2代 高広 次平(たかひろ じへい、1859年2月19日(安… 2代 高広 次平(たかひろ じへい、1859年2月19日(安政6年1月17日) - 1920年(大正9年)8月26日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 越中国礪波郡福岡町(富山県西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれ、高広彦八の長男彦造の婿養子となり、のち襲名する。福岡町会議員を経て、1889年(明治22年)初代福岡町長に就任する。1895年(明治28年)福岡同盟銀行を創業し頭取に就任。ほか、北陸海上保険社長、広通、高岡共立銀行、中越鉄道各取締役などを歴任した。 1900年(明治33年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年6月13日から1903年(明治36年)2月6日まで在任した。
中原 貞三郎(なかはら ていざぶろう、1859年2月16日(… 中原 貞三郎(なかはら ていざぶろう、1859年2月16日(安政6年1月14日) - 1927年(昭和2年)12月4日)は、明治から大正時代の土木技術者、農商務技師、内務技師、統監府技師。 中原宗作の三男として周防国玖珂郡岩国領(現・山口県岩国市)にて生まれ、1891年(明治24年)7月、家督を継ぐ。1882年(明治15年)7月、旧東京大学理学部卒業。翌月、陸軍省御用掛となり参謀本部測量課に配属される。陸軍技師・陸軍部測量班長心得を経て、1886年(明治19年)陸軍5等技師に進み、1888年(明治21年)より帝国大学工科大学講師を兼任し、戦前の陸測地図の基礎を固めた。 1891年(明治24年)熊本県4等技師を経て、土木監督署技師となり、1898年(明治31年)1月、内務省第7区(熊本、4月より福岡に移転)土木監督署長を発令される。
福島 美之助(ふくしま よしのすけ、1859年2月16日(安… 福島 美之助(ふくしま よしのすけ、1859年2月16日(安政6年1月14日) - 1920年(大正9年)11月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 後の鹿児島県曽於郡財部町(現曽於市)出身。鹿児島県農工銀行監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1920年に死去した。
秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年… 秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1930年〈昭和5年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人・教育者。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市で私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を務めた。 陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも呼ばれている。 連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は実弟。 騎兵を選んだのは他の兵科より一年早く卒業でき、給金を受け取れるという理由だった。
吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月… 吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。第6・7・8代連合艦隊司令長官。階級は海軍大将。 土佐中村藩士、のち裁判官となった吉松万弥の長男として生まれる。父が自邸に漢学塾を開いていたことから漢詩の素養があった。藩校致道館、開成学校を経て、1880年(明治13年)に海軍兵学校を卒業(7期生)し少尉候補生を経て、1883年(明治16年)に少尉任官。1885年(明治18年)、防護巡洋艦「浪速」の回航委員となりイギリスに出張し「浪速」分隊士となり翌年に帰国。1888年(明治21年)、フランスに留学し、フランス軍艦に実地研究のため乗り組んだり、造兵監督官としてイギリスなどに出張をして1893年(明治26年)に帰国した。
中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月… 中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月7日) - 1914年(大正3年)2月16日)は、明治時代の電気工学者。男性。佐賀県出身。 佐賀藩士中野卜斉の二男として肥前小城郡にて生まれる。1873年(明治6年)、工部省電信寮に出仕していた長兄の中野宗宏(後に外信局次長)を頼って上京し、佐賀出身の初代電信頭石丸安世の塾に入った。翌年工部省工部寮小学校に入学する。のち工部大学校(現:東京大学工学部)に進み、イギリスの電気工学者ウィリアム・エドワード・エアトンに師事し、在学中の1878年(明治11年)3月25日、藤岡市助、浅野応輔らと共に中央電信局開局祝宴にて日本初のアーク燈を灯した。
鎌田 大三郎(かまだ だいざぶろう、1859年2月5日〈安政… 鎌田 大三郎(かまだ だいざぶろう、1859年2月5日〈安政6年1月3日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、会社役員。族籍は香川県平民。 香川県平民・鎌田大三郎の長男。1875年、家督を相続する。清酒・生酢醸造業を営む。坂出銀行常務取締役、鎌田産業取締役などをつとめる。住所は香川県綾歌郡坂出町(現坂出市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
大森 与三次(おおもり よそじ、1859年2月4日(安政6年… 大森 与三次(おおもり よそじ、1859年2月4日(安政6年1月2日) - 1922年(大正11年)6月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 播磨国飾東郡、のちの兵庫県飾磨郡花田村(現姫路市)出身。漢学を学ぶ。姫路市会議員、同副議長、同議長、兵庫県会議員、姫路市米穀取引所理事、同理事長、姫路市倉庫会社取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から憲政会公認で立候補したが落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補して当選する。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙では兵庫2区から立候補したが落選した。
山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5… 山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5年12月30日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月31日)は、日本のメソジストの牧師、教育者。文筆家である。弘前教会牧師を長年務める。 津軽藩士の古田家の次男として江戸藩邸に生まれる。山鹿素行の後の津軽山鹿家の養子になり、別家を継いだ。帰郷し東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1875年(明治8年)10月3日にイングより洗礼を受ける。 養家の山鹿家の都合で新聞社経営に参加し、記者の筆禍事件の責を負って禁錮7ヶ月判決を受けた。獄中で聖書を読んで、献身の召命を受ける。1882年に本多庸一の勧めで、弘前教会内の女学校(弘前学院)の校長になる。
寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月… 寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月19日)- 1925年(大正14年)9月15日)は、明治・大正期の法学者・アジア主義者。天文学者寺尾寿の弟。商工省官僚寺尾進、女優東山千栄子の養父。
大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5… 大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5年12月25日)- 1916年(大正5年)8月10日)は、明治から大正初期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡林村(木田郡林村を経て現高松市)で、大場吉次郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1889年(明治22年)6月、家督を相続した。 1889年、讃岐鉄道取締役に就任。その他、讃岐農工銀行頭取、韓国実業監査役、東讃電気軌道(現高松琴平電気鉄道)社長などを務めた。 政界では、六条村戸長、林村会議員、木田郡四ケ池普通水利組合常設議員などを務めた。香川県会議員に選出され、1899年(明治32年)10月21日、同議長に就任し同月27日まで7日間在任した。
杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(185… 杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(1859年1月25日) - 1906年(明治39年)7月31日)は、明治時代の兵庫県神戸市の外科医。県立神戸医学校教諭・神戸病院副院長、私立杉田病院長、神戸市医師組合初代組長。脊髄炎で早世した。号は春嵐。杉田玄白4世孫。 安政5年12月22日(1859年1月25日)江戸浜町山伏井戸(東京都中央区日本橋浜町二丁目)に杉田玄端の四男として生まれた。幼名は英吉/英吉郎。7歳で木村二梅に習字、高須某に漢学を学んだ。 明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い両親・弟杉田盛と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移り、沼津兵学校附属小学校に通いながら、相磯格堂にも漢籍を学んだ。
五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政… 五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政5年12月22日)- 1933年(昭和8年)2月11日)は、明治から大正時代の電信電話技術者。出羽米沢(山形県)出身。 安政5年(1858年)、旧米沢藩士・徳間久三郎の三男として生まれる。その後同藩士・五十嵐正和の養子となる。 1882年(明治15年)工部大学校電気科を卒業。工部省に入ったのち、逓信省技師に任ぜられる。1887年(明治20年)東京電信學校教授になり、1889年(明治22年)、電信電話事業視察のために私費で欧米各国を歴訪。 東京郵便電信局建築課長、東京電話交換局長、塞累逓信局工務部長などを歴任。東京、横浜等の電話工事の基礎を定める。
野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政… 野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政5年12月21日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月2日)は、日本の醸造家、政治家。鳥取県会議員。鳥取県日野郡会議員。日野家畜、根雨銀行各取締役。中国貯蓄銀行監査役。日野酒造組合副組長。野坂家第9代。 伯耆国日野郡溝口宿(のち鳥取県日野郡溝口町、現伯耆町)出身。酒造業を営む。銘酒「玉の井」を醸造する。住所は日野郡溝口村大字溝口宿。 野坂家は天保年間から明治初年にかけて口日野郡の大庄屋、続いて区長・戸長などをつとめた。野坂金治郎の嗣子は野坂誠之。遺族は日野郡溝口町溝口の野坂和子。「野坂和子氏所蔵文書」は、大庄屋文書は藩からの到来書及び御用留、郡村役人同志との往復文書、構内各村からの嘆願書類がその主な内容である。
森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年1… 森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年12月15日)- 1944年(昭和19年)10月17日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県出石郡出石町長。旧姓は永井、桜井(櫻井)。 但馬国出石郡出石城下(兵庫県出石郡出石町を経て現豊岡市出石町)で、出石藩侍医・永井玄機(春嶽)の二男として生まれる。藩校弘道館で漢学を修めた。その後、東京に遊学し尺振八の塾で英学、経済学、財政学を修めた。のち森本家の養子となり、1898年(明治31年)1月に家督を相続した。 豊岡洋学校で助教を務めた。上京して桜井勉の書生となる。大蔵属に任じられ、科目条例取調委員、各庁営繕規則取調委員などを務めた。
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政… 小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監椰野巌は甥である。 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(185… 坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。 1859年、摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時に父を失い、以後は親戚に引き取られ、大阪開成所と造幣寮の日進学社で学んだ。17歳の時に東京外国語学校に入学し翌年卒業。東京開成学校を受験し入学する。 1881年、東京大学文学部政治理財学科を卒業。1885年、同理学部応用化学科を卒業し、文学士と理学士という2つの学位を取得した。1886年に東京大学講師となる。その後、文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念することとなる。
田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政… 田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政5年12月9日〉- 1923年〈大正12年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、大地主。埼玉県多額納税者。族籍は埼玉県平民。 武蔵国葛飾郡樋籠村(のち埼玉県北葛飾郡幸松村、現:春日部市)で、北葛飾郡有数の大地主であり、同郡随一の素封家・田中為次郎の長男として生まれる。家業の酒造業を継承した。 樋籠村戸長、八丁村連合戸長を歴任し、庄内古川改修などに尽力した。1911年(明治44年)、立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した。同年10月13日に就任した。1915年(大正4年)、県会議員に再選された。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。
高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12… 高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12月) - 1910年(明治43年)8月31日)は、日本の明治期における耳鼻咽喉科医。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科教授、現在の長崎大学医学部耳鼻咽喉科の基礎を築く。伊予国出身。 1859年1月((旧暦)安政5年12月)、伊予喜多郡内子村(現愛媛県大洲市)に大洲藩士の子として生まれ、初め挺助と称した後に挺蔵に改めた。1874年(明治7年)東京外国語学校に入学し、1879年(明治12年)東京大学医学部に入学し、東京大学が東京帝国大学となった1886年(明治19年)度に卒業し、大学同期には伊東重・岡田国太郎・桂秀馬・佐藤恒久・鈴木愛之助・三輪徳寛等がいた。
第11代齋藤 用之助(さいとう ようのすけ、1859年(安政… 第11代齋藤 用之助(さいとう ようのすけ、1859年(安政6年) - 1933年(昭和8年))は、沖縄県の行政官、実業家。中頭郡長、首里区長、島尻郡長、那覇区長を歴任した。 佐賀藩(現在の佐賀県佐賀市諸富町山領)で誕生し、1877年(明治10年)、佐賀で巡査となるが、明治政府による1872年(明治5年)から続いた琉球処分の結果、1879年(明治12年)に琉球が沖縄県となったため、初代県令に任命された鍋島直彬に随って沖縄に赴任した。その後、県行政職に転じ、46年間にわたって沖縄の近代化に大きく貢献した。
今田 虎次郎(いまだ とらじろう、1859年 - 1940年… 今田 虎次郎(いまだ とらじろう、1859年 - 1940年)、日本の警察官。大阪府曽根崎警察署長の後に、初代のハンセン病療養所外島保養院院長を1909年から1926年まで務め、患者の自治を認めた。 1859年、岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)にて今田幸次郞の長男として出生。大阪にでて、警察官になる。数か所の警察署長を勤務。一時高知県にでる。大阪警察署のなかのNo.1である曽根崎警察署長から、1909年外島保養院の所長になる。当時、ハンセン病療養所所長は、九州療養所を除き、警察署長であった。浮浪患者が多く、警察署長が都合がよかった。事務系職員にも自分の部下であった職員を連れていった。一人は警察署長であった。
桜田 百衛(さくらだ ももえ、1859年〔安政6年〕 - 1… 桜田 百衛(さくらだ ももえ、1859年〔安政6年〕 - 1883年〔明治16年〕1月18日)は、岡山県出身で明治初期に活躍した自由民権派のジャーナリスト。政治小説の創始者の一人としても知られる。別号に百華園主人がある。 1859年(安政6年)、備前国(現在の岡山県備前市)に生まれた。1872年(明治5年)頃上京し、東京外国語学校でドイツ語を学んだが中退。竹内正志や栗原亮一らの影響でと自由民権運動に関わるようになり、1874年(明治7年)に愛国公党に参加した。しかし、病気のため1880年(明治13年)に一時帰郷した。 1881年(明治14年)再上京し、自由党の結党に参加。党の最初の機関紙だった『自由新聞』の記者となり、政治小説を連載するようになる。
野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - … 野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - 1911年(明治44年)12月2日)は、明治時代の政治家。実業家。衆議院議員。 美濃国中島郡大浦村(岐阜県中島郡大浦村、羽島郡大浦村、正木村を経て現羽島市)出身。岐阜中学校に学ぶ。 学務委員、所得調査委員、岐阜県会議員、同常置委員、徴兵参事員、地方衛生会員、大浦村外四ヶ村長、正木村会議員を歴任した。実業界では、三井物産会社社員、岐阜物産、岐阜倉庫各社長を務めた。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
東条 喜惣治(東條、とうじょう きそうじ、1859年(安政5… 東条 喜惣治(東條、とうじょう きそうじ、1859年(安政5年12月) - 1932年(昭和7年)4月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国市原郡(現・千葉県市原市)生まれ。和学と漢学を学ぶ。養老村(のち三和町、現・市原市)書記、同村長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉1区から進歩党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1932年に死去した。
高橋 与市(與市、たかはし よいち、1859年(安政5年12… 高橋 与市(與市、たかはし よいち、1859年(安政5年12月) - 1931年(昭和6年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 上総国望陀郡(のち千葉県君津郡、現・木更津市)に生まれる。馬来田村(のち富来田町、現・木更津市)長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において千葉7区から弥生倶楽部所属で立候補して初当選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して復帰した。衆議院議員を2期務め、1896年に当選無効により衆議院議員を退職した。1931年死去。
丸山 督(まるやま ただし、1859年(安政6年5月)- 1… 丸山 督(まるやま ただし、1859年(安政6年5月)- 1924年(大正13年)3月7日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 新庄藩領最上郡新庄(山形県最上郡新庄町を経て現新庄市)出身。1885年(明治18年)代言人となり、山形市参事会員、山形県会議員、同議長を歴任した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では山形県第4区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。墓所は多磨霊園。
6代 菅野 伝右衛門(すがの でんえもん、1859年(安政6… 6代 菅野 伝右衛門(すがの でんえもん、1859年(安政6年3月) - 1900年(明治33年)10月10日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。本名は友次郎。 のちの富山県高岡市木舟町に生まれる。1889年(明治22年)、正村五平と共に高岡銀行を設立。1893年(明治26年)には高岡紡績を創立した。さらに翌年、高岡経済会を組織し、1896年(明治29年)高岡商業会議所初代会頭に就任した。ほか、高岡市参事会員、同学務委員、富山県会議員などを歴任した。 1897年(明治30年)には富山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1900年(明治33年)3月19日まで在任した。
島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年1… 島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年10月) - 1903年(明治36年)11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小茂田村(のち佐須村→厳原町、現・対馬市)長となる。また、青年団を組織し、対馬の島政に力を尽くした。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から自由党所属で立候補したが1票差で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補し34票を獲得、対立候補と同数だったが、島村が年長者のため当選者となった。
関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 189… 関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 1896年〈明治29年〉1月1日)は、明治時代の日本の教育者。日本統治下の台湾において初期の日本語教育に尽力し、芝山巌学堂の教師として赴任中に殉職した。台湾教育史において「六士先生」の一人として記憶されている。 関口長太郎は、三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市)出身。地元では西尾小学校の初代校長を務めた人物として知られている。1895年、日本が下関条約により台湾を領有したのち、文部省の伊沢修二の指導のもと、台湾初の日本語教育機関「芝山巌学堂」が設立され、関口はその教師として赴任した。 1896年1月1日、芝山巌学堂の教師6名と用務員1名は、元旦の拝賀式に向かう途中、抗日ゲリラに襲撃され全員が殺害された。
嵐山 捨吉(あらしやま すてきち、安政6年(1859年) -… 嵐山 捨吉(あらしやま すてきち、安政6年(1859年) - 明治43年(1910年)10月4日)は、越前国足羽郡(現福井県福井市)出身の元大相撲力士。本名は佐々木 捨吉(のち八太夫)。京都相撲(松ヶ枝部屋)から東京(藤嶋→伊勢ノ海→千賀ノ浦)を経て最終的には小野川部屋(大阪相撲)所属。最高位は東京では小結、大阪・京都では大関を務めた。 初め京都相撲の松ヶ枝政右衛門の弟子となり石火矢から隅田川と名乗り二段目まで進んだ。明治17年(1884年)1月東京相撲に加入。嵐山 捨吉を名乗って幕下中位に付け出されると19年(1886年)5月に入幕、21年5月小結に進んだ(張出小結の第1号)。しかし1場所で平幕に下がり23年(1890年)5月全休して東京を去った。
加藤 与次兵衛(與次兵衞、かとう よじへえ、1859年(安政… 加藤 与次兵衛(與次兵衞、かとう よじへえ、1859年(安政6年1月) - 1922年(大正11年)2月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。福井銀行重役。 越前国足羽郡(のち福井県足羽郡六条村→足羽村→足羽町、現・福井市)生まれ。1882年(明治15年)泊園書院に入塾し漢学を学ぶ。今立郡稲荷村外六ヶ村戸長、六条村長、福井県会議員、福井銀行取締役となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において福井1区から弥生倶楽部所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では無所属で立候補したが得票数が1票で落選した。
森 輝見(もり きけん、1859年(安政6年10月) - 1… 森 輝見(もり きけん、1859年(安政6年10月) - 1923年(大正12年)12月17日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。年に改名。 讃岐国三野郡比地大村(のち香川県三豊郡豊中村→豊中町、現・三豊市)生まれ。皇学、漢学と英語を学ぶ。香川県会議員、同常置委員、三野郡連合会議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において香川5区から自由党公認で立候補して当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年に死去した。
半谷 清寿(清壽、はんがい せいじゅ、1858年12月31日… 半谷 清寿(清壽、はんがい せいじゅ、1858年12月31日(安政5年11月27日)- 1932年(昭和7年)2月18日)は、明治から昭和初期の実業家、農政家、政治家。衆議院議員。 陸奥国行方郡小高郷大井村(現・南相馬市小高区大井)で相馬中村藩郷士・半谷常清の長男として生まれた。福島師範学校を卒業後、小浜、二本松の小学校で教員として義務年限まで務めた。 その後、帰郷して酒造業を経営し、1886年(明治19年)士族救済のための相馬織物社を設立。1894年(明治27年)相馬精練を設立して小高の羽二重工業の振興に尽力した。その他、磐城水電取締役を務めた。 1893年(明治26年)の日本鉄道常磐線土地買収事件を契機に政治への関心を持ち、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福島県郡部から出馬して当選。
波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日… 波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日(安政5年11月25日) - 1929年(昭和4年)9月16日)は、日本の実業家、政治家。帝国議会衆議院議員を務めた。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。『時事新報』記者、慶應義塾評議員、三井銀行理事、玉川電気鉄道取締役。 次男は波多野元武(三井物産)で、その妻は瀬下清(三菱銀行会長)の三女克、子(孫)が犬養智子である。長女みねは草間時光(草間時福次男)に、次女花は松井春生に、三女春は富井恒雄(男爵富井政章四男)にそれぞれ嫁いだ。系譜は犬養家の係累を通して正田家や天皇家にもつながっている。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯… 五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯一郎、1858年12月29日〈安政5年11月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡館林町長)、醤油醸造家(亀甲正醤油醸造元)、実業家。正田醤油取締役社長。群馬醤油同業組合長。族籍は群馬県平民。上皇后美智子は曽孫にあたる。今上天皇の高祖父。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。4代正田文右衛門の長男。正田家は旧幕時代「米文」と称し米穀商を営んでいたが、祖父・文七に至りこれを廃し1873年(明治6年)以降醤油醸造業に従事した。 1878年(明治11年)に家督を継いで文右衛門を襲名。1904年(明治37年)ボイラー・エンジンを購入して機械化を進め、1917年(大正6年)に正田醤油株式会社を設立した。
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年… 尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉- 1954年〈昭和29年〉10月6日)は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。 日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。政友会時代を除き、政権与党に属したことはなかった。東京市長時代の1912年(明治45年)にアメリカ・ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜(ソメイヨシノ)の苗木を寄贈したことでも知られ、返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした。聖公会信徒。
大久保 源吾(おおくぼ げんご、1858年12月23日(安政… 大久保 源吾(おおくぼ げんご、1858年12月23日(安政6年11月30日) - 1940年(昭和15年)11月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 下野国都賀郡押切村(栃木県下都賀郡寒川村、間々田町を経て現小山市)で、古河藩大庄屋・名主の大久保源吾の息子として生まれた。和学と漢学を学ぶ。農業を営み、押切村副戸長、戸長、寒川村議、同村長、下都賀郡会議員、栃木県議、所得税調査委員となる。 1915年の第12回衆議院議員総選挙において栃木県郡部から立憲同志会公認で立候補したが落選。1916年に繰り上げ当選となった。1917年の第13回衆議院議員総選挙では憲政会から立候補したが落選。1920年の第14回衆議院議員総選挙では栃木4区から立候補したが落選した。
伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5… 伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5年11月15日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家・実業家。帝国議会衆議院議員(5期)。 信濃国伊那郡、のちの長野県下伊那郡上殿岡村(伊賀良村を経て現在の飯田市上殿岡)出身。上京し中江兆民の仏学塾で学び陸軍幼年学校の通訳などを経験した後、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で初当選。自由党→憲政党→政友会と籍を置きつつ通算5期衆院議員を務め、この間逓信省鉄道局長(1898年/明治31年)・政友会幹事長(1910年/明治43年)を歴任。1913年(大正2年)に政友会総裁の原敬の意向によって南満州鉄道株式会社(満鉄)の副総裁に就任するも、創設以来行なわれていた合議制を廃止しようとして犬塚信太郎理事らの激しい抵抗を受け、野村龍太郎総裁・犬塚理事ともども罷免に追い込まれた。
新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12… 新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12月14日〉 - 1902年〈明治35年〉11月24日/25日?)は、明治時代の民権運動家・政治家。衆議院議員(3期)、勢多郡会議員、黒保根村議会議員。国民協会所属。 安政5年(1858年)、上野国勢多郡下田沢村字鹿角(群馬県勢多郡黒保根村を経て現・桐生市黒保根町下田沢)に、新井乙瓢(佐吉)の第四子として生まれる。初名は筆吉。 明治5年(1872年)横浜に出て英語を川村敬三とドクトル・ブラオンに学ぶ。さらに慶應義塾や共慣義塾で勉学に励む。卒業後の1876年(明治9年)、「英学校静知社」を創立し校長となる。東京で雑誌『與論新誌』や『東京政談』を発刊し、「東京政談演説会」を主宰。
古川 阪次郎(ふるかわ さかじろう、安政5年11月4日(18… 古川 阪次郎(ふるかわ さかじろう、安政5年11月4日(1858年12月8日) - 昭和16年(1941年)3月2日)は、日本の鉄道官僚。学位は、工学博士。土木学会第9代会長。錦鶏間祗候。 讃岐国塩飽諸島広島 (香川県)(現丸亀市広島町)に山口吉十郎の二男として生まれ、叔父古川庄八(幕府オランダ留学生)の養子となった。1884年(明治17年)、工部大学校を卒業。鉄道局に入り、鉄道作業局八王子出張所所長を務め、笹子トンネルの設計に携わった。日露戦争中は嘱託技師として、東清鉄道南部線の技術運営を担当した。南満州鉄道発足後は鉄道作業局に戻り、鉄道院技師、中部鉄道管理局長、技監、技術部長を歴任した。1913年(大正2年)、鉄道院副総裁に抜擢され、運輸局長も兼ねた。
関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政… 関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政5年10月28日)- 1924年(大正13年)11月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。号・剣山人。 越後国刈羽郡剣野村(新潟県刈羽郡枇杷島村大字剣野、柏崎町を経て現柏崎市剣野)で、関矢福右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)9月に家督を相続した。 柏崎県立学校などで学び、上條義塾の漢学教師を務めた。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)の高田事件で検挙された。その後、新潟市に移り、北越学館漢学教師を務め、東北日報、自由新報の記者となった。沿海州の漁業、ロシアとの貿易に着目して、北陸地方の発展のための必要性を訴えた。
井手 武右衛門(いで ぶえもん、1858年11月29日(安政… 井手 武右衛門(いで ぶえもん、1858年11月29日(安政5年10月24日)- 1925年(大正14年)12月13日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、玄洋社社員。旧姓・田中。 筑後国御原郡、のちの福岡県三井郡小郡村(現小郡市)で、田中利平の二男として生まれ、1878年(明治11年)4月、御笠郡筑紫村(現筑紫野市大字下見)の大地主・井手シケの養子となり、1879年(明治12年)2月、家督を相続し井手武右衛門を襲名した。 筑紫村助役(1892年8月 - 1896年9月)、筑紫村長(1899年10月)を務め、1886年(明治19年)1月、福岡県会議員に選出され、通算4期在任した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に福岡県郡部から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1… 松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1858年11月26日) - 昭和18年(1943年)6月30日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)。 加賀国石川郡村井村(現在の石川県白山市)出身。松田太郎兵衛の長男として生まれる。津田純一に法律学を、沼田悟郎に経済学を学んだ。1877年(明治10年)、戸長となり、1884年(明治17年)には石川県会議員に選ばれた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回まで9期務めた。第2回衆議院議員総選挙における選挙干渉の際には30余箇所の重軽傷を負った。 その他、石川機業会社・北陸鉄道会社の創設に関わり、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)まで北陸自由新聞社の経営にあたった。
鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(… 鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(安政5年10月14日)- 1929年(昭和4年)10月27日)は、明治から昭和初期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員、福井県会議長。 越前国足羽郡福井木田中町(福井県足羽郡福井木田中町、福井市木田中町を経て現:福井市西木田3丁目)で、茶商、薬種業・鷲田杏菀の長男として生まれた。1871年12月2日(明治4年10月20日)に家督を相続した。1881年(明治14年)東京大学医学部製薬学科を卒業した。 1882年(明治15年)福井県医学校教諭に就任。福井市豊(みのり)学区会議員、福井市会議員、同参事会員を務めた。1897年(明治30年)9月、福井県会議員に選出され、1903年(明治36年)9月まで2期在任し、第16代県会議長(1899年10月-1903年9月)も務めた。
隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858… 隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858年11月18日) - 1918年(大正7年)4月7日)は、日本の医学者。土木工学者(工学博士)の原龍太は実兄。 福島藩出身。藩医の原有隣の二男として生まれ、隈川宗悦の養子となった。1883年(明治16年)、東京大学医学部を卒業し、東京大学医学部第一医院当直医・東京大学御用掛となった。1884年(明治17年)から1889年(明治22年)までドイツに留学し、ベルリン大学で学んた。帰国後、駒込病院医長を経て、1891年(明治24年)に東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当した。また同年に医学博士の学位を得、1908年(明治41年)に帝国学士院会員にえらばれた。
中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5… 中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5年10月12日〉 - 1925年〈大正14年〉2月17日)は、日本の土木技術者。宮城県仙台市生まれ。東京帝国大学名誉教授。工学博士、日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父などと呼ばれる人物。駒沢給水塔(東京都世田谷区弦巻2丁目41番16号)の設計者として知られる。明治31年以降、旧東京市技師長、内務省技師、中央衛生会委員、都市計画調査会委員をつとめる。 箱根宮ノ下御用邸への給水引き込みの設計協力を行い、また東宮御所の水道施設をはじめ日本や満州の多くの近代水道施設を手がける。 1858年(安政5年)10月12日 - 仙台城下支倉通り(現宮城県仙台市青葉区支倉町)に生まれる。
島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(18… 島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(1858年11月17日) - 昭和2年(1927年)2月21日)は、衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)、ジャーナリスト。 近江国野洲郡中洲村大字新庄(現在の滋賀県守山市)出身。郷里で漢学を修めた後、京都に遊学した。1880年(明治13年)、滋賀県医学校に入学したが、翌年に東京に遊学した。東京で自由民権運動に参加し、1884年(明治17年)に自由党に入党。その後も立憲自由党の設立に尽力し、1892年(明治25年)から自由党滋賀県支部幹事を務めた。1894年(明治27年)、「淡海民報」を創刊し、1902年(明治35年)には「江州新聞」を創刊した。
大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858… 大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和15年(1940年)8月10日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。山本権兵衛の実弟としても知られる。史料によっては太田誠実とも。 大田盛実は、安政5年(1858年)10月11日に生まれ、父は山本盛珉、兄に後の海軍大将・内閣総理大臣となる山本権兵衛がいる。盛実は開拓使生徒として若くして海軍に入り、そこで才能を見込まれた。 明治15年(1882年)に鹿児島県士族・大田休左衛門の養子となり、同年に大田家の家督を相続した。妻はヨシ(元治元年生)で、長男に大田操(明治22年(1889年)11月29日生、十五銀行新橋支店長)がいる。
勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1… 勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の獣医学者。漢詩人。仙之介とも書く。号は仙坡。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。大阪英語学校を経て、1878年(明治11年)に駒場農学校に入学した。1882年(明治15年)、駒場農学校獣医学科を卒業。農商務省嘱託、助教授心得を経て、1887年(明治20年)に東京農林学校教授となった。1889年(明治22年)よりドイツに留学し、ベルリン高等獣医学校で学んだ。1891年(明治24年)に帰国し、帝国大学農科大学(のち東京帝国大学農学部)教授となった。1899年(明治32年)には獣医学博士の学位を受けた。