谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月… 谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月24日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。石川県金沢市出身。
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谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月… 谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月24日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。石川県金沢市出身。
長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37… 長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県会議長、岐阜県恵那市長。旧名・俊一。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 岐阜県恵那郡東野村(現恵那市東野)で、長谷川藤藏、ひろ の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東北帝国大学法文学部法律科を卒業。さらに同大大学院で学んだ。 1932年(昭和7年)11月、岐阜県会議員に選出され、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で岐阜県全県区から日本進歩党公認で立候補(俊一名義)したが落選。
大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉… 大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 没年不明)は、日本の造り酒屋経営者。寿虎屋酒造社長(第9代)・会長。山形県酒造組合連合会会長(第3代・3期)。山形商工会議所二号議員。沖正宗酒造株式会社監査役。
花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月… 花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月22日 - 1978年(昭和53年)8月20日)は、日本の農業技術者、政治家。長野県東筑摩郡宗賀村長(3期)、長野県塩尻市議会議員、長野県塩尻市長(第3代、2期)を歴任した。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県東筑摩郡宗賀村本山(現・塩尻市)生まれ。1920年(大正9年)3月、東筑摩郡立農学校を卒業。小学校代用教員、村立宗賀実業補習学校助教諭を務めた後、1932年(昭和7年)に穀物検査員として長野県庁に勤務し、同県農産物検査技術補、農産物検査監督員、食糧検査所支所長などを務め、後に食糧事務所長となる。1945年(昭和20年)の終戦後は、GHQ軍政部と折衝して、長野県内の窮迫した食糧事情の好転に一役買った。
藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1… 藤井 龍心(ふじい りゅうしん、1903年7月21日 - 1998年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。種智院大学教授。真言宗智山派管長。智積院65世能化。専門は密教学。真言宗清和院住職。義父に、智積院55世能化の高井観海。
前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 19… 前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。 1903年、山梨県笛吹市八代町に生まれた。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に進んだ。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学んだ。1928年に同大学を卒業。 卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務めた。1940年、南満洲鉄道東亜経済調査局に勤勤。このことで厖大なイスラム文献を自由に手に取り研究する機会を得た。 1953年、学位論文『東西交渉史上におけるイスラム教徒勢力の消長に関する研究』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月2… 鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月20日 - 1975年(昭和50年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 静岡県静岡市で生まれる。静岡県立静岡中学校を経て第四高等学校を卒業。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 日本セメント(現太平洋セメント)に入社。1928年(昭和3年)東洋紡績(現東洋紡)に転じ、常務を経て1945年(昭和20年)社長に就任。1946年(昭和21年)社長を辞して東洋冷蔵を経営した。 1949年(昭和24年)望まれて三共第4代社長に就任し、人員整理と品種制限により経営を再建した。
荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989… 荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989年7月8日)は、昭和期の新聞記者・コラムニスト。岐阜県吉城郡(現在の飛騨市)出身。 1926年、旧制斐太中学(現岐阜県立斐太高等学校)を経て早稲田大学政治経済学部卒業。東京朝日新聞に入社。1930年(昭和5年)に飛行家の東善作がロサンゼルスから東京へ三大陸横断飛行を達成した際には、朝日新聞紙上に連載された本人名義の紀行文のゴーストライターを務めている。その後満州事変の従軍記者として活躍し、1937年のジョージ6世戴冠式に特派され文名を高めた。1939年に東京本社社会部長になる。その後、リオデジャネイロ支局長やマニラ総局長を歴任する。 太平洋戦争終結後の1945年11月に論説委員となり、「天声人語」を17年半にわたって担当してその名を高め、1956年に第4回菊池寛賞受賞(「天声人語」の執筆により)。
江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997… 江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本の実業家。三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。 茨城県筑波郡作岡村大字作谷(現:つくば市)の農家に生まれる。兄1人、姉3人の末っ子だったが、2人の姉は子供の頃早世した。 村の小学校を卒業後、茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学した。自宅から中学まで10キロあったが毎日自転車で通い、隣村の一級下の赤城宗徳(衆議院議員)は同じ自転車通学の仲間だった。
竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 19… 竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 1903年、銀行員の息子として赴任先の大阪市で出生。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現・ソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に大学を卒業した。 卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。
水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1… 水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1990年12月31日)は、新潟県六日町(現南魚沼市)出身の著述家。日本初の女流映画脚本家で後に児童文学作家となった。
志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年… 志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 1903年(明治36年)7月16日、秋田県に生まれる。 のちに京都に移り、勝見庸太郎に入門、1922年(大正11年)には旧制・東山中学校(現在の東山高等学校)を卒業している。1926年(大正15年)、勝見が「勝見庸太郎プロダクション」を設立、マキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始すると、それに参加する。その後、島耕二と離婚した大谷良子と結婚している。 1937年(昭和12年)には、日活京都撮影所に入社、多く脇役を務めた。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、志茂山は同社に継続入社する。
佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14… 佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14日 - 1982年(昭和57年)2月1日)は、埼玉県川越の馬車旅館として創業された「佐久間旅館」の女将として勤め著名人との親交も多かった。川越の女傑とも呼ばれた。
堀口 清(ほりぐち きよし、1903年(明治36年)7月12… 堀口 清(ほりぐち きよし、1903年(明治36年)7月12日 - 1991年(平成3年)4月16日)は、日本の剣道家。段位は全日本剣道連盟 剣道範士九段。居合道範士九段(英信流)。杖道範士。警視庁剣道名誉師範。 群馬県邑楽郡梅島村(現・明和町)新里に生まれる。 小学校入学前から、梅島尋常高等小学校で剣道を教えていた祖父・要吉および群馬師範出身の父・兼太郎から剣道の手ほどきを受ける。 1921年 専修商業学校(現:専修大学)の夜間部に通いながら、修道学院、小沢愛次郎の盈進塾興武館にて剣道に励む。 1924年 警視庁に奉職。神楽坂署へ配属となる。 1928年1月 神楽坂署担当師範だった堀田捨次郎から大刀を頂戴し居合を始める。
大塚 弥之助(おおつか やのすけ、1903年(明治36年)7… 大塚 弥之助(おおつか やのすけ、1903年(明治36年)7月11日 - 1950年(昭和25年)8月7日)は、日本の地質学者である。 東京・日本橋で生まれ、東京高等師範学校附属中学校から静岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地質学教室を1929年(昭和4年)に卒業した。在学中は小沢儀明から地史学の方法を、辻村太郎から地形学の方法を、徳永重康からは新生代生物層序の方法を学んだ。 卒業後は同大学地震研究所の助手として勤務した。大塚の地球科学における研究は広い範囲におよび、地形学・地球物理学・層位学・古生物学・地史学・構造地質学にわたっている。在学中に四国の四万十川の曲流地形を調査し、『地理学評論』に論文を発表した。
日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 19… 日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 1989年2月21日)は電通相談役。岐阜県出身。 岐阜中学校から第四高等学校に進み東京帝国大学法学部政治学科入学。1928年に卒業と同時に電通に入社。上海電通広告公司主任理事を経て、1947年に取締役に就任。その後1950年に常務取締役、1957年に専務取締役、1960年に代表取締役副社長を経て、亡くなった吉田秀雄社長に代わって1963年2月8日に代表取締役社長に就任。電通テック本社ビル建築に指揮を執る。1964年に東京オリンピック大会では「マーケティング局」と「PR局」を新設し国家イベント参画への道を開く。1965年には旧吉田記念館(吉田秀雄氏私邸)および現金1億4千万円の出捐を得て、文部省の認可により吉田秀雄記念事業財団が発足し初代理事長となる。
豊原 道也(とよはら みちや、1903年(明治36年)7月1… 豊原 道也(とよはら みちや、1903年(明治36年)7月11日 - 1980年(昭和55年)12月24日)は、日本の内務官僚、実業家。最後の官選山梨県知事。位階は従四位。 新潟県出身。豊原規矩弥の三男として生まれる。新潟高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。内務省に入省し、秋田県属となる。 1939年、大分県学務部長に就任。以後、茨城県経済部長、長野県書記官・警察部長、厚生省生活局住宅課長、警視庁保安部長、富山県部長・内政部長、浦賀引揚援護局次長などを歴任。 1947年3月、前任の吉江勝保が知事選に出馬のため辞任したことに伴い山梨県知事に就任。
芦田 泰三(あしだ たいぞう、1903年7月10日 - 19… 芦田 泰三(あしだ たいぞう、1903年7月10日 - 1979年10月18日)は、日本の実業家。住友生命保険元社長・会長。 明治36年(1903年)、兵庫県生まれ。昭和2年(1927年)、東京商科大学(現一橋大学)を卒業、同年住友生命入社。京都、ソウル、福岡などの支店長、人事部長、営業部長を歴任し、昭和22年(1947年)財閥解体により名称変更された国民生命保険社長に就任。昭和27年(1952年)もとの社名に改称、昭和41年(1966年)には会長。 源氏鶏太から『三等車に乗る一等重役』と称賛されたという。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年7月10日 - 19… 山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年7月10日 - 1977年8月27日)は、日本の男子マラソン選手。香川県坂出町(現・坂出市)出身。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンで4位に入り、日本人として同種目で初めて入賞した。 1903年、坂出の塩田業者の家に末っ子として生まれる。子どもの頃から塩田での作業に従事していた。当時の塩田では広い浜辺を走り回る作業が多く、従事する人々は自然に足腰が鍛えられた。その中から極東選手権競技大会や「日本オリンピック大会」に出場した森井安平、浜田嘉平らが輩出され、「塩田マラソン」とも呼ばれるようになる。 1920年アントワープオリンピックで、近隣の宇多津出身の大浦留市が5000メートルと10000メートルの代表として出場し、帰郷の際に坂出の青年により「オリンピック歓迎マラソン大会」が実施されたことで、塩田勤務者を含めた地元民の間にマラソンや陸上競技への関心が高まることになった。
江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日… 江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日 - 1968年(昭和43年)1月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。初代司法卿であった江藤新平の孫。 東京生まれ。父は江藤新平の二男で衆議院議員の江藤新作。冬に生まれた兄が冬雄と名付けられたのと同じく、夏に生まれたので夏雄と名付けられた。第五高等学校、1928年京都帝国大学経済学部卒業後、南満洲鉄道職員、満洲国官吏、興亜院秘書官などを経て1946年3月、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党所属として佐賀選挙区に出馬し初当選を果たす。その後、GHQによる公職追放の余波もあり2期にわたり出馬しなかったが、1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に自由党から再出馬する。
芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8… 芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者。
渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年… 渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年〉7月6日 - 1966年〈昭和41年〉8月15日)は、日本の政治家、実業家、資産家。新潟県岩船郡関川村長。渡辺家11代。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。三左衛門の長男。1929年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1933年、家督を相続する。司法省刑事局嘱託、東大文学部研究嘱託を経て1945年に関谷村長となる。 農業を営む。関谷村農業会長、新潟県農業会同県森林組連同県国民健康保険組連各理事、同県社会保険診療報酬算定協議会委員、同県農業実践大学協会理事同大学校長、同県国民健康保険委員、同県社会教育委員、同県地方森林会、同県医療機関整備審議会、同県公的医療機関運営審議会各委員、全国国民健康保険直営診療施設運営協議会理事に選ばれる。
日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993… 日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993年4月8日)は、日本の刑法学者、裁判官、弁護士、法学博士。 三重県出身。小野清一郎らに師事、刑法学者として改正刑法準備草案、ついで改正刑法草案の作成に関わる。戦後政財界の主な汚職事件で弁護団に参加、ロッキード事件では全日空の若狭得治の主任弁護士として活動した。訳書にイェーリング著『権利のための闘争』(岩波文庫)がある。
中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7… 中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7月2日 - 1989年 <平成元年> 11月10日)は、日本の経営者。日本短波放送社長を務めた。位階は正五位。 山形県出身。1930年に京都帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に日本経済新聞社に入社。1949年3月に取締役に就任し、1956年2月に常務を経て、1965年5月には日本短波放送社長に就任。1976年6月に最高顧問に就任。 1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年11月10日老衰のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36… 三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36年)7月2日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、小説家、山窩(サンカ)作家、映画館経営者。本名は三浦守。僧名は釈法幢。 大分県直入郡岡本村大字枝字真米(現・竹田市大字枝字真米)に農家の4人姉弟の末子として生まれる。私生児であった。幼少期に父親と死別し、10歳で豊後大野市大野町田中の真宗系の最乗寺に預けられる。1922年春、19歳で地元から出奔。日本大学法科卒業と自称していたが、筒井功はこれを疑問視し「三角の最終学歴は、小学校卒であった可能性が強い」と述べている。 1926年(大正15年)3月、記者の手伝いをする雇員(非正規採用)待遇で朝日新聞社に入社し、サツ回り担当(取材記者)となる。
江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年… 江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年12月8日)は、日本の作曲家、海軍軍人。海軍軍楽隊員。本名江口 源吾(えぐち げんご)。 岐阜県養老郡時村大字上(現・岐阜県大垣市上石津町上)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学し、信時潔の許などでチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。 1931年(昭和6年)に海軍を退役し、翌年、亡妻をしのんで作曲した『忘られぬ花』が松平晃(レコードでは池上利夫)の歌唱により大ヒット。
石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -… 石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。 1903年、男爵石田八弥の長男として大阪府で誕生。父の死去に伴い、1925年6月1日に男爵を襲爵。天王寺中学から東京府立四中に転校し、卒業。第一高等学校文科に進学したが、肋膜炎を患い休学。1年遅れて復学した後、菊川忠雄の勧誘を受けて一高内の社会思想研究会に入会した。 1924年、第一高等学校文科を卒業業して、京都帝国大学経済学部に進学するも京都学連事件により中退。 京都学連事件に連座したことに伴い、1926年3月24日に爵位を返上。不敬罪と出版法違反の容疑で逮捕され入獄したが、不敬罪については1927年の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 -… 久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 - 1980年3月2日)は、日本の経営者、銀行家。羽後銀行(現在の北都銀行)頭取を務めた。秋田県出身。 1925年に中央大学商学部を卒業し、同年4月に三和銀行に入行。1944年10月に羽後銀行に転じ、1956年4月に専務に就任し、1961年7月には頭取に昇格。1973年3月には会長に就任。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1980年3月2日に急性心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 198… 田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 1986年6月8日)は、日本の法学者、専修大学名誉教授。京都府出身。1925年、同志社女学校専門学部英文科卒業、1928年、同志社大学法学部法律学科卒業。旧姓・星野。田辺平学の妻。穂積重遠に師事して家族法を研究、専修大学助教授、1956年教授。74年定年退任。古代インドのマヌ法典を翻訳、ハンムラビ法典における女性の地位を研究、家族制度の復活に反対した。
松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990… 松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990年2月26日)は、日本の文学者、植物学者。 山形県出身。1928年、東京帝国大学農学部卒。日本赤十字子供の家園長、東京大学講師などを務め、日本植物友の会の設立に参加。日本の古典文芸に現われる上代の植物の研究を行ない、植物文学を提唱した。研究対象は、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『枕草子』、『源氏物語』などにわたる。 古典文学と植物との関連について、以下のように論じた。 『古事記』には77種類、『日本書紀』には85種類の植物が登場。現われている植物の大半は日本全土の山野に自生しているもので、『日本書紀』では渡来の植物が増えている。
岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 19… 岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 1964年1月25日)は、日本の宗教学者。東京大学教授、東京大学附属図書館の館長などを歴任。文学博士(東京帝国大学)。ユニテリアン主義である日本自由宗教連盟の理事長。 兵庫県明石市出身。宗教学者の岸本能武太の次男として生まれる。1916年、東京高等師範学校附属中学校に入学、同級生に美濃部亮吉、正田英三郎、芳賀檀、諸井三郎などがいた。1920年同校4年次修了(四修)で第六高等学校に進学を果たす。1923年春に六高理科甲類を卒業し、東京帝国大学へ進学する。1926年に東京帝大文学部宗教学科を卒業、同大学院進学を経て1930年からハーバード大学大学院に留学、1934年同大M.A.取得。
阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日… 阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月23日)は、日本の小説家・英文学者・翻訳家。 1903年(明治36年)6月26日、岡山県勝田郡湯郷村大字中山(現・美作市中山)にて阿部良平、もりよ夫婦の次男として生まれる。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町(ぼうずまち)に移る。父が教鞭を執っていた旧制姫路中学(現・姫路西高校)を5年制のところを4年で修了し、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類(英文学科)、東京帝国大学(現・東京大学)英文学科を卒業。兄・公平の影響で文学に近づき、短歌を学んで島木赤彦に接し、またトルストイやチェーホフを愛読する。
若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月2… 若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月26日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本の経営者。そごう社長を務めた。 千葉県出身。1927年(昭和2年)京都帝国大学経済学部を卒業後に、野村銀行(大和銀行を経て、現在のりそな銀行)に入行した。1949年に取締役、1954年11月に常務を経て、1958年4月にそごう副社長に就任し、1960年12月から1961年10月まで社長を務めた。 1963年(昭和38年)11月9日に冠動脈不全のため死去した。60歳没。
増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - … 増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - 1982年11月15日)は日本の法学者。第二次世界大戦前に台北帝国大学の助教授をつとめた頃に得た知見をもとにした台湾研究で知られる。法学のみならず、台湾における宗教関連の著作もある。 1903年6月25日に新潟県中頸城郡高田町に生まれた。第一高等学校文科甲類を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年3月に同大学院を満期退学(法理学)。 大学院を卒業後、台湾総督府嘱託として台湾へ渡った。どういうわけか法学ではなく、現地の宗教調査を任務とした。ただし、この調査は早々に中断され、1930年5月からは台北帝国大学講師となった。
森 三樹二(もり みきじ、1903年6月24日 - 1958… 森 三樹二(もり みきじ、1903年6月24日 - 1958年12月1日)は、日本社会党衆議院議員(6期)。弁護士。中央大学評議員。中央大学講師。父は徳島県議会副議長を務めた。
喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 196… 喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 1964年7月4日)は、日本の歴史学者。中央大学文学部教授。専門は日本古代史。 1903年(明治36年)6月、歴史学者である喜田貞吉の長男として、東京にて生まれる。なお「新六」の名は、彼の生誕地である「新宿六丁目」に由来する。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校文科乙類を経て、1926年(大正15年)、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業ののち、同大学大学院に入学し、併せて同大学副手になった。1934年(昭和9年)、京城帝国大学法文学部教授に就任し、1942年(昭和17年)、神宮皇學館大學学部教授に就任した。
竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – … 竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – ?)は、日本の教育者。金蘭千里高等学校校長。 鳥取県生まれ。1925年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。 旧制福井県小浜中学校、京都府第一中学校教諭、京都府福知山女子高等学校・京都府立鴨沂高等学校・大阪府立貝塚高等学校・大阪府立三国丘高等学校校長を経て大阪府立北野高等学校校長に就任。 1964年3月31日、府立高等学校を退職。私立金蘭千里高等学校長となる。
春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24… 春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、昭和期戦後の政治家。長野県飯山市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県下水内郡外様村(現飯山市)で、春日寿平、とも の四男として生まれた。1921年(大正10年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。同年、外様村小学校教諭を勤め、1931年(昭和6年)に退職。 1947年(昭和22年)4月、外様村長に就任し1期在任。1954年(昭和29年)12月には合併後の飯山市議会議員となり、1956年(昭和31年)に議長となる。1961年(昭和36)飯山市教育委員に就任し翌年まで在任した。
林 逸馬(はやし いつま、1903年6月23日 - 1972… 林 逸馬(はやし いつま、1903年6月23日 - 1972年9月2日)は、日本の作家。 福岡県出身。東京帝国大学卒。1929年「福岡日日新聞」の懸賞小説に当選する。1944年「筑後川」で九州文学賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3… 原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3月26日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。 ヨーロッパで開花した近代タイポグラフィー運動『ノイエ・ティポグラフィー』の理念を支持しながら、日本の活字文化で独自の表現の確立を志し、原はこれを『僕達の新活版術』と呼んだ。原のデザインスタイルは理論的に組立てるもので、作家性のあるものではなく、依頼者側に立ち、装幀、ポスター、パッケージなどを数多く手がけた。生涯に手がけた出版物の総数は、雑誌の表紙デザインなども含めれば、おおよそ3000点近くにもおよぶ。 特に装幀において高く評価されており、1940年代末から1970年代半ばまで装幀者として第一線で活躍。
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年… 山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名:清水 三十六(しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた。 1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある)。本籍地は北巨摩郡大草村(現:韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている。実家は武田の遺臣で、北巨摩の大草村若尾(現:韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある。
堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年〈明治36年〉6月2… 堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年〈明治36年〉6月22日 - 1982年〈昭和57年〉1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。零式艦上戦闘機の設計者として知られる。 新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。 1903年6月22日、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。 旧制藤岡中学校(現・群馬県立藤岡中央高等学校)、第一高等学校を経て1927年東京帝国大学工学部(東京大学工学部)航空学科を首席で[要出典]卒業。同期に木村秀政、土井武夫らがいる。 三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。
雨森 常夫(あめもり / あまもり つねお、1903年〈明治… 雨森 常夫(あめもり / あまもり つねお、1903年〈明治36年〉6月22日 - 1970年〈昭和45年〉12月12日)は、昭和期の農林技官、政治家。参議院議員。 福井県で雨森元成の三男として生まれる。1926年(大正15年)東京帝国大学農学部農業土木科を卒業した。 1926年、農林省嘱託となる。その後、農林技師、京都府農林技師、静岡県農林技師、高知県耕地課長、栃木県耕地課長、農地開発営団企画部調査課長、同東京事務所長、経済安定本部建設局次長、農林省農地局建設部長、京都農地事務局長などを歴任した。 1953年(昭和28年)4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で立候補して当選、その後、自由民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20… 小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20日 - 1998年(平成10年)8月9日)は、日本の油彩画家。愛知県名古屋市中区南呉服町生まれ。小堀遠州の子孫。
原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月2… 原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月20日 - 1983年7月24日)は、日本の伝記作家。本名:貢。
原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月… 原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1983年〈昭和58年〉7月24日)は、日本のジャーナリスト、著作家。本名は貢(みつぎ)。原敬の養嗣子。娘はスタイリストの原由美子。 大阪府出身。首相の原敬の姪の子で、幼児期に養嗣子となる。1915年(大正4年)東京府立一中入学。同期に小林秀雄、迫水久常、千頭暎臣、石丸重治(半途退学)、西竹一(半途退学)らがいる。以降、慶應義塾大学予科在学中に英国留学のため1921年(大正10年)中退。 1940年(昭和15年)、同盟通信記者。1946年(昭和21年)に退社して、ファッション評論なども手掛けた。1950年(昭和25年)に「原敬日記」を乾元社で公刊(原敬の遺言で、公開は没後30年程度を経てからと定めていた)。
種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)… 種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)7月20日 – 1987年(昭和62年)8月7日)は、元大日本帝国海軍技術大佐。大学教授。日本初のジェット機橘花の開発者として著名である。 薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時盈。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。 1921年(大正11年)に海軍機関学校を卒業し、1929年(昭和4年)に海軍大学校選科合格、翌年には東京帝国大学航空学科に入学。1931年(昭和6年)に大野千代子と結婚。1933年(昭和8年)、東京帝大航空学科を卒業。1935年(昭和10年)の4月から2年に渡ってフランスへと留学。
黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 199… 黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 1992年12月22日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 1902年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部を卒業。駐日ソ連大使館に勤務。 戦後の1946年、母校である早稲田大学教授に着任。1960年「ロシヤ・シンボリズム詩文学の成立過程」を早稲田大学に提出して文学博士号を取得。1962年に雑誌『ソヴェート文学』を創刊。1973年に早稲田大学を定年退任し、名誉教授となった。
織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月2… 織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1993年〈平成5年〉4月30日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ口頭文芸、アイヌ口承文学の第一人者とされ、特にユカㇻの伝承者として知られる。晩年のアイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などでの後進の指導、研究者への協力などでも知られている。ユカㇻを始めとするアイヌの生活文化全体について伝承者の少なくなった近世においては、最も信頼のおける人物の1人とされており、北海道静内地方のアイヌ文化は研究成果も資料も少ない中、アイヌ文化全般の知識を有する貴重な存在ともされている。「ステノ」の名は晩年に自称したアイヌとしての名であり、戸籍名は織田 ステ。
森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18… 森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 和歌山県那賀郡に生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、同年高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)4月、台湾総督府内務局に出仕する。1933年(昭和8年)10月、地方理事官となり新竹州中壢郡守に任じ、花蓮港庁庶務課長、府事務官、興亜院事務官、官房情報課長などを歴任し、1942年(昭和17年)1月に官を辞し、皇民奉公会中央本部参事となった。