菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9… 菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9月3日〉 - 明治21年〈1888年〉1月2日)は、岩代国梁川代官所管内の金原田村および八丈島を拠点に活動した百姓、民衆思想家。通称は金原田 八老、また単に八老とも。
明治以前(1867年以前)生まれ:3,956人
菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9… 菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9月3日〉 - 明治21年〈1888年〉1月2日)は、岩代国梁川代官所管内の金原田村および八丈島を拠点に活動した百姓、民衆思想家。通称は金原田 八老、また単に八老とも。
勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810… 勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810年7月16日) - 明治22年(1889年)4月9日)は、幕末から明治前期の作庭家。近江国出身。 文化7年(1810年)近江坂田郡勝村(現滋賀県長浜市勝町)に生まれ、字は子接、通称は源吾と称した。勝村は勝海舟の勝家発祥の地とされる。茶道遠州流中興の立役者と言われる坂田郡国友村の辻宗範の門人となり、茶道・南画・和歌・築庭などを学んだ。茶道では宗益、南画では蘭谷または蘭岳、築庭では鈍穴と号し、茶道・南画・俳句・和歌・狂歌・華道・礼法・築庭から医術に至るまで諸道に通じ、人格高潔で、また芸術的天才の面を大いに発揮したと伝えられている。中でも、特に築庭に才を発揮した。
嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1810年 - 18… 嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1810年 - 1854年5月9日(旧暦4月13日))は、香川県丸亀市出身の元大相撲力士。本名は不明。 1810年に香川県丸亀市で生まれる。1834年11月場所において雷部屋から丸亀藩の抱え力士として初土俵を踏む。1844年10月場所で新十両昇進を果たした。現役中の1854年2月場所で二枚鑑札によって2代・稲川を襲名したが、2月場所終了から間もない同年4月13日(旧暦)に入水自殺を遂げた。45歳没。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) … 魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) - 明治8年(1875年)2月)は、江戸時代後期の儒学者(朱子学派)。明治時代の教育者、政治家。名は明識(「名誠」との記載もあり)。字(あざな)は明晶。通称は三郎八。樂處はその号。福岡藩藩儒。 魚住明倫の子として筑前国に生まれる。藩校修猷館に学ぶ。 天保5年(1834年)修猷館指南加勢見習となり、天保14年(1843年)郡代となる。嘉永3年(1850年)致仕する。 慶応元年(1865年)勤王の国事に奔走したため、志士と共に禁錮せらること3年。明治2年(1869年)抜擢されて修猷館の文学教授兼伴読となり、明治4年(1871年)藩政に参画し、福岡藩権大参事に任ぜられる。
笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(180… 笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(1809年6月22日) - 明治13年(1880年)8月23日)は、江戸時代末期(幕末)の蘭方医。名は良、字(あざな)は子馬、号は鉄仏無涯堂、天香楼、桂窓、白翁。福井藩の町医。越前国足羽郡深見村(現・福井市)生まれ。父は福井城下の町医笠原龍斎。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩(府中・鯖江・大野・敦賀・大聖寺・金沢・富山)に種痘を広めた。 15、6歳の頃から福井藩の医学所へ通い、妻木陸叟から本草学を学んだ。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)にかけて江戸に出て磯野公道(漢方)に入門し、その後福井城下木田中町で開業。天保7・8年(1836年-1837年)頃、湯治に出かけた山中温泉で蘭方医の大武了玄(藤林普山、小石元瑞に学んだ大聖寺藩町医)に出会い、蘭方医学に興味を持ち入門した。
大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月… 大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月 - 明治8年(1878年)6月17日)は、日本の江戸時代末期に活躍した町絵師。名は清光、通称は喜知松、号ははじめ蘭斎、のちに皎斎。地元・会津を題材にした郷土愛あふれる作品を数多く手掛けた。 先祖は蒲生家旧臣で、蒲生家が会津を去った後に商人となったという。清光も裕福な商人出身で、幼少から画を好み、旦那芸として佐藤香斎に書画を学んでいたが、後に画道に熱中するあまり家産を傾けたという。一方、漢学を山内穆斎、和歌を相川功垂に学んだという。 代表作としては、下記のように複数確認されている「若松城下絵図」が挙げられる。これらは作品ごとに書き込まれている武家屋敷の名称が変わっていたり、藩の施設や寺院の描写も変化が認められる。
柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2… 柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。 文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥前国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している。
新居 守村(あらい もりむら、文化5年8月15日〈1808年… 新居 守村(あらい もりむら、文化5年8月15日〈1808年10月4日〉 - 1893年〈明治26年〉4月19日)は、江戸時代後期から明治時代に活動した国学者、神道家。通称に又左衛門・又太郎。 文化5年(1808年)、上野国甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)に生まれる。新居家は小幡信真の感状を伝える旧家で、小幡藩御用達を勤める家柄だった。父は休兵衛秋住。 父の影響もあり文政5年(1822年)15歳の時に狂歌の社中に入った。浅草庵の黒川春村に教えを受ける。春村死後はその養子・真頼が上野国桐生出身だったこともあり彼と親しく交流した。 国学に志し賀茂真淵・本居宣長の著作を精読する。文政12年(1829年)に大和へ旅行した際、本居春庭(宣長の子)に教えを受けるため伊勢松阪を訪れるが、春庭は前年に死去しており果たせなかった。
原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年… 原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年9月22日〉 - 1893年〈明治26年〉6月12日)は、幕末から明治時代の浄土真宗の僧である。 肥後の山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市)光照寺の密道の子として生まれ、幼年期から筑前の博多にある万行寺の住職だった曇龍の門人となる。後に彼から真宗学を学んだが、その後の1862年(文久2年)には本願寺の命令によりキリシタンの隆盛地だった長崎へ赴き、1863年(文久3年)には宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)とグイド・フルベッキからキリスト教の教義を学んだ。 しかし明治維新後の1872年(明治5年)に大教院の教導職にあたったことで、自身が学んだ経験のあるキリスト教を排撃する。
岩谷 九十老(いわや くじゅうろう、1808年7月21日(文… 岩谷 九十老(いわや くじゅうろう、1808年7月21日(文化5年6月28日) - 1895年(明治28年)3月12日)は、江戸時代後期-明治時代の公共事業家。石見国安濃郡川合村(現在の島根県大田市)の豪農。名は善九郎、善右衛門。 1808年7月21日(文化5年6月28日)、岩谷孝兵衛、もんの第七子として生まれる。もんの乳の出が悪く、小作農に預けられ、板の間に蓆を敷いて寝たり、麦飯さえ食べられず、芋飯を食べて育つという幼児期を過ごす。家に帰ってからも使用人と同じく働きながら、近所の医師土江三圭の下で読書・習字を習う。孝兵衛は九十老に家督を継ぐ器量があると見定め、学問をさせたと見られる。また、土江の塾で貝原益軒や太宰春台の本を読み、実用的な学問を学ぶ。
13代 木村 庄之助(じゅうさんだい きむら しょうのすけ、… 13代 木村 庄之助(じゅうさんだい きむら しょうのすけ、1808年 - 1879年2月15日)は、大相撲の立行司。本名は成田小太郎。出身地は福井県武生市。 幕末から明治にかけて23年間にわたって立行司をつとめた。浦風林右エ門の弟子で9代庄之助に師事した。初名は木村小太郎、のちに幸太郎、市之介(助)を名乗り、1848年11月に3代木村夛司馬を襲名。13代庄之助の座をめぐって6代庄九郎と対立、その座を勝ち取った。長く庄之助に在位、引退後は年寄・木村松翁となった。 1879年2月15日没、墓所は東京都江東区の玉泉院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、文化5年(1808年… 秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、文化5年(1808年) - 文久2年5月19日(1862年6月16日))は、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)出身で秀の山部屋に所属した大相撲力士。第9代横綱。本名は橋本(旧姓:菊田) 辰五郎(はしもと たつごろう)。 1808年に、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市最知川原)で海運業と農業を営む家に五男として生まれる。当時家に出入りしていた荷揚げ人の中に元力士である籬嶋がいたが、籬嶋に辰五郎の二男である源太夫が相撲の指導を受け、土地相撲の大関として活躍していたことが刺激となり、辰五郎も力士を目指すようになった。その後は家の裏にあった榎を相手に毎日ぶつかった結果、榎を枯らしてしまったと伝わる。
大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)… 大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)- 慶応2年11月13日(1866年12月19日))は、江戸時代後期から末期の庄内藩士。留守居役。
佐藤 藤七(さとう とうしち、文化4年(1807年) - 明… 佐藤 藤七(さとう とうしち、文化4年(1807年) - 明治5年(1872年6月27日))は、幕末期の上州権田村(現・群馬県高崎市倉渕町権田)の農民名主。通称勘兵衛、名は信有(信宥とも)。日本で初めて世界一周した農民として知られる。 佐藤藤七は文化4年(1807年)に現在の藤岡市本動堂に生まれ、のちに権田村名主・佐藤勘兵衛家の婿養子となり、家督を継いだ。勘兵衛家は代々名主を務め、家業は酒造であった。 藤七は学問、とくに漢学に秀で、権田村で寺子屋を開き、文人・塚越停春などの逸材を育てたことで知られる。 小栗忠順に才能を見込まれて江戸で忠順に仕え、万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のために遣米使節を派遣したが、藤七は農民身分としては異例の随行許可を得て、小栗忠順に随従し世界一周を経験した最初の日本農民となった。
伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明… 伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明治3年(1870年))は、出羽庄内藩領の酒田(現在の山形県酒田市)出身の儒学者。 田原藩家老渡辺崋山に見出され、以降田原藩藩儒として仕える。家老渡辺崋山、藩医鈴木春山とともに田原の三大山と謳われた。崋山の影響を受けた鳳山は、ペリー来航時には「鎖港攘夷の策はとるべきではなく、開港進取の策こそ守るべき」と積極的開国を主張し、欧米文化の摂取を主張した。 儒学者としては、京都、江戸、酒田などに私塾を開塾した。孫子の注解書である著書『孫子詳解』は高い評価を得ている[誰によって?]。
安部井 櫟堂(あべい れきどう、男性、文化2年(1805年)… 安部井 櫟堂(あべい れきどう、男性、文化2年(1805年) – 明治16年(1883年)9月16日)は、近代日本の篆刻家である。 名はカイ?(大+介)、字は大介、号は芥舟。通称音門のちに音人。はじめの姓は岡氏。近江彦根の人。 近江国に生まれたが京都富小路押小路北・南に住む。篆刻の師は不明。明治元年(1868年)、印司に任命される。60代半ばにして明治政府から天皇御璽・大日本国璽の刻印を命じられ1年がかりで明治7年(1874年)に拝刻した。2つの金印は強度を保つため合金製で、櫟堂が繆篆(びゅうてん)を用いて拝刻して秦藏六が鋳造した。重さは4.5kgあり、現在でも公文書に用いられている。
高萩 万次郎(たかはぎの まんじろう、文化2年(1805年)… 高萩 万次郎(たかはぎの まんじろう、文化2年(1805年)- 明治18年(1885年)4月8日 )は、江戸時代後期・明治初期の博徒。 武蔵国高萩(現・埼玉県日高市)の出身。姓は清水、別名を喜右衛門、「鶴屋」を屋号とした。父弥五郎は名主を務め、万次郎は長男に生まれたといわれる。赤尾林蔵に殺害された侠客・高萩伊之松(清水兵左衛門)の勢力を継承したとされ、居住地である高萩下宿を中心に「高萩一家」を構えた。 万次郎は当時、武州きっての侠客として知られ、主な縄張りであった飯能には関東一といわれる高市が立った。また遠方にも出張所を設けて勢力を伸ばし、東海道では原、三島の二か所、中山道では天神橋と上尾にそれぞれ縄張りを持ち、主だった子分を派遣して管理させた。
小島 省斎(こじま しょうさい、文化元年8月11日〈1804… 小島 省斎(こじま しょうさい、文化元年8月11日〈1804年9月14日〉 - 1884年〈明治17年〉6月6日)は、丹波国氷上郡佐治(現在の兵庫県丹波市青垣町佐治)生まれの儒学者、漢学者である。 1858年(安政5年)に完成した柏原藩の藩校、崇廣館の建設を柏原藩主に提案した人物。柏原藩の藩政改革に寄与し、「丹波聖人」のひとりと称えられる。 文化元年(1804年)、丹波国氷上郡佐治(現在の兵庫県丹波市青垣町佐治)に生まれた。省斎は号で、本名は慎・駟、字は思之・伯輿、通称は四郎兵衛や忠太などと呼ばれた。生家は煙草屋で、自身もたばこを刻んで売りさばいていた。省斎は幼い頃からたいそう利発なことで知られ、西往寺の住職は、出家をするよう促したが、従わなかった。
飯田 新七(いいだ しんしち、享和3年(1803年) - 明… 飯田 新七(いいだ しんしち、享和3年(1803年) - 明治7年(1874年)7月29日)は、江戸時代後期の商人。近江商人飯田家の婿養子となり、髙島屋・高島飯田の礎を築いた。 新七は、享和3年(1803年)越前国敦賀(現福井県敦賀市)中野宗兵衛の子として生まれ、幼名を鉄次郎と言い、文化11年(1814年)京に出呉服商角田呉服店に丁稚奉公するにおいて、名を新七とした。又、諱を宏遠と言う。 近江国高島郡南新保村(現滋賀県高島市今津町南新保)の出身の飯田儀兵衛は、京都烏丸松原上ル(現京都市下京区)において米穀商『高島屋』を営んでいた。子供は娘「秀」一人であった儀兵衛は、京三条大橋東入ル(現京都市東山区)の角田呉服店の奉公人新七の仕事振りに感心し、角田呉服店が倒産したのを契機に文政11年(1828年)新七を娘婿として迎え入れた。
伊古田 純道 (いこた じゅんどう、享和2年10月17日(1… 伊古田 純道 (いこた じゅんどう、享和2年10月17日(1802年11月12日) - 明治19年(1886年)9月4日)は、日本の医者。本名伊古田寧。幼名富次郎、諱は重満、号は楢陵、白茅樵舎主人。日本初の帝王切開を行い、成功させた。 伊古田村(現埼玉県秩父市)生まれ。幼名富次郎。 番匠村(現埼玉県ときがわ町)の有名な産婦人科医、小室元長からオランダ医学等を学び、後に江戸で学び、秩父で開業した。 嘉永5年(1852年)に坂元村(現飯能市)で日本で最初の帝王切開を、南川村(現飯能市)の医者岡部均平と行い、胎児は既に死亡していたが、母体は助かった。
福井 端隠(ふくい たんいん、男性、享和元年9月1日(180… 福井 端隠(ふくい たんいん、男性、享和元年9月1日(1801年10月8日) – 明治18年(1885年)8月22日)は、幕末から明治の日本の篆刻家である。 名ははじめ武煕、福井氏を継承してから末影と改名。字は孔影、端隠は号で他に凹隅・雨洗・緑雪書屋などがある。通称は帯刀。伊勢の人。 榎倉勘解由武繁の次男として伊勢上中ノ郷(現在三重県伊勢市)に生まれた。正四位外宮権禰宜に至った。下久保に住み、のちに為田に移った。小俣蠖庵に就いて書画・篆刻を学ぶ。印聖高芙蓉の古体派の篆刻を宗として一家を成し、大和古印体も得意とした。また、茶道にも詳しく千宗室に入門した後、藪内紹智について藪内流を究めた。 門弟に山田寒山・松木松年・山本釣青・上部紅於・田中成章・江川閑雲・田代閑松・桧垣梅坡・川崎渓雲・河村雨竹・北川橘園などがいる。
近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年… 近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年7月5日〉 - 1880年〈明治13年〉2月29日)は、幕末から明治時代の国学者、歌人、長州藩士である。本姓は田中、初名は裕。通称は源吾後に晋一郎。字は子潜、真蔭。号は寄居子庵、風月史生等。 周防国吉敷郡岩淵(現・山口県防府市)の百姓・田中源吉の長男として生まれる。猪飼敬所や原古処が周防を訪れた際に教えを受ける。文政6年()上方へ赴き、村田春門に歌学を、本居大平に国学を、山田以文に有職故実を学んだ。その後広島に居住。 天保10年()長州藩主・毛利敬親に召されて萩へ移る。翌年長州藩士近藤家を継承し近藤芳樹と改める。萩で家塾・抄宗寮を開いて弟子を育てる。
頼 聿庵(らい いつあん、享和元年2月20日(1801年4月… 頼 聿庵(らい いつあん、享和元年2月20日(1801年4月3日) - 安政3年8月30日(1856年9月28日))は、江戸時代の儒学者。広島藩儒。名は元協、字は承緒。幼名は津具雄、通称は餘一。別号に春嶂・鶴年・迂娯軒(うごけん)・鯉城僲史(りじょうせんし)・三十六鱗魚城退士(さんじゅうろくりんぎょじょうたいし)。
黒岩 森之助(くろいわ もりのすけ、1801年〈寛政13年〉… 黒岩 森之助(くろいわ もりのすけ、1801年〈寛政13年〉 - 没年不明)は、上野国邑楽郡(現在の群馬県館林市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。江戸時代天保年間に活躍した長州藩お抱えの小兵人気力士。最高位は関脇。 香蝶楼豊国(歌川国貞)によって描かれた、鳥井崎与助と共に並んだ浮世絵が現存している。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
鈴木 春山(すずき しゅんさん、享和元年(1801年) - … 鈴木 春山(すずき しゅんさん、享和元年(1801年) - 弘化3年閏5月10日(1846年6月3日))は、江戸時代後期の兵学者。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩医。日本で初めて西洋兵学書の翻訳を行った人物として知られる。 初名は春三、俊次郎、春次郎。通称は春山、諱は強、字を自彊。号は童浦。 田原藩藩医鈴木玄益(愚伯)と側女園の間に生まれる。幼年期を園の里方、渥美郡浦村(ほぼ現在の田原市浦町)の外祖父・八木覚左衛門宅で過ごし、後に塩谷宕陰から「疎快高率にして小節に拘はらず」と称された春山の自由で形式ばらない性格は、半農半漁で「野性に富」む浦村での環境が影響しているという。容貌は醜く、そのことで近隣の子らにからかわれたが、そうしたことも意に介さなかったという。
堀内 素堂(ほりのうち そどう、享和元年(1801年) - … 堀内 素堂(ほりのうち そどう、享和元年(1801年) - 安政元年3月13日(1854年4月10日))は、江戸時代の医者。諱は忠寛(ただひろ)、幼名忠公(ただきみ)、素堂は号。贈従五位(昭和4年)。
不知火 諾右衛門(しらぬい だくえもん(なぎえもん)、180… 不知火 諾右衛門(しらぬい だくえもん(なぎえもん)、1801年(享和元年) - 1854年8月20日(嘉永7年7月27日))は、肥後国宇土郡轟村栗崎(現・熊本県宇土市栗崎)出身の元大相撲力士。第8代横綱。本名は近久 信次(ちかひさ しんじ)。 歴代横綱の中で、下位番付へ陥落したことのある唯一の力士である。 1801年に肥後国宇土郡で生まれる。幼い頃から郷里で平穏な生活を送っていたが、ある日巻き込まれた傷害事件によって妻子を残したまま大坂・堺へ出ることとなり、1822年に大坂相撲へ加入、大関まで昇進した。その後、1830年に江戸相撲・浦風門下へ加入し、江戸相撲で再スタートを切る。江戸相撲では黒雲 龍之介・濃錦里 諾右衛門と改名し、1837年春場所で新入幕を果たす。
田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799… 田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の基礎となる工場の創業者。 寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。 幼い頃から才能を発揮し、15才の時久留米掠りの幾何学模様を布に織り込む機械を考案。五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。
羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈… 羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈寛政10年2月14日〉 - 1882年〈明治15年〉6月1日)は、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)出身の国学者・神職。旧姓は山本。通称として常陸(ひたち)や栄木(さかき)などがある。 平田篤胤門下の皇学者であり、なおかつ神職だった。明治政府の神仏分離令によって生じた廃仏毀釈運動の推進者であり、神職の地位向上に貢献した。近代的図書館活動の先駆者でもあり、自らの蔵書を元に設立した「羽田八幡宮文庫」を一般市民に広く公開した。 寛政10年(1798年)2月14日、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)の上層農家の四男として生まれた。
坂井 虎山(さかい こざん、寛政10年(1798年) - 嘉… 坂井 虎山(さかい こざん、寛政10年(1798年) - 嘉永3年9月6日〈1850年10月11日〉)は、江戸時代末期の儒学者。名は華、字は公実、通称は百太郎。号は虎山または臥虎山人。門人たちによる諡は、文成先生である。墓は広島の本照寺。
吉村 秋陽(よしむら しゅうよう、寛政9年2月4日(1797… 吉村 秋陽(よしむら しゅうよう、寛政9年2月4日(1797年3月2日) - 慶応2年11月15日(1866年12月21日))は、江戸時代後期の安芸広島藩出身の儒学者。広島藩筆頭家老の三原浅野家の儒者。朱子学からのち陽明学を重んじた。諱は晋、字は麗明。通称は重介、秋陽と号した。
鵜飼 舎杖(うかい しゃじょう、1797年(寛政9年) - … 鵜飼 舎杖(うかい しゃじょう、1797年(寛政9年) - 1883年(明治16年)8月21日)は、幕末から明治時代の日本の医師。近江国(現・滋賀県甲賀市)の出身。本名は実秀、通称は良輔で舎杖は雅号である。 寛政9年、三本柳鵜飼氏に生まれた。父は鵜飼玄達で、家は代々医業を営んでいた。若い頃から京都に遊学し、庫島松南に師事した。帰郷後は医師として活動した。舎杖が最も力を注いだのは、精神病患者の治療であったといわれる。「医は仁述なり」との信念を持ち、病気で貧しい人物がいると聞けば好んで施療した。また水口藩儒の中村栗園(中村確堂の養父)と交際を持った。明治維新に貢献した城多董を弟子に持つた、城多は経世済民に興味を持ち、学問を求め遊学を希望するが、父の賛同を得られず家業の傍らで勉学に励んだ。
賀来 惟熊(かく これたけ、1796年10月28日〈寛政8年… 賀来 惟熊(かく これたけ、1796年10月28日〈寛政8年9月28日〉 - 1880年〈明治13年〉2月25日)は、豊前国の殖産家。 豊前国宇佐郡佐田村(現在の大分県宇佐市)に生まれた。実家は現在の宇佐市安心院町佐田地区の庄屋である宇佐賀来家であり、佐田は肥前国島原藩の知行地(飛び地)であった為に島原藩に仕える人物であった。 惟熊は賀来家の当主として庄屋を引き継ぐと林業の重要性を説き、佐田の村人たちに杉の苗を植えるように指導したと伝わる。 また豊後国日出藩の儒学者である帆足萬里に弟子入りして学問を学んでいたが、帆足から海防強化の必要性を示唆された惟熊は、大砲製造の重要性を認識、島原藩の許可を得て自身の四人の息子や従弟に当たる賀来飛霞などの協力を得て安心院町佐田神社の境内に日本初とも言える反射炉を完成させ、江戸末期に佐田の反射炉で島原藩から鉄製大砲や銅製大砲を受注して鋳造を行ったという。
賀集 珉平(かしゅう/かしお みんぺい、1796年2月23日… 賀集 珉平(かしゅう/かしお みんぺい、1796年2月23日(寛政8年1月15日)- 1871年8月27日(明治4年7月12日))は、幕末から明治時代前期の陶芸家である。名は惟一。号は勝瑞。姓は加集とも表記される。 淡路に生まれ、後に上洛して初代尾形周平に師事し陶芸を学ぶ。その後故郷の伊賀野村に周平を招聘し庄屋を開き、黄南京写や京焼風を元に釉薬を発明し新しい作風の陶器を製作した。この焼風は現在の南あわじ市で制作される「淡路焼」と呼ばれ、別名として「珉平焼」と呼ばれる事となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 18… 嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 1862年1月5日〈文久元年12月6日〉)は、日本の僧侶、画家。 伯耆国会見郡皆生村(現・鳥取県米子市)の漁家に生まれる。11歳の時に大山寺に入り、台腎に師事し、剃髪して名を台貫と改める。詩文書画に堪能である。「千枚書き」と呼ばれるほど数多くの書画をこの世に残す。 「朝比奈三郎、曽我五郎の草摺りを曳く図」を描いて貴布禰神社に奉納する。晩年は大山寺を出て、山麓八幡に草庵を結び、迎嶽観主人太虚と号し、専ら風流三昧の境涯に浸り、十神山から発掘の古銅印を落款に用いる。文久元年12月6日に66歳で寂滅する。
稲妻 雷五郎(いなづま らいごろう、1795年? - 187… 稲妻 雷五郎(いなづま らいごろう、1795年? - 1877年3月29日)は、常陸国河内郡阿波崎村(現:茨城県稲敷市阿波崎)出身で錦嶋部屋(入門時は佐渡ヶ嶽部屋)に所属した大相撲力士。第7代横綱。本名は根本 才助(ねもと さいすけ)。 1795年頃に生まれる 。佐渡ヶ嶽部屋へ入門後に錦嶋部屋へ移籍し、松江藩抱えの力士となった。 1821年2月場所、「槇ノ嶌」の四股名で幕下から初土俵を踏む。1824年10月場所で新入幕を果たすと同時に「稲妻 雷五郎」に改名し、その場所で7勝1預2休の好成績を挙げ、1825年1月場所では小結に昇進する。その後もトントン拍子に出世していき、1827年には大関へ昇進した。
荒馬 大五郎(あらうま だいごろう、1793年5月5日 - … 荒馬 大五郎(あらうま だいごろう、1793年5月5日 - 1849年7月16日)は、下総国千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張)出身で桐山部屋、大坂相撲の小野川部屋に所属した大相撲力士。本名は川島 重美(紋重郎)。最高位は関脇。2代目年寄宮城野を襲名。身長197cm、 文化8年~11年11月は横須賀藩のお抱え 出生地の幕張には墓があり、「宮城野馬五郎重美之墓」とある。 千葉ヶ嵜→荒馬紋蔵→荒馬大五郎→宮城野馬五郎→年寄宮城野 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈179… 大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈1793年1月11日〉 - 明治4年8月17日〈1871年10月1日〉)は、幕末・明治維新期の国学者、神道家。石見国津和野藩出身。 別姓は野之口。名に一造、匠作、仲衛など。諱は秀文、秀清、隆正。字は子蝶。号は葵園、佐紀乃屋。 津和野国学の泰斗として、国学史上の四大人観を確立し、「文武虚実論」に代表される学問論を残した。神道家としては石見国に於ける大国主信仰の復興にも貢献した。 津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。 1805年(文化3年)に平田篤胤の門下となり国学を学ぶ。さらに昌平黌においても古賀精里に儒学を学ぶが、こちらは文化7年去っている。
鷲尾 善吉(わしお ぜんきち、1792年〈寛政4年〉 - 1… 鷲尾 善吉(わしお ぜんきち、1792年〈寛政4年〉 - 1881年〈明治14年〉6月15日)は、尾張国海西郡塩田村(現・愛知県愛西市塩田町)出身の豪農・新田開発者。道徳前新田を開発したことで知られる。 寛政4年(1792年)、尾張国海西郡塩田村字善吉屋敷(現・愛知県愛西市塩田町)の百姓の家に生まれた。本名は嘉十郎である。庄屋を務めていた鷲尾家の歴代当主は善吉を襲名しており、嘉十郎は6代目鷲尾善吉となった。 文化14年(1817年)、善吉は尾張藩から1500両で愛知郡伊勢湾岸の土地を購入し、道徳前新田の開発に着手した。北は現在の道徳北町、南は山崎川、東は知多街道、西は南陽通に至る範囲であり、125町歩もの広大な面積だった。
門屋 養安(かどや ようあん、寛政4年(1792年) - 明… 門屋 養安(かどや ようあん、寛政4年(1792年) - 明治6年(1873年))は、日本の医師。 寛政4年(1792年)、新庄藩(現在の山形県新庄市)に生まれる。院内銀山のお抱え医者であり、銀山の経営そのものにも参画し、並行して宿屋も経営するなど生涯の大部分を院内銀山で過ごし、明治6年(1873年)、院内銀山で82歳で没した。天保6年(1835年)から明治2(1869年)までの35年間書きつづった『門屋養安日記』が残っている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
千田川 熊藏(せんだがわ くまぞう、1792年 - 1828… 千田川 熊藏(せんだがわ くまぞう、1792年 - 1828年2月22日(文政11年1月8日))は、大坂相撲・朝日山部屋、真鶴部屋、玉垣部屋に所属した大相撲力士。第99代大関。のち千田川吉藏。本名は目良 熊吉(吉藏)。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市)出身。188cm、体重不明。最高位は西大関。 大坂相撲を経て、1814年11月に関脇格で江戸相撲に加入、紀州藩の抱えであった。翌場所には大関に上がった。大関から陥落して2場所後に、四股名を千田川吉藏に改めた。以後も三役、上位で実力を発揮したが病に倒れ、1823年2月以降土俵を離れた。1828年に現役力士のまま死去した。 熊野潟(大坂相撲)→千田川熊藏(江戸相撲)→千田川吉藏(1816年3月場所-)
柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、寛政3年(1791年)/… 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、寛政3年(1791年)/ 寛政5年(1793年) - 天保13年11月17日(1842年12月18日))は、下野国(現在の栃木県)出身の元大相撲力士。 現在の栃木県小山市鏡出身。本名は木村宗五郎。 文化7年(1810年)、4代伊勢ノ海(大関・柏戸宗五郎)の伊勢ノ海部屋に入門。入門時は鏡嶋の四股名を名乗り、文政8年(1825年)10月場所では外ヶ濱の四股名で入幕。文政13年(1830年)、師匠の5代伊勢ノ海(大関・柏戸利助)の死没に伴い、同年3月場所より四股名を部屋伝来の柏戸に改めるとともに、二枚鑑札で部屋の師匠を兼ねる。 最高位は天保3年(1832年)の前頭2枚目。
鳥井崎 与助(とりいざき よすけ、1791年〈寛政3年〉 -… 鳥井崎 与助(とりいざき よすけ、1791年〈寛政3年〉 - 1830年〈文政13年〉)は、柏戸部屋及び伊勢ノ海部屋に所属した力士。 本名は高橋 伝吉。身長・体重とも不明。陸奥国津軽郡(現在の青森県五所川原市)藻川出身。正確には津軽鉄道線毘沙門駅付近に当たる。 最高位は西前頭6枚目。 同郷の伊勢ノ海利助(後の柏戸利助。大関。5代伊勢ノ海)の誘いを受け、1812年11月場所で初土俵(東二段目5枚目だったため、十枚目付出扱いだった)を踏んだ。十両時代は5割にやや満たない勝率で推移したが、1817年1月場所では8戦全勝の優勝相当成績を残した。初土俵・新十両から12年後の1824年10月場所で漸く新入幕を果たした。
戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ、1791年(寛政3年)… 戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ、1791年(寛政3年)/1792年(寛政4年) - 1819年(文政2年)5月3日(旧暦4月10日))/1824年(文政7年)7月21日(旧暦6月25日)は、上総国埴生郡(現在の千葉県茂原市綱島)出身の元大相撲力士。本名は井桁 秀五郎(いけた しゅうごろう)。 出生地は上総国埴生郡。1808年(文化5年)10月場所において戸田川 鷲之助の名で松江藩の抱え力士として初土俵を踏むと、いきなり西小結に付け出される。数え年17歳(満16歳)での三役となり、記録に残る三役昇進年齢としては史上最年少記録である。しかしこれには、義父だった相撲会所頭取・錣山喜平治の強い意向があったと伝わる。
剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790… 剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790年12月8日(寛政2年11月3日)- 1871年7月27日(明治4年6月10日))は日本の数学者、和算家。諱は章行。字は成紀。号は豫山または任数堂。通称は要七。後半生は関東各地を遊歴し、香取、海上、印旛、匝瑳、常陸、武州等を中心に、約1000人の門弟を持った。 上野国吾妻郡沢渡(現在の群馬県中之条町)に生まれ、本業は農業。幼いころから数学を好んだ。小野榮重に師事し、1824年(文政7年)には「小野栄重門人 上毛吾妻郡澤渡邑 剣持要七郎章行」として清水寺(高崎市石原町)観音堂に算額を奉納している。1827年(文政10年)栄重から免許皆伝を与えられた。
加藤 棕盧(かとう そうろ、1790年(寛政2年) - 18… 加藤 棕盧(かとう そうろ、1790年(寛政2年) - 1851年9月18日(嘉永4年8月23日))は、江戸時代後期の儒学者。安芸国(現広島県)出身。名は景纉(かげより)。字は君緒。太郎三、太郎助、株鷹とも称する。別号は肯堂。
石川 喜平(いしかわ きへい、1788年(天明8年) - 1… 石川 喜平(いしかわ きへい、1788年(天明8年) - 1862年(文久2年))は、日本の和算家。都筑弥厚の明治用水計画を測量・設計の面で支援した人物として知られる。 1788年(天明8年)高棚村(現・愛知県安城市)に生まれる。1807年(文化4年)、関孝和の直流にあたる和算家清水幸三郎の弟子となり、1812年(文化9年)に師範免許を授かる。 都筑弥厚の明治用水計画に賛同して、1822年(文政5年)から明治用水に関わる測量を開始し、農民の反対運動をかいくぐりながら、1826年(文政9年)に測量を完了する。この測量成果をもとに、岡本兵松と伊与田与八郎によって、1880年(明治18年)に明治用水が開通した。
小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年… 小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年7月25日〉 - 天保10年5月17日〈1839年6月27日〉)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。名は好義、幼名は弁助、通称は良蔵。号は鶴斎、鶴洲、篤斎など。 天明7年(1787年)出羽庄内藩給人組外・小関知義(弥五兵衛)の次男として鶴岡に誕生。幼少期に火傷を負って足が不自由となる。 文化元年(1804年)江戸に上り、吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学と医学を学ぶ。 文政4年(1821年)故郷の鶴岡に帰り医者を開業するが、翌文政5年(1822年)には蘭学者・大槻玄沢の紹介で仙台藩医学館の教師に着任する。翌文政6年(1823年)長崎に赴いてシーボルトの下で学ぶ。
高畠 式部(たかばたけ しきぶ、天明5年(1785年) - … 高畠 式部(たかばたけ しきぶ、天明5年(1785年) - 明治14年(1881年)5月28日)は、日本の幕末期から明治初期にかけての歌人。本名は刀美。式部は雅号である。 伊勢国松坂の商家に生まれる。 香川景樹から桂園流の歌を学び、景樹の歿後は千種有功に師事。和歌以外に書画、彫刻、琵琶、笙、茶道等も学んだ。 歌集に、『麦の舎集』、『式部蓮月二女和歌集』などがある。 墓は、京都市東山区円山町626の時宗寺院、黄台山長楽寺にある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
玉垣 額之助(たまがき がくのすけ、1784年(天明4年) … 玉垣 額之助(たまがき がくのすけ、1784年(天明4年) - 1824年8月28日(文政7年8月5日))は、肥前国高来郡(現:長崎県雲仙市)出身の元大相撲力士。本名は田中 喜作(たなか きさく)(旧姓:岡田)。 最高位は西大関。 1784年(天明4年)に肥前国高来郡(現:長崎県雲仙市)で生まれる。当初は大坂相撲に加入していたが、後に江戸相撲・玉垣部屋へ移籍している。初土俵から間もない幕下二段目の時に徳島藩が抱え力士としようとするが、「阿波の稲は 島原の梁(よい米)に如かず」として拒否、これに感激した島原藩主・松平忠憑から1813年に徒士として召し抱えられた。 柏戸利助の良き好敵手で、当時の川柳には「(玉)垣と(柏)戸を 西と東の関に据え」「玉垣も 柏(戸)も地から 生えたよう」とあるように、東西の大関に玉垣と柏戸が並び、両者とも重い腰で熱戦を繰り広げ、なかなか土俵を割らない様子が歌われている。