喜多 了祐(きた りょうゆう、 1921年11月28日 - … 喜多 了祐(きた りょうゆう、 1921年11月28日 - 2007年6月18日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士。小樽商科大学教授・一橋大学法学部教授を経て、一橋大学名誉教授。 北海道小樽市生まれ。中華人民共和国国務院の招聘により西安の西北法政学院において日本商法を講義。フルブライト留学生としてハーバード・ロー・スクール留学、ブリティッシュ・カウンシル留学生としてロンドン・スクール・オブ・エコノミクス法科大学院留学など海外研究の機会が多く、南山大学、富山大学、東洋大学大学院、亜細亜大学などでも講義。法学博士の学位を取得、学位論文は「私法における外観優越の理論―商法への展開のための基礎研究―」(1975年)。
宮尾 益英(みやお ますひで、1921年〈大正10年〉11月… 宮尾 益英(みやお ますひで、1921年〈大正10年〉11月28日 - 1994年〈平成6年〉5月29日)は、日本の小児科学者、小児科医。医学博士(東京大学・1953年)。徳島大学名誉教授、杏林大学名誉教授。 新潟県北蒲原郡京ヶ瀬村大字猫山(現 阿賀野市猫山)の10代続く医師の家・宮尾家の四男として新潟県新潟市西大畑町(現 新潟市中央区西大畑町)で育つ。 1939年(昭和14年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業、1947年(昭和22年)9月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 実地修練後、1948年(昭和23年)10月に東京大学医学部小児科学教室(担任:詫摩武人教授)に入局、1949年(昭和24年)に助手に就任、1953年(昭和28年)5月に徳島大学医学部小児科学教室(担任:北村義男教授)助教授に就任、1964年(昭和39年)8月にドイツのマールブルク大学に留学、ホルスト・ビッケル(ドイツ語版、英語版)に師事、1968年(昭和43年)12月から1969年(昭和44年)12月までドイツのハイデルベルク大学に留学、ホルスト・ビッケルに師事、1970年(昭和45年)5月に徳島大学医学部小児科学教室第2代教授に就任、1974年(昭和49年)4月に徳島大学医学部附属看護学校第12代学校長に就任、1976年(昭和51年)2月に徳島大学医学部附属病院第13代病院長に就任、1977年(昭和52年)10月に徳島大学医学部附属助産婦学校第4代学校長に就任、1982年(昭和57年)4月に徳島大学医学部第12代学部長に就任、1987年(昭和62年)3月に徳島大学を定年退官、同年4月に徳島大学名誉教授の称号を受称、杏林大学客員教授に就任、東京海上メディカルサービス顧問に就任、1990年(平成2年)3月に千葉県柏市松ケ崎に宮尾クリニックを開業。
岩田 礼(いわた れい、1921年11月27日 - 2002… 岩田 礼(いわた れい、1921年11月27日 - 2002年)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。 下関市生まれ。本籍・宮崎県。本名・戸島和郎。1943年毎日新聞社西部本社入社。直後に召集を受ける。46年復員し復職。久留米支局長、徳山支局長、学芸課副参事、76年定年退職。毎日文化センターの自分史・文章講座講師。91年第1回北九州市自分史文学大賞受賞。
坪井 清足(つぼい きよたり、1921年〈大正10年〉11月… 坪井 清足(つぼい きよたり、1921年〈大正10年〉11月26日 - 2016年〈平成28年〉5月7日)は、日本の考古学者。勲三等旭日中綬章、文化功労者。 奈良国立文化財研究所所長、元興寺文化財研究所所長。奈良国立文化財研究所では、事前の発掘調査の義務付け、発掘調査費用の原因者負担の原則の確立など、埋蔵文化財行政の枠組み構築に努めた。 1921年(大正10年)11月26日、大阪府大阪市に生まれた。父親は在野の考古学者である坪井良平であり、日立造船に勤務しながら梵鐘の研究などを行っていた。父親の勤務先の関係で東京市牛込区で育った。1934年(昭和9年)4月、父の母校でもある大阪大倉商業学校に入学した。
岸 信和(きし のぶかず、1921年〈大正10年〉11月26… 岸 信和(きし のぶかず、1921年〈大正10年〉11月26日 - 2017年〈平成29年〉10月7日)は、日本の実業家。元内閣総理大臣秘書官。元西部石油会長。 1921年、当時農商務省の官僚だった岸信介(後の第56・57代内閣総理大臣)の長男として生まれる。3歳の時に小児麻痺を患い、生涯足を引きずって歩く。 京都帝国大学在学中に、戦犯として収監されていた岸信介が接見に来た福家俊一に「信和が、難波大助になってもらっちゃ困る」と伝えたため、卒業後の1948年に信介の同級生が専務だった宇部興産 (現・UBE)に入社する。 信介が総理大臣を務めていた一時期に、総理秘書官を務めていた義弟の安倍晋太郎が衆院選出馬で辞めたため、代役で内閣総理大臣秘書官を務め、信介の総理辞任後は西部石油に入社し、後に会長に就任した。
佐々木 喜久治(ささき きくじ、1921年11月25日 - … 佐々木 喜久治(ささき きくじ、1921年11月25日 - 2008年5月6日)は、日本の内務官僚、自治官僚、政治家。秋田県知事を務めた。 1921年、秋田県小坂町に生まれる。秋田県第三中学校(現:秋田県立横手高等学校)、東北帝国大学法文学部法学科(現:東北大学法学部)を卒業。1946年3月 内閣戦争調査会事務局、同年 東京都経済局、1948年 秋田県総務部地方課長、1950年4月 地方財政委員会事務局税務部、1955年 大阪府総務部庶務課長、1959年 自治省財政局公営企業課長、1965年10月 自治省税務局財務課長、1966年7月 徳島県副知事、1971年9月 自治省税務局長等を歴任。 1973年11月に消防庁長官に就任。
小島 瑞(こじま みず、1921年〈大正10年〉11月25日… 小島 瑞(こじま みず、1921年〈大正10年〉11月25日 - 1995年〈平成7年〉9月22日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。福島県立医科大学名誉教授、日本血液学会名誉会員。 新潟県新潟市出生、新潟県佐渡郡金沢村大字泉(現 佐渡市泉)出身。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校文科乙類を卒業、1944年(昭和19年)9月に新潟医科大学を半年繰り上げ卒業。 1945年(昭和20年)1月に横浜市戸塚区原宿町の海軍軍医学校戸塚分校を卒業、海軍軍医中尉に任官、山口県光市光井の第一特別基地隊附、3月に山口県平生町佐賀の平生突撃隊附、8月に終戦、1946年(昭和21年)1月に復員。
武宮 敏明(たけみや としあき、1921年11月25日 - … 武宮 敏明(たけみや としあき、1921年11月25日 - 2010年1月15日)は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(捕手)・監督・コーチ。
津下 健哉(つげ けんや、1921年11月25日 - 201… 津下 健哉(つげ けんや、1921年11月25日 - 2016年5月1日)は、日本の医学者(整形外科)。学位は医学博士。広島大学医学部名誉教授。 岡山大学医学部助教授、広島大学医学部教授、広島手の外科・微小外科研究所所長などを歴任した。 岡山県出身。岡山県にて多くの医師を輩出した津下一族の生まれである。 津下も医学の道を志し、岡山医科大学を卒業した。その後、岡山医科大学が岡山大学医学部に改組されると、同学部にて助教授に就任し、整形外科を専門に担当する。のちに広島大学に転じ、医学部の教授を務めた。 退官後は、あかね会が設立した広島手の外科・微小外科研究所にて所長に就任した。 1949年、岡山大学医学博士。
瀬野 栄次郎(榮次郎、せの えいじろう、1921年11月25… 瀬野 栄次郎(榮次郎、せの えいじろう、1921年11月25日 - 2011年3月1日)は、公明党衆議院議員(4期)。公明党中央執行委員。 鹿児島県日置郡日吉町(現・日置市)生まれ。1939年、熊本県立球磨農業学校(現・熊本県立南稜高等学校)本科卒業。営林署技師、大日本帝国陸軍航空兵中尉を務めた。1959年の熊本市議会議員選挙に無所属で立候補して当選した。当選後は会派「創価学会」に所属した。1963年、熊本県議会議員選挙に熊本市から公明政治連盟所属で立候補し、同連盟として初めての議席を獲得した。1967年の県議選は公明党から立候補して再選を果たした。1969年12月5日付で県議を辞職した。同年の第32回衆議院議員総選挙で熊本1区に公明党から出馬し、初当選。
近藤 鎮雄(こんどう しずお、1921年11月24日 - 2… 近藤 鎮雄(こんどう しずお、1921年11月24日 - 2015年7月24日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1943年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に大阪商船に入社。1972年5月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1976年6月に常務、1979年6月に専務を経て、1980年6月に社長に就任。1984年6月に会長に就任し、1989年6月に相談役に就任。 1981年7月に運輸大臣表彰を受け、1982年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2015年7月24日急性肺炎のために死去。93歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大成 正雄(おおなり まさお、1921年11月23日 - 1… 大成 正雄(おおなり まさお、1921年11月23日 - 1993年4月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期、新自由クラブ)。 埼玉県北足立郡三橋村(のち大宮市、現・さいたま市)出身。浦和商業学校(現埼玉県立浦和商業高等学校)を経て、中央大学専門部経済科中退。国鉄大宮工場(現大宮総合車両センター)に入るが、間もなく召集され、陸軍中尉で終戦を迎える。終戦後は大宮工場に復帰し、同工場の労働組合の書記長になり、日本社会党に入る。1947年、大宮市議会議員に当選し、2期務める。その後、労働組合を脱退し、社会党を離党し、衆議院議員福永健司の秘書になる。1959年、埼玉県議会議員に当選し、3期務め、同議長となる。
厚見 峻(あつみ たかし、1921年(大正10年)11月23… 厚見 峻(あつみ たかし、1921年(大正10年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。第2期海軍甲種飛行予科練習生。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍飛行特務少尉。 埼玉県北葛飾郡幸松村(現・春日部市)に、7男3女の末っ子として生まれた。 粕壁小学校を経て埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)に学び、1938年(昭和13年)4月1日、第2期海軍甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊した。海軍航空隊への入隊に先立ち、厚見は母に「母さん、これで僕の第一希望は達せられた。この上は戦闘機に乗りたいと思います。
はた たかし(1921年(大正10年)11月22日 - 20… はた たかし(1921年(大正10年)11月22日 - 2013年(平成25年)8月11日)は、日本の児童文学作家。元桃山学院短期大学教授。本名は秦敬。 愛媛県新居郡大町村(現西条市)に生まれる。名教中学校(現・東海大学付属浦安高等学校)卒業。早稲田大学専門部を中退し、1945年(昭和20年)に法政大学高等師範部国語漢文科を卒業する。1946年(昭和21年)に西条高等実践女学校教諭となり、1947年(昭和22年)より西条市内で小・中学校で教師を務める。教師定年退職ののち、1981年(昭和56年)桃山学院短期大学教授(1992年1月まで)に就任する。一方、児童文学作家として作品を発表し、同人誌「ぷりずむ」を主宰するなど、愛媛県の児童文学活動で指導的役割を担った。
佐々木 倫生(ささき りんしょう、1921年11月22日 -… 佐々木 倫生(ささき りんしょう、1921年11月22日 - 1996年5月28日)は、日本の哲学者。京都女子大学名誉教授。元京都女子大学学長、鳥取女子短期大学学長。 福岡県築上郡吉富町出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
市原 麟一郎(いちはら りんいちろう、1921年11月22日… 市原 麟一郎(いちはら りんいちろう、1921年11月22日 - 2023年9月24日)は、日本の民話研究家、児童文学作家。 土佐民話の会主宰、文学館・語りと紙芝居の会代表。 高知県出身。日本大学高等師範部地歴科を卒業。 高知県の民話の採話と記録に努め、月刊『土佐の民話』を発行する傍ら、民話を子どもたちに語り継ぐため、手づくり紙芝居をもって、県内各地の保育・幼稚園、小学校、図書館などへの巡回公演を行った。また小学生、一般対象に紙芝居講座(演じ方、作り方)の講師を務めた。1987年、民話の発掘と伝承の仕事により高知県文化賞を受賞。 2023年9月24日、老衰のため死去、101歳。
三輪 裕章(みわ ひろあき、1921年11月21日 - 19… 三輪 裕章(みわ ひろあき、1921年11月21日 - 1990年4月12日)は、群馬県出身のプロ野球選手。 旧制桐生中学(現:群馬県立桐生高等学校)では、1939年から1941年の選抜中等学校野球大会に出場した。1942年に阪神軍に入団。1年目から58試合に出場した。 しかし、翌1943年に徴兵され退団。戦後は全桐生に所属していたが、プロ野球に復帰することはなかった。
渡辺 洋三(わたなべ ようぞう、1921年11月21日 - … 渡辺 洋三(わたなべ ようぞう、1921年11月21日 - 2006年11月8日)は、日本の法学者。東京大学名誉教授、元帝京大学教授。専門は法社会学、民法学、憲法学。
三野 博(みの ひろし、1921年11月21日 - 1994… 三野 博(みの ひろし、1921年11月21日 - 1994年4月8日 )は、日本の銀行家。百十四銀行頭取を務めた。 香川県出身。1944年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1946年に百十四銀行に入行した。1966年に取締役に就任し、1969年11月に常務、1975年12月に専務を経て、1979年12月には頭取に就任。1989年6月には会長に就任。 1987年11月に藍綬褒章を受章。 1994年4月8日、腹部大動脈瘤破裂のために死去。72歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白石 孝(しらいし たかし、1921年11月21日 - 20… 白石 孝(しらいし たかし、1921年11月21日 - 2013年10月17日)は、日本の経済学者。慶應義塾大学名誉教授および杏林大学名誉教授。専門は国際経済学、国際貿易論。 1921年に東京市日本橋に生まれる。1934年に明治学院中等部に入学し、翌年に慶應義塾普通部に編入する。1941年に慶應義塾大学経済学部に進学し、岩田仭のゼミで指導を受ける。1943年に同大学を卒業し、同年に南貿汽船株式会社に入社、その後兵役に服す。1945年に慶應義塾大学旧制大学院に入学し、1947年に慶應義塾大学経済学部副手、1949年に同経済学部助教授、1958年に同商学部教授となる。1960年に経済学博士の学位を取得、1964年に慶應義塾志木高等学校校長を兼任する。
長野 和吉(ながの わきち、1921年11月21日 - 20… 長野 和吉(ながの わきち、1921年11月21日 - 2024年12月8日)は、日本の経営者。三菱ガス化学社長を務めた。大分県出身。 1944年に東京帝国大学法学部を卒業し、1946年11月に三菱銀行に入行。1956年11月に日本瓦斯化学工業(のちの三菱ガス化学)に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年11月に常務、1971年11月に専務、1979年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任。1988年6月には会長に就任し、1995年6月には相談役に退いた。 1984年4月に藍綬褒章を受章し、1994年11月には勲二等瑞宝章を受章を受章。 2024年12月8日、死去。103歳没。
白川 宏(しらかわ ひろし、1921年11月20日 - 19… 白川 宏(しらかわ ひろし、1921年11月20日 - 1991年8月16日)は、日本の経営者。東陶機器社長を務めた。 福岡県行橋市出身。1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東洋陶器に入社。 1965年1月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1985年2月から1987年2月までに社長を務めた。 1985年に藍綬褒章を受章。
宇都宮 敏男(うつのみや としお、1921年(大正10年)1… 宇都宮 敏男(うつのみや としお、1921年(大正10年)11月20日 - 2009年(平成21年)11月26日)は、昭和時代から平成時代の電気工学者、通信技術者。 香川県に生まれる。戦時体制中の1943年(昭和18年)9月に半年繰り上げで東京帝国大学第一工学部電気工学科を卒業。卒業後は、内定していた海軍技術士官への道を捨て、新しく発足した大学院特別研究生となり5年の研究生活を送る。特別研究生満了後、東京帝国大学助教授、教授を歴任し、1982年(昭和57年)定年退官後は東京理科大学教授、嘱託教授、非常勤講師を歴任した。その間、1959-60年(昭和34-35年)には文部省在外研究員としてアメリカのコロンビア大学の客員助教授を務めた。
善川 三朗(よしかわ さぶろう、本名:中川 忠義、1921年… 善川 三朗(よしかわ さぶろう、本名:中川 忠義、1921年〈大正10年〉11月20日 - 2003年〈平成15年〉8月12日)は、日本の宗教家。実業家。農業・畜産指導者。幸福の科学名誉顧問。徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市鴨島町樋山地)出身。青年師範学校卒業。長男は富山誠。次男は幸福の科学総裁である大川隆法。妻は中川君子。姉は作家の中川静子。 宮大工である中川源左衛門輝房とその妻であるテルノの次男として1921年(大正10年)11月徳島県麻植郡東山村樋山地(現・吉野川市鴨島町樋山地)に生まれる。父の源左衛門は宮大工の棟梁をしており、県内各地の寺社にその仕事の履歴を残している。 父輝房が亡くなった8歳の1930年(昭和5年)頃、中川一家は川島町に移住し、この時に「汝は、今生に大いなる責任を持って生まれたものである。
久野 洋(くの ひろし、1921年(大正10年)11月18日… 久野 洋(くの ひろし、1921年(大正10年)11月18日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は日本の化学者。慶應義塾大学工学部(現理工学部)教授。慶應義塾長。慶應義塾長に工学部出身者が就任するのは久野が初めてであった。日本私立大学連盟会長。 父は生理学者で名古屋大学名誉教授の久野寧。妻の祖父は司法官僚の松室致。 1944年9月慶應義塾大学工学部卒業。同年10月から1945年9月まで文部省大学院特別研究生となる。1946年10月工学部助教授、専攻は応用化学。 1960年3月、慶應義塾大学工学博士。論文の題は「粉体の物理化学的性質とその応用の研究」。 同年8月アメリカのミシガン大学に招聘留学し、1961年10月帰国、1962年4月1日大学教授となる。
楠 宏(くすのき こう、1921年11月18日 - 2021… 楠 宏(くすのき こう、1921年11月18日 - 2021年2月10日 )は、日本の地球物理学者・地理学者・地球科学者である。専門は、雪氷学、両極地方の地誌。北海道釧路市出身。楠木正成の子孫にあたるという。父親は旧制一高東寮寮歌「嗚呼玉杯」「緑もぞ濃き」の作曲者楠正一(一高を中退後、石狩支庁農林技手。1945年没)。
佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年(大正10年)… 佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年(大正10年)11月17日 - 2005年)は、第二次世界大戦時における大日本帝国海軍のエース・パイロット。甲飛4期、飛練9期。最終階級は海軍飛曹長、ポツダム昇進により少尉。 青森県出身。1935年(昭和10年)4月、静岡県立沼津中学校に入学。後輩にのちに回天特攻隊隊員となる和田稔がいる。在学中の1938年(昭和13年)、クラスメートらとともに陸上競技部内に「器械体操倶楽部」を立ち上げた。 卒業後の1939年(昭和14年)4月、甲種飛行予科練習生4期生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。予科練での一年半の基礎教育を終えて1940年(昭和15年)9月、第9期飛行練習生となり、戦闘機搭乗員としての教程を経て、開戦直前の1941年(昭和16年)9月、空母「翔鶴」乗組。
中村 博(なかむら ひろし、1921年〈大正10年〉11月1… 中村 博(なかむら ひろし、1921年〈大正10年〉11月17日 - 1999年〈平成11年〉1月24日)は、日本の官僚。位階は正四位。 愛知県出身。第八高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年7月、高等試験行政科試験に合格して厚生省に入省し厚生属任官。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。第22戦隊司令部付第2艦視艇艦司令承命服務となる。経理学校付第12期見習尉官隊第二分隊士(教官)を経て、1945年3月、主計大尉に進み、同年4月、第103戦隊司令部付春風勤務で終戦を迎えた。
妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月… 妹尾 親尚(せのお ちかひさ、1921年〈大正10年〉11月16日 - 2012年〈平成24年〉1月7日)は、日本の実業家。富士銀行専務取締役、オカモト社長。 福岡県に生まれる。1939年福岡県中学修猷館、1942年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1944年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業し陸軍主計少尉となる。在学中の1943年12月には学徒出陣をしている。 1946年5月、安田銀行(1948年富士銀行と改称し現みずほ銀行)に入行。1970年5月取締役となり名古屋支店長、1973年4月取締役大阪支店長、同年5月常務取締役、1975年5月専務取締役となる。1978年6月、富士銀行を退任し、岡本理研ゴム(現・オカモト)取締役副社長、1979年6月同社取締役社長に就任する。
市原 季一(いちはら きいち、1921年11月16日 - 1… 市原 季一(いちはら きいち、1921年11月16日 - 1979年8月3日)は、日本の経営学者。神戸大学教授・日本経営学会理事長を歴任。主にドイツ経営学の歴史研究や、同時代の西ドイツにおける経営学研究の日本への紹介にあたった。 京都市に生まれ、京都市立第二商業学校、彦根高等商業学校を卒業し、神戸商業大学(現神戸大学)に進んだが、臨時徴集で舞鶴海兵団に入り、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで除隊し、家業に従う。 1948年に神戸経済大学助手となり、1951年に神戸大学経営学部講師、翌1952年に助教授、1961年に教授と昇進した。
渡辺 絢吾(わたなべ じゅんご、1921年11月15日 - … 渡辺 絢吾(わたなべ じゅんご、1921年11月15日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。
古濱 庄一(ふるはま しょういち、1921年11月15日 -… 古濱 庄一(ふるはま しょういち、1921年11月15日 - 2002年1月10日)は、日本の工学者、教育者。武蔵工業大学(現東京都市大学)名誉教授、元学長。水素エネルギー協会元会長。工学博士。 レシプロエンジンのピストンリング研究の大家。ピストンリングの動的潤滑理論の確立や実働状態におけるピストンとピストンリングの温度、潤滑油消費量、シリンダー変形などの実験方法を開発する。1970年代頃より日本で初めて水素エンジンの研究に取り組み、水素自動車の基礎研究と試作を行った。実験を重視する研究姿勢で水素エンジン特有のバックファイア問題の解決に尽力した。また、研究の傍ら一般や青少年向けの本を執筆し普及に努めた。
武内 文平(たけうち ぶんぺい、1921年11月15日 - … 武内 文平(たけうち ぶんぺい、1921年11月15日 - )は、日本の俳優。本名同じ。別名義:五藤 雅博(ごとう まさひろ)。 岡山県備前町出身 。日本大学芸術科卒業。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道光陽郡で生まれる。大学卒業後、1947年、劇団文化座の創立に参加。その後は、劇団創造座を経て、劇団七曜会に入団、1957年に退団した後はグループ・てえぶらに所属し、活動の中心をラジオに移す。その後、富士放送プロ、つくしグループ創立参加。風の会、エヌ・エー・シー、楡プロダクション、サン・プロモーションに所属していた。北海道深川市在住。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
下山 順一(しもやま じゅんいち、1921年11月15日 -… 下山 順一(しもやま じゅんいち、1921年11月15日 - 2014年10月26日)は、日本のアナウンサー。 大正10年(1921年)11月15日、東京市下谷区下根岸に生まれる。早稲田大学卒業後、昭和24年(1949年)日本放送協会(NHK)にアナウンサーとして入局。名古屋中央放送局、静岡放送局、新潟放送局、大阪中央放送局でアナウンス業務に従事した。特にスポーツ実況中継に多く携わり、大相撲、高校野球、プロ野球、ラグビー、国民体育大会等の幅広い種目で、ラジオ実況さらに放送が開始されたテレビでの実況中継を担当した。昭和33年12月、民間放送テレビ局の1社として新たに開局した名古屋市東区に本社を置く東海テレビ放送(THK)にアナウンス室長として移籍。
山根 敏子(やまね としこ、1921年11月14日 - 19… 山根 敏子(やまね としこ、1921年11月14日 - 1956年8月29日)は、日本の外交官。 北海道帝国大学の助教授で畜産学者の山根甚信の2女として、札幌市北13条に生まれる。台北州立第一高等女学校(現台北市立第一女子高級中学)を経て、1941年津田英学塾(後の津田塾大学)を繰り上げ卒業。1945年台北帝国大学(国立台湾大学の前身)文政学部文学科英文学専攻を繰り上げ卒業。 1950年、外交官及び領事試験に唯一の女性として合格し外務省研修所研修員となる。ガリオア奨学金を得て、クイーンズ・カレッジでのオリエンテーションを経て、1951年バーモント大学政治学課程修了。 1951年外務省条約局国際協力課事務官、同年外務省国際協力局第1課事務官。
三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 19… 三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 1944年8月17日)は、群馬県群馬郡片岡村(現・高崎市)出身のプロ野球選手。左投左打。1942年・1943年は、同じ阪神軍に在籍していた三輪裕章と区別するため三輪八と書かれることもある。 高崎市片岡尋常小学校(現:高崎市立片岡小学校)、群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)卒業。甲子園出場経験は無いが、1936年の高崎中3年次には北関東大会決勝まで一人で投げ抜き、群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)に敗れた。 桐生中の野球部監督・稲川東一郎の推薦により、稲川の義弟で大阪タイガースの球団職員だった早川二郎を仲介して同球団に入団。
入野 義朗(いりの よしろう、1921年11月13日 - 1… 入野 義朗(いりの よしろう、1921年11月13日 - 1980年6月23日)は、日本の現代音楽の作曲家。 若い頃の名前は「義郎」であり、1958年以降、現在の名前に改名。十二音技法を始めとする20世紀音楽の創造と啓蒙に尽力すると共に、桐朋学園を中心に後進の育成に力を注いだ。作品は劇音楽、管弦楽、室内楽、声楽など多岐にわたる。1980年の没後、従五位勲四等旭日小綬章を授与された。また同年に「入野賞」、1981年に「アジア作曲家連盟入野義朗記念賞」が設けられ、ともに若い作曲家のための登竜門として今日まで存続し続けている。 入野は1921(大正10)年、貿易会社勤めの父の赴任地、旧ソビエト連邦のウラジオストックに生まれた。
大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - … 大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - 1987年1月29日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手。
北川 力夫(きたがわ りきお、1921年(大正10年)11月… 北川 力夫(きたがわ りきお、1921年(大正10年)11月11日 - 没年月日不詳)は、日本の官僚。元厚生事務次官。滋賀県出身。妻の兄・草場敏郎は三井銀行社長。 東京帝国大学法学部卒業後、内務省に入省。岐阜県属。厚生省医務局次長、年金局長、保険局長を経て、1975年(昭和50年)に社会保険庁長官、1976年(昭和51年)厚生事務次官に就任。 1977年(昭和52年)に退官後は、医療金融公庫総裁、全国土木建築国民健康保険組合理事長を歴任した。1993年(平成5年)には勲二等旭日重光章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松浦 高雄(まつうら たかお、1921年11月8日 - 20… 松浦 高雄(まつうら たかお、1921年11月8日 - 2005年4月12日)は、日本の経営者。小糸製作所社長、会長を務めた。 北海道出身。1945年に東北帝国大学工学部を卒業し、1946年にトヨタ自動車工業に入社。1972年5月に小糸製作所常務に就任し、1976年4月に専務、1979年6月に副社長を経て、1985年6月には社長に就任。1992年7月に会長、1995年6月に取締役相談役を経て、1997年6月に相談役に就任。 1988年に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2005年4月12日腸閉塞のために死去。83歳没。
角山 栄(角山 榮、つのやま さかえ、1921年11月7日 … 角山 栄(角山 榮、つのやま さかえ、1921年11月7日 - 2014年10月15日)は、日本の経済史家。和歌山大学学長や堺市博物館館長を務めた。専攻はイギリス近代経済史。 大阪府大阪市出身で、幼少期は堺市で育った。市岡中学校(旧制)、旧制大阪高等学校を経て、1945年(昭和20年)に京都帝国大学経済学部卒業。1950年(昭和25年)和歌山大学経済学部助教授。1961年(昭和36年)「イギリス毛織物工業史論」で経済学博士(京都大学)。和歌山大学経済学部教授、1967年(昭和42年)-1968年(昭和43年)経済学部長、1975年(昭和50年)4-7月学長、1986年(昭和61年)定年退官、名誉教授。
和田 穣太郎(わだ じょうたろう、1921年11月7日- 2… 和田 穣太郎(わだ じょうたろう、1921年11月7日- 2006年11月29日 )は、日本の経営者。三菱倉庫社長、会長を務めた。 東京都出身。1947年に東京大学法学部を卒業し、同年に三菱倉庫に入社した。1973年5月に取締役に就任し、1975年6月に常務、1979年6月に専務を経て、1981年6月に社長に就任。1987年6月には相談役に就任。 1994年6月に日本郵船監査役に就任。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2006年11月29日、腹部大動脈瘤破裂のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西銘 順治(にしめ じゅんじ、1921年〈大正10年〉11月… 西銘 順治(にしめ じゅんじ、1921年〈大正10年〉11月5日 - 2001年〈平成13年〉11月10日)は、日本の政治家。那覇市名誉市民、知念村名誉村民、与那国町名誉町民。 沖縄県知事(本土復帰後第3代)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、衆議院議員(4期)、沖縄県那覇市長(第18・19代)、沖縄自由民主党総裁、立法院議員(1期)等を歴任した。 沖縄県八重山郡与那国村(現・与那国町)生まれ。小学生時代の一時期、南洋庁のパラオに在住していた。旧制沖縄県立第二中学校、旧制水戸高等学校を経て1948年、東京帝国大学法学部卒業。戦時下に海軍中尉となる。 外務省に入省するが、半年で退官。沖縄へ戻り、沖縄ヘラルド(その後改名して沖縄朝日新聞)の創設に参加し社長などを歴任する。
梶原 清(かじわら きよし、1921年11月2日 - 201… 梶原 清(かじわら きよし、1921年11月2日 - 2012年2月9日)は、日本の政治家、運輸官僚。参議院議員(2期)。 民主党前衆議院議員の梶原康弘は息子。 兵庫県出身。京都帝国大学法学部卒業。1950年、運輸省に入省する。1978年に自動車局長などを歴任。1979年に退官し、1980年の第12回参議院議員通常選挙に自由民主党から立候補し初当選。1992年に引退し、日本自動車ターミナル代表取締役社長に就任。2000年秋の叙勲で、勲二等旭日重光章受章。 2012年2月9日、肺炎のため東京都の病院で死去、90歳。死没日をもって正四位に叙される。
本田 富雄(ほんだ とみお、1921年11月2日 - 201… 本田 富雄(ほんだ とみお、1921年11月2日 - 2012年7月18日)は、日本の政治家。安田町議、安田町議会副議長、安田町長(10期)、阿賀野市長(1期)を歴任した。 1921年11月2日、新潟県北蒲原郡安田町(現阿賀野市)に生まれる。1940年に旅順工科大学臨時附属技術員養成所鉱山科卒業した。卒業後、満州鉱業開発に入社した。1944年に応召され敗戦時は陸軍少尉だった。1955年、安田町議会議員に初当選した。1957年、安田町議会副議長に就任した。1961年、安田町助役に就任した。1967年5月、安田町長に就任した。1999年4月25日の町長選挙で新人を破って、9選を果たした。2003年4月27日の町長選挙で新人を破って、10選を果たした。
青木 來三郎(あおき らいざぶろう、1921年 <大正10年… 青木 來三郎(あおき らいざぶろう、1921年 <大正10年> 11月 - 2007年 <平成19年> 12月30日)は、茨城県の政治家。自由民主党所属の元茨城県議会議員。位階は正五位。旭日中綬章。 明治大学卒業。第76代茨城県議会議長。 古河市議会議員(3期)、同市助役(当時)を経て、1963年の茨城県議会議員選挙に出馬したが、落選。1967年の出直し県議選にて初当選。以後10期連続当選。古河市古河地区のJR宇都宮線高架化などに尽力した。県議会議長在職中にはつくば万博を成功させ、「万博議長」と呼ばれた。 2006年12月10日の県議選に出馬せず、政界を引退。同年秋の叙勲で旭日中綬章を受章。2007年12月30日、急性心不全により死去。
伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 -… 伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 - 2012年(平成24年)7月4日)は、大日本帝国海軍軍人。第二次世界大戦における零式艦上戦闘機のエース・パイロットである。 1947年(昭和22年)の結婚により改姓し、加藤 清(かとう きよし)となった。 1921年(大正10年)新潟県村上市で、6人兄弟の3男として生まれた。高等小学校を出て織物工場で働くが、海軍機関兵だった従兄の影響を受けて、1939年(昭和14年)6月1日横須賀海兵団に入隊し、教程を終えた10月に水雷艇「鴻」に乗組みとなった。1940年(昭和15年)11月、海軍飛行予科練習生丙2期生として土浦海軍航空隊に入隊した。
千葉 治平(ちば じへい、1921年10月31日 - 199… 千葉 治平(ちば じへい、1921年10月31日 - 1991年6月23日)は、秋田県仙北市(旧田沢湖町)出身の小説家。本名は堀川 治平(ほりかわ じへい)。秋田県出身者としては、第41回(1959年)の渡辺喜恵子に次ぐ2人目の直木賞受賞者。 秋田工業学校(現・秋田県立秋田工業高等学校)で電気科を学び、1940年で旧満洲で満鉄調査部科学研究所入社を経て、南満洲工業専門学校を卒業した。 終戦後は故郷の秋田に戻り、農業の傍ら「月刊さきがけ」で懸賞小説に応募して、一席入選し、伊藤永之介に師事し、共に秋田文学を創刊する。 1966年に「秋田文学」23号から27号まで連載された「虜愁記」は第54回直木賞を受賞した。
石丸 久(いしまる ひさし、1921年10月31日 - 19… 石丸 久(いしまる ひさし、1921年10月31日 - 1999年12月26日)は、日本の近代文学者。早稲田大学講師、早稲田大学高等学院教諭、代々木ゼミナール講師。 北海道河東郡帯広町(現帯広市)に父・庄七と母・なほこの長男として生まれる。ヨーロッパでの生活経験があり英語・ドイツ語・フランス語に堪能。旧制千葉県立佐倉中学校、旧制静岡高等学校、旧制第二早稲田高等学院を経て、早稲田大学・および同大学院を卒業。大手大学受験予備校代々木ゼミナールの講師も務めた。後に早稲田大学教授。(石丸を「教授」としているのは小田原市の資料のみであり、他の資料では「講師」と記されている。要検証。) 2012年、夫人の希望によって、架蔵していた北原白秋の初版本60冊ほど(評価額150万円以上)が小田原市に寄贈された。
川井 直人(かわい なおと、1921年10月31日 - 19… 川井 直人(かわい なおと、1921年10月31日 - 1979年7月3日)は、日本の物理学者・地球科学者。専門は古地磁気学。1945年に京都帝国大学理学部地質学鉱物学科を卒業。大阪大学名誉教授。 大阪府生まれ。京都大学で松山基範の薫陶を受け、初めは古地磁気学者として、京都大学講師として教鞭を執った。岩石の微弱な磁化の測定で業績を上げ、松山期よりも新しい年代における逆磁極期の発見に貢献した。 1960年3月、京都大学より理学博士の学位を取得(論文は「地殻の磁気」)。その後、1962年に新設の大阪大学基礎工学部に教授として転任し、地球内部の状態を実験室で再現するための高圧物理の研究を始めた。そして、川井式マルチアンビルセルと呼ばれる高圧発生装置の開発に成功し、高圧条件下における岩石の相変化と地震波速度の不連続面とを関連付ける業績を上げた。