安達 喜幸(あだち きこう、1827年〈文政10年〉11月‐… 安達 喜幸(あだち きこう、1827年〈文政10年〉11月‐1884年〈明治17年〉1月10日)は、明治時代の日本の建築技術者。開拓使の建築に関わり、北海道札幌市に現存する札幌市時計台・豊平館・北大第2農場モデルバーンなどの洋風建築を設計・監督した 1827年(文政10年)、江戸芝札の辻(現・東京都港区芝5丁目)で代々大工棟梁職の家に生まれる。初め久治郎と名乗り、薩摩藩など近隣の武家屋敷の建築を請け負いながら棟梁としての力量を磨いて行った。身長6尺豊かな体躯に恵まれ、大勢の職人たちを束ねる統率力と徳望とを兼ね備えていたと評されている。 幕府崩壊後の1868年(明治元年)、多くの江戸の職人たちが「活路を失ひ途方に暮れて」いるなか、安達は薩摩藩関係者の口利きにより横浜方面の土木建築工事に携わり、短期間で天皇行幸の際の行在所を仕上げる。
佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈… 佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈1827年9月3日〉- 1895年〈明治28年〉1月13日)は、明治時代の日本の政治家。宮城県黒川郡富谷村2代村長。宮城県第4大区小5区副戸長・宮城県第3大区小1区副戸長・富谷村初代助役を歴任した。位階は正七位。勲等は勲六等。 文政10年7月13日(1827年9月3日)、陸奥国黒川郡成田村(現在の富谷市西成田)に佐々木亀蔵の次男として生まれた。15歳のとき、成田村の佐々木弥右衛門の家を継ぎ、明治5年4月9日(1872年6月10日)の大区小区制施行時には宮城県第4大区小5区の副戸長を高橋運治と務めることになった。その後、村扱や戸長・土木委員・通信委員・学務係・小学校資産管理人等の役職に就いた。
白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827… 白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827年8月18日〉 - 明治33年〈1900年〉9月8日)は、明治時代の物産研究家、アイヌ語研究家。本名は今泉 耕作(いまいずみ こうさく)。 甲斐国都留郡白野村(現在の山梨県大月市笹子町)の出身。代官の手代の家に生まれたがあまり教育を受けることができず、岩瀬忠震が徽典館の学頭をしていたときにその学僕となって少し書物を読んだ程度という。幕末には江戸に出て、幕府・歩兵の輜重隊の頭と軍事顧問を命ぜられ小川町に駐屯していた。1864年に天狗党の乱が起き、日光の警備を命じられ任地に赴く。1868年に彰義隊が上野に立てこもった時は浅草の蔵を守っていたが、官軍が江戸に入り徳川の残党を追求するに至って、隊を率いて新宿口から甲州へと逃げることができた。
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827… 小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗っていた。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10… 加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10年6月23日) - 1887年(明治20年)5月5日)は、江戸・明治期に活動した日本の商人。 文政10年6月23日(1827年7月16日)、和歌山城城下町の北ノ新地分銅町(現在の和歌山市北ノ新地分銅町)に生まれる。生家は紀州藩の御用商人宮本家で、酒造業や廻船業を営んでいた。結婚後、宗七は姓を加納と改めた。宗七は倒幕運動に参加し、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬が暗殺されると、三浦休太郎が坂本龍馬殺害に関与したとの情報を海援隊にもたらし、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、陸奥宗光らとともに三浦を襲撃(天満屋事件)。
千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政1… 千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政10年6月20日) - 1885年(明治18年)10月15日)は、幕末の福井藩士、明治期の官僚・実業家。広島県権参事(未赴任)。初名・弥三郎。 越前国足羽郡福井下江戸町(現:福井県福井市)で、福井藩士・千本久備の長男として生まれる。天保2年4月5日(1831年5月16日)実父・久備の危篤に伴い、千本家は養父として小林久達(藤左衛門、東岫)を迎える。嘉永6年7月20日(1853年8月24日)江戸での砲術調練修行を命ぜられ、その後、兵科懸り、兵科局詰、兵科取調方などを務める。文久2年3月29日(1862年4月27日)書院番格として江戸詰となり、以後、松平春嶽の側近として活躍。
川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈182… 川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政10年6月11日〈1827年7月4日〉 - 明治14年〈1881年〉5月3日)は、幕末から明治前期にかけて活躍した南画家、洋風画家、図画教育者である。諱は寛(ひろし)、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。 文政10年(1827年、文政11年〈1828年〉生まれとも言われる)、信濃国高井郡松代藩領福島新田村(現長野県長野市)に山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年(1844年)江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、同院に出入れしていた円山四条派の絵師大西椿年に写生画を学んだ。嘉永4年(1851年)に幕府御家人株を購入、川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。
木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5… 木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5月11日) - 1902年(明治35年)8月19日)は、幕末から明治時代に活躍した日本の木工芸家である。 号は梅里道人、幼名は友吉。 江戸の深川(現在の東京都江東区)に船大工の棟梁の設計に携わった家系の子として生まれる。初めは山田流の琴職人であった重元平八の門人となり、指物象嵌について学ぶ。その後は家業であった船大工や鞘、西洋の鉄砲等多くの制作に携わった。 後に木細工の製作に専念し、同時期に加賀藩の前田家に仕える。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会に喜八の作品が出品され、次回の1881年(明治12年)に開催された第2回内国勧業博覧会に2回連続で出品された。
荒川 亀斎(あらかわ きさい、文政10年4月25日(1827… 荒川 亀斎(あらかわ きさい、文政10年4月25日(1827年5月20日) - 明治39年(1906年)10月14日)は、島根県松江市横浜町出身の彫刻家である。名は明生、通称は重之輔。木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある。 幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた。1906年死去。洞光寺に葬られた。 明治期に西洋から導入された「美術」という概念のもと成立した近代木彫の分野では、高村光雲がその最初の人物とされることが多い。
下村 善太郎(しもむら ぜんたろう、文政10年4月28日〈1… 下村 善太郎(しもむら ぜんたろう、文政10年4月28日〈1827年5月19日〉- 1893年〈明治26年〉6月4日)は、明治時代の生糸貿易商。初代前橋市長。 文政10年(1827年)4月28日、上野国群馬郡前橋本町(現前橋市)で小間物屋、三好屋を営む下村重右衛門の子として生まれる。幼名定之丞。17歳の時に家業を継いで善右衛門と称した。しかし賭博や米相場に手を出して失敗、大きな損失を出す。この頃、大前田栄五郎から博奕にのめりこむのを戒められたとの逸話がある。 嘉永3年(1850年)9月に妻子を連れて武蔵国八王子に転居し再起を図る。その後は横浜開港で八王子が生糸取引中継地となった影響も受けて、生糸商として成功した。
中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(182… 中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。号は梧竹、別号に剣閣主人など。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。 肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。幼い時に草場佩川に師事する。19歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。 1877年(明治10年)清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。1882年(明治15年)梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 … 成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 - 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。 遠江国佐野郡日坂(現・静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。安井の塾にいたとき、安井の作詩を代書した。明治8年(1875年)、宮中に出仕し、明治12年(1879年)、勅命によって王羲之の『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇はこれを嘉して楠木正成の遺物である尚方の硯を賜り、その居に賜硯と扁した。ついで諸葛孔明の「出師表」の真草2幅、明治14年(1881年)、十体書幅を献じた。
岩倉 槇子(いわくら まきこ、旧姓:野口槇子、文政10年(1… 岩倉 槇子(いわくら まきこ、旧姓:野口槇子、文政10年(1827年) - 明治36年(1903年)2月23日)は、岩倉具視の継室。 膳所藩の勘定組・野口為五郎賀代の次女として膳所(現滋賀県大津市)に生まれる。兄の賀柔が岩倉具視に仕えていたことから、兄は身辺警護を、自身は身の回りの世話をするようになる。岩倉が志士に追われていた時は膳所の実家に匿うなど、不遇の時代を通じて仕える。明治7年(1874年)、具視の正室が逝去したのち継室となり、二男三女をもうける。長男の岩倉具定の直系の孫が小桜葉子(岩倉具子)で、その息子で俳優の加山雄三は玄孫にあたる。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
副島 義高(そえじま よしたか、文政10年(1827年) -… 副島 義高(そえじま よしたか、文政10年(1827年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。佐賀の乱の首謀者の一人。佐賀の七賢人の一人島義勇の弟。副島謙助とも。副島種臣は母方の従兄弟に当たる。 文政10年(1827年)、佐賀城下の精小路に島義勇、重松基吉の弟として生まれる。兄たちとともに藩校弘道館で学び、長じて副島家の養子となる。 川副三郷(現在の佐賀市川副町)、与賀二郷(同佐賀市東与賀町など)を治める代官を務めたが、明治維新後進められた政策により士族の権利が縮小されるにつれ、不平を募らせた佐賀士族のリーダー的な存在となる。明治6年(1873年)4月には山岡鉄舟に対し建白書を提出するなどしたが効果はなく、明治7年(1874年)2月佐賀の宝林院にて不平士族を結集し、天皇と鍋島家の安全を守ることを掲げた「憂国党」を結成する。
安里 安恒(あさと あんこう、1827年 - 1903年、1… 安里 安恒(あさと あんこう、1827年 - 1903年、1828年 - 1906年の説もあり)は、琉球王国時代から明治にかけての沖縄の唐手(現・空手)家。首里手の大家の一人として知られる。 安里安恒は、1827年、琉球王国の首都・首里に生まれた。号は麟角斎、称号は親雲上(ペークミー、上級士族)。王国時代の正式名称は安里親雲上安恒である。毛氏安里家の元祖は、尚清王の三司官を務めた池城親方安基(? - 1567年)であり、安里家はその直系である池城家の支流(分家)にあたる。安里家は、代々、首里と那覇の中間にある真和志間切安里村(現・那覇市安里)を治める脇地頭(小領主)であり、その家格は御殿(ウドゥン)に次ぐ、殿内(トゥンチ)という名家であった。
後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)… 後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)- 1897年(明治30年)10月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。名・畯、字・士喜、号・稼亭。五郎次の表記有り。 佐渡国加茂郡、のちの新潟県加茂郡新穂村(佐渡郡新穂村舟下を経て現佐渡市)で生まれた。北君養、圓山溟北に師事し漢学を修めた。 戸長、学区取締兼衛生取締、村長、新潟県会議員、佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)監事などを務めた。教育振興、相川鉱山開発などに尽力した。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、大手倶楽部)で当選し、その後、進歩党に所属して、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1897年10月に死去した。
門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(182… 門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(1826年11月17日) - 明治5年8月3日(1872年9月5日))は、江戸時代後期の武士(鳥取藩士)、国学者。初め将曹、のち少造と改めた。諱は重綾。 政治家の門脇重雄は二男。柔道家の門脇誠一郎は孫。
吉田 拙蔵(よしだ せつぞう、文政9年7月10日(1826年… 吉田 拙蔵(よしだ せつぞう、文政9年7月10日(1826年8月13日) - 明治20年(1887年)11月20日)は、越前大野藩士。諱は俊章、字は子明、静斎と号した。幕府の軍艦教授所で航海術を学び、藩が建造した洋式帆船大野丸の船長として活躍。明治初年では第26大区区長(学区取締兼任)、明治8年(1875年)以降学区取締や郡書記を務めた。 文政9年(1826年)越前国大野に生れる。父は吉田理左衛門、母は大島氏(生後数か月で離縁)。12歳で大野藩士小早川一平(のちに明倫館教授師)につき読書を始め、16歳(天保13年)で藩重臣内山隆左に入門し、弘化元年(1844年)大小姓として召し出された。その後藩校明倫館助教師となった。
大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826… 大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。 文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功する。
尾澤 良甫(おざわ りょうほ、1826年5月14日〈旧暦文政… 尾澤 良甫(おざわ りょうほ、1826年5月14日〈旧暦文政9年4月8日〉- 1894年〈明治27年〉8月1日)は、日本の薬種商、政治家。旧姓は藤城(ふじしろ)。幼字は三次郎(さんじろう)。旧諱は良輔(りょうすけ)。 尾澤薬舗店主、東京市牛込区会議員などを歴任した。 武蔵国出身の薬種商である。薬種店を営む尾澤家の婿養子となるが、養父の早逝により辛酸を舐め、非常な苦労を経て家を再興した。1863年(旧暦文久3年)に麻疹が大流行すると、私財を投じて江戸の患者の治療に力を注いだ。調剤だけでなく医術の研鑽も積んでいたことから、江戸府内の民衆から「脈をとらせても当代一」と謳われた。明治維新後も引き続き薬種店を経営するとともに、さまざまな公職を歴任した。
日向 内記(ひなた ないき、文政9年〈1826年〉 - 明治… 日向 内記(ひなた ないき、文政9年〈1826年〉 - 明治18年〈1885年〉)は幕末の会津藩士。白虎隊士中二番隊の隊長として知られる。 会津若松城下に生まれる。日向家は家禄700石の上級藩士で内記は藩の軍制改革前は家老附組頭、その後砲兵隊頭となった。1868年3月、朱雀士中二番隊頭となる。4月18日には白虎士中二番隊頭に任命された。 白虎隊は予備部隊として設けられ、士中隊は主君の警護役である。新政府軍が会津国境を越えた8月22日には松平容保に従って滝沢本陣に入った。ここで、戸ノ口原方面(十六橋を会津若松城側に超えたところ)への援軍要請があったため、士中二番隊を率いて行軍し明朝の戦に備えて夜営を命じる。
四世 浜村 蔵六(よんせ はまむら ぞうろく、男性、文政9年… 四世 浜村 蔵六(よんせ はまむら ぞうろく、男性、文政9年(1826年) - 明治28年(1895年)2月24日)は、明治期の日本の篆刻家である。 正本氏、後に塩見氏を名乗る。名は観侯、字は大澥、蔵六を号し、別号に薇山・雨村。通称参蔵。備前岡山(岡山県瀬戸内市)の人。 20代の中頃に江戸に出て、万延元年(1860年)には断絶していた浜村家を継いだ。行政官記録係になるが讒言を受けて退職し、宇都宮で教育者となる。廃藩置県後、東京に戻り須崎村に住む。明治15年(1882年)の「日本書画價額表」によれば、この頃既に篆刻家として知られていた。 明治18年(1885年)、依田学海らと白鴎社を結ぶ。明治20年(1887年)、「墨堤植桜之碑」の碑文を書しているが、後にこの碑は墨田区登録文化財に登録された。
基 俊良(もとい しゅんりょう、1826年(文政9年3月) … 基 俊良(もとい しゅんりょう、1826年(文政9年3月) - 1904年(明治37年)5月15日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 薩摩国大島郡金久村(鹿児島県大島郡名瀬村、名瀬町、名瀬市を経て現奄美市)に生まれる。薩摩藩島吏を務め、明治維新を経て鹿児島県に出仕する。大島郡書記、金久支庁御用掛、同庁属を歴任する。ほか、大島興業社長、大阪七十九銀行大島支店支配人を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第7区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。
常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉… 常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉 - 1869年10月2日〈明治2年8月27日〉)は、現在の長崎県南島原市(旧・肥前国高来郡)出身の大相撲力士。本名、身長、体重は不明。最高位は西関脇。常盤山部屋及び玉垣部屋に所属した。鷲ヶ濱音右エ門の岳父に当たる。 1851年4月から1852年閏2月までは八戸藩、1852年11月以降は島原藩のお抱えだった。岳父が自殺して嫌疑を受けたので脱藩したが、途中で参勤行列と出合い、運良く同郷の者が居たので一行に加えてくれるように頼み、怪力を買われて駕籠担ぎとして加わった。江戸に出てからは仲間として働いていたが怪力を見出され、勧誘されて入門した。
宮城野 馬五郎(みやぎの うまごろう、1826年(文政9年)… 宮城野 馬五郎(みやぎの うまごろう、1826年(文政9年) - 1889年(明治22年)8月17日)は、伊勢国三重郡(現在の三重県四日市市)出身で宮城野部屋に所属した力士。本名は宮城野 馬五郎(旧姓近藤)。4代宮城野。身長体重不明。最高位は東小結。 1844年1月に宮城野部屋に入門し、一時は八戸藩の抱えになるほどに期待をされた。しかしなかなか番付が上がらず、入幕を果たしたのは1858年11月で既に数え33歳であった。師匠の元の四股名の荒馬大五郎を名乗り幕内を務めたが、引き分け・預かりが多く番付は小康状態であった。1866年に二枚鑑札となり、その後1868年7月に数え43歳で小結に昇進している。
加藤 素毛(かとう そもう、1825年11月26日(文政8年… 加藤 素毛(かとう そもう、1825年11月26日(文政8年10月17日) - 1879年(明治12年)5月12日)は、江戸時代後期から明治時代初期の俳人である。 名は雅英。幼名は藤平(後に十郎)、号は素毛、周海、米行子、霊之庵、君林舎。 江戸幕府の万延元年遣米使節随行員の一人である。 飛騨国益田郡下原郷下原町村(現・岐阜県下呂市)の名主、加藤三郎右衛門の次男として生まれる。高山で飛騨郡代の公用人となる。当時の郡代であった小野高福から漢学、地役人山崎弘泰(田中大秀の門弟)から国学、山崎弓雄(山崎弘泰の子)から和歌を学ぶ。また小野高福の子である山岡鉄舟とも交流する。 嘉永5年(1852年)に公用人を辞し、関西、九州へ吟行の旅に向かう。
玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9… 玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9月3日) - 1886年(明治19年)8月8日)は、日本の司法官。剛毅果断・清廉潔白な精神の持ち主で、裁判官としての公正な裁きにより、「明治の大岡」と称賛された。号は五龍。大審院長在職中に自殺した。通称は泰吉郎、東平。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
畔上 楳仙(あぜがみ ばいせん、文政8年7月15日〈1825… 畔上 楳仙(あぜがみ ばいせん、文政8年7月15日〈1825年8月28日〉 - 1901年〈明治34年〉12月27日)は、日本の曹洞宗の僧侶。大本山總持寺独住2世貫首、曹洞宗第三代管長。旧姓清水。号は大岡。諡号は法雲普蓋禅師。 1825年(文政8年)、信濃国高井郡夜間瀬村(現・長野県下高井郡山ノ内町)生まれ、幼名は亀蔵。7歳で得度(出家)し、江戸・駒込の栴檀林に学ぶ。信濃・松代の長国寺覚巌、相模国(神奈川県)早川・海蔵寺月潭らに参じる。信濃の興隆寺、大林寺、長国寺、上野国前橋の竜海院、相模の最乗寺(1874年(明治7年)、独住第一世)などに歴住。1880年(明治13年)、總持寺独住2世貫首となり、明治天皇より法雲普蓋禪師の称を賜る。
丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年… 丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年7月21日) - 明治19年(1886年)1月8日)は江戸時代から明治にかけての学者、漢詩人。佐渡国雑太郡折戸村名主、佐渡奉行所修教館教授を務め、明治維新後も相川県漢学局、雑太郡学区、公立佐渡中学校で教育に携わった。 文政8年(1825年)6月6日に生まれた。家は代々佐渡国雑太郡折戸町名主、佐渡奉行所官庫出納掾を兼ね、醤油醸造を行っていた。幼少より書を好み、特定の師は持たなかったものの、甲賀達斎等に兄事し、詩を藤木竹窓に学び、間もなく天野恥堂兄弟、万歳東所、西村滄州、大平菰塘、岡崎棟庵、謙亭、棟斎等と交流を持ち、廉社を結び毎月詩筵を開いた。
大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8… 大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年(明治29年)4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。 薩摩国鹿児島城下平之町に薩摩藩士・山之内立幹の四男として生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年(1860年)から京都警備に従事。戊辰戦争では、二番遊撃隊隊長、そして東山道先鋒総督本営付として従軍した。 明治に入り薩摩藩の藩政改革に参政、権大参事として取り組む。明治5年(1872年)に陸軍少佐に任官し、中佐まで進み第1経営部司令官に就任。1874年(明治7年)1月に静岡県令に転じ、以後、文官として歩んだ。 1883年(明治16年)12月、警視総監に就任し、1885年(明治18年)12月、元老院議官を兼務した。
須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月… 須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月20日) - 明治41年(1908年)9月5日)は日本の医師(蘭方医)。諱は経哲 、号は経石、老嶺。 信濃国伊那郡西伊那部村(三州街道伊那部宿、現長野県伊那市)の医家に生まれる。弘化元年(1844年)には江戸の林洞海、嘉永元年(1848年)には佐倉の佐藤泰然に入門し蘭方医学を学んだ。嘉永4年(1851年)に帰郷して外科、産科を開業し、種痘を実施したことで高遠藩から賞詞を授かった。また天保の大飢饉に直面する農民の飢餓を『天保雑記』に記した。 安政4年(1857年)藩命で再び上京し、林洞海と伊東玄朴に入門し、象先堂の塾頭を務め、文久元年(1861年)、麻酔薬クロロホルムを使用した下腿切断手術を日本で初めて実施した。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈18… 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の官僚・洋学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
安東 九華(あんどう きゅうか、1825年5月12日(文政8… 安東 九華(あんどう きゅうか、1825年5月12日(文政8年3月25日)- 1904年(明治37年)1月8日)は、明治期の公吏、政治家。衆議院議員。名・宗明、字・子成、通称・貞五郎。九華は号であったが後に実名とした。 豊後国国東郡佐野村(大分県西国東郡河内村、高田町を経て現豊後高田市)で、旧家の安東家に生まれる。中津の藩儒・野本白巌、日出の帆足万里に漢学を学んだ。父の死去により帰郷して里正を継いだ。 1875年(明治8年)第一大区二小区戸長に就任し、次いで区長となる。その後、三潴県庁、福岡県庁、大分県庁に出仕し、1882年(明治15年)9月、西国東郡長に就任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では、元田肇の豊州会から大分県第5区に出馬して次点となったが、第1区と同区で当選した元田が第5区を辞退したため繰上当選となった。
林 金兵衛(はやし きんべえ、文政8年1月1日(1825年2… 林 金兵衛(はやし きんべえ、文政8年1月1日(1825年2月18日) - 明治14年(1881年)3月1日)は、明治初期の日本の政治家、農民運動家。本名、林金兵衛重勝。 上条城主小坂氏の末裔で林家28代目当主(今井兼平からかぞえて)。 父に林重郷、息子に林小参(養子)を持つ。幕末の義勇隊の一つである草薙隊の隊長でもある。 尾張国春日井郡上条村(現在の愛知県春日井市上条町)に林家の二男として生まれた。嘉永2年(1849年)に父が亡くなって家を継ぎ、父から金兵衛の名を受け継いで林金兵衛重勝と名乗った。 安政5年(1858年)、水野代官所総庄屋に就き、人々の生活が安定するように努めた。特に、明治9年(1876年)から明治14年(1881年)にかけて、春日井郡の地租改正反対運動の中心人物として活動していた。
多田 宗太郎(ただ そうたろう、文政7年11月28日(182… 多田 宗太郎(ただ そうたろう、文政7年11月28日(1825年1月16日) - 明治25年(1892年)2月5日)は、江戸時代から明治時代にかけての篤農家。世襲名は助右衛門。幼名は常太郎。通称は助右衛門。号は石翁・石竜。 文政7年11月28日(1825年1月16日)、阿波国勝浦郡小松島金磯村(現・徳島県小松島市)で生まれる。 文久2年(1862年)、金磯弁財天の丘陵上に弁天山砲台(8門を備え、周囲には火薬庫、兵舎、道具舎、射撃練習場等の施設)を築いて徳島藩に私費を投じ献上した。これにより後に士分(郷士格)に取り立てられた。明治2年(1869年)まで砲台の監守をつとめた。 大正8年(1919年)、正五位を追贈された。
石川 桜所(いしかわ おうしょ、文政8年(1825年) - … 石川 桜所(いしかわ おうしょ、文政8年(1825年) - 明治15年(1882年)2月20日)は、幕末の蘭方医。幕府奥医師。通称玄貞。実名良信。桜所は号。初名は千葉山庵。 文政8年(1825年)、陸奥国登米郡桜場村(現・宮城県登米市)に生まれる。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。文久2年(1862年)8月23日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用され、奥医師となる。同年12月16日、法眼に叙せらる。慶応2年(1866年)12月18日、法印に昇叙、香雲院と号す。蟄居する徳川慶喜に従い水戸に下り、仙台に帰った。明治以降は松本良順に招かれ兵部省軍医寮の次官、陸軍軍医監などを勤めた。
篠田 直方(しのだ なおかた、1825年 - 1898年)は… 篠田 直方(しのだ なおかた、1825年 - 1898年)は、三河国加茂郡宮口村(現愛知県豊田市)出身の政治家・実業家。通称に勇三郎。 西大平藩郡代であった篠田竜平の養子となり、代官・郡代・郡代兼用人・陣屋代官を歴任した。額田県大属租税課次席を最後に下野し、官営愛知紡績所の払い下げを受け、同所経営者に転じた。 この項目は、愛知県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/愛知県)。
桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、文政8年(1825年) -… 桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、文政8年(1825年) - 明治18年(1885年)12月3日)は、江戸時代末期から明治時代の剣術家(鏡新明智流第4代)。旧姓は田中、幼名は甚助、通称は左右八郎、諱は直正。「桃井春蔵」の名は士学館の館主が代々襲名した名跡であり、直正は4代目桃井春蔵である。「品格随一」といわれた。 駿河国沼津藩藩士・田中豊秋の次男として生まれる。沼津で直心影流剣術を2年ほど学び、天保9年(1838年)に江戸へ出て、14歳で鏡新明智流の道場・士学館(3代目桃井春蔵)に入門。17歳で初伝目録を得て、才能を師匠に見込まれ、その婿養子に取り立てられる。 23歳で皆伝、25歳で奥伝を得て、嘉永5年(1852年)、27歳で士学館4代目桃井春蔵を継いだ。
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - … 奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。 豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。 嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。 文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日(1824年… 福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日(1824年9月13日) - 明治25年(1892年)5月20日)は、日本の農政家、実業家。報徳仕法の研究・実践者。 文政7年(1824年)、相模国大住郡片岡村(現在の神奈川県平塚市片岡)にて大澤市左衛門の五男として生まれる。幼名は「政吉」。 文政10年(1827年)、親類の大住郡南金目村(現在の平塚市南金目)の名主、森勝五郎の養子となるが、養父母の死により実家に帰る。 天保元年(1830年、7歳のとき儒学者千賀桐陰の教えを受ける。政吉は当初、天保の大飢饉で疲弊した貧しい農民を救うべく医術の道を志していたが、「人を病を治す医者になるよりも、国の病を治す医者になるべし。
秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(182… 秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(1824年7月27日) - 明治33年(1900年)1月5日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。婿養子・胤継は、漢学者(文学博士、第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。 下総国発祥千葉氏の末裔である会津藩士・丸山胤道(150石)の次男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校・日新館に学び、南摩綱紀とともに藩内でも秀才として知られた。天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩・長州など諸国を渡る。
本木 昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう、文政7年… 本木 昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう、文政7年6月9日〈1824年7月5日〉 - 1875年〈明治8年〉9月3日)は江戸幕府のオランダ(蘭)通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久(ながひさ)、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(あるいは号とも〈曲田(1894)〉)、咲三。 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。明治維新後、職をなくした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して「新街活版所」となり、門下生らによって東京築地活版製造所などへとつながった。
高木 仙右衛門(たかぎ せんえもん、文政7年2月12日(18… 高木 仙右衛門(たかぎ せんえもん、文政7年2月12日(1824年3月12日) - 明治32年(1899年)4月13日)は江戸時代末期から明治時代における浦上キリシタンの中心人物。 肥前国西彼杵郡浦上山里村本原郷辻(現・長崎県長崎市辻町)に生まれた。慶応元年(1865年)の大浦における信徒発見後、自分の家を秘密聖堂(聖ヨゼフ堂)とし、浦上の伝道士を務めた。 慶応3年(1867年)の浦上四番崩れにおいて、信徒82人とともに捕縛され、投獄。拷問の末、仙右衛門を除き全員が転ぶことを誓った。浦上の庄屋の家に留め置かれた後、桜町の六番牢に入れられ、さらに小島の牢屋に移された。そして浦上や外海等に住む数千人の信徒が配流された際に、仙右衛門も津和野へ流された。
金成 喜蔵(かんなり きぞう、旧字体: 金成 喜藏、アイヌ名… 金成 喜蔵(かんなり きぞう、旧字体: 金成 喜藏、アイヌ名:カンナリキ、1824年2月18日〈文政7年1月19日〉 - 1912年〈明治45年〉1月1日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ(父親は和人)。実業家。愛隣学校の創設者。 喜蔵は幌別で漁業、農業で成功し、宿屋を経営するなど多くの雇用を生む実業家であった。キリスト教を信仰し、正直者として徳望が高く、酒もタバコもやらない人物で、幌別にアイヌのための学校を作る活動をした。 1883年、東京・上野恩賜公園で開催された水産博覧会に投銛を出品し、褒状を授与された。 1888年9月、北海道幌別郡幌別村に愛隣学校を開設。 廃使置県、室蘭も含めて札幌県管轄になった年、1882年(明治15年)に札幌県に対して「幌別旧土人学校設立嘆願書」がカンナリキ他5名の署名で出されている。
足利 義山(あしかが ぎざん、文政7年(1824年) - 明… 足利 義山(あしかが ぎざん、文政7年(1824年) - 明治43年(1910年))は、備後国(現在の広島県東部)出身の江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗僧侶(勧学)。広島県福山市勝願寺第23代住職。実子に京都女子大学創始者の甲斐和里子や龍谷大学学長を務めた足利瑞義。孫に同朋舎を創った足利浄円。 文政7年(1824年)、備後国の光圓寺(現在の福山市御幸町下岩成)に生まれる。嘉永2年(1849年)に神辺の勝願寺に入る。宗学は石泉学派の創始である石泉僧叡の弟子であった慧海や泰巌に学ぶ。大教校教授、備後博練教校教授、安芸進徳教校教授を経て、明治23年(1890年)に大学林教員、仏教大学講師となる。
東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885… 東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885年7月10日)は、現在の栃木県足利市(下野国安蘇郡)出身で東関部屋に所属した力士。本名は東関 庄助(旧名は不明)。5代東関。身長、体重不明。最高位は東関脇。 東関部屋に入門し、1846年11月初土俵を踏む。当時は4代目東関であったが、3代東関は本人と同じく下野国安蘇郡(現在の佐野市)出身の元前頭・東関勝五郎であった。1862年11月に入幕を果たし、以来17場所幕内を務める。1868年には小結に、1870年4月に関脇に昇進、11月は二枚鑑札の関脇であったが、この場所限りで力士を引退した。不動明王のような顔付きをしていたという。また、二枚鑑札前の四股名は嶌田川又吉で、のちに弟子で6代東関の嶌田川儀兵衞が名乗った。
南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823… 南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823年12月26日) - 明治42年(1909年)4月13日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。通称は八之丞、号は羽峯。 南摩家は元下野国南摩城主であった。会津藩においては家禄300石の上級藩士であったが、綱紀は次男で当主ではない。藩校日新館に学び、秋月悌次郎とともに秀才として知られた。昌平坂学問所に留学し、その後洋学も修めている。西国諸国を歴訪し、その見聞を『負笈管見』と題して著す。帰藩後は日新館教授を務め次いで蝦夷地代官として現地に赴任。現地でも藩士子弟の教育にあたり、その中に会津藩出身者として最初の海軍将官となる角田秀松がいた。蝦夷地代官としての手当ては5両3人扶持であった。
矢野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年… 矢野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年11月17日) - 1887年5月19日)は、伊予国喜多郡阿蔵村有松(現、愛媛県大洲市)の国学者・神道学者。伊予大洲藩士の子。幼名は茂太郎。道号は天放散人、子清、神臣、谷倶久、後楽閑人、扶桑眞人倚松、谷蟆、梅屋。本姓は平(佐奈田余一義忠次男中山次郎盛実末)。平田篤胤門下。
藤岡 覚音(ふじおか がくおん、文政6年10月3日(1823… 藤岡 覚音(ふじおか がくおん、文政6年10月3日(1823年11月5日) - 明治40年(1907年)8月23日)は、日本の宗教家。幕末から明治時代の僧。 文政6年(1823年)10月3日、肥後国宇土郡網津村浄蓮寺(現・熊本県宇土市)生まれ。家は代々浄蓮寺の住職。7歳より6年間漢文を学び、13歳より10年間、上益城郡六嘉村(現・同上益城郡嘉島町)の司教門生師、及び筑前国西郷村の勧学玄雄師に宗学を学ぶ。嘉永6年(1853年)、熊本県宇城市小川町西海東の正覚寺(浄土真宗本願寺派)、第13世住職となる。 浄土真宗の宗学のかたわら、自坊に龍水学館と称する学寮を起こし、数多くの子弟を教えた。明治36年(1903年)勧学に。