貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1… 貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。 1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。 同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1… 大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1974年7月1日)は、昭和期日本のドイツ文学者。京都大学名誉教授。 香川県出身。旧制第六高等学校から京都帝国大学文学部独文科に進み1928年に卒業。学生時代は土井虎賀寿と下宿が同じで、親友であった。旧制第三高等学校講師、京都帝国大学文学部講師、法政大学予科講師などを経て、1946年に京都大学文学部助教授、1950年に同教授となり、1968年に京大を定年退官してからは関西学院大学教授を務めた。 文人気質の外国文学者としてゲーテやリルケをはじめとする多数の翻訳を著した。戦後まもなく出版された『洛中書問』は、中国文学者の吉川幸次郎との往復書簡で、東西古典の翻訳のあり方をめぐる論議である。
古川 栄一(ふるかわ えいいち、1904年4月29日 - 1… 古川 栄一(ふるかわ えいいち、1904年4月29日 - 1985年4月30日)は、日本の経営学者。学位は、商学博士(一橋大学・論文博士・1954年)。一橋大学名誉教授。増地庸治郎門下、増地の経営財務論を継承。一橋大学商学部教授を経て、同門の招きで青山学院大学教授に就任。郵政省顧問等も歴任。藍綬褒章受章。 新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)出身。現在の長岡商業高校を経て、1929年に東京商科大学(現:一橋大学)経営学科卒業。1954年「財務管理の本質と組織に関する研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。学生時代に受洗。大学では上田貞次郎教授のゼミを希望していたが、人気のため果たせず、増地庸治郎助教授のゼミに参加。
小川 友三(おがわ ともぞう、1904年〈明治37年〉4月2… 小川 友三(おがわ ともぞう、1904年〈明治37年〉4月29日 - 1968年〈昭和43年〉3月16日)は、日本の実業家、政治家。元参議院議員(1期)。 埼玉県出身。1921年(大正10年)に明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業して薬剤師免許を取得し、薬局や製薬会社を開業。古物商・農業などを手がける一方で東京市議選や府議選にも出馬し、昭和会から衆議院議員への立候補を目論んだ。1938年(昭和13年)には中華民国への移住絡みの詐欺事件で逮捕されている。 戦後は国民協同党に入党。同党公認で1947年(昭和22年)4月5日の埼玉県知事選挙に出馬するものの、直後に離党して自ら親米右翼の『親米博愛勤労党』を結成。
田口 真二(たぐち しんじ、1904年4月28日 - 198… 田口 真二(たぐち しんじ、1904年4月28日 - 1984年5月16日)は、日本の経営者。平和不動産社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行。後に田口証券に転じ、1955年には社長に就任。1956年に東京証券取引所理事に就任し、1957年に専務、1961年に副理事長を経て、1971年5月には平和不動産社長に就任。1977年6月には取締役相談役に退いた。 1976年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年3月2日、急性心不全のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
有山 兼孝(ありやま かねたか、1904年〈明治37年〉4月… 有山 兼孝(ありやま かねたか、1904年〈明治37年〉4月26日 - 1992年〈平成4年〉5月5日)は、日本の物理学者。専門は物性物理学。名古屋大学名誉教授。第12期日本物理学会会長。位階勲等は従三位勲二等旭日重光章。 1904年4月26日、東京にて生まれた。1928年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後1年で大学院を中退し、東京工業大学で助手・講師を務めた。1933年3月から1936年3月まで、文部省在外研究員として、ゲッチンゲン、ミュンヘン、ライプツィヒ、コペンハーゲンに留学した。帰国後、理化学研究所の仁科芳雄研究室の助手に着任し、のちに学習院大学の教授に異動した。1942年4月、名古屋帝国大学理学部の創設に伴い、同大学の物理学科の教授に転任した。
生汐 左衛門(いくしお さえもん、1904年4月26日 - … 生汐 左衛門(いくしお さえもん、1904年4月26日 - 没年不明)は、福岡県柳川市出身で、陸奥部屋に所属した元大相撲力士。本名は近藤 儀一郎。最高位は十両6枚目。 陸奥部屋に入門し、1923年1月序ノ口に就く。1932年5月十両に昇進。十両は2場所とも負け越しに終わった。1935年5月廃業。
森 薫(もり かおる、1904年(明治37年)4月24日 -… 森 薫(もり かおる、1904年(明治37年)4月24日 - 1986年(昭和61年)9月18日)は、日本の実業家である。出身地は大阪府。神戸電鉄の会長、阪急電鉄・北大阪急行電鉄の社長を務めた。 大阪府出身。宗太郎の息子。 1928年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、当時の新京阪鉄道に入社した。当時、新京阪を含む京阪電気鉄道グループは事業の拡張のため多くの大学・専門学校卒業生を採用しており、森もその一人だった(戦後、京阪の社長を務めた青木精太郎は同じ京大電気工学科を卒業して同期で京阪に入社している)。新京阪の京阪への合併、京阪と阪神急行電鉄の合併による京阪神急行電鉄の発足と京阪の再分離を経て、阪急電鉄に就職した。
樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月2… 樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月24日 - 1964年(昭和39年)3月19日)は、昭和中期のラテン文学、西洋古典学研究者。慶応義塾大学教授。日本西洋古典学会委員。オウィディウス『アルス・アマトリア』の訳者。
細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23… 細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1980年〈昭和55年〉11月3日)は、日本の内務官僚。内閣官房副長官。 群馬県山田郡桐生町横山(現・桐生市横山町)出身。細谷信次郎の長男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、第一高等学校を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、内務省に入省し警視庁警部補となる。 以後、警視庁警務課教養係長、大塚警察署長、渋谷警察署長、地方警視・静岡県警察部刑事課長、岡山県警察部特別高等警察課長、興亜院事務官・政務部第三課勤務、警視庁警視・労働課長、兼警視庁事務官・調停官、地方警視・京都府警察部特別高等警察課長、千葉県官房長、四国地方総監府副参事官、香川県部長・警察部長などを歴任。
連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日… 連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1986年〈民国75年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国国民党所属で、第1期(中国語版)国民大会代表、台北県長、内政部長などを歴任した。日本統治下台湾の台南庁(現:台南市)出身の本省人。字は定一。歴史学者の連横(中国語版)は父で、中華民国副総統、中国国民党主席などを歴任した連戦は長男。 1904年(明治37年)、台南庁(現:台南市)で生まれる。板橋林家の林熊徵(中国語版)から資金援助を受けて内地の慶應義塾大学経済学部に進学し、1929年(昭和4年)に卒業した。台湾に戻ると昭和新報に入社した。 1931年(昭和6年)4月10日、父の連横が中国国民党・国民政府の元老であり旧友の張継に手紙を書き、連震東に対し「台湾を解放したければ、まず祖国を建設しなければならない。
梅津 はぎ子(うめづ はぎこ、1904年〈明治37年〉4月2… 梅津 はぎ子(うめづ はぎこ、1904年〈明治37年〉4月22日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、日本の労働運動家。紡績工での過酷な労働を経て、戦前の紡績工の女性従業員たちの労働の実態を代弁し、何度も検挙されながらも、大正期から昭和期にかけての社会運動で活躍した。高知県高岡郡高岡町(後の土佐市)出身、旧姓は中平。別名は梅津 萩子。 幼少時に両親が離婚後、親戚の養女となった。尋常小学校時代より、子守り奉公などで苦労を重ねた。結婚話が持ち上がったが、気が進まずに家を出た。女中や製紙工場で働いた後、1921年(大正10年)、保土ヶ谷にある富士瓦斯紡績の工場に勤めた。 当時の富士紡は最盛期で、全従業員は約1500人の内、8割近くが女性、大半が出稼ぎの十代の少女であった。
打木 村治(うちき むらじ、1904年4月21日 - 199… 打木 村治(うちき むらじ、1904年4月21日 - 1990年5月29日)は、日本の小説家・児童文学作家。本名、打木 保(うつぎ たもつ)。 大阪府に生まれ、父の病気により、母の実家があった埼玉県比企郡唐子村(現・東松山市)で育つ。早稲田大学政治経済学部卒。大蔵省勤務のおりに知り合った川端康成に才能を認められ、文学活動に入り『作家群』を主宰した。その後、『文芸評論』への関りから1936年(昭和11年)にコム・アカデミー事件で検挙されるも、翌1937年(昭和12年)には『部落史』で芥川賞候補となった。昭和初期の不況を背景に資本主義下にあえぐ農村、都会の下層の人々を描き、農民文学作家の地位を築く。
秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 198… 秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 1988年11月14日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の詩人、アナキスト。終戦まで局(つぼね)清のペンネームを用いる。 1904年、福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれる。小倉中学(現・県立小倉高)を経て日本大学中退。1924年創刊のアナーキズム系の詩誌『詩戦行』に参加。1930年、小野十三郎と『弾道』創刊。第二次世界大戦後、1946年、金子光晴、岡本潤、小野十三郎とともに詩誌『コスモス』を創刊。アナキスト連盟や新日本文学会常任委員の活動のかたわら、『新日本文学』、『現代詩』に詩や評論を発表。詩史や自伝、作家論などの著作も多い。
栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月2… 栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月20日 - 1961年(昭和36年)1月17日)は、日本の俳人、小林一茶研究家。本名は神林 新治(かんばやし しんじ)。須坂市名誉市民。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市東横町)の農業・繭糸商の家に生まれる。小諸市出身の臼田亜浪に師事。実作者の立場から小林一茶を研究し、軍隊入営中に『一茶新考』を出版するなど、書物を数多く発表。1946年(昭和21年)、郷里の長野県須坂町で俳誌『科野』(しなの)を創刊し、『信濃毎日新聞』俳壇選者を長く担当するなど、信濃俳壇の中心となって活躍した。一茶研究により日本俳文学会会員に推挙される。1961年死去。
石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日 - 197… 石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日 - 1979年5月9日)は、日本の裁判官(第5代最高裁判所長官)、剣道家(第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家)、「英霊にこたえる会」初代会長、「元号法制化実現国民会議」初代議長。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。 福井県福井市生まれ。父は福井県庁職員。祖父の石田磊は福井商工会議所初代会頭、第九十二国立銀行頭取、福井市議会議長であった。 福井中学校在学中、父が46歳で他界し、一家で上京。錦城中学校を卒業し、1920年(大正9年)、旧制第一高等学校に進学。 東京帝国大学法学部を卒業する。 卒業後は司法省に入省。最高裁判所長官を務め、1973年5月定年退官。
福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006… 福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006年8月14日)は、日本の昭和期の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。現在の経世会の祖先にあたる周山会の一味だった。 愛知県蒲郡市出身。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)を卒業後、商工省に入省。官僚生活を経て1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧愛知5区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で出馬し初当選した。保守合同後は自民党に所属し、通算当選6回。文部・運輸政務次官などを歴任した。1973年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。1975年からは参議院議員を1期務めた。
梶浦 正之(かじわら まさゆき、1903年(明治36年)5月… 梶浦 正之(かじわら まさゆき、1903年(明治36年)5月20日 - 1966年(昭和41年)12月12日)は日本の詩人。 愛知県海部郡佐織町勝幡(現・愛西市)に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学経済学部を卒業する。 早くから雅趣溢れる象徴詩を『明星』、『日本詩人』、『詩聖』などに発表し、1921年(大正10年)に『飢え悩む群れ』を刊行し、1925年(大正14年)に刊行した『鳶色の月』によって詩壇に確固たる地位を得た。その後、1935年(昭和10年)代に入ると新現実派を主唱し、詩誌『詩文学研究』を発行する。
田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉… 田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の地主・実業家。神奈川県多額納税者。東土地合名会社代表社員。早稲田大学評議員。 神奈川県横浜市中区中村町、田辺郷左衛門の三男、あるいは四男。1925年、早稲田大学専門部法律科卒業。1936年、家督を相続。貸地業を営む。1938年、蒙疆連合委員会の招聘に応じ渡蒙し、蒙古聯合自治政府嘱託となる。 趣味は自然科学研究、音楽、読書、旅行。宗教は真言宗。住所は神奈川県横浜市中区中村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月… 大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。峰崎部屋→片男波部屋→伊勢ノ海部屋→花籠部屋所属。本名は木越 信哉。最高位は十両2枚目。 秋田県北秋田郡田代町(現大館市)出身。1920年5月初土俵を踏む。1925年1月十両に昇進。番付を上げ、1926年1月には西十両2枚目まで進んだが、この場所で負け越してからは番付を下げ、1927年1月に幕下に落ちた。1927年10月再十両、この場所と翌場所も負け越し、再び幕下に落ちた。1928年5月に十両復帰。連続6場所務めた後、1930年1月幕下に落ち、同年10月に廃業した。 甥は伊勢ヶ濱部屋の元十両力士の大矢崎武男。
島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月1… 島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の華族。玉里島津家第3代当主。位階・勲等・爵位は正三位勲一等公爵。第8代日本赤十字社社長、結核予防会会長などを歴任した。 1903年(明治36年)5月19日、島津忠済の長男として、東京市麹町区三年町に生まれる。学習院女子部幼稚園に入る。学習院初等科、中等科、高等科を卒業。1915年(大正4年)、初等科在学中に父・忠済が58歳で死去して、家督を継ぐ。 1926年(大正15年)、京都大学文学部に入学、のち法学部に移り、在学中に結婚し、1930年(昭和5年)に卒業。同年、日本赤十字社本社に「社会事業調査の嘱託」として入社し、調査部に勤務。
酒井 恒(さかい つね、1903年5月19日 - 1986年… 酒井 恒(さかい つね、1903年5月19日 - 1986年2月22日)は、日本の動物学者。蟹の研究で知られる。 神奈川県足柄上郡大井町金手出身。1924年(大正13年)神奈川師範学校卒。1929年(昭和4年)東京高等師範学校理科三部卒。1932年(昭和7年)東京文理科大学文理学部動物学科卒。1939年(昭和14年)「日本産蟹類の研究」で京都帝国大学理学博士。1932年(昭和7年)東京文理科大学附属下田臨海実験所助手、1938年(昭和13年)岐阜県女子師範学校教諭、1943年(昭和18年)神奈川師範学校教授、1949年(昭和24年)横浜国立大学学芸学部教授。1954年(昭和29年)から翌1955年までと1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)まで学芸学部長を二度務め、1954年(昭和29年)から翌1955年(昭和30年)まで横浜国立大学学芸学部理科教育岩実験所(真鶴理科教育実験所の前身)所長を務め、69年定年退官。
恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36… 恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36年〉5月16日 - 1995年〈平成7年〉3月23日)、のちに賀陽 敏子(かや としこ)は、日本の旧皇族。賀陽宮恒憲王の妃。九条道実公爵令嬢。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。戦後皇籍離脱。
太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月1… 太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月16日 - 1956年(昭和31年)3月21日)は、日本の検察官、司法官僚、弁護士。 東京出身。東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所検事、司法省刑事局第六課長、司法省会計課長、甲府地方裁判所検事正、満州国司法部刑事司長を歴任し、1944年、大審院検事となった。 この間、司法省刑事局第六課長時代の1941年、治安維持法改正に関わり、長年の懸案事項であった予防拘禁制を立案し盛り込んだ。さらに国防保安法の立案立法化も手がけた。また、ゾルゲ事件捜査に関わった。 塩野季彦を頂点とする思想検事の主流「塩野閥」において、佐藤祥樹、岸本義広、佐野茂樹らとともに「塩野閥四天王」の一人に数えられ、戦後も岸本派はその実、太田派とされた。
守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 19… 守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 1993年3月11日)は、日本の法学者(英米法)。法学博士(中央大学・論文博士・1962年)。中央大学名誉教授。元中央大学学長代理。勲三等旭日中綬章受章。高柳賢三門下。 東京出身1929年東京帝国大学法学部卒業。1933年同大学院(旧制)法学研究科修了。1935年中央大学法学部教授。1936年イギリス・ケンブリッジ大学、アメリカ・ハーバード大学に留学。1948年中央大学予科長。1951年中央大学評議員(~1972年)。1952年中央大学学生部長。1954年中央大学通信教育部長。1966年日本比較法研究所所長(~1972年)。1968年中央大学学長事務取扱。
市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 … 市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 - 1972年12月4日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。 長野県長野市出身。明治大学を卒業し、1922年に信濃毎日新聞社に入社。 1934年に読売新聞社に転じ、1950年に北海タイムス主筆を経て、1958年1月から1961年4月までに長崎新聞社社長を務めた。 1972年12月4日、肺炎で死去した。69歳没。
叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15… 叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、天台宗の僧侶。千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。無動寺谷明王堂輪番、比叡山延暦寺執行として弟子育成と比叡山の復興に尽力、叡山の傑僧と言われた。 愛知県丹羽郡豊富村(現、一宮市千秋町)の伊藤家の二男として生まれる。1910年(明治43年)、7歳で愛知県西春日井郡賢林寺において密蔵院中村勝契大僧正について得度。同年、愛知県龍光寺住職稲田祖珪の養子となり、名を賢一から祖賢と改名する。 1918年(大正7年)、愛知県の中学校から、比叡山中学校に転校する。1922年(大正11年)、天台宗西部大学に入学。
早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5… 早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5月14日 - 1990年〈平成2年〉6月16日)は、日本の実業家。昭和石油第3代社長。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の石油精製業・早山与三郎の長男として出生、新潟県新潟市白山浦2丁目(現 新潟市中央区白山浦2丁目)に転居。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 父の早山与三郎が新潟市関屋大川前で営む早山製油所で石油精製業に従事、日米礦油新潟製油工場や早山製油所川崎工場を経て、1932年(昭和7年)6月に日米礦油取締役に就任、1933年(昭和8年)2月から不二商事監査役を兼任。
草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月1… 草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は、日本の詩人。福島県石城郡上小川村(現・いわき市小川町)出身。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 慶應義塾普通部を中退、中国広東の嶺南大学芸術科に学んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に逸見猶吉創刊の詩誌「歴程」に参加。その後、日本の傀儡政権である南京の汪兆銘政府の宣伝部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に体制的思想の影響を指摘する評もある。戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育て、蛙を愛した。 1903年(明治36年)5月12日、福島県石城郡上小川村に、父・草野馨、母・トメヨの次男として生まれる。
栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 199… 栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 1998年6月12日)は、日本の中国哲学研究者、中国学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、茨城県水戸市で生まれた。第一早稲田高等学院を卒業し、早稲田大学文学部西洋哲学専攻に進学。戸川行男と共に津田左右吉の講義を受講したことを機に、以後、津田に師事。 1933年に早稲田大学文学部助手となった。1937年から2年間北京に留学。1939年に帰国し、早稲田大学文学部専任講師に昇格。1948年に早稲田大学文学部教授となった。1974年に早稲田大学を退職し、名誉教授となった。1998年に死去。 近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者として知られ、特に中国古代思想の分野で優れた業績を上げた。
荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)… 荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)5月9日 - 1983年11月2日)は、日本の英文学者、関西学院大学教授、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)教諭。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー研究の第一人者。 滋賀県彦根市生まれ。1928年、関西学院大学文学部英文学科卒業。青森県弘前市・東奥義塾を経て1930年、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)の英語教諭となる。1946年、関西学院専門部教授、1969年、同商学部教授を退職し神戸海星女子学院大学英文学科教授となる。1981年同大を退職。 1928年に太田晃子と結婚後、1男5女をもうける。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などの研究で知られる。
相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986… 相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986年11月7日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 山形県鶴岡市に相良守一の次男として生まれる[要出典]。荘内中学校を経て[要出典]、1925年水戸高等学校理科甲類卒業。1929年東京帝国大学文学部心理学科卒業、同文学部副手。1936年成城高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部心理学科助教授、1952年同教授。1952年『逆向抑制の心理学的研究』で文学博士。1964年定年退官、名誉教授。1964年東京女子大学文理学部教授、1969年同大学退職。このほか、湘南工科大学、文教大学の各教授を務めた。 1961年から1964年まで日本心理学会会長を務める。
松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5… 松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5月8日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は、大日本帝国海軍の技術大佐。勲四等瑞宝章受章。
江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 198… 江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 1987年4月2日)は、北海道札幌市生まれの実業家、スケート選手。 明治36年(1903年)札幌生まれで豊水小学校卒。大正7年(1918年)にスケートを始め、大正13年(1924年)ロシアのフィギュアスケートの極東大会で優勝。その後アイスホッケーを始める。 1928年ウラジオストックロシア語学校高等科を卒業した後、貿易会社の清水貿易に就職、ウラジオストック支社長を務めた。 昭和14年(1939年)にトレーニング中のアクシデントから敗血症にかかり左足切断。その後は後進の育成に力を注ぎ、昭和58年(1983年)東京都アイスホッケー連盟会長に就任。
丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 199… 丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 1990年5月25日)は、日本の社会評論家。婦人問題評論家。 生年については、1904年説があるが、没後の集いで井出孫六が「1903年に生まれ」と言っている。 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。生まれ。本名・石井ひで。政治家の井出一太郎、医学者の井出源四郎、作家の井出孫六、共同通信社論説委員長の井出武三郎は異母弟。生母が幼くして死去したため養女に出され、のち生母の実家で祖父母に育てられた。 長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務、組織拡充のため全国の農村を回り、1937年、『日本農村婦人問題』を刊行。
前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 … 前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、日本の銀行家。秋田銀行頭取・会長および相談役を務めた。 商法学者前田庸(学習院大学名誉教授)の父。 福島県大沼郡高田町(現在の会津美里町)に、前田寅三郎の長男として生まれた。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、旧・秋田銀行に入行する。秋田・福島各支店支配人を歴任し、1946年(昭和21年)10月、常務に選任された。 1959年(昭和34年)には、鈴木直吉の後を受け頭取に昇格した。 頭取在任時は、店舗の県内外への新設や再編に取り組んだほか、現本店ビルの竣工や事務センタービルの建設、オンラインシステムの稼働、さらには東証2部上場の実現など経営の近代化を推進した。
矢島 祐利(やじま すけとし、1903年〈明治36年〉5月2… 矢島 祐利(やじま すけとし、1903年〈明治36年〉5月2日 - 1995年〈平成7年〉8月12日)は、日本の科学史家。 1903年、栃木県安蘇郡界村(現:佐野市)に生まれる。中学卒業後、一高(旧制)を経て、東京帝国大学に入学。中村清二、寺田寅彦、田丸卓郎の指導を受ける。1926年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学工学部講師を経て、1941年から1945年まで京城帝国大学教授。日本に引き揚げ後はGHQに勤務。1949年より東京物理学校講師、のち校名変更で1950年より東京理科大学教授。1969年「電磁理論の発展史」で東京理科大学より理学博士の学位を取得。1973年、定年退職。東京理科大学名誉教授、国際科学史アカデミー会員。
大道 安次郎(だいどう やすじろう、1903年5月1日 - … 大道 安次郎(だいどう やすじろう、1903年5月1日 - 1987年1月11日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。関西学院大学教授。初代社会学部長、図書館長。 福井県敦賀市出身。旧制敦賀商業学校(現福井県立敦賀高等学校)首席を経て、1927年関西学院高等商業学部(現関西学院大学)卒。同時に九州帝国大学へ進学し、1930年高等商業学部講師に就任。以後、助教授、教授となり、19944年、旧制大学法文学部教授に移籍。新制大学後、文学部教授となり、1960年の社会学部設立に際して中心的役割を果たし、初代社会学部長に就任。1972年定年退職。だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。
三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月… 三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月1日 - 1964年 <昭和39年> 9月21日)は、日本の医師、政治家。岡山県知事。位階は正三位。勲二等瑞宝章。水島臨海工業地帯の誘致など岡山県の発展に貢献したことが認められ、日本人で初めてマグサイサイ賞を受賞した。 マグサイサイ賞の受賞金は郷土の発展に役立てたいとの考えから副賞1万米ドル全額が県に寄付され、この受賞金と県民からの寄附金を中心に岡山県三木記念事業基金が1965年に設置された。 また岡山県下にアイバンクを設置して自ら第1号の登録者となったことから、二人の女性に三木の角膜が移植された。 亡くなった時、私財は着ていた服と眼鏡だけだったといわれる。
鹿地 亘(かじ わたる、本名:瀬口貢(せぐち みつぎ)、19… 鹿地 亘(かじ わたる、本名:瀬口貢(せぐち みつぎ)、1903年5月1日 - 1982年7月26日)は、日本の小説家。大分県西国東郡岬村(現・豊後高田市)出身。東京帝国大学国文科卒業、東京帝国大学大学院博士課程修了。妻は池田辛子。 東京帝国大学在学中から文学と社会運動に関心をもち、林房雄や中野重治たちと社会文芸研究会(のち、マルクス主義芸術研究会に改名)を運営した。大学の外でも、プロレタリア文学運動に参加し、1930年に『労働日記と靴』で注目を浴びる。ただ、当時は文学をプロパガンダに使うことを重視していた傾向があった。1932年に日本共産党に入党。 1934年に治安維持法違反で検挙された後、獄中で転向して出獄。
国松 久弥(國松 久彌、くにまつ きゅうや、1903年5月1… 国松 久弥(國松 久彌、くにまつ きゅうや、1903年5月1日 - 1986年4月14日)は、日本の経済地理学者。茨城大学名誉教授。 弟は独文学者の国松孝二。 千葉県船橋町(現船橋市)生まれ。1926年東京帝国大学経済学部卒。1931年上智大学講師、38年大東文化学院講師、1941年明治学院講師、1946年巣鴨経済専門学校教授、1949年千葉工業大学教授、1950年大東文化大学教授兼任、1952年茨城大学教授、69年定年退官、名誉教授、専修大学教授、金沢経済大学教授。
11代目 濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ、1903年5月1日… 11代目 濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ、1903年5月1日 - 1987年2月23日)は、日本の経営者。ヤマサ醤油株式会社社長を務めた。 1903年(昭和36年)5月1日、和歌山県に濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の長男として生まれた。出生名は濱口勉太。濱口儀兵衛家は代々濱口儀兵衛商店を経営する旧家であり、濱口梧洞の代にはヤマサ醤油株式会社が設立された。弟には版画家の浜口陽三、ヤマサ醤油会長の浜口義郎、菊正宗酒造当主の嘉納毅六などがいる。 和歌山県出身。1927年(昭和2年)に東京帝国大学経済学部を卒業。日清製粉での勤務を経て、1928年(昭和3年)10月に生家のヤマサ醤油株式会社に転じ、1931年にはアメリカ合衆国を視察した。
内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 198… 内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 1980年10月6日)は、日本の経営者。富山県高岡市出身。 1927年に東京商科大学を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年に日本麦酒(のちのサッポロビール)に移り、東京支店長、理事、取締役を経て、1961年に常務に就任し、1967年2月に副社長に就任した。1971年2月に社長に昇格し、1973年2月には会長に就任した。 1980年10月6日台湾台北市で旅行中に脳溢血のために死去。77歳没。
山辺 六郎(山邊 六郎、やまべ ろくろう、1903年5月1日… 山辺 六郎(山邊 六郎、やまべ ろくろう、1903年5月1日 - 1983年1月18日)は、日本の会計学者。 東京市浅草区生まれ。1931年東京商科大学(現一橋大学)卒、1961年「原価計算論 管理会計としての原価計算」で一橋大学より商学博士の学位を取得。1931年横浜専門学校教授、1935年長崎高等商業学校教授、1949年学制改革により長崎大学経済学部教授となり、1950年横浜国立大学経済学部教授兼横浜経済專門学校教授兼九州大学講師兼長崎経済專門学校講師、1951年企業会計基準審議会臨時委員、1953年公認会計士審査会(第二次)試験委員、1963年学部長、1966年定年退官し名誉教授、1969年青山学院大学教授、1972年亜細亜大学教授となる。
石原須磨男(いしはら すまお、1903年5月1日 - ?)は… 石原須磨男(いしはら すまお、1903年5月1日 - ?)は、日本の俳優。兵庫県神戸市出身。 当初は、「石原須磨夫」名義で活動しており、中学を中退した後の1921年(大正10年)に新声劇に入団。後に、女優・栗島すみ子の父にあたる栗島狭衣に師事して栗島プロに参加。1930年(昭和5年)、松竹下加茂撮影所に入社、1932年12月の『忠臣蔵 前篇〜赤穂京の巻〜』にて初出演。 1947年大映に移籍。以後、『お遊さま』(1951年)『近松物語』(1954年)『山椒大夫』(同)などの溝口健二監督作品や時代劇で高齢者役を演じ、大映倒産後は『木枯らし紋次郎』(1972年)などテレビにも多数出演。 記録上最後の出演作は『丹下左膳 剣風!百万両の壺』(フジテレビ、1982年10月22日放送)だったとされている。
橋本 五郎(はしもと ごろう、1903年5月1日 - 194… 橋本 五郎(はしもと ごろう、1903年5月1日 - 1948年5月29日)は日本の探偵小説家。代表作に「疑問の三」など。荒木 十三郎(あらき じゅうざぶろう)、女銭 外二(めぜに そとじ)などの名義でも小説を発表した。本名は荒木稔。 岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)出身。 1926年(大正15年)、『新青年』の懸賞小説に、橋本五郎名義で「レテーロ・エン・ラ・カーヴォ」が、荒木十三郎名義で「赤鱏のはらわた」が入選。これが森下雨村に評価され、博文館に入社する。『朝日』『新青年』『文芸倶楽部』などの編集を務めるかたわらで小説を発表していたが、1932年(昭和7年)、父親が死去したため博文館を退社して帰郷。
川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4… 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。 妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。 名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。
印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2… 印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本の演出家、演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。 長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。 演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。
佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 19… 佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 1964年7月7日)は、日本の経営者。東京都出身。 1928年に東京帝国大学応用化学科を卒業。旭硝子、三菱化成工業での勤務を経て、1950年に日本化成工業常務に就任し、1958年3月に三菱化成工業副社長を経て、1963年9月には社長に就任した。 1964年7月7日胃潰瘍のために社長在任時死去。61歳没。
北野 重雄(きたの しげお、1903年〈明治36年〉4月29… 北野 重雄(きたの しげお、1903年〈明治36年〉4月29日 - 1990年〈平成2年〉3月16日)は、昭和時代の日本の商工官僚、政治家。群馬県知事。勲一等瑞宝章・従三位[要出典]。 1903年(明治36年)大阪府に北野種次郎の長男として生まれる。1923年(大正12年)旧制第三高等学校を卒業。1925年(大正14年)高等文官試験に合格。翌1926年(大正15年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、商工省に入省。鉱山・商務・工務各局事務官、企画院書記官、商工省転業対策部総務課長、振興部総務課長兼金融課長、満洲国経済部鉱山司長、商工省物価局第一部長、総務局総務課長、軍需省文書課長、石炭部長、東部地方鉱山局長、商工省鉱山局長などを歴任。