小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 19… 小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 1995年9月16日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1935年に神戸商業大学を卒業し、日本生命保険での勤務を経て、1937年12月に日本ペイントに入社。1944年2月に取締役に就任し、1946年2月に常務、1952年12月に専務を経て、1965年6月には社長に就任。1975年7月には会長に就任。 1973年4月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1995年9月16日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - … 早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - 1977年3月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。北海道奥尻島生まれ。 1929年旧制東京府立第五中学校を卒業後、朝鮮の金山や日本の喜茂別・大土森鉱山などに勤務。1940年早稲田大学理工学部採鉱冶金学科に入学、1943年に同学科を修業、1945年に早稲田大学専門部工科講師となる。1949年4月新制大学発足に伴い理工学部鉱山学科講師となり、同年10月助教授に昇進。1950年同大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「松尾硫黄鉱床の成因と採鉱」。退任まで鉱物学実験・岩石学実験などを担当、該博な知識と長年の実務経験を生かし、多くの学生を育てる。
柏木 千秋(かしわぎ ちあき、1911年〈明治44年〉10月… 柏木 千秋(かしわぎ ちあき、1911年〈明治44年〉10月22日 - 2003年〈平成15年〉2月21日)は、日本の法学者、弁護士、元判事。法学博士。専門は刑法。名古屋大学名誉教授。司法省事務官として内藤文質、森田宗一とともに1948年少年法の立法に携わった。 東京出身。三重県士族・柏木五百次郎の三男。静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1937年、東京帝国大学法学部卒業。東大在学中に司法試験に合格。 判事司法事務官などを経て、1949年、東京地方裁判所判事から、1949年、名古屋大学に転じ、名古屋大学法学部教授。1975年、名古屋大学を定年退官。 その後、筑波大学、慶應大学教授などを経て、1993年、創価大学教授を退職。
平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1… 平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1994年11月14日)は、日本の歴史学者。防衛大学校名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。
塚本 信男(つかもと のぶお、1911年10月22日 - 1… 塚本 信男(つかもと のぶお、1911年10月22日 - 1993年4月16日)は、日本の実業家。六甲バターの創業者。兵庫県出身。 1928年に大阪城東商業学校を卒業。1942年に東亜木工製作所を経営し、1943年に神戸港運を経て、1948年に六甲バターを設立し、社長に就任。1985年に会長に就任。 1984年11月に勲五等双光旭日章を受章した。 1993年4月16日呼吸不全のために死去。81歳没。
佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - … 佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - 2008年6月19日 )は、日本の有機化学者。民間財団法人経営者。理学博士。 1911年(明治44年)、佐々木隆興の長男として、東京に生まれた。東京高等学校修了後、東北帝国大学理学部化学科で学び、卒業。 卒業後は同大学副手に採用された。1945年、財団法人佐々木研究所研究員となり、理事を兼ねた。1958年、学位論文『グリシンから出発するアミノ酸の生成およびその関連反応について』を東北大学に提出して理学博士号を取得。1965年、慶應義塾大学教授に就任。1966年、父の佐々木隆興の後を受けて(財)佐々木研究所第2代理事長に就任。以後35年間理事長職にあったが、2001年に(財)佐々木研究所名誉理事長・特別顧問に引いた。
八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月2… 八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月21日 - 1999年(平成11年)11月9日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。位階は従四位。 北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父・田中好治、母・八木セイの次男(庶子)として生まれる。父の好治は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院(現在の市立室蘭総合病院)に務めていた。名医と評判であり、その後独立して室蘭市内に田中病院を開業している。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、小樽市の海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った。
石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2… 石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は、20世紀に活動した日本のファッションデザイナー。株式会社ヴァンヂャケット創業者。日本メンズファッション協会最高顧問。 高度経済成長期にあたる1960年代の日本に登場した男性ファッション「アイビールック」の生みの親で、“メンズファッションの神様”と呼ばれた。岡山県岡山市出身。石津祥介は長男、ファーストサマーウイカは曽姪孫。 岡山の紙問屋の次男として生まれる。岡山師範学校附属小学校から旧制第一岡山中学(現・県立岡山朝日高校)を経て、明治大学専門部商科に入学。スポーツ万能であるとともに流行の先端をいく遊びに長け、明大在学中はオートバイ・クラブ、自動車部、航空部などを創部した他、ローラースケート、乗馬、水上スキーなどにも興じた。
伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉… 伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉10月19日 - 没年不明)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。兵庫県川西市長(6期)。 三重県出身。1935年(昭和10年)京都帝国大学工学部機械学科卒業。大日本紡績に入り、1939年(昭和14年)入隊、1945年(昭和20年)除隊とともに退社。 1951年(昭和26年)日本精密機械工作社長、1960年(昭和35年)川西市商工会専務理事などを経て、1966年(昭和41年)の市長選で当時の小笠原新三郎市長を破って初当選。このとき、選挙ポスターで二連で並べて掲示すると公職選挙法の規定よりも上回るサイズのポスターになるのを使用し、陣営関係者が有罪判決を受けている。
大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月… 大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月19日-1999年 <平成11年> 12月1日)は、日本のキェルケゴール研究者。位階は正四位。 京都市出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒、1940年京都帝国大学大学院修了。1962年「キエルケゴールに於ける授受の弁証法」で京都大学文学博士。大阪外国語大学助教授、61年教授(デンマーク語)。77年定年退官、名誉教授、大阪樟蔭女子大学教授。1964年第一回田辺賞受賞。デンマーク・ダンネプロ・ナイト勲爵士。初期には西辺利仙の名で小説も書いた。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
日向 精蔵(精藏、ひなた せいぞう、1911年 <明治44年… 日向 精蔵(精藏、ひなた せいぞう、1911年 <明治44年> 10月19日 - 2006年 <平成18年> 5月14日)は、元駐スウェーデン大使。山口県出身。 1937年東京帝国大学法学部を卒業し外務省に入省。終戦時、国会法成立時に通訳としてかかわる。エクアドル、セイロン(現スリランカ)兼モルディブ、スウェーデン大使を歴任。2006年5月14日に肺炎のため死去。享年94。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ政治)。
平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 19… 平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 1993年7月2日)は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。 仙台市生まれ。1934年に東北帝国大学法文学部国史学科に入学し、村岡典嗣の指導を得て、1937年卒業。卒業論文は「承久の乱の史論と解釈」。1968年「吉川神道の基礎的研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。東北大学教養部助教授、教授、宮城教育大学教授。仙台の歴史などを研究した。1986年11月、勲三等旭日中綬章受章。
下河辺 三史(しもこうべ さんし、1911年10月16日 -… 下河辺 三史(しもこうべ さんし、1911年10月16日 - 1993年1月17日)は、日本の実業家。 日本鉱業(現・ENEOS)の社長を務めた下河辺建二の次男として東京府(現・東京都)に生まれる。兄の下河辺孫一は下河辺牧場の創業者となっている。 1932年高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)を卒業して日立製作所に入社。立憲政友会所属の衆議院議員・芦田均の長女・美世と結婚し、3男をもうけた。 戦後、義父の芦田が幣原内閣の厚生大臣として入閣すると、日立を退社して厚相秘書官となる。芦田が片山内閣の外務大臣就任にともない外相秘書官、芦田内閣発足と同時に首相秘書官となった。 その後、日立グループの商社・日製産業(現・日立ハイテク)に取締役営業部長として入社、1959年常務に就任。
青木 周吉(あおき しゅうきち、1911年10月14日 - … 青木 周吉(あおき しゅうきち、1911年10月14日 - 1981年7月1日)は、日本の経営者。東京都出身。 1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本興業銀行に入行。1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務を経て、1966年11月に東洋曹達工業(現在の東ソー)副社長に就任し、1968年11月には社長に昇格した。1979年6月から会長を務めた。 1981年7月1日心不全のために死去。69歳没。
山川 丈平(やまかわ じょうへい、1911年10月14日 -… 山川 丈平(やまかわ じょうへい、1911年10月14日 - 1983年11月17日)は、日本のドイツ文学者。 福岡県生まれ。1935年東京帝国大学文学部独文科卒。福岡県立修猷館高等学校教諭、九州大学教養部助教授、教授、75年定年退官、名誉教授、福岡歯科大学教授。
朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 19… 朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 1996年11月8日)は、元運輸事務次官および元日本航空社長。大阪府大阪市出身。丸紅社長の朝田照男は長男。 朝田栄治郎・玉夫妻の次男として生まれる。妻の久子は東洋綿花(現・トーメン)元代表取締役・田中彦三郎の長女。弟の朝田能雄は京都大学卒業後、三和銀行本店総務部長を経て、トーヨー・アド取締役社長を務めた。 生野中学、旧制浪速高校を経て、東京帝国大学法学部を卒業し、逓信省(総務省、日本郵政の前身)に入省。本所郵便局に配属。戦後の省庁再編で運輸省に移り、官房長、海運局長を経て、事務方トップの事務次官に就任。海運業界再編などを手掛けた。 退官後、政府の特殊会社だった日本航空に取締役として入社(天下り)、専務、副社長を経て、1971年社長に就任。
島本 義文(しまもと よしふみ、1911年10月12日 - … 島本 義文(しまもと よしふみ、1911年10月12日 - 没年不詳(戦死))は、和歌山県出身のプロ野球選手(捕手)。
斎藤 正直(さいとう まさなお、1911年10月11日 - … 斎藤 正直(さいとう まさなお、1911年10月11日 - 1994年4月7日)は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。明治大学文学部教授、学長も務めた。 東京外国語学校へ進むが学生運動で放校、小林秀雄の援助を受け、1934年明治大学文芸科に入学して里見弴、今日出海、豊島与志雄の教えを受け、豊島の娘と結婚。1939年には同人誌『批評』の創刊に参加。 戦後『近代文学』同人となり、助手から明大文学部仏文科助教授、教授として倉橋由美子らを教えた。ヴィクトル・ユゴー、ロマン・ロランなどを翻訳、長島良三、矢野浩三郎らの翻訳家を育てた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
本名 武(ほんな たけし、1911年10月10日 - 199… 本名 武(ほんな たけし、1911年10月10日 - 1994年4月12日)は、日本の政治家。位階は従三位。 沖縄開発庁長官(第2代)、総理府総務長官(第19代)。衆議院議員(通算当選10回)。三木武夫直系の政治家として知られている。 北海道現帯広市出身。旧制帯広中学校(現・北海道帯広柏葉高等学校)を経て1932年に武蔵高等工科学校(のちの新制武蔵工業大学、現東京都市大学)を卒業。本名木材社長を経て1942年帯広市議会議員に当選。1946年第22回衆議院議員総選挙に北海道政治同盟公認で立候補し初当選(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。
新郷 英城(しんごう ひでき、1911年(明治44年)10月… 新郷 英城(しんごう ひでき、1911年(明治44年)10月10日 - 1982年(昭和57年)11月27日)は、日本の海軍軍人、警察官、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、警察で警部補、空自で空将。 1911年10月10日佐賀県に生まれる。佐賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業、少尉候補生として「磐手」乗組、練習航海に出発。1932年7月20日、巡洋艦「羽黒」乗組。1933年2月25日、巡洋艦「愛宕」乗組。4月1日、少尉任官。10月1日、第25期飛行学生拝命。1934年7月2日、館山空付。11月11日、中尉。1935年10月15日、空母「龍驤」乗組。
秦野 章(はたの あきら、1911年10月10日 - 200… 秦野 章(はたの あきら、1911年10月10日 - 2002年11月6日)は、日本の官僚・政治家。
玉村 竹二(たまむら たけじ、1911年10月9日 - 20… 玉村 竹二(たまむら たけじ、1911年10月9日 - 2003年11月11日)は、禅宗の研究者、東京大学史料編纂所教授であった。
永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日… 永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日 - 1998年(平成10年))は、日本の航空技術者、実業家。元海軍技術少佐、元石川島播磨重工業(IHI)副社長。国産のジェットエンジンを開発した技術者。
河野 秋武(こうの あきたけ、1911年〈明治44年〉10月… 河野 秋武(こうの あきたけ、1911年〈明治44年〉10月8日 - 1978年〈昭和53年〉3月17日)は、日本の俳優。旧芸名は山崎 進蔵。 長崎県南高来郡安中村新港(現在の島原市)の生まれ。父は公務員で、六人兄弟の次男として生まれる。県立島原中学(現長崎県立島原高等学校)から東京物理学校(現東京理科大学)に進学するが1930年(昭和5年)11月に中退、1931年(昭和6年)11月に前進座のプロレタリア演劇研究所に入ったのち、前進座の座員として舞台に立つ一方、1933年(昭和8年)に前進座ユニット出演の映画『段七しぐれ』に顔出し出演する。 1939年(昭和14年)に応召、1940年(昭和15年)8月に除隊し前進座に復帰。
建部 仁彦(たけべ まさひこ、1911年(明治44年)10月… 建部 仁彦(たけべ まさひこ、1911年(明治44年)10月8日 - )は日本の建設官僚、実業家。父は社会学者の建部遯吾。 新潟県中蒲原郡横越村横越出身 東京帝国大学卒 1936年 北海道庁に入庁。 1937年 大蔵省、 1942年 陸軍省、 1944年大蔵省に出向。終戦を経て、1947年 経済安定本部、1950年 建設省に出向。1962年 建設省 営繕局長に就任。1964年 住宅金融公庫 理事に就任。退官後は、1967年 三井建設㈱ 常務取締役に就任。1973年 三井建設㈱ 顧問に就任。また同時に 三井プレコン㈱ 顧問、資生堂開発㈱ 取締役を兼務。 建設省営繕局長時代、1964年東京オリンピック開催に向けて国立代々木競技場の建設に係る当時の参議院オリンピック準備促進特別委員会の議場において政府委員として出席答弁した。
安浪 栄基(やすなみ えいき、1911年10月8日 - 19… 安浪 栄基(やすなみ えいき、1911年10月8日 - 1994年9月7日)は、日本の経営者。福岡放送社長を務めた。熊本県出身。 1935年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に九州水力電気(のちの九州電力)に入社した。1966年に取締役に就任し、1969年には福岡放送に転じ、専務に就任し、1974年には社長に昇格。1987年に取締役相談役に就任し、1991年から相談役に就任した。 1994年9月7日胃癌のために死去。82歳没。
渡辺 実(わたなべ みのる、1911年10月8日 - 197… 渡辺 実(わたなべ みのる、1911年10月8日 - 1978年3月30日)は、日本の日本史学者。 山梨県生まれ。1941年、日本大学法文学部史学科卒業。1968年、「未解放部落史の研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。名古屋大学助教授、文部省教科書調査官を経て、1967年に日本大学教授。
石田 充之(いしだ みつゆき、1911年10月8日 - 19… 石田 充之(いしだ みつゆき、1911年10月8日 - 1991年8月2日)は、浄土宗・浄土真宗の仏教学者。 山口県出身。旧姓は杉。龍谷大学卒、龍谷大学助教授、1957年教授、1972年退任、名誉教授。1973年浄土真宗本願寺派勧学となる。1962年「法然門流初期教学の基礎研究」で東洋大学文学博士。真宗教理史の研究で知られた。
冷水 茂太(ひやみず しげた、1911年(明治44年)10月… 冷水 茂太(ひやみず しげた、1911年(明治44年)10月8日 - 1986年(昭和61年)10月3日)は、日本の歌人。土岐善麿の高弟として評伝などや研究書を執筆したほか、善麿と関わりの深かった石川啄木についての研究も残した。 東京生まれ。早稲田大学専門部法科在学中の1932年(昭和7年)に「短歌街」創刊に参加した。1934年(昭和9年)に卒業後は詠歌に専念し、多くの歌人と親交を持った。 1957年(昭和32年)に横田専一らと「橋」を創刊し、1972年(昭和47年)には土岐善麿を中心とする文芸誌「周辺」の編集者ともなる。1981年(昭和56年)には自身の歌が収録された「短歌周辺」を創刊した。 運輸省勤務を経てトヨタ自動車の役員を歴任した。
吉倉 真(よしくら まこと、1911年10月7日 - 200… 吉倉 真(よしくら まこと、1911年10月7日 - 2003年3月27日)は、日本のクモ学者。正字では眞。福井県出身。 1911年、福井県生まれ。1943年広島文理科大学卒業。阿部余四男教授の下、「ジグモの糸腺の組織学的研究」という卒業論文を作成。熊本大学名誉教授、九州クモの会会長。1984年、勲三等旭日中綬章を受章。2003年3月27日午後1時10分、老衰のため岐阜市の病院で死去(自宅は岐阜県各務原市)。91歳没。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
安斎 実(あんざい みのる、1911年10月7日 - 199… 安斎 実(あんざい みのる、1911年10月7日 - 1997年12月22日)は、ライフル選手、砲術史研究家。 東京出身。暁星中学校卒、1935年明治大学卒。中学時代から射撃を始め、1950年全日本選手権、51年国体で優勝、1969年JOC常任委員、監督としてオリンピックに六回出場、86年のアジア大会では選手団長、87年日本ライフル射撃協会会長、のち名誉会長。三協食品工業勤務、相談役。砲術史についても著作がある。
松平 佳子(まつだいら よしこ、1911年(明治44年)10… 松平 佳子(まつだいら よしこ、1911年(明治44年)10月6日 - 2006年(平成18年)6月28日)は、日本の元公族。高松松平伯爵家分家の海軍大佐松平胖と妻俊子の長女。初名は松平佳子。伯爵廣橋眞光の養妹となって廣橋誠子となり、李鍵公(桃山虔一)の妃李誠子となる。戦後に李鍵の改名に伴って桃山佳子を名乗り、1951年(昭和26年)に離婚して生家の姓に戻した。 李鍵の叔父にあたる李王垠の妃の方子女王(李方子)とは、共に鍋島直大の娘を母とする従姉妹である。 1911年(明治44年)松平胖と妻俊子の第2子、長女として誕生した。父は松平頼聡伯爵の十男であり、母は鍋島直大侯爵の娘であった。1930年(昭和5年)、実践女学校在学時、関東大震災への援助に対する返礼として時事新報が企画した遣米答礼使の一人となり、監督者として同行した母・俊子とともに約1か月滞米する。
坂野 比呂志(さかの ひろし、1911年(明治44年)10月… 坂野 比呂志(さかの ひろし、1911年(明治44年)10月6日 - 1989年(平成元年)5月25日)は、昭和時代の漫談家。活動弁士を経て、浅草名物の芸人となった。ガマの油売りやバナナの叩き売り等の物売り芸(大道芸)で、1982年(昭和57年)第37回文化庁芸術祭大衆芸能部門1部大賞受賞。 東京・深川に生まれる。活動弁士・熊岡天堂の弟子となった後、浅草オペラの田谷力三や榎本健一の舞台を踏み、軽演劇、漫才、漫談、司会など、スタイルを変えながらも、第二次世界大戦前後も浅草を離れることなく芸能活動を続けた根っからの「浅草芸人」で、浅草の生き字引と呼ばれた。 1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から命令を受けた松竹演芸部の仕事で慰問団の一員として満州に渡り「比呂志・美津子」の名で夫婦漫才を行なった。
徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明… 徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明治44年〉10月5日 - 1995年〈平成7年〉7月19日)は、日本の俳優、実業家。慶應義塾大学中退。 赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんの店に、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎がよく訪れていたのがきっかけで、実弟である後の七世尾上梅幸が養子となる。 慶應義塾大学中退後、1932年に松竹に入社。当初は文芸係兼舞台監事として勤務していたが、松竹社長の大谷竹次郎の推薦で俳優に転向。松竹蒲田撮影所に転籍する。翌年、『大学の若旦那』でデビュー。当初の芸名は大綱豪であったが、名前が強すぎるとのことで、徳大寺伸に変更する。芸名の由来は、徳大寺の大は当時の松竹社長であった大谷社長の大の字をとり、伸は長谷川伸の伸の字をとったとのことである。
安田 潤(やすだ じゅん、本名:安田凖之助 、1911年(… 安田 潤(やすだ じゅん、本名:安田凖之助 、1911年(明治44年)10月5日 - 1989年(平成元年)1月12日)は、日本の口笛奏者。初代安田善次郎が総帥の旧安田財閥一門の出自ながら数奇な運命を辿った末、40歳半ばで趣味の口笛の音楽化を志す。以後、「口笛は詞(言葉)がない歌」を信条にして独学で研鑽を重ね、日本初の口笛ソリストとして活躍した。 口笛は、通常息を吐きながら音を出すが、安田は息を吸い込みながら高音を出す奏法も行ない、その倍音を響かせた音色は聴衆を魅了した。キングレコードで制作・発売されたLPレコード3作のうち2作は国立国会図書館に収蔵されている。なお、2025年(令和7年)2月、LPレコード3作の代表曲がキングレコード㈱の音楽配信で再販復活した(詳細は後掲ディスコグラフィ欄に記載)。
伊藤 清敏(いとう きよとし、1911年10月5日 - 20… 伊藤 清敏(いとう きよとし、1911年10月5日 - 2008年8月10日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長を務めた。 兵庫県出身。1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に住友海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)に入社。1965年6月に取締役に就任し、1967年6月に常務、1970年6月に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1974年1月には社長に昇格。1979年7月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2008年8月10日に胆管癌のために死去。96歳没。
小山 清(こやま きよし、1911年(明治44年)10月4日… 小山 清(こやま きよし、1911年(明治44年)10月4日 - 1965年(昭和40年)3月6日)は、日本の小説家。太宰治の門人としても知られる。 東京府東京市浅草区新吉原(現在の東京都台東区千束)の廓内に生まれる。生家は兼東楼という貸座敷業を営んでいたが、盲目の父は家業に関係せず義太夫を謡っていた。 府立三中を経て、明治学院中等部卒業。18歳のとき人生への煩悶から洗礼を受けるも、数年で脱会。母の死後、一家離散の憂き目を見る。島崎藤村の世話で日本ペンクラブ初代書記になるも、公金を使い込み、水戸刑務所に8ヶ月間服役する。出所後、下谷竜泉寺町界隈で新聞配達をしていたが、1940年に太宰治の門人となる。
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉1… 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。
橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月… 橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。 大阪電気軌道入社後、近鉄百貨店(近畿日本鉄道百貨店部)勤務を経て、京都近鉄百貨店(旧・丸物、現在の近鉄百貨店)で社長を務めた。 広島県尾道市出身。日本画家の橋本関雪と姻戚関係にあり、子供時代は画家になりたいと思っていた。しかし、関雪の一門であった叔父から「画家で飯は食えない」と言われたことから、グラフィックデザイナーに志望変更し、京都工業専門学校(現在の京都工芸繊維大学)図案課へ進学した。 尾道へ帰省の時は丸物本店で土産を買って帰っており、創業時の建物の北側に鉄筋コンクリート造の新館ができているのを目にしていた。
高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 … 高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 - 1993年6月27日)は、医療研究家、文筆家。 東京市小石川区(現:東京都文京区)に東洋大学学長などを務めた高島米峰の三男として生まれる。東京府立第五中学校を経て、法政大学文学部国文科卒。東京宝塚劇場文芸部勤務、1939年中央公論社勤務、1949年学風書院を創設。健康雑誌『主治医』編集長、日本植物友の会参与、松葉を食べる会主宰。
武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月… 武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月2日 - 2000年(平成12年)4月22日)は、日本の理論物理学者。理学博士。三段階論、技術論で知られる。 福岡県生まれ。台北高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業後、湯川秀樹、坂田昌一の共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進めた。その一方、中井正一、久野収らと共に、反ファシズムを標榜する雑誌『世界文化』『土曜日』に参加するなどしたため、2度にわたって検挙された。戦時下には理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(ニ号研究)にも関わっていた。1943年にロシア人医師ピニロピ(バルチック艦隊艦長の孫。後に武谷病院を開設)と結婚。 終戦後は、鶴見俊輔らと『思想の科学』を創刊。
相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1… 相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1982年11月28日)は、日本の経営者。東京都出身。 旧制成蹊中学校を経て、1936年に東京商科大学を卒業し、後に三菱江戸川化学(のちの三菱ガス化学)に入社。取締役、1964年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1956年のメルボルンオリンピックと1964年の東京オリンピックで馬術チームの監督も務めた。第4回全日本学生馬術選手権大会で優勝。子・相川一成も成蹊学園出身の第32回全日本学生馬術選手権大会優勝者であり、親子2代の優勝が報道された。 1982年11月28日肺炎のために死去。
阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9… 阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9月27日)は青森県青森市出身の料理研究家。本名は阿部チヨ。 青森高等女学校卒業。故郷で洋画家阿部合成と結婚して上京。26歳の時、人間国宝の堀柳女に師事し人形作家となる。日展、伝統工芸展などに次々と入選し、人形作家としての地位を築いた。3人の子に恵まれたが、離婚することとなり、人形では生活できないため料理の道に入った。1959年に東京上野のみちのく料理店「北畔(ほくはん)」を構えた。料理家としてテレビ番組出演や原稿執筆で活躍した。 娘は山口絵里、孫は河合真理。
宇高 基輔(うだか もとすけ、1911年10月1日 - 19… 宇高 基輔(うだか もとすけ、1911年10月1日 - 1994年4月23日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。マルクス経済学を研究した。 岡山県生まれ。旧制閑谷中(現:岡山県立和気閑谷高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1936年東京帝国大学経済学部卒。戦後、東京大学社会科学研究所助教授、教授、1972年定年退官。また、専修大学教授を務めた。1994年4月23日、肝不全のため死去。
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 19… 椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。本名は大坪 昇(おおつぼ のぼる)。
小西 秀次(こにし しゅうじ、1911年10月1日 - 19… 小西 秀次(こにし しゅうじ、1911年10月1日 - 1990年7月17日)は、日本の実業家。キリンビール社長、会長を務めた。三重県出身。 1937年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年にキリンビールに入社。 1966年に横浜支店長に就任し、営業部長、取締役、常務、専務を経て、1978年4月から1984年4月までに社長を務め、1984年4月から1988年までに会長を務めた。1988年から顧問を務めた。 専務在任時から1976年にはビール販売シェア63.8%と史上最高を達成し、シェア60%台を維持するなどキリンの黄金時代を築き上げた。 1990年7月17日、急性心筋梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月… 西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月1日 - 1999年(平成11年)2月14日)は、日本の実業家。西川産業社長、昭和西川社長,大阪西川社長、京都西川会長。 現在の滋賀県近江八幡市出身。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の五男として1911年に生まれる。西川産業会長、参議院議員、北海道開発庁長官を務めた十三代西川甚五郎は実の兄。慶應義塾大学経済学部を卒業し、1967年に西川産業の社長に就任した。 1968年にはグッドデザイン賞を初受賞し、1970年には新合繊わたファロンを開発した。他にも、積極的に業界初の試みをしていった。1971年にはデザイナー ウンガロとデザイン提携をし、1972年には森英恵やmarimekko社と提携した。
南波 冀志(なんば きし、明治44年(1911年)10月 -… 南波 冀志(なんば きし、明治44年(1911年)10月 - )は日本の公務員、郷土史家。本名熊夫。 鳥取県日野郡江府町出身。 昭和4年(1929年)10月広島逓信講習所松江支所卒業。松江郵便局採用、以来電信電話事業に従事、鳥取電気通信部庶務課長、鳥取電報電話局次長、郡家電報電話局長歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
加藤 琢治(かとう たくじ、1911年9月30日 - 199… 加藤 琢治(かとう たくじ、1911年9月30日 - 1999年7月2日)は、日本の経営者。ニチロ社長を務めた。新潟県出身。 1939年に京都帝国大学法学部を卒業し、1943年にニチロに入社。1966年1月に取締役に就任し。1970年1月に常務、1973年1月に専務、1974年1月に副社長を経て、1975年1月に社長に就任。1981年2月に取締役相談役を経て、1982年2月に相談役に就任。 1996年に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年7月2日肺炎のために死去。87歳没。
麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月… 麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月29日 - 1980年〈昭和55年〉12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。衆議院議員(3期)。第92代内閣総理大臣麻生太郎の父。 1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町(現・飯塚市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を卒業し、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現・九州大学)法文学部聴講生。1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年(昭和9年)に社長となる。1935年(昭和10年)、帝国軍人後援会福岡県支会経費として2000円寄付により1937年(昭和12年)褒状下賜。