德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日〈明治5… 德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日〈明治5年6月23日〉 - 1925年〈大正14年〉5月19日)は、日本の政治家、実業家。紀州徳川家第15代当主。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は侯爵。諱は「らいりん」と音読みすることもある。新字体での表記は徳川 頼倫。 貴族院議員、貴族院仮議長(2回)、宗秩寮総裁、南葵文庫総裁、南葵育英会総裁、日本図書館協会総裁、史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、十五銀行取締役、日本赤十字社常議員、華族会館評議員、帝国海事協会評議員などを歴任した。 明治5年6月23日(1872年7月28日)、田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男として東京府下本所横網町(現在の東京都墨田区横網一丁目)の田安邸で生まれる。
和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6… 和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6月22日) - 1926年(大正15年)11月1日)は、明治・大正時代の自由民権活動家、アジア主義者。板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。 和田三郎の生家は、祖父・和田波治、父・和田千秋が自宅を提供して夜学会を開いた場所で、のちに高知市土佐山地区(旧 土佐山村)の西川集落における自由民権運動の拠点となった『山嶽社』が創始された場所として、1991年(平成3年)、文化財として修復管理されている。
石川 成章(いしかわ せいしょう、1872年7月26日(明治… 石川 成章(いしかわ せいしょう、1872年7月26日(明治5年6月21日)- 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の地質学者。晩年は真宗大谷派参事を務めた。 愛知県碧海郡下中嶋村(現:岡崎市中島町字本町)の浄光寺で石川嶺観の四男として生まれる。浄土真宗三河教校に学ぶ。1896年(明治29年)7月に東京帝国大学理科大学地質学科に入学。1899年(明治32年)7月、同大学を卒業。 同年9月、東京真宗中学校講師に就任。それからのち東京高等師範学校、陸軍中央幼年学校、早稲田大学などで教鞭を執った。 1907年(明治40年)6月、鉱務技師として福岡県鉱山監督局に赴く。1917年(大正6年)12月、京都帝国大学工学部ならびに理学部の講師を嘱託される。
梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8… 梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8月21日) - 昭和14年(1939年)1月6日)は日本の銀行家。東京府平民。外孫に作家で元暴力団員の安部譲二がいる。 山形県吹浦村生まれ、北海道出身。梶原兵吉の弟。 1897年に東京帝国大学法科大学卒業。日本銀行入行。 1918年3月日本銀行辞職。同年横浜正金銀行取締役就任、副頭取就任。1919年、横浜正金銀行頭取就任。1922年10月、日本勧業銀行総裁。以後東京株式取引所理事長、日本産業協会理事、日本陶磁器工業組合連合会理事長、工業組合中央会理事長を歴任。昭和14年1月6日没。墓所は東京都港区の青松寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月… 藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月17日〈明治4年7月3日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家。村井銀行常務取締役。族籍は東京府士族。 旧名古屋藩士・丹羽與三郎の四男であり、退役海軍少将・丹羽教忠の弟、大井田瑞足の兄である。1901年、先代いしの入夫となり家督を相続した。藤平家は其の祖遠く日蓮上人の末弟貫名藤平重友に出た。 1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。横浜正金銀行に入り、同行桑港支店支配人、羅府分店支配人となり、長崎支店支配人となる。1918年、村井吉兵衛の懇望により村井銀行に転じ取締役兼総支配人に挙げられ、のち常務取締役となり調査部長を兼任。
平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7… 平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7月2日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名は倉吉。 愛知県海東郡内佐屋村(佐依木村、佐屋村、佐屋町を経て現愛西市)に生まれる。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 1916年(大正5年)8月に大村連隊区司令官、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐、1918年(大正7年)12月に歩兵第38連隊長を経て、1922年(大正11年)2月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同年5月に予備役に編入した。 退役後は京都市伏見区に住んだ。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月1… 藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月15日〈明治4年6月29日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月21日)は、日本の実業家、工学博士。帝国海事協会理事長。専門は造船学。族籍は三重県平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 三重県三重郡菰野村(現・菰野町)生まれ。三重県士族・山内俊徳の二男。山内静吾の兄。藤島萬治郎の養子となり、家督を相続した。三重県立尋常中学校、第三高等中学校を経て1894年、帝国大学工科大学造船学科卒業。 日本郵船に入り、保船課長、参事、船舶調査主任を経て1918年、取締役に挙げられ、後工務部長を兼ね1923年、これを辞し、横浜船渠社長となり、次いで横浜新港倉庫社長、東京回漕会社取締役、横浜商工会議所常議員に挙げられ後退任し、1936年、帝国海事協会理事長に就任した。
大城 兼義(おおしろ けんぎ / かねよし、1871年8月1… 大城 兼義(おおしろ けんぎ / かねよし、1871年8月11日(尚泰24年6月25日)- 1951年(昭和26年)11月11日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 琉球王国小禄間切宇栄原(のち沖縄県島尻郡小禄村、現那覇市小禄字宇栄原)で、屋号新屋敷・大城三郎の長男として生まれる。小禄小学校、島尻高等小学校を経て、1890年(明治23年)沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)に入学したが、3年で退学した。1896年(明治29年)長崎鎮西学館(鎮西学院)神学科沖縄支部を卒業し、伝道師としてキリスト教の布教に従事した。 1901年(明治34年)から臨時沖縄県土地整理事務局で測量に従事。
三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日〈明治4… 三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日〈明治4年6月25日〉- 1948年〈昭和23年〉4月1日)は、明治から昭和にかけての日本の政治家。 讃岐国大内郡水主村(現在の東かがわ市)出身。 長年立憲政友会の衆議院議員として党内にて重きをなし、内閣書記官長を振り出しに文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣(一時運輸大臣も兼務)を歴任した戦前政界の重鎮である。 讃岐国に中農階層の宮脇清吉の二男として生まれ、三土幸太郎(雅号は梅堂)の婿養子となる。三土家は地主階層に属し、経済的に余裕があったため、代々学問に励み、在郷の漢学者として知られる家柄であった。香川県尋常師範学校卒業後、一旦は小学校教員となるが、上京して東京高等師範学校に入り1897年(明治30年)に首席卒業を果たす。
植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年… 植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年8月9日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は正五位勲三等。 愛媛県出身。旧士族。1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、歩兵少尉に任官し、5月には兵科を輜重兵に転科。 日露戦争には第10師団隷下の輜重第10大隊中隊長として出征。同師団は遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加。戦中の1904年(明治37年)11月、少佐に昇進。 1909年(明治42年)11月に輜重第11大隊長。翌年11月に中佐に進級。 1914年(大正3年)8月に輜重第7大隊長となり、1916年(大正5年)5月、陸軍輜重兵大佐に任官。
岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4… 岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4年6月21日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 肥後国飽田郡熊本(現熊本県熊本市)で熊本藩士・岩佐善門の長男として生まれた。1894年(明治27年)東京専門学校英語政治科卒。日本新聞、憲政本党党報、二六新報、万朝報の各記者となる。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年死去。
八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月2… 八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月20日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・長野。 伊予国越智郡今治町(現愛媛県今治市)で、長野謙吉の弟として生まれる。1892年(明治25年)12月、素封家、酒造業・八木守三郎の養子となり、1911年(明治44年)2月に家督を相続した。 1904年(明治37年)以降、愛媛県越智郡酒造組合長、四国酒造連合会評議員、愛媛県酒造組合連合会会長、同県商工団体連合会副会長、今治商業銀行取締役、伊予相互貯蓄銀行取締役、今治清酒取締役、愛媛水力電気監査役、伊予鉄道電気監査役などを務めた。
出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年… 出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年6月20日)- 1960年(昭和35年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(6期)、立憲政友会総務、羽生市初代市長等を歴任。 武蔵国埼玉郡下羽生村(のち埼玉県北埼玉郡須影村、現:羽生市)で、地主・出井熊吉の三男として生まれる。慶應義塾大学を2年で中退し、農業を営む。のち埼玉新聞社を経営。 北埼玉郡会議員、須影村会議員、須影村村長を経て、埼玉県会議員、同副議長、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会の推薦を受けて当選。以後、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙まで連続6回の当選を果し政友会総務を歴任。
津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治… 津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治4年6月17日〉 - 1923年〈大正12年〉3月4日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者、資産家。衆議院議員(青森県郡部選出、当選1回)。貴族院議員。族籍は青森県平民。 小説家太宰治の父である。孫は俳優の津島康一、小説家の津島佑子、小説家の太田治子、曾孫は政治家の津島恭一、政治家の津島淳、劇作家の石原燃などがいる。 青森県西津軽郡木造村(現つがる市)の松木家に、8代目七右衛門の四男として生まれる。旧名は永三郎。1888年、北津軽郡金木村(現五所川原市)の津島家の婿養子となる。1892年、「源右衛門」と改名。農業、商業を営む。 金木銀行設立の議が起ると率先して尽力する。
山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 … 山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 - 1947年1月20日)は、日本の司法官。司法次官、東京控訴院院長。族籍は東京府平民。法学博士。
井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6… 井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6月8日) - 1921年(大正10年)5月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 阿波国名東郡西新町(現徳島県徳島市西新町)で織物卸商・井内孝七の長男として生まれる。徳島県尋常中学校を卒業後、法律学を学んだが実業界に転身。1897年11月、北海道旭川に来住し織物煙草卸売業を開業。翌年6月、味噌醤油製造業を始め、後に酒類卸売業を兼ねた。また、旭川区会議員、旭川商業会議所会頭、上川倉庫社長、旭川商事取締役、北海道銀行(旧)取締役、旭川木工取締役、東洋酒精取締役、大北火災保険取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で北海道第四区から出馬し当選したが、在任中に病のため死去した。
山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(187… 山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(1871年7月25日) - 昭和16年(1941年)2月7日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 和歌山県有田郡糸我村(現在の有田市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。帰郷後、南海公論社、ついで和歌山日日新聞社を創設し、社長に就任した。1915年(大正4年)からは和歌山県会議員を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年… 関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年6月7日)- 1957年(昭和32年)5月9日)は、岡山県小田郡陶山村(現・笠岡市)出身の官吏、地方政治家。初代倉敷市長。 1871年6月7日、小田郡陶山村に生まれる。私立関西学館を卒業し、小田郡書記となる。 その後、岡山県庁へ入り県知事官房主事まで昇進したが辞任し、1921年、赤磐郡長となる。その後、浅口郡長、倉敷町長を歴任。1928年、市制が発布され、初代倉敷市長に就任する。その後日比町長となる。 1940年、日比町と宇野町が合併し玉野市となり初代市長に就任する。初代市長に2度就任することは稀な出来事であった。戦後、公職追放となる。
牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(… 牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(明治4年6月6日)- 1944年(昭和19年)11月18日)は、日本の教育者、宗教家。 1871年7月23日(明治4年6月6日)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現:新潟県柏崎市)で渡辺長松・イネの長男として誕生。出生名は渡辺 長七(わたなべ ちょうしち)。1877年、親戚である牧口善太夫の養子となる。 1885年に尋常小学校を卒業後、単身、北海道へ職を求めて渡る。小樽警察署の給仕をしながら苦学の末に、1891年、札幌の北海道尋常師範学校(現:北海道教育大学)第一学部3学年に編入。 1893年、常三郎(つねさぶろう)と改名。同年3月に卒業し、母校の付属小学校の教師となる。
矢作 栄蔵(やはぎ えいぞう、1870年8月21日(明治3年… 矢作 栄蔵(やはぎ えいぞう、1870年8月21日(明治3年7月25日) - 1933年(昭和8年)12月18日)は、日本の農業経済学者。東京帝国大学経済学部教授同経済学部長。法学博士。 埼玉県出身。矢作八蔵の二男。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大学院に入って農業経済学を専攻した。1901年(明治34年)、同大学農科大学助教授に就任し、翌年から経済学研究のためドイツ、フランス、イギリスに留学した。1907年(明治40年)に帰国した後、東京帝国大学農科大学教授と法科大学教授に任じられ、法学博士号を受けた。のち学部改編で経済学部教授兼農学部教授となり、さらに経済学部長に就任した。
坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1… 坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1870年8月19日) - 昭和17年(1942年)3月26日)は、日本の教育者。 明治期に上野下谷に日本で初めて設けられた貧民学校の校長を務め、その教育実践が、かつての教え子であった添田知道の『小説 教育者』として作品化されて、大正、昭和期に教育者の範として知られた。 神奈川県西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市牛沼)に、坂本源吾之輔、あきの五人兄弟の三男として生まれる。神奈川師範学校(現・横浜国立大学教育人間科学部)に学び、初赴任は、西多摩郡古里村の習文尋常小学校(現・西多摩郡、奥多摩町立古里小学校)だった。その後、神奈川県下で、町田村の日新尋常小学校(現・町田市立町田第一小学校)、大和市の渋谷高等尋常小学校(現・大和市立渋谷小学校)、町田村の開矇(かいもう)高等尋常小学校(現・町田市立南第一小学校)の校長を歴任。
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年… 中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。卒業後は同大学院に進んだ。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた。
寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3… 寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3年7月19日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大蔵官僚。朝鮮総督府官僚。埼玉県川越市長。 加賀国金沢に生まれる。朝田家に生まれ、のち寺尾家の養子となる。1889年(明治22年)英吉利法律学校を卒業。衆議院属、大蔵省属、韓国総税務司、関税局税関、朝鮮総督府税関各事務官などを経て1922年(大正11年)退官する。その後、東洋拓殖嘱託、同参事、満蒙毛織常務取締役などを務めた。 1927年(昭和2年)川越市長に就任。政争に巻き込まれ市会で不信任を突きつけられるが県により取り消し命令が下る。在任中は耕地整理組合の設立、常備消防署や体育協会の設置などに尽力した。
藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(18… 藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。号は東圃・李花亭・枇杷園。 加賀国金沢早道町(現・石川県金沢市)生まれ。1890年、第四高等中学校を卒業。同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉がおり、西田・鈴木・藤岡は「加賀の三太郎」と称される。 1891年、東京帝国大学文科大学国文科に進学する。同級生に藤井乙男がいた。在学中、『北國新聞』創刊号に「小説管見」を発表。1894年、東京帝国大学を卒業。大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授を経て、1900年、東京帝国大学助教授となる。
東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月… 東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月9日) - 1936年(昭和11年)10月13日)は、日本の陸軍軍人。陸士4期、陸大14期。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲二等。 山口県岩国藩士の東文吉の三男として生まれる。十代のころは兄の勝平とともに川下小学校に出入りしており、1885年(明治18年)ごろに一時同校の訓導をしていた齋藤精輔の立ち上げた「数学同好会」に参加していた。 1893年(明治26年)陸軍士官学校卒業後、近衛砲兵連隊に勤務。翌年1894年(明治27年)、砲兵少尉に任命され、同年に日清戦争に従軍する。1900年(明治33年)陸軍大学校を第14期生として卒業したのち参謀本部に勤務。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3… 大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3年7月6日)- 1922年(大正11年)6月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 伊予国越智郡蔵敷村(現在の愛媛県今治市)出身。1886年(明治19年)、松山中学校を卒業。英吉利法律学校(東京法学院、現在の中央大学)で英語法学を学び、1889年(明治22年)に首席で卒業。その後も穂積陳重のもとで学んだ。1892年(明治25年)に弁護士試験に合格し、松山市に事務所を開いた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 三・一運動の際には、花井卓蔵・木尾虎之助らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった。
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月… 鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)は、日本の建築家。静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。[要出典] 1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)、文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授・同科長となり赴任。
飯田 盛敏(いいだ もりとし、1870年7月30日〈明治3年… 飯田 盛敏(いいだ もりとし、1870年7月30日〈明治3年7月3日〉 - 没年不明)は、明治から大正時代の政治家。官吏。三重県四日市市長。旧名は熊蔵。 東京市深川区東大工町にて士族の飯田盛孝の三男として生まれる。1904年(明治37年)5月、旧名を改める。法学を志し、東京仏学校、暁星学校、和仏法律学校で仏語や法律、経済学を修め、法学博士梅謙次郎の知遇を得、1900年(明治33年)司法省仏文翻訳係となり、大臣官房兼参事官室勤務を拝命した。その後、文官高等試験に合格し、地方官試補として群馬県に赴任し、青森県第二部長、岡山県事務官、長崎県港務部長などを歴任した。 前市長の福井銑吉の病気による辞任に伴い、1914年(大正3年)8月には四日市市長に就任。
岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日… 岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日〈明治3年6月29日〉 - 1923年〈大正12年〉1月8日)は、大日本帝国の実業家。朝鮮勧農、東洋捕鯨(現・ニッスイ)の各社長。近代的な捕鯨船による捕鯨を日本で始めて行い、「捕鯨王」、「日本捕鯨の父」などと呼ばれた。族籍は山口県平民。 1870年、長門国阿武郡奈古村(現・山口県阿武郡阿武町)の西村利右衛門の5男として生まれた。西村家は奈古村に住し、代々農業並びに生蝋製造を業としていた。後に岡吉輔の養嗣子になった。 1868年の明治維新以降、日本の近代化が急速に進み、多くの人々が西洋の知識と技術を学ぶために欧米に渡った。当時、日本は遠東での勢力を拡大しようとしていたが、捕鯨は江戸時代以来の網取法による沿岸捕鯨が続いていた。
岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年… 岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年6月27日〉- 1946年〈昭和21年〉12月17日)は、日本の英文学者、教育者。立教大学元教授、フェリス和英女学校(現・フェリス女学院)副校長・教頭、横浜英語学校校長、立教大学学監、立教女学校(現・立教女学院)教頭。フェリスでは、ミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処するため英語師範科を創設するなど、女学校の存続と発展に長く貢献した。 福井県出身。福井の中学校を出て、上京する。当時、琢蔵が東京の学校として名前を知っていたのは、帝国大学(後の東京帝国大学)と、その予備校である高等中学校、その他には慶応義塾だけであった。
大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治… 大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治3年6月26日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月11日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。岩手県盛岡市長。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。旧姓は中村。 中村俊太郎の伯父として、現在の盛岡市馬場町(馬場小路)に生まれる。のち大矢五蔵の養子となり家督を相続する。1888年(明治21年)7月、岩手県中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、盛岡市参事会員を経て、1907年(明治40年)11月、盛岡市長に就任。1910年(明治43年)8月、市長の座を退き、岩手県会議員、岩手県参事会員、盛岡市会議員、同議長などを経て、1916年(大正5年)12月、補欠選挙で貴族院議員に当選し、同年12月26日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24… 宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24日 - 1924年(大正13年)10月14日)は、明治・大正期の英語学者・教育者。岐阜県出身。 「英文法を独自の立場で研究したことは斎藤秀三郎に次ぐもので、この二氏以外には日本人として独自の立場から英文法を研究した者はそれ迄にはなかったといっても過言ではないであろう。」と評価されている。 「卯の花庵主人」の筆名での翻訳がある。 学問以外では謡曲に精通し、観世清之、その後観世喜之に師事すると共に早大教授の多くを謡道へ引き入れた。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月2… 岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月20日) - 昭和15年(1940年)7月29日)は、明治期から昭和期にかけて活動した日本画家。 明治2年(1869年)7月13日に福井県大野町に五人兄弟の四男として生まれる。本名は吉寿。幼名は又太郎といった。梅渓、不崩と号す。 明治13年(1880年)に上京し、麹町の番町小学校に入学する。明治17年(1884年)16歳の時に狩野友信に入門して洋画を学ぶ。当時は軍人志望であったが、鑑画会創立の頃から友信の紹介もあって狩野芳崖に師事し、本格的に日本画を習得している。有賀長雄宅での狩野永悳、芳崖、木村立嶽らの研究会に参加して学び、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会に岡梅渓の号で「山水」と「草花」を出品している。
石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(186… 石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(1869年8月19日) - 1898年(明治31年)3月22日または23日)は明治時代のシャム王国入植者。長崎県平戸島に生まれ、福岡、東京で英語を学んだ後、アメリカ合衆国オークランドに留学した。帰国後シャム王国への植民事業を企てたが、暹羅殖民会社、石橋商会の事業はいずれも失敗し、東京で病没した。 明治2年(1869年)7月3日、肥前国平戸町に呉服太物商石橋彦兵衛の第5子または第10子として生まれた。小学校では威圧的な振る舞いで他の児童から孤立し、また家では仕事を手伝わず、家族を困らせた。 15歳の時針浦退蔵に入門し、2年間余り儒教を学んだ。1883年(明治16年)9月留学を認めない養父長次郎の元を離れて福岡の取引先宅に身を寄せ、当初陸軍予備士官学校に入学しようとしたが、同郷南部重遠の誘いで人参畑高場乱に学んだ。
永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年… 永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年7月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉3月9日)は、日本の資産家、農民、埼玉県多額納税者、埼玉県の大地主。前名は平次郎。族籍は埼玉県平民。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人で、先代・永田勘六の長男。1895年、家督相続と共に襲名して前名・平次郎を改めた。農業を営み、県下の大地主であった。多額納税者として知られた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日… 錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日〈明治2年7月9日〉 - 1911年〈明治44年〉11月24日)は、明治期の華族。官位は従五位、爵位は子爵。 山城国京都で式部大輔・唐橋在光の四男として生まれる。唐橋在正の弟。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。明治維新以降、子爵に叙せられた。 1897年、群馬県尋常中学校教諭に就任。1898年、叔父・錦小路賴言の次女益子の入夫、錦小路家の養子となる。同じ年、賴言の死去に伴い、家督を相続する。1899年、東宮職御用掛となる。1900年、東宮主事に就任。 1911年11月24日死去。43歳没。
相馬 半治(そうま はんじ、1869年8月15日(明治2年7… 相馬 半治(そうま はんじ、1869年8月15日(明治2年7月8日) - 1946年(昭和21年)1月7日)は、明治製糖、明治製菓の創立者の一人。1903年に東京高等工業学校(現・東京工業大学)の教授となり、1906年に教授を辞めて明治製糖の設立に加わり、1916年に明治製菓設立に加わり、1923年から1942年まで明治製菓会長。砂糖業界四巨頭の一人と言われた。 相馬半治の元の姓は田中であった。田中家は代々犬山藩の家臣であり、半治の父、庵は田中家7代目で家禄59俵。母は尾張藩士加藤平八郎の長女八重子だった。田中半治は3男として1869年(明治2年)、尾張国丹羽郡犬山町に生まれた。父は明治維新を機会に士族の商法を始めるが失敗、家は困窮を極めた。
水野 正巳(みずの まさみ、1869年8月15日(明治2年7… 水野 正巳(みずの まさみ、1869年8月15日(明治2年7月8日) - 1936年(昭和11年)9月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県美嚢郡口吉川村(現三木市)出身。1894年に有馬郡の水野家の婿養子となり上京。東京専門学校で学ぶ。大阪で株式仲買店、神戸で印刷業を始めるも失敗し神戸へ戻る。農業を営み、神戸市会議員、神戸商業会議所議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選した。以来連続3回当選。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党から立候補したが落選。翌1913年に繰り上げ当選となった。1915年の第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年… 羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年8月11日) - 昭和21年(1946年)7月16日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。実業家。 臼杵藩士羽田角弥の二男として臼杵城下に生まれる。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士として活動し、東京弁護士会副会長に選ばれた。また実業家としても中央鉄道(のち武州鉄道)社長、米田鉱業株式会社社長、日本紙工株式会社取締役、日英石鹸株式会社監査役などを務めた。 1926年(大正15年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
寺島 成信(てらしま しげのぶ、1869年8月10日(明治2… 寺島 成信(てらしま しげのぶ、1869年8月10日(明治2年7月3日) - 1939年(昭和14年)4月2日)は、日本の経済学者、経済学博士。日本で初めて経済学博士を取得した人物として知られる。 出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。佐藤雄能や三矢重松らと共に、同郷の学生寄宿舎「荘内館」の設立に尽力した。 日清戦争以前、戦時に仮装巡洋艦として用いる高速商船の建造・航路補助の制度整備を主張した。後に自分は「仮装巡洋艦主義」を唱えたと回顧する。 日本郵船では「同社創設の調査機関を主宰するに至つた」。近藤廉平社長とともに、パリ講和会議に民間船主代表として参加。 第一次大戦中より論壇に登場し、航空省設置や優秀船建造について発言。
山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年… 山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年7月2日) - 1962年(昭和37年)7月11日)は、日本の実業家。アズビルや、日本酸素ホールディングス、日本精工の創業者。 鹿児島県下西田町(現鹿児島市西田)生まれ。旧薩摩藩士の家だったが明治維新後に没落しており貧しく、農商務省に務める義兄・奥清輔(のち農商務省水産局長)を頼って東京に移り、東京職工学校(現東京科学大学)に進学。1891年に卒業すると、義兄の親友だった高橋是清(当時農商務省特許局長)の紹介で農商務省入省、特許局審査官補。その後、製釘事業を立ち上げようと考えていた安田善次郎からの依頼を受けていた高橋是清から推挙され、安田銀行に技師として入行して、1896年からオハイオ州クリーブランドで技術習得に従事。
三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27… 三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27日(1869年8月4日) - 大正13年(1924年)8月18日)は、落語家。本名:村田 政次郎。 浅草代地に住んでいたことから俗に「代地の今輔」やせっかちなエピソードが多いことから「せっかちの今輔」。 東京深川の生まれ、子供の時の1883年~1884年ころに二代目古今亭志ん生の門に入り志ん丸を名乗った。志ん丸は二代目今輔の前座名で待望されていたことが分かる。1889年3月に志ん猫と改名。 師匠志ん生死去に伴い4月に四代目三升亭小勝の門で三升亭小つね、さらに1896年1月に柳家小文吾となり1897年に柳派の出世名である三代目柳家小三治襲名。
石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治… 石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治2年6月26日)- 1935年(昭和10年)1月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡呼続村(呼続町を経て現名古屋市)出身。麩製造業を営む。名古屋市会議員、愛知県会議員、同市部会議長となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において愛知1区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年6月21日)- 1924年(大正13年)4月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県北葛城郡高田町長。 大和国葛下郡疋田村(奈良県葛下郡新庄村、北葛城郡新庄村、新庄町大字疋田を経て現葛城市疋田)で生まれた。1879年(明治12年)新庄村立小学校を卒業。田中右章から漢籍を学び、さらに五十川三武郎の塾に入った。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)で法政学を1年間学んだ。 1894年(明治27年)新庄村会議員となる。1907年(明治40年)5月、高田町会議員に選出され4期在任。同年9月、奈良県会議員に当選し、同参事会員も務めた。
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明… 安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉- 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。
隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年… 隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和9年(1934年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)で旧小諸藩士隈部忠良の三男として生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科37番/103名で卒業している。1891年(明治24年)3月に歩兵少尉に任官し、歩兵第3連隊附。歩兵第2連隊中隊長、陸軍省人事課員、参謀本部副官、第1師団軍法会議判士長などを務めた。日清戦争・北清事変に出征し、日露戦争では歩兵第2連隊大隊長として転戦し、第3回旅順総攻撃に第1師団副官として参加した。
東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年… 東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年7月24日〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀 季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。 1869年7月24日(明治2年6月16日)に京都に生れ、1872年(明治5年)に東京へ移住する。1879年(明治12年)から宮内省に出仕し、1890年(明治23年)に雅楽部の伶人兼楽手に補せられる。1892年(明治25年)9月に早稲田専門学校文学科に入学したと本人自筆の履歴書に書いているが、学籍簿には記録されていない。