神楽江 熏(かぐらえ かおる、1863年〈文久3年〉 - 1… 神楽江 熏(かぐらえ かおる、1863年〈文久3年〉 - 1934年〈昭和9年〉)は、現在の兵庫県姫路市網干区生まれの文人。幼名は巳之吉、名は熏、字は万春、号は巻石(けんせき)別号に下学迂士。 文人墨客として各地を歴遊後に札幌東京京都で私塾を開く。明治42年から大正6年まで枢密院に雇として勤務。 絵筆も巧みで多くの作品を残している。 本人の自署は神楽江熏としており艸冠を付けた神楽江薫は誤りである。 文久3年(1863年)8月14日(旧暦)播磨国揖東郡網干で網野姓の母から生まれる。実父に付いての資料は未見(網干町史記載) 神楽江の姓は河野東馬より播磨風土記にある生地網干の神功皇后伝承から付けられる。
千坂 光子(ちさか みつこ、1863年 - ?)は、貴族院議… 千坂 光子(ちさか みつこ、1863年 - ?)は、貴族院議員千坂高雅の長女。大物政治家の名を騙って金品を騙し取った詐欺で1896年に逮捕され、裁判で有罪となり刑に服した。名家の令嬢が起こした犯罪であったことから、世間を大いに騒がせた。本名テルから光子に改名した。 文久3年(1863年)、米沢藩家老の父・千坂高雅と母・たき子の長女(7人兄弟の一人娘)として米沢で生まれる。父は明治3年(1870年)から6年(1873年)まで洋行ののち、内務省書記官となった。光子は米沢の小学校を卒業後、母とともに上京し、東京市麻布区市兵衛町2丁目(現・東京都港区六本木)の本邸から女学校に通い始める。13、14歳ごろから、本郷の母方の親戚宅訪問を口実にしては上野・浅草を遊び回り、女中や車夫に口止め料を支払うような早熟な子供だった。
淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈… 淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈文久3年〉 - 1905年〈明治38年〉12月11日)は、明治時代の医師。号は烏城。群馬県高崎市の医師・淺野誠伯の子として生まれ、医科大学別課を卒業後、アメリカ合衆国・カリフォルニア州のクーパー医科大学で学んだ。のちにハワイおよび高崎で医業に従事した。 文久3年、高崎の医家に生まれる。父は医師の淺野誠伯である。号として「烏城」を用いた。 明治19年6月、医科大学(現在の東京大学医学部の前身)別課を卒業した。卒業後は、東京神田駿河台の佐々木病院にて名医・佐々木東洋に師事し、明治21年5月頃まで実地研修を積んだ。 その後、医学の奥義を究めるため渡米し、カリフォルニア州のクーパー医科大学(後のスタンフォード大学医学部)で学んだ。
横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月… 横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月) - 1936年(昭和11年)3月21日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(政友会)。 1863年(文久3年2月)、江戸日本橋に呉服木綿問屋横山五兵衛の第三子として生まれる。中江篤介の仏学塾などで学んだ後、1888年(明治21年)に東京仏学校(現・法政大学)を卒業する。家業に従事しながら、1897年(明治30年)に貿易会社大和商会を興し、経営する。 1891年(明治24年)に日本橋区会議員、1892年(明治25年)に東京府会議員、1893年(明治26年)に東京市会議員、1898年(明治31年)に第6回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に当選する。
萩原 正夫(はぎわら まさお、1863年(文久3年8月) -… 萩原 正夫(はぎわら まさお、1863年(文久3年8月) - 1917年(大正6年)2月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 伊豆国君沢郡小坂村(静岡県君沢郡小坂村、川西村、田方郡川西村、伊豆長岡町を経て現伊豆の国市)出身。静岡皇学舎に学んだのち漢学を修める。学務委員、町村組合会議員、伊豆四郡組合会議員、田方郡会議員、静岡県会議員を歴任した。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から立憲自由党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
林 彦一(はやし ひこいち、1863年(文久3年9月) - … 林 彦一(はやし ひこいち、1863年(文久3年9月) - 1923年(大正12年)12月22日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越前国大野郡田野村(のち福井県大野郡富田村、現・大野市)出身。漢学を学ぶ。訓導、連合町村会議員、富田村戸長、学務委員、県勧業諮問会員、富田村会議員、同村長、大野郡会議員、同参事会員、福井県会議員、福井県蚕糸業組合評議員、同議長、大野郡蚕糸業組合評議員、大野郡農会長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において福井1区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
石井 鼎(いしい かなえ、1863年(文久3年3月) - 1… 石井 鼎(いしい かなえ、1863年(文久3年3月) - 1916年(大正5年)5月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。岐阜県会議長。岐阜県山県郡厳美村長。 美濃国山県郡、のちの岐阜県山県郡厳美村(芥見村・三輪村を経て現岐阜市)に生まれる。 1888年(明治21年)9月、臨時選挙で県会議員に当選。同常置委員、参事会員、県会議長を歴任した。ほか、小学校監事、厳美村長を務めた。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
堀之内 庄右衛門(ほりのうち しょううえもん、1863年1-… 堀之内 庄右衛門(ほりのうち しょううえもん、1863年1-2月(文久2年12月) - 1909年(明治42年)1月30日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 薩摩国薩摩郡隈之城郷勝目(鹿児島県薩摩郡隈之城村、川内町、川内市を経て現薩摩川内市勝目町)出身。1900年(明治33年)より大洋商船、曽木電気などの重役を務めたのち、1906年(明治39年)12月、鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月13日、議員に就任し、在任中に脳溢血により死去した。
平野川 善右エ門(ひらのがわ ぜんえもん、1863年(文久3… 平野川 善右エ門(ひらのがわ ぜんえもん、1863年(文久3年) - 1912年(明治45年)4月19日)は讃岐国大内郡引田村(現・香川県東かがわ市引田)出身の大相撲力士。本名は今出善藏。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 10代小野川に入門。1886年(明治19年)11月平野川 鹿藏(1894年(明治27年)4月まで番付では平の川または平ノ川と表記された)で四段目に初見。1890年(明治23年)8月には早くも入幕した。 167cm、103kg。突っ張りを得意とし、闘志に満ちた取り口は調子に乗ると実力以上の活躍を見せた。また立合いの汚い力士が多かった大阪相撲において立合いがきれいなことで知られた。1893年(明治26年)10月には8戦全勝を記録。
大纒 千代吉(おおまとい ちよきち、1863年(文久3年) … 大纒 千代吉(おおまとい ちよきち、1863年(文久3年) - 1934年(昭和9年)10月14日)は、現在の千葉県船橋市馬込町出身で出来山部屋に所属した大相撲力士。本名は鈴木 千代吉→松枝 忠三。最高位は前頭筆頭。8代出来山。 先代大纒の出来山部屋に入門し、1885年5月場所で序ノ口に就く。四股名は初めは「當り島」を名乗り、後に師匠の四股名の「大纒」を名乗った。1889年1月に十両に上がり、1891年5月に新入幕を果たした。1894年1月、西前頭4枚目で大関小錦(のち横綱)に勝ち、6勝2敗1分の成績を収めた。攻めや守りに技を使いこなす取り口を見せた。最高位の前頭筆頭まで進んだ1899年1月に「出来山」と改名した。
直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9… 直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9月) - 1921年(大正10年)7月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 美作国久米南条郡(のち岡山県久米郡吉岡村→柵原町、現・美咲町)生まれ。閑谷学校で学び、農業を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において岡山7区から無所属で立候補したが落選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1902年の第7回衆議院議員総選挙では岡山県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選した。1921年に死去した。
井手 佐三郎(いで ささぶろう、文久2年11月10日(186… 井手 佐三郎(いで ささぶろう、文久2年11月10日(1862年12月30日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、日本の教育者。福岡市長。 筑前国上座郡池田村(現在の福岡県朝倉市)出身。1881年(明治14年)から1884年(明治17年)まで慶應義塾で学んだ。卒業後は時事新報社に勤務したが、教員となり、愛知県中学校、広島県師範学校、徳島県尋常中学校に勤務した。1894年(明治27年)、母校慶應義塾の教師に転じる。1899年(明治32年)、茨城県中学校校長に就任。1904年(明治37年)、岐阜県視学官となり、1909年(明治42年)には長崎県事務官となった。 1914年(大正3年)、福岡市長に選出された。
伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年… 伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年12月28日(文久2年11月8日) - 1934年(昭和9年)6月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 仙台に醸造家伊澤平藏(3代目)の長男に生まれる。父の跡を継ぎ、1907年に仙台市会議員、その後、同参事会員などを務めた。1915年に宮城貯蓄銀行、1919年に塩釜銀行の各頭取に、1920年に仙台ガス社長に就任した。 同年の総選挙では立憲政友会から出馬を要請されたが、一族に反対された。しかし、政友会本部は岡崎邦輔を仙台に派遣し、伊澤を説き伏せ、正式に立候補となった。これにより、憲政会の村松亀一郎との争いになり、当選し、激しい選挙戦を制した。
佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 … 佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 - 昭和13年(1938年)10月5日)は日本の教育者、政治家。元余子小学校長、境小学校長。元余子村学務委員。元余子村長。幼名松太郎。 大阪府立大学名誉教授佐中壮の父。 福定村の農家佐中友太の長男として生まれる。中野村木島仙庵の門に入り、次いで中野小、森山村寺本要塾、広瀬町山村勉斎塾でよく学び、24歳の時教員検定試験に合格した。 明治21年(1888年)弓浜高等小学校創設にあたり、以来同校に勤務、校長村上龍の家族主義教育を20余年助けた。次いで校長に進んだがいったん職を退き、さらに余子小学校長、境小学校長を歴任して教育一筋につとめ、多くの人材を出した。
海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年… 海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年11月6日) - 1952年(昭和27年)3月4日)は、海老名弾正の妻で、キリスト教会の婦人活動家である。 横井小楠と後妻つせ子の娘として、熊本郊外の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に生まれる。戸籍上は熊本県士族・伊勢平四郎の長女。1869年に小楠が暗殺されると熊本に転居し、リロイ・ランシング・ジェーンズの妻から英語を学ぶ。1875年に母方のいとこ徳富初子と共に洋学校への編入を認められる。 1876年、兄時雄や海老名喜三郎(弾正)らと一緒にキリスト教への入信を誓う。1877年に京都に移り、同志社に入学する。1882年、新島襄から洗礼を受ける。
富島 暢夫(とみしま のぶお、文久2年11月3日(1862年… 富島 暢夫(とみしま のぶお、文久2年11月3日(1862年12月23日) - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の衆議院議員。弁護士。裁判官。 安芸国安芸郡荘山田村(現在の広島県呉市)出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。判事となり、大阪始審裁判所、松江地方裁判所、横浜地方裁判所を歴任した。1894年(明治27年)、官を辞し弁護士を開業し、後に広島弁護士会長を務めた。また広島市会議員、同議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回・第9回・第10回・第13回と再選された。
石本 三十郎(いしもと さんじゅうろう、1862年12月23… 石本 三十郎(いしもと さんじゅうろう、1862年12月23日(文久2年11月3日) - 1896年(明治29年)10月11日)は日本の教育者である。 1862年(文久2年)肥前国大村(現・長崎県大村市)の酒屋山口儀三郎・たみの次男として生まれた。後に、叔父である石本徳蔵の養子になり石本姓を受け継ぐ。1875年(明治8年)の夏、熊野与(熊野雄七の父)により才能を買われ、共に横浜に行きヘボン塾で学ぶ。 1877年(明治10年)日本基督公会(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)の仮牧師のジェームス・ハミルトン・バラ宣教師より洗礼を受ける。そして、日本基督公会の会員になる。 最初は医学を学ぼうとしたが、バラより教育者になることを進められ、築地大学校で学び、1882年(明治15年)に卒業し、築地大学校で英語の授業を担当した。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(… 稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(文久2年10月30日) - 1949年(昭和24年)3月30日)は、大正・昭和前期の日本の実業家、貴族院勅選議員。稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。また日仏文化交流に貢献しており、日本で初めてシネマトグラフを輸入して映画興行を行った人物としても知られる。正五位勲三等。
村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862… 村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862年12月21日) - 昭和2年(1927年)11月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。清浦内閣の海軍大臣。佐賀県出身。幼名は袈裟之助(けさのすけ)。養子に海軍少将・村上暢之助。また実娘は海軍少将・横井忠雄と結婚している。
秋山 金也(あきやま きんや、文久2年11月1日〈1862年… 秋山 金也(あきやま きんや、文久2年11月1日〈1862年12月21日〉 - 昭和14年〈1939年〉2月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。医師。 下野国安蘇郡佐野町(現在の栃木県佐野市)出身。1884年(明治17年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。1886年(明治19年)より鹿児島医学校助教諭・附属病院診察医を務めた。1891年(明治24年)、佐野町に戻り安蘇病院院長となった。日清戦争の際には日本赤十字社救護医員として従軍した。1902年(明治35年)、安蘇郡医師会長に選出。1904年(明治37年)、佐野町伝染病院院長に就任した。1908年(明治41年)には栃木県医師会副会長に、1910年(明治43年)には同会長に選出された。
高倉 虎(たかくら とら、1862年12月21日(文久2年1… 高倉 虎(たかくら とら、1862年12月21日(文久2年11月1日) - 1924年(大正13年)1月27日)は、明治から大正時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国多賀郡(現茨城県高萩市)出身。所得税調査委員などを歴任した。 1921年(大正10年)茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され同年8月30日に就任したが、在任中に水戸市赤十字病院で胃癌のため死去した。
平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日… 平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日〈文久2年10月28日〉 - 1922年〈大正11年〉8月16日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、青森県多額納税者、青森県の大地主。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡五所川原村(現・青森県五所川原市)出身。平山助六の長男。1903年、家督を相続。農業を営む。 1917年(大正6年)青森県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年1月18日から1918年9月28日まで務めた。 五所川原銀行頭取、陸奥鉄道、五所川原銀行、青森県農工銀行各取締役などを務めた。 津軽地方の一大地主で、多額納税者である。住所は青森県北津軽郡五所川原町。
井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日(18… 井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日(1862年12月19日) - 昭和4年(1929年)4月7日)は、明治期の英語学者、和英辞典編纂者、官吏。ヘボンの影響を脱した最初の和英辞典である『新訳和英辞典』を完成させた。 阿波国徳島藩に井上高格の次男として生まれ、藩主の命により江戸に出て明治4年(1871年)慶應義塾に入学(『慶應義塾入社帳」第一巻487頁)。同塾卒業後の明治6年(1873年)、旧藩主蜂須賀茂韶に選抜された7人の留学生の1人として随行し、イギリスに渡る。一行のうち最年少だった。 1873年にロンドンの小学校に入り、1878年卒業、ラグビー校初の日本人生徒として進学し、成績優秀のため賞と年金を獲得。
正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日〈文久2… 正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日〈文久2年10月26日〉 - 1940年〈昭和15年〉3月2日)は、明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。号十三松堂。 1862年(文久2年)和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に、父林作の三男として生まれた。幼名政吉。 1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学法律科卒業後、奈良県の教育行政全般の指導を請われ、はじめ奈良県尋常中学校長を任ぜられる。1895年(明治28年9月)に奈良県師範学校校長に就く。在職期間は短かったが、長野宇平治の設計である師範学校校舎の新築に尽力した。
白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文… 白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文久2年10月22日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の実業家、政治家。号は如海。 会津若松城下で家禄500石の上級藩士である白井家の長男として生まれる。父の五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。戊辰戦争後に再建された日新館(現会津高校)に学び、上京後は秋月悌次郎門下として勉学を続けた。1884年(明治17年)には東政図(東次郎)の中国赴任に随行。清国改造運動に加わった。一年後には日本へ戻り、井深彦三郎、中野二郎らと同居生活を送った。 中国との貿易に従事し、1891年(明治24年)には東邦協会の設立に関わり、幹事を務める。
植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日… 植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日(文久2年10月11日) - 1941年(昭和16年)1月17日)は、日本の実業家。族籍は東京府士族。経団連会長植村甲午郎は息子、農学博士の渋沢寿一はひ孫にあたる。甲斐出身。 甲斐国甲府(現山梨県)生まれ。幕臣・植村厚十郎の長男。明治維新の際横須賀に移住する。家は素より貧窮を極めたため、幼い頃から小田信樹の塾僕となり、傍ら漢籍を修めた。 1879年、上京し、開拓使の東京出張所吏員となる。後に大蔵省、農商務省等に勤務し、1887年、逓信省に転じ、累進して管理局次長となる。1889年、官を辞し実業界に入る。 1889年、北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となり、渋沢栄一の勧めで1894年、札幌麦酒専務取締役、1906年、大日本麦酒常務取締役に就任、原料麦の改良、麦芽・ホップの国産化などにつとめた。
堀 豊彦(ほり とよひこ、1862年12月1日〈文久2年10… 堀 豊彦(ほり とよひこ、1862年12月1日〈文久2年10月10日〉 - 1932年〈昭和7年〉7月10日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員。 播磨国揖東郡、のちの兵庫県揖東郡小宅村(揖保郡小宅村、龍野町、龍野市を経て現たつの市)で、農業・堀甚三郎の息子として生まれる。郷学で学び、その後、1878年(明治11年)大阪の儒学者・藤沢南岳に師事し漢文学を学んだ。 帰郷して、家業の農業に従事。自由党に加わり、その党勢拡大に尽力。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(兵庫県第8区、憲政党)で初当選。1904年(明治37年)2月、兵庫県会議員に選出され、1906年(明治39年)に再選されたが、実業界に専念するため1907年(明治40年)県議を辞職した。
大村忠二郎(おおむら ちゅうじろう、1862年11月27日 … 大村忠二郎(おおむら ちゅうじろう、1862年11月27日 – 1921年9月3日)は岡山県出身の教育者。大阪府第一高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)初代校長で、大阪における女子教育の第一人者。
小杉 善助(こすぎ ぜんすけ、1862年11月23日〈文久2… 小杉 善助(こすぎ ぜんすけ、1862年11月23日〈文久2年10月2日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月8日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 先代善助の長男として、のちの福島市荒町に生まれる。1889年(明治22年)27歳で福島町会議員に当選。1894年(明治27年)福島蚕糸米穀取引所を設立し、翌年理事長。1903年(明治36年)福島県農工銀行監査役となり、1907年(明治40年)福島市会議長、1911年(明治44年)福島県会副議長を経て、1925年(大正14年)9月、福島市長に就任した。1929年(昭和4年)2月、在任中に死去した。
関口 松太郎(せきぐち まつたろう、1862年11月23日(… 関口 松太郎(せきぐち まつたろう、1862年11月23日(文久2年10月2日) - 1937年(昭和12年)12月29日)は日本の政治家。岩手県宮古町(現・宮古市)長、田老村(現・宮古市)長、岩手県会議員。 陸奥国閉伊郡花輪村(のち陸中国閉伊郡花輪村→岩手県東閉伊郡花輪村→下閉伊郡花輪村、現・宮古市)に生まれる。1883年東閉伊郡長沢村(のち花輪村)戸長役場書記となり、兵役を経て、東閉伊郡田鎖村外四ヶ村役場、東閉伊郡・北閉伊郡・中閉伊郡役所、下閉伊郡役所、重茂村長、下閉伊郡役所庶務兼財政課長などを経て、1908年宮古町長に当選する。その後、下閉伊郡会議員となり、1925年田老村長に就任する。1927年岩手県会議員に当選。
黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862… 黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862年11月20日〉- 大正9年〈1920年〉10月6日)は、日本の小説家、思想家、作家、翻訳家、ジャーナリスト。本名は黒岩 周六(くろいわ しゅうろく)。兄は黒岩四方之進。ペンネームの由来は、黒岩が愛読していた『紅涙香』に由来する。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等、歯月生などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材を行うことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報』を創刊した。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。 土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。
荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日… 荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日(文久2年9月28日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、日本の内務官僚・政治家。官選県知事、横浜市長、貴族院議員、錦鶏間祗候。 荒川利貞の長男として武蔵国豊島郡に生まれる。1884年、東京大学法学部を卒業し、内務省に入り御用掛となる。 1886年8月、岡山県書記官に就任。以後、内務省参事官、富山県・群馬県・神奈川県の各書記官、兼臨時横浜築港局次長などを歴任。 1897年11月、35歳の若さで鳥取県知事に就任。産業振興、賀露港修築を推進した。1899年5月、三重県知事に転じた。1900年1月、香川県知事となり、同年10月には長崎県知事に転じた。
大竹 多氣(おおたけ たけ/おおたけ たき、文久2年10月7… 大竹 多氣(おおたけ たけ/おおたけ たき、文久2年10月7日(1862年11月16日) - 大正7年(1918年)7月19日)は、日本の工学者。 専門は繊維工学。日本の染色技術、毛織物工業の近代化に貢献。学位は、工学博士。千住製絨所長を経て、米沢高等工業・桐生高等染織学校の初代校長を歴任。位階勲等は従三位勲二等。ペンネームは大竹美鳥、みどり、雅号碧玉。 父は会津藩士松田俊蔵である。会津時代の松田家は御薬園付近にあったが、藩の蝦夷地支配に従って同地に赴き、大竹は現在の北斗市に生まれた。四男であった大竹は慶応3年(1867年)に同藩士大竹作右衛門元一の養子となる。長兄精介は鳥羽・伏見の戦いに参戦し、箱館戦争を戦った。
久芳 直介(くば なおすけ、1862年11月14日(文久2年… 久芳 直介(くば なおすけ、1862年11月14日(文久2年9月23日) - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、官僚。台湾総督府税務官、台湾土地調査局事務官兼監督官、朝鮮総督府事務官・総務局人事課長、埼玉県司税官を務めた。 長門国厚狭郡二俣瀬村(現在の山口県宇部市)で生まれる。 大阪・英和学舎(現在の立教大学)を卒業した。 1886年、大蔵省御用掛に任命され、埼玉県収税属、埼玉県大蔵属を経て、1898年、埼玉県司税官に任命される。 1902年、台湾土地調査局事務官兼監督官に就任したのち、台湾総督府税務官を務める。 1904年、日韓協約が成立するとすぐに目賀田種太郎財政顧問補佐として韓国政府に招聘される。
森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文… 森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文久2年9月21日)- 1924年(大正13年)11月5日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国伊都郡丁ノ町村(和歌山県伊都郡妙寺村、妙寺町を経て現かつらぎ町)で、酒造業・森田正治の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して慶應義塾で学び、1882(明治15年)に帰郷した。父の隠居に伴い1883年(明治16年)4月に家督を相続した。 その後、英語、数学、漢学、修身、習字を教授する伊都郡自助私学校を設立し、夜間部も設け、英語教師に英文学者河島敬蔵を招き、地域の子弟の育成に貢献したが、1887年(明治20年)に閉校した。
西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日(文久… 西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日(文久2年9月18日) - 1897年(明治30年)3月15日)は、島根県出身の日本の教育者。小泉八雲が最も信頼を寄せた人物として知られる。 文久2年(1862年)、現在の島根県松江市雑賀町の西田家で長男として生まれた。父西田平兵衛は松江藩士で、明治維新後は県庁で働いた。 1876年(明治9年)5月に雑賀南小学校を卒業、同年9月に教員伝習校変則中学科(旧制松江中学校)に入学した。同窓には岡本金太郎、本庄太一郎、志立鉄次郎、長谷川辰之助などがいた。成績は常に首席であったが、1880年(明治13年)9月に同校を中退しすぐに授業手伝となった。翌1881年(明治14年)1月には教諭試補に任ぜられた。
串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2… 串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2年9月14日) - 1919年(大正8年)1月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。勲等は勲四等。 広島県安芸郡奥海田村(現・海田町)出身。奥海田村会議員、広島市会議員、広島県会議員となる。また、広島汽船、関西皮革各(株)取締役、広島電気軌道(株)監査役を務めた。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙において広島1区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙で落選。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙において立憲政友会公認で立候補して復帰した。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で落選。
嶺山 時善(みねやま ときよし、1862年11月4日(文久2… 嶺山 時善(みねやま ときよし、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1930年(昭和5年)10月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 鹿児島県出身。鹿児島師範学校卒(年代不明)。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において大島選挙区から無所属で立候補したが落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙で政友倶楽部公認で立候補して初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部から立候補したが落選した。以後の立候補はなく、1930年に死去した。
釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2… 釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1939年(昭和14年)1月19日)は、日本の海軍軍人。手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀、日露戦争では「龍田」「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎。 幕末の米沢に生まれる。海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一、川島令次郎らが同期生である。米沢では小森沢長政の影響があり、山下源太郎(10期)、上泉徳弥(12期)、黒井悌次郎(13期)、千坂智次郎(14期)、釜屋の弟である釜屋六郎(14期、のち中将)などの海兵進学が続き、のちに米沢の海軍と呼ばれることとなる。 釜屋は水雷練習所の教官や、水雷団長などを務めた水雷を専門とする士官であった。
河内 礼蔵(かわち れいぞう、1862年11月1日(文久2年… 河内 礼蔵(かわち れいぞう、1862年11月1日(文久2年9月10日) - 1927年2月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県種子島出身。西之表納曽生まれ。1885年(明治18年)6月、陸軍士官学校(旧7期)を卒業し歩兵少尉に任官。 日露戦争に出征。遼陽会戦前の1904年(明治37年)8月、前任の吉田貞中佐の戦死により歩兵第4連隊長に就任。1905年(明治38年)3月、戦傷を受け解任。1906年(明治39年)2月、歩兵第4連隊長に復帰し、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長に就任。 1915年(大正4年)2月、歩兵第35旅団長に転じた。
佐藤 潤象(さとう じゅんぞう、1862年9月19日(文久2… 佐藤 潤象(さとう じゅんぞう、1862年9月19日(文久2年8月24日) - 1953年(昭和28年)7月11日)は、日本の実業家、政治家。朝鮮鉄道などを設立したのち、衆議院議員(1期)。 熊本県出身。二松学舎で漢学を学び、同人社で英語を学ぶ。1883年、同郷の鎌田景弼が佐賀県令に任命されると池辺三山、高橋長秋と共に佐賀県属となり、22歳で会計を担当する。その後熊本県収税属、同県属、農商務省営林主事、同林務官補、同林務官を歴任。 この間、大韓帝国政府に招かれ、大倉喜八郎、高島義恭らと計り釜山埋築(株)を設立した。釜山港は貿易港として有望だが、周囲を丘山に囲まれ平地が狭隘であるという欠点があり、将来の京釜鉄道の開通に備えて、埋立による埠頭拡張が不可欠で、計画の実行には、韓国政府からの許可だけでなく、釜山在留の日本人居留民や京釜鉄道創立委員会の同意が必要だった。
木戸 豊吉(きど とよきち、文久2年8月24日(1862年9… 木戸 豊吉(きど とよきち、文久2年8月24日(1862年9月17日) - 昭和2年(1927年)3月15日)は日本の政治家。衆議院議員、京都府会議長。 1862年(文久2年)8月に丹波国上胡麻村(現京都府南丹市)に生まれる。京都府師範学校を卒業後、上京し、1890年(明治23年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する。 帰郷後、胡麻郷村村長に就任し、1910年(明治43年)10月に第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬し当選する。 衆議院議員の任期満了後、京都府会議員、同議長を務め、1921年(大正10年)に京都府知事若林賚蔵と対立し退任する。 その後、1924年(大正13年)に第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。
清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年… 清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年8月20日)‐ 1929年(昭和4年)10月21日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・告森、筆名・山本隆徳、号・鶴城。 伊予国宇和島城下御殿町(愛媛県北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で、宇和島藩士・告森桑圃の二男として生まれる。都筑荘蔵(鶴州)、上甲振洋の謹教堂で漢学を修めた。1877年(明治10年)北予変則中学校(松山中学校を経て現愛媛県立松山東高等学校)で学び、1881年(明治14年)大分県中津の慶應義塾支塾に入塾した。1880年(明治13年)頃、松山の民権結社「公共社」機関紙『海南新聞』編輯長に就任。1881年(明治14年)9月に上京し、1882年(明治15年)5月に千葉に移り『千葉総房共立新聞』幹事となる。
五代目 清元 延寿太夫(延壽太夫、ごだいめ きよもと えんじ… 五代目 清元 延寿太夫(延壽太夫、ごだいめ きよもと えんじゅたゆう、文久2年8月13日〈1862年9月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉5月22日)は、浄瑠璃太夫。本名は斎藤→岡村庄吉。東京都墨田区本所出身。 『残菊物語』のモデルになった、二代目尾上菊之助は実弟。実子が四代目栄寿太夫。孫が六代目清元延寿太夫。
伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8… 伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8月10日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(1期)。 伊藤長重郎の子。遠江国麁玉郡宮口村(現・静岡県浜松市浜名区宮口)出身。1881年(明治14年)7月、浜松中学校を卒業後上京し同人社に入るが1883年(明治16年)7月、退学する。東京専門学校に転じ1886年(明治19年)7月、卒業をもって帰郷し1888年(明治21年)2月、静岡県茶業組合連合会議員となり、1890年(明治23年)2月には静岡県会議員に当選した。ほか同副議長、同参事会員、中央茶業組合会議所議員、関東茶業会本部主事、宮口銀行頭取、宮口委託監査役などを歴任した。
松本 剛吉(まつもと ごうきち、文久2年8月8日(1862年… 松本 剛吉(まつもと ごうきち、文久2年8月8日(1862年9月1日) – 昭和4年(1929年)3月5日)は、衆議院議員、貴族院議員。旧名は松元剛吉。『松本剛吉政治日誌』で知られる。 丹波国氷上郡柏原町(現在の兵庫県丹波市)に、今井源左衛門の四男として生まれ、松元十兵衛の養子となった。中村正直の同人社に学んだ。1884年(明治17年)に、神奈川県警部に任命され、埼玉県警部、逓信属を歴任し、1894年(明治27年)に退官した。その後、第1次大隈内閣で林有造逓信大臣の秘書官となり、第4次伊藤内閣でも林農商務大臣の秘書官を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈… 上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈文久2年8月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉9月7日)は、日本の実業家、篤農家、名望家。蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神。ユーゴスラビア王国名誉領事。前名・秀之助。 1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年、家督を相続し前名秀之助を改めた。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。 16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校(現・立教大学)に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた。
細野 次郎(ほその じろう、1862年8月27日(文久2年8… 細野 次郎(ほその じろう、1862年8月27日(文久2年8月3日) - 1916年(大正5年)6月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡伊勢崎町(現在の群馬県伊勢崎市)の里正細野時敏と、渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作の姉の次男として生まれる[要出典]。東京帝国大学法科大学選科に学ぶ。鉱山業を営み、群馬県会議員、臨時治水調査会委員、群馬商工銀行、百工商会各(株)監査役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において群馬県郡部から壬寅会公認でで立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年の第10回衆議院議員総選挙では無所属で立候補してトップ当選した。
松田 協輔(まつだ きょうすけ、文久2年8月1日(1862年… 松田 協輔(まつだ きょうすけ、文久2年8月1日(1862年8月25日) - 没年不詳)は、日本の検事。広島県尾道市長。 周防国佐波郡串村(現在の山口県山口市)出身。1885年(明治18年)に司法省法学校を卒業し、翌年に広島始審裁判所詰の検事補となった。1887年(明治20年)、判事登用試験に合格し、検事となった。以後、広島地方裁判所検事、尾道区裁判所検事、広島控訴院検事、佐賀地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、仙台地方裁判所検事正、長崎控訴院検事、福岡地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正、樺太地方裁判所検事正、広島地方裁判所検事正、長崎地方裁判所検事正、安濃津地方裁判所検事正、大審院検事などを歴任した。