赤木 須留喜(あかぎ するき、1923年10月30日 - 2… 赤木 須留喜(あかぎ するき、1923年10月30日 - 2000年4月16日)は、日本の政治学者。 兵庫県豊岡市出身。旧制姫路高等学校を経て、1950年東京大学法学部政治学科卒。1955年同大学院研究奨学生修了。旧・東京都立大学人文学部講師、助教授、1966年法学部教授。1987年定年退官、名誉教授、明治学院大学教授。1994年退職。 父は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、兄は画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、叔父は農学博士・政治家で「砂防の父」と呼ばれる赤木正雄である。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
今西 祐行(いまにし すけゆき、1923年10月28日 - … 今西 祐行(いまにし すけゆき、1923年10月28日 - 2004年12月21日)は、日本の児童文学作家。 大阪府中河内郡縄手村字六万寺(現東大阪市六万寺町)に生まれ、奈良県生駒市で育つ。1936年、旧制奈良県立奈良中学校(現・奈良県立奈良高等学校)に入学、5年間植物採集とテニスに熱中する。1940年、中学5年生の夏、病気になり大阪の病院に入院、この頃より文学書をむさぼり読む。1941年、第二早稲田高等学院入学。同年、大久保同胞教会(現在の日本基督教団新宿西教会)にて受洗。 1942年、早大童話会に入り、坪田譲治を知る。同年、童話会機関紙『童話界』に、最初の童話「ハコちゃん」を発表、好評を博す。
中尾 益朗(なかお ますろう、1923年10月28日 - 2… 中尾 益朗(なかお ますろう、1923年10月28日 - 2003年4月11日)は、日本の実業家。帝人医薬社長、帝人副社長、副会長、顧問を歴任。 鹿児島県日置郡串木野村下名、後の串木野市(現いちき串木野市)元町出身。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1945年に第七高等学校造士館理科を卒業。1949年に東京大学工学部を卒業し、帝国人造絹絲株式会社(1962年に帝人株式会社へ商号変更)へ入社。三原工場技術課長、三原工場レーヨン製造部第二技術課長、岩国工場レーヨン製造部長、松山工場テトロン第一製造部長を経て、1970年徳山工場長、1971年松山工場長、1972年取締役、1977年常務、1980年専務、1983年副社長。
市川 平三郎(いちかわ へいざぶろう、1923年10月28日… 市川 平三郎(いちかわ へいざぶろう、1923年10月28日 - 2014年8月15日)は、日本の医学者。医学博士。専門は放射線医学。国立がんセンター名誉院長。東京都出身。
日高 普(ひだか ひろし、1923年10月28日 - 200… 日高 普(ひだか ひろし、1923年10月28日 - 2006年10月16日)は、日本の経済学者、文芸評論家。元法政大学経済学部教授、名誉教授。専攻は経済原論。経済学博士。 宇野学派のマルクス経済学者の一人。経済学の著作として『銀行資本の理論』『再生産表式論』や教科書『経済原論』『経済学』などがある。浜田新一の筆名で文芸評論・映画評論を執筆し、中村稔、吉行淳之介、いいだももらが参加した文芸同人誌「世代」(1946年7月創刊、1952年12月に17号で廃刊)の中心的存在だった。1953年に「第三の新人」と呼ばれた作家・批評家が『文學界』編集部のすすめで結成した「一二会」に参加した。書評家としても知られる。
森岡 清美(もりおか きよみ、男性、1923年〈大正12年〉… 森岡 清美(もりおか きよみ、男性、1923年〈大正12年〉10月28日 - 2022年〈令和4年〉1月9日)は、日本の社会学者、東京教育大学・成城大学名誉教授、大乗淑徳学園学術顧問。家族社会学を専門とし、主として宗教と家族のつながりについて多くの著書を著した。 三重県生まれ。1948年(昭和23年)東京文理科大学哲学科卒業。1950年(昭和25年)同大学院修士課程修了、 同助手、専任講師、東京教育大学助教授、教授、1978年(昭和53年)定年退官、成城大学教授、1994年(平成6年)淑徳大学教授、2002年(平成14年)退職。 1961年(昭和36年)「真宗教団と「家」制度」で東京教育大学文学博士。
多田実(ただ みのる、1923年10月27日 - 2006年… 多田実(ただ みのる、1923年10月27日 - 2006年6月3日)は、日本のジャーナリスト、学者。 千葉県出身。別名・平田善介(よしすけ)。中央大学法学部卒。学徒出陣で硫黄島の戦いに参加し、捕虜になる。帰国後、読売新聞に入り、政治部記者、政治部長を経て、二松学舎大学国際政経学部教授。94年定年退職、客員教授。
蓼沼 謙一(たでぬま けんいち、1923年10月26日 - … 蓼沼 謙一(たでぬま けんいち、1923年10月26日 - 2011年10月28日)は、日本の法学者。専門は労働法。一橋大学名誉教授。元一橋大学学長、日本労働法学会代表理事などを歴任。吾妻光俊門下。 元一橋大学学長蓼沼宏一は子。澤和樹第10代東京藝術大学学長は娘婿。 茨城県水戸市生まれ。1940年3月東京府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)4年修了、同年4月東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1943年学徒出陣により横須賀第2海兵団入団、1944年2月飛行専修海軍予備学生・急降下爆撃機操縦士、1944年12月大日本帝国海軍少尉、1945年4月神風特別攻撃隊隊員、1945年8月大日本帝国海軍中尉。
下社 邦男(しもやしろ くにお、1923年10月26日 - … 下社 邦男(しもやしろ くにお、1923年10月26日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
吉田矢 健治(よしだや けんじ、1923年(大正12年)10… 吉田矢 健治(よしだや けんじ、1923年(大正12年)10月25日 - 1998年(平成10年)11月6日)は、昭和期の作曲家。山口県岩国市出身。明治大学卒業。通称:ダヤ先生。 明治大学マンドリン倶楽部を経て、作曲家の利根一郎に師事。1950年(昭和25年) 12月よりテイチクレコード専属となり、村澤良夫歌唱の「見果てぬ夢」で作曲家としてデビュー。翌年に菅原都々子の『広東エレジー』で初ヒットを飛ばす。(尚、此の作品は後にシンガポールの演歌歌手黄清元によってカヴァーされ、現地でも広く知られる様になった。)1953年(昭和28年)からキングレコードに専属し、「あなたと共に」、「夕焼けとんび」、「山の吊橋」など昭和期に多くの曲を作曲した。
村上 允英(むらかみ のぶひで、1923年10月25日 - … 村上 允英(むらかみ のぶひで、1923年10月25日 - 1994年7月20日)は、日本の地質学・岩石学学者。杉石の分析・命名。山口大学名誉教授。日本地質学会副会長、山口地学会会長。正四位勲三等旭日中綬章。 主要な研究テーマは、西南日本の白亜紀/古第三紀酸性火山/深成活動の時間的・空間的変換。1976年には、恩師である九州帝国大学理学部杉健一により1942年から1944年に瀬戸内海の岩城島で発掘された未解決鉱物の分析を成功させ、杉健一の名前に因み杉石と命名した。
田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 20… 田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 2008年6月26日)は、野村證券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本の実業家。 後任の社長に就任した田淵義久(縁戚関係はない)と区別するため俗称は大田淵(大タブチ)。 京都大学法学部卒業後、1947年野村證券に入社。主に営業畑を歩んだ後、1978年社長に就任。精彩を欠いていた国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げた。 1985年に社長の座を同姓で出身都道府県も同一である田淵義久に譲り、会長に就任した後も、実力会長として君臨した。 1990年12月には証券業界では初の経団連副会長に就任したが、1991年損失補てん問題や暴力団との取引が発覚。
山根 太郎(やまね たろう、1923年10月22日 - 19… 山根 太郎(やまね たろう、1923年10月22日 - 1979年1月6日)は、日本および米国の経済学者、統計学者。 1923年(大正12年)10月22日アメリカ合衆国ニューヨーク市で生まれる。アメリカ合衆国で小学校を終え帰国し、半年の日本語の補習ののち、1937年(昭和12年)青山学院中学部(旧制)1年に入学した。 昭和16年青山学院中学部 4年修了ののち、海軍兵学校(73期、昭和19年3月22日卒業)に進んだ。海軍特攻隊のパイロットとして出撃する直前に終戦を迎えた。終戦後の1946年東京産業大学(現一橋大学)本科に入学、49年に東京商科大学(1947年に東京産業大学から1944年以前の東京商科大学に名称を変更)を卒業した。
三野 重和(みの しげかず、1923年10月20日 - 20… 三野 重和(みの しげかず、1923年10月20日 - 2003年12月19日)は、日本の実業家。元クボタ社長。 香川県三豊郡萩原村(現 観音寺市大野原町)出身。旧制香川県立三豊中学校、神戸経済大学経済学科(現 神戸大学経済学部)卒業。 三豊中学への入学早々、身体が大きいことに目をつけられて柔道部に引っ張られる。柔道師範の石井鷹三郎の指導を受けたことが、柔道との出会いとなった。萩原村から自転車で40分かかる道程を通学し、毎日の練習や寒稽古に励んだ。神戸経済大学に進学後も柔道部に所属、柔道4段を修得する。 1948年(昭和23年)神戸経済大学卒業後、久保田鉄工所に入社。財務部に配属される。入社間もない頃、創業者久保田権四郎から諭された「現場を知りなさい」の言葉を終生肝に銘じ、モノづくり企業にあって、その理念を守り続けた。
森下 正雄(もりした まさお、1923年〈大正12年〉10月… 森下 正雄(もりした まさお、1923年〈大正12年〉10月20日 - 2008年〈平成20年〉12月5日)は、日本の東京都荒川区出身の紙芝居師。紙芝居全盛期である終戦直後から紙芝居の衰退する高度経済成長期、そして21世紀に至るまで生涯現役を貫いて紙芝居を上演し、児童文化保存に貢献した。喉頭癌で声帯除去手術を受けて声を失って以降、手術前の上演の声を録音したカセットテープで紙芝居を演じたことでも知られる。 東京都荒川区東日暮里で、紙芝居師の父・森下貞三のもとに誕生した。当初の職業は菓子工場員だった。戦中は出征、戦後は4年間のシベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国した。第二次世界大戦の空襲で職場が失われたため、父の指導を受けた後、1950年(昭和25年)、父の家業を継いで紙芝居を始めた。
宮崎 明(みやざき あきら、1923年10月19日 - 20… 宮崎 明(みやざき あきら、1923年10月19日 - 2003年9月20日)は日本の建設官僚。鹿島建設元社長。 長野県長野市出身。昭和21年(1946年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。同年内務省に入省。同47年(1972年)建設省技術参事官、同49年(1974年)国際水資源局長。 退官後、昭和51年(1976年)鹿島建設に入社。同63年(1988年)副社長、平成2年(1990年)社長に就任したが、ゼネコン汚職問題で引責辞任して同8年(1996年)会長、のち名誉相談役となる。同9年(1997年)土木学会第85代会長に就任した。
小田村 四郎(おだむら しろう、1923年〈大正12年〉10… 小田村 四郎(おだむら しろう、1923年〈大正12年〉10月17日 - 2017年〈平成29年〉12月9日)は、日本の大蔵官僚、経営者。明成社社長。拓殖大学第16代総長、日本李登輝友の会会長(第2代)、日本会議副会長などを務めた。小田村有芳の子、小田村寅二郎の弟、楫取道明の孫、千種有任・楫取素彦・楫取寿の曾孫。 東京府出身。学生時代は、日本学生協会の活動家として「現行の高校、大学には「情意の枯渇」がはなはだしい」と難じ、その刷新運動に参加した。1943年に学徒出陣。 終戦後に東京帝国大学法学部に復学卒業。1947年(昭和22年)大蔵省(現:財務省)に入省。理財局国庫課に配属。名古屋国税局長、内閣官房内閣審議室長、防衛庁経理局長などを務めた。
早川 幸男(はやかわ さちお、1923年〈大正12年〉10月… 早川 幸男(はやかわ さちお、1923年〈大正12年〉10月16日 - 1992年〈平成4年〉2月5日)は、日本の物理学者(宇宙物理学)、素粒子物理学者。名古屋大学名誉教授。専門は、高エネルギー天体物理学、宇宙論、赤外線天文学。愛媛県新居郡新居浜町(現・愛媛県新居浜市)出身。二男は同じく物理学者の早川尚男。 卒業研究に朝永ゼミに入ったことをきっかけに素粒子、宇宙線の研究を始める。卒業後友人の碓井恒丸(名古屋大学名誉教授)の紹介で気象台に勤めて素粒子論的宇宙線の研究を始める。初期の論文は素粒子論の応用の色彩が強かったが渡米後、本格的な宇宙線研究者になる。1953年にはγ線天文学の提唱、1955年には宇宙線の超新星起源説等を唱えた。
大島 国雄(大島 國雄、おおしま くにお、1923年10月1… 大島 国雄(大島 國雄、おおしま くにお、1923年10月15日 - 2016年1月24日)は、日本の経営学者。 名古屋市出身。1944年陸軍士官学校卒、1950年愛知大学法経学部卒、75年「公企業に関する経営学的研究」で神戸大学経営学博士。50年運輸調査局研究員、1955年東京都立商科短期大学講師、助教授、教授、1966年青山学院大学経営学部教授、70-72年学部長、92年定年、名誉教授、駿河台大学教授。99年退職。ソビエト経営学が専門。
下村 良之介(しもむら りょうのすけ、1923年10月15日… 下村 良之介(しもむら りょうのすけ、1923年10月15日 - 1998年12月30日)は、戦後に活躍した日本画家である。本名・良之助。 1923年(大正12年)10月15日大阪市に生まれる。1935年(昭和5年)12歳の時に京都府に移る。1943年(昭和18年)京都市立絵画専門学校日本画科を学徒動員のため繰上げ卒業。 1949年(昭和24年)パンリアル美術協会の結成に参加。戦後の日本画界にあって革新運動を展開した同協会第1回展から出品を続け、やがて指導者的役割を果たし、旺盛な活動を展開、最晩年まで協会とともに歩んだ。「反骨の画人」とも称されているその貴重な足跡は、「日本画」という伝統的なジャンルにとどまりながら開拓精神に貫かれている。
笹 哲三(ささ てつぞう、1923年10月15日 - 201… 笹 哲三(ささ てつぞう、1923年10月15日 - 2019年4月2日)は、日本の経営者。興亜火災海上保険社長、会長を務めた。北海道出身。 1947年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に興亜火災海上保険に入社。1976年7月に取締役に就任し、1980年7月に常務、1982年7月に専務を経て、1983年11月に副社長に就任し、1990年6月には社長に昇格。1994年6月に会長に就任し、1998年6月に相談役に就任。 1994年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2019年4月2日に老衰によって死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
片岡 みどり(かたおか みどり、1923年(大正12年)10… 片岡 みどり(かたおか みどり、1923年(大正12年)10月15日 - 2009年(平成21年)12月1日)は、日本のピアニスト。相愛大学名誉教授。 東京音楽学校卒業。愛知県出身。 愛知県出身。中村佳永子、井口基成に師事し、1944年(昭和19年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)本科器楽部ピアノ専攻を卒業。相愛大学名誉教授や日本シマノフスキ協会の理事を務めていた。 門下生に花房晴美、太田紗和子、平野智子、今岡淑子などがいる。 2009年(平成21年)12月1日、86歳で亡くなった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
宮野 秋彦(みやの あきひこ、1923年(大正12年)10月… 宮野 秋彦(みやの あきひこ、1923年(大正12年)10月15日 - 2016年(平成28年)12月7日)は、日本の建築学者。名古屋工業大学名誉教授。元日本熱物性研究会会長。元日本建築学会副会長。 名古屋生まれ。1944年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科卒業。1945年東京工業大学工学部建築学科卒業。1962年東京工業大学工学博士。東京工業大学助手、同助教授、名古屋工業大学助教授、同教授を経て、退官後福山大学教授、名古屋工業大学名誉教授。1972年日本建築学会賞受賞。1986年日本熱物性研究会会長。1987年日本建築学会副会長。2001年勲三等瑞宝章受章。日本建築学会名誉会員、日本熱物性学会名誉員、中国文物学会名誉理事。
井川 邦子(いがわ くにこ、1923年10月15日 - 20… 井川 邦子(いがわ くにこ、1923年10月15日 - 2012年10月4日)は、日本の女優。一ツ橋家政女学校卒業。本名は野中 敏子(のなか としこ)。 1940年、松竹に入り、同年、河野敏子の芸名で『絹代の初恋』で映画デビュー。戦後、井川邦子と改名し、木下惠介、小津安二郎など巨匠の作品に数多く出演。中でも『わが恋せし乙女』『結婚』『肖像』『カルメン故郷に帰る』など木下作品に次々と出演し、木下学校の優等生としてスターの道を歩んだ。1960年の『笛吹川』を最後に映画界を離れ、その後はテレビドラマに出演していたが、1977年に女優業を引退。引退後は神奈川県鎌倉市で喫茶店を経営し、悠々自適の生活を送っていた。
浅野 康介(あさの こうすけ、1923年10月11日 - 1… 浅野 康介(あさの こうすけ、1923年10月11日 - 1987年3月4日)は、日本の経営者。徳島県徳島市出身。 1947年に東京工業大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日本軽金属に入社。1974年に取締役に就任し、1978年に常務、1980年6月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1983年11月には社長に昇格。 1987年3月4日脳出血のために死去。63歳没。
藤岡改造(ふじおか かいぞう、1923年10月11日- )は… 藤岡改造(ふじおか かいぞう、1923年10月11日- )は、日本の作家、俳人。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て旧制二松學舍専門学校卒。新制高等学校移行後の母校国語教師となった。号は筑邨(ちくそん)。学校で飼っていた犬クロの世話役をしていた体験から、『職員会議に出た犬クロ』を執筆。ベストセラーとなり、2003年「さよなら、クロ」として映画化された。「信毎俳壇」「俳句四季」の選者。俳人協会評議員。
植木 公(うえき ただし、1923年(大正12年)10月11… 植木 公(うえき ただし、1923年(大正12年)10月11日 - 2005年(平成17年)7月14日)は、日本の政治家。高田市議会議員(5期)、上越市議会議員(1期)、上越市長(5期)。勲等は勲三等瑞宝章。位階は従四位。 新潟県出身。1948年、中央大学法学部卒。卒業後はブレート工場を経営した。その傍ら、中頸城郡連合青年団長、新潟県細巾織物協同組合理事などを務めた。1955年、高田市議会議員に当選、5期務め、副議長を務めた。1971年、高田市は直江津市と合併して上越市が誕生。上越市議会議員となり、議長に就任した。1973年12月に初代上越市長(旧・高田市長)の小山元一が死去。これに伴う翌1974年2月の市長選挙で当選、5期務めた。
杉浦 竜太郎(すぎうら りゅうたろう、1923年10月10日… 杉浦 竜太郎(すぎうら りゅうたろう、1923年10月10日 - 1994年1月26日)は、茨城県水戸市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 水戸工業から山藤クラブ、社会人野球の熊谷組を経て、1951年に広島カープへ入団した。小柄だがコーナーワークがよく、サイドスローから繰り出すカーブ、シュートを使ってのチェンジオブペースを武器に活躍した。 入団した51年に長谷川良平が中耳炎を患っていたこともあり、新人でありながら異例の開幕投手を任された。杉浦は強力阪神打線をわずか7安打1点に抑えて完投勝利を挙げた。喜びに浸るのも束の間、杉浦は翌日も先発する。その2試合後に救援で登板すると翌日は再び先発するなど、苦しい台所事情の中で大車輪の活躍を見せた。
谷口 恵美子(たにぐち えみこ、1923年(大正12年)10… 谷口 恵美子(たにぐち えみこ、1923年(大正12年)10月10日 - 2023年10月22日)は、日本の宗教家。元生長の家白鳩会総裁。谷口雅春と谷口輝子の長女。 富山県高岡市で生れる。香蘭女学校卒業。1946年、のちに生長の家総裁となる荒地清超(谷口清超)と結婚。 写真撮影を趣味とし、機関誌『生長の家白鳩会』に長く写真を掲載した。また、「母と子のうた」「こどものために」「あかるい窓」「地球の人よ」などの生長の家の聖歌を作詞作曲した。 1979年5月2日、立教五十周年記念白鳩会全国大会が日本武道館で開かれる。恵美子は同大会に登壇し、「議会というのは、日本の国を良くしてゆくために皆が寄り集まって話し合って、立派な日本を築き上げてゆくところであるのに、野党は、与党の言うことにはみんな反対、反対といって演説を聞こうとしない。
北澤 博(きたざわ ひろし、1923年10月10日- 20… 北澤 博(きたざわ ひろし、1923年10月10日- 2007年10月17日)は、日本の経営学者。 長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)生まれ。昭和23年(1948年)東北大学法学部卒業、三菱電機入社。昭和50年(1975年)経営情報本部情報システム部長、同52年(1977年)情報管理部長、同53年(1978年)三菱総合研究所取締役、同54年(1979年)常務取締役。同63年(1988年)長野大学教授に就任、平成7年(1995年)同学長。 専門は物流と情報システム、ビジネスネットワークシステムなど。昭和61年(1986年)通商産業大臣賞受賞。弟の北沢正啓は、名古屋大学名誉教授・中京大学元学長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
青木 富夫(あおき とみお、1923年(大正12年)10月7… 青木 富夫(あおき とみお、1923年(大正12年)10月7日 - 2004年(平成16年)1月24日)は、日本の俳優。松竹蒲田撮影所時代に名子役として活躍した。 横浜市に生まれ、実家が経営していた酒場に松竹蒲田撮影所の俳優が出入りしていたのが縁で、撮影所によく遊びに行くようになった。 1929年(昭和4年)、ここで小津監督に見いだされ、小津の『会社員生活』に出演。同年、主演した『突貫小僧』が大ヒットし、松竹蒲田の子役スターとなった。12月には『全部精神異常あり』(斎藤寅次郎監督)に出演、斎藤監督のナンセンス喜劇でも重用された。 1931年(昭和6年)から芸名を「突貫小僧」と改める。 以降、小津監督作品に12本に出演したほか、成瀬巳喜男監督、斎藤寅次郎監督、清水宏監督、五所平之助監督の名作や話題作に立て続けに出演。
巽 外夫(たつみ そとお、1923年(大正12年)10月7日… 巽 外夫(たつみ そとお、1923年(大正12年)10月7日 - 2021年(令和3年)1月31日)は、日本の実業家。住友銀行頭取を歴任したほか、マツダ再建に尽力したことでも知られる。福井県出身。旧姓は中野。 旧制京都府立桃山中学校、旧制松江高等学校を経て、1947年京都大学法学部を卒業後、住友銀行入行。 1963年平野支店長、本店営業部次長、一宮支店長、1968年審査第二部長、1971年審査第一部長、融資部長を経て、1972年取締役。1975年常務取締役。1979年代表取締役専務。1982年副頭取。 1975年に東洋工業(現:マツダ)の再建を担当。同社とフォード・モーターの資本提携交渉では橋渡しを務め、米国の独占禁止法の審査では英語で証言に臨むなど奔走した。
増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、… 増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 鹿児島商在学中は、1941年夏の甲子園の鹿児島大会で活躍し、決勝で延長13回の激闘の末鹿児島実に5-4でサヨナラ勝ち、県大会優勝を果たした(その後、本来なら開催されるはずの南九州大会や本大会が戦局の悪化により中止となった)。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、内野のどこでも守れるユーティリティプレイヤーとしてチームを支えた。打撃は非力だが、守備には定評があった。打順は主に7~9番の下位を打っていた。 1943年シーズン中に応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
齋藤 次郎(さいとう じろう、1923年10月7日 - 19… 齋藤 次郎(さいとう じろう、1923年10月7日 - 1986年6月2日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や長崎地方裁判所長、福岡高等裁判所部総括判事などを務めた。水俣病第一次訴訟の裁判長を務めた。 熊本地方裁判所勤務時には水俣病第一次訴訟に携わり、初めてチッソの過失責任を認める判決を下した。その際、チッソと水俣病患者家族互助会との間で1959年に結ばれた見舞金契約によって支払われた金銭は「お見舞い」であって補償金ではないため、これをもって賠償とするのは金額が低く公序良俗に反するため無効との判断を示し、弁護士費用も含め9億3千万円の賠償を命じた。この額は他の四大公害病訴訟の中では最高額となる。
岩田 巌(いわた いわお、1923年10月7日 - 1986… 岩田 巌(いわた いわお、1923年10月7日 - 1986年5月22日)は、日本の実業家。 北海道出身。岩田徳治の長男。子息に岩田圭剛がいる。1944年に明治大学商学部を卒業したが、軍に召集を受けた。 1946年に復員後、岩田組に入社した。1949年に岩田建設専務取締役となり、1960年同社長に就く。 江別大橋、幌平橋、豊水橋、雁来大橋などを手掛け、父に続いて「橋の岩田」と称された。また北海道学芸大学附属小学校・北海道学芸大学附属中学校、北海道立図書館などを手掛けた。 公職として札幌建設業協会理事・北海道建設業協会理事(以上1972年就任)、札幌建設業協会副会長(1981年就任)を務め、1982年には札幌建友会会長に就任した。
幡谷 祐一(はたや ゆういち、1923年10月6日 - 20… 幡谷 祐一(はたや ゆういち、1923年10月6日 - 2018年1月11日)は、日本の実業家。茨城県東茨城郡小川町(現在の小美玉市)生まれ。 その他、茨城県特別功績章、自治大臣表彰、警察協力章、警視総監章、暴力追放栄誉金章、交通栄誉章緑十字金章など。
土屋 亨(つちや とおる、1923年10月6日 - 2002… 土屋 亨(つちや とおる、1923年10月6日 - 2002年10月15日)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)、スポーツジャーナリスト(スポーツライター)、野球解説者。
渡邊 力(わたなべ つとむ、1923年10月6日 - 197… 渡邊 力(わたなべ つとむ、1923年10月6日 - 1972年11月4日)は、日本の医師・医学者。また慶應義塾大学医学部教授。専門は微生物学。胃癌のため慶應病院で死去、享年49。 岐阜県岐阜市出身。1948年に慶應義塾大学医学部を卒業後、微生物遺伝学を専攻し、この立場から1972年に胃癌で倒れるまで、細菌の薬剤耐性獲得の機序の研究に終生をかけ、多くの成果を通じて近代分子生物学上のみならず、治療医学ならびに公衆衛生学上重大な貢献を成し遂げた。 研究生活前半の約10年間は当時結核治療に福音をもたらしたストレプトマイシンに対し、細菌がどのような機作によって耐性を獲得するかを、遺伝学的に詳細に検討し、いわゆる「自然突然変異および選択説」を実験的に明らかにした。
森 護(もり まもる、1923年10月6日 - 2000年)… 森 護(もり まもる、1923年10月6日 - 2000年)は、日本の紋章学者。専攻は西洋紋章学、英国王室史。大阪港紋章の製作を指導・監修し、その生みの親として大阪市から紹介されている。 1923年に奈良県で生まれた森は、1946年に早稲田大学商学部を卒業し、同年NHKに入社した。NHKでは、政治部記者、神戸放送局放送部長、国際局報道主管などを経て、1980年にNHKを定年退職した。その後文教大学講師も務め、文筆家として多くの著作を残す。また、退職の同年、大阪港紋章製作に協力した。 森は、大阪市にある大阪港の紋章のデザインに関わっている。世界の港湾都市の間では、「姉妹港都」の友好を結ぶ際にお互いの港の紋章を描いたレリーフを交換する風習がある。
大起 男右エ門(おおだち だんえもん、1923年10月6日 … 大起 男右エ門(おおだち だんえもん、1923年10月6日 - 1970年1月31日)は、福岡県嘉穂郡穂波町(現在の同県飯塚市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は山本 男次郎(やまもと だんじろう)→石田 男次郎(いしだ -)。現役時代の体格は194cm、180kg。最高位は東小結(1955年3月場所)。得意手は左四つ、寄り、鯖折り。 引退後は、年寄・境川を襲名した。 小学生の頃、嘉穂郡内の相撲大会で優勝した事が評判となり、6代目出羽海(元小結・両國)の命を受けた九州山が勧誘して出羽海部屋へ入門した。 1938年5月場所、14歳で初土俵を踏む。当初の四股名は本名の「山本」であったが、故郷に因んだ「穂波山」と改名して1945年6月場所で十両に昇進、1946年11月場所で入幕を果たした。
矢野 徹(やの てつ、1923年〈大正12年〉10月5日 -… 矢野 徹(やの てつ、1923年〈大正12年〉10月5日 - 2004年〈平成16年〉10月13日)は、日本のSF作家、翻訳家。坂田 治名義による作品もある。 愛媛県松山市生まれ。兵庫県立第二神戸中学校を経て、中央大学法学部卒。第二次世界大戦中は学徒出陣で陸軍第11師団騎兵第11連隊に所属。階級は軍曹。 日本に本格的なSF出版が芽生える前の、海外SFのファン1号といわれ、SFに興味があった晩年の江戸川乱歩に面識を得る。そのまま、SF翻訳家、SF作家となり、幅広く活躍した。 冒険小説『カムイの剣』は角川書店によりアニメ映画化された。また、代表作『折紙宇宙船の伝説』は日本国外でも出版され、高い評価を受けた。
馬場 正雄(ばば まさお、1923年 <大正12年> 10月… 馬場 正雄(ばば まさお、1923年 <大正12年> 10月4日 - 1986年 <昭和61年> 10月27日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士(1962年)。元京都大学教授。位階は正四位。 滋賀県出身。京都大学経済学部卒、1962年「景気予測と企業行動」で経済学博士の学位を取得。和歌山大学講師、助教授、京都大学助教授、教授。1971年 - 1974年京都大学経済研究所所長、1986年に再任されるが、ほどなく63歳で死去。死没日付をもって正八位から従四位、正四位に進階し、勲二等瑞宝章を追贈された。
村田 健郎(むらた けんろう、1923年10月4日 - 20… 村田 健郎(むらた けんろう、1923年10月4日 - 2009年7月27日)は日本の理学者、情報工学者。TAC (コンピュータ)開発、日立製作所で電子計算機の国産化HITAC5020開発、HITAC8800(東京大学大型計算機センターの2号機)開発、1973年頃から数値計算分野、帯行列固有値解析の新算法の開発、元神奈川大学教授。
芝 宏(しば ひろし、1923年(大正12年)10月3日 -… 芝 宏(しば ひろし、1923年(大正12年)10月3日 - )は、日本の政治家。元埼玉県幸手市長。 埼玉県出身。1968年、埼玉県立浦和商業学校(現・埼玉県立浦和商業高等学校)卒。幸手町議会議員を5期務め、1985年、幸手町長に当選した。翌1986年、幸手町は市制施行により幸手市となり、幸手市長となる。1989年に再選。1993年に市長を退任した。同年、勲四等瑞宝章を受章した。
渡辺 宏(わたなべ ひろし、1923年(大正12年)10月3… 渡辺 宏(わたなべ ひろし、1923年(大正12年)10月3日 - 2005年(平成17年)9月27日)は、日本の実業家。東京都出身。東京ガス元社長。 1945年早稲田大学商学部卒業後、東京瓦斯入社。取締役常務、専務などを経て、1981年7月村上武雄社長の在任死去に伴い社長に就任。社団法人日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭などを務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
南沢 貞美(みなみさわ さだみ、1923年10月2日 - 2… 南沢 貞美(みなみさわ さだみ、1923年10月2日 - 2003年9月25日)は、日本の倫理学者。 長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第二高等学校を経て、京都帝国大学文学部卒業。1950年京都工芸繊維大学講師、1967年同教授、のち名誉教授。佛教大学教授。2000年春、勲三等旭日中綬章受勲。
岩井 直溥(いわい なおひろ、1923年10月2日 - 20… 岩井 直溥(いわい なおひろ、1923年10月2日 - 2014年5月10日)は、日本の作曲家、編曲家および指揮者。 陸軍中将で男爵の野崎貞澄の孫として東京牛込に生まれる。父の岩井貞麿(旧姓野崎)は音楽教室経営者で、柴田南雄のピアノの師。母は帝国劇場のリハーサルピアノプレーヤー。 1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現東京藝術大学)器楽科(ホルン専攻)入学。作曲を橋本國彦に師事。1943年(昭和18年)に学徒出陣により旧大日本帝国陸軍に入隊。朝鮮半島へ出征。その後千葉県習志野市の東部軍教育隊へ異動。館山市の守備隊で見習士官(准尉)で終戦を迎える。ホルン専攻ではあるが、終戦後ジャズの世界にとびこみ、トランペットも演奏。
角田 彦三(つのだ ひこぞう、1923年 <大正12年> 1… 角田 彦三(つのだ ひこぞう、1923年 <大正12年> 10月2日 - 2005年 <平成17年> 2月27日)は、日本の経営者。澁澤倉庫社長、会長を務めた。位階は正五位。 東京都出身。1948年に東京商科大学を卒業し、同年4月に澁澤倉庫に入社。1971年に取締役に就任し、1975年5月に常務、1982年6月に副社長を経て、1985年6月には社長に就任。1991年6月に会長を経て、1995年6月から1996年6月までに再び社長を務め、2000年6月までに会長を務めた。 1994年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2005年2月27日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
南 悠子(みなみ ゆうこ、1923年10月1日 - 2013… 南 悠子(みなみ ゆうこ、1923年10月1日 - 2013年3月2日)は、女優、元宝塚歌劇団団員(月組・星組主演男役)。本名は上野悠子(うえのゆうこ)。東京府出身。宝塚歌劇団時代の公称身長は161cm。宝塚歌劇団時代の愛称はユーコさん(本名の悠子から)。 宝塚歌劇団29期生。宝塚歌劇団では淡島千景、久慈あさみと共に『東京の三羽烏』と呼ばれた。頌栄高等女学校(現・頌栄女子学院中学校・高等学校)出身。 1939年、宝塚音楽舞踊学校(現・宝塚音楽学校)に入学。 1941年、宝塚歌劇団に入団。初舞台公演演目は『正行出陣』である。宝塚入団時の成績は17人中7位。 また、宝塚在籍時においても南は映画やテレビドラマに数多く出演していた。
萩原 幸雄(はぎはら ゆきお、1923年10月1日 - 19… 萩原 幸雄(はぎはら ゆきお、1923年10月1日 - 1978年11月29日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(2期)。 広島県出身。1945年東京帝国大学法学部卒。1948年二級事務官吏銓衡に合格、内務省地方局に配属される。その後、静岡県調査、税務各課長、総理府事務官、広島県税務、財政各課長、同総務部長、同副知事などを経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙において広島1区から自由民主党公認で立候補し初当選、次の1976年の第34回衆議院議員総選挙でも再選した。党内では地方行政、交通の各副部会長、商工局次長などを務めた。 1978年2月以降、持病の糖尿病が悪化しており入退院を繰り返していたが、議員在職中の同年11月29日午後に大量に吐血して県立広島病院に搬送され、肝硬変と糖尿病からの食道静脈瘤破裂のため、同日20時5分、死去した。