柏原 祐泉(かしわはら ゆうせん、1916年8月5日 - 2… 柏原 祐泉(かしわはら ゆうせん、1916年8月5日 - 2002年2月6日)は、浄土真宗の仏教史学者。学位は、文学博士(大谷大学・論文博士・1972年)。大谷大学名誉教授。 滋賀県生まれ。1940年大谷大学文学部国史学科卒。1949年同予科教授、1950年大谷大学短期大学部助教授、1962年大谷大学助教授、1966年教授、1972年「日本近世近代仏教史の研究」で大谷大学より文学博士の学位を取得。1982年退任、名誉教授、1983年函館大谷短期大学学長。1985年退任、名誉教授。
千原 大五郎(ちはら だいごろう、1916年8月4日 - 1… 千原 大五郎(ちはら だいごろう、1916年8月4日 - 1997年6月3日)は、日本の建築史家、工学博士。一級建築士資格所有。東京都生まれ。専門は東洋建築史。 南アジアの宗教建築の体系化を考案し、拓殖大学教授、日本ユネスコ国内委員会委員、株式会社大建設計相談役などを歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内藤 莞爾(ないとう かんじ、1916年8月4日 - 201… 内藤 莞爾(ないとう かんじ、1916年8月4日 - 2010年9月17日)は、日本の社会学者。九州大学名誉教授。
小柳 富男(こやなぎ とみお、1916年(大正5年)8月2日… 小柳 富男(こやなぎ とみお、1916年(大正5年)8月2日 - 1971年(昭和46年)12月14日)は、日本の飛込競技選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1916年8月2日、福岡県に生まれる。大阪府立今宮中学校(現在の大阪府立今宮高等学校)を卒業し、早稲田大学に進学する。早稲田大学では競泳が一般的であった中で飛込競技の実力を大いに伸ばし、1935年8月6日にベルリンオリンピック飛込競技の日本代表となることが発表された。ベルリンオリンピックでは飛板飛込と高飛込の両方に出場し、飛板飛込で133.07点、高飛込で94.54点を獲得しいずれも8位となった。その後、1939年の日本選手権では高飛込で優勝、1940年の日本選手権では飛板飛込で優勝、1946年の日本選手権では再び高飛込で優勝した。
田中 ふさ子(たなか ふさこ、1916年(大正5年)8月1日… 田中 ふさ子(たなか ふさこ、1916年(大正5年)8月1日 - 1943年(昭和18年)1月25日) は、日本の教育者。1936年(昭和11年)から1942年(昭和17年)にかけて長野県の小学校に教師として勤務し、生活綴方運動の実践を行った。指導した児童詩「ツクシ」(下平京子作)は児童詩集などに多く紹介された。 1916年(大正5年)8月1日、長野県上伊那郡伊那町で生まれる。子どもの頃に肋膜炎で一か月静養したこともあり、女学校入学後も再発するなど、小柄で病弱だった。しかし女学校時代は、弓やテニスをよくやるなど活発な面があり、数学と国語が得意で成績もよかった。 1933年(昭和8年)伊那高等女学校を卒業し、卒業後は家業を手伝った。
勝又 豊次郎(かつまた とよじろう、1916年8月1日 - … 勝又 豊次郎(かつまた とよじろう、1916年8月1日 - 1993年4月3日)は、日本の経営者。勝又自動車社長、会長を務めた。千葉県匝瑳郡須賀村(現在の匝瑳市)出身。 1940年に早稲田大学専門部政経科を卒業し、同年にゴム統制会に入社。 1942年7月に勝又商店(のちの勝又自動車)常務に就任し、1943年11月には社長に昇格。1955年にトヨタ自動車販売社長であった神谷正太郎の誘いを受け、トヨタ自動車系のディーラーとなり、千葉トヨペット、カローラ店2店、オート店2店、ビスタ店2店の計8社を率いる全国でも有数の勝又グループを育て上げた。1977年から1991年までに千葉経済同友会代表幹事を務め、幕張メッセ建設の調整役を務めるなど地元千葉経済界のリーダー的存在として活躍した。
中野 幡能(なかの はたよし、1916年〈大正5年〉7月31… 中野 幡能(なかの はたよし、1916年〈大正5年〉7月31日 - 2002年〈平成14年〉12月3日)は、日本の歴史学者。宇佐八幡宮の研究で知られる。 大分県宇佐生まれ。1943年東京帝国大学文学部宗教学科卒。大分県立教育研究所副所長、61年新設の大分県立芸術短期大学教授、68年「八幡信仰史の研究」で東京大学文学博士。83年定年退官、名誉教授。91年秋勲三等瑞宝章受勲。西日本文化賞受賞。
中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31… 中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。詩人の中原中也は兄で、弟に伊藤拾郎がいる。山口県吉敷郡(現:山口市)出身。 中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。 1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。 1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。 1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。 1946年、中原医院の事務員となる。 1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。 1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。
梅澤 邦臣(うめざわ くにおみ、1916年7月30日 - 2… 梅澤 邦臣(うめざわ くにおみ、1916年7月30日 - 2006年1月23日)は、日本の通商産業技官。科学技術事務次官を経て、原子力安全技術センター理事長、海洋科学技術センター理事長、ライフサイエンス振興財団理事長等を歴任した。 東京都生まれ。1938年武蔵高等学校理科卒業。1941年北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科卒業。1944年商工省地質調査所技師。1953年通商産業省大阪通商産業局総務部技術課長。1956年工業技術院調整部業務課長。 1962年科学技術庁計画局科学調査官。1963年科学技術庁原子力局次長。1964年科学技術庁計画局長。1967年科学技術庁研究調整局長。1968年科学技術庁原子力局長、造船技術審議会委員。
日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)… 日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)は日本の映画監督、脚本家。宮崎県出身。通り名は「はんめい」。妻は元東宝専属女優の川合玉江。 主に時代劇やアクション映画などの監督を務めた。 宮崎中学校卒業後、衣笠貞之助に師事。 1936年(昭和11年)、松竹下加茂撮影所に入社。 1941年(昭和16年)、東宝に移籍。 1950年(昭和25年)、『淑女と風船』を中野潔と共同監督。 1954年(昭和29年)、『透明人間』(小田基義監督)以後、映画脚本家としても活躍。 1955年(昭和30年)、『姿なき目撃者』で正式に映画監督デビュー。 1959年(昭和34年)、東宝を退社。 1960年(昭和35年)、第二東映に入社。
谷川 宏(たにがわ ひろし、1916年〈大正5年〉7月29日… 谷川 宏(たにがわ ひろし、1916年〈大正5年〉7月29日 - 1989年〈平成元年〉2月7日)は日本の大蔵官僚。大臣官房日本専売公社監理官、国税庁間税部長、東京国税局長、関税局長、石油開発公団副総裁、北海道東北開発公庫総裁などを務めた。 群馬県高崎市赤坂町に生まれる。旧制東京高等師範学校附属小学校を経て、東京高等師範学校文科甲類を卒業。1939年10月 高等試験行政科を合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業。1940年 大蔵省入省。専売局長官官房兼専売局販売部属。1950年5月13日 主計局主計官(歳入、大蔵、終戦処理担当)。1951年4月 主計局主計官(大蔵、外務、政府関係機関担当)。1952年4月 主計局主計官(歳入、大蔵、外務、政府機関、調達担当)。
鳥越 俊雄(とりごえ としお、1916年(大正5年)7月28… 鳥越 俊雄(とりごえ としお、1916年(大正5年)7月28日 - 1990年(平成2年)3月30日)は、日本の実業家。鳥越製粉専務。鳥越製粉創業者鳥越彦三郎の孫。ジャーナリスト鳥越俊太郎の父。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。1939年、京都帝国大学経済学部卒業。住友本社に勤務。札幌の北日本鉱業所に配属された。現場で鉱山労働者などから相手にされず、いじめにあい、神経症を発症した。1940年、長男の俊太郎が誕生したときは九大の精神科の病棟に入院していた。1943年、退職。対人恐怖症を克服しようと、仏教に傾倒した。京都帝国大学文学部に入学した。 1946年5月、同大学中退。同年10月、鳥越商店入社、監査役。
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
中沢 護人(なかざわ もりと、1916年7月27日 - 20… 中沢 護人(なかざわ もりと、1916年7月27日 - 2000年2月22日)は、日本の科学技術史家。 山梨県出身。1939年、東京帝国大学を卒業し、日本製鐵に入社。1942年以後、横浜事件に連座し、戦後退社。1955年から東京大学生産技術研究所に技官として勤務。ドイツの技術史家ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck) の『鉄の歴史』を日本語に翻訳し、1979年の日本翻訳文化賞受賞。幼いころに受洗したキリスト教徒であり、中国派のマルクス主義者。 長兄はNHK職員、次兄の中沢厚は中沢新一の父、妹は網野善彦の妻。中沢家は山梨の豪商で、父親は生物学者。
宮島 龍興(みやじま たつおき、1916年7月27日 - 2… 宮島 龍興(みやじま たつおき、1916年7月27日 - 2007年11月26日)は、日本の物理学者、理学博士。筑波大学学長、理化学研究所理事長を務めた。 熊本県出身。1939年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1952年に東京教育大学教授に就任し、1970年3月から1974年3月までに学長を務めた。1974年5月に原子力委員会委員、1976年7月に筑波大学学長を経て、1980年4月から1988年4月までに理化学研究所理事長を務めた。 1989年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2007年11月26日に死去。91歳没。
林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月2… 林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月27日 - 2011年(平成23年)11月29日)は、日本の官僚、未来学者、財団運営者。 東京生まれ。1940年に東京工業大学電気化学科卒。1942年に技術院に入職後、戦後は経済安定本部、経済企画庁で長期計画に関わる。同庁在籍時の1959-1960年にフランス留学。 帰国後の1965年に、同じ経済企画庁・当時総合開発局の下河辺淳(のち東京海上研究所理事長)、同じく当時総合計画局の宮崎勇(のち経済企画庁長官、大和総研特別顧問)らと共に「1985年の日本人のライフスタイルを検討する会議」を通じ、各界に大きな影響を与え、「林リポート」をまとめ提言し、日本社会を変化・発展させるためのガイドラインとなった。
牧田 茂(まきた しげる、1916年7月25日 - 2002… 牧田 茂(まきた しげる、1916年7月25日 - 2002年3月22日)は、日本の民俗学者。 京都府京都市出身。別名=茅原茂(チハラ)。1940年國學院大學文学部国文科卒、朝日新聞社に入社。東京社会部次長、「週刊朝日」編集長、東京企画部長などを経て、1971年退社後、社友となる。1976年日本大学講師、1977年白梅学園短期大学教授を務めた。旧制京都二中時代に柳田國男に出した手紙が縁で門下生になる。1940年閑院宮賞。1947年日本民俗学会設立に参加。柳田民俗学の後継者として民俗学を中心に多くの著作がある。
岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年(大正5年)7月25… 岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年(大正5年)7月25日 - 1994年(平成6年)3月15日)は、日本の会社役員及び日本ヨット協会役員、そして日本オリンピック(JOC)委員である。 長きに渡り日本オリンピック委員を務め、1964年東京オリンピック招致活動と運営に尽力。そして1972年札幌オリンピック招致活動成功の功労者の一人である。位階は正六位。 1916年(大正5年)、父・岩田幸美と母・道子の長男として生まれる。成城高校を卒業後、1938年(昭和13年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学。 高校生の頃からスキーの滑降回転複合競技で大会に出場するなどスポーツを嗜んでいたが、東京帝国大学ではヨット部に所属し、1941年(昭和16年)の全日本選手権で東京帝国大学(東京大学)が明治神宮競技大会夏季海洋競技で初優勝した時の東京帝大ヨット部主将であり、雑誌「体育日本」に「暁の超特急」吉岡隆徳と並んで「競技界優秀選手十傑」に選ばれている。
辻 辰三郎(つじ たつさぶろう、1916年(大正5年)7月2… 辻 辰三郎(つじ たつさぶろう、1916年(大正5年)7月23日 - 2004年(平成16年)8月28日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。京都市出身。位階は正三位。 1947年(昭和22年)検事任官。法務大臣官房長、刑事局長、最高検刑事部長等を経て、1976年(昭和51年)に次長検事。1978年(昭和53年)東京高検検事長、1979年(昭和54年)に検事総長に就任。 1981年(昭和56年)に定年退官後、弁護士登録し法制審議会委員等を務めた。1988年(昭和63年)の秋の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。死後、正三位に叙された。
小西 甚一(こにし じんいち、1915年〈大正4年〉8月22… 小西 甚一(こにし じんいち、1915年〈大正4年〉8月22日 - 2007年〈平成19年〉5月26日)は、日本の文学者(日本中世文学、比較文学)。文学博士(東京文理科大学・論文博士・1954年)。筑波大学名誉教授。 東京高等師範学校、東京文理科大学国語国文科、同研究科を卒業後、東京教育大学教授、筑波大学教授、筑波大学副学長を歴任。米国に長く滞在し、日本文学の国際化や学問の輸入に貢献した。『古文研究法』の執筆など、大学受験指導の啓蒙でも知られる。 1951年(昭和26年)、『文鏡秘府論考』により日本学士院賞を受賞。1987年(昭和62年)、勲二等瑞宝章。1999年(平成11年)、文化功労者。 三重県宇治山田市船江町(現・三重県伊勢市船江)に生まれる。
森本 芳夫(もりもと よしお、1915年(大正4年)8月21… 森本 芳夫(もりもと よしお、1915年(大正4年)8月21日 - 2014年(平成26年)4月28日)は日本の実業家、元北陸電力社長・会長。元北陸経済連合会会長。富山県出身。
中沢 伊登子(なかざわ いとこ、1915年(大正4年)8月2… 中沢 伊登子(なかざわ いとこ、1915年(大正4年)8月20日 - 2001年(平成13年)11月11日)は、日本の政治家。民社党参議院議員(2期)。 兵庫県出身。1933年(昭和8年)大阪府立阿倍野高等女学校(現・大阪府立阿倍野高等学校)卒、同校補習科修了。神戸生活協同組合理事、神戸市生活指導研究会指導員、宝塚市議会議員などを務める。 1965年(昭和40年)の第7回参議院議員選挙に民主社会党(後の民社党)公認で兵庫県選挙区から出馬して当選。1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙で2選。1975年6月26日、衆議院外務委員会、ILO102号条約批准に伴う母性保護の国内措置が不充分と、攻撃。
船木 長一郎(ふなき ちょういちろう、1915年〈大正4年〉… 船木 長一郎(ふなき ちょういちろう、1915年〈大正4年〉8月20日 - 2003年〈平成15年〉7月11日)は、日本の政治家。元佐呂間町町長。位階は従五位。家族は兄に船木長蔵(元佐呂間漁業協同組合組合長、北海道漁業協同組合連合会副会長)、息子に元椴法華村村長の船木英秀。 佐呂間町出身。漁師の家系に生まれ、1934年に北海道酪農義塾を卒業し佐呂間村産業組合に入職、その後有志とともに運送業者を起業し1940年まで経営するも、ガソリン配給制が敷かれたことにより廃業を余儀なくされ地元農協を経て佐呂間村役場に入職。 1941年の役場入職後は書記補を経て36歳で助役、国鉄湧網線建設の陳情や町内の電力供給を改善すべく自家発電設備の建設・送電線改良や変電所設置に尽力。
尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - … 尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - 2009年2月12日)は、日本の土木工学者。1967年に建設事務次官を務めた。 愛知県知多市八幡出身。愛知一中を経て、1939年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省、人事院で務め、1963年、建設省の道路局長となり、1966年から技監および1967年より建設事務次官を務める。1970年に日本道路公団の副総裁となり、1976年に本州四国連絡橋公団の総裁となる。1975年から1976年にかけて土木学会の会長を務め、1980年から日本道路協会の会長を務めた。1987年、勲一等瑞宝章受章。 2009年2月12日に肺炎のため死去した。叙正四位。
小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年… 小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年11月14日)は、日本の邦楽作曲家、演奏家。 福岡県北九州市に生まれる。雅号は猷山。幼少より邦楽に親しみ、1933年福岡県中学修猷館、1935年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進学。在学中に、島村卿山に尺八、宮城道雄に箏(琴)と三弦(三味線)を学び、1937年からは尺八のパートとして宮城道雄と共演する。1938年3月に東大を卒業後、宮城道雄の養女・よし子と結婚して婿養子となり、宮城衛と改姓。一方で、諸井三郎に作曲を学んでおり、1947年には諸井門下の柴田南雄、入野義朗、團伊玖磨らと新声会を結成し、『絃楽三重奏曲』、『五重奏曲』などを発表している。
東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大… 東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大正4年)8月18日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の昭和時代の外交官、官僚。旧姓は本城。外務省事務次官、駐アメリカ大使を務めるなど日本の戦後外交におけるアメリカスクール外交官の重鎮の一人であった。
高木 史朗(たかぎ しろう、1915年8月17日 - 198… 高木 史朗(たかぎ しろう、1915年8月17日 - 1985年2月12日)は、宝塚歌劇団の劇作家・演出家。兵庫県出身。 関西学院大学卒業後、1936年に宝塚少女歌劇団に入り、1940年に演出家としてデビューした。 進取の気風で宝塚に新たな境地を開拓した。 1970年の日本万国博覧会では、閉会式の演出を担当した。 白井鐵造・内海重典とともに、宝塚の三巨匠に数えられる。 2014年、『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
佐々木 常助(ささき つねすけ、1915年8月16日 - 没… 佐々木 常助(ささき つねすけ、1915年8月16日 - 没年不明)は、島根県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは外野手。
秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8… 秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8月16日 - 2006年〈平成18年〉1月5日)は、日本の医学者、医学博士(東京大学)、実業家。補綴材(エピテーゼ、プロテーゼ)の研究者。株式会社高研の創業者。株式会社荘内日報社元社長・元会長。鶴岡市行政顧問。勲四等瑞宝章。山形県鶴岡市出身。「世界にさきがけ、独創に生きる」を座右の銘とした。 医療用高分子の研究の分野で活躍し、血液樹脂、合成高分子、医用シリコーン、医療用の生体モデルなどを開発し、医療技術の向上に貢献した。略歴は以下のとおり。
加藤 渉(かとう わたる、1915年8月15日 - 1997… 加藤 渉(かとう わたる、1915年8月15日 - 1997年6月12日)は、日本の建築構造学者、海洋建築工学者、構造デザイナー。 東京神田生まれ。大学卒業後満洲国大陸科学院に勤務。小野薫に師事。その後仲間の建築技師らと現地召集により、陸軍造船中隊凌水屯部隊でコンクリート船設計に関与。 戦後は母校日本大学旧工学部、現理工学部で長く教鞭を執り、その後理工学部長を歴任。在任中海洋建築工学科を創設。大学外部では株式会社カトー設計事務所を主宰。シェル構造建築を1951年に「鶴見倉庫」を小野薫と試みる。こうしたシェル構造に関する一連の研究により、日本建築学会賞を受賞。
栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14… 栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の経営者。三重銀行頭取を務めた。 群馬県桐生市東久方出身。旧制桐生中学校を経て、1936年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年5月に取締役に就任し、1967年10月には三重銀行副頭取に就任し、1968年10月には頭取に昇格。1979年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役、1991年6月に相談役、1997年6月に特別顧問を経て、1999年6月には顧問に就任。 1980年四日市商工会議所会頭に就任し、翌1981年から三重県商工会議所連合会長を務めた。
伊藤 一雄(いとう かずお、1915年8月14日 - 200… 伊藤 一雄(いとう かずお、1915年8月14日 - 2005年10月1日)は、日本の農学者・林学者。 秋田県出身。九州帝国大学農学部卒、1949年「紫紋羽病に関する研究」で九大農学博士。日本の松の緑を守る会。全国森林病虫獣害防除協会顧問。
柴立 芳文(しばたて / しばたての[要検証 – ノート] … 柴立 芳文(しばたて / しばたての[要検証 – ノート] よしふみ、1915年(大正4年)8月12日 - 1975年(昭和50年)8月5日)は、昭和期の日本の農林業指導者、政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県議会議長。 息子も県議会議長を務めた柴立鉄彦(7期)。孫も 現 県議会議員 柴立鉄平(1期)。 鹿児島県肝属郡大根占村神川(現錦江町)に生まれ、同郡田代村(現:錦江町)の柴立家の養子となる。鹿屋中学校(現鹿児島県立鹿屋高等学校)を経て、鹿児島高等農林学校林学科を卒業した。王子製紙に入社して終戦を迎えた。 故郷に引揚げ、1947年(昭和22年)田代村議会議員に選出され同議長も務めた。1951年(昭和26年)鹿児島県議会議員に選出され5期在任し、同副議長(2期)、同議長(2期)も務めた。
久山 康(くやま やすし、1915年(大正4年)8月12日 … 久山 康(くやま やすし、1915年(大正4年)8月12日 - 1994年(平成6年)12月30日)は、日本の哲学者、プロテスタントの宗教学者。 岡山県津山市生まれ。1941年京都帝国大学文学部哲学科卒、1942年聖和女子大学教授、1946年関西学院大学予科教授、1949年関西学院大学文学部専任講師、1951年助教授、1957年教授、1962年同国際日本研究所理事長、1969年関西学院理事、1974年理事長・院長。1989年退任、関西学院大学名誉教授。1982 - 1988年キリスト教学校教育同盟理事長。1990年勲二等旭日重光章受勲。 長男・久山敦 (1947 - ) は植物学者・咲くやこの花館館長。
香月 義人(かつき よしと、1915年〈大正4年〉8月12日… 香月 義人(かつき よしと、1915年〈大正4年〉8月12日 - 1991年〈平成3年〉8月1日)は、日本の経営者。佐賀銀行頭取を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本興業銀行に入行。1965年11月に取締役、1969年11月に常務を経て、1973年5月には佐賀銀行頭取に就任。1980年5月に会長に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1991年8月1日 急性心不全のために死去。75歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11… 浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11日 - 1996年〈平成8年〉7月31日)は、日本の小説家、医師。 群馬県勢多郡富士見村(現・前橋市)出身。 祖父・浅田長太郎は平藩の足軽の家の出で勢多郡新里村山上の浅田民次郎の養子となり、後に初代新里村長となった。 晃彦は勢多郡富士見村に生まれ、利根郡片品村で幼少期を過ごした。1934年(昭和9年)に旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1941年(昭和16年)に慶應義塾大学医学部を卒業。翌1942年(昭和17年)陸軍軍医として入隊、ラバウルで勤務し1946年(昭和21年)に復員した。 戦後は前橋で内科小児科を開業し、のちに日本郵船の船医となる。
戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 … 戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 - 2003年(平成15年)7月8日)は、日本の作曲家。本名は戸田盛国、別名森田邦雄。 東京府本郷の東大病院で生まれ、六本木で育つ。祖父は尾崎三良。義理のおじに尾崎行雄がいる。父親はいわゆる高等遊民だったが、1927年(昭和2年)の金融恐慌で没落した。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校文科乙類を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東大オーケストラ部の仲間に、柴田南雄、入野義朗、繁田裕司(後の三木鶏郎)がいた。 1938年(昭和13年)に外務省に入る。ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する。駐ソ連日本大使館勤務の後、独ソ戦の激化に伴い1941年(昭和16年)に帰国して諸井三郎に作曲を師事した。
服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1… 服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1992年5月12日)は日本の植物学者である。南九州の蘚苔類の研究で知られる。 宮崎県日南市飫肥に生まれた。第七高等学校を経て東京帝国大学理学部に入学し、卒業後東京科学博物館(現、国立科学博物館)で働いた。1946年に、家業の林業を継ぐため帰郷し、日南市に服部植物研究所を設立した。林業の傍ら、当時、研究がほとんどなされていなかった蘚苔類の研究を行い、南九州に分布する蘚苔類の分類学的研究を行い、その後日本各地、アジアやニューギニアの蘚苔類の研究も行った。服部植物研究所は蘚苔類の国際的な研究センターになった。胞子体がなく特徴的な配偶体をもつナンジャモンジャゴケ(Takakia lepidozioides)を記載したことでも知られる。
真船 和夫(まふね かずお、1915年8月10日 - 200… 真船 和夫(まふね かずお、1915年8月10日 - 2006年2月4日)は、日本の理科教育学者。 東京出身。東京文理科大学生物学科植物学専攻卒。岡山師範学校教員をへて、東京学芸大学助教授、1971年教授。1979年定年退官。1954年科学教育研究協議会の創設に参加、科学教育に関与する。日本子どもの本学会会長。1966年「さ・え・ら伝記ライブラリー」で産経児童出版文化賞(出版社の受賞)。
山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2… 山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2000年2月21日)は、日本の経済学者。早稲田大学名誉教授。ドイツの神学者・ブルトマンの提唱した神学の研究でも知られる。位階は従四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1938年早稲田大学政治経済学部卒業。1942年同大学大学院経済研究科理論経済学専攻修了、同大学非常勤講師。千葉大学教授を経て、1964年早稲田大学教授。同大学学生部長、同大学教育学部長、同大学評議員、早稲田実業学校校長、早稲田大学常任理事、同大学名誉教授。埼玉女子短期大学学長など歴任した。 1988年勲三等旭日中綬章受章。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 -… 堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 - 1997年7月4日)は日本の実業家。浜松ホトニクス創業者。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)出身。旧制中校卒業後、浜松高等工業学校に入学し、高柳健次郎に師事する。1937年に卒業後、テレビジョン研究の実用化のためNHK技術研究所に入所し、太平洋戦争中はテレビジョン技術を軍事に応用した暗視管の研究に従事し、1943年日本電子工業嘱託となり、1945年疎開先の天童で終戦を迎えた。 1947年浜松に戻り、東海電子研究所を設立。1949年東海真空工業を創業して誘蛾灯の点灯管の製造を開始したが、農薬の普及に押されて廃業した。その間、光を電気信号に変える光電変換素子の研究を進め、1953年に浜松テレビを創業し社長に就任、1978年に会長、1980年取締役相談役となり、光電変換素子の世界的メーカーに育て上げた。
天藤 真(てんどう しん、1915年8月8日 - 1983年… 天藤 真(てんどう しん、1915年8月8日 - 1983年1月25日)は、日本の推理作家。本名は遠藤 晋。 東京都生まれ。東京帝国大学国文科卒。同盟通信社記者を経て、戦後は千葉県で開拓農民となる。また千葉敬愛短期大学講師も務める。寡作ながらユーモアとウィットに富んだ文体、状況設定の巧みさと読者の意表を突く展開の作風が特徴的である。現在、ほとんどの作品が創元推理文庫に入っている。 1962年、旧『宝石』に投稿した『親友記』が宝石賞に佳作入選して、作家活動を開始。また同年『陽気な容疑者たち』が第八回江戸川乱歩賞の最終候補となり、大下宇陀児らの推薦を得て翌年刊行に至る。1963年、『鷹と鳶』で第二回宝石賞を受賞。
清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 - 2017… 清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 - 2017年3月3日)は、日本の歌人。 千葉県生まれ。本名・渡辺弘一郎。東京文理科大学卒。大学で加藤楸邨と同期。1938年『アララギ』に入会、土屋文明・五味保義に師事、九州小倉で国語教師、のち予科練の教官になり、土浦、西宮、高野山と移り倉敷海軍航空隊で敗戦を迎える。戦後は都立高校で教え、東京都立九段高等学校教頭、東京都立北園高等学校校長、昭和女子大学教授などを歴任。そのかたわら『アララギ』編集に携わる。1990年から2008年まで読売歌壇選者。97年『アララギ』終刊後、『青南』編集委員。漢詩・漢籍に造詣が深く、宮中歌会始選者も務め、2005年には歌会始の召人も務めた。
山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日 -… 山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日 - 没年不明)は、岡山県小田郡(現在の笠岡市)出身で、出羽海部屋所属の1940年代に活躍した元大相撲力士。本名は、藤井 浅一(ふじい せんいち)。現役時代の体格は身長185cm、体重96kg。得意手は突っ張り、寄り、上手投げ。最高位は東十両3枚目。 1930年5月場所に初土俵。1940年1月場所に十両昇進。柔軟な体格から繰り出す突っ張りを持ち味とし、その取り口は闘志に溢れていた。新十両の場所を8勝7敗と勝ち越すと、1941年5月場所には自己最高位となる東十両3枚目まで番付を上げたが、2勝13敗と大敗し、幕下へ陥落した。翌1942年1月場所では幕下優勝を果たして1場所で十両へ復帰した。
三谷 秀治(みたに ひでじ、1915年8月5日 - 1999… 三谷 秀治(みたに ひでじ、1915年8月5日 - 1999年10月20日)は、日本の政治家。元日本共産党衆議院議員。 鳥取県日野郡溝口町(現・西伯郡伯耆町)出身。小学校を卒業後、戦前より日本プロレタリア作家同盟に属し労働運動などに参加。1951年に大阪市生野区から大阪府議会議員に立候補し当選した。府議を5期務め1972年の衆院選で旧大阪4区から出馬し初当選を果たす。当選4回。議員在任中は共産党議員団部落対策委員長などを歴任した。1983年の衆院選には出馬せず引退し、地盤を経塚幸夫に譲る。 1999年10月20日、呼吸不全のため奈良県生駒市の自宅で死去。84歳。
双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1… 双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1974年3月5日)は、大分県佐伯市(津久見市とする文献もあり)出身(生まれは愛媛県西宇和郡三崎町(現・伊方町))で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大星 一夫。現役時代の体格は身長171cm、体重118kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り。 1937年1月場所、本名の大星の四股名で幕下付出とされて初土俵を踏んだ。天竜三郎らが率いた関西角力協会に入門していたための措置だったが負け越したため、当時の協会内規で翌5月場所は序二段に降格されてしまった。 初土俵から3年後の1940年1月場所に新十両、1941年1月場所に13勝2敗で十両優勝、翌5月場所双見山又五郎の名(1943年1月から下の名を本名の一夫に改名)で入幕を果たした。
田川 孝治(たがわ こうじ、1915年 <大正4年> 8月3… 田川 孝治(たがわ こうじ、1915年 <大正4年> 8月3日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。鳥取銀行頭取を務めた。 大阪府出身。1939年に大阪商科大学を卒業し、同年に三和銀行に入行した。1971年11月にオリエント・リース副社長を経て、1973年5月に鳥取銀行副頭取に就任し、1980年6月には頭取に昇格した。1987年6月には取締役相談役に就任。1988年6月には今橋興業会長に就任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
蓮田 修吾郎(はすだ しゅうごろう、1915年〈大正4年〉8… 蓮田 修吾郎(はすだ しゅうごろう、1915年〈大正4年〉8月2日 - 2010年〈平成22年〉1月6日)は、鋳金家。文化勲章受章、日本芸術院会員。日本の金属造型の第一人者である。 石川県金沢市生まれ。1928年石川県立工業学校図案絵画科卒業、1938年東京美術学校工芸科鋳金部卒業。在学中は高村豊周に師事した。1949年、第5回日展に初入選し、1951年「トロフィー」で日展特選朝倉賞を受賞。1952年創作工芸協会設立を設立した。1953年「黒豹鋳銅スクリーン」で日展北斗賞、1959年「野牛とニンフ」で日展文部大臣賞を受賞。1961年日本現代工芸美術家協会設立に参加、「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞。
天野 秀二(あまの しゅうじ、1915年8月2日 - 200… 天野 秀二(あまの しゅうじ、1915年8月2日 - 2009年3月11日)は、新宿高野に勤務して「フルーツ評論家」として、また「ギャラリー新宿高野」の支配人として知られた日本のサラリーマン。 1915年、静岡県浜松市に生まれる。父親は当時、静岡銀行の支店長をしていた。 明治大学商学部に学び、1938年に住友銀行に入行した。 第二次世界大戦中には召集されて、名古屋の自動車部隊の助教となった。兵役期間を満了し、1944年に住友銀行に復帰し、終戦までの時期に、家族を静岡に疎開させながら東京で勤務し、激しい空襲を経験する。 1959年、当時副社長であった高野保の誘いに乗って新宿高野に転職し、以降、広報を担当し「フルーツ評論家」として各方面に寄稿するなどして、後には、取締役になった。