中村 秀吉(なかむら ひできち、1922年7月29日 - 1… 中村 秀吉(なかむら ひできち、1922年7月29日 - 1986年12月25日)は、日本の哲学者。 埼玉県出身。東京帝国大学理学部数学科卒。応召、復員後、哲学に転じ、金沢大学法文学部助教授、教授、1970年千葉大学教授。分析哲学、マルクス主義を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中澤 次郎(中沢 次郎、なかざわ じろう、1922年〈大正1… 中澤 次郎(中沢 次郎、なかざわ じろう、1922年〈大正11年〉7月28日 - 2019年〈令和元年〉5月2日)は、日本の教育学者。 群馬県高崎市生まれ。1940年旧制高崎商業学校卒業後、1953年東京文理科大学教育学科卒業。1956年ミシシッピ大学大学院修士課程修了。 桐朋学園短期大学専任講師、1957年同助教授。1961年東京農業大学講師、1962年同助教授、1972年同教授。1978年筑波大学教授、1986年定年退官。国際武道大学教授、東京家政学院大学教授。1993年退任。1998年勲三等瑞宝章受勲。
金井 清光(かない きよみつ、1922年〈大正11年〉7月2… 金井 清光(かない きよみつ、1922年〈大正11年〉7月28日 - 2009年〈平成21年〉4月7日)は、日本の国文学者、時衆研究者。鳥取大学名誉教授。 長野県松本市に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、姫路高等学校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学文学部国文学科に入学するも、学徒出陣する。シベリア抑留をへて帰国。1952年、東京大学国文学科卒業、同大学院に進学。この間、通学をしながら武蔵野女子学院高等部にて教鞭を執り、教頭であった雲藤義道の引見により、後年時宗法主となる河野憲善と出会う。1957年、大学院在学期限満了となり、鳥取大学学芸学部(のち教育学部)に奉職。やがて教授となるも、授業中の発言を巡って休職・退官に追い込まれる。
河合 滋(かわい しげる、1922年(大正11年)7月28日… 河合 滋(かわい しげる、1922年(大正11年)7月28日 - 2006年(平成18年)8月20日)は、日本の実業家、河合楽器製作所二代目社長・会長であった。静岡県浜名郡舞阪町(現在の浜松市)出身。同社創業者の河合小市は岳父、同社三代目社長の河合弘隆は実子である。 カワイアメリカコーポレーション・カワイヨーロッパ各社長、河合楽器サービスセンター・テスコ・カワイ精密金属・カワイオーストラリア・全日本社会人体操競技連盟・浜松市体育協会・浜名湾遊泳協会・日本フーゴーヴォルフ協会・カワイ音楽振興会・東京吹奏楽団各会長、浜名湖観光開発副社長、浜松商工会議所会頭、経済団体連合会・発明協会各評議員、日本体操協会顧問、中部経済連合会副会長、ローカル技術開発協会理事長、日本ショパン協会名誉会長などを歴任した。
内田 健三(うちだ けんぞう、1922年7月28日 - 20… 内田 健三(うちだ けんぞう、1922年7月28日 - 2010年7月9日)は、日本の政治評論家・政治ジャーナリスト。元共同通信社政治部長・論説委員長。退職後、法政大学法学部教授。東海大学教授を歴任。専門は、日本政治論、政治過程論。 熊本県八代郡氷川町(旧竜北町)生まれ、祖父内田康哉は外交官、政治家。旧制八代中学(現・熊本県立八代高等学校)、旧制第五高等学校卒業。旧制東京帝国大学在学中に、学徒出陣し、内蒙古・駐蒙軍に従軍。抑留・復員後、新制東京大学法学部に復学し、政治学者・丸山眞男に師事。1953年に東京大学法学部を卒業し、共同通信社に入社。以後岸内閣の安保闘争から小泉内閣まで50年以上にわたり、日本の政治の動向を取材・分析した。
水越 潔(みずこし きよし、1922年7月26日 - 199… 水越 潔(みずこし きよし、1922年7月26日 - 1999年12月22日)は、日本の経営学者・会計学者。経営学博士(論文博士・1973年)(学位論文「オーストラリア株式資本の一考察」)。明治大学名誉教授。 東京出身。明治大学経済学科卒、1973年「オーストラリア株式資本の一考察」で経営学博士の学位を取得。明治大学経済学部助教授、教授を務め、1991年退任、名誉教授となり、文京女子大学副学長を務めた。
古米 初男(ふるまい はつお、1922年〈大正11年〉7月2… 古米 初男(ふるまい はつお、1922年〈大正11年〉7月25日 - )は、日本の実業家である。丸善石油(現:コスモ石油)副参与を経て、北海道ツバメ石油社長、札幌小野田レミコン社長を務めた。岡山県新見市出身。 1922年(大正11年)に岡山県阿哲郡石蟹郷村(現:新見市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、日本原子力研究所副理事長を務める天野昇、岡山県新見市長になる福田正彦、中世芸能史の研究者で大学教授になる田井庄之助がいた。特に、同級生の田井庄之助は自身の著書『碧い霧』で、高梁時代で一番印象に残った人物として同学年で最も秀才であった古米初男を挙げていた。
鍵田 忠三郎(かぎた ちゅうざぶろう、1922年(大正11年… 鍵田 忠三郎(かぎた ちゅうざぶろう、1922年(大正11年)7月25日 - 1994年(平成6年)10月26日)は、日本の政治家。奈良市長、衆議院議員(1期、自由民主党)。剣道家でもあり、奈良県剣道連盟会長、奈良県なぎなた連盟会長も務めた。鍵田忠兵衛は次男。 1922年(大正11年)、奈良県奈良市生まれ。1943年(昭和18年)、拓殖大学専門部卒業。 1951年(昭和26年)、奈良県議会議員に当選、新若草山自動車道や三笠温泉開発の事業に携わる。38歳のとき、胸を患って余命2か月と診断、人生を終えるつもりで四国八十八箇所参りを行った後、体調は快復。1960年(昭和35年)、終戦の日である8月15日に慰霊するため、奈良東山の高円山に奈良大文字を創始する。
菊池幸子(きくち さちこ、1922年7月25日-2004年2… 菊池幸子(きくち さちこ、1922年7月25日-2004年2月7日)は、日本の教育社会学者。文教大学名誉教授。 青森県出身。早稲田大学文学部社会学科卒、1948年同大学院修了、1950年宮城県立教育研究所研究員、つづいて川崎市教育研究所、東京都立教育研究所指導主事を経て、1966年立正女子大学助教授、校名変更で文教大学教授となり、92年定年、名誉教授、聖徳大学教授を務めた。1978年に社団法人福祉社会研究所の設立以来、20年間に亘って所長・理事長を務めた。2001年勲四等宝冠章受勲。
藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 200… 藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 2007年12月23日)は、香川県出身のプロ野球選手(外野手)。
石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1… 石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1945年5月11日)は、プロ野球選手(投手・内野手)、大日本帝国海軍軍人。
野沢 豊(野澤 豊、のざわ ゆたか、1922年7月24日 -… 野沢 豊(野澤 豊、のざわ ゆたか、1922年7月24日 - 2010年10月26日)は、日本の中国史学者。 静岡県駿東郡原町(現沼津市原)生まれ。1938年沼津市東京電灯沼津支店臨時雇員、1939年上京、1941年私立巣鴨商業学校夜間部3年次に編入、1943年東京高等師範学校文科第五部(国語科)に入学。1945年特別甲種幹部候補生(迫撃砲科)として習志野ガス学校に入隊、8月除隊。1946年東京文理科大学東洋史学専攻に入学。1949年卒業、副手となる。1952年東京教育大学文学部東洋史学科助手、同専任講師、1969年中央大学商学部専任講師、1975年旧・東京都立大学教授。1986年退職。1987年駿河台大学法学部教授。
大森 光章(おおもり こうしょう、1922年7月24日 - … 大森 光章(おおもり こうしょう、1922年7月24日 - 2009年3月26日)は日本の小説家、フリーライター、禅僧(上座)。幼名は倖二。今出光章、北町陽一郎名義による作品もある。弟に歌人の大森亮三。 北海道虻田郡倶知安町の禅寺の生まれ。少年期から父親の伴僧として葬儀や法事に出席。旧制中学卒業後、小学校の代用教員をつとめる。函館師範学校中退。明治大学専門部文芸科中退。戦争末期に召集される。 小学校教員をつとめるかたわら、1947年に倶知安で『新芸術派』を創刊。1949年上京し、中河与一主宰の「ラマンチヤ」に参加。のち、新日本文学会に参加。 工員や印刷会社社員や大学職員として働きつつ、「文芸日本」「円卓」「層」「凱」「公園」など数々の文芸同人誌に関わる。
白坂 長栄(しらさか ちょうえい、1922年7月23日 - … 白坂 長栄(しらさか ちょうえい、1922年7月23日 - 2015年7月8日)は、岩手県二戸郡一戸町野田坂出身のプロ野球選手(内野手)・二軍監督・スコアラー。 一戸町で広大なリンゴ園を営む農家の三男として生まれる。兄が通っていた福岡中学に進み、野球部に入部。在学中は甲子園出場はならなかった。卒業後、仙台鉄道局へ就職するが、1年勤務したのち、先輩の誘いで華中鉄道に移籍。その後応召され、近衛歩兵第1連隊に配属となり、北支戦線で5年ほど軍隊生活を送った。復員後はかつて在籍していた仙台鉄道局盛岡に復帰し、投手として活躍。のち沢藤光郎(後に近鉄パールスに入団)が入団すると、遊撃手に転向した。 1948年のシーズン中に大阪タイガースに入団。
香川 正(かがわ ただし、1922年7月23日 - 没年不明… 香川 正(かがわ ただし、1922年7月23日 - 没年不明)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手、高校野球指導者。ポジションは外野手。 坂出商業学校時代の1938年に夏の甲子園に出場。1940年早稲田大学に進学。応召を経て社会人野球の全大阪、全鐘紡、中央ペイント、日本生命でプレーし1954年に近鉄パールスに入団(当時32歳)。 2年間在籍した後、母校坂出商業高校の監督に就任。1957年夏は安藤元博を擁しベスト8。秋の静岡国体では優勝を飾った。 長男の香川正人も近鉄に在籍したプロ野球選手。
岡村 繁(おかむら しげる、1922年7月23日 - 201… 岡村 繁(おかむら しげる、1922年7月23日 - 2014年12月26日)は、古典中国文学者、九州大学名誉教授。 滋賀県甲賀郡甲賀町生まれ。1947年広島文理科大学文学科卒、同副手、助手、広島大学文学部助手、兵庫県立星陵高等学校教諭、1959年名古屋大学文学部助手、1962年「後漢三国の評論に関する研究 とくに人物評論を中心として」で名大文学博士。 1964年東北大学教養部助教授、1966年九州大学文学部助教授、1968年教授、1972-1974年文学部長、1977-1980年附属図書館長、1986年定年退官、名誉教授、久留米大学文学部教授、1992年文学部長。1997年、勲二等瑞宝章受章。
大石 泰彦(おおいし やすひこ、1922年7月21日 - 2… 大石 泰彦(おおいし やすひこ、1922年7月21日 - 2014年1月16日)は、日本の経済学者。専門は、近代経済学(厚生経済学・交通問題)。学位は、経済学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京大学名誉教授。元東京大学経済学部長。日本会議代表委員。勲二等瑞宝章受章者。位階は正四位。 大分県中津市生まれ。旧制水戸中学校、旧制水戸高等学校を経て、1943年、東京帝国大学経済学部卒業。 1948年、東京帝国大学大学院特別研究生を退学し、東京大学経済学部助教授に就任。1960年、東京大学経済学部教授に昇任。1969年から1970年まで東京大学経済学部長。1983年、東京大学を退官し、東京大学名誉教授となる。
岩佐 嘉親(いわさ よしちか、1922年〈大正11年〉7月2… 岩佐 嘉親(いわさ よしちか、1922年〈大正11年〉7月21日 - 2014年〈平成26年〉2月17日)は、日本の探検家、研究者。 広島県呉市生まれ。1942年関西高等工業学校(現:大阪工業大学)卒業。1965年太平洋文化研究所を設立して所長となる。1959年より1995年までの間に50数回にわたってポリネシアを中心とした南太平洋海域の民俗学的な調査をする。 太平洋地域の言語の入門書・会話集も多数執筆した。サモア語やフィジー語など、類書がほかになく、その言語を学習する者にとって、日本語で書かれたものとしては唯一の教材であるものもある。オセアニアの諸語だけでなく、パプア・ニュー・ギニアのトク・ピシンについても入門書を執筆している。
阿部 英雄(あべ ひでお、1922年7月20日 - 2007… 阿部 英雄(あべ ひでお、1922年7月20日 - 2007年7月10日)は富士経済グループ代表取締役(会長)であった財界人。 静岡県沼津市出身で、千本松原に程近い場所に生家がある。地元で静岡県立沼津商業高等学校(卒業の後に同校は駿東郡清水町に移転)卒業まで過ごした。 地元で腕白な子供の一人として育ち、小学生時代には学校の道すがら空腹から学友の家の乾物屋(綾市商店)が露天に干していた乾物をくすねてかじったこともあったという。 明治大学文学部史学科で東洋史学を専攻。卒業論文の題は「”世説新語”とその思想―特に老荘思想について―」であった。同大卒業後、1962年にマーケティング調査会社富士経済を設立。
金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 19… 金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県(朝鮮・慶尚南道晋陽郡生まれ)出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。
則武 謙(のりたけ けん、1922年7月18日 - 1994… 則武 謙(のりたけ けん、1922年7月18日 - 1994年3月6日)は日本のサッカー選手。ポジションはFW。 兵庫県立第一神戸中学校時代は岩谷俊夫らと共に1941年に明治神宮大会優勝、翌1942年に橿原神宮大会優勝と明治神宮大会連覇に貢献した。1941年に神戸経済大学に進学し、戦後の1947年4月3日に行われた第1回東西対抗戦に関西選抜の一員として出場した。 日本代表としては1951年3月3日のインド空軍戦で代表デビュー。同月9日の1951年アジア競技大会のアフガニスタン代表戦で国際Aマッチの出場歴を有する。
牛山 善政(うしやま よしまさ、1922年7月18日 - 2… 牛山 善政(うしやま よしまさ、1922年7月18日 - 2000年11月5日)は、日本の実業家。カメラメーカーの株式会社ヤシカ創業者。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。高等小学校卒業後、朝鮮総督府所管の京城高等工業学校(現・ソウル大学校工科大学)を卒業。北澤工業株式会社(現・東洋バルヴ株式会社)に勤務し非凡な才能ぶりを発揮。戦後独立して1949年12月、従業員8人でヤシカの前身「八洲(やしま)精機株式会社」を創業し、高度成長期の日本を代表するカメラメーカーの一つに育てた。1971年にヤシカの経理部長による横領事件が起き、責任をとる形で社長から会長に退く。1974年に会長を解任され同社の経営から離れた。
丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 20… 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。
山下 昇(やました のぼる、1922年(大正11年)7月17… 山下 昇(やました のぼる、1922年(大正11年)7月17日 - 1996年(平成8年)5月15日)は、日本の地質学者。信州大学名誉教授。 フォッサマグナ東縁は柏崎と銚子を結んだ線とする、柏崎-銚子線説を提唱した。 福岡県八女市生まれ。 1945年、東京帝国大学理学部地質学科を卒業。 東京大学理学部助手を経て、1968年に信州大学教授に就任する。1986年に定年退官し、名誉教授となる。 退官後、新潟県糸魚川市のフォッサマグナミュージアム館長を務めた。 1996年5月15日、呼吸不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
山田 野理夫(やまだ のりお、1922年7月16日- 201… 山田 野理夫(やまだ のりお、1922年7月16日- 2012年1月24日)は、日本の小説家、詩人。 宮城県仙台市出身。本名・徳郎(のりお)。東北大学文学部で、国史を専攻し、農林省統計調査員、宮城県史編纂委員、東北大学付属農学研究所員などを経て作家へ。1962年『南部牛追唄』で第6回農民文学賞を受賞。東北地方、みちのく、特に岩手県をテーマにすることが多い。 2012年1月24日、急性心不全のため死去。89歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014… 朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。the companyのアソシエイツメンバー。 東京府東京市下谷区谷中(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。 父・朝倉文夫により幼い頃から英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が彼女の中に擡げてきたところがあり、それにより日本画家として生きていかんとする意思を抱いたとNHKは報じている。 画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。
松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 19… 松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 1994年12月15日)は、ヤクルト本社名誉会長、ヤクルトスワローズの初代オーナー、 長崎新聞社長、長崎文化放送初代代表取締役会長を務めた実業家。双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直已。 長崎県南松浦郡三井楽町(現:五島市)出身。法政大学工業学校を卒業し、法政大学専門部を中退。その後は海産物やビワなどの行商で生計を立てながら起業資金を蓄えていった。 そうした折、1954年に福岡で乳酸菌飲料「ヤクルト」の販売をしていた従兄弟の山下嘉一から、全国のヤクルトの販売会社を統合した本社組織を立ち上げると聞いた松園は、ヤクルトの創業者永松昇を訪ねて事業参入の許可をもらい、学生時代に住んでいた八王子を拠点にヤクルトの販売業務を始め、1956年6月に関東ヤクルト製造を設立した。
川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2… 川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2003年1月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 岩手県矢巾町に生まれ、旧制盛岡中学校(のちの県立盛岡第一高校)へ進学。中学時代には、東北の団体戦柔道大会で圧倒的な体格と強さを発揮し、旧制盛岡中学を優勝に導いた。また中学5年次の1940年6月には、岩手県予選を勝ち抜き府県選士として紀元二千六百年奉祝天覧武道大会にも出場、予選リーグ戦を勝ち抜くには及ばなかったものの、20代・30代の精鋭が集う中にあって弱冠17歳(最年少)での川村の出場は快挙であった。 1941年に東京高等師範学校体育科二部(柔道専攻)に入学し、また同年5月に講道館へ入門して僅か2カ月後には4段位を許された。
小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1922年7月14日… 小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1922年7月14日 - 2020年2月4日)は、日本の経営者である。 中華民国奉天省(現中華人民共和国遼寧省)大連市生まれ。生まれた頃は父方の阿部姓だったが、帝大入学以降に母方の養子となり小林姓になる。旅順高等学校 (旧制) から東京帝国大学(現東京大学)経済学部に進学。1943年、大学2年で学徒出陣。海軍少尉となり、駆逐艦桐に砲術士として乗艦。山口県沖に停泊中の艦上で玉音放送を聞いた。 日本の敗戦後復学し、1947年1月関西配電(現関西電力)に入社。1977年関西電力社長、1985年会長。1987年、芦原義重名誉会長を解任した(関電二・二六事件)。1997年相談役、2002年-2015年6月顧問。
向江 久夫(むかえ ひさお、1922年7月14日 - 200… 向江 久夫(むかえ ひさお、1922年7月14日 - 2006年10月18日)は、日本の銀行家。足利銀行頭取、会長を務めた。 鹿児島県出身。1950年に東京大学法学部を卒業し、同年に足利銀行に入行。1965年に取締役に就任し、1968年5月に常務、1972年5月に専務、1974年7月に副頭取、1976年1月に代表取締役を経て、1978年6月には社長(のちの頭取)に就任。1992年6月から1997年11月までに会長を務めた。 1987年11月に藍綬褒章を受章。 2006年10月18日、多臓器不全のために死去。84歳没。
山下 喬子(やました きょうこ、1922年7月13日 - 2… 山下 喬子(やました きょうこ、1922年7月13日 - 2004年2月6日)は、日本の児童文学作家。 静岡県沼津市出身。東京府立第四高等女学校(東京都立南多摩中等教育学校)卒。高女在学中に堀辰雄に師事し、戦後は『文学者』で作品を発表。のちに児童文学も書き、1961年「プフア少年」を刊行。『悲しみは海の色』はNHKの少年ドラマシリーズでドラマ化された。
諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2… 諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、東京府北豊島郡出身の実業家、サッカー選手。
中山 時子(なかやま ときこ、1922年(大正11年)7月1… 中山 時子(なかやま ときこ、1922年(大正11年)7月13日 - 2016年1月22日)は、日本の中国文学者・中国語学者。中国近代文学のほか、中華料理も研究対象にした。お茶の水女子大学名誉教授。 北京に育ち、1942年北京大学文学院中国文学系入学、1949年東京帝国大学文学部中国文学科卒、1949年東京女子高等師範学校、お茶の水女子大学助教授。1974年同教授。1988年定年退官、名誉教授。外務省研修所講師、明海大学教授、東亜学院講師、中山時子中国語研修所所長、日中文学文化研究学会会長。1998年、勲三等瑞宝章受章。従四位。
内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 … 内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 - 2000年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)7月13日、京都府宇治市菟道只川に生まれる。 1947年(昭和22年)に設立された新東宝で助監督を務める。1948年(昭和23年)からは市川崑、清水宏、小津安二郎らのチーフ助監督を務めた。 1950年(昭和25年)公開の『雪夫人絵図』では溝口健二監督のチーフ助監督に就いた。1949年(昭和24年)末にラストシーンを十和田の湖で撮影するという溝口とともにロケハンに出かけたが、既に雪が積もっており、危険だと止められたが溝口が聞き入れなかった。そのため、地元の猟師に案内してもらって雪の中を出掛けたが、積雪で歩行が困難なうえに溝口が谷に落ちるなどして大変な苦労をした。
永原 慶二(ながはら けいじ、1922年7月12日 - 20… 永原 慶二(ながはら けいじ、1922年7月12日 - 2004年7月19日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授、和光大学名誉教授。専門は日本中世史。学位は、経済学博士(一橋大学・1962年)。 1922年、関東州大連市に生まれた。1942年3月に東京高等学校文科乙類を卒業後。同年4月、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1943年、文科系学生の徴兵猶予停止にともない、海軍の大竹海兵団に入団。1944年、東京帝国大学国史学科を卒業。 終戦後に帰郷し、東京帝国大学大学院に入学。1947年、東京大学史料編纂所員となり、『大日本史料』第三編の編纂業務に従事した。 このころ一橋大学では、村松恒一郎・川上多助門下の及川完助教授が戦死したのち、ながらく日本経済史担当の専任教員が空席となっており、その伝統が断絶してしまっていた。
村山 新治(むらやま しんじ、1922年7月10日 - 20… 村山 新治(むらやま しんじ、1922年7月10日 - 2021年2月14日)は、日本の映画監督。兄はドキュメンタリー監督の村山英治。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。1941年に長野工業学校卒業後、記録映画の助監督を経て、1949年に東映の前身である太泉映画入社。今井正らの助監督を務めた後、1956年に東映教育映画部の『わんぱく時代』で監督デビュー。1957年の『警視庁物語 上野発五時三十五分』で一般映画も監督するようになる。その後も『警視庁物語』シリーズをはじめとしたセミ・ドキュメンタリー的な作品を多く手がけた。 1970年代以降は主にテレビドラマ演出に活躍の場を移し、『特捜最前線』や一連の東映不思議コメディーシリーズなどの監督を長年にわたって務めた。
伊藤 淳二(いとう じゅんじ、1922年7月10日 - 20… 伊藤 淳二(いとう じゅんじ、1922年7月10日 - 2021年12月19日)は、日本の実業家。武藤絲治に認められ、のちにカネボウ会長になる。日本航空元会長。建築学者の横尾義貫は従兄にあたる。江藤新平の曾孫。
田井 庄之助 (たい しょうのすけ、1922年 <大正11年… 田井 庄之助 (たい しょうのすけ、1922年 <大正11年> 7月10日 - 2012年 <平成24年> 10月31日) は、日本の教育者であり文学者である。大分大学教授、別府大学教授を務めた。位階は従四位。岡山県高梁市出身。 1922年(大正11年)7月10日、岡山県高梁市に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、日本原子力研究所副理事長を務める天野昇、岡山県新見市長になる福田正彦、丸善石油(現:コスモ石油)副参与と北海道の丸善石油関連社長を務めた古米初男がいる。 1940年(昭和15年)同校を卒業し、広島高等師範学校文科へ進学した。同校を1944年(昭和19年)卒業し、広島文理大学文学部へ進学する。
横地清(よこち きよし、1922年7月10日 - 2022年… 横地清(よこち きよし、1922年7月10日 - 2022年12月10日)は、日本の数学教育学者。 愛知県に生まれる。1945年東京文理科大学数学科卒業。1966年和光大学人文学部教授。1976年山梨大学教育学部教授。1988年東海大学海洋学部教授。北京師範大学客員教授、内蒙古師範大学科学史研究所客員教授。数学教育学会名誉会長。
部谷 孝之(へや たかゆき、1922年7月10日 - 200… 部谷 孝之(へや たかゆき、1922年7月10日 - 2004年10月20日)は、昭和期における日本の政治家である。民社党衆議院議員(2期)、民社党山口県議会議員(3期)を務めた。 広島県出身。1943年9月、旧制広島高等工業学校(現・広島大学工学部)工作機械学科を卒業。同年10月に海軍予備学生となった。1946年6月に徳山曹達に入社した。同年12月には同社労働組合青年部長専従となった。1955年4月に、受田新吉の秘書となった。1960年、民社党結党に参画した。1967年4月に山口県議会議員選挙に民社党公認で徳山市選挙区から立候補して、初当選した。1975年4月、山口県議会議員選挙に徳山市・都濃郡選挙区から立候補して再選を果たした。
吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1… 吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1986年1月21日)は、カナダ生まれ、宮城県出身のプロ野球選手(投手)。 仙台一中では第26回全国中等学校優勝野球大会に出場した。翌年に早稲田大学へ進学し卒業後地元のアマチュア野球チームの仙台広瀬倶楽部に入った。1948年に急映フライヤーズに入団。1年目に48試合に登板し16勝19敗と新人ながら2桁勝利を記録した。翌年は9勝を挙げ、1950年に読売ジャイアンツへ移籍し同年に退団。退団した次の年に社会人野球の大昭和製紙でプレーし第24回都市対抗野球大会で優勝を経験した。
越智 泰二郎(おち たいじろう、1922年7月9日 - 19… 越智 泰二郎(おち たいじろう、1922年7月9日 - 1984年8月25日)は、日本の経営者。島根県出身。 1944年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、後に日本勧業銀行に入行。1973年11月に取締役に就任し、1977年7月に北越製紙常務、1979年7月に専務を経て、1983年7月から1984年5月までに社長を務めた。 1984年8月25日甲状腺癌のために死去。62歳没。
鈴木 正(すずき ただし、1922年 <大正11年> 7月8… 鈴木 正(すずき ただし、1922年 <大正11年> 7月8日 - 2008年 <平成20年> 2月28日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。位階は正五位。 兵庫県神戸市出身。1947年に京都大学法学部政治学科を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社した。1963年11月に取締役に就任し、1971年6月に常務、1978年6月に専務、1981年7月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任。1992年6月に会長に就任し、1995年6月には相談役に就任。 1995年11月に勲三等瑞宝章を受章。2008年死去。死没日付をもって正八位から正五位に進階した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中田 修(なかた おさむ、1922年7月8日 - 2025年… 中田 修(なかた おさむ、1922年7月8日 - 2025年1月21日 )は、日本の医学者、精神科医。専門は犯罪精神医学。東京医科歯科大学名誉教授。兵庫県津名郡野島村(現:淡路市野島)出身。農学者の中田正一は実兄。 東京大学医学部精神科副手、東京拘置所医務部技官、東京都立松沢病院医員、東京都立梅ヶ丘病院医長などを歴任する。 精神鑑定のみならず、飲酒事故の多くについて、実際にどの程度の酒量があったのかを飲酒試験として再現し、裁判で証拠とされる場合が多い。 その際、飲酒試験に関する一定の方向性が示されていないことに注目し、それをまとめた点が際立つ。『飲酒試験における酩酊型の再現性』犯罪学雑誌60巻1号1994年によれば、飲酒試験に使用したアルコールの種類、酒量、酩酊型による再現性の差異と飲酒による健忘の問題についてまとめ、単純酩酊や複雑酩酊では再現性が高いが、病的酩酊では再現性が低いことを実証した。
西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 20… 西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 2019年10月11日)は、日本の美術監督・映画プロデューサー。 奈良県明日香村出身。法政大学文学部卒業。大学在学中に徴兵され、朝鮮半島で終戦を迎えた。1947年までソ連に抑留され、帰国後の1948年、大映京都撮影所に入社。美術部に配属された。 1952年、『天保水滸伝 利根の火祭』(安達伸生監督)で初めて美術監督を務め、以降大映が製作した約180本の映画で美術監督を務めた。1952年に市川崑の監督映画『あの手この手』で美術監督を務めたのをきっかけに、大映京都製作の市川監督作品の全てで美術監督を務めた。 大映倒産の後1972年、旧大映社員とともに「映像京都」を設立し、代表取締役社長を務める傍ら、美術監督、プロデューサーとして活躍。
沓脱 タケ子(くつぬぎ たけこ、1922年7月7日 - 20… 沓脱 タケ子(くつぬぎ たけこ、1922年7月7日 - 2005年6月10日)は、日本の医師であり政治家である。大阪府出身。岸和田高等女学校(現在の大阪府立和泉高等学校)を経て、大阪女子高等医学専門学校(現関西医科大学)卒業。元日本共産党参議院議員。元姫島病院名誉院長。
金野 滋(こんの しげる、1922年7月7日 - 2007年… 金野 滋(こんの しげる、1922年7月7日 - 2007年4月1日)は、日本のラグビー選手で、元日本ラグビーフットボール協会会長。
林 裕(はやし ゆたか、1922年7月7日 - 1986年1… 林 裕(はやし ゆたか、1922年7月7日 - 1986年10月19日)は、日本の囲碁に関する評論家、編集者、観戦記者、研究家。日本棋院所属の後に執筆に専念。 東京渋谷出身。姉が福原義虎七段と結婚した縁で、1941年頃から日本棋院に出入りするようになる。1943年に学徒動員で応召。 1946年、中央大学法学部卒。戦後1948年に、村島誼紀らが『碁の新聞』を出す際に編集を任される(3号で終刊)。その後『棋道』編集の手伝いをしていて、1950年日本棋院事務局に入り、『棋道』『囲碁クラブ』や棋書を編集。編集部長、中央会館事務局長を務め、1968年には「囲碁史展」(日本橋東急百貨店)を主導した。1969年退職。
和田 静郎(わだ しずお、1922年7月6日 - 2006年… 和田 静郎(わだ しずお、1922年7月6日 - 2006年12月16日)は、「和田研究所」創設者。東京都足立区北千住出身。 1922年(大正11年)「和田牧場」経営の長男として東京都足立区北千住に生まれる。麻布獣医専門学校(現在の麻布大学獣医学部)へ進み生理学、生態学を専攻。 第二次世界大戦には比島戦線に高級獣医官として従軍。終戦から10年後、自らの肥満を克服した体験をもとに「和田式健康法(フィギュアリング)」を開発。日本ではじめて体系的な痩身法を確立させた。 1957年(昭和32年)、この和田式健康法(フィギュアリング)を紹介することを目的とした美容研究団体「和田研究所」を発足。 1959年(昭和34年)から2年間にわたり、大阪よみうりテレビ「テレビとともにやせましょう」が放送され一大ブームに。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。