遠藤 温(えんどう おん、1823年9月1日(文政6年7月2… 遠藤 温(えんどう おん、1823年9月1日(文政6年7月27日)- 1896年(明治29年)6月4日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 陸奥仙台藩領桃生郡深谷北村(宮城県桃生郡深谷村、北村、河南町を経て現石巻市)出身。上京し昌平黌に入り経史を修める。帰郷後は家業の醸造業に従事する傍ら、子弟教育に尽くす。1868年(明治元年)、藩政改革で多大な功績を上げ、藩世子の侍読と大番隊士に抜擢され、戊辰戦争で活躍する。会津戦争では会津藩赦免の嘆願に関与した。1869年(明治2年)昌平黌教授試補兼副舎長となり、同年5月、教授兼舎長に進み、7月、大学中助教となる。 1870年(明治3年)5月、仙台藩少参事に任じ、1871年(明治4年)4月、権大参事に進み、1875年(明治8年)2月、宮城県参事となった。
松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月… 松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月15日) - 明治14年(1881年)9月3日)は、伊勢山田(現在の三重県伊勢市)生まれの書家。名は元修、字は子践、幼名は慶太郎、通称は縫殿(ぬい)、雪柯は号で、別号に澹所などがある。 幕末の三筆と称される貫名菘翁の書法を日下部鳴鶴・巖谷一六などに指導した。また、明治13年(1880年)清の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日した後、巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は楊守敬に師事して書法を研究し、六朝書道を提唱し興隆させた。 文政6年(1823年)、伊勢山田一志久保町に生まれる。家は代々伊勢神宮の祠官であり、幼少の頃から父(適翁)に書画を習い、のちに貫名菘翁などの門人となって、書画の鑑識・書法・水墨画などを学んだ。
下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日(182… 下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日(1823年3月24日) - 大正3年(1914年)3月3日)は、日本の写真師、画家。「蓮杖」は号で、通称は久之助。横浜を中心に活躍し、上野彦馬や鵜飼玉川らと並ぶ、日本最初期の写真家である。 伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市の静岡地方裁判所下田支部裏付近)に桜田与惣右衛門の三男として生まれる。父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人だった。幼いときから絵を好んで下田で奉公するのを嫌ったため、天保6年(1835年)13歳で江戸に出て絵師になろうとする。しかし、何のツテも持たない少年が良い師につくことは難しく、結局日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公に出ることになった。
五弓 久文(ごきゅう ひさふみ、1823年3月6日(文政6年… 五弓 久文(ごきゅう ひさふみ、1823年3月6日(文政6年1月24日) - 1886年(明治19年)1月17日)は、江戸時代末期~明治時代初期の国学者、歴史学者、教育者。名は久文、字は士憲・子憲、通称は豊太郎、雅号として雪窓(せっそう)など。備後国芦田郡府中市村(現・広島県府中市)出身。 代々神職を務める家に生まれたが、神職を弟の久紀に譲り、自身は儒学者として分家する。学問は特に史学を究め、『事実文編』『三備史略』をはじめ多くの著述を残した。また、福山藩校誠之館および自身が設立した分校府中郷学で教鞭を執り、この郷学が小学校として移管した後は、家塾晩香館を開き、多くの子どもの教育に専念した。 五弓家の祖先は藤原氏で、当初は「石岡」を氏としていたが、禁中に奉仕して弓の製作にかかわる「御弓師」の「御」の字を同音の「五」として五弓と名乗ったという。
佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日〈文政5年12… 佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日〈文政5年12月28日〉- 1902年〈明治35年〉12月7日)は、明治期の日本の政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。栄典は正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。 1823年(文政6年)、佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村、現:佐賀市)に生まれる。幼名は鱗三郎。1831年(天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・弘道館に学び、1837年(天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。
淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日〈1823年… 淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日〈1823年1月12日〉 - 1879年〈明治12年〉6月19日)は勤王家・文人。漢詩人の江馬天江は実弟。 本姓は下坂氏。名は緝、字は敬天。号は槐堂のほか、重涂・頑山史。近江の人。 近江国坂田郡中村(現在の滋賀県長浜市)の下坂篁斎の子として生まれる。3歳のときに京都の薬種商武田家の養子となる。安政2年(1855年)に、醍醐家に仕えて功績が認められて同家の侍となり、板倉姓を賜り、従六位下筑前介に叙任されている。 勤王の志に篤く、七卿落ちや天誅組・長州藩などを資金援助。坂本龍馬・中岡慎太郎にも惜しみなく支援を行っている。 元治元年(1864年)に起きた禁門の変後に幕府に捕らえられ3年間獄中の身となる。
村上 麗碩(むらかみ れい(らい)せき、文政6年(1823年… 村上 麗碩(むらかみ れい(らい)せき、文政6年(1823年)- 明治12年(1879年))は日本の医師。名は仁。通称は弥太郎。医号を麗碩と称し、別に翹楚堂のち岳翁ともいった。 会見郡上道村(現在の鳥取県境港市上道町)に南清蔵の次男として生まれる。天保12年(1841年)中野村の景山粛の塾に入り学問と漢蘭の医術を学び、次いで大坂に出て弘化3年(1846年)7月小山玄庵に雑科を修行し、儒者篠崎小竹に師事して経史を学んだ。更に嘉永元年(1848年)から同4年5月まで備前の難波立愿に内科産科を学んで帰郷した。郷里上道村で分家し、先祖の姓“村上”を名乗った。新しい医術と人望もあって評判高く、幕末より明治にかけて、弓浜米子地方に医名を馳せた。
山根 孝中(やまね こうちゅう、文政6年(1823年) - … 山根 孝中(やまね こうちゅう、文政6年(1823年) - 明治31年(1898年))は、幕末から明治時代にかけて活躍した医師。 文政6年(1823年)、周防国吉敷郡矢原村(現在の山口市)にて医家・重嶺泰安の次男として出生。後に藩の一代雇医で叔父の山根文季の養子となる。安政5年(1858年)、吉田松陰の松下村塾に36歳で入塾。吉田松陰時代の松下村塾の塾生としては最年長だった。しかし同年に萩にもコレラが流行し、コレラに罹患した文季が1858年8月に57歳で他界。このため家督を継ぎ、萩・香川津の自宅に村医者として開業した。文久3年(1863年)眼科医としての評判により、養父と同じく藩から一代雇医に取り立てられる。
雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち(ひさきち)、1823年 … 雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち(ひさきち)、1823年 - 1890年6月15日)は、筑後国山門郡大和村(現:福岡県柳川市)出身で追手風部屋(入門時は陣幕部屋)に所属した大相撲力士。第10代横綱。本名は塩塚 久吉で、のちに佐藤 喜太郎と名乗る。 1823年に筑後国山門郡で半農半漁を営む家の長男として生まれたが、1835年に大流行した疫病で両親・祖母を相次いで失ったため、生来の怪力を活かして力仕事をこなし、幼い弟と妹を養った。やがて力仕事だけでは養っていけなくなり、土地相撲で頭取を務めていた小櫻(京都相撲の元力士だったと伝わる)、箕嶋に指導を受けた。 やがて、土地相撲から陣幕部屋(大坂相撲)に入門したが、1846年に江戸へ出て江戸相撲・追手風の弟子となり、1848年11月場所において幕下二段目付け出しで初土俵を踏むと同時に、柳川藩の抱え力士となる。
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5… 阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5年11月17日) - 1881年(明治14年)1月15日)は、日本の漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動した。東京学士会院議員。
徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24… 徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24日(1822年11月7日) - 大正3年(1914年)5月26日)は、幕末から明治にかけての日本の儒学者(朱子学者)、官僚、教育者。徳富蘇峰、徳富蘆花の父。淇水(きすい)と号した。 肥後国葦北郡水俣郷(後の熊本県水俣市)に、惣庄屋の長男として生まれ、幼児には万熊、後には太多助、太多七などと称した。一敬の父は辛島塩井の高弟で、津奈木手永惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。 一敬は1837年から、近藤英助の私塾で教えを受けつつ藩校時習館に学ぶが、1842年に父の死去により惣庄屋の務めのため帰郷した。1845年に横井小楠の門下となった。
山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年… 山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年10月16日) - 明治18年(1885年)5月25日)は、三河国碧海郡棚尾村東浦(現在の愛知県碧南市)出身の書家・政治家である。山中 信天翁(やまなか しんてんおう)として知られる。 幼名は松寿。諱(いみな、生前の実名)は献(まつる)。号を信天翁、静逸と称した。 三河国碧海郡棚尾村の豪農(素封家)の家に次男として生まれる。父の山中七左右衛門(山中子敏、しびん)は京都で学び、日本各地を歩いて地理を探求し、東浦で子弟の教育を行っていた。 早いうちから大坂の篠崎小竹に入門したが、嘉永元年(1848年)に父が死去すると、家業を継いだうえで寺子屋を開いた。
由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日〈1822年5月… 由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日〈1822年5月28日〉 - 1899年〈明治32年〉1月20日)は日本の江戸末期から明治初期にかけての臨済宗の僧侶。宜牧は諱、号は滴水、無異室、雲母庵とも称する。姓は由利、由里とも。また滴水宜牧ともいう。 丹波国何鹿郡白道路村(現・京都府綾部市)に上田彦兵衛、母絹の三男として生まれる。父は文政8年(1825年)早くに没したので、親類の京都府加佐郡河守村の酒造家である由理清左衛門宅に引き取られ、養子となる。そして父の遺言に従い、9歳の時に出家をして、加佐郡行永村にあった龍勝寺の住職・大法和尚について出家得度する。この時僧名を宜牧と名づけられる。大和和尚は病身で経文祖録は進まず、もっぱら湯薬の世話に明け暮れた。
西丸 帯刀(さいまる たてわき、文政5年3月15日(1822… 西丸 帯刀(さいまる たてわき、文政5年3月15日(1822年5月6日) - 大正2年(1913年)12月31日)は、江戸時代後期(幕末)の尊皇志士。水戸藩郷士。位階は従五位。西丸氏は佐竹氏の庶流で、本姓は源氏である。幼名は義勝、諱は亮、号は松陰。 帯刀は常陸国北部磯原村(現・茨城県北茨城市)の旧族郷士野口氏の出身で、野口北溟の次男として生まれた後、大津村の郷士西丸勇五郎義則の養子となり、養父の女よしを妻としたという。 磯原村の野口氏は、徳川綱條の代に野口市蔵が郷士に取り立てられて以来続く家柄であり、西丸氏は旧常陸守護佐竹氏の庶家という家柄で大津村の旧族郷士という、ともに佐竹氏時代以来の名門であった。
寺田 彦太郎(てらだ ひこたろう、1822年3月26日(文政… 寺田 彦太郎(てらだ ひこたろう、1822年3月26日(文政5年2月4日) - 1903年(明治36年)10月6日)は、明治時代の政治家。実業家。国学者。衆議院議員(静岡県第5区選出、当選3回)。号は観海。族籍は静岡県平民。 遠江国山名郡福田村(静岡県山名郡福島村、磐田郡福田町を経て現磐田市福田)の庄屋寺田彦左衛門良賢の子として生まれる。 1836年(天保7年)、藩侯西尾隠岐守より庄屋を命ぜられる。1842年(天保13年)大庄屋となり、同じ西尾藩の庄屋八木美樹と交わり、その父美穂より国学思想を受け継ぎ、のち『国教のもとゐ』などを著した。 さらに国学思想に則り村政に励み、福田港口掘削、河川改修、海岸砂防堤築造、荒蕪地開拓に尽くす。
斎藤 利行(さいとう としゆき、1822年2月2日〈文政5年… 斎藤 利行(さいとう としゆき、1822年2月2日〈文政5年1月11日〉- 1881年〈明治14年〉5月26日)、旧名渡辺 弥久馬(わたなべ やくま)は、幕末の土佐藩家老。漢学者。明治政府に出仕して刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。同藩士・斎藤利成の子。長子は将棋棋士の斎藤雅雄八段。カーデザイナーの齋藤利明は玄孫。 若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕えるが、おこぜ組に加わったことから1843年(天保14年)に反対派によって失脚させられる。後に吉田東洋の命によって復職し、近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任後、慶応年間には仕置役・家老となる。1867年(慶応3年)に長崎で起きた土佐藩士によるイギリス水兵殺害事件では、後藤象二郎とともにイギリス公使ハリー・パークスと交渉して補償問題を解決した他、佐々木高行とともに坂本龍馬とも結んで武器調達に活躍した。
錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉… 錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉 - 1861年12月27日〈文久元年11月26日〉)は、現在の岩手県北上市(旧・陸奥国和賀郡)出身で二所ノ関部屋に所属した力士。本名は工藤とのみ伝わっている。身長、体重ともに不明。最高位は西前頭筆頭。南部藩の抱えであった。 最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1845年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1852年11月西二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。この場所、6勝3敗1預の優勝次点という好成績を挙げた。1856年11月場所で新入幕を果たした。幕内では目立った成績を残せず、勝ち越しも一度きり(西前頭4枚目だった1859年11月場所)と芳しくなかった。
長谷川 鉄之進(はせがわ てつのしん、1822年(文政5年)… 長谷川 鉄之進(はせがわ てつのしん、1822年(文政5年) - 1871年12月14日(明治4年11月3日))は、幕末の勤皇家、志士。名は世傑、字は公輿、号は強庵。1907年(明治40年)贈従四位。 越後長岡藩粟生津村出身。家は代々庄屋であった。15歳のとき私塾長善館に入門。26歳で江戸に遊学し、朝川善庵に師事する。ペリー来航後は尊皇攘夷を唱え志士活動に身を投じ、各地を巡る。讃岐では小橋安蔵や日柳燕石と親交を結ぶ。攘夷実行の動きに呼応して京都に上るが、文久3年(1863年)の七卿落ちに伴い長州藩へ向かう。「忠正公勤王事績」によると、長谷川と大楽源太郎が佐久間象山の殺害を久坂玄瑞に提案したところ却下されたことが長谷川の日記に書かれているという。
関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年1… 関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年11月)は、日本の侠客である。村上元三の小説『次郎長三国志』に同名で登場、清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる大瀬の半五郎(おおせのはんごろう)と同一人物であるとされる。本名は鈴木 綱五郎(すずき つなごろう)、出生名は鈴木 綱之助(すずき つなのすけ)。関東の綱五郎(かんとうのつなごろう)とも。 1822年(文政5年)、武蔵国多摩郡上椚田村字落合(現在の東京都八王子市高尾町1915番地)に八王子千人同心を務める鈴木惣七の息子、つまり鈴木家の6代目・綱之助として生まれる。先祖は甲斐国にあったが、甲州征伐による1582年4月3日(天正10年3月11日)の武田氏滅亡に際して、同地に移住したとされる。
鯉江 方寿(こいえ ほうじゅ、通称:伊三郎とも、1821年1… 鯉江 方寿(こいえ ほうじゅ、通称:伊三郎とも、1821年12月30日(文政4年12月7日) - 1901年(明治34年)5月12日)は、尾張国知多郡常滑村(現:愛知県常滑市)出身の陶芸家。鯉江小三郎家三代目である。 父の鯉江方救と共に常滑焼の鉄砲窯(大窯)にかわる、真焼間窯を導入した。1835年に真焼間窯を親子で完成させたとされ(後述)、1874年には真焼土管(常滑陶管)の国産化に成功し、常滑焼の基礎を築いたとして名高い。 中国人を招聘、また、常滑焼を代表する朱泥の急須作りを導入し、その他には美術研究所や埋め立て事業(鯉江新開)を行った。 1821年(文政4年)12月7日、尾張国知多郡常滑村に陶芸家の鯉江方救の元に長男として生まれる。
富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821… 富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821年6月13日) - 明治33年(1900年)12月20日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。 文政4年(1821年)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて誕生。 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。
若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日(1821年… 若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日(1821年1月9日) - 大正2年(1913年)9月7日)は日本の実業家・銀行家・政治家。貴族院議員、初代甲府市市長。従六位。 根津嘉一郎・雨宮敬次郎らとともに、郷土意識で緩やかな資本連合を持ち、中央経済界で影響力を持った甲州財閥と呼ばれるグループのひとりで、若尾家はその中核にあたる。 甲斐国西郡筋在家塚村(現在の山梨県南アルプス市在家塚)に生まれる。生家は百姓で、父は若尾林右衛門。逸平は長男。若尾逸平の来歴や逸話などは、1914年に内藤文治良の記した伝記『若尾逸平』に記されている。十代の頃、江戸に出て材木奉行の清水新右衛門に仕えたもののうまくいかず帰郷。
飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9… 飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9月12日〉 - 1886年〈明治19年〉6月26日)は、因幡国鳥取藩国学方、国学者である。 因幡国気多郡寺内町(現・鳥取県鳥取市)の加知弥神社祠官飯田秀雄の次男として生まれる。 秀雄が本居大平の門人であったため、年平も大平に従学、さらに加納諸平にも学んだ。その好学を鳥取藩主池田慶徳に認められ、万延元年(1860年)3月、士班に列して鳥取藩国学方雇となる。挙兵に失敗した天誅組の三枝蓊を屋敷に匿った。明治維新後は、まず史官となり、次いで神祗大史となる。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使・式部寮御用掛准奏任官などを歴任。 明治19年(1886年)6月26日、死去の際に従六位に叙された。
武谷 祐之(たけや ゆうし(「すけゆき」との記載もあり)、文… 武谷 祐之(たけや ゆうし(「すけゆき」との記載もあり)、文政3年4月2日〈1820年5月13日〉 - 明治27年(1894年)2月1日)は、江戸時代、明治時代の医学者(蘭方医)。福岡藩藩医。号は椋亭、澧蘭、鷗洲、三餘学人。字(あざな)は元吉。 蘭方医武谷元立の長男として、筑前国鞍手郡高野村(現・福岡県宮若市)に生まれる。月形鷦窠、天保7年(1836年)広瀬淡窓に儒学を学び、天保14年(1843年)大坂に出て、緒方洪庵の適塾に入り西洋医学、蘭学を修めた。弘化3年(1846年)種痘書『接痘瑣言』を翻訳した。 嘉永元年(1848年)福岡に帰り、郡の頭取医として、モーニッケがもたらした痘苗を入手し、藩内において種痘を実施した。
武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3… 武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3月17日〉 - 1886年〈明治19年〉2月7日)は、幕末の儒学者。明治時代の官吏。胆沢県権知事。通称は亀五郎。雅号に韜軒、熟軒、天経、伯佐。 大洲藩儒御旗組小頭武田敬忠、新谷藩医久岡氏の女三保子の長男として、伊予国伊予郡中村(愛媛県伊予郡北山崎村を経て現伊予市)に生まれる。大洲藩校で常磐井厳戈に、経史や詩文を山田東海に学んだ。1839年(天保10年)父に代勤して江戸在番の機会を得、大橋訥庵の教えを受け尊王思想を抱くようになる。 学識を認められ足軽小頭から藩主の侍講に登用され、藩校明倫堂教授となり、執政顧問を兼ねた。幕末は尊王諸藩との連携に尽力した。
大野 規周(おおの のりちか、文政3年1月28日〈1820年… 大野 規周(おおの のりちか、文政3年1月28日〈1820年3月12日〉 - 1886年〈明治19年〉10月5日)は江戸時代後期の時計師、造幣寮技師。江戸神田で家業の時計師を営み、幕末福井藩に召し抱えられ、幕府海軍の下オランダに留学し、帰国後大阪造幣寮で技官を務めた。 文政3年(1820年)1月28日、江戸神田松枝町の時計師大野家に生まれた。祖父弥五郎規貞、父弥三郎規行も時計師で、伊能忠敬に測量器具を提供したことで知られる。弘化2年(1845年)父規行が死去し、家督を継いだ。嘉永2年(1849年)横山町三丁目玉屋吉次郎の測量器具の引札が残っている。 安政2年(1855年)明道館を作った福井藩に召し抱えられて本所中之郷の下屋敷に住み、ゲベール銃等の製作を行った。
岡松 甕谷(おかまつ おうこく(子孫は「ようこく」と呼び慣わ… 岡松 甕谷(おかまつ おうこく(子孫は「ようこく」と呼び慣わす)、文政3年1月14日(1820年2月27日) - 明治28年(1895年)2月18日)は幕末、明治時代の漢学者。名は辰。字は君盈。通称は辰五、後に伊助。諡号は文靖先生。号は故郷上徳丸村より大野川対岸の百堂村(大分市種具)山麓の谷に由来するという。 帆足万里に漢学を学び、熊本藩や明治政府の下で法制に携わり、晩年は東京大学や府下の中学で教鞭を取った。漢文に巧みなだけでなく、洋学にも心得があり、オランダ語、英語を解した。 文政3年(1820年)1月14日、豊後国大分郡高田手永上徳丸村(大分県大分市丸亀)に、岡松数右衛門真友の次男として生まれた。
藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2… 藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2年12月11日〉 - 1916年〈大正5年〉12月23日)は江戸時代末期から明治時代の実業家。両国橋 (徳島市)の創建者。 徳島県美馬郡重清村(現・美馬市)に生まれる。 1872年(明治5年)、徳島市街に流れる新町川の両岸(現・両国橋 (徳島市))の街の賑わいにもかかわらず、渡船場もなく、橋がなかったことに着目し、徳島県の許可を得て渡し舟を開業する。しかし、両岸には道もない葦原であったため、利用者は1日20人程度と少なかった。そこで、1877年(明治10年)に自己資本で両岸に道路を完成させたことから利用者が増加、船場町濱側に住宅を建設した。
青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) - … 青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) - 1906年(明治39年)11月)は水戸藩士で儒学者・史学者。藩校である弘道館の教授頭取代理、彰考館権総裁代役を務めた。字は季卿、通称は量四郎、鉄槍・鉄槍斎と号した。婦人運動家・山川菊栄の外祖父。 1820年(文政3年)、水戸藩士・青山延于の四男(末子)として水戸城下田見小路(現在の水戸市北見町)に生まれる。長じて父に従い江戸に滞在し、古賀侗庵のもとで学んだ。その後水戸弘道館に出仕し、1843年(天保14年)には訓導となった。1846年(弘化3年)には安政の大獄で永蟄居となった主君・徳川斉昭の雪冤を訴えるため紀州侯に上書を提出することを計画し、これが露見したため免職となった。
浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年1… 浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年12月5日〉 - 1892年〈明治25年〉12月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)三原浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。 天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。
石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月… 石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月25日)- 明治14年(1881年)10月17日)は、庄内藩士、大泉藩権少参事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月… 白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月27日〉 - 1882年〈明治15年〉3月15日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。埼玉県令。旧姓・太田、諱・翼、通称・多助、変名・大田翼、号・梅園。 周防国吉敷郡吉敷村佐畑(現山口県山口市)で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれ、白根兼清の養子となる。藩では美禰郡宰として出仕し、さらに大坂藩邸で勤務した。文久3年(1863年)3月、中山忠光らの長州移送に尽力した。文久4年(1864年)正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事(代官)、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した。 明治政府に出仕し、明治4年(1871年)11月、埼玉県権参事に就任。
荻野 独園(おぎの どくおん、文政2年〈1819年〉6月 -… 荻野 独園(おぎの どくおん、文政2年〈1819年〉6月 - 1895年〈明治28年〉8月10日)は、幕末・明治の臨済宗僧侶。諱は承珠(じょうじゅ)、字は独園、号は退耕庵。独園承珠とも。廃仏毀釈の際に相国寺住持として日本の禅宗を守るために奔走した。 備前国児島郡山坂村(現在の岡山県玉野市)出身。8歳の時に親族がいた同郡の掌善寺に入って13歳で出家し、18歳の時に豊後国の帆足万里の下で儒学を学び、特に『周易』に通じた。6年後、京都に上洛して相国寺の大拙承演に師事して厳しい修行を積む。師が病気で倒れると越渓守謙の指導を受けながら最後まで師に尽くした。師の没後、心華院(現在の大光明寺)に移って布教活動をした。
松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2… 松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2年4月25日) - 1886年(明治19年))は、日本の政治家(会見郡長、県会議員)、郡役人(浜の目最後の大庄屋)。1872年(明治5年)7月、寛敬と改名する。 松江銀行(現山陰合同銀行)初代頭取、松江商工会議所初代会頭松本歓次郎の実兄。 伯耆国渡村(現鳥取県境港市渡町)に生まれる。松本民三郎(元松本)の長子。 1871年(明治4年)、浜の目支配(大庄屋)を拝命。1872年(明治5年)2月、会見郡長を拝命。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
古東 領左衛門(ことう りょうざえもん、文政2年4月16日(… 古東 領左衛門(ことう りょうざえもん、文政2年4月16日(1819年5月9日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は、幕末の淡路国三原郡津井村(現兵庫県南あわじ市津井)の庄屋・豪農で天誅組のパトロン、勤皇の志士。 古東家は琵琶湖の東岸に住む近江源氏の佐々木氏の流れを引く家系で、湖東が転訛して古東になったといわれている。領左衛門はその十一代目に当たり、父・萬次郎、母はとなりの湊里村の組頭庄屋菊川大兵衛の女。兄弟は男五人、女三人の八人。領左衛門は長子。幼名震太郎、諱は儒、字は高麻呂、衝山と号し、別に琴屋とも号した。琴屋とは古東家をもじったのである。 当時、古東家は田畑四十余町、山林七十町を有し、海運業も営む島内有数の富豪で、代々庄屋職に就いていた。
5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、181… 5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、1819年1月13日(文政元年12月18日) - 1879年(明治12年)5月21日)は、三重県四日市市の企業家。幕末期から明治初期にかけて四日市地域に近代産業を浸透させて、工業都市・四日市市の基礎を作り、貿易を重視して産業の近代化を推進した。幼名は伊藤小四郎、伊藤小平治、諱は伊藤尚長である。六代目伊藤小左衛門は息子で伊藤家の後継者であった。
高崎 親廣(たかさき ちかひろ、1819年(文政2年) - … 高崎 親廣(たかさき ちかひろ、1819年(文政2年) - 1877年(明治10年)6月26日)は、日本の武士(鹿児島藩士)。高崎親広。通称は九郎左衛門。長男に高崎親章。薩摩国(鹿児島県)日置郡市来郷出身。 藩校造士館で学び、1839年(天保10年)には大坂留守居の高崎金之進に従い上坂。京都・大坂で遊学した。帰藩後八田知紀に国学・和歌を学んだ後、市来郷で学舎を開いて子弟を教育した。 尊皇家で、毎朝皇居の方角を向いて遙拝し、決してその方角に足を向けて寝ることはなかった。しかし幕末の討幕運動は、故郷を離れられず、もっぱら子の親章に託していたという。1863年、薩英戦争に藩士として参戦。 明治維新後も故郷を離れなかったが、新政府への忠誠心は厚かった。
葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元… 葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元年11月5日) - 1880年(明治13年)1月23日)は、幕末の武士で薩摩藩士、志士。本姓は竹内。名は経成または重任。通称は伴右衛門。変名として内藤助右衛門を名乗る。死後に正五位を贈られた。 大隅国加治木町(現在の鹿児島県姶良市)の郷士の子として生まれる。早くから国学を志し、天保9年(1838年)、20歳の時に江戸へ出て平田篤胤に入門した。門下では多くの学者や志士と交流をした。鹿児島に戻ると、島津家の家督相続の内紛のお由羅騒動が勃発していた。 葛城は島津斉彬を推して、その弟の島津久光に対抗したため、身の危険を感じ、同志の相良藤次とともに脱藩し、斉彬の大叔父の福岡藩藩主黒田斉溥を頼り筑前国に逃れた。
巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7… 巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7日 - 1872年10月5日)は、江戸時代幕末から明治時代の尊攘運動家、国学者、歌人。 伊予国(愛媛県)大洲比地町の代々染物屋を営む松井八郎兵衛の子として生まれる。諱は信善。幼名は民三郎。幼くして、書籍と薬種を商っていた巣内(丸屋)久兵衛の養子となった。青年時代に阿蔵村の八幡神社宮司の常盤井厳戈の塾古学堂に入り、国学や漢学、和歌を学んだ。同門の塾生に武田竹塘や青野完治、矢野玄道、大村益次郎の暗殺犯となる神代直人がいた。その後家業を継ぎ、養父と同じ久兵衛を名乗ったが、尊王攘夷思想に傾倒していき、安政の大獄や桜田門外の変が起こると、43歳にして遂に家業を廃して国事に奔走する道を選んだ。
石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年… 石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年9月26日) - 1894年(明治27年)8月6日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての著述家、旧久保田藩士。通称は弥五右衛門、雅号は伊頭園。 出羽国秋田郡久保田城下手形谷地町(現・秋田市手形新栄町)に生まれる。 1842年7月10日(天保13年6月3日)、忠行が数え25歳の時に父・忠潔が49歳で没する。 忠行は1863年(文久3年)、久保田藩の蝦夷地御持場見分御用出役として蝦夷地の増毛陣屋に赴任し、さらに大坂詰勘定吟味役や能代方同吟味役を歴任する。次いで財用奉行に栄進し、そのとき城下大堰端側、楢山本新町(通称裏町)の南角屋敷に移った。
三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、181… 三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、1818年8月3日〈文政元年7月2日〉 - 1895年〈明治28年〉3月26日)は、群馬県館林の商人(米穀商、質屋)、醤油醸造家。正田醤油の基礎を作った。幼名藤十郎、家督を継ぐと、先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改めた。実業家の正田貞一郎は孫。上皇后美智子は玄孫にあたる。 館林で生まれた。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした。17歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に役だてた。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった。 また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された。
市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818… 市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818年6月14日) - 明治32年(1899年)8月26日)は、幕末・明治の蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は源、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。 福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。 清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。
宮崎 政賢(みやざき まさかた、文化15年2月20日(181… 宮崎 政賢(みやざき まさかた、文化15年2月20日(1818年3月26日) - 明治12年(1879年)10月10日)江戸時代後期から明治時代初期にかけての肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)の郷士。自由民権運動や辛亥革命支援で知られる宮崎兄弟の父。長蔵、長兵衛とも。 郷士・宮崎政明の子として肥後国玉名郡荒尾村に生まれる。初名は長兵衛。宮崎家は遠祖を菅原道真とする荒尾村随一の地主であり、寛文7年(1667年)頃、肥後藩に一領一疋で召し抱えられて以降、郡内の諸役を務める郷士として代々世襲し、長兵衛が9代目となる。 武人として学問・剣術・居合・砲術・軍学などを学ぶ。嘉永元年(1848年)頃、隣村・長洲の士族・永屋清次の長女・佐喜(サキ)と結婚。
佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明… 佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明治30年(1897年)8月7日)は、日本の医師。江戸幕府医学館教授。森鷗外の漢詩、漢文の師である。号は応渠。 父は佐藤重俊である。陸奥国会津に生まれ、会津藩藩主松平容保の侍講を務めた高津淄川に学んだ。江戸詰御医師として五人扶持を給され、藩邸を拠点に多紀元堅(多紀茝庭)から医学を学ぶ。佐藤は多紀塾の塾頭に進んだ。黒船来航後に種痘を学び、郷里で施術を行っている。安政4年(1857年)に幕命によって医学館医書校正となり、講師を経て教授に進んだ。文久3年(1863年)には征夷大将軍徳川家茂に拝謁し、袋杖登城を許された。藩命により幕末の京へも赴いている。
大原 観山(おおはら かんざん、1818年 - 1875年4… 大原 観山(おおはら かんざん、1818年 - 1875年4月11日)は、伊予国出身の儒者。本名は有恒。通称は武右衛門。
杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな ふちえもん、1818年(文政元… 杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな ふちえもん、1818年(文政元年) - 1849年10月12日(嘉永2年8月26日))は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県鴻巣市)出身で雷部屋に所属した力士。本名は岡戸、諱は不明。身長体重不明。最高位は東前頭5枚目。 1837年1月に雷部屋から初土俵を踏み、1846年11月、数え29歳にして入幕を果たした。入幕までは時間がかかったが、入幕後は実力を発揮、1849年3月に5枚目まで番付を上げたが、8月に巡業中の庄野宿で現役中のまま没した。兄弟の孫に紅葉川孝市がいる。 幕内6場所23勝19敗11休7分預 紅葉川浪藏→杣ヶ花渕右エ門
中山 愛子(なかやま あいこ、文化14年11月23日(181… 中山 愛子(なかやま あいこ、文化14年11月23日(1817年12月30日) - 明治39年(1906年)1月27日)は、江戸時代末期から明治時代の女性。明治天皇の外祖母。 肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる。母は側室の森氏。初名は千代姫、後に愛姫と改める。姉・季子の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ。 娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された。のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる。
小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化1… 小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化14年11月19日) - 1906年(明治39年)7月27日)は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。実業家。銀行家。宇都宮県参事、小倉県参事、同権令。諱は高政、通称は又介、蔵人、図書、彦七、雅号は缾山、并山。本姓は祖式。 長州藩士。祖式正良の子として周防国吉敷郡恒富村(山口県吉敷郡黒川村、平川村を経て、現山口市)に生まれ、1844年(弘化元年1月)小幡定一の養子となる。1850年(嘉永3年8月)家督を相続し、非常手当表番頭、1851年(嘉永4年)大組物頭弓頭役、1856年(安政3年)手廻物頭鉋砲頭役、1858年(安政5年)萩町奉行役、江戸留守居役などを歴任した。
敷田 年治(しきだ としはる、1817年9月1日(文化14年… 敷田 年治(しきだ としはる、1817年9月1日(文化14年7月20日)- 1902年(明治35年)1月30日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活動した国学者である。本姓は宮本、後に吉松に改姓。名は仲治。号は百園、百桃園等がある。通称は伊勢守もしくは主計之介。 豊前の宇佐郡敷田村(現・大分県宇佐市)にある二葉山神社の禰宜であった宮本兼継の次男として生まれる。1839年(天保10年)には同郡四日市町にある蛭子神社の禰宜一家であった吉松家の養子となり、後に帆足万里や渡辺綱章らから国学や漢学を学んだ。1846年(弘化2年)には従五位下に叙せられたことにより、出生地の姓を名乗る事が許され敷田姓に改姓する。
木村 安兵衛(きむら やすべえ、文化14年6月20日(181… 木村 安兵衛(きむら やすべえ、文化14年6月20日(1817年8月2日) - 明治22年(1889年)7月26日)は、日本の実業家。木村屋總本店の創業者。あんパン生みの親として知られる。 文化14年6月20日(1817年8月2日)、常陸国河内郡田宮村(現:茨城県牛久市田宮町)で父・長岡又兵衛の次男として農家の家に生まれた。 天保10年(1839)頃、下総国北相馬郡川原代村(現:茨城県龍ケ崎市川原代町)の木村安兵衛の長女・文(ぶん)の婿養子となり、安兵衛を襲名する。度重なる小貝川の水害の影響で農業に見切りをつけ、江戸へ出て津藩の仕官市内見廻役御蔵番などを務めた。明治になると、東京府で太政官出仕授産所(現在の職業訓練所)の所長だった伯父・木村重義を頼り、そこの事務職となる。