鶴園 哲夫(つるぞの てつお、1915年 <大正4年> 5月… 鶴園 哲夫(つるぞの てつお、1915年 <大正4年> 5月28日 - 2006年 <平成18年> 4月11日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県知覧町(現南九州市)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。1940年に農林省入省。全農林労働組合委員長を経て1959年、第5回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し初当選。1971年、第9回参議院議員通常選挙で鹿児島地方区に回り、当選。決算委員長や公害対策環境保全特別委員長などを歴任した。 1985年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。 2006年4月11日、呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去。
朴 永昌(パク・ヨンチャン、朝鮮語: 박영창、1915年5月… 朴 永昌(パク・ヨンチャン、朝鮮語: 박영창、1915年5月28日 - 2015年7月28日)は、大韓民国の独立運動家、牧師、教授。 雅号はウォルガン(월광)。数々の著書があり、民族のための牧師であったとされる。父はプロテスタントの長老で神社参拝拒否運動を展開した朴寛俊。 訳は一部日本語版の題名を引用。
松浦潟 達也(まつらがた たつや、1915年5月27日 - … 松浦潟 達也(まつらがた たつや、1915年5月27日 - 1945年3月10日頃)は、佐賀県東松浦郡名古屋村馬渡島(現・唐津市鎮西町馬渡島)出身の大相撲力士。本名は牧山 強臣(まきやま つよみ)。 1930年1月場所に錦島部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の松浦潟(唐津湾)に由来する。1938年1月からは「大蛇潟(おろちがた)」の四股名で新入幕を果たすが、負け越して1場所で十両陥落となる。このままでは伸び悩むと判断したことから、四股名を「枩浦潟」に戻し、1940年1月場所で再入幕。このとき、独立した能代潟錦作と共に立田山部屋へ移籍した。 折しも時代は太平洋戦争へと突入し、若手の力士たちも次々に戦場へ召集されていったが、枩浦潟は大相撲に必要不可欠な存在として兵役を免除され、戦時中にあっても現役の力士として活躍を続けた。
草野 文男(くさの ふみお、1915年5月24日 - 199… 草野 文男(くさの ふみお、1915年5月24日 - 1996年8月21日)は、中国研究者。 1915年、福島県いわき市で生まれた。法政大学に進学するが、1939年に中退。中央大学に移るが、1941年に中退。北京大学で学ぶが、中退。 その後、外務省に入省し、情報部、調査部、調査局で勤務。その後、拓殖大学政経学部助教授に転じた。1960年、学位論文『中共計画経済の実証的研究』を拓殖大学に提出して経済学博士号を取得。後に教授昇格。1987年に拓殖大学を退任し、名誉教授。となった。1996年8月21日、肺癌のため死去。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
塩野 宜慶(しおの やすよし、1915年5月23日 - 20… 塩野 宜慶(しおの やすよし、1915年5月23日 - 2011年1月22日 )は、日本の法律家。法務事務次官、東京高等検察庁検事長、最高裁判所判事を歴任。司法大臣を務めた塩野季彦の長男。子に最高検検事、福島地検検事正等を務めた健彦(中央大学法学部卒業)がいる。 父季彦の実家、山寺家は旧松代藩士の家系。本籍地の長野県松代町で出生、東京市で育つ。 東京府立第一中学校、府立高等学校を経て、1939年(昭和14年)に東京帝国大学法学部を卒業する。高等文官試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格し、検察官に任官した。東京地検刑事部長、東京地検公判部長、法務総合研究所第一部長、甲府地検検事正、東京地検検事正を歴任。
浅原 清隆(あさはら きよたか、1915年(大正4年)5月2… 浅原 清隆(あさはら きよたか、1915年(大正4年)5月23日- 1945年(昭和20年)5月29日)は兵庫県生まれの洋画家。 兵庫県神戸市中央区播磨町生まれ。 1934年(昭和9年)帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。1935年(昭和9年)第22回二科展に初入選する。シュルレアリスムに関心を持ち、同級生らと1936年(昭和10年)グループ「表現」を結成同年「動向」の結成参加、映画研究会の会報『T映』参加。1937年(昭和11年)第7回独立展入選。1938年(昭和12年)創紀美術協会結成に参加。1939年(昭和13年)美術文化協会の結成に参加。同年、神戸で個展を開催するが、まもなく応召し、1945年(昭和20年)ビルマ(現:ミャンマー)のプローム県で行方不明となる。
関 集三(せき しゅうぞう、1915年5月21日 - 201… 関 集三(せき しゅうぞう、1915年5月21日 - 2013年12月24日)は、日本の化学者(物理化学)。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は理学博士(大阪帝国大学・1945年)。大阪大学名誉教授、日本学士院会員。 大阪大学理学部教授、関西学院大学理学部教授などを歴任した。 1915年兵庫県(現在の西宮市)生まれ。父は実業家の関桂三。1938年大阪帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。物質状態の理解に広く適用されている熱力学に物質構造の観点を加え、固体および液体状態の研究の発展に大きな貢献をした。また、「ガラス状態の熱力学的研究」は精密な熱測定による実験に基づき、物質内の分子の集合状態の研究を行った。
松永勇(まつなが いさお、1915年5月21日 - 没年不明… 松永勇(まつなが いさお、1915年5月21日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚。大臣官房財務調査官(管財局担当)兼管財局総務部長、内閣官房内閣審議室長、国有財産局長、京都銀行副頭取などを歴任。 岡山県出身。東京帝国大学法学部法律学科卒業。東京帝大法学部法律学科在学中の1938年10月に高等試験司法科、1939年10月に同行政科をそれぞれ受験。1940年4月 大蔵省入省。大臣官房財政経済調査課属。1961年6月23日 大臣官房財務調査官(管財局担当)兼管財局臨時貴金属処理部長。1962年5月10日 大臣官房財務調査官(管財局担当)兼管財局総務部長兼管財局臨時貴金属処理部長。1963年4月 内閣官房内閣審議室長。
篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 19… 篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 1998年4月16日)は、日本の人口学者。 東京出身。別名・神寺人言(じんげんひとよ)。 第一高等学校、東京帝国大学理学部数学科をへて、1939年長谷部言人によって新設された人類学科に移り第一期生として卒業。 1961年「血族結婚部落に関する生体人類学的研究」で東京大学理学博士。 1943年厚生省に入り、人口問題研究所、同人口資質部長。1984年日本人口学会会長。1984年勲二等瑞宝章受勲。
久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - … 久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - 1954年9月23日)は、日本の漁船員。マグロ漁船第五福竜丸操業中にビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験の被害に遭い半年後に死去した。 1914年6月21日、静岡県志太郡焼津町(現在の焼津市)に生まれる。 1942年1月9日(当時27歳)、久保山はクェゼリン島第四艦隊第6防備隊に配属された特別監視艇(焼津港所属漁船)「第五福吉丸」に乗り組んでいた。1944年1-3月、船は撃沈されたが、久保山は43年5月に虫垂炎で入院・帰国していて助かった。 1954年1月、マグロ漁船第五福竜丸無線長として出航。南太平洋ビキニ環礁付近で操業中の同年3月1日未明、核実験(ブラボー実験)で被曝した。
谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 19… 谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 1988年10月21日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 1914年、三重県生まれ。東京帝国大学文学部英文科を卒業。 神戸大学助教授ののち、東京大学教養学部教授を務めた。1975年に東京大学を定年退官し、その後は大谷女子大学、中京大学教授として教鞭をとった。1987年、東京大学名誉教授となった。 英米文学のうち、ロスト・ジェネレーションの米国作家たちを主な研究対象とした。ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなどの翻訳を手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1… 島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1989年11月10日)は、日本の政治家。 日本社会党に所属し中選挙区時代の衆議院北海道第1区で5度当選を果たしたほか、仁木町長を2期務めた。 船頭の長男として北海道高島郡高島町(現小樽市)に生まれた。高島小学校の高等科を卒業後、地元の水産試験場に勤めながら札幌逓信講習所の受験勉強を行い1928年に合格した。 札幌逓信講習所を卒業し1929年から札幌郵便局電信課、1934年から小樽郵便局電信課に勤務、その後札幌逓信講習所の高等科に入所、1942年には逓信官吏練習所に合格したが陸軍に尉官待遇で徴用されてフィリピンのマニラに派遣され、そこで1年半余り過ごした後、ネグロス島に送られ終戦を迎え、1945年12月に復員した。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
柳田 友道(やなぎた ともみち、1914年(大正3年)6月1… 柳田 友道(やなぎた ともみち、1914年(大正3年)6月18日 - 2012年(平成24年))は、 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、東京大学教授、応用微生物研究所所長を経て、富山大学教授から富山大学学長に就任。 日本の微生物学者として、微生物科学を確立した。 1914年(大正3年) 誕生(茨城県磯原町) 1937年(昭和12年) 東京帝国大学医学部薬学科入学 1940年(昭和15年) 海軍短期現役士官 薬剤科 1946年(昭和21年) 東京大学理学部植物学教室研究生 1962年(昭和37年) 東京大学教授 1968年(昭和43年) 東京大学応用微生物研究所(東京大学定量生命学研究所)の7代目所長に就任 1975年(昭和50年) 東京大学名誉教授、富山大学教授に就任 1979年(昭和54年) 富山大学学長に就任 1985年(昭和60年) 退官、富山大学名誉教授 2012年(平成24年10月) 北海道にて没。
鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性… 鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性、1914年6月17日 - 1992年2月19日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。193cmの長身選手として1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1914年東京生まれ。東京府立五中、武蔵高校を経て、東京帝国大学経済学部に進学。在学中は籠球部レンジャースに所属して主将を務めた。1936年のベルリンオリンピックには、バスケットボール日本代表として出場した。 大学卒業後は日産自動車に勤務したが、戦後退社して陶器の輸出入を手掛ける茜商会を起業した。会社経営の一方で日本バスケットボール協会の理事として後進の育成にあたり、1957年5月には日本スポーツ界代表団の一員として中華人民共和国を訪問した。
熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 … 熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、東京大学名誉教授。 岩手県盛岡市出身。1932年に盛岡中学を卒業。1940年に東京帝国大学工学部卒業、1943年東京帝国大学大学院満期退学。戦後東京大学教授となり、定年後名誉教授となる。その後は岩手大学で教授を務め、退職後はノーリツ基礎研究所所長もつとめた。 内燃機関研究を主に行い、国際燃焼学会で活躍した。 一般向け著作として、「火」(1979年)、「エンジンの話」(1981年)(いずれも岩波新書)がある。
金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月… 金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月14日 - 1989年4月24日)は、日本の歴史家。法学博士。法制史、海事慣習制度の研究者。 1914年6月14日、静岡県富士市に生まれる。静岡県立富士中学校、福岡高等学校文科丙類を卒業。1941年3月、東京帝国大学文学部国史学科卒業。1943年、同経済学部経済学科卒業。のち、同大学院経済学研究科修了。1962年、「江戸時代の海難救助制度の研究」により明治大学から法学博士の学位を取得。1952年、海上保安大学校教授。1973年4月から1975年4月まで教頭。1976年11月、海上保安大学校退官、名誉教授の称号を授与される。山陽女子短期大学教授、呉市立図書館長。
永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ… 永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ) 1914年6月14日 - 1991年6月17日)は、日本の俳優。東京都出身。
岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 199… 岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 1991年11月6日)は、日本の政治家。衆議院副議長(第53-54代)、衆議院議員(15期)。 戦後日本社会党の安全保障問題の代表的な論客として名を馳せ、「爆弾男オカッパル」の異名をとった。幼名・穣。父の初代・岡田春夫も政治家(立憲民政党所属の代議士)で、父の死後名前を「穣」から父と同じ「春夫」に改名した。外交官の岡田晃は弟。長男は岡田宰(弁護士)、次男は岡田充(共同通信客員論説委員・客員大学教授)。 北海道美唄市生まれ。出生地の美唄市には生家が保存されている。1937年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業。製材業、北海道議会議員を経て、1946年戦後初の総選挙で旧北海道4区から衆議院議員に初当選。
松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)… 松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)6月13日 - 1994年(平成6年)12月23日)は、日本の実業家。日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)副社長、日本ケーブルテレビジョン社長を務めた。 松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた。
木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日… 木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(第4代 – 第6代)。 実子は現三郷市長の木津雅晟。 埼玉県北葛飾郡早稲田村(現・三郷市)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)、東京専修学院卒。卒業後は早稲田村役場に奉職する。その後は三郷村、三郷町、三郷市に勤務し、市制施行後に収入役、助役となる。1982年、三郷市長選挙に立候補して当選する。市長を1994年までの3期務めた。1995年、勲四等旭日小綬章を受章した。
横井 大三(よこい たいぞう、1914年6月11日 - 20… 横井 大三(よこい たいぞう、1914年6月11日 - 2006年7月22日)は、日本の検察官。最高裁判所判事。本籍は神奈川県だが、生まれたのは朝鮮平安北道。 旧制府立高等学校を経て1937年(昭和12年)に東京帝国大学法科を卒業。司法官試補となり、1938年(昭和13年)から裁判官として法曹キャリアをスタートさせ、東京・新潟地裁などに勤務したが、1945年(昭和20年)4月に司法省に転じ、以降は検察官となる。現行刑事訴訟の「証拠」の項目をGHQと折衝しながらつくりあげた。その後、刑事局参事官、刑事局刑事課長、ついで東京地検、東京高検、最高検それぞれの公判部長を務めた。 仙台高検検事長、名古屋高検検事長を務めた後、1977年(昭和52年)6月に定年退官し、約1年間専修大学の教授をしていた。
森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 -… 森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 - 1969年〈昭和44年〉1月8日)は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。 群馬県山田郡桐生町新宿(現・桐生市新宿)に、野間(旧姓・岡田)善次郎・ヤスの子として生まれる。初名は野間 寅雄。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵。寅雄の名は、要蔵とともに白河戦争で戦死した彼の息子(野間寅雄の大叔父)・森寅雄にちなんだものである。
土倉 麻(どぐら あさ、1914年6月11日 - 2008年… 土倉 麻(どぐら あさ、1914年6月11日 - 2008年4月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。1932年ロサンゼルスオリンピックに女子100メートル競走および400メートルリレー走で出場。 同じロサンゼルスオリンピック参加者の田島直人と結婚し、田島姓となった。日本のオリンピック選手同士の結婚の第一号である。 京都市出身。祖父は「大和の山林王」と謳われた土倉庄三郎で、庄三郎の長男・鶴松の娘が麻である。 京都府立京都第一高等女学校高等科(現在の京都府立鴨沂高等学校)在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに女子100メートル競走および400メートルリレー走に出場。前者は予選落ちしたが、後者で日本チーム(他に中西みち・村岡美枝・渡辺すみ子)は5位に入賞した。
黒澤 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 19… 黒澤 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 1947年6月23日)は、大阪府出身のプロ野球選手(外野手)。
早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10… 早坂 寿雄(はやさか としお、1914年(大正3年)6月10日 - 2004年(平成16年)3月9日)は、日本の電気音響学者。 1914年6月10日生まれ。1937年3月、東北帝国大学工学部電気工学科卒業。同年4月、同学部助手。1941年3月、逓信省電気試験所技師。1945年7月、工学博士。1952年11月、日本電信電話公社電気通信研究所音響研究課長。1959年2月、同電気通信研究所次長。1963年4月、同理事・所長。1967年5月、沖電気工業常務取締役。1970年5月、同専務取締役。1984年11月、勲三等瑞宝章受章。 1956年5月から1958年5月まで、日本音響学会会長。
渡辺 綱也(わたなべ つなや、1914年〈大正3年〉6月9日… 渡辺 綱也(わたなべ つなや、1914年〈大正3年〉6月9日 - 1979年〈昭和54年〉8月24日)は、日本の国文学者、国語学者。新潟大学名誉教授。 新潟県東蒲原郡津川町大字津川(現 阿賀町津川)出身。 1933年(昭和8年)3月に新潟中学校を卒業、1936年(昭和11年)3月に新潟高等学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業、東京帝国大学文学部大学院に入学、1942年(昭和17年)3月に退学。 1942年(昭和17年)4月に東京帝国大学文学部助手に就任、1943年(昭和18年)9月に陸軍予科士官学校教授に就任、東京帝国大学文学部助手を兼任、1944年(昭和19年)5月に東京帝国大学を退職、1945年(昭和20年)8月に陸軍を退官。
右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1… 右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1997年9月8日)は、日本の経営者。日本火災海上保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京帝国大学経済学部商学科を卒業し、同年に東京海上火災保険に入社。。 1946年に日本火災海上保険に転じ、1957年に常務に就任し、1958年6月には副社長に就任し、1963年7月には社長に昇格。1981年7月に会長に就任し、1984年に取締役相談役に就任。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1997年9月8日呼吸不全のために死去。83歳没。
荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 199… 荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 1999年1月5日)は日本の医師、生化学者、歯学者。元東北大学歯学部長、歯学部教授、東京医科歯科大学歯学部生化学講座初代主任教授、国立予防衛生研究所歯科衛生部部長。 1938年、日本大学医学部卒業。卒業後、同大学生化学教授の志賀直の元で研究に従事、志賀の台北帝国大学赴任に同行。 戦後、東京医学歯学専門学校(東京医科歯科大学)にて研究、1952年東京医科歯科大学歯学部生化学講座開設に伴い教授に就任。山本肇、佐伯政友らと東北大学歯学部創設のため1966年に東北大学へ赴任、1967年同歯学部長。 1971年兼任で国立予防衛生研究所歯科衛生部部長、1977年に専従、1980年退任。
飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 199… 飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 1991年12月14日)は、日本の女優。本名・本間 敏子(旧姓・飯塚)。 戦前の松竹時代劇を代表する女優の一人である。 1914年6月8日、埼玉県大里郡武川村明戸(現・深谷市)に生まれる。生後間もなく、東京市芝区新橋(現・東京都港区新橋)にて「新橋旅館」を経営していた実家に移る。従って、現役時代の俳優名鑑等では、「東京生まれ」と書かれた物も多い。小学校の頃から、岡安喜代八について三味線と尺八を学ぶ。1927年、文化学院女学部に入学。同校の先輩に夏川静枝・入江たか子・伊達里子などがいる。家庭の事情により同校を3年で辞め、家業を手伝っていたが、1930年に雑誌「婦人公論」主催の美人投票に当選する。
金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 200… 金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 2008年6月26日)は、日本の医学者、内科学者。医学博士。内科疾患の精神身体医学的側面について研究した、日本における心身医学の草分け。鹿児島大学名誉教授。 鹿児島県瀬戸内町生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)四年修了を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1934年に卒業。1938年、九州帝国大学医学部を卒業。学部では操坦道のもとでデング熱やワイル病について研究した。金子廉次郎教授の第一内科に入局し九大講師。1945年11月、「黄疸出血性レプトスピラ病における出血の成因に関する実験的研究」で九州大学より医学博士取得。また戦後は稲田竜吉東京大学教授が主催するインフルエンザ研究会にも参加した。
廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 200… 廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 2000年1月12日)は日本の植物学者である。専門はセリ科植物の分類学的研究である。 岐阜県出身、東京大学植物学科を経て、カリフォルニア大学に留学した。京都大学教授を長く務めた。昭和30年頃から警察の植物鑑定に協力し、『捜査植物学』全4巻を出版し、京都府警永年捜査貢献賞を受賞した。
中田 大三(なかだ だいぞう、1914年〈大正3年〉6月7日… 中田 大三(なかだ だいぞう、1914年〈大正3年〉6月7日 - 1998年〈平成10年〉3月25日)は、日本の実業家。神戸電鉄をはじめとする神戸電鉄グループの発展に大きく尽力した。 1914年(大正3年)6月7日に山梨県甲府市に生まれる。1936年(昭和11年)山梨高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄で会社としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社。1966年(昭和41年)11月に取締役に就任し、1969年(昭和44年)5月に常務となった。 神戸電鉄では、1970年(昭和45年)に三木駅衝突事故や丸山駅追突事故など多数の負傷者を出す重大事故を繰り返して大阪陸運局(現・近畿運輸局)より特別監査が行われており、さらに1954年(昭和29年)以来無配状態を続けるという経営状態で、これを受けて社長の原泰良や専務・常務が退任する事態になっていた。
三浦 一郎(みうら いちろう、1914年6月6日 - 200… 三浦 一郎(みうら いちろう、1914年6月6日 - 2006年3月13日)は、日本の西洋史学者・エッセイスト。元茨城大学教授、上智大学名誉教授。 東京府豊島師範学校附属小学校、旧制武蔵高等学校を経て、東京帝国大学西洋史卒業。 戦後新制成蹊高等学校教諭を経て、茨城大学助教授、1966年同大学教授、1970年上智大学教授、1980年同大学特別待遇教授、1985年退職、同大学名誉教授。ギリシア古代西洋史を専門とするが、『世界史こぼれ話』が角川文庫に収められて人気を博した。 没年91。葬儀は日本基督教団高輪教会、喪主は長男の三浦久利夫(くりお)。
川瀬 二郎(かわせ じろう、1914年6月5日 - 1981… 川瀬 二郎(かわせ じろう、1914年6月5日 - 1981年12月15日)は、日本の経営者。日本板硝子元社長。福岡県出身。 1935年に彦根高等商業学校を卒業し、同年4月に日本板硝子に入社。1962年5月に取締役に就任し、1966年5月に常務を経て、1971年5月には社長に就任。1976年5月に取締役相談役を経て、1978年6月には相談役に退いた。 1981年12月15日、肝硬変のために死去。67歳没
神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1… 神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1974年2月19日)は、北海道室蘭市出身で花籠部屋に所属した元大相撲力士。本名は熊谷 力雄。最高位は十両4枚目。 花籠部屋に入門し、1929年5月初土俵を踏む。1934年1月満19歳で十両に昇進。この場所負け越し、幕下に落ちる。1935年1月、一場所で十両に復帰したが、この場所も負け越し再び幕下に落ちる。1936年1月、三度目の十両昇進で勝ち越し、この場所から5場所連続十両の地位にあった。1938年5月幕下に落ち十両復帰を目指し、「神惠山」(かむえやま)に改名(1941年5月)したが、十両に復帰することなく1942年5月に廃業した。1974年死去。
鬼 俊英(おに としひで、1914年〈大正3年〉6月3日 -… 鬼 俊英(おに としひで、1914年〈大正3年〉6月3日 - 1946年〈昭和21年〉)は昭和期の歌手。 福岡県山門郡山川村立山(現在のみやま市山川町立山)出身。神奈川県立湘南中学校を経て立教大学経済学部卒業。在学中は水泳選手としても活躍した。1939年(昭和14年)10月1日にテイチクから歌手デビュー。テイチクレコード盤の「空の勇士」、興亜行進曲など戦時歌謡中心に吹き込む。1941年にはキングレコードへ移籍。終戦後の1946年(昭和21年)、闇市に出回っていた航空機用のメチルアルコールを飲用し急逝。 妻は同じく昭和期の歌手である生島清美。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
堂垣内 尚弘(どうがきない なおひろ、1914年(大正3年)… 堂垣内 尚弘(どうがきない なおひろ、1914年(大正3年)6月2日 - 2004年(平成16年)2月2日)は、日本の技術官僚・政治家。東日本学園大学(後の北海道医療大学)の名付け親でもある。学校法人東日本学園名誉理事長。位階勲等は、従三位勲一等瑞宝章。学位は、工学士(北海道帝国大学)。称号は、剣道範士。 札幌市出身。札幌一中(現北海道札幌南高等学校)を経て、1938年(昭和13年)北海道帝国大学(後の北海道大学)工学部土木工学科卒業(工学士)。海軍省建設局に勤務。復員を経て、1946年(昭和21年)北海道庁に勤務。その後北海道開発庁へ出向し、1965年(昭和40年)同庁事務次官となる。1967年(昭和42年)北海道開発庁退官。
森 赫子(もり かくこ、1914年6月2日 - 1986年4… 森 赫子(もり かくこ、1914年6月2日 - 1986年4月14日)は、日本の女優、作家。 東京府渋谷町猿楽生まれ。岩谷松平の孫。旧姓は岩谷。跡見高等女学校卒。伯母森律子の養女となる。1932年松竹蒲田撮影所に入り、映画女優でデビュー。1934年新派に転向、花柳章太郎の相手役として活躍。1939年映画「残菊物語」で花柳の相手役を演じた。1956年失明して引退。同年、失明寸前に書き上げた自伝「女優」を出版。ベストセラーになり「書きますわよ」の流行語を生んだ。同作は映画化された(女優 (1956年の映画))。
徳永真一郎(とくなが しんいちろう、1914年6月1日 - … 徳永真一郎(とくなが しんいちろう、1914年6月1日 - 2001年12月5日)は、歴史小説家。元毎日新聞編集局参与。本名は德永眞一。地域的には主に近江を舞台に、時代的には戦国時代および幕末を舞台に、歴史上の人物を描写した作品を発表し続けた。 香川県綾歌郡飯山町(現在の丸亀市)に生まれる。旧制高松中学校(現、香川県立高松高等学校)を卒業。 1940年に毎日新聞社入社。毎日新聞社鳥取支局長、大津支局長、学生新聞編集部長などの職を歴任した。学生新聞編集部に在籍中に連載した「少年三国志」が東映から映画化された。 1964年(昭和39年)に吉川英治賞を受賞。1969年(昭和44年)に55歳で退職。1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)までの4年をびわ湖放送局で常務の職にあった。
角屋 正隆(すみや まさたか、1914年6月1日 - 200… 角屋 正隆(すみや まさたか、1914年6月1日 - 2008年4月29日)は、日本の経営者。東京出版販売(現在のトーハン)社長を務めた。新潟県出身。 1932年に東京堂に入社し、1934年に中央大学経済学部経済学科を卒業。1946年に日本出版配給を経て、1949年に東京出版販売に転職。 1961年5月に取締役に就任し、1967年に常務、1975年に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1984年6月には社長に昇格。1987年6月には会長に就任。 2008年4月29日老衰のために死去。93歳没。
伊福部 昭(、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006… 伊福部 昭(、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。位階は従四位。 ほぼ独学で作曲家となった。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。北海道出身。 1914年(大正3年)、北海道釧路郡釧路町(現・釧路市)幣舞にて、警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。
村山 修一(むらやま しゅういち、1914年5月30日- 2… 村山 修一(むらやま しゅういち、1914年5月30日- 2010年4月16日)は、日本の歴史学者。文学博士(京都大学・1961年)(学位論文「日本中世都市生活の研究:特に中世京都の都市生活における社会と宗教との関係を顧慮しての」)。大阪女子大学名誉教授。皇族が歴代門主を務めた妙法院に残る膨大な文献史料類の翻刻に尽力し、『妙法院日次記』として刊行された。方広寺(京の大仏)は、江戸時代に妙法院の管理下にあったことから、それについての研究も行った。1987年勲三等旭日中綬章受章。 大阪市生まれ。1937年、京都帝国大学文学部史学科卒業。1961年、「日本中世都市生活の研究:特に中世京都の都市生活における社会と宗教との関係を顧慮しての」で京都大学より文学博士の学位を取得。
安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 -… 安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は、広島県広島市南区宇品海岸出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第37代横綱。本名は永田 節男(ながた たかお)。 双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。四股名は「せつお」だが、本名は「たかお」と読む。 広島県広島市南区宇品海岸の食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校を卒業後は家業を手伝う。1931年に市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦したところ、藤嶌にスカウトされて角界入り。1932年2月場所に出羽海部屋から“永田”の四股名で初土俵を踏む。序二段で「安藝ノ海」と改名すると、順調に昇進して1936年1月場所に新十両、1938年1月場所では、23歳で新入幕を果たした。
五味 彰(ごみ あきら、1914年5月29日 - 1991年… 五味 彰(ごみ あきら、1914年5月29日 - 1991年11月6日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を務めた。 北海道出身。1935年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に北海道拓殖銀行に入行。取締役、東京支店長、常務、副頭取を経て、1977年10月に東条猛猪の後任として頭取に就任した。拓銀にとって、永田昌綽以来30年ぶりの生え抜き出身の頭取であった。1983年から会長を務めた。 北海道経済連合会副会長や札幌エレクトロニクスセンター理事長を歴任した。 1991年11月6日、心不全のために死去。77歳没。
三舩浪 盛吉(みふねなみ せいきち、1914年5月28日 -… 三舩浪 盛吉(みふねなみ せいきち、1914年5月28日 - 1943年9月23日)は、昭和時代の大相撲力士。浅香山部屋→井筒部屋所属。本名は有川 盛吉。最高位は十両5枚目。 鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市)出身。同郷の横綱であった三代目西ノ海の浅香山部屋に入門。1933年1月初土俵を踏む。間もなく師匠が亡くなり、井筒部屋に移籍する。1940年1月十両昇進。連続5場所その地位にあったが、1942年5月に幕下に落ちてから休場続きで、三段目まで落ちた1943年9月23日、現役のまま死去した。 錦江洋→三船浪→三舩浪
田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 19… 田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 1979年9月20日)は、日本の映画監督。広島県豊田郡沼田東村(三原市沼田東町)出身。兄は映画監督の田坂具隆。 尾道中学校(現広島県立尾道北高等学校)卒業後、百貨店勤務を経て、1937年に『明治一代女』のヒットで日活多摩川撮影所へ復帰した兄・具隆を追うように、日活京都撮影所監督部に入る。1942年に大映に移籍し、1952年に長谷川一夫主演の「勘太郎月夜唄」で監督デビュー。文芸作品を得意としていた兄とは違い、娯楽時代劇を多く撮った。 1964年の「夕日と拳銃」からテレビドラマの演出を手がけ、1965年に大映を退社。中小企業の経営の傍ら、1976年まで「銭形平次」「大岡越前」「水戸黄門」「伝七捕物帖(中村梅之助版)」など、テレビ時代劇の監督ローテーションに入っていた。
河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日… 河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日 - 2011年〈平成23年〉3月9日)は、日本の歴史学者。専門は東南アジア史。東京外国語大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。文学博士。 群馬県高崎市に生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1938年(昭和13年)に東北帝国大学法文学部西洋史学科を卒業。 1939年(昭和14年)に東北大助手となり、1942年(昭和17年)よりタイへ留学。帰国後の1944年(昭和19年)に文部省民族研究所員となり、1945年(昭和20年)東京外事専門学校(1949年より東京外国語大学)教授に就任。1964年(昭和39年)にはアジア・アフリカ言語文化研究所教授を兼任。
満田 久輝(みつだ ひさてる、1914年5月27日 - 20… 満田 久輝(みつだ ひさてる、1914年5月27日 - 2006年3月10日)は、日本の農芸化学者。京都大学名誉教授。農学博士。専門は栄養化学、食品工学。大阪市出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊藤 恭一(いとう きょういち、大正3年(1914年)5月2… 伊藤 恭一(いとう きょういち、大正3年(1914年)5月27日 - 平成6年(1994年)8月9日)は、日本の実業家。二代目伊藤忠兵衛の長男。エルサルバドル共和国の繊維事業発展に貢献した。 昭和22年(1947年)に旧制神戸商業大学(現・神戸大学)を卒業し、大建産業に入社する。昭和25年(1950年)に呉羽紡績へ転じる。財務・管理部門を担当し、取締役、常務取締役、専務取締役を経て、昭和38年(1963年)に社長に就任した。その後、昭和41年(1966年)に呉羽紡績が東洋紡績に吸収合併されると、同社副社長となった。後に同社会長・相談役を歴任した。昭和58年(1983年)から伊藤忠兵衛基金理事長。