新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22… 新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22日 - 1966年(昭和41年)3月13日)は、日本の小説家。実生活に裏打ちされた文章で知られた。日本の労働文学の代表的作家。砲兵工廠職工として働いていたことから「兵隊作家」とよばれた。別院一郎の筆名も用いる。 群馬県多野郡吉井町(現高崎市)に生まれる。四男二女の長男。7歳のとき、東京の四谷警察署で巡査となっていた父のもとに母とともに上京する。四谷第一尋常高等小学校を卒業後、東京砲兵工廠に見習職工として働く。2年の兵役をはさんで通算14年の職工生活を送る。 労働文芸誌『黒煙』に処女作「暗い顔」を投稿。1916年 「怒れる高村軍曹」「坑夫の夢」を発表、反軍作家と言われる。
吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 … 吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉3月21日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従四位。勲等は勲三等旭日中綬章。 熊本県出身。1916年(大正5年)、明治大学専門部法律科卒業。司法官試補の後、弁護士となる。熊本県会議員、熊本市会議員、参事会員を務めた。第19回衆議院議員総選挙と第20回総選挙は立憲民政党で、第21回総選挙は無所属で立候補したが、いずれも落選している。1946年(昭和21年)の第22回総選挙において熊本県から立候補して衆議院議員に初当選。当選4回。日本進歩党、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などに所属し、役職を歴任。第1次吉田内閣で司法参与官、第3次吉田内閣で郵政政務次官などを務めた。
稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月2… 稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月20日 - 1942年〈昭和17年〉9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第89位、卒業時成績順位は149名中第53位。 人物評価に対して中島親孝同様、辛辣な点数を付与する高木惣吉は、稲垣を自著『自伝的日本海軍始末記』に於いて「誠に重点をつかんで統御にすぐれた人」と称し絶賛していた。
杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月1… 植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月16日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、大正・昭和期の歌人。名は壽樹とも書く。歌誌『沃野』を創刊・主宰した。 東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町)生まれ。中学時代、電報新聞(現・毎日新聞)の窪田空穂選歌欄に投稿したのをきっかけに師事し、1905年窪田空穂主宰の十月会に入会。 1914年(大正3年)空穂の『国民文学』立ち上げに参加。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科卒業、大阪の加島銀行に入社。この時期に川田順、木下利玄らと親交を深め、「五日会」を興す。 1919年に銀行を退職して、大倉商事大阪支店に入社。1921年、大倉商事を退職。
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1… 中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 神奈川県出身。中村庄吉・サダの息子として生れる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官し「矢矧」乗組となる。海軍大学校(乙種学生)、海軍水雷学校高等科・特修科で学ぶ。「常磐」分隊長、「龍田」水雷長、元帥副官兼海軍省出仕(元帥大将東郷平八郎附属)などを経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 海大時代の末期に健康を害し、療養の意味も込めて同年12月、横須賀防備隊水雷長に就任し、横須賀海軍工廠機雷実験部部員を兼任。
戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日… 戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 石川県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、逓信局監理課長・為替貯金課長、交通局参事・簡易保険局書記官、殖産局商工課長、交通局参事・鉄道部庶務課長、台北州内務部長、交通局理事・逓信部長、台北州知事を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、東台湾電力興業株式会社専務取締役となり、1942年(昭和17年)には総督府評議会員に就任した。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年… 瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年)2月14日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、大正から昭和時代の柔術家、柔道整復師。父のいとこに荒川鉱山の経営者・瀬川安五郎がいる。 岩手県盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの三男として生まれる。岩手師範附属小学校、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1912年(明治45年)京都の武術専門学校へ進学する。同校卒業後、山口県徳山中学校を経て、1917年(大正6年)4月に奥田松五郎の後任として、1943年(昭和18年)まで母校の盛岡中学校にて柔道の指導にあたる。その間、1931年(昭和6年)、加賀野の自宅にて整骨院を開き、小中学生や生活困窮者に対しては無料で施術を行った。
松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985… 松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985年10月9日)は、日本の作曲家、教育者。女子学習院教授、宝仙学園短期大学教授。 旧水戸藩士で裁判官を務めていた松島茂徳と米子の長女として、父の任地である山形県山形市に生まれる。1902年に福島県立福島高等女学校に入学。学業は優秀で音楽の成績が特に優れていたために、教師の大立目元子に音楽学校への進学を勧められる。1906年に女学校を卒業すると音楽学校受験のために上京し、東京市小石川区高田老松町の伯母(母の姉)の家に寄宿した。1907年に東京音楽学校予科に入学し、1908年に進学した同校本科器楽部ピアノ専攻で戸倉やまにピアノを、ヘルマン・ハイドリヒとルドルフ・ロイテルにピアノと作曲を師事して1911年に卒業。
豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月1… 豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月13日 - 1943年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員4期、大蔵参与官、東京市助役を歴任した。
石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2… 石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2月11日 - 1936年(昭和11年)3月25日)は、大正-昭和時代前期の日本画家。本名は石川寅寿。 1890年(明治 23年)2月11日栃木県那須郡黒羽町大字北野上(現:栃木県大田原市北野上)石川渉・カネ夫妻の次男として生まれる。本名の虎寿は、干支にちなんでいる。黒羽尋常小学校、大田原中学校を卒業後、1909年(明治42年)に19歳で上京、郵便局員として働くかたわら太平洋画会研究所に通って洋画を学び、その一方で佐竹永邨に日本画を習う。1910年(明治43年)肺炎を患い、夏の徴兵検査に不合格。1911年(明治44年)帰郷・結婚し、代用教員として勤務するかたわら、頃から西那須野の雲照寺に参禅し、釈戒光の感化を受け、「寒巌」の道号を与えられる。
加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月1… 加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月11日 - 1979年(昭和54年)5月1日)は日本の生理学者。慶應義塾大学名誉教授。日本学士院会員、アルゼンチン生物学会・医学協会名誉会員、米国生理学会名誉会員。ノーベル生理学・医学賞の候補に3度選ばれている。岡山県新見市出身。 1890年(明治23年)、岡山県阿賀郡新見町(現:新見市)の眼科医の家に生まれる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に進学し、1909年(明治42年)に卒業。旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学医科大学に進んだ。1916年(大正5年)、京都帝国大学医科大学を卒業。卒業時には成績優秀により恩賜の銀時計を授与された。
岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日… 岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月4日)は、昭和の海軍軍人、海軍中将、海兵39期、海大21期。
阿部 重孝(あべ しげたか、1890年2月11日 - 193… 阿部 重孝(あべ しげたか、1890年2月11日 - 1939年6月5日)は、日本の教育学者。新潟県生まれ。 旧制長岡中学、旧制一高を経て、1913年東京帝国大学文科大学教育学科を卒業。1919年文学部教育学講座助教授、1934年教授に就任。専門は教育制度および教育行政。教育学研究室教育思潮研究会の基礎を作った。海外教育思潮の研究者兼紹介者。制度の分析に関しては、国を代表する第一人者の立場にあった。六・三・三制(6・3制)への移行を唱えた。アメリカ教育制度を研究し、ロシア教育学における心理学応用を紹介した。教育科学という術語の普及をはかった一人でもある。晩年には、教育研究会を組織し、これは1937年5月教育改革同志会に発展、同年6月の教育制度改革案の作成を主導した。
琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日… 琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日 - 1945年3月10日)は、富山県下新川郡(現在の魚津市)出身の元大相撲力士。本名は越野 善次郎(こしの ぜんじろう)。 1890年2月11日に富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。1909年1月に上京して二十山部屋に入門し、初土俵を踏む。四股名は小戸ヶ浦を名乗り、小錦八十吉 (横綱)から徹底的に指導を受けたことで腕力や足腰が鍛えられた。1915年6月場所で新十両昇進を機に「琴ヶ浦」へ改名し、1917年1月場所で新入幕を果たした。 ペテン立ちが巧く、右差しで相手の左を攻めながら一気に寄る取り口で、上品な人柄もあって人気があったが、1927年10月場所で現役を引退し、年寄・常盤山を襲名した。
瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2… 瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2月11日 - 没年不詳)は、福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身の大相撲力士。本名は安永 要藏。身長176cm、体重105kg。大阪相撲では関脇を務めたが東西合併で十両に編入されその後は入幕できなかった。 当初は東京相撲の雷(元初代梅ヶ谷)の門に入り1910年(明治43年)6月序ノ口についた。その後大阪相撲に移り藤嶋部屋から陣幕部屋の所属となった。1919年(大正8年)1月新入幕、その場所8勝2預で優勝を飾った。1920年(大正9年)1月には関脇に進むが大きく負け越しその後は平幕に低迷した。1923年(大正12年)1月関脇に返り咲き勝ち越し。
星野 鉄男(ほしの てつお、旧字体: 星野 鐵男、1890年… 星野 鉄男(ほしの てつお、旧字体: 星野 鐵男、1890年〈明治23年〉2月10日 - 1931年〈昭和6年〉12月20日)は、日本の医学者。専門は社会衛生学。日本初の性教育本(『性教育に就て』、1927年)を著したことで知られる。内閣書記官長や企画院総裁を務めた大蔵官僚・星野直樹は父方の従兄弟。東大総長を務めた政治学者の南原繁は義弟(妹の夫)。群馬県出身。無教会(無教会主義キリスト教)信徒。 内村鑑三に師事し、「衛生文化思想普及会」を発足、社会衛生学の知見とキリスト教信仰とを統合した独自の社会衛生政策を主張した。また、高野岩三郎らと共に日本における実証的な都市社会調査の先駆とされる労働者の生活実態調査「月島調査」を実施した。
清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月1… 清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月10日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。小学校教員・清水武兵衛の三男として生れる。武生中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍兵器本廠付兼軍務局課員などを経て、1923年(大正12年)9月、リガ(ロシア)駐在となり、次いでドイツに駐在。
岡田 啓治郎(おかだ けいじろう、1890年2月10日 - … 岡田 啓治郎(おかだ けいじろう、1890年2月10日 - 1964年9月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府出身。1915年関西大学専門部法律科卒。醤油製造を営む。養老村長、宮津町長、京都府町村会長、京都府議、同参事会員、同副議長、宮津市議、同議長、与謝郡農会長、同畜産組合長、京都府水産会副会長、同農会副会長、橋北汽船(株)取締役、与謝郡貨物自動車、京都物産各(株)取締役会長を歴任する。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では京都3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年に追放解除。1964年死去。
大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)… 大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)2月9日 - 1945年(昭和20年)2月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 大西行礼の長男として香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)に生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業する。1930年(昭和5年)に家督を相続した。 1924年(大正13年)高松百十四銀行取締役に就任し、同年琴平電鉄を創立し社長となる。ついで四国水力電気取締役、屋島登山鉄道社長を経て、1943年(昭和18年)企業統合により高松琴平電気鉄道社長に就任した。
清沢 洌(きよさわ きよし、旧字体: 淸澤 洌、1890年〈… 清沢 洌(きよさわ きよし、旧字体: 淸澤 洌、1890年〈明治23年〉2月8日 - 1945年〈昭和20年〉5月21日)は、日本のジャーナリスト、評論家。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。 なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。パスポート名はRETSU KIYOSAWAとなっていた。 長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の比較的裕福な農家の三男として生まれた。井口喜源治の主宰する研成義塾で学んだ。1907年(明治40年)、17歳のとき当時の同地での渡米熱をうけて、研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航し、塾生たちとともに「シアトル穂高倶楽部」を結成した。
岡田 三郎(おかだ さぶろう、1890年(明治23年)2月4… 岡田 三郎(おかだ さぶろう、1890年(明治23年)2月4日 - 1954年(昭和29年)4月12日)は日本の小説家。 北海道松前郡福山町(現・松前町)の鰊の漁師の家に生まれる。家は近江商人の家系。14歳で小樽に移住。庁立小樽中学校(同校は現在、北海道小樽潮陵高等学校となっており、その校歌を岡田三郎が作詞している)を卒業し、小樽で税務署員を務め、旭川で兵役につく。画家を志望して太平洋画会研究所に入るが兵役後に文学志望へ転じ、徳田秋声に師事。早稲田大学英文科在学中に『涯なき路』『影』を発表して文壇に登場。1919年に大学を卒業すると博文館に入社し、『文章世界』編集部に入る。のち、実の姉である日本女子大学の英語の教師であった岡田 一(いち)の援助により1921年にパリに遊学。
14代 藤井 伊右衛門(ふじい いうえもん、1890年 (明… 14代 藤井 伊右衛門(ふじい いうえもん、1890年 (明治23年)2月2日 - 1974年(昭和49年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、長野市長。初名・邦太郎。 長野県上水内郡長野町西之門町(現長野市)で、醸造業・「吉野屋」の13代藤井伊右衛門の長男として生まれる。生家は紀伊国発祥で、慶長3年(1598年)に善光寺町に移住し、代々にわたり町年寄を務めた。 長野県立長野中学校を経て、1912年、大阪高等工業学校醸造科を卒業。1926年、家督を相続して14代藤井伊右衛門を襲名し吉野屋を継いだ。 1934年12月7日、長野市長に就任し、1937年5月23日まで在任。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け長野県第1区から出馬して当選。
八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治… 八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1942年〈昭和17年〉2月1日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。従四位、勲三等。 1890年(明治23年)、鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)に生まれる。海兵40期。龍田、球磨、熊野、那智の各艦長を務めた後、1940年(昭和15年)11月、海軍少将に進級し、軍令部出仕となる。翌1941年(昭和16年)1月、第六根拠地隊(クェゼリン)司令官に着任。同地で太平洋戦争を迎えることになる。1942年(昭和17年)2月1日、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲による米機動部隊の攻撃を受け、戦死。太平洋戦争での最初の海軍の将官の戦死者となった。
家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日… 家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1973年〈昭和48年〉4月9日)は、日本の政治家。岡山県西大寺市(現・岡山市)長。 岡山県邑久郡福田村(のち邑久町、現・瀬戸内市)出身。邑久尋常高等小学校卒。1922年(大正11年)4月、日本農民組合の結成大会に参加する。同年11月上道郡金田村(のち西大寺市、現・岡山市)の小作争議に加わり、検挙され、有罪判決を受ける。その後、労働農民党に入り、1927年(昭和2年)、同党公認で岡山県会議員選挙に立候補したが落選した。1929年(昭和4年)に福田村会議員となり、福田村農会長、邑久郡町村会議員連盟会長などを歴任した。1947年(昭和22年)、西大寺町長に初当選、1951年(昭和26年)に再選。
相馬 確郎(そうま かくろう、旧姓・亀山、1890年(明治2… 相馬 確郎(そうま かくろう、旧姓・亀山、1890年(明治23年)2月 - 没年不明)は、日本の実業家、地家主。相馬商事相談役。北海道銀行、函館貯蓄銀行、北日本製紙各取締役。北海道拓殖銀行、棒二森屋、相馬商店各監査役。 岐阜県・亀山顕造の三男。亀山恭平の弟。1912年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。2代相馬哲平の養子となり、1919年、分家した。銀行、会社の重役だった。 また確郎は、戦後の相馬家事業グループにおいて指導者的存在だった。宗教は曹洞宗。趣味は碁。住所は函館市大町、同市曙町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒田 亮(くろだ りょう、1890年1月30日 - 1947… 黒田 亮(くろだ りょう、1890年1月30日 - 1947年1月5日)は、大正-昭和前半の日本の心理学者。動物心理学のほか、勘、禅、中国思想などの幅広い研究がある。 1890年(明治23年)1月30日新潟県南魚沼郡石打村(現南魚沼市)生まれ。旧制長岡中学、旧制第一高等学校を経て1815年(大正4年)東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)卒業。旧制新潟高等学校教授などを経て1926年(昭和元年)京城帝国大学助教授、1928年(昭和3年)教授となり1942年(昭和17年)まで務める。退官後は著述活動に専念。1947年(昭和22年)岐阜県にて死去。 京城帝大時代には、『勘の研究』(1933(昭和8)年、『続・勘の研究』1938(昭和13)年)、『心理学概論』(1935(昭和10)年)、『動物心理学』(1936(昭和11)年)などの著作や論文を書くかたわら、随想なども著した。
河井 栄蔵(榮藏、かわい えいぞう、1890年(明治23年)… 河井 栄蔵(榮藏、かわい えいぞう、1890年(明治23年)1月30日 - 1965年(昭和40年)8月10日)は、大正から昭和期の労働運動家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛媛県出身。1917年(大正6年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 同年、弁護士となる。1919年(大正8年)全国坑夫組合を結成し会長に就任。1920年(大正9年)全日本鉱夫総連合本部理事となるが、まもなく労働運動から身を引き大阪で弁護士を開業した。その他、(株) 大行社化機製作所取締役、有限責任第一貯蓄信用組合理事を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大阪府第1区から日本社会党公認で出馬して落選。
岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1… 岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1943年4月28日)は日本の記者、労働運動家。木曜会、新人会の参加者。クロポトキンとレーニンにちなむ黒田 礼二(くろだ れいじ)の筆名で知られる。 高知県長岡郡大篠村(現・南国市)出身。第一高等学校卒業。東京帝国大学の新人会(前期新人会)に参加。また、麻生久らの木曜会に参加する。1916年に東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、満鉄東亜経済調査局に勤務し、ロシア革命について研究。1920年の第2回ILO総会に政府代表嘱託として参加後、大阪朝日新聞モスクワ特派員、ベルリン特派員などを歴任。1922年のプロフィンテルン第2回大会において山本懸蔵の通訳として活躍。
橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月… 橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月28日 – 1944年(昭和19年)1月27日)は、衆議院議員(立憲民政党)、内務官僚。 福岡県福岡市出身。1908年福岡県立中学修猷館を経て、東京帝国大学文科大学哲学科で社会学を専攻し、1918年(大正7年)に卒業した。警視庁属となり、警部、警視と昇進した。本所警察署、向島警察署、日比谷警察署、四谷警察署の署長を歴任し、監察官に昇った。1927年(昭和2年)に退官した後は、東京市会議員に選ばれ、市参事会員も務めた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、頼母木桂吉東京市長のもとで第二助役を、大久保留次郎同市長のもとで第一助役を務めた。
石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年… 石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年)1月26日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家で石原産業の創業者。 京都府京都市生まれ。1913年立命館大学法科専門部卒業。1916年にマレー半島に渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして日本に帰国し政治活動を展開、国家主義的団体神武会・明倫会を創立して世論を喚起し、二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴となり釈放された。 1890年(明治23年)京都府京都市に生まれる。
大磐 誠三(おおいわ せいぞう、1890年〈明治23年〉1月… 大磐 誠三(おおいわ せいぞう、1890年〈明治23年〉1月26日 - 1946年〈昭和21年〉1月10日[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 大磐清次郎の二男として滋賀県東浅井郡速水村(現・長浜市湖北町速水)に生まれる。1915年(大正4年)早稲田大学政治経済科を卒業し、鉄道省経理局に出仕。1917年(大正6年)10月に文官高等試験行政科に合格し、同年12月、鉄道院書記を発令される。 ついで、会計検査院書記予部第一課勤務、青島守備軍民政部事務官、同軍司令部財務部勤務、同軍民政部残務整理を経て、外務事務官に転じ、1923年(大正12年)2月に亜細亜局第一課勤務となる。同年5月、青島副総領事を経て、外務事務官情報部第三課勤務、拓務書記官、大臣官房会計課長歳入徴収官、南洋書記官を経て、1933年(昭和8年)2月に澎湖庁長に就任した。
井原 美岐雄(いはら みきお、1890年1月26日 - 19… 井原 美岐雄(いはら みきお、1890年1月26日 - 1942年11月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 駆逐艦を4隻単位の隊として運用する試みは、日露戦争中に進められており、戦後も継続して駆逐隊編制を推進することになった。 佐世保所属。駆逐艦『皐月』『水無月』『文月』『長月』によって編成。昭和19年(1944年) 解隊。 佐世保所属。駆逐艦『樅』『榧』『梨』『竹』によって編成。昭和14年(1939年) 解隊。 佐世保所属。駆逐艦『朝凪』『夕凪』によって編成。昭和14年(1939年) に第29駆逐隊へ統合。 呉鎮守府に属し、駆潜艇を中心に豊後水道の警備を担当。佐伯海軍航空隊は航空機による豊後水道の警備を担当。
石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月… 石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月25日 - 1937年(昭和12年)5月16日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡沼垂町(現新潟市)の貧しい農家に生まれる。1896年(明治29年)同県北蒲原郡濁川村(現:新潟市北区濁川)の製綿業・石山家の養子となる。しかし養家が倒産したため、樺太、北海道へ出稼ぎに出たが過労のため帰郷。家業の再興を図るも不首尾で、1915年(大正4年)精練工として足尾銅山に入山した。 1917年(大正6年)足尾労働組合(のち大日本鉱山労働同盟会)の結成に参画した。1919年(大正8年)足尾銅山争議を指導。
田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 196… 田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 1964年10月7日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。住友家評議員会委員。 1890年(明治23年)、富山県射水郡浅井村(現射水市)に生まれる。高岡中学校、第四高等学校卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月住友総本店(住友財閥)に入社。人事部人事課長、人事部長を経て、1937年(昭和12年)住友電線(現住友電気工業)専務、1941年(昭和16年)住友本社常務理事に就任。1947年(昭和22年)に退職した後、住友工業高等学校理事長や住友病院理事長、大阪市教育委員長などを務めた。
長谷川 陸郎(はせがわ ろくろう、1890年(明治23年)1… 長谷川 陸郎(はせがわ ろくろう、1890年(明治23年)1月23日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県名取郡玉浦村(現在の岩沼市)出身。菅井茂兵衛の六男として生まれ、長谷川家に入った。1918年(大正7年)、日本大学を卒業し、同年に弁護士試験に合格した。仙台市に事務所を開き、後に仙台市弁護士会長に選ばれた。また仙台市会議員、宮城県会議員、宮城県参事会員に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、仙台大工業組合顧問、仙台青果業組合顧問、仙台針按協会顧問などを務めた。
宮原 幸三郎(みやはら こうざぶろう、1890年(明治23年… 宮原 幸三郎(みやはら こうざぶろう、1890年(明治23年)1月22日 - 1966年(昭和41年)9月30日)は、大正から昭和期の内務官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・顕三。父は衆議院議員の宮原幸三郎。 広島県安芸郡、のちの呉市胡町で先代宮原幸三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 内務省に入省し、長野県属、同県下高井郡長、和歌山県伊都郡長、熊本県理事官、帝都復興院事務官兼書記官、内務省復興局書記官、兵庫県理事官などを歴任し、1928年(昭和3年)に退官した。 1935年(昭和10年)呉市助役に就任。
木下 義介(きのした ぎすけ、1890年(明治23年)1月2… 木下 義介(きのした ぎすけ、1890年(明治23年)1月21日 - 1972年(昭和47年)8月21日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、政友会系官選県知事、初代諫早市長。旧姓は宮本。 長崎県北高来郡諫早村(諫早町を経て現諫早市)出身。宮本彦雄の四男として生まれ、木下敬太郎の養子となる。第五高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 以後、香川県警視、兵庫県警視、島根県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、青森県書記官・内務部長、山形県書記官・内務部長、警視庁書記官官房主事などを歴任。
田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20… 田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20日 - 1977年(昭和52年)6月28日)は、日本の海軍軍人。海兵39期次席・海大23期首席。最終階級は海軍中将。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)出身。岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業後に第一高等学校に進んだが中退し、海軍兵学校に入校した(兵39期)。入校席次は11位/150名、卒業席次は次席/149名で恩賜の短剣を拝受。 田結は艦船勤務を経てイギリス駐在となるが、主要国への駐在任務は海軍大学校甲種学生を卒業後に行われるのが慣例で、井上成美などの例はあるものの、異例の人事であった。 帰国後、海大23期を首席/22名で卒業して恩賜の軍刀を拝受。
大場 白水郎(おおば はくすいろう、1890年1月19日 -… 大場 白水郎(おおば はくすいろう、1890年1月19日 - 1962年10月10日)は、東京出身の俳人。本名は惣太郎。別号は縷紅亭。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校・附属中学校)を経て慶應義塾大学卒業。宮田製作所(現在の宮田工業)の重役を務めた。16歳で久保田万太郎を知り、慶大俳句、三田句会にて岡本癖三酔、籾山梓月と知り合う。渡辺水巴とは生涯の交友があった。「いとう句会」などで活躍した。
田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966… 田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966年4月20日)は、日本の作家、文芸評論家、翻訳家。 広島県広島市に生まれる。関西学院神学部を出て伝道師となるが、早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。1915年に大学を卒業。春陽堂に入り、『新小説』の編集に携わる。ピョートル・クロポトキン、トゥルゲーネフなどの翻訳などをしつつ、久米正雄、里見弴らと知り合い、文芸評論、小説、戯曲などを書くようになり、1920年に発表した「妻」で認められた。1919年、吉井勇とともに外務省の小村欣一の肝煎りで国民文芸会を結成し、演劇復興運動を起こす。
古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞… 古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞、1890年(明治23年)1月18日 - 1993年(平成5年)5月19日)は、日本の実業家。愛知県中島郡萩原村(現・一宮市)出身。 約30社からなるヘラルドグループの創業者であり、一代で日本を代表する映画配給会社へと育て上げたほか、映画事業のほかにも手広く事業を行った。「古為」(ふるため)という愛称で親しまれた。 1890年(明治23年)1月18日、愛知県中島郡萩原村(現・一宮市萩原)に生まれた。父は中野清助、母はたきであり、為三郎は五男だった。1893年(明治26年)10月、名古屋市矢場町に住む遠縁の古川己之助の養子となった。 1896年(明治29年)4月には白川尋常高等小学校(現・名古屋市立栄小学校)に入学し、1899年(明治32年)4月には高等科に進んだ。
松浦 伊平(まつうら いへい、1890年(明治23年)1月1… 松浦 伊平(まつうら いへい、1890年(明治23年)1月17日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。幼名・浜吉。 香川県阿野郡青海村(綾歌郡松山村を経て現坂出市大屋冨町)出身。林田高等小学校を卒業し、家業を手伝い、土木請負業「松浦組」を設立して社長に就任。松山村議、同村長、香川県議、同副議長などを経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙において香川2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎とともに正統派に所属した。政友会正統派内は鳩山・三土忠造・安藤正純ら鳩山系の議員が多かったが松浦は岡田忠彦・津雲国利・肥田琢司・西村茂生・東条貞らとともに久原系の議員とみなされた。
榎本 重治(えのもと じゅうじ、明治23年〈1890年〉1月… 榎本 重治(えのもと じゅうじ、明治23年〈1890年〉1月16日 - 昭和54年〈1979年〉11月30日)は、大日本帝国海軍の海軍書記官(海軍高等文官)、日本の弁護士・国際法学者。 東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学英法科に進み、大正2年(1913年)11月に高等文官試験行政科に合格し、大正3年(1914年)7月に東京帝大を卒業した。 鉄道院書記を経て、大正4年(1915年)10月、大日本帝国海軍の高等文官たる海軍書記官(当時の官名は海軍省参事官)に任官し、高等官七等(奏任官、中尉相当)に叙された。 昭和13年(1938年)10月、高等官一等(勅任官、海軍高等文官の最高位、各省次官〈高等文官〉や陸海軍中将〈高等武官〉に相当)に叙された。
岡 邦雄(おか くにお、1890年1月15日 - 1971年… 岡 邦雄(おか くにお、1890年1月15日 - 1971年5月22日)は、日本の科学史家。 山形県米沢市生まれ。東京物理学校(現在の東京理科大学)卒。1924年旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)助教授。文化学院大学部設立に助力し、教師も務める。1932年に共産主義活動を理由に一高を解雇され、同年、戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加した。 1936年には糟糠の妻と6人の子を捨て、26歳のロシア語翻訳者桝本セツとの恋愛に走ったことで世間を騒がせ、新聞には、自らが唱えた新しきモラルの実践か、と揶揄された。 1938年に治安維持法違反の疑いにより逮捕。1945年10月9日、全政治犯の釈放に際し、宮城刑務所を出所した。
桑原 政夫(くわはら まさお、1890年(明治23年)1月1… 桑原 政夫(くわはら まさお、1890年(明治23年)1月14日 - 1969年(昭和44年)8月15日[要出典])は、台湾総督府官僚。基隆市尹。 埼玉県児玉郡吉岡村(現在の上里町)出身。旧制熊谷中学を経て、1907年(明治40年)、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)を卒業。嘉義庁属、台南州新営郡庶務課長、同東石郡守、台南市助役、台中州員林郡守を歴任し、1932年(昭和7年)に基隆市尹に就任した。 退官後、台湾拓殖株式会社文書課長、台湾野蚕株式会社監査役、台湾畜産興業株式会社監査役などを務めた。 戦後は防府市助役を務めた。
河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1… 河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1月14日 – 1971年(昭和46年)10月11日)は、日本の文部官僚、教育者。