その後、東京帝国大学法科大学を修了。1903年(明治35年)友隣生命保険に入社し、その後、十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)などで勤めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次、18… 尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、資産家。姫路市会議員。国栄機械製作所創業者。族籍は兵庫県平民。 グローリー実質創業者尾上壽作の父。グローリー会長尾上壽男の祖父。 兵庫県飾麿郡安室村字新在家(現・姫路市)出身。兵庫県平民・池内宗太郎の二男。姫路の商家、尾上作平の養子となり、1901年、家督を相続した。 1918年3月、姫路市延末にて、作兵衛は個人経営で電球製造機の修理・販売を開始した。また、山陽醤油社長、日本化学漆器代表取締役、三十八銀行、姫路水力電気、姫路銀行、姫路莫大小、姫路倉庫各取締役など各種の会社重役を務めた。
松下 専次郎(松下 専治郎、まつした せんじろう、1872年… 松下 専次郎(松下 専治郎、まつした せんじろう、1872年〈明治5年〉10月 - 没年不明)は、日本の実業家、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県平民・松下角作の二男。廃家・松下氏を再興する。質屋、金銭貸付業を営む。岡田汽船監査役・同取締役、美保関電気監査役などをつとめる。 住所は鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日)… 磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。旧姓・平田。 滋賀県士族・平田繁の二男として生まれる。父は加賀大聖寺藩士で、藩主の命により同士石川専輔と共に神戸に、神戸川崎造船所の前身の造船所を開き、藩の造船所奉行となっている。1885年(明治18年)11月に、同藩士で陸軍中佐・磯村惟亮の養嗣子となる。東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)卒業。 日露戦争時に大本営陸軍部参謀として勤務し、第一次世界大戦における通称・青島攻略戦と呼ばれるドイツの要衝・青島へ独立第18師団高級参謀として出撃。
佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年… 佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年9月30日) - 昭和29年(1954年)4月16日)は、日本の医師。陸軍軍医総監(中将相当官)。宮中顧問官。医学博士。 愛知県出身。1896年(明治29年)、帝国大学医科大学を卒業。翌年、陸軍三等軍医となり、1922年(大正11年)に軍医総監に至った。1902年(明治35年)9月、陸軍一等軍医で陸軍軍医学校教官の時、福島安正陸軍少将が英領インドのアンバラ(Ambala)で病気にかかっていたので、英領インドまで差し遣わされた。その後、京城衛戍病院院長、朝鮮駐箚軍軍医部長などを歴任した。1907年(明治40年)からドイツに留学し、1911年(明治44年)に医学博士号を受けた。
秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月… 秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月27日〉- 1933年〈昭和8年〉2月4日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、拓務大臣。 回船問屋・東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中、日本中学校、第一高等中学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1897年(明治30年)5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年(明治39年)7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。
田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日… 田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日(明治5年8月20日) - 1938年(昭和13年)2月11日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 石川県出身。田中信吾の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し茨城県属となる。 以後、茨城県警視・保安課長兼衛生課長、同庶務課長、青森県事務官・教育社寺兵事課長、長野県事務官・警察部長、広島県警察部長、神奈川県警察部長、千葉県内務部長、大阪府警察部長などを歴任。 1921年5月、大分県知事に就任。
石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明… 石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明治5年8月17日〉- 1925年〈大正14年〉11月12日)は、明治・大正期の日本のジャーナリスト、代議士。号は半山(はんざん)で、通称石川半山。他の筆名に呑海、城北隠士。 岡山藩士・石川彦衛の次男。岡山市一番町生まれ。慶應義塾を卒業後、ただちに『庚寅新誌』の記者となる。 次いで『信濃日報』主筆、『中央新聞』経済部長、『東京毎日新聞』主筆、次いで『報知新聞』に引き抜かれて北京に留まること5年、記者として北清事変(義和団の乱)に従軍し、中支那の外交機密を紙面で暴露して世間を驚かせた。次いで特派員としてポーツマス会議を取材。報知新聞主筆を経て一時『東京朝日新聞』に在籍したが、最終的に『萬朝報』の主筆として論陣を張り、「政界ゴシップの天才」といわれるようになる。
森田 茂(もりた しげる、1872年9月19日〈明治5年8月… 森田 茂(もりた しげる、1872年9月19日〈明治5年8月17日〉- 1932年〈昭和7年〉11月30日)は、日本の政治家。第24代衆議院議長で、京都市会議長や京都市長も務めた。 高知県香美郡佐岡村佐野(現:香美市)に生まれる。1893年(明治26年)明治法律学校に入学。在学中に弁護士試験に合格し、明治法律学校を中退する。 1899年(明治32年)に高知県議会議員に当選する。 1901年(明治34年)、京都地方裁判所検事に就任する。翌年退職し弁護士業を開業した。 1911年(明治44年)、京都市会議員に当選し、のちに市会議長をつとめる。1914年(大正3年)には尾崎行雄と政友会を去り中正会に属し、京都市に中正俱楽部を組織する。
松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年… 松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年8月16日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士6期。最終階級は陸軍歩兵大佐。位階および勲等は従四位・勲三等。 福井藩の槍術師範であった松尾新太郎の長男として福井県福井市(現)に生まれた。福井市旭小学校(現)を経て、福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)2月に陸軍士官学校(第6期)を卒業。同年5月に陸軍歩兵少尉に任官し金沢の歩兵第7連隊附となった。 1897年(明治30年)9月に台湾守備歩兵第3連隊付、さらに歩兵第35連隊付を経て、1900年(明治33年)3月から7月まで陸軍戸山学校で学んだ。
遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5… 遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5年8月15日)- 1971年(昭和46年)5月13日)は、日本の海軍文官、法制官僚、法学者。行政裁判所長官、枢密顧問官、明治大学教授、法学博士。号・虚舟。 宮城県栗原郡、後の白幡村(現栗原市)で、遠藤佐源治の三男として生まれる。第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し同大学院に進む。 1900年8月、海軍省に入省し主理試補・東京軍法会議附に就任。同年11月、文官高等試験に合格。以後、海軍省参事官、兼同司法局、兼海軍大学校教官、大本営附、佐世保捕獲審検所評定官、兼海軍経理学校教官などを歴任。この間、明治大学講師を務め、1908年1月15日に法学博士号を取得した。
宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明… 宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明治5年8月12日(1872年9月14日) - 昭和19年(1944年)12月11日)は、日本の寄生虫学者。 山形県米沢出身。父は宮島家久。1893年、宮島酉蔵の養子となった。第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て、1898年東京帝国大学理科大学動物学科卒(理学士)。大学院に入学。日本産無脊椎動物、特に腔腸動物を専攻した。1900年、尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都帝国大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。
青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9… 青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月17日)は、日本のアマチュア野球選手(投手)で、学生野球の指導者。 日本の野球史の草分け期に大きな功績を残し、また後進者の育成に大きく寄与したことが讃えられ、1959年(昭和34年)の野球殿堂創設時に初めて特別表彰者として殿堂入りした。 栃木県(当時は宇都宮県)河内郡宇都宮市出身。父は元宇都宮藩藩士の青井雅造。栃木県中学校(その後の宇都宮中学校、現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1892年(明治25年)に旧制一高へ進学。一高ベースボール部で主戦投手として活躍した。「千本素振り」は鉞男の練習方法の真骨頂であった。
岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11… 岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11日 - 没年不明)は、日本の地方官吏。 明治から大正にかけて、山口県の地方官吏として活躍し、熊毛郡や阿武郡、都濃郡の郡長を務めた。阿武郡長在任時には長門峡の発見・開発に尽力したことで知られる。 1872年〈明治5年〉9月11日、山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)で、森重勇雄の四男として生まれる。のちに岡村家に養子に入る。 1898年(明治31年)に山口県属となる。庶務課、山口県教育会などの業務を担当したのち、1913年(大正2年)5月に熊毛郡の郡長に着任。1915年(大正4年)7月に阿武郡の郡長に転任する。 阿武郡長時代の1918年(大正7年)9月には、当時郡制の廃止が議論されていたことから、阿武郡の歴史をまとめた「阿武郡志」の編纂を計画。
木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8… 木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8月8日) - 1894年(明治27年)7月29日)は、日清戦争で戦死した大日本帝国陸軍のラッパ手。 戦死しても口からラッパを離さなかったとされた。そのエピソードは1902年(明治35年)から1945年(昭和20年)まで小学校の修身の教科書に掲載され、戦前戦中の日本人においては広く知られた戦争美談であった。 小平は現在の岡山県高梁市成羽の農業・木口久太の長男として生まれ小学校に進学するが、1884年(明治17年)12月に中退。その後小泉鉱山で鉱山夫として働く。1892年(明治25年)12月から広島歩兵第21連隊に入営し歩兵二等卒となり、1894年(明治27年)6月に日清戦争に出征する。
江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日(1872年9… 江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日(1872年9月5日) - 大正8年(1919年)6月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 熊本県合志郡、のちの菊池郡陣内村(現在の大津町)に江藤禎治の長男として生まれる。14歳で家督を相続する。神田共立学校で英学を学んだ後、1899年(明治32年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 1908年(明治41年)から翌年にかけて欧米諸国を視察。 1912年、第11回衆議院議員総選挙で再選。第12回・第13回と連続当選を果たした。その間、第1次山本内閣では逓信省勅任参事官に任命された。
鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8… 鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は、日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。 第一東京弁護士会会長、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、明治大学理事長、国際基督教大学評議員会議長などを歴任した。 青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 1872年、千葉県長柄郡上太田村(長生郡新治村、本納町を経て現在の茂原市上太田)にて、富農、鵜沢巳之松の長男・惣一として誕生する。1886年に地元の太田小学校高等科を卒業。間もなく、校長鶴岡清治郎との縁故もあって、最年少の教員として同校に就職する。
岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9… 岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9月3日) - 1943年(昭和18年)10月29日)は、日本の劇評家、歌舞伎作家(脚本家)、演出家、著述家。本名嘉太郎(よしたろう)。号は鬼吟(きぎん)。 東京生まれで、父岡嘉知は旧佐賀藩士。東京府尋常中学を経て、慶應義塾大学卒業。1893年に時事新報に入社、1895年報知新聞に移り、鬼太郎の名で厳しい劇評(歌舞伎)を書く。岡本綺堂と親しく、その影響で花柳小説や戯曲も書いた。ほか二六新報などの新聞記者もつとめた。 1908年記者をやめ、永井荷風とともに二代目市川左團次の演劇革新運動に加わる。かたわらで、戯曲の創作、辛口の批評で人気を集め『鬼言冗語』などの歌舞伎関係の批評随筆を多く残した。
黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治… 黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治5年7月29日)- 1930年(昭和5年)10月27日)は、明治から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 陸軍省出仕・黒川通軌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)3月28日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)東京帝国大学農科大学林学科実科を卒業した。1902年(明治35年)営林技手に就任。その後、帝室林野管理局技師、同東京支局東京出張所長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで2期在任した。
山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年… 山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日。戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は、日本の宗教家、説教者。日本人初の救世軍士官(牧師)で、日本人初の日本軍国司令官(日本軍国初代司令官ではない)。最終階級は中将。岡山県哲多郡則安村(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 哲多郡則安村(新見市哲多町)で農業を営む山室佐八、登毛(とも)の三男として生まれた。実家が貧しく、明治14(1881年)年には賀陽郡上足守村の親戚筋の杉本家の養子に出された。漢学者の松浦黙の塾で儒学を学んだ。 14歳で上京して築地活版製造所の職工となり、東京専門学校や英吉利法律学校の講義録を入手して独学する。
川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治… 川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治5年)9月 - 1945年(昭和20年)4月)は、日本の実業家。元明治生命保険会長。 滋賀県出身。父は滋賀県議の川原林徳明。妻は御師蔵田国治元豊川炭鉱馬車鉄道社長の五女。1896年高等商業学校(現一橋大学)卒業、日本鉄道入社。1899年明治生命保険入社。明治生命保険仙台支店長心得、明治生命保険名古屋支店長、明治生命保険京都支店長、明治生命保険大阪支店長を歴任し、1925年、明治生命保険取締役に昇格。1927年全国支店出張所を東西に分けたことに伴い、西部監督となる。1935年常務取締役制新設により、明治生命保険常務取締役に昇格。1936年からは明治生命保険専務取締役を務めた。
安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872… 安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日(明治5年7月28日) - 1958年(昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家。位階勲等は正五位勲三等旭日中綬章。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大尉。衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。 安田は「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる。 陸軍騎兵大尉として中央馬廠戸山厩舎長であった1904年、競馬会設立の議に加わる。 1908年に馬券の発売が禁止されると、馬券発売を合法化すべく旧競馬法の制定に奔走した。 1936年の競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。
大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月28日(明… 大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1937年(昭和12年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)出身。大谷猪太郎の二男として生まれ、大谷彦左衛門の養子となる。高知県尋常中学海南学校を経て、1896年(明治29年)12月、海軍兵学校(23期)を卒業し、1898年(明治31年)1月、少尉任官。日露戦争には、第16艇隊艇長、第21艇隊艇長、第19艇隊艇長として参戦した。 以後、「雷」駆逐艦長、「如月」駆逐艦長、佐世保鎮守府副官、「千早」水雷長を歴任。1906年(明治39年)9月、海軍少佐に昇進。同年11月、第5艇隊司令兼7艇隊司令に発令され、「出雲」水雷長、第2艇隊司令、海軍教育本部出仕、「鞍馬」水雷長などを務めた。
吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8… 吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月4日)は日本の倫理学者。
畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年… 畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1930年5月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
服部 教一(はっとり きょういち、1872年8月23日(明治… 服部 教一(はっとり きょういち、1872年8月23日(明治5年7月20日) - 1956年(昭和31年)6月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、参議院議員。 奈良県高市郡阪合村(現在の明日香村)に服部吉平の二男として生まれる。1899年(明治32年)、高等師範学校を卒業。1901年(明治34年)に和仏法律学校(現・法政大学)卒業、同年10月に陸軍教授(東京陸軍地方幼年学校附)に任じられたが、翌月に高等文官試験に合格し、翌年8月には文部省に転属。1904年(明治37年)、留学を命じられ、欧米諸国で教育制度、人口問題、移民問題、社会制度を研究した。1909年(明治42年)に帰国後は、文部省視学官、書記官を務めた。
原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年… 原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年8月21日) - 1913年(大正2年)3月2日)は明治時代の歴史地理学者。帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。 明治5年(1872年)7月18日愛媛県越智郡波止浜町(現今治市)の塩問屋来島屋原武一郎の七男五女の長男として生まれた。 愛媛県第一中学校、第三高等中学校予科を経て、1892年(明治25年)9月本科二部(工科・理科・農科)に進んだが、1893年(明治26年)本科一部(法科・文科)に転部し、1893年(明治27年)6月本科廃止により第一高等学校本科一部に移り、1895年(明治28年)7月卒業した。
松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872… 松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872年8月15日) - 昭和10年(1935年)3月9日)は、日本の検事、台湾総督府官僚。 石川県出身。旧名は豊松。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。函館区裁判所判事、函館地方裁判所判事、福岡地方裁判所判事を経て、台湾総督府判官となった。さらに台南地方法院検察官長、台北地方法院検察官長を歴任し、台南州知事に就任した。 1924年(大正13年)に退官した後は、公証人となった。
川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5… 川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5年7月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉11月16日[要出典])は、明治時代後期から昭和時代初期の朝鮮総督府官僚。大蔵官僚。実業家。平安北道長官。東洋拓殖理事。正四位。勲三等瑞宝章。 川上與吉の三男、川上楽次の弟として、愛媛県宇摩郡、のちの二名村大字余木(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)に生まれる。小学校高等科四級を卒業し、宇摩郡役所雇となり、1890年(明治23年)上京する。1897年(明治30年)東京専門学校邦語政治科を卒業し、大蔵省に奉職。高等文官試験に合格し税務官となり税務監督局長に累進した。のち朝鮮総督府に出仕し土地整理局長を経て、平安北道長官に就任した。
藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 193… 藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 1935年2月28日)は、日本の言語学者。上田萬年を継いで東京帝国大学言語学教授をつとめた。
木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872… 木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872年8月8日) - 昭和23年(1948年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)出身。上田甚助の長男として生まれ、木村家の婿養子となった。東京法学院(現在の中央大学)で学び、雑誌「濃州」を発刊した。のち日刊に改め、美濃新聞社、美濃大正新聞社の経営にあたった。大垣町会議員、安八郡会議員、大垣市会議員、大垣市会副議長、岐阜県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。
後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4… 後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4日(明治5年7月1日) - 1940年(昭和15年)2月26日)は、日本の検察官、台湾総督府・内務官僚。官選県知事、公証人。 佐賀県出身。後藤保明の長男として生まれた。1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり、千葉地方裁判所検事局に配属された。 以後、千葉区裁判所検事局、長野区裁判所検事局で勤務。1909年9月、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事に就任。1910年2月、台湾総督府に転じ警視となる。以後、民政部蕃務本署勤務、理蕃課長、保安課長、司獄官練習所教官などを歴任。1917年5月、島根県警察部長に転じた。
櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5… 櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1929年(昭和4年)2月27日)は、日本の翻訳家、児童文学者、教育者、実業家である。本名は彦一郎(ひこいちろう)。日本で新渡戸稲造の『武士道』を出版したことで知られる。津田梅子とともに女子英学塾(今の津田塾大学)を設立して幹事となる。北樺太石油(英: Northern Karafuto Oil Consession)の取締役を務める。日本陸軍軍人の櫻井忠温は弟である。
瀬黒 幸市(せぐろ こういち、1872年7月31日〈明治5年… 瀬黒 幸市(せぐろ こういち、1872年7月31日〈明治5年6月26日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の実業家である。長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)出身で、家業は養蚕業。松本電灯の監査役に就任したのを機に電気事業に関係し、中央電気専務取締役や同社から派生した日本ステンレスの初代専務取締役を務めた。 瀬黒幸市は、明治5年6月26日(新暦:1872年7月31日)、長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)在住の瀬黒庄平の長男として生まれた。1886年(明治19年)に県立松本中学校へ入るが1890年(明治23年)9月中途退学して上京、東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治法律学を修めた。
向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6… 向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1946年(昭和21年)8月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 大分県下毛郡津民村(現在の中津市)出身で、幼時に長崎に移住した。愛媛県周桑郡長、警視庁警視・新宿警察署長、長崎県対馬島司、京都市助役などを歴任した。 1920年(大正9年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その間、田中義一内閣で逓信参与官を務めた。
德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日〈明治5… 德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日〈明治5年6月23日〉 - 1925年〈大正14年〉5月19日)は、日本の政治家、実業家。紀州徳川家第15代当主。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は侯爵。諱は「らいりん」と音読みすることもある。新字体での表記は徳川 頼倫。 貴族院議員、貴族院仮議長(2回)、宗秩寮総裁、南葵文庫総裁、南葵育英会総裁、日本図書館協会総裁、史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、十五銀行取締役、日本赤十字社常議員、華族会館評議員、帝国海事協会評議員などを歴任した。 明治5年6月23日(1872年7月28日)、田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男として東京府下本所横網町(現在の東京都墨田区横網一丁目)の田安邸で生まれる。
和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6… 和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6月22日) - 1926年(大正15年)11月1日)は、明治・大正時代の自由民権活動家、アジア主義者。板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。 和田三郎の生家は、祖父・和田波治、父・和田千秋が自宅を提供して夜学会を開いた場所で、のちに高知市土佐山地区(旧 土佐山村)の西川集落における自由民権運動の拠点となった『山嶽社』が創始された場所として、1991年(平成3年)、文化財として修復管理されている。
石川 成章(いしかわ せいしょう、1872年7月26日(明治… 石川 成章(いしかわ せいしょう、1872年7月26日(明治5年6月21日)- 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の地質学者。晩年は真宗大谷派参事を務めた。 愛知県碧海郡下中嶋村(現:岡崎市中島町字本町)の浄光寺で石川嶺観の四男として生まれる。浄土真宗三河教校に学ぶ。1896年(明治29年)7月に東京帝国大学理科大学地質学科に入学。1899年(明治32年)7月、同大学を卒業。 同年9月、東京真宗中学校講師に就任。それからのち東京高等師範学校、陸軍中央幼年学校、早稲田大学などで教鞭を執った。 1907年(明治40年)6月、鉱務技師として福岡県鉱山監督局に赴く。1917年(大正6年)12月、京都帝国大学工学部ならびに理学部の講師を嘱託される。