上田 薫(うえだ かおる、UEDA, Kaoru、1928年… 上田 薫(うえだ かおる、UEDA, Kaoru、1928年〈昭和3年〉12月4日 - 2025年9月26日)は、洋画家。茨城大学名誉教授。 東京都渋谷区代々木出身。妻は上田葉子。日本のスーパーリアリズムの第一人者である。ただし、上田自身は自らの作風は抽象絵画であり、リアリズムとは大きく異なると語っている。代表作は、中学校や高等学校の美術の教科書にも掲載された割れた生玉子の殻から中身が落ちる瞬間を描いた作品である。ほかにもスプーンですくい取られたアイスクリーム、シャボン玉、ゼリー、水の流れといった作品も高く評価されている。 1928年(昭和3年)東京都出身。医学部受験に失敗した時期に富永惣一と出会い、東京藝術大学に進学する。
蒲生 芳郎(がもう よしろう、1928年12月4日 - 20… 蒲生 芳郎(がもう よしろう、1928年12月4日 - 2011年)は、日本近代文学研究者、宮城学院女子大学名誉教授。 山形師範学校で藤沢周平、松坂俊夫らと同人誌『砕氷船』に参加、東北大学仏文科を卒業後宮城県で高校教諭として教鞭を執る傍ら、森鷗外・夏目漱石など近代日本文学について論文を発表し、宮城学院女子大学教授となる。教授になってからは、山形師範同期の藤沢周平、東北大同期の山折哲雄とも親交を深めた。 「堺事件」論争では大岡昇平と駁論した。また、旧友藤沢周平についても著作を著したほか『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』の縮訳まで出すなど異能の国文学者である。 晩年は、文学には必ずしも明るくない忙しい大人のため、大人が読むに堪える日本・世界文学の縮約本に情熱を燃やしたが、長年難病を患い、最終的には肺癌で没した。
かたおか しろう(片岡 司郎、1928年12月3日 - 20… かたおか しろう(片岡 司郎、1928年12月3日 - 2005年11月23日)は、日本の劇作家。 大阪府生まれ。大阪工業専門学校(現・大阪府立大学)卒業。中学校教諭(担当:数学)を経て、1970年より専門劇作家として活動。斎田喬賞、日本児童演劇協会賞、日本演劇教育賞、全児演賞特別賞など受賞。 2005年11月23日、心筋性肺炎のため死去。
石野 重則(いしの しげのり、1928年(昭和3年)12月3… 石野 重則(いしの しげのり、1928年(昭和3年)12月3日 - 2008年(平成20年)12月18日)は、昭和から平成時代の政治家。兵庫県西脇市長。 兵庫県出身。1948年(昭和23年)神戸工業専門学校建築科卒業。 1948年(昭和23年)中学校教師を経て、1950年(昭和25年)西脇町に奉職。市制施行後、1972年(昭和47年)市長公室長、1976年(昭和51年)助役を経て、1986年(昭和61年)西脇市長に当選。3期務め、1998年(平成10年)引退した。2008年(平成20年)12月18日死去、80歳。死没日をもって従五位に叙される。
久保田 康耶(くぼた やすや、1928年12月3日 - 20… 久保田 康耶(くぼた やすや、1928年12月3日 - 2010年11月14日)は、日本の歯学者・医師・歯科医師。東京医科歯科大学歯学部歯科麻酔学講座教授。国際歯科麻酔学連合初代会長。元日本歯科麻酔学会理事長。日本で最初の歯科麻酔学の教授。 歯科麻酔、障害者歯科の普及に努め、歯科麻酔学の父とよばれることもあり、1979年に立ち上げた沖縄県重度心身障害者全身麻酔下歯科治療事業は2010年現在も継続されている。 1950年に東京医学歯学専門学校医学科を、1957年東京医科歯科大学歯学部を卒業、同大学院、歯学部助手、講師、助教授を経て1967年東京医科歯科大学歯学部歯科麻酔学講座教授に就任、1994年より名誉教授。
真田 是(さなだ なおし、1928年12月2日 - 2005… 真田 是(さなだ なおし、1928年12月2日 - 2005年9月28日)は、日本の社会学者。 静岡県伊東生まれ。1954年東京大学文学部社会学科卒業。大阪社会事業短期大学助手、愛知県立女子大学助教授、1966年立命館大学産業社会学部助教授、教授、立命館副総長、立命館大副学長、1994年「現在の社会福祉理論 -構造と論点」で立命館大学社会学博士。1994年定年退任、名誉教授、総合社会福祉研究所理事長。日本福祉大学教授、山口県立大学教授。京都自治体問題研究所顧問。
内山 裕一(うちやま ゆういち、1928年(昭和3年)12月… 内山 裕一(うちやま ゆういち、1928年(昭和3年)12月1日 - 2012年(平成24年)7月30日)は日本の政治家。新潟県三条市長(3期)。 新潟県出身。旧制新潟県立三条中学校(現新潟県立三条高等学校)、旧制新潟高等学校を経て、早稲田大学理工学部卒。卒業後は家業の内山商店(株)に入り、のち代表取締役となる。三条市教育委員、同委員長を務めた。1983年の三条市長滝澤賢太郎死去による市長選挙に立候補し、初当選する。市長を3期12年務め、1995年に市長を引退した。
野名 龍二(のな りゅうじ、1928年12月1日 - 201… 野名 龍二(のな りゅうじ、1928年12月1日 - 2018年6月1日)は、日本の国語教育学者。綴方教育に関する実践を数多く手がけた。 三重県志摩市出身。半農半漁の家の次男として生まれる。1943年、三重師範学校予科入学、敗戦を経て、1948年に卒業。その後、三重県の小学校教員を経て、1951年、大阪市旭区清水小学校に着任。栗岡睦の誘いで自由教育思想の影響を受け、1953年、福泉町立福泉小学校大庭寺分校で綴り方教育の実践を始める。田宮輝夫と綴方教育の本質や方法をめぐって「野名・田宮論争」と呼ばれる論争を展開した。 綴方教育実践に関して多くの著書を残している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
小宮 隆太郎(こみや りゅうたろう、旧字体:小宮 隆太郞、1… 小宮 隆太郎(こみや りゅうたろう、旧字体:小宮 隆太郞、1928年(昭和3年)11月30日 - 2022年(令和4年)10月31日)は、日本の経済学者。位階は従三位。東京大学名誉教授・青山学院大学名誉教授。国際経済学、日本経済、中国経済の3つの分野での実証的な研究を行った業績で知られる。また、多くの日本の経済論争に中心人物としてかかわっている。2002年、文化勲章受章。 1928年11月30日、京都市で生まれる。父は京都大学電気工学科出身の日立製作所に勤めるエンジニアであった。小学生のときに父親の転勤で東京都大森へ転居。旧制東京高等学校を経て、1949年に東京大学へ入学し、木村健康ゼミへ入る。
土井 たか子(どい たかこ、土井 多賀子、1928年11月3… 土井 たか子(どい たかこ、土井 多賀子、1928年11月30日 - 2014年9月20日)は、日本の政治家、法学者。愛称はおたかさん。
赤羽 学(あかばね まなぶ、あかはね まなぶ、1928年11… 赤羽 学(あかばね まなぶ、あかはね まなぶ、1928年11月30日 - 2021年4月6日[要出典])は、日本の国文学者。岡山大学名誉教授。 長野県松本市生まれ。1953年東北大学文学部国文科卒業、1957年同大学院修士課程修了。1972年「芭蕉俳諧の精神」で、文学博士(東北大学)の学位を取得。岡山大学法文学部助教授、文学部教授、1995年定年退官、名誉教授、安田女子大学教授。1971年文部大臣賞受賞。。 日本文学における伝誦過程、芭蕉を通して見られる日本文芸の理念および現代に及ぼした影響を研究する。 2009年4月瑞宝中綬章受章。 谷川健一が主宰した同人誌 青にエッセイを記載している。
松尾 心空(まつお しんくう、1928年11月29日 - 2… 松尾 心空(まつお しんくう、1928年11月29日 - 2021年7月17日)は、真言宗の僧侶。西国三十三所観音霊場29番札所・真言宗醍醐派に属する青葉山松尾寺の名誉住職。舞鶴文化教育財団理事。 放送界、種々講演会、出版で活躍。徒歩巡礼の会「アリの会」主宰で西国三十三所の古道巡礼道を徒歩で何度も巡っている。「徒歩で札所を巡ることは、『心の田を耕すことだ』」という。 特定非営利活動法人西国古道ウォーキングサポート顧問も務めた。大阪府堺市生まれ。 現代に生きる CD全12巻の第11巻『人生往来手形』ユーキャン 「『苦』とは、はなはだしいこと 縁あって得た人生の往来手形 この世の間借り人として」ほか全9話 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
岩崎 琢弥(いわさき たくや、1928年11月29日 - )… 岩崎 琢弥(いわさき たくや、1928年11月29日 - )は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。 北海道小樽市出身。松本高等学校文科を経て、1954年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に日興証券に入社。1979年12月に取締役に就任し、1981年9月に常務、1984年11月に専務、1985年11月に副社長を経て、1986年12月に社長に就任。大口投資家への損失補てんによる責任を取る形で社長を辞任し、1991年6月に副会長に退き、1996年6月に会長を経て、1997年10月から顧問を務めた。 2000年6月からコナミ取締役も務めた。 旧制松本高等学校時代にサッカー部であったことから、社長時代の1990年に同社の女子サッカーチーム「日興證券女子サッカー部ドリームレディース」の結成に関わった。
川辺 為三(かわべ ためぞう、1928年11月29日 - 1… 川辺 為三(かわべ ためぞう、1928年11月29日 - 1999年4月16日)は、日本の教育者・小説家。樺太生まれ。作品集『岬から翔べ』で第18回北海道新聞文学賞受賞。 北海道学芸大学(現在の北海道教育大学)卒。札幌市とその周辺で高校教員(国語科)として勤務、のちには國學院女子短期大学(國學院短期大学)助教授[要出典]、北海道立文学館を運営する財団法人北海道文学館の評議員も務めた。教職のかたわら、渡辺淳一や高橋揆一郎、寺久保友哉らを輩出する文芸同人誌『くりま』創刊の中心となって小説作品を発表し、後年は札幌の月刊同人誌『北方文芸』の編集者として、またカルチャーセンター講座「創作教室」の講師として多くの作家を育てた。
尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年(昭和3年)11月29… 尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年(昭和3年)11月29日 - 1999年(平成11年)9月21日)は、日本の文芸評論家。ゾルゲ事件の研究や、大衆文学評論に尽くした。勲三等瑞宝章。 ゾルゲ事件の尾崎秀実は異母兄。同母妹の田才秀季子(ほすえこ)は、チェコ文学者田才益夫の妻。妻の尾崎恵子は執筆のアシスタントでもあり、秀樹との共著が二冊ある。歴史学者・政治学者の今井清一は義理の甥(秀実の娘の夫)。 台湾台北州台北市に尾崎秀真と、愛人の吉田きみとの子として生まれ、母の私生児として育つ。1933年に秀真の本妻が死去し、母と再婚し秀真の妻となり、秀樹も尾崎家に入籍する。 父尾崎秀真(尾崎白水)は美濃出身で戦前の台湾で歴史学者、漢詩人、文士、新聞記者(報知新聞記者、のち台湾日日新報記者を経て主筆)として活躍した。
斎藤 宏(さいとう ひろし、1928年11月27日 - 20… 斎藤 宏(さいとう ひろし、1928年11月27日 - 2011年12月17日[要出典])は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。 桐生中学三年秋終了後に予科練に志願し、学校を中退。戦後、桐生中学出身者が中心として結成された全桐生を経て、1950年に東急フライヤーズに入団。1年目から三塁手のレギュラーを獲得し、118試合に出場した。1952年には108試合に出場し、打率.301とチームの中でトップとなる打率を記録し、リーグでも7位の記録だった。翌年も100試合以上の試合に出場するが打撃成績は振るわず、1955年は12試合しか出場できずこの年に引退した。 引退後はジャニーズ事務所に社員として在籍したが、プロ野球選手経験を買われ、フジテレビジョンの手を離れた後も引き続き同社傘下で活動を継続した女子野球クラブチーム『ニューヤンキース』の3代目監督を務めていた。
稲垣 良典(いながき りょうすけ、1928年〈昭和3年〉11… 稲垣 良典(いながき りょうすけ、1928年〈昭和3年〉11月27日 - 2022年〈令和4年〉1月15日)は、日本の哲学者。九州大学名誉教授。学位はPh.D.(アメリカ・カトリック大学)、文学博士(東京大学)。 佐賀県出身。専門は中世哲学、法哲学。トマス・アクィナスの『神学大全』の訳者の一員で、日本における中世スコラ哲学研究の第一人者。関連著書を多数刊行している。神学に関する訳書も多数ある。ローマ・カトリック教徒で、洗礼名はベルナルド。 1928年、佐賀県小城郡牛津町(現・小城市)生まれ。旧制佐賀高等学校を経て、戦後の1951年、東京大学文学部哲学科卒業。同年、南山大学助手。 アメリカ・カトリック大学(英語版)(CUA)大学院(CUA、Ph.D)に留学し、1953年にM.A.を、1955年6月にPh.D.を取得。
中村 充(なかむら まこと、1928年11月27日 - 20… 中村 充(なかむら まこと、1928年11月27日 - 2021年4月30日)は、日本の農学者、農学博士(東京大学)。海洋環境工学専攻。福井県立大学名誉教授(元福井県立大学生物資源学部学部長)、国際海洋科学技術協会理事、NPO大阪湾研究センター常務理事、元水産庁水産工学研究所長。 栃木県宇都宮市松原出身。1960年 東京大学 農学博士。論文は「浸透水運動の基礎理論」。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
西田 龍雄(にしだ たつお、1928年11月26日 - 20… 西田 龍雄(にしだ たつお、1928年11月26日 - 2012年9月26日)は、日本の言語学者、京都大学名誉教授、学術情報センター名誉教授、元日本学士院会員、文化功労者、日本学士院恩賜賞受賞。 1928年、大阪市で生まれた。1948年、京都大学文学部に入学。言語学専攻で学び、1951年に卒業。卒業後は同大学大学院に進学し、1956年に修了。 卒業後は、1956年4月より京都大学文学部非常勤講師。1958年7月、同助教授に就任。同年10月から翌年5月まで、ビルマへ研究出張。1959年、京都大学の村田治郎(建築学)が主宰して進められていた共同研究成果『居庸関』の成果により、日本学士院賞を共同受賞。
渡辺悟仙(わたなべごせん・本名「昌男」 1928年(昭和3年… 渡辺悟仙(わたなべごせん・本名「昌男」 1928年(昭和3年)11月26日 - 2000年(平成12年)8月22日)は、福井県福井市出身の日本を代表する世界的水墨画家。「日本南画院」元理事長。「福井県水墨画協会」創立者 兼 初代会長。紺綬褒章受章者。 生まれながらにして画才をもち、少年期には父である久吉(雅号・旭光)や文人画家の小川春峰に日本画の手ほどきを受け、青年期には南画家である飯原如堂に習う。雅号「静山」。拓殖大学卒業後、福井県庁に勤めるかたわら画家への夢があきらめきれず、1969年(昭和44年)、 馬来田愛岳(社団法人日本南画院理事)や鳥海二楽子(社団法人日本南画院常務理事)に師事。雅号を「悟仙」と改める。
斎藤 守慶(さいとう もりよし、1928年(昭和3年)11月… 斎藤 守慶(さいとう もりよし、1928年(昭和3年)11月26日 - 2008年(平成20年)6月4日)は、日本の経営者、毎日放送元社長・会長・最高顧問。父は福岡県知事(官選時代)などを務めた斎藤守圀。 東京都出身(本籍は福岡県)。東京大学経済学部卒業後、1951年(昭和26年)に毎日新聞社へ入社。 1955年(昭和30年)、大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)に出向。毎日新聞グループと朝日新聞グループの合弁で設立された大阪最初の民放テレビ局で、営業担当として開局準備にあたった。ここで放送人、経営者として終生尊敬することになる新日本放送(NJB)専務高橋信三と出会う。 1958年(昭和33年)、大阪テレビが解体されることが決まる。
稲垣 精一(いながき せいいち、1928年(昭和3年)11月… 稲垣 精一(いながき せいいち、1928年(昭和3年)11月25日 - 2017年(平成29年)10月29日)は、日本の銀行家。富士銀行常務を経て肥後銀行頭取、熊本経済同友会代表幹事等を歴任した。 東京商大卒業後、富士銀行入行。35年間の同行時代の内、20年間は資金証券部門に従事した。そして、肥後銀からの招聘の申し入れを受諾。同行に入行した。 8年6ヶ月の頭取在任時は、国内外の格付機関よりすべてAレベルの評価を得て、健全経営の伝統を堅持したほか、基幹システムの共同化や新人事制度の導入を果たした。また、経営基盤の強化や体制の整備に取り組んだほか株主や投資家に対するIR活動も開始した。 2001年(平成13年)には頭取を勇退し、顧問に退いた。
篠塚 昭次(しのづか しょうじ、1928年11月24日 - … 篠塚 昭次(しのづか しょうじ、1928年11月24日 - 2016年12月29日)は、日本の法学者。専門は、民法・不動産登記法・土地法。早稲田大学名誉教授。早稲田大学比較法研究所元所長。日本における不動産法のパイオニア。神奈川県出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
森 禮次郎(もり れいじろう、1928年11月23日- 20… 森 禮次郎(もり れいじろう、1928年11月23日- 2017年4月11日 )は、日本の経営者。住友金属工業会長、三菱住友シリコン社長を務めた。 大阪府出身。1951年に大阪大学工学部機械工学科を卒業し、同年に住友金属工業に入社した。1981年6月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1988年6月に専務を経て、1989年6月に副社長に就任し、1998年10月には会長に昇格した。2001年6月から相談役を務めた。 1994年4月に藍綬褒章を受章。 2017年4月11日、死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 辰夫(たかはし たつお、1928年11月23日 - 2… 高橋 辰夫(たかはし たつお、1928年11月23日 - 2001年10月11日)は、日本の政治家。 衆議院議員(5期)、北海道議会議員(4期)を務めた。参議院議員の橋本聖子は義妹。 北海道伊達市生まれ。伊達小学校、伊達中学校、伊達高等学校を経て、1953年中央大学経済学部卒業。篠田弘作の秘書を経て、1963年、北海道議会議員に初当選。その後4期務めた。 1974年の第10回参議院議員通常選挙で北海道選挙区から保守系無所属・青嵐会新人として出馬したが、落選。1979年の第35回衆議院議員総選挙で自由民主党公認・自由革新同友会新人として旧北海道4区から立候補し、初当選(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田愰・宮下創平・亀井善之・船田元など)。
松永 光(まつなが ひかる、1928年〈昭和3年〉11月23… 松永 光(まつなが ひかる、1928年〈昭和3年〉11月23日 - 2022年〈令和4年〉10月11日)は、日本の政治家、弁護士。公益財団法人日本武道館会長(第8代)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(10期)、大蔵大臣(第104代)、通商産業大臣(第50代)、文部大臣(第106代)、衆議院予算委員長・建設委員長、美しい日本の憲法をつくる埼玉県民の会会長などを歴任した。 衆議院議長、文部大臣、衆議院議員を務めた松永東は養父。 長崎県南高来郡南串山村(現・雲仙市)生まれ。埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。1947年に東京都立九段中学校を卒業し、中央大学法学部法律学科に進学。その後、早稲田大学第二法学部法律学科に編入し、1951年に卒業した。
日比野 光鳳(ひびの こうほう、1928年11月22日 - … 日比野 光鳳(ひびの こうほう、1928年11月22日 - 2023年8月23日)は、日本の書家。勲等は旭日中綬章。水穂会会長、公益社団法人日展顧問、日本芸術院会員、文化功労者。本名は日比野 尚(ひびの ひさし)。 宝酒造株式会社での勤務を経て、同志社大学文学部講師、社団法人日展常務理事などを歴任した。 書家・日比野五鳳の子として京都市に生まれる。幼い頃より書に親しむ。同志社大学経済学部卒業、1953年宝酒造に勤務、1965年まで勤める。同志社大学文学部講師、京都新聞書き初め書道展審査委員長、京都市展審査員などを歴任。1987年日本美術展覧会(日展)会員賞。1992年京都府文化賞功労賞。1994年京都市文化功労者。
北島 忠男(きたじま ただお、1928年11月22日 - 2… 北島 忠男(きたじま ただお、1928年11月22日 - 2009年)は、日本の経営学者。 埼玉県生まれ。明治大学商学部卒、1957年同大学院商学研究科博士課程満期退学。1966年「株式所有権の分散と集中に関する研究」で明大商学博士。明治大学商学部講師、助教授、教授。1999年定年、名誉教授。アジア市場経済学会初代会長。
梶 龍雄(かじ たつお、1928年11月21日 - 1990… 梶 龍雄(かじ たつお、1928年11月21日 - 1990年8月1日)は、日本の推理作家、小説家、翻訳家。本名は、可児 秀夫。 1928年岐阜県生まれ。慶應義塾大学文学部英文科卒業後、小学館に勤める。1952年に雑誌『宝石』に「白い路」を発表し作家活動のスタートを切る。1959年小学館退社後、児童小説や後に多数執筆する推理小説の翻訳などに参加し、このころからミステリー・推理小説などに関わりをもった。 1977年、真相究明によるサスペンスをとりいれながらも主人公の恋をドラマチックに描いた推理小説「透明な季節」で第23回江戸川乱歩賞を受賞。自作小説で賞を勝ち取ったのはこれが最初である。 その後の活動としては、『透明な季節』と同じ部類に入る旧制高校を舞台にした本格派推理小説をシリーズとして多数を執筆したほか、トラベル・ミステリーのような推理小説なども執筆した。
笹目 宗兵衛(ささめ そうべえ、1928年(昭和3年)11月… 笹目 宗兵衛(ささめ そうべえ、1928年(昭和3年)11月21日 - 1994年(平成6年)9月17日)は、日本の政治家。茨城県笠間市長(3期)。 茨城県出身。慶應義塾大学法学部政治学科卒。笹目宗兵衛商店社長、市商工会青年部長、日本青年会議所茨城ブロック会長、市教育委員長、市体育協会会長などを務め、1984年笠間市長選挙に立候補し、初当選し、市長を3期務める。3期目途中の1994年体調を崩して入院、4月17日市議会議長に辞表を提出、翌日受理された。辞職後は療養に専念していたが、9月17日に死去した。
小林 多加士(こばやし たかし、1928年11月21日- )… 小林 多加士(こばやし たかし、1928年11月21日- )は、日本の中国学者。 東京出身。大東文化大学文政学部政経科卒業。埼玉大学講師、東京国際大学教授、1999年定年。
綿井 永寿(わたい えいじゅ、1928年11月20日 - 1… 綿井 永寿(わたい えいじゅ、1928年11月20日 - 1998年5月30日)は、愛媛県出身の元ラグビー選手及び同指導者で、日本体育大学第6代学長。 現役時代のポジションは、フランカー(FL)。 旧制北予中学、中央大学出身。 後に、日本体育大学ラグビー部の監督に就任。いわゆる、「早慶明」の伝統校に打ち勝つためには、走り勝たねばならないという信条の下、『ランニングラグビー』を確立した。 1969年度、有賀健らを擁して関東大学ラグビー対抗戦グループで初優勝をもたらすと、続く第6回全国大学ラグビーフットボール選手権大会でも決勝で早稲田大学(以下、早稲田)を11-9で下し初優勝。そして続く第7回日本ラグビーフットボール選手権大会では、社会人代表がなかなか決まらず、すったもんだの末、富士鐵釜石(後の新日本製鐵釜石ラグビー部、現 釜石シーウェイブス)が出場することになったが、29-13でこれを撃破し、早稲田に続いて、大学チームとしては史上3校目となるラグビー日本一を果たした。
伊集院 大八(いじゅういん だいはち、1928年11月20日… 伊集院 大八(いじゅういん だいはち、1928年11月20日 - 没年不明 )は、井筒部屋に所属した元力士。本名は東 幹男(ひがし みきお)。現在の鹿児島県日置市出身。177cm、98kg。最高位は西十両7枚目。得意技は右四つ、寄り。 1949年5月場所初土俵、1955年3月場所十両昇進し連続28場所務める。1960年9月場所限りで廃業した。 部屋の同僚である鶴ヶ嶺昭男と親交のあった中西太がトレーニングの一環として出稽古に来た際、中西と二人で写真を撮ったこともある。
河野 典男(こうの のりお、1928年11月19日 - 20… 河野 典男(こうの のりお、1928年11月19日 - 2020年1月23日)は、日本の実業家。東急グループの建設会社である世紀東急工業株式会社の社長・会長を務めた。 1928年11月19日、東京府荏原郡東調布町(現・大田区)に生まれる。東京実業学校、海兵団砲術学校を経て、1953年に明治大学商学部を卒業した。 1953年、父・河野一三と五島慶太の縁で東急電鉄に入社し、改札係、車掌、運転士などを経験した。その後、私鉄経営者協会への派遣、本社勤労部勤務などを経て、1961年に東急建設へ出向した。 東急建設では総務課係長、総務部長、横浜副支店長などを歴任し、1973年に取締役、1976年に常務、1981年に専務、1988年に副社長に就任した。
大久保 典夫(おおくぼ つねお、1928年(昭和3年)11月… 大久保 典夫(おおくぼ つねお、1928年(昭和3年)11月19日 - 2025年(令和7年)8月25日)は、日本の文芸評論家・日本近代文学研究者。学位は、博士(文学)(早稲田大学・論文博士・2004年)(学位論文「岩野泡鳴の研究」)。東京学芸大学名誉教授。現代文学史研究所所長。国文学者の梶川信行は娘婿。 埼玉県出身。早稲田大学文学部国文科卒。1958年季刊同人誌『批評』に参加。1981年『文学と教育』を創刊。東京学芸大学助教授、教授、1992年定年退官、名誉教授、創価大学教授。1998年退職。2003年現代文学史研究所創設。2004年「岩野泡鳴の研究」で早稲田大学より博士(文学)の学位を取得。
越智 正典(おち まさのり、1928年11月18日 - 20… 越智 正典(おち まさのり、1928年11月18日 - 2025年4月16日)は、日本のアナウンサー、野球評論家、スポーツライター。日本放送協会(NHK)アナウンサー→日本テレビ放送網(NTV)アナウンサー、のち運動部長。東京府(のちの東京都)出身。 「おち せいてん」の読みをあてる場合がある。 東京府立第一商業、早稲田大学政治経済学部卒業。 1951年にNHKへ入局。札幌局勤務ののち、1953年のNTV開局に伴い同局へ第1期アナウンサーとして移籍とする資料があるが、同年10月21日のNHKラジオ第2放送での日米野球(円山球場)の実況を担当しているため、実際には開局翌年移籍とみられる。以後、特にスポーツ中継の実況アナウンサーとして活躍。
篠田 信義(しのだ のぶよし、1928年11月18日 - 2… 篠田 信義(しのだ のぶよし、1928年11月18日 - 2010年4月27日)は、日本の大蔵官僚。大阪国税局長、印刷局長、日本酒類販売副社長、同社社長、同社会長などを務めた。 大分県高田町(現:豊後高田市)で6人兄弟の5番目で4男として生まれる。宇佐中学校、第五高等学校を経て、東京大学法学部政治学科卒業。1951年 大蔵省入省(銀行局検査部管理課)。1952年5月 銀行局銀行課。1957年12月 相馬税務署長。 外務省在ベルギー大使館一等書記官、同大使館参事官などを経て、1972年7月3日 理財局国有財産第一課長。1973年7月3日 国税庁長官官房人事課長。1975年7月17日 福岡国税局長。
越 昭三(こし しょうぞう、1928年11月18日 - 20… 越 昭三(こし しょうぞう、1928年11月18日 - 2003年7月11日)は北海道小樽市出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
向坂 寛(さきさか ゆたか、1928年11月17日 - 19… 向坂 寛(さきさか ゆたか、1928年11月17日 - 1985年2月19日)は、日本の哲学研究者。 神奈川県出身。東京教育大学哲学科卒、京都大学大学院博士課程満期退学。日本大学文理学部助教授、教授。『対話のレトリック』を脱稿したあと56歳で急逝した。古代ギリシア哲学が専門。
早坂 祥三(はやさか しょうぞう、1928年11月17日 -… 早坂 祥三(はやさか しょうぞう、1928年11月17日 - 2007年12月26日)は、日本の地質学者・古生物学者、鹿児島大学第8代学長・名誉教授。理学博士。鹿児島湾(錦江湾)をはじめとする地域地質研究のほか、航海調査による南海洋での生物総合調査、オウムガイ研究などに寄与した。 日本統治時代の台湾出身。父は古生物学者・地質学者で台北帝国大学理農学部教授の早坂一郎(後に島根大学学長、日本地質学会会長)。 1949年旧制第二高等学校理科卒業。東北大学理学部地質学古生物学科を卒業し、1952年に東北大学助手となる。論文「愛知県渥美半島の地質学的並びに古生物学的研究」により、1961年3月17日に東北大学から理学博士の学位を授与される。
清水 昭典(しみず しょうすけ、1928年11月16日 - … 清水 昭典(しみず しょうすけ、1928年11月16日 - 没年不明)は、日本の政治学者・歴史学者。北海道の近代政治史を専門とし、北海道各地の市町村史の編纂・策定に関わった。学位は、法学博士(北海道大学)。北見工業大学及び札幌大学名誉教授。2008年瑞宝中綬章受章。北海道生まれ。 1947年北海道立札幌第一中学校卒業。1953年北海道大学法経学部政治学科卒業。1958年北海道大学大学院特別研究生修了。北海道大学法学部助手。 1961年北見工業短期大学応用化学科講師。1963年同応用化学科助教授。1966年北見工業大学工学部助教授。1972年同工学部教授。1991年北見工業大学停年退官。同名誉教授。
松木 ひろし(まつき ひろし、1928年11月16日 - 2… 松木 ひろし(まつき ひろし、1928年11月16日 - 2016年9月19日)は、東京市神田区(現・東京都千代田区)出身の脚本家。本名は松木 弘。 東京府立第五中学校での友人に澁澤龍彥がいる。旧制東京高校を卒業後、大学受験に失敗。鎌倉アカデミア夜間講座映画科で学ぶ。 自身の劇団を作って活動をしたのち、1950年に明治座の文芸部に入社、企画宣伝を担当。明治座時代に舞台を観ていいなとおもったのは、菊田一夫や飯沢匡の芝居だったと話していたことがある。 1954年のニッポン放送の開局とともに同社に入社してラジオ番組の制作にたずさわる。同社に勤務しながら村田正雄、旭輝子、池田昌子、三田佳子らと劇団「現代劇場」を立ち上げる。
曽根 康治(そね こうじ、1928年11月14日 - 198… 曽根 康治(そね こうじ、1928年11月14日 - 1981年4月27日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 1958年の世界選手権で優勝。得意技は内股や大外刈など。 埼玉県大里郡寄居町出身。父親が柔道6段、叔父がのち柔道9段の曽根幸蔵、兄も有段者という柔道一家に生まれる。7歳の時に地元・寄居町にて、長谷吉重郎(講道館8段)が館主を務める明道館に入門。 県立熊谷商業高校を卒業後は明治大学に進学し、入学直後には当時まだ少なかった3段に昇段した。しかし1・2年生の頃の柔道部はGHQの圧力で武道は禁止されていたため稽古を大っぴらにはできず、“第2レスリング部”と称する柔道同好者の集いに過ぎなかった。当時は寮も無く寄居から駿河台の校舎まで電車に2時間半揺られて通学していたが、3年生になりようやく“柔道部”が創設されて葛飾区の堀切に白雲寮ができるとそちらに移り住んだ。
大野 明(おおの あきら、1928年11月13日 - 199… 大野 明(おおの あきら、1928年11月13日 - 1996年2月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院議員(9期)。参議院議員(1期)。労働大臣(第45代)。運輸大臣(第63代)。 衆議院議長、自由民主党副総裁を務めた大野伴睦の四男。 岐阜県山県郡美山町生まれ。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、父の秘書を務める。1956年11月、大野つや子と結婚。 1964年、父の死去に伴い、後継者として第30回衆議院議員総選挙岐阜1区補欠選挙に自由民主党から立候補し初当選。 1982年、第1次中曽根内閣の労働大臣として初入閣。1983年の第37回衆議院議員総選挙では現職閣僚でありながら落選。
相木 茂男(あいき しげお、1928年11月13日 - 20… 相木 茂男(あいき しげお、1928年11月13日 - 2007年6月21日)は、日本の経営者。アイシン精機社長を務めた。 愛知県出身。1948年に名古屋工業専門学校(現・名古屋工業大学)を卒業し、同年に愛知工業(のちのアイシン精機)に入社。1967年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1979年6月に専務を経て、1985年6月に副社長に就任し、1989年6月には社長に昇格。1995年6月に会長に就任し、1999年6月に相談役に就任。 1991年11月に藍綬褒章を受章し、1999年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2007年6月21日に急性肺炎のために死去。78歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
朝倉 昭(あさくら あきら、1928年11月13日 - 20… 朝倉 昭(あさくら あきら、1928年11月13日 - 2020年12月7日)は、日本の技術者、実業家。オーディオ部品メーカー品川無線の創業者。Audio Engineering Society(英語版) (AES) 日本支部の創始者でもあり、2004年にAES Fellow Memberに承認され翌2005年の The 2005 AES in Barcelona において Fellowship受賞。アマチュア無線家。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
宇都美 清(うつみ きよし、1928年(昭和3年)11月12… 宇都美 清(うつみ きよし、1928年(昭和3年)11月12日 - 1973年(昭和48年)3月4日)は日本の歌手。栃木県宇都宮市出身。本名は吉田清男。 1946年(昭和21年)、宇都宮商業学校を卒業目前にして、コロムビアの新人募集に応募し合格。同年5月発売の「銀座歩けば」でデビュー。芸名の宇都美清とは出身地の宇都宮から取ったものである。 1949年(昭和24年)までに7曲吹き込んだが、ヒットしたのは「旅役者の唄」(霧島昇)のB面曲「三千歳小唄」ぐらいで、翌年、ビクターへ移籍。渡辺はま子と吹き込んだ「火の鳥」がヒットし、「ああモンテンルパの夜は更けて」、「浅太郎月夜」等がヒットする。 NHK紅白歌合戦に3回出場している(詳細は下記参照)。
橋本 喜典(はしもと よしのり、1928年11月11日 - … 橋本 喜典(はしもと よしのり、1928年11月11日 - 2019年4月8日)は、日本の歌人。 東京府生まれ。早稲田大学第一文学部国文学専修卒業後、早稲田中学校・高等学校教諭。大学在学中は早稲田大学短歌会に参加し、後輩の篠弘や来嶋靖生らとともに活動した。1948年、窪田章一郎に師事、『まひる野』に入会。師没後の2001年より2014年まで運営、編集委員長を務めた。1995年、歌集『無冠』で第22回日本歌人クラブ賞受賞。2004年、歌集 『一己』で第4回短歌四季大賞受賞。2009年、歌集『悲母像』で第24回詩歌文学館賞と短歌新聞社賞を受賞。2015年、「わが歌」で第51回短歌研究賞受賞。2017年、歌集『行きて帰る』で第28回斎藤茂吉短歌文学賞、第51回迢空賞を受賞。
西田 勝(にしだ まさる、1928年11月10日 - 202… 西田 勝(にしだ まさる、1928年11月10日 - 2021年7月31日 )は、日本の文芸評論家、平和運動家。 1928年11月10日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれる。1945年3月、県立清水中学校(現・清水東高)卒業。1947年3月、浜松工業専門学校応用化学科(現・静岡大学工学部)中退。1950年3月、旧制静岡高等学校文科甲類を卒業。1953年3月、東京大学文学部国文学科卒業、1955年3月、同大大学院(旧制)を退学。法政大学文学部非常勤講師を経て1971年4月、同学部助教授、1973年4月、教授となる。1994年3月、退職。同年4月、「西田勝・平和研究室」を設立。 1953年4月、新たな日本近代文学像を求めて小田切秀雄らと日本近代文学研究所を創立、「幻の雑誌」といわれた『驢馬』や『種蒔く人』などの散逸していた号冊を収集しての復刻版を出し、その延長として「近代文学図書館」の構想を立て、日本近代文学館の創設に尽力した。
西村 武典(にしむら たけのり、1928年(昭和3年)11月… 西村 武典(にしむら たけのり、1928年(昭和3年)11月10日 - 2012年(平成24年)2月11日)は、日本の政治家。熊本県牛深市長(8期)、牛深市議会議員(3期)。 熊本県出身。1946年、熊本県立熊本商工学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)卒。家業の酒屋を継ぎ、牛深市議を3期務める。1973年、牛深市長に初当選。市長を3期務めたが、3期目途中の1980年に辞職。1984年に市長に復帰、天草市に合併する前の2006年までに5期務めた。2012年2月に死去した。