梅津 昭彦(うめつ あきひこ、1959年 - )は、日本の法… 梅津 昭彦(うめつ あきひこ、1959年 - )は、日本の法学者、新潟大学教授。博士(法学)、専門は商法。 福島県会津若松市生まれ。父親の職業の関係で幼少の頃から各地に住む。1985年、駒澤大学法学部法律学科卒業。1987年、鹿児島大学大学院法学研究科修士課程修了。1990年、神戸大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得満期退学。東北学院大学法学部助手、専任講師、助教授。専攻は商法、保険法、証券取引法。 1995年、学位論文「保険仲介者の規制と責任」で博士号取得(法学、神戸大学)。 東北学院大学法学部教授、同大学院法務研究科教授、法務研究科長を経て、新潟大学大学院実務法学研究科教授。 新潟大学法学部長、公認会計士試験委員、日本保険学会理事、日本海法学会理事、新潟県立新発田病院倫理審査委員会委員などを歴任。
星野 仁彦(ほしの よしひこ、1947年6月24日 - )は… 星野 仁彦(ほしの よしひこ、1947年6月24日 - )は、福島県会津若松市生まれの日本の医学者、精神科医。専門は児童精神医学、精神薬理学。福島学院大学教授、副学長。医学博士。 注意欠陥・多動性障害(ADHD)、アスペルガー障害、学習障害などの発達障害に詳しい児童精神医学の第一人者である。その豊富な臨床経験から摂食障害、境界性パーソナリティ障害などのパーソナリティ障害の治療でも知られる。また自身がADHDであることを公表している。 1990年3月に大腸癌と診断され、手術を行い、闘病生活を送ることとなった。同年8月にがんは肝臓に転移し、本人は「国立がん研究センターの統計では5年生存率は0%であった」と語っている。
本田 弘(ほんだ ひろし、1935年3月11日 - )は、日… 本田 弘(ほんだ ひろし、1935年3月11日 - )は、日本の行政学者、日本大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1964年明治大学大学院政治学専攻博士課程修了、1978年「現代都市行政論 都市化過程と行政変動」で政治学博士。 日本大学法学部助教授、教授。2005年定年となり、名誉教授。1974年日本都市学会奥井賞受賞。
福田 晃(ふくだ あきら、1932年1月26日 - 2022… 福田 晃(ふくだ あきら、1932年1月26日 - 2022年1月9日)は、日本の国文学者・民俗学者。専門は説話文学。学位は、文学博士(國學院大學・論文博士・1985年)(学位論文「神道集説話の成立」)。立命館大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1950年3月に福島県立会津工業高等学校を卒業後、5年間の社会人生活を経て、1955年4月に國學院大學文学部に入学する。入学当初は、国語の教員をしながら小説を書く生活を送りたい、と考えていたため近現代文学を志し、当時同大学英文科で教鞭を採っていた丸谷才一と親交を深める。ただし、丸谷は近現代文学を専攻することをよしとせず、同大学の中でも教学条件が整っている古典文学を専攻するように勧めたことで、その後の進路を決めた。
柏木 繁男(かしわぎ しげお、1930年 - )は、日本の心… 柏木 繁男(かしわぎ しげお、1930年 - )は、日本の心理学者、千葉大学名誉教授。 福島県会津若松市生まれ。東京大学文学部心理学科卒、同大学院教育学研究科をへて1967年教育学博士。旧国鉄の鉄道労働科学研究所を経て、千葉大学教授・文学部長、1996年定年退官、名誉教授、城西国際大学教授、慶應義塾大学教授。 内田クレペリン精神検査など心理検査の研究など人格心理学に関する研究者として著名である。また計量行動学や心理学における多変量解析を用いた心理学研究法に関する著書や論文を国内外の学術誌で多数執筆している。特に因子分析に関する研究で国際学術誌に数多くの業績を残している。最近は主要5因子性格検査の研究を中心に行っている。
大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 19… 大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 1992年7月23日)は、日本の政治学者。中央大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1948年水戸高等学校 (旧制)卒業。1953年中央大学法学部卒業、1955年同大学院法学研究科政治学専攻修士課程。1956年明治大学大学院政治経済研究科政治学専攻博士課程中退。1956年中央大学法学部助手。1960年同法学部助教授。1967年同法学部教授。中央大学では「政治学原論」「政治過程論」「地域政治」の講義を担当していた。1982年中央大学学生部長。1983年中央大学にて法学博士受く。1991年東京都知事選挙に日本社会党推薦で出馬。横山桂次、篠原一、吉武輝子らの推薦を受けたが落選。
宮崎 十三八(みやざき とみはち、1925年(大正14年)7… 宮崎 十三八(みやざき とみはち、1925年(大正14年)7月8日 - 1996年(平成8年)5月11日)は、日本の郷土史家。福島県会津若松市生まれ。旧制新潟高等学校文科卒業。会津若松市商工観光部長。会津史学会会長、顧問。会津史談会相談役。 1993(平成5)年に出された「教育委員会表彰推せん調書」によれば次の通り。 福島県若松市融通寺町(現在の本町)に生れ、市立第四(城西)小学校・県立会津中学校を経て、旧制官立新潟高等学校文科卒業。県立安積高校教員の後、昭和二十六年若松市役所に奉職。三十三年間勤務。商工観光課長のとき、天守閣再建担当。社会教育課長、文化福祉センター初代所長、商工観光部長。五十九年三月定年退職。
北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 19… 北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 1991年10月22日)は、国文学者、古文書学者。本名は渡部 栄(わたなべ さかえ)。 1913年、福島県会津若松市生まれ。両親ともに教師。父親の転勤に従い渡満し、大連春日小学校、 大連一中を経て1931年に東京高等師範学校文科第二部国漢科(1934年東京文理科大学国文科に転入)に入学。能勢朝次、山岸徳平らに師事して「源氏物語」研究を志す。父の死後、父に世話になったという人から家宝だという古書の『源氏物語』54冊を贈呈され、それが従一位麗子本源氏物語であることを発見し、これを論文にした。 1937年、東京文理科大学国文科を卒業。召集されたものの、病のため除隊となり、満州で中学教師として勤める傍ら研究を続けた。
木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 197… 木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 1976年12月19日)は、日本の経営者、工学博士。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。 福島県会津若松市出身。1933年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。 1957年11月に取締役に就任し、1962年に常務、1965年11月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。 1976年12月19日、くも膜下出血のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月… 星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月23日 – 1989年(平成元年)8月7日 ) は、日本の農学者。家畜生理学を専門とした東京大学農学部教授、同名誉教授である。「馬の不妊症に関する内分泌学的研究」で東京帝大農学博士、「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で日本農学賞を受賞。家畜繁殖研究会会長。 「ラットの卵巣静脈血中の黄体ホルモンの化学的測定法の確立に関する研究」は世界で最初の取り組みで、のちに体外受精、胚移植へと発展した。昭和38年度の日本農学賞を受賞した「ラットの哺乳期における内分泌機能に関する研究」(「哺乳期における卵巣機能に関する研究」)は低受胎症の改善に、「家畜不妊症に対する性腺刺激ホルモンの応用に関する研究」は家畜繁殖障害のホルモン療法に貢献した。
星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日… 星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の工学者。切削工学を専門とした北海道大学教授、同名誉教授である。旭川工業高等専門学校校長、精密工学会名誉会員。「金属切削における構成刃先の研究」で東京大学工学博士。 福島県会津若松市出身。会津中学などを経て1933年(昭和8年)に北海道帝国大学を卒業。基隆炭鉱、栗本鉄工所、新潟鐵工所に勤務する。北大に精密工学科が設置された1958年(昭和33年)に教授となり、1972年(昭和47年)には名誉教授の称号を授与される。この間の1970年(昭和45年)に旭川工業高等専門学校校長に就任。1979年(昭和54年)の退官までに、同校では設備の充実が図られた。
大平 善梧(おおひら ぜんご、1905年9月19日 - 19… 大平 善梧(おおひら ぜんご、1905年9月19日 - 1989年3月10日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(慶應義塾大学・論文博士・1960年)。一橋大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。キリスト教徒であり青山学院大学学長も務めた。従三位勲二等瑞宝章。妻は宮城県会議長・南條秀夫の長女。 1905年、福島県会津若松市で生まれた。1923年3月、 会津中学校を卒業して小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に入学。1926年3月に小樽高等商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。1929年3月に同校を卒業。 卒業後は、1929年7月より母校である東京商科大学の補手に着任。1930年11月、高等試験司法科試験に合格。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年… 斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年)11月20日 - 1951年(昭和26年)7月22日) は、日本の法学者。和議法、破産法の権威者で、神戸商業大学、京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士(京都帝国大学)。日本学士院会員。 実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた。日本の民事訴訟法は1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
神村 栄一(かみむら えいいち、1963年9月 - 2025… 神村 栄一(かみむら えいいち、1963年9月 - 2025年10月は、日本の心理学者。新潟大学教授。 福島県会津若松市生まれ。1986年筑波大学第二学群人間学類卒業。1991年同大学院心理学研究科博士課程単位取得満期退学。1994年「ストレス対処の個人差に関する臨床心理学的研究」で筑波大学より博士(心理学)の学位を取得。1991年早稲田大学人間科学部助手、1994年筑波大学文部技官、助手、1995年新潟大学助教授、2008年准教授、2012年人文社会・教育科学系教授。臨床心理士・専門行動療法士。専門は認知行動療法。
佐原 盛純(さはら もりずみ、天保6年頃〈1835年頃〉 -… 佐原 盛純(さはら もりずみ、天保6年頃〈1835年頃〉 - 1908年〈明治41年〉12月4日)は、江戸時代末期から明治時代の漢学者、役人、教育者。佐原貞一とも称した。号は豊山、晩年は蘇楳。旧名は金上佐輔(字は業夫)、金上盛備の子孫とされる。明治維新当時は上野国吉井藩の侍講・藩学教授。生年については諸説あり。 陸奥国会津藩若松城下馬場町の商人徳兵衛の長男に生れた。少年期より学問に没頭、18歳の頃から江戸へ遊学し、広島藩儒官の金子霜山、幕府儒官の杉原心斎、同郷の儒者添川廉斎に師事。この頃、祖先が蘆名氏末期の津川城主金上盛備であると知り、金上佐輔と名乗り始めたという。 文久2年(1862年)に外国奉行池田長発に侍講として招かれ、翌文久3年12月から元治元年7月(1864年2月から8月)には池田を正使とする横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節団)に従者として加わり、第二帝政期のフランスへ渡った(後年、その日記を『航海日録』としてまとめた)。