スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小田 滋(おだ しげる、1924年〈大正13年〉10月22日… 小田 滋(おだ しげる、1924年〈大正13年〉10月22日 - 2025年〈令和7年〉9月4日)は、日本の法学者。位階は従三位。専門は国際法で特に海洋法。学位はS.J.D.(イェール大学・1953年)、法学博士(東北大学・1962年)。東北大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章、瑞宝大綬章受章。弁護士。 東北大学法学部教授、国際司法裁判所判事、国際司法裁判所副所長などを務め、1976年2月6日から2003年2月5日まで3期27年間にわたり国際司法裁判所の判事であった。 1924年、北海道札幌市で生まれた。10歳から台湾・台北市で育った。台北高等学校尋常科・高等科を経て、東京帝国大学法学部政治学科に進学。
桑原 住雄(くわばら すみお、1924年7月15日 - 20… 桑原 住雄(くわばら すみお、1924年7月15日 - 2007年12月15日)は、日本の美術評論家。 広島県広島市生まれ。幼少時、両親とともに台湾に渡り旧制台北高校から東京帝国大学に進む。三重海軍航空隊を経て広島で原爆投下により被爆。戦後復学して美術史を専攻。同大学院修了ののち東京新聞社勤務を経て朝日新聞社企画部に入社。1977年筑波大学教授に転じ、その後武蔵野美術大学教授に就任。世田谷美術館開設準備委員など数多くの美術館運営にも参画した。 1993年、脳出血に倒れ療養生活に入り、2007年12月15日心不全で死去。 美術記者として戦後の美術界を精力的に取材してまわった一方、1960年代初頭には米国務省の招聘で渡米し、アメリカ美術の紹介でも先駆的役割を果たした。
川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年(大正11年)4月1… 川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年(大正11年)4月18日 - 2005年(平成17年)12月3日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。日本統治時代の台湾の台南市生まれ。台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学法学部へ進む。1943年(昭和18年)から学徒動員で従軍し、台湾最南端の地で終戦を迎える。1946年(昭和21年)春に鹿児島県川辺町に引き揚げて、大学に復学し卒業。 高校教諭、参議院議員秘書などを経て、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で社会党公認で旧鹿児島1区に立候補し落選、3度目の挑戦となった1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で初当選する。
橋本 南海男(はしもと なみお、1922年〈大正11年〉1月… 橋本 南海男(はしもと なみお、1922年〈大正11年〉1月8日 - 1997年〈平成9年〉12月11日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。群馬県出身。 1922年、群馬県富岡市出身の父・市郎の子として台湾に生まれる。台南市旧制第一中学校、旧制台北高等学校理科甲類卒。1944年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1946年に沖電気工業に入社した。1970年に取締役に就任し、1975年に常務、1979年6月に専務を経て、1982年5月に社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1992年10月に相談役を経て、1993年6月に特別顧問に就任。通信機械工業会会長も務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等瑞宝章を受章。
上山 春平(うえやま しゅんぺい、1921年1月16日 - … 上山 春平(うえやま しゅんぺい、1921年1月16日 - 2012年8月3日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授。従三位。紫綬褒章受章者、文化功労者、勲二等授旭日重光章受章。 1921年、台湾で生まれた。台北高等学校で学び、高校時代から哲学や宗教に関心を持った。京都帝国大学文学部哲学科に進んだが、太平洋戦争の戦局悪化により徴兵され、1943年に卒業。その後は海軍に入隊した。人間魚雷「回天」での出撃経験を持つが、死を免れた。 戦後は1948年に和歌山県立田辺高等学校教諭となった。同年、愛知第二師範学校助教授に就いた。1954年、京都大学人文科学研究所助教授に転じた。1968年に教授昇格。1982年、第11代京都大学人文科学研究所所長に就任。
中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 20… 中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 2010年6月24日)は、日本の地理学者(地形学・地図学)。(旧)東京都立大学名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。 台湾にて生まれる。台北高等学校を卒業後、上京する。1942年東京帝国大学地理学科卒業後、地理調査所技官に任官。 1962年10月、(旧)東京都立大学教授就任。1984年3月定年退職。 第四紀学の諸分野のうち、地形とくに平野の地形学を発展させ、さらに災害・土地保全研究を行った。 1984年6月 東京都立大学名誉教授。 1994年11月 勲三等旭日中綬章受章。 平成22年6月24日没。享年90。墓所は青山の梅窓院。
有馬 元治(ありま もとはる、1920年〈大正9年〉1月1日… 有馬 元治(ありま もとはる、1920年〈大正9年〉1月1日 - 2006年〈平成18年〉12月15日)は、日本の内務・労働官僚、政治家。労働事務次官、衆議院議員(6期)、防衛政務次官、自由民主党国防部会長。鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)出身。 台北高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業後の1941年(昭和16年)12月、内務省(東京府属)に入省したが、わずか2週間後の1942年(昭和17年)1月、短期現役海軍主計科士官八期生として海軍経理学校に入学し、海軍主計中尉に任官。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進む。終戦後、海軍から内務省に復帰後は、内閣官房内閣参事官、中央労働委員会事務局長、労働省職業安定局長などを経て、1968年(昭和43年)労働事務次官に就任。
王 育霖(おう いくりん、台湾語: Ông Io̍k-lîm… 王 育霖(おう いくりん、台湾語: Ông Io̍k-lîm、1919年 - 1947年)は、台湾の検察官。日本本土初の台湾人検事。二・二八事件で中華民国政権により処刑される。台南市出身。 言語学者、台湾独立活動家の王育徳は弟。 旧制台北高等学校尋常科、同高等科を経て、東京帝国大学法科(東大法学部)卒業。東大在学中に高等試験司法科合格。東大の恩師の田中耕太郎(後に最高裁判所長官)や小野清一郎の推薦もあり、日本初の台湾人検事として京都地方裁判所に勤務した。 第二次世界大戦後、台湾に戻り、新竹市で検事として勤務した。台北市立建国高級中学(旧台北一中)の教師も務めた。 李筱峰によれば、二二八事件の掃討期間に、王育霖は私服憲兵や警察に逮捕され、保安司令部第二処(もと西本願寺)に監禁・拷問された後、三月末に処刑され、遺体は現在も見つかっていない。
武田 隆夫(たけだ たかお、1916年6月26日 - 198… 武田 隆夫(たけだ たかお、1916年6月26日 - 1986年10月11日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。マルクス経済学専攻。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)出身。気象台勤務の父の転勤で旧制台北第一中学校、台北高等学校を経て、1939年東京帝国大学経済学部卒。大内兵衛に師事。東京大学助教授、1952年教授。1967年学部長。1977年定年退官、名誉教授、東京経済大学教授。地方財政審議会長。
吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 19… 吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 1999年8月22日)は、日本の大蔵官僚。経済企画庁長官官房長、理財局長、国税庁長官、中小企業金融公庫総裁、日本開発銀行総裁などを務めた。 台湾出身。旧制台北高等学校卒業。1937年10月、高等試験行政科合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年、大蔵省入省。主税局属。主計局第四課長、主計官、大臣官房秘書課長、為替局企画課長、大臣官房財務調査官(大臣官房担当)、理財局総務課長、主計局総務課長と、課長時代は1官房、3課を横断していた。主計局次長(次席)、大臣官房財務調査官(理財局証券担当)などを経て、1961年6月16日 理財局次長。1962年5月15日 経済企画庁長官官房長。
佐々木 正(ささき ただし、Tadashi Sasaki、1… 佐々木 正(ささき ただし、Tadashi Sasaki、1915年〈大正4年〉5月12日 - 2018年〈平成30年〉1月31日)は、日本の電子工学の科学者。シャープ元副社長。工学博士。「ロケット・ササキ」の異名を持つ。 島根県浜田市で生まれ、小学生時代に台湾の小学校へ転校。旧制台北高等学校を経て、1938年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。台北高等学校で卒業研究として、マンゴーとリンゴを接ぎ木する等のマンゴーの品種改良に取り組む。アップルマンゴーは「この研究がきっかけでできた」と佐々木は説明している。 大卒後、当時の川西機械製作所(後に富士通と合併)へ入社。第二次世界大戦中はレーダー技術を獲得するためにシベリア鉄道でドイツに渡り、対空レーダーのウルツラウスの技術の習得のために派遣されたが、命からがら潜水艦の「Uボート」で帰国した。
西村 睦男(にしむら むつお、1915年1月31日 - 20… 西村 睦男(にしむら むつお、1915年1月31日 - 2006年3月9日)は、日本の地理学者。京都大学教授・奈良大学教授・奈良大学学長を歴任。 1915年、山口県厚狭郡楠町(現宇部市)で生まれた。幼少期に台湾へ移住。旧制台北一中、台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学文学部地理学科に進んだ。1938年に卒業。卒業論文は「台北市の地理学的研究」、自身も育った植民地都市の空間構造を考察したものであった。 卒業後は、京都・嵯峨野高等女学校など高等学校教員として13年間地理の中等教育に当たった。1951年、京都大学教養部助教授に着任。教養部人文地理学教室には藤岡謙二郎が在籍しており、共に教学にあたった。
工藤 篁(くどう たかむら、1913年5月27日 - 197… 工藤 篁(くどう たかむら、1913年5月27日 - 1974年12月11日)は、日本の中国語・文学者、東京大学名誉教授。 台湾台北州宜蘭市で小島義夫の子として生まれ、台湾総督府官吏の工藤清の養子となる。1932年台北高等学校卒、1936年東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科卒業。在学中より竹内好らの中国文学研究会に入る。1939年東京商科大学予科講師、1940年教授。1949年一橋大学助教授、1950年3月東京大学教養学部中国語助教授、1963年教授、1974年3月定年退官、名誉教授、同年12月に死去。 1950、60年代の数少ない東大教養課程中国語教員として、多くの学生を現代中国研究者へと導いた。
甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 20… 甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 2001年9月2日)は、日本の外交官。外務省経済協力局長、駐マレーシア特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 日本統治時代の台湾の台北市生まれ。旧制台北高等学校を経て、外交官試験に合格し、1933年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。特別調達庁東京特別調達局契約部長等を経て、1952年在ジャカルタ日本国総領事館総領事。1955年在ベルリン日本国総領事館総領事。1961年外務省大臣官房審議官。同年外務省経済局経済協力部長。1962年外務省経済協力局長。1963年特命全権大使マレーシア国駐箚。1967年特命全権大使オーストラリア国駐箚。
岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 … 岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の台湾総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 台湾出身。出生時より岸田氏に養子に出される。岸田氏は、京都府舞鶴市野村出身。岸田氏方の親戚には岸田久吉、岸田正吉などがいる。実父方の森氏は奄美大島で銃火薬を扱っていた家系である。実母方は大森氏で宮崎県出身。 台北第一師範学校附属小学校、台北高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。台湾総督府に勤務。同総督府では、法制事務を所管する官房審議室、書記官、台南州北門郡郡守などを歴任。 終戦後は台湾総督府残務整理事務所で勤務後に日本に引揚げ、国会職員として勤務。
武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月… 武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月2日 - 2000年(平成12年)4月22日)は、日本の理論物理学者。理学博士。三段階論、技術論で知られる。 福岡県生まれ。台北高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業後、湯川秀樹、坂田昌一の共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進めた。その一方、中井正一、久野収らと共に、反ファシズムを標榜する雑誌『世界文化』『土曜日』に参加するなどしたため、2度にわたって検挙された。戦時下には理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(ニ号研究)にも関わっていた。1943年にロシア人医師ピニロピ(バルチック艦隊艦長の孫。後に武谷病院を開設)と結婚。 終戦後は、鶴見俊輔らと『思想の科学』を創刊。
阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996… 阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996年8月9日)は、日本の魚類学者。とりわけ東アジアのフグの分類に関する業績を残している。1949年にフグ科の属としてトラフグ属を提案している。この他、数々の新種を発見し、また、献名も多く受けている。『日本産魚類図説』の編纂に第49巻より携わる。 1911年(明治44年)4月3日、東京の田端に生まれる。1919年(大正8年)、家族で台湾に移住する。1932年(昭和7年)に台北高等学校を卒業後、魚類学の道に進むため上京して東京帝国大学理学部動物学科に入学する。田中茂穂に師事する。1935年(昭和10年)、同学科を卒業し、東京帝国大学理学部大学院に進学する。
池ノ上 容(いけのうえ ひろし、1910年(明治43年)12… 池ノ上 容(いけのうえ ひろし、1910年(明治43年)12月7日 - 2003年(平成15年)4月18日)は、日本の造園研究者。国立公園行政家。千葉大学園芸学部教授を歴任。国立公園創設期から国立公園行政に携わり終生自然公園と共に歩んだ先覚者。鹿児島県生まれ。台湾育ち。 旧制台北高等学校を経て1933年(昭和8年) 東京帝国大学農学部林学科を卒業。1933年(昭和8年) 内務省嘱託となり、衛生局保健課国立公園係に就任。当時内務省に入ったころはまだ国立公園の指定準備が進められている時期で、入省後間もなく中部山岳地域の現地調査に赴き何カ月も北アルプスの山々を歩き回り、5万分の1地形図に記載されている歩道は全て歩いたという。
浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1… 浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1月16日 - 1973年3月26日)は日本統治時代の台湾で活躍した日本の小説家。代表作は『南方移民村』。 宮城県仙台市生まれ。旧制台北高等学校を経て、東北帝国大学卒業後、台湾で教員となる。小説を西川満が主宰する『文芸台湾』に発表。1943年(昭和18年)、『南方移民村』で台湾文学賞を受賞。戦後は郷土を題材とした作品を執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
魏 火曜(ぎ かよう、英語: WEI Huo-yang、19… 魏 火曜(ぎ かよう、英語: WEI Huo-yang、1908年11月29日-1995年2月6日)は、台湾の医師。国立台湾大学医学部教授、同大学附属病院院長をつとめた。高雄医学大学第2代学長。 1908年、新竹庁生まれ。台北高等学校で学び、1933年に卒業。1937年、東京帝国大学医学部を卒業して医師となる。その後も同大学大学院に進み、1942年に同大学の医学博士号を取得した。医師として小児科を専攻し、卒業後は東京大学医学部助手となった。台湾へ帰国してからは赤十字会台湾支部病院の小児科主任として勤務すると同時に、医療体制の拡充につとめた。 太平洋戦争終結後、1945年11月15日に台北帝国大学が国民政府に接収され、同年12月に国立台湾大学が発足。
蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 19… 蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 1988年11月1日)は日本統治時代の台湾及び中華民国の法律家、法学者。 蔡章麟は旧制台北州立台北二中、旧制台北高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し同年に高等試験行政科に及第した。34年に高等試験司法科に及第すると、35年には判事に任官、青森地裁、神戸地裁、大阪地裁各判事を歴任し終戦時には大阪地裁所長だった。 台湾が日本領から中華民国領になると、蔡は日本の裁判所を退官し台湾に帰国、47年には台湾省行政長官公署法制委員会委員、台湾省政府法制室参事、台湾大学民事訴訟法教授に任命された。48年には台湾大学法学院学生部長に任命された。
永田 靖(ながた やすし、1907年10月11日 ‐ 197… 永田 靖(ながた やすし、1907年10月11日 ‐ 1972年9月12日)は、日本の俳優。 長崎県島原市出身。台北高等学校文科卒業。その後上京し、1930年に新築地劇団に入る。久保栄演出の『新説国姓谷合戦』で初舞台を踏んだ。1934年の日本新劇祭で真山青果原作の『玄朴と長英』で高野長英を演じて好評を得た。1935年、『なみだの母』で映画初出演。1938年応召される。1940年に除隊するが、新築地劇団は強制解散させられた。以後、日活(合併後は大映)の映画に出演し、『将軍と参謀と兵』などで軍人の役を演じた。また、東宝演劇研究会を経て、丸山定夫らと苦楽座に入った。1945年に再び応召。戦後は第2次新協劇団をへて、1948年に、俳優座に入団した。
太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 198… 太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 1984年11月26日)は、日本の歴史学者。専攻は西洋史、特にドイツの宗教改革史。 東北帝国大学法文学部で大類伸に師事し、1933年に卒業。東京文理科大学の嘱託、助手となった。一方で、東京高等師範学校書記、助教授を兼務し、1939に東京高等師範学校助教授専任となる。 1942年、台北高等学校教授に着任したが、1946年に辞職。その後、鉄道教習所講師、実践女子専門学校講師などを経て、1949年に発足間もない新潟大学人文学部の助教授となり、1952年には教授に昇任した。 1972年に新潟大学を定年退職し、名誉教授。1973年には城西大学経済学部教授に就任し、1981年に退職した。
高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 20… 高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 2005年1月18日)は、日本の哲学者で西洋哲学研究・翻訳者。東京都立大学名誉教授。 1906年、富山県氷見市生まれ。1930年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。台北高等学校教授となった。 太平洋戦争後は日本に戻り、旧・東京都立大学教授となった。1970年に東京都立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は帝京大学教授。2005年1月18日に多臓器不全のため品川区の病院で死去した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。
塩月 桃甫(しおつき とうほ、1886年2月27日 - 19… 塩月 桃甫(しおつき とうほ、1886年2月27日 - 1954年1月30日)は、宮崎県出身(出生地:宮崎県児湯郡三財村、現西都市)の画家である。本名は永野善吉。日本統治時代の台湾に、初めて西洋美術を広め、台湾美術展覧会を開くなど、台湾の美術界に大きく貢献したことで知られる。 宮崎師範学校、東京美術学校(図画師範科)卒業。台湾に渡ったのは1921年(35歳の時)であり、以後25年間にわたり台湾で活躍し、台北高等学校でも図画科教師を務めた。1953年、宮崎県文化賞受賞。 主な作品に「蕃人舞踊団」(宮内庁所蔵)「裸婦」「舞妓」(いずれも宮崎県立美術館所蔵)などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9… 楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9日 - 1967年〈昭和42年〉2月25日)は、日本の僧侶、政治家。衆議院議員(1期)。龍谷大学教授。 岐阜県大野郡、のちの揖斐郡大野村(現大野町)出身。1907年、東京帝国大学史学科卒。京都帝国大学大学院に進み、西蔵史を研究する。龍谷大学教授兼図書館長、山東省済南高等師範学校教授、台北高等女学校教諭兼台北高等商業学校教授、台南第二、第一の各高等女学校校長を経て、台湾総督府在外研究員として欧米各国に留学する。帰国後、台北高等学校、台北高等商業学校各教授、台北第一中学校校長を歴任する。仏教更新社を創立、社主となり、月刊紙「更新」を発行した。
松村 伝(まつむら つたえ、1871年9月1日(明治4年7月… 松村 伝(まつむら つたえ、1871年9月1日(明治4年7月17日) - 1942年(昭和17年)10月7日)は、日本の教育者。 高知県出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。高知県第一中学校教諭、愛媛県立宇和島中学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、三重県立第一中学校校長、台湾総督府台北中学校校長、台湾総督府立商業学校校長、台北高等学校校長、東亜高等予備学校学監を歴任し、1926年(大正15年)から水戸高等学校校長を務めた。