黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)… 黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)1月1日 – 1967年(昭和42年)3月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の栃木県塩谷郡高根沢町で黒崎邦三郎の子として生まれる。1897年(明治30年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年に砲兵少尉に任じられた。さらに1908年(明治41年)に東京帝国大学工科大学電気科を卒業した。大阪砲兵工廠技術課長、陸軍技術本部総務部長、大阪砲兵工廠弾丸製造所長、陸軍技術本部第一部長を歴任した。1927年(昭和2年)、陸軍中将に昇進し、翌年には陸軍科学研究所所長に就任した。1932年(昭和7年)、予備役に編入された。 その後、奉天造兵所株式会社代表取締役、満洲計器股份有限公司監査人、奉天商工会議所特別議員を務めた。
田中 一馬(たなか かずま / はじめ、1877年(明治10… 田中 一馬(たなか かずま / はじめ、1877年(明治10年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 京都府南桑田郡亀岡町(現・亀岡市)で実業家・田中源太郎の長男として生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、さらに同専攻部を卒業。 1907年(明治40年)以降、京都工商社長、同会長、亀岡銀行頭取、伏見銀行取締役、京都織物社長、同会長、京都電燈社長、京都商工会議所議員、京都取引所理事などを務めた。 1925年(大正14年)京都府多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、公正会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで1期在任した。
信太 時尚(しのだ ときなお、1877年〈明治10年〉1月 … 信太 時尚(しのだ ときなお、1877年〈明治10年〉1月 - 1922年〈大正11年〉9月23日)は、日本の内務官僚。 秋田県出身。士族柿岡源十郎の二男として生まれる。信太家には養子に入った。 第二高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月の文官高等試験に及第し、司法省司法官試補から内務省に転じた。 以後、和歌山、福井、山梨各県の事務官、滋賀県港務部長、島根県内務部長、長崎県港湾部長を歴任するが、この間、呼吸器を患い2年ほどの休養をとっている。 その後、高知県内務部長、長崎県内務部長を経て、1921年(大正10年)12月、富山県知事に任命され、翌年1月12日に着任した。
堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 … 堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 - 没年不明)は、広島高等学校教授。族籍は長野県士族。 長野県士族・堀江久次の二男。松本市生まれ。1927年、家督を相続。1904年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。茨城県立太田中学校教諭、秋田鉱山専門学校教授同生徒監、山形高等学校教授等を歴任。 1922年、倫理及び教育研究のため独英に留学し、1924年、広島高等学校教授に任ぜられ1932年、退官する。趣味は文学、絵画、園芸。宗教は仏教。住所は広島市白島九軒町、東京市世田谷区玉川等々力町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石川 文吾(いしかわ ぶんご、1877年(明治10年)1月 … 石川 文吾(いしかわ ぶんご、1877年(明治10年)1月 - 1946年(昭和21年)11月20日)は、日本の商学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。 東京府出身。海軍省技師などを務めた祖父の石川正員に養われ、1897年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1899年からベルギー、ドイツ帝国に留学。高等商業学校附属外国語学校(現東京外国語大学)助教授、高等商業学校助教授、同教授を経て、1920年東京商科大学予科主事、明治大学商学部教授。1922年東京商科大学教授兼予科教授、汎太平洋協会商業会議政府代表員、商学博士。1935年社会保険調査会委員。1937年叙正三位。1940年教育功労者並徳行者表彰受賞。
野口 清(のぐち きよし、1877年 - 1930年)は、日… 野口 清(のぐち きよし、1877年 - 1930年)は、日本の柔術・剣術家。号は潜龍軒、一威斎。名は兼信。 神道六合流柔術と神道扶桑流剣道の創始者である。明治時代に兄の野口正八郎が始めた帝國尚武會で師範長を務めた。昭和頃に帝國尚武會の会長となった。 別名、野口潜龍軒(のぐちせんりゅうけん)。 1877年(明治10年)10月、栃木県下都賀郡絹村(後の小山市)の野口長重の次男として生まれる。野口家は幕府旗本大森信濃守の末裔である。父長重は大日本武徳会に所属する剣術家であった。また、兄の野口正八郎は帝国尚武会を設立して武術の通信教育をしたことで知られている。幼少より父長重から夢想流柔術、無念流剣術を学ぶ。
皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - … 皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - 1949年(昭和24年))は、日本の英文学者、翻訳家、教育者。雅号は真拆。 1877年(明治10年)、福島県会津(現在は新潟県東蒲原郡阿賀町)に生まれた。皆川家は、土地の旧家で総鎮守西村八幡宮の神宮を務めていた大地主であったという。 1900年(明治33年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学。 在学中、小泉八雲の講義を2年半受けた。正禧が八雲の講義を筆記したノートが10冊残されており、1904年(明治37年)11月の『帝国文学』で追悼特集(八雲は9月に逝去)が組まれたとき、正禧は「蓬莱」という追悼文を寄せている。 1903年(明治36年)、最上級生のとき、八雲の後任として夏目漱石が赴任し、卒業までの3ヶ月間、「文学の一般概念」という講義を受けた。
栗原 廣太(くりはら ひろた、1877年(明治10年) - … 栗原 廣太(くりはら ひろた、1877年(明治10年) - 1955年(昭和30年))は戦前日本の官僚。 宮内省、南満洲鉄道東亜経済調査局、東京市に勤務した。 鳥取県の士族の家に生まれ、栗原茂吉と養子縁組して、家督を相続した。 1898年(明治31年)に日本法律学校(日本大学の前身)を卒業した。 1901年(明治34年)に高等文官試験に合格し、翌年宮内省に採用される。 1907年(明治40年)、大臣官房調査課長となる。 1914年(大正3年)、昭憲皇太后大喪後に退職した。 1920年(大正9年)から南満洲鉄道嘱託となる。 1923年(大正12年)から東亜経済調査局主事となる。 1934年(昭和9年)から東京市嘱託に転じた。
渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉… 渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉 - 1939年〈昭和14年〉)は、日本の教育者、経済学者。松山高等商業学校第2代校長。 1877年(明治10年)、愛媛県下浮穴郡田窪村(後の温泉郡重信町、現・東温市)に生まれる。 1897年(明治30年)に松山中学校を卒業し、文部省中等教員検定試験に合格して松山中学校の教員となった。 自学の志が高く、東京に出ると、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。しかし、1903(明治36年)に東京英語専修学校が閉校すると、同年、早稲田大学に編入して、翌1904年(明治37年)に大学部政治経済学科を卒業する。 同年、留学のためアメリカに渡り、1905年(明治38年)にイェール大学に入学すると、1907年(明治40年)に経済学を修めて大学院を卒業し、修士(MA)の学位を取得した。
渡辺 栄(わたなべ さかえ、1877年〈明治10年〉 - 1… 渡辺 栄(わたなべ さかえ、1877年〈明治10年〉 - 1958年〈昭和33年〉)は、日本の剣道家(直清流)。大日本武徳会剣道範士。昭和天覧試合に2回出場した。 香川県丸亀市に生まれる。1906年(明治39年)から1909年(明治42年)まで大日本武徳会本部で剣道を修行する。 1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。古賀恒吉、富田長太郎、島谷八十八とリーグを戦い、1勝2敗で敗退する。 1932年(昭和7年)、大日本武徳会から剣道範士号を授与される。 1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会特選試合(模範試合)に出場し、植田平太郎との試合を披露した。
浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年… 浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年)は長野県出身の造船技師。造船の権威として知られ、東京帝国大学教授も務めた。従四位、勲三等瑞宝章受章。 長野県南佐久大日向にて、1877年(明治10年)4月3日に浅川愿三郎(嘉永3年生)の二男として生まれる。幼少期に起きた秩父事件では生家が豪農として目を付けられ襲撃を受けたが、予め避難しており家族に被害は無かった。1896年(明治29年)松本中学校を卒業。金沢の第四高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ進学。1902年(明治35年)7月に同大学の造船学科を卒業し、大阪鉄工所に入社した。ここで日本最初の油槽船・虎丸を設計。その後、1911年(明治44年)に神奈川県の浦賀船渠へ移った。
本郷 高徳(ほんごう たかのり、1877年(明治10年) -… 本郷 高徳(ほんごう たかのり、1877年(明治10年) - 1945年(昭和20年))は、日本の造園家。造園学者。教育者。日比谷公園の設計、東京帝国大学、千葉高等園芸学校で後進の育成にあたった。
本城 嘉守(ほんじょう よしもり、1877年(明治10年) … 本城 嘉守(ほんじょう よしもり、1877年(明治10年) - 1960年(昭和35年))は、日本の陸軍軍人、政治家。初代徳山市長(現・周南市)。父に本城宣馬。徳山七士の一人本城清は祖父にあたる。
田尻 常雄(たじり つねお、1877年 - 1957年4月1… 田尻 常雄(たじり つねお、1877年 - 1957年4月18日)は、日本の商学者。大正から第二次世界大戦中まで、長崎高等商業学校校長、横浜高等商業学校校長を務め、戦後は東京経済大学理事長、学長などを歴任した、
吉田 長三郎(よしだ ちょうざぶろう、1877年 - 没年不… 吉田 長三郎(よしだ ちょうざぶろう、1877年 - 没年不明)は二代目・田中長兵衛の実弟。兄を補佐し田中鉱山の取締役を務めた。 官省御用達商人として軍への糧食や鉄材の調達を担っていた田中長兵衛の三男として1877年(明治10年)3月17日、後の東京府京橋区に生まれる。長兄の安太郎とは19歳、三姉・きちとも11歳離れた末っ子で、母・みなの実家である吉田家を継いで吉田長三郎を名乗った。慶應義塾幼稚舎より高等科に進み、1897年(明治30年)に卒業。生家田中家の家業である鉱山業に携わる。 1901年(明治34年)11月に実父・長兵衛が死去すると兄の安太郎が家督を相続し二代目・長兵衛を襲名した。長三郎は1904年(明治37年)からその翌年にかけ行われた日露戦争に出征。
椙山 今子(すぎやま いまこ、1877年 - 1965年4月… 椙山 今子(すぎやま いまこ、1877年 - 1965年4月13日)は、岐阜県生まれの名古屋市の教育者。椙山女学園を夫である椙山正弌と共に設立した。旧姓・中村、本名・いま。 岐阜県師範学校卒業後、女子技芸教育改善を志し当時評判のよかった、裁縫教育先駆けの東京裁縫女学校(現、東京家政大学)に入学する。椙山正弌とは、東京裁縫女学校での修行時代に出会い、故郷を同じくし共に岐阜師範学校同窓生と共通点があり、意気投合して出会って3年後の1905年(明治38年)に結婚した。明治38年2月、椙山正弌・今子は中京の地へ戻る。 女子教育・人間性開発の教育をかかげて、夫と共に名古屋裁縫女学校(現、椙山女学園大学)を設立する。
山本 新太郎(やまもと しんたろう、1877年 - 1918… 山本 新太郎(やまもと しんたろう、1877年 - 1918年10月4日)は、明治・大正期の海軍軍人。 青森県下北郡田名部町出身。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年海軍少主計任官。 第十駆逐隊附海軍中主計、大湊要港部附海軍中主計、宗谷乗組海軍大主計等を経て、1913年海軍経理学校甲種学生教程卒業、海軍主計少監、叙従六位勲四等。 1918年軍事視察のためヨーロッパに出張した際、帰国のためリヴァプールから乗船した平野丸がUボートにより撃沈され戦死し、海軍主計中監に特進し、正六位勲三等旭日中綬章を追贈され、ロンドン日本人倶楽部で追悼会が開かれた。 ウェールズ地方ペンブルックシャー州アングルのセント・メリーズ教会に平野丸殉難者の墓碑が建てられたが、埋葬記録には「身元不明、男性、40歳前後」とあるのみで、山本が埋葬されているかは不明。
張振武(ちょう しんぶ、1877年 - 1912年8月16日… 張振武(ちょう しんぶ、1877年 - 1912年8月16日)は、清末民初の民主革命家・軍人。武昌起義の主要人物の一人。原名は堯鑫、字は春山、別名竹山として知られる。湖北省羅田県出身だが、後に竹山県に居住した。共和元勲の尊称を持ち、同じく名前に「武」が入る孫武や蔣翊武と併せて「辛亥三武」と呼ばれる。 張振武は湖北省羅田県の裕福な家庭の出身で、後に竹山県に居住した。 沈廷楷、韓孝堅ら地元名士に師事。県の高等学堂卒業後、1900年に湖北師範学校に入学、法律と政治を勉強するために1904年に自費で早稲田大学へ留学、体育を通して軍事訓練に参加した。 1905年に中国同盟会参加。 1907年(光緒33年)卒業後は清に戻り、武昌の黄鶴楼小学校で教鞭をとったが、反清革命を広めたとして、江蘇巡撫陳夔龍(中国語版)に危うく逮捕されるところだった。
井西 桑吉 (いにし くわきち、1877年 - 1939年)… 井西 桑吉 (いにし くわきち、1877年 - 1939年)は、元稲城村長である。 矢野口に生まれる。1902年に桃園を購入する。 矢野口の自治会長を務めた後、1935年に村長に就任する。 村長時代初期に多摩川原橋が開通する。 おそらく病気のため、1939年4月辞職し、間もない1939年6月死去。
高平 久吉(たかひら ひさきち、1877年(明治10年) -… 高平 久吉(たかひら ひさきち、1877年(明治10年) - 1927年(昭和2年)3月18日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。西成田小学校卒。家業の農業に従事し、1909年(明治42年)耕地整理組合長となり、耕地整理を完成させた。学務委員、富谷村会議員、消防組頭、村助役などを経て、1922年(大正11年)富谷村長に就任した。村長は1927年(昭和2年)まで務め、同年在任中に死去した。 この項目は、宮城県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/宮城県)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 19… 林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 1966年(昭和41年)4月3日)は、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地)出身の雑誌編集者。雑誌「明星」の初期の編集発行人。与謝野鉄幹、正富汪洋の妻。 1877年(明治10年)、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地伊賀地新田)にある旧家に生まれた。父親は林小太郎。私立徳山女学校の在学中には教員だった与謝野鉄幹に処女を捧げ、教師と女生徒の間の恋愛関係に陥った。年配者が多かった徳山女学校の教員の中で、鉄幹は数少ない若手教員だった。滝野は16歳だった1893年(明治26年)に徳山女学校を卒業している。 林小太郎は鉄幹が林家の養子になるなら結婚を認めるつもりだったが、田舎住まいなどまっぴらごめんの鉄幹は小太郎の申し出を拒否。