東 庄太郎(ひがし しょうたろう、1901年(明治34年)4… 東 庄太郎(ひがし しょうたろう、1901年(明治34年)4月15日 - 1945年(昭和20年)3月17日戦死認定)は、日本の軍人。硫黄島の戦いで小笠原兵団の高射砲隊を指揮した。最終階級は陸軍少佐、玉砕後大佐に二階級特進。 奈良県宇陀郡宇賀志村(現・宇陀市)佐倉出身。 1921年(大正10年)12月、伏見野砲兵第22連隊に現役入営。1930年(昭和5年)時点で本部附陸軍軍曹。1935年(昭和10年)、少尉候補者15期生として陸軍士官学校卒業。1936年3月、砲兵少尉。1937年(昭和12年)2月、陸軍野戦砲兵学校に入学(高射砲学生)。8月、千葉県柏市の高射砲第2連隊(第77部隊)に転じ、さらにその10日後、近衛師団第7高射砲隊に転じ、上海に上陸。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
小川 鼎三(おがわ ていぞう、1901年4月14日 - 19… 小川 鼎三(おがわ ていぞう、1901年4月14日 - 1984年4月29日)は、日本の解剖学者・医史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。元日本医史学会理事長。大分県出身。 1901年、大分県杵築町で生まれる。三高、東京帝国大学医学部卒業。東北帝国大学助教授、東京帝国大学助教授、1944年教授。東京大学教授を62年に定年退官、名誉教授、順天堂大学教授、順天堂大学医学部医史学研究室を創設した。1934年、医学博士(東北大学)(学位論文:「水棲哺乳動物の中枢神経系に関する知見補遺 (独文)」)取得。 1951年「小細胞性赤核の機能解剖学研究」で日本学士院賞受賞。1964年『医学の歴史』で毎日出版文化賞受賞。
山中 正夫(やまなか まさお、1901年4月14日 - 19… 山中 正夫(やまなか まさお、1901年4月14日 - 1989年2月3日)は、日本の経営者。三菱セメント社長、三菱鉱業セメント会長を務めた。福岡県築上郡築城町出身。位階は正四位。 1925年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1950年に取締役に就任し、1954年に三菱セメント常務、1957年5月に副社長を経て、1958年5月には社長に就任。1973年5月に三菱鉱業セメント会長に就任し、同年11月には相談役に就任。 1966年4月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年2月3日呼吸不全のために死去87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月… 小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月13日 - 1996年(平成8年)8月29日)は、日本の歴史学者。成蹊大学名誉教授。愛知県出身。 1901年(明治34年)、愛知県愛知郡天白村(現在の名古屋市天白区)に小島万太郎の子として生れる。1919年(大正8年)に愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業、1923年(大正12年)3月に神宮皇學館本科を卒業と同時に神宮文庫司書兼神宮皇學館助手に任じられる。同年12月、一年志願兵として名古屋歩兵第六連隊に入隊、終えて東京帝國大學史料編纂業務嘱託、その後同大学史料編纂官補。 小島家は代々、熱田神宮大宮司領の庄屋として村方役をつとめ、父も鉦作が熱田神宮の神職になることを期待していた。
佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 … 佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 - 1936年4月10日)は、日本の地理学者。民俗学・経済学・社会学的な研究を加味して人文地理学を追究した。1930年前後に目覚ましく活躍するものの、36歳で亡くなり、研究生活は10年間にとどまった。 1901年、秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)で生まれる。幼くして父母を亡くし、祖母に育てられる。小学校卒業とともに広島県呉市に住む叔父にひきとられ、広島県立呉中学校(現在の広島県立呉三津田高等学校)で学ぶ。卒業後は第二高等学校(現在の東北大学)文科に入学した。休日ごとに仙台の周辺を歩いたという。卒業後は東京帝国大学理学部地理学科に進み、山崎直方・辻村太郎・多田文男らの指導を受ける。
安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月1… 安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月13日 - 1974年 <昭和49年> 6月24日)は、日本の経営者。大分県別府市出身。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1926年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。藤本ビルブローカー銀行での勤務を経て、1943年に大和証券に転じ、1948年に取締役に就任した。常務、専務、名古屋支店長を経て、1958年11月に副社長に就任し、1963年4月に社長に昇格し、1970年11月までに務めた。経済団体連合会常任理事も務めた。 1974年6月24日脳出血のために死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙され、勲二等旭日重光章を追贈された。
柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 … 柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 - 1979年1月20日)は、新潟県古志郡(現在の長岡市)出身で山科部屋に所属した大相撲力士。本名は青柳 政一。身長174cm、体重86kg。関脇まで昇進したが、現役引退後は廃業してしまった。 最盛期でも86キログラムという軽量だったので、最初は新弟子検査にも通らなかったが、増量して合格、山科部屋から1917年1月場所に初土俵を踏んだ。昇進は順調で、1921年5月場所には新十両、1922年5月に入幕した。出足を利用しての吊り技が得意であった。新入幕の場所に7勝2敗1預と健闘し、幕内上位に進出。新小結となった1924年5月場所には、横綱西ノ海と預りの熱戦を含め7勝3敗1預の好成績をあげ、翌1925年1月場所には関脇に昇進した。
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月… 鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校(49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古」分隊長、アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。 軍令部出仕、「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。
勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 198… 勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 1984年1月13日)は、日本の作家・思想家である。パリ、モスクワに滞在中フランス共産党員、ソ連共産党員として活動し、大粛清に遭遇してラーゲリに収容されながら、日本への帰国を果たした。21世紀においては、大粛清に対する先駆的批判者として「日本のソルジェニーツィン」と紹介されることもある。 長野県木曽郡読書村(現南木曽町)に生まれる。島崎藤村とは旧知であり、若いころから文学に憧れた。1914年旧制愛知一中に入学。1919年早稲田大学に入学し、フランス文学、ロシア文学を専攻する。在学中の1924年(大正13年)、フランスに留学、パリ大学で学び、フランス共産党に入党した。
川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9… 川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月24日)は、日本の文学研究家。愛知県出身、関西大学卒業。 関西大学大学院でアメリカ・イギリス文学研究を納めた後、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけてアメリカ合衆国のロチェスター大学、ケンブリッジ大学で比較文学研究を納めた。 1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)まで、アメリカの大学で客員教授として教壇に立った。帰国後は関西大学、大阪商業大学、関西学院大学の講師を歴任。日本国内外で日本文学、特に石川啄木の生涯と文学についての講義を行なった。一方で啄木や有島武郎の研究家としても知られ、資料の発掘に貢献、啄木研究の最長老ともいわれた。
岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1… 岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1971年2月27日)は、日本の伊文学者。日本ファシズム連盟創設者。 静岡県出身。かつて平塚市長を務めた作家の戸川貞雄の弟。東京外国語学校イタリア語科卒業。本名は「よしたか」(漢字は同じ)。 イタリアのファシズムの台頭に応じてファシズム文学、イタリア文学の翻訳家として活躍。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。戦後は児童文学の再話・翻訳などを多く手掛け、ボッカッチョ「デカメロン」、ダヌンツィオ「死の勝利」などを訳した。「沙漠の秘密」「馬と少年」などの創作童話も書いた。 没後の1988年に、絶版となって久しいボンテンペルリ『わが夢の女』が、ちくま文庫に収められ話題となった(『わが夢の女』は短編集であり、そのうちの1篇「太陽の中の女」が、『ちくま文学の森4 おかしい話』にも所収、新版・ちくま文庫、2010年)。
清水 博春(しみず ひろはる、1901年〈明治34年〉4月8… 清水 博春(しみず ひろはる、1901年〈明治34年〉4月8日 - 1931年〈昭和6年〉3月1日)は、日本の戦前の華族。男爵、備中清水氏。 1901年(明治34年)4月、公爵伊藤博邦の二男として生まれる。男爵清水資治の養子となり、1923年(大正12年)に家督を相続する。1926年(大正15年)に法政大学法学部を卒業し、王子製紙に勤める。 1931年(昭和6年)2月28日に神奈川県逗子町の自宅から家出して行方不明となり、翌3月1日に愛知県名古屋市の熱田神宮神域の瓢箪池畔の古木で縊死しているところを発見された。また、同日には夫人と弟の伊藤博通宛てに遺書が郵送されていた。遺体は一旦身元不明として仮埋葬されていたが、後に家族が引き取って火葬し、遺骨は東京に持ち帰られた。
大門 義雄(だいもん よしお、1901年 <明治34年> 4… 大門 義雄(だいもん よしお、1901年 <明治34年> 4月8日 - 1975年 <昭和50年> 5月1日)は、昭和時代の労働運動家。全国一般労働組合委員長。位階は従六位。 富山県西砺波郡戸出町(現高岡市)生まれ。旧姓は安田。幼少時に大門家の養子になった。法政大学専門部中退。1926年上京、1927年東京瓦斯会社(現東京ガス)に入社、東京瓦斯工組合に加盟。1931年東京瓦斯工組合教育出版部長。争議を指導してたびたび検束された。1935年東京瓦斯工組合書記長、1938年執行委員長。1941年東京瓦斯会社を退社、1942年日本曹達勤労部に入社、1942年化学工業統制会に勤務。この間、1929年新労農党創立に参加、1931年全国労農大衆党、1932年社会大衆党の結党で中央委員。
木村東介(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992… 木村東介(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992年3月11日)は美術商。本名は文雄。山形県米沢市出身。建設大臣などを務めた木村武雄は弟。 山形県議会議員を務めた木村忠三の長男として生まれる。 米沢商業学校を中退して上京。やくざな生活や院外団暮らしを続け、一時は憲政公論社に入社。乱闘で片腕を失う。法廷で出会った裁判官の人格と気骨に打たれ改心する。 柳宗悦の指導を受け、1936年、東京・湯島天神下に羽黒洞を創立。肉筆浮世絵、大津絵、泥絵などの民族美術を取り上げる。1960年、上野池之端に不忍画廊(しのばずがろう)を開く(2012年日本橋に移転)。 放浪の画家である長谷川利行の絵画、米沢出身の東洋思想家宮島詠士の書を世に紹介した。
丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 19… 丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 1986年2月28日)は、作家、演出家。 大阪府生まれ。本名・一ノ木長顕(ながあき)。1918年(大正7年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、1922年、旧制・関西学院高等部商科(現・関西学院大学)卒業。 1928年、「芦屋夫人」が「週刊朝日」の懸賞に入選、モダニスムの代表作といわれる。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた。1933年、新妻莞に誘われて宝塚から大毎に社員として入り学芸部に配属されたが城戸事件により短期間で退社。この年に上京し「婦人画報」編集長となる。戦時中、陸軍省情報部長嘱託となったため、戦後一時公職追放。
蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 -… 蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 - 1977年8月12日)は、日本のイスラム学者。東京外国語大学名誉教授。 1901年、島根県生まれ。東京外国語学校を卒業。1925年、東京外国語学校講師となった。その一方で、回教圏研究所でも研究活動を続けた。 太平洋戦争終結後の1950年、東京外国語大学教授に就任。1954年からは東京大学文学部講師を兼任した。1964年に東京外国語大学を定年退官し、名誉教授となった。
松波 直秀(まつなみ なおひで、1901年4月5日 - 20… 松波 直秀(まつなみ なおひで、1901年4月5日 - 2000年6月14日)は、日本の経営者。荏原製作所社長を務めた。東京都出身。 1926年に東京帝国大学工学部機械工科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。1940年6月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1956年12月に専務を経て、1965年1月に副社長に就任し、1970年12月には社長に昇格。1976年4月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1972年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年6月14日老衰のために死去。99歳没。
尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 198… 尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 1985年1月30日)は、日本の通信技術者。富士通の常務取締役、電気通信学会及び情報処理学会の会長などを歴任。 茨城県真壁郡明野に生誕。1923年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。南満州鉄道の鉄道研究所に入社し、電気通信の研究に従事する。1936年、富士通信機製造株式会社に入社。情報・通信の技術開発・研究に従事し、同社の取締役、常務取締役、富士通研究所の代表取締役社長などを歴任。その他、鉄道通信協会の副会長、電気通信学会会長、情報処理学会会長、神戸工業株式会社の取締役社長、富士電機化学株式会社の代表取締役社長なども務めた。 情報・通信分野で技術発展・産業振興に国内外で広く尽力し、国産大型電子計算機の開発にとくに貢献した。
井上 隆治(いのうえ たかはる、1901年4月4日 - 没年… 井上 隆治(いのうえ たかはる、1901年4月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。丸石製薬社長。江崎グリコ取締役。妹の芳江は江崎グリコ創業者江崎利一の長男誠一に嫁いだ。 大阪府出身。1925年3月、東京帝国大学医学部薬学科卒業、薬学士。丸石製薬に入り、1942年、社長に就任。宗教は真宗。趣味は読書、観劇。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日… 中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日 - 1969年(昭和44年)6月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府出身。1929年(昭和4年)早稲田大学英法科を卒業し、さらに同大学院で学んだ。その後、醤油醸造、食料品製造業を営む。 京都市会議員、同参事会員となる。京阪伏見桃山農業会連合会長、京都市開拓協会長、鳳凰醸造監査役、日本食料専務取締役、伏見小運搬取締役社長、近畿砂利社長、京都伏見農業協同組合連合会顧問などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に京都府選挙区から日本自由党公認で出馬して初当選。以後、京都府第2区から出馬して第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した。
中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日… 中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日 - 昭和53年(1978年)2月6日)は、NHKのアナウンサー。 東京府出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、日蘭貿易入社。NHKラジオが放送開始された1925年にNHK入局。二・二六事件で「兵に告ぐ」を担当。NHK業務局告知課長として「淡々調アナウンス」を主導。 NHK国際局亜州部長、理事兼札幌中央放送局長を経て、1950年NHK放送文化研究所所長。1956年に退職後、電波タイムス社社長。1962年藍綬褒章受章。1971年勲四等瑞宝章受章(放送事業功労)。1978年に老衰のため死去し、従五位に叙された。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 199… 井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 1995年7月25日)は、日本の経済学者、東京経済大学学長。 1901年、滋賀県で生まれた。旧制東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進学。しかし東京帝国大学文学部に転学して卒業。 卒業後は、富山高等学校講師となり赴任。翌1925年に教授となったが、1927年に京大事件に連座したとして富山高等学校を辞職した。その後、同年中に日本大学講師となって、1929年まで在職した。 1928年9月、産業労働調査所の所員となった。1931年4月に検挙されたが保釈され、その後岩波書店における『日本資本主義発達史講座』の編集作業に参画し、羽仁五郎、大塚金之助と知り合った。
狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - … 狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - 1981年(昭和56年)10月8日)は、日本の右翼活動家。元拓殖大学理事長。狩野を「かのう」と読むものもある。 1919年(大正8年)、静岡県立静岡中学校卒業。1920年(大正9年)、拓殖大学入学。1922年(大正11年)10月、「魂の会」設立。1924年(大正13年)3月、拓殖大学支那語科卒業。同年、日本新聞入社。1925年(大正14年)、静岡市でカフェー経営(〜1930年(昭和5年)4月)。1925年(大正14年)、静岡聖刃社結成。 1930年(昭和5年)、大川周明の思想に共感し、行地社本部で専任事務、機関誌月刊「日本」の編集発行にあたり、その腹心的役割を果たす。
長部 謹吾(おさべ きんご、1901年4月1日 - 1991… 長部 謹吾(おさべ きんご、1901年4月1日 - 1991年12月8日)は、新潟県出身の検察官。最高検察庁次長検事、最高裁判所判事を務めた。小説家・黒井千次(本名・長部舜二郎)は次男。孫にフジテレビプロデューサーの長部聡介。 1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部独法科を卒業。いったん日本興業銀行に入ったが「性に合わない」と2ヶ月で退職した。1926年(大正15年)4月に司法官試補、1927年(昭和2年)12月に検事となり、大審院検事などを務め、1951年(昭和26年)2月に長野地検検事正となる。 その後、東京高検次席検事となり、次いで最高裁検事、高松・広島両高検検事長を務める。東京高検次席検事は造船疑獄にぶつかったが胃潰瘍の手術のため病床にいて殆どタッチしなかった。
山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月… 山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月31日 - 1981年(昭和56年)11月25日)は、昭和期の作曲家。岐阜県養老町出身。 東洋音楽学校ピアノ科卒業。 1921年(大正10年)、 松竹映画管弦楽団にピアノ奏者として入団。昭和の初期に、杉山長谷雄に師事し、作曲の勉強を始める。その後、松竹を退社し、フリーの作曲家になる。1945年(昭和20年)、キングレコード専属作曲家となる。 1955年(昭和30年)、作詞家藤間哲郎と組み、三橋美智也の初ヒット曲「おんな船頭唄」を作曲した。以後、三橋美智也と共に「佐渡おけさ」「ソーラン節」「花笠音頭」等多くの歌謡民謡も世に送り出す。その後も、「男のブルース」や「長良川旅情」などヒット曲を作曲した。
門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年… 門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の実業家、政治家、宗教家。 学習院大学名誉教授門脇卓爾の父。 鳥取県西伯郡所子村(現:大山町)の豪農の家(門脇家住宅として現存)に生まれる。父・門脇才蔵、母・チヨノの長男。米子中学校を経て、大正13年(1924年)京大修了。 所子村産業組合長、所子村農会長、所子村長を経て米子銀行取締役、鳥取県産業組合連合会理事米子支所長、米子銀行常務取締役を歴任した。1941年(昭和16年)合併により山陰合同銀行取締役に就任した。その後、1946年(昭和21年)に常務取締役となった。1959年(昭和34年)11月6日の株主総会で常務取締役を退任した。
中野 文門(なかの ぶんもん、1901年3月30日 - 19… 中野 文門(なかの ぶんもん、1901年3月30日 - 1988年10月9日)は、日本の政治家。神戸市会議員、兵庫県議会議員、参議院議員(2期)を歴任した。政界引退後は神戸森学園(現在の神戸学院)理事長を務めた。寺院の出身で、福海寺住職の経歴も持つ。 大分県大分郡鶴崎町(現・大分市鶴崎)に、東厳寺住職の長男として生まれる。 1927年に日本大学専門部社会科を卒業後、東京府職員となる。1933年、神戸市会議員に当選。その後、戦争を挟み、神戸市会議員と兵庫県議会議員を同時に務める。(当時は市議と県議の兼任が可能であった。)神戸市会では1947年、兵庫県議会では1955年にそれぞれ議長に就任した。 義務教育を無償とすべきであるとの信念に基づき、清瀬一郎を弁護士として憲法違反訴訟を展開し、大審院で勝訴した。
尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年… 尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年)3月29日 - 1973年(昭和48年)7月24日)は、日本の漁業家、政治家、参議院議員、自由党所属、栄典は正五位・勲三等・瑞宝章・藍綬褒章、幼名は昌作。
羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月… 羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、190… 晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、1901年3月29日 - 没年不詳)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 親族に国会議員が多い。李坰鎬は娘婿、李玲愛(朝鮮語版)は外孫娘、金賛鎮(朝鮮語版)はその夫、孫周恒は甥(姉妹の息子)。 全羅北道任実郡出身。京城中学校、京城法学専門学校、普成専門学校、明治大学高等研究科卒。1922年に日本の弁護士試験に合格後は弁護士を開業した。解放後は大韓独立促成国民会所属の国会議員のほか、大韓独立促成国民会任実郡支部委員長、任実警察後援会長、任実公立国民学校後援会長、任実郡畜産協会長、任実郡厚生協会副会長などを務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙では民国党から出馬したが、当選できなかった。
玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 -… 玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 - 1975年10月25日)は、和歌山県海南市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名山村 佐太郎(やまむら さたろう)。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重105kg。得意手は押し。 1920年1月場所初土俵、1925年1月に十両昇進、一時幕下に陥落したが、1928年3月新入幕をはたした。横綱・宮城山福松に強く、金星を3個獲得している。1932年1月、春秋園事件で脱退。1937年末の関西協会の解散まで現役を続けた。 徹底した押し相撲で、指が変形したほど稽古に打ち込んだ。生涯四つ相撲になったのが二番、打っ棄りを食らったことは一度もなく、「相撲の神様」と呼ばれた幡瀬川が絶賛していた。
王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 199… 王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 1995年8月19日)は、日本の精神医学者。 福岡県議会議長、福岡市議会議長などを歴任した牛乳商・王丸代吉の長男として、福岡県久留米市に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制第六高等学校を経て、1926年、九州帝国大学医学部を卒業し下田光造教授の精神科に入局する。 1929年10月、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)神経精神医学講座開設に際して初代教授に就任し、1946年3月久留米医科大学教授、1950年4月久留米大学医学部教授となり、後に久留米大学医学部長を2期務めている。日本精神神経学会会長、日本精神分析学会会長、九州精神神経学会会長を歴任する。
佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)… 佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)3月27日 - 1943年(昭和18年)5月24日)は、日本の翻訳家。 石川県小松市生まれ。小松中学校を経て金沢第一中学校に転じ、四年修了で第四高等学校に進む。1925年、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。同大学院を経て、日本大学で短期間教える。 1931年9月から1932年11月にかけて第一書房より刊行された『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を訳出。ポーの本格的翻訳として注目を浴びる。その他、ロバート・ルイス・スティーヴンスン『宝島』『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』、チャールズ・ディッケンズ『二都物語』などの訳書がある。肺炎で急死。
佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治… 佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。7年8か月の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された。ノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。吉田学校の代表格。
小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 196… 小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 1969年8月18日)は、日本の経営学者、会計学者。 神奈川県横浜市生まれ。1928年慶應義塾大学経済学部卒、1929年同助手となり、欧米留学を経て1937年助教授、1939年教授、1948年「企業に於ける資本計算制度の発展」で経済学博士の学位を取得。1963年商学部長。1969年定年となり、名誉教授。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23… 寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23日 - 1983年(昭和58年)5月21日)は、日本の実業家、銀行家。寿原産業、北洋相互銀行(現在の北洋銀行)社長を務めた。 石川県出身。1924年に小樽高等商業学校を卒業。1925年に三井銀行に入行。 1947年に寿原産業社長に就任し、1957年から1971年まで北洋相互銀行社長を務めた。 1983年5月21日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - … 福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - 1977年6月13日)は、日本の出版実業家、作家。 北海道小樽市生まれ。松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学社会学科卒。 報知新聞記者などを経て、1943年3月に『日本読書新聞』の発行元であった日本出版文化協会から改組された出版統制組織「日本出版会」の総務部次長兼編集室長となる。同紙は敗戦を待つまでもなく物資の不足と編集部員の応召などにより、1945年5月に休刊した。同年3月には出版用紙の確保のために一括して用紙を荷受する機関として「日本出版助成株式会社」が設立され、同社専務に就任。1946年、同社を日本出版協同株式会社に改組した後に社長に就任した。
吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21… 吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の大正・昭和期の社会主義運動家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、東京外国語学校ロシア語科を中退した。在学中、社会問題研究会を創立、学生連合会に加盟。またML会に入会する。中退後は静岡で青年運動に身を投じる。 1925年(大正14年)、無産政党組織準備静岡県協議会常任書記となる。1927年(昭和2年)、全日本無産青年同盟中央常任書記となり、また日本共産青年同盟に加入した。1928年(昭和3年)三・一五事件で検挙され懲役3年に処せられた。
永井 健三(ながい けんぞう、1901年〈明治34年〉3月2… 永井 健三(ながい けんぞう、1901年〈明治34年〉3月21日-1989年〈平成元年〉7月17日)は、宮城県出身の通信工学者。昭和11年母校東北帝大の教授となり、31年東北大電気通信研究所長。39年東北学院大学教授。テレビの伝送機器、磁気記録機器の研究で知られる。学士院会員。紫綬褒章。 録音技術、交流バイアス方式を発明し、五十嵐悌二とともに国産初のテープレコーダーを開発。交流バイアス法は、データを再生した際の雑音やひずみを抑えることができ、これによって、音声データの長時間録音は実用段階となった。 1925年、東北帝国大学工学部電気工学科を卒業。同時に同大学講師に就任し、抜山平一教授に師事。任官以降、39年にわたって大学在職、その間29年教授、大学附置の電気通信研究所にも30年余兼務。
吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1… 吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1980年2月27日)は、日本の銀行家。近畿銀行社長を務めた。 栃木県宇都宮市出身。1927年に法政大学専門部法科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1944年に近畿無尽に転じ、1945年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1967年4月に会長を経て、1972年には相談役に退いた。 1964年に黄綬褒章を受章し、1971年に勲四等瑞宝章を受章。 1980年2月27日、脳動脈硬化症のために死去。78歳没。
岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4… 岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4月19日 - 2000年 <平成12年> 7月6日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、北海道庁長官。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。岡田吟平の五男として生まれる。第六高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入り東京府属となる。以後、社会局勤務、茨城県事務官、静岡県経済部長、和歌山県総務部長、長崎県総務部長、福岡県書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。 1945年6月、徳島県知事に就任。1947年2月、官選最後の北海道庁長官に就任し、同年4月に退任。1950年6月、北海道開発庁が発足すると、初代次長(事務次官)に就任し、1953年1月に退官した。
椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 198… 椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 1985年1月27日)は、日本の作家。眼科医。本名は藤森 章。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、慶應義塾大学医学部卒業後、1925年同大眼科教室助手となった。その後は満鉄長春医院眼科医長、満鉄撫順医院眼科医長を歴任。 1946年に引き揚げ、東京電力病院眼科医長などを歴任した。 「テノン氏嚢の研究」「ミュッレル氏筋の研究」など眼科研究論文を発表。 大学在学中、本名で正木不如丘主宰の同人誌『脈』に小品を発表。1949年『宝石』に「カメレオン黄金虫」を発表し推理小説作家として登場した。1951年に『宝石』に発表した「扉」が翌年の第5回探偵作家クラブ賞候補作となる。
衣笠 十四三(きぬがさ としぞう、本名小亀 壽三、1900年… 衣笠 十四三(きぬがさ としぞう、本名小亀 壽三、1900年4月17日 - 1976年7月30日)は、日本の映画監督である。おなじく映画監督の衣笠貞之助は実兄である。 1900年(明治33年)4月17日、三重県亀山町(現・亀山市)に生まれる。20歳前後のころは富岡正らと旅芝居をしていた。またそのころ、東京の日活向島撮影所で富岡に溝口健二を紹介されている。 俳優、舞台演出を経て、1933年(昭和8年)、新興キネマ京都撮影所に入社、翌1934年、日活太秦撮影所に移籍、1935年には監督昇進、片岡千恵蔵プロダクション製作の『初祝鼠小僧』で監督としてデビュー、同作は新興キネマの配給で同年12月31日、電気館や新宿大東京などで公開された。
中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、19… 中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、1900年〈明治33年〉4月16日 - 1988年〈昭和63年〉3月27日)は、日本の西洋史学者、アッシリア学者、京都大学名誉教授。日本における古代メソポタミア研究の先駆けの一人で、特にシュメール行政・経済文書の研究で優れた業績を残した。 出身は岡山県倉敷市浅口郡西阿知町(現・倉敷市西阿知地区)。1919年(大正8年)に岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、1922年(大正11年)に第六高等学校、1925年(大正14年)3月に京都帝国大学文学部(西洋史学専攻)を卒業した。同大文学部助手ののち、翌1926年(大正15年)3月、新設の広島高等学校教授に任命された。
山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4… 山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4月15日 - 1986年(昭和61年)2月10日)は、日本画家。文化勲章受章者。本名は山本 正義(やまもと まさよし)。 東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。府立三中、府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。 1936年(昭和11年)、文展に出品した『海の微風』が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞 1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。1977年(昭和52年)文化勲章受章、文化功労者顕彰。 「到春」 1942年、彩色・絹本・軸(1面)58.0cm×72.5cm「冬岳」 1953年、絹本・彩色・額(1面)55.4cm×71.5cm
佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月… 佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月13日)は、日本の小説家。農民(百姓)の辛さ、愚かさ、悲しさ、したたかさ、美しさを、じっと見据えつづけた作家である。宮城県大崎市の農家出身。鉄道員、小学校の代用教員などののち新潮社に入り、『文学時代』などを編集。加藤武雄に兄事し、新興芸術派に属して猟奇小説、探偵小説などを書き、農民文芸会に属し活動したが早世した。 川端康成は、「農民文学」「農民小説」の旗手の佐左木の夭折を惜しみ、不当に扱われた作家として、その才能の「尊さ」を評し、「(農民作家で)見るに足る作品活動を示してゐたのは、芸術派では、実に佐左木氏たゞ一人だつた」とし、「嘉村礒多氏の全集が出るのに、佐左木俊郎氏の農民小説は忘れられかかつてゐる。
飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月1… 飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月13日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。髙島屋社長・会長を務めた。京都府京都市出身。 髙島屋副社長を務めた飯田忠三郎の次男として生まれる。 1926年に慶應義塾大学法学部卒業後、高島屋へ入社。大阪支店長、常務、専務を経て、飯田直次郎社長の急逝に伴い、1952年2月に創業者一族3代目の社長に就任。横浜、ニューヨークへ出店するなど多店舗化を進め、トップマネジメントの強化を図り、組織を合理的に改革し、人事を刷新して新しい時代に即応する近代的な経営管理方法を推進した。1960年に会長に退き、新社長には飯田直次郎の長男である飯田新一が就任した。