矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2… 矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2月3日〉 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 群馬県高崎市龍見町出身。1893年、群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。アメリカに留学し、帰国後は東京機器標本(株)取締役、多摩川水力電気(株)監査役となる。また、下谷区議、同議長、東京府議、同議長、東京市会議員を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京8区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では東京2区から立候補して当選した。衆議院議員を2期務めた。
益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12… 益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12月29日) - 1944年(昭和19年)4月10日)は戦前日本の教育者。名は祐之。筑前秋月藩出身で、号は故郷の古処山に因る。大橋陶庵、栗本義喬、楠本碩水等に漢学を学び、『福陵新報』記者、東筑中学校雇教師を経て、福岡県中学修猷館で約30年間漢文を教えた。
平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月… 平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月8日〕- 大正14年〔1925年〕9月10日)は、日本の実業家、官吏、特許辨理士。推理作家・江戸川乱歩の父。 三重県津市出身。武士の家柄で津藩の藤堂家に仕えていた七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生として卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきくと結婚し、1894年 (明治27年)第一子を儲け、太郎と命名。これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897年に東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月… 金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月30日〈慶應2年12月25日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家、自由民権運動家、会社重役。神奈川県高座郡藤沢町長(第2代)。関東興信銀行、神奈川県農工銀行各取締役。高座郡農会長。全国町村長会会長。中央報徳会理事。 相模国(のち神奈川県高座郡綾瀬村本蓼川、現・綾瀬市)出身。農民・武藤卯左衛門の三男。大庭の金子小左衛門の嗣子となる。耕余塾に学んだ。 横浜中学校卒業後は一時教職に就いた。1885年、有一館の館長・磯山清兵衛の誘いで大井憲太郎らの大阪事件に加わり、投獄され、軽懲役2年の刑をうける。1890年、保安条例に触れて東京を逐われ、同志と共に神奈川県倶楽部同青年会等を組織する。
二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年… 二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年1月28日(慶応2年12月23日) - 1944年(昭和19年)4月16日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は熊七郎。 安芸広島藩領佐伯郡大竹村(現・大竹市)出身。望戸清四郎の長男として生まれ、先代二階堂三郎左衛門寿光の養嗣子となり、襲名する。1890年(明治23年)25歳にして大竹郵便局長となる。ついで大竹町油見村組合会議員、大竹貯蓄銀行頭取、芸防抄紙社長、広島県農工銀行、日本紙業各取締役などを経て、広島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1918年(大正7年)5月3日から1925年(大正14年)9月28日まで務めた。
後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2… 後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2年12月22日) - 1938年(昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家、評論家。本名寅之助。 後藤三郎右衛門、斎藤サダ(花館村の斎藤勘左衛門の妹)の次男として生まれる。宙外の家家は後藤家の惣家とされる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している。後藤家は元豪族の旧家であったが、父の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。
永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応… 永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応2年12月21日) - 1923年(大正12年)1月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将 正四位 勲二等 功三級に至る。 永田健助の長男として江戸に生まれる。攻玉社から慶應義塾幼稚舎に移り、大人部に移る。海軍兵学校(15期)に転じ少尉候補生として登用される。その後海軍兵学校教官となり南清各地を視察。1903年(明治36年)、常備艦隊の幕僚となり日露戦争中は東郷平八郎大将の幕僚副官となり参謀部にあり。戦争終結ののち海軍省出仕となり勲三等に叙す。出雲艦、石見艦の副長となり、第一、第二駆逐艦隊司令官として横須賀に滞在。神戸高等商船学校長に在職中に死去。
井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2… 井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2年旧暦12月21日) - 1941年(昭和16年)8月15日)は、主に明治時代に活躍した桂園派の歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は音読みで「つうたい」ともいう。幼名は松岡泰蔵。雅号に南天荘。 実弟の一人に民俗学を大成した柳田國男がいる。 1866年(慶応2年)、儒者(医者)松岡操の三男として、姫路元塩町に生れる。松岡家は播磨国の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家で、父・操は姫路藩の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の仁寿山黌や好古堂で修学し、のちに医者となった。
牧野 菊之助(まきの きくのすけ、慶応2年12月21日(18… 牧野 菊之助(まきの きくのすけ、慶応2年12月21日(1867年1月26日) - 昭和11年(1936年)12月24日)は、日本の判事(大審院長)。帝国弁護士会名誉会員。 東京府出身。1891年(明治24年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1893年(明治26年)、前橋区裁判所判事となり、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、東京地方裁判所所長を歴任。1918年(大正7年)には法学博士号を取得している。1920年(大正9年)には名古屋控訴院院長となり、さらに東京控訴院長、大審院部長を歴任した。 1927年(昭和2年)に大審院長に就任した。
小野 寅吉(おの とらきち、1867年1月25日(慶應2年1… 小野 寅吉(おの とらきち、1867年1月25日(慶應2年12月10日) - 1947年〈昭和22年〉3月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、愛媛県会議長、愛媛県新居郡高津村長。 愛媛県新居郡沢津村(高津村を経て現新居浜市沢津町)で、篤農家・小野嘉平の長男として生まれる。1879年(明治12年)泉川の遠藤石山の稽崇館に入り漢学を修めた。家督を相続して農業を営む。 1893年(明治26年)高津村会議員となり、1897年(明治30年)高津村助役に就任。1908年(明治41年)高津村長となり1928年(昭和3年)まで在任。水資源確保のため吉岡泉を掘削し、西条農業学校(現・愛媛県立西条農業高等学校)の設立に尽力した。
杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年… 杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年12月19日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。日露戦争での広瀬武夫とのエピソードで知られる。 1867年に三重県奄芸郡磯山村(後の河芸郡栄村大字磯山、現在の鈴鹿市磯山町)で農業・杉野孫太夫の長男として生まれる。小学校卒業後、代用教員・巡査・監守を経て1886年3月に海軍水兵を志願し、二等水兵として[要出典]浦賀屯営に入営した。「日進」「筑波」と転乗し、1891年から「松島」回航委員付としてフランスへ渡った。 日清戦争では第五号水雷艇に乗り組み、威海衛防材排除の功によって勲八等白色桐葉章および年金36円を支給される。
田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日… 田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日〈慶応2年12月16日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月14日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。族籍は埼玉県士族。 武蔵国埼玉郡小針村(のち埼玉県北埼玉郡太田村大字小針、現:行田市)で、豪農・田島新之助、いよ夫妻の長男として生まれる。1879年6月、祖父・新六から家督を相続した。農業を営む。 農事改良に熱心に取組み、小針沼の浚渫事業を実施して良田に変え、1910年、耕作組合を組織して農民の意識と技術の向上に努めた。また、教育の充実を図り、設備整備、貧困家庭への教育援助を実施した。その他、青年文庫の設立、青年会の組織を行い風紀の改善に努め、家庭会を組織して会長に就任し、講習会を実施するなど太田村民の意識の向上に寄与した。
金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1… 金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1月20日〈慶応2年12月15日〉 - 1897年〈明治30年〉1月20日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ。アイヌ学校愛隣学校の教師。アイヌで最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物で、アイヌ初の伝道者である。 幌別アイヌの長老である金成喜蔵(アイヌ名:カンナリキ)の長男で、金成マツ(同名:イメカヌ)・ナミ(同名:ノカアンテ)姉妹の従兄で、知里幸恵・高央・真志保姉弟の従伯父である。 1877年(明治10年)5月に常盤小学校に入学し、ただ一人アイヌ生徒として教育を受けた。聖公会の宣教師のジョン・バチェラーにアイヌ語を教えていく中で、キリスト教に入信して、1885年(明治18年)にバチェラーより、アイヌとして最初の洗礼を受けた。
岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年… 岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年1月19日〉 - 1922年〈大正11年〉3月23日)は、明治・大正期の法学者・弁護士。子に数学者の岡村博がいる。 下総国猿島郡古河町(現:茨城県古河市)に古河藩家臣・岡村忠右衛門の次男として生まれた。二松学舎で漢学を学んだ後、帝国大学でフランス法を専攻する。1892年(明治25年)に大学を卒業し、陸軍経理学校教授などを経て1899年(明治32年)に京都帝国大学法学部助教授となりフランスに留学、3年後に帰国して教授になった。同じころの留学生に坪井玄道、谷本富、大村仁太郎、森岡常蔵らがいる。1900年(明治33年)には中川小十郎が設立した京都法政学校講師に就任。
高柳 広蔵(たかやなぎ ひろぞう、1867年1月18日(慶応… 高柳 広蔵(たかやなぎ ひろぞう、1867年1月18日(慶応2年12月13日) - 1947年(昭和22年)2月14日)は、日本の政治家。北海道岩見沢の村長・町長・市長を務めた。 1867年(慶応2年)1月、上野国(後の群馬県佐波郡豊受村、現伊勢崎市)に高柳家の四男として生まれる。東京法学院(現・中央大学)を卒業。その後、英語教師を経て、岩見沢に入植した。1895年(明治28年)7月、岩見沢村毛陽に入植し200町歩の開墾に従事。 1901年(明治34年)7月10日、同年6月11日に今井勇吉が辞職したため、村会の村長選挙により2代目岩見沢村長に選出され、就任。以来、39年間にわたり村長・町長・市長を務めた。
富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶… 富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶応2年12月13日)- 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡美守村(三和村を経て現上越市)出身。東京英和学校で学ぶ。アメリカに渡り、イリノイ大学で学ぶ。帰国後、新潟地方森林会議員、中頸城郡農会長、新潟県農友会長、美守村議、同村長、産業組合中央会監事、同新潟支会長、至誠信用組合長、県信用組合連合会会長、百三十九銀行、新潟貯蓄銀行各取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲国民党公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補して再選した。
永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2… 永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2年12月12日) - 1942年(昭和17年)10月20日)は、日本の外交官、実業家。上海総領事、ホノルル総領事を経て退官後、安田保善社参事や、東京建物常務取締役、満州興業社長等を歴任した。 越後国刈羽郡野田村(現柏崎市)生まれ。元野田村戸長の永瀧治助は祖父。新潟県立新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1889年英吉利法律学校(現中央大学)及び専修学校(現専修大学)法律科卒業。専修学校創設者田尻稲次郎などに師事。1890年代言人試験及文官高等試験合格。1891年司法省入省、東京地方裁判所司法官試補。同年外務省入省、取調局配属。 1893年釜山領事官補。
大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2… 大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)9月9日)は、日本の化学者。京都帝国大学名誉教授。 物理化学の基礎を池田菊苗と共に生み出したことで知られている。 士族であった雨夜平八の次男として加賀に生まれる。東京帝国大学に入学し櫻井錠二から理論化学を学ぶ。1892年(明治25年)に卒業後、第五高等学校を経て東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)にて教鞭を執った。 1899年(明治32年)には親交のあった池田と共にドイツに研究のため留学した。ライプツィヒ大学に入学し、同大学の教授であったヴィルヘルム・オストヴァルトから触媒作用研究に携わり、後に転校しゲッティンゲン大学にてヴァルター・ネルンストから電気化学を学ぶ。
勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(… 勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(慶応2年12月12日) - 1923年(大正12年)12月17日)は、日本の法学者(刑法)・検察官・弁護士。京都帝国大学などを歴任。財団法人立命館初代協議員。 フランス刑法が通説的地位を支配していた旧刑法時代に、ドイツにおける旧派と新派の学派争いを日本に紹介した人物であり、基本的立場は、新派刑法理論に立つが、その犯罪理論は、不能犯において客観説をとるなどむしろ主観主義的色彩の薄いものであった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月… 伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月12日(1867年1月17日) - 1933年(昭和8年)10月3日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。 現在の佐賀県佐賀市出身。父の事業を継いで佐賀の栄銀行(佐賀銀行の前身の一つ)頭取を務め、同行を中心に多数の企業に関係して「佐賀財閥」と呼ばれる地方財閥を築いた。また佐賀県下有数の地主でもあり、佐賀県多額納税者として貴族院議員を1期7年務めている。 佐賀県外では電気事業や鉄道事業にかかわり、九州電灯鉄道・東邦電力社長、九州鉄道(現・西日本鉄道)初代社長を歴任した。 伊丹弥太郎は慶応2年12月12日(1867年1月17日)、佐賀県士族伊丹文右衛門の長男として生まれた。
中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年… 中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)1月16日)は、日本の篤農家。明治期の豊橋地域において温室栽培を始めた人物。 三河国渥美郡野田村の農家中島市兵衛の次男として生を受ける。当時の義務教育である小学校4年を修業したのち、1880年(明治13年)からは夜学に5年間通いつつ、家業である農業を手伝う。稲作や麦作にかわる現金収入となる作物の研究を行い、1887年(明治20年)ごろにはタマネギや桃といった園芸作物の栽培、さらには温室栽培を試みるようになった。 1901年(明治34年)には自宅の風呂場横に5坪のガラス温室を新設し、山椒の栽培を始める。
関田 英穂(せきだ ?、1867年(慶應3年)1月17日 -… 関田 英穂(せきだ ?、1867年(慶應3年)1月17日 - 1943年(昭和19年)10月27日)は、高知県長岡郡大篠村大そね254番屋敷に生まれた高知県人。大篠村村長やその他地方自治に尽力した。 土佐国長岡郡大篠村大そね関部落に生まれる。(現・南国市大そね)1867年(慶応3年)1月17日に、関田為三郎と登良の長男として生まれる。初名は駒太郎。明治27年2月15日英穂に改名願。幼少のころは、琴平神社宮地氏のもとで漢籍を学んだ。性格は温厚篤実であり、郷党信望していた。 明治38年、大篠村助役になった後、続けて大篠村村長に推薦されて4期にわたり村長を勤めた。歴代村長には、溝淵静閑や岡上忠兵衛、島崎清美や関田為平などがいる。
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応… 戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日)– 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。三重県四日市市長。 丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した。
岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1… 岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1月13日(慶応2年12月8日) - 1923年(大正12年)3月29日)は、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)出身の酒造家・刈谷町長。 慶応2年12月8日(1867年1月13日)、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)に生まれた。父は岡本瀧三郎。岡本家は庄屋を務めていた家であり、酒造業を生業としていた。 1911年(明治44年)9月から1912年(大正元年)7月まで刈谷町会議員を務めた。1915年(大正4年)6月には刈谷町長に推されて就任した。1919年(大正8年)9月には5代目藤井清七が岡本の後任の刈谷町長に就任したが、1921年(大正10年)7月には岡本が再び刈谷町長に就任した。
石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年1… 石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年12月7日) - 1936年(昭和11年)4月3日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 伊豆国賀茂郡、のちの静岡県賀茂郡中大見村(田方郡中大見村、中伊豆町を経て現伊豆市)に生まれる。慶應義塾に学ぶ。韮山村会議員、君沢・田方二郡連合会議員、静岡県会議員、同参事委員を歴任した。財界では、三島乾燥、沼津委託倉庫各社長、東海起業取締役を務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、18… 松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、1867年1月8日〈慶応2年12月3日〉- 1937年〈昭和12年〉1月16日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県西松浦郡伊万里町長。 肥前国松浦郡伊万里町(現佐賀県伊万里市伊万里町)で、素封家・松尾貞吉の長男として生まれる。漢学を修める。 1904年(明治37年)、陸海軍の諸機械器具製造を行う松尾鉄工所を設立。家業をたばこ専売のほかに郡内の「煙草元売捌所」を開業して拡大。その他、伊万里銀行監査役、伊万里鉄道監査役、魚市 (名) 社長、東洋油脂工業取締役などを務めた。 政界では、伊万里町会議員、西松浦郡会議員などを務め、1911年(明治44年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、一期務めて1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応… 床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応2年12月1日〉- 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の官僚、政治家(衆議院議員)。内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣を歴任し、政友本党総裁も務めた。鹿児島県士族。「床次竹次郎」は誤りである。 慶応2年12月1日(1867年1月6日)、薩摩藩士の床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市新照院町に生まれる。幼名は竹熊。1872年(明治5年)に父の正精は上京して検事を務めていたが、6歳の竹二郎を含む家族は薩摩に残った。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では西郷死後に大久保利通の留守宅(空き家)を友人と叩き壊した。戦争で家や学校が焼かれたため、父の招きにより上京し、以後東京で教育を受けることとなった。
松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年1… 松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年11月28日) - 1953年(昭和28年)5月2日)は、日本の政治家、地主。衆議院議員(当選5回、立憲政友会所属)、新十津川村長。参議院議員橋本聖子の大叔父にあたる。 大和国吉野郡南十津川村(現在の奈良県吉野郡十津川村)出身。奈良県士族・松実漏器の長男。 1884年(明治17年)に上京し、成城学校、慶應義塾で学ぶ。東京時代には三田の下宿で血脇守之助、矢野文雄、藤田茂吉らと政談を闘わせた。1890年(明治23年)に横浜商業学校を卒業した。その前年に十津川大水害があったのをきっかけに、十津川村民とともに北海道樺戸郡に移住し、新十津川村を開いた。
大槻 弌(おおつき はじめ、1867年1月(慶応2年12月)… 大槻 弌(おおつき はじめ、1867年1月(慶応2年12月) - 1942年2月15日)は、日本の薬学者。正六位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校長。長女・芳は法医学者古畑種基の妻。 大阪府人・大槻季夫の長男。1894年7月、帝国大学医科大学薬学科卒業、薬学士の称号を得た。更に大学院に学んだ。1915年、博士会の推薦により薬学博士の学位を授けられた。 1921年、家督を相続した。趣味は旅行。宗教は神道。大阪府在籍で、住所は堺宿院町。1950年の時点で故人。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
岡本銺太郎(おかもと そうたろう、1867年 - 1918年… 岡本銺太郎(おかもと そうたろう、1867年 - 1918年)は、日本の建築家である。清水組(現:清水建設)の第4代技師長をつとめ、澁澤倉庫や清水組本店などを設計した。 慶応3年(1867年)、江戸で誕生。明治23年(1890年)に東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、翌年より清水組の技師となる。岡本の前妻は技師長渡辺譲の妹であり、その縁故での入社と考えられている。明治33年(1900年)より1年間洋行し、明治34年(1901年)より技師長となる。大正2年(1913年)に田辺淳吉を後任とするも、その後2年ほど監事として社に留まる。清水組が合資会社になる直前に退店。大正7年(1918年)没。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
加藤 与之吉(かとう よのきち、1867年 - 1933年)… 加藤 与之吉(かとう よのきち、1867年 - 1933年)は、日本の土木技術者、都市計画家。鹿嶺という雅号をもつ。 1867年、武蔵国(のち入間県高麗郡上鹿山村、現在の埼玉県日高市大字上鹿山)に生まれる。1894年、帝国大学工科大学土木工学科卒業。1895年、新潟県土木課に勤務、1897年には土木課長となり、道路、河川改修工事にあたる。加藤自身が農村出身であることから、地元民を良く理解してその任を務め、尊敬を受けたという。県技師時代、新潟市から1901年10月、内務省技師の土田鉄雄とともに上水道布設調査・設計を委託されている。 日露戦争後の1907年に、南満州鉄道の付属地長春の都市建設にかかる際総裁後藤新平は、担当の人選に際して土木行政・都市計画の担当については高潔な人材を求めた。
可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)… 可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)は、日本の獣医師、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は獣医中将。 福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)に生まれる。1873年に上京し、旧小浜藩主の酒井家邸内に居住した。幼少期より馬を好み、厩で馬を見ていたという。 東京府立中学校で、高田早苗や坪内逍遥から教えを受ける。1892年に東京農林学校(現・東京大学農学部)獣医医学科を卒業する。牧畜への興味から入学後に獣医学科に移ったという。卒業後はそのまま研究生として残り同校の講師となる。 その後神奈川県庁・和歌山県庁に勤務して、牧畜に関する講演活動に従事した。1894年、同郷でもある和田維四郎の紹介で陸軍3等獣医となる。
佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) … 佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) - 1944年(昭和19年))は、明治期の鉄道実業家。 豊前国(現・大分県)中津生まれ。藩校進脩館、中津市学校を経たのち慶應義塾を経て郷里中津に帰る。山陽鉄道、豊州鉄道を経たのち日本紡績会社社長となる。その後南海鉄道(現・南海電気鉄道)に転じ副支配人となる。のちに欧米を視察し南海鉄道に改良を加える。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明… 鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明治から昭和にかけての挿絵画家、口絵画家。 1867年に和歌山市に生まれる。本名は為之丞。または尚俊とも号している。父は和歌山藩士であったが、明治維新によって職を失い、その後に始めた事業にもことごとく失敗、錦泉は和歌山にいる頃から筑紫翠雲に師事、南画を習い、雲溪という号をもっていた。その後、錦泉は大阪に出て絵を描こうとしたが、大阪という商業都市では南画は受け入れられなかった。そこで、生活のため、独学で浮世絵を学び、夥しい数に上る講談本の口絵や『神戸新聞』の挿絵を描くようになった。勤勉な性格で有職故実を習得、間違いのない時代考証に基づいた木版口絵を描くことに努めたほか、文筆面においても達筆であった。
比嘉 保彦(ひが やすひこ、1867年 - 1937年12月… 比嘉 保彦(ひが やすひこ、1867年 - 1937年12月11日)は沖縄県出身の日本メソジスト教会所属の牧師である。 読谷山尋常高等学校で小学校の校長をしていたが、3人の子供を2年間のうちに亡くす。自分の子供の連続した死を、ユタに不運の解明と将来を占わせていたが解決はなかった。 1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会に行き、キリスト教伝道館に入り、キリスト教の説教を聴いて感銘を受けて、地元沖縄でも教会に通うようになった。那覇メソジスト教会の立て看板に書かれていたマタイ福音書11章28節に心を引きつけられ、クリスチャン医師の勧めで牧師を訪ねて以来、キリスト教を受け入れ1902年に洗礼を受けた。
浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年(慶応3年3月… 浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年(慶応3年3月) - 1910年(明治43年)9月25日)は、日本の医師,篤志家。ベトナムの東遊運動の指導者だったファン・ボイ・チャウを支援した事で有名である。 1867年(慶応3年3月)、遠江国山名郡梅山村(後の磐田郡東浅羽村梅山、現在の静岡県袋井市梅山)にて生まれた。佐喜太郎の父・義樹は神社の神職だったが、戊辰戦争で官軍に加わった事をきっかけに軍人に転向した人物だった。佐喜太郎は東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業した。 生来、困っている人を見ると助けずにはいられない性分で、貧しい患者から決して金銭を取ろうとせず、むしろ金銭を施した程であったと伝わっている。
佐藤東華(さとう とうか、1867年(慶應3年)- 1923… 佐藤東華(さとう とうか、1867年(慶應3年)- 1923年(大正12年)12月16日)は、明治・大正時代のジャーナリスト。本名は佐藤敬吉(さとうけいきち)。 猊鼻渓(岩手県一関市東山町)の観光地開発に携わった佐藤猊巌(さとうげいがん)の実弟。1916年(大正5年)「磐井(いわい)の名勝」を出版、猊鼻渓の項あり。仙臺風藻(せんだいふうそう)1912年(大正元年)9月27日出版によると、慶應3年 丁卯 生まれで、中陸新聞、仙臺新聞、秋田魁新報などの記者として従事中と記載がある。後に北海道に移住した。また、「胆振公論」(いぶりこうろん)という雑誌を発行していた。生前に、3冊の書籍を出版している。大正12年12月16日に没す。
磯千鳥 重五郎(いそちどり じゅうごろう、1867年(慶応2… 磯千鳥 重五郎(いそちどり じゅうごろう、1867年(慶応2年12月)- 1922年(大正11年)9月)は、明治時代の大相撲力士。本名笹島 重太郎。最高位十両5枚目。年寄9代玉ノ井。 富山県砺波郡東石黒村(のち西砺波郡東石黒村→東砺波郡福野町、現南砺市)生まれ。玉ノ井部屋に入門し、1889年1月磯千鳥の四股名で序ノ口に就く。1895年幕下に上がる。1900年に師匠玉ノ井が亡くなり、1902年1月より二枚鑑札となり玉ノ井に改名。1902年5月新十両。十両在位3場所で幕下に陥落し、最終的には1909年6月場所で三段目にまで陥落して引退し、年寄専務になる。 1922年9月死去、55歳没。
氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応… 氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応2年11月24日) - 1939年10月25日)は、日本、清国の教育者。 氏家作造の長男として岩手県水沢に生まれる。1893年東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。 1893年福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、山口高等中学校教授、第二高等学校教授、宮城県立仙台第一中学校校長を歴任し、1904年再び第二高等学校教授となる。 1904年、在官のまま、清国政府の招聘に応じて京師大学堂(現・北京大学)師範館教習に就任し、1909年帰国したが、官を辞し、再び清国政府の招聘に応じて河南省開封府の優級師範学堂教習となる。 1911年早稲田大学理工科教授および評議員に就任し、早稲田高等学院教授・理科主任も務め、物理学を講じた。
吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日〈慶応2… 吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日〈慶応2年11月23日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月19日)は明治~昭和時代の漢学者。昭和の元号の考案者である。号は「学軒」。 1866年(慶応2年)、福岡県京都郡勝山町(現:みやこ町勝山)で生まれた。村上仏山(村上彦左衛門)の漢学塾・水哉園で学び、漢詩文に抜群の才能を示した。京都帝国大学に入学して支那哲学を専攻。卒業後、英語を学ぶためにアメリカに渡った。 帰国後は、更に漢学・漢詩研鑽に力を注ぎ、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)、山口県立豊浦中学校(現豊浦高等学校)で教職に就いた。奈良時代に、宮内省帝室博物館が管理する正倉院に出張してきた帝室博物館総長兼図書頭の文豪・森鷗外と知り合う。
山科 慎次郎(やましな しんじろう、慶応2年11月23日(1… 山科 慎次郎(やましな しんじろう、慶応2年11月23日(1866年12月29日) - 昭和10年(1935年)5月5日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。1893年(明治26年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1894年(明治27年)、弁護士試験に合格し、翌年から尾道市に事務所を開いた。1901年(明治34年)より尾道市会議員に選ばれ、1913年(大正2年)には議長に就任した。その他、尾道商業会議所特別議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(… 西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日)- 1925年(大正14年)7月24日)は、明治から大正期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、大阪府三島郡玉櫛村長。 摂津国島下郡内瀬村(大阪府島下郡玉櫛村大字内瀬、三島郡玉櫛村大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した。 大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校で訓導・校長に在任した。 その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された。
大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(… 大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(1866年12月26日) - 1961年(昭和36年)2月13日)は、名古屋市長。弁護士。 美濃国大垣出身。1866年に父・次助と母・幸の第6子(五男)として生まれる。大垣小学校、岐阜華陽学校大垣分校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後は名古屋市で弁護士事務所を開業した。弁護士業務のかたわら、愛知法律学校を創設して校長に就任し、また『金城新報』の編集監督も務めた。1896年(明治29年)には名古屋弁護士会長に選出された。 名古屋市会議員、同参事会員、名古屋市会議長に選出され、1921年(大正10年)には名古屋市長に就任した。
宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應… 宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應2年11月17日〉 - 1928年〈昭和3年〉10月17日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した大阪の実業家。大阪堂島米穀取引所理事長、神戸商品取引所理事長、大阪電灯社長、大同電力副社長を歴任し、大阪土地建物や門司築港を創設するなど、関西実業界の重鎮として活躍した。旧姓は角中、別名は主一郎。 宮崎敬介は、慶應2年11月17日(1866年12月23日)、角中豊平の四男として生まれた。出身は熊本県天草郡・天草上島の島子村(有明町を経て現・天草市)。生まれは東京、または大阪ともされる。熊本県人・宮崎勇太郎の養子となり宮崎姓を称し、1895年(明治28年)に分家した。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応… 安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応2年11月15日) - 1953年(昭和28年)7月24日)は、愛媛県議会議員、歴史学者、画家、俳人である。 伊予国(現在の愛媛県)宇摩郡小富士村出身。幼名岸蔵、通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び、1872年(明治5年)に小学校(方正校)に入る。小学校卒業後、尾崎星山、合田福太郎に学ぶ。1886年(明治19年)正楽と改名。1888年(明治21年)福沢諭吉の「学問のすすめ」に感動。1889年(明治22年)10月上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、イタリア人パテルノストロ博士や岩谷孫蔵らから国際法を学ぶ。卒業後、1892年(明治25年)京都帝大教授になった岩谷に従い京都にてローマ法の翻訳に従う。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年… 守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月8日)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家。 専門商社・守谷商会の創業者。 備中国浅口郡本庄村(現在の岡山県浅口市)に、守谷金八の長男として生まれた。 幼少期から林李渓に学んだ。1885年に岡山県師範学校中等科を卒業し、県下の小学校(1886年からは尋常小学校)に勤務した。 その後上京して慶応義塾本科で学ぶ。慶應義塾への入学は、『慶応義塾入社帳 第4巻 入社帳24号-29号』(慶應義塾、1986年)によると1891年10月だった(同書p.174)。1892年に慶應義塾を卒業する。卒業後は三井組に入り、地所部から、芝浦製作所の工場事務、三井銀行の本店や支店に勤務した。
小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応… 小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応2年11月5日)- 1929年(昭和4年))は、埼玉県出身の医師である。 武蔵国秩父郡高篠村定峰出身。貧しい百姓の家に生まれ苦労したが、辛酸奮励の中で医学を修め医者となる。1887年(明治20年)医学開業試験に合格した後、軍医として、日清戦争や日露戦争に参戦する。 明治34年(1901年)より3年間ドイツ・プロイセン国ゲッティンゲン大学医学部へ留学し、「脳の腫瘍に関する症候」についての論文を記して医学博士号(ドクトル・メディチーネ)を取得して帰国する。ゲッティンゲン大学では、当時医学部長であったヴィルヘルム・エップシュタイン教授や特任講師であったビッケル講師、ルートゥビッヒ・アショフ教授(1903年からマールブルク大学教授となり、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士と共に過ごした時期もあった)に師事。
乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2… 乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2年11月4日) - 1936年(昭和11年)8月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 大和国平群郡、のちの奈良県生駒郡平端村(昭和村、郡山町を経て現大和郡山市)出身。漢学を学ぶ。金糸巻機械を発明し、その製造に当たる。平端村長、生駒郡会議員、奈良県会議員、同参事会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において奈良県郡部から無名倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1936年に死去した。