長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日… 長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、岩波書店の元専務、竹久夢二研究者。 1919年(大正8年)に岩波書店に入店以来1972年(昭和47年)に退職するまで、『漱石全集』をはじめとする岩波書店の主要出版物にかかわり、編集・経営の両面において長く同書店の中心的存在であり続けた。「岩波新書」の命名者でもある。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。成人する前に父をなくしたため、高等小学校を14歳で卒業すると上京し、岩波書店に入る。 いわゆる『決定版漱石全集』(1935年 - 1937年刊行)においては、企画から出版まで、小宮豊隆を補佐し、完成に最後まで責任を持った。
原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本の… 原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本のノンフィクション作家、編集者、翻訳家。本名は堀経道 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、長野師範学校卒業。関西学院英文科卒業。博文館編集部で「少年世界」などの担当を経て、1933年頃に出版社・六人社を発足。1936年頃から原圭二名義で戦争に関する文章の寄稿を始める。その後、民主教育協会勤務。探検記、探偵小説、翻訳多数。 堀経道名義では探偵小説・推理小説の翻訳を多数しており、昭和22年6月刊行の「黄金の書」(まひる書房)の企画を終戦後いち早く立ち上げ、江戸川乱歩の元へ相談を持ちかけた。
丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月… 丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月27日 - 1992年(平成4年)3月6日)は、日本の医学者、皮膚科医。第6代日本医科大学学長、同大学名誉教授。皮膚結核および癌の治療薬を目指していた丸山ワクチンの開発者である。医学博士(東京大学)。長野県茅野市出身。 1901年、長野県諏訪郡金沢村(現在の茅野市の一部)にて、小学校訓導の父・小三郎と母・はつの五男一女の末っ子として生まれる。 1908年、金沢村金沢尋常小学校(現在の茅野市立金沢小学校)入学。1914年、豊田尋常高等小学校尋常科を卒業、富士見金沢組合立富士見高等小学校に入学。1915年、東京の日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)入学。
小川 一雄(おがわ かずお、1901年(明治34年)9月2日… 小川 一雄(おがわ かずお、1901年(明治34年)9月2日 - 1971年(昭和46年))は、昭和時代の政治家。長野県諏訪郡ちの町長、茅野市長。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)に生まれる。1919年(大正8年)湖畔学堂を卒業、富士見銀行に入社する。ついで、永明村収入役を経て、1949年(昭和24年)ちの町助役、同町長を歴任し、1955年(昭和30年)に茅野町が成立すると同町長に就任した。この間、諏訪郡町村会長、諏訪耕地協会長を兼任し、1958年(昭和33年)茅野市が発足すると、同市長となり1967年(昭和42年)4月まで3期務めた。 市長在任中には、道路整備、学校施設の整備、市民会館(現在の茅野市民館の前身)着工などの施策を進め、茅野市森林組合長、長野県国民健康保険連合会副理事長、諏訪林業振興会長、諏訪郡市水道研究会会長、茅野市観光連盟会長、茅野市農業共済組合長、諏訪土木振興会長、八ヶ岳中信高原国定公園協議会長などの要職を兼任。
堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 19… 堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 1981年12月25日)は、日本の洋画家である。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - … 塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の政治家、教育者。長野県諏訪市長。勲五等瑞宝章。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、長野師範学校卒業。諏訪郡高島小学校訓導、同郡宮川小学校長、上高井郡視学、長野県視学を経て、1933年(昭和8年)高島小学校長兼高島裁縫専修学校長となる。また諏訪教育会長として二・四事件の事後処理に奔走した。また郷土史研究に力を入れ、『諏訪史』の編集刊行に尽力し、1937年(昭和12年)第2巻後編の刊行代表者を務めた。また同年から『諏訪史料叢書』の刊行に当たった。
国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 19… 国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 1943年4月8日)は日本の小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説、戯曲なども執筆。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に、県庁・郡役所勤めの父の四男に生まれる。父の仕事の都合で小学校を点々とし、旧制長野中学に入学、剣道に熱中する。しかし蛮勇が元で放校処分を受け、海軍士官の兄により東京に引き取られ、郁文館中学校入学。 1908年中学卒業後、海軍兵学校を受験するが失敗し、早稲田大学英文科に入学。詩や演劇などの創作活動に熱中し、『文庫』『三田文学』『太陽』などに小説を寄稿、大学の先輩小川未明の主宰した青鳥会にも参加。
宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 19… 宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 1922年に泉野尋常高等小学校(現在の茅野市立泉野小学校)の代用教員となる。このころ俳人、小平雪人が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会。以後小学校教員、中学校教員を務め、1929年、伏見宮博英王の八ヶ岳西側山麓の茅野市の尖石・与助尾根遺跡の発掘を、小平雪人とともに手伝う。その事から考古学の魅力に目覚め、研究を続ける。1930年宮坂が独力で尖石・与助尾根遺跡を発掘、縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築いた。
永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 197… 永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 1973年1月2日)は、日本の移民事業家。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業。玉川尋常高等小学校(現・茅野市立玉川小学校)の代用教員を務める。当時の校長は島木赤彦が務めていた。東京専門学校(現・早稲田大学)予科政治科中退。1906年北海道へ移住。1907年渡米青年を援助する日本力行会に入会。1908年渡米し1913年帰国後、日本力行会第2代会長に就任。1922年信濃海外協会設立に参画し理事、日本力行会海外学校設立。1924年ブラジルアリアンサ移住地建設に尽力。1933年関東軍移民部の嘱託として満州の現地視察を行い、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出。
小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11… 小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11日 - 1930年(昭和5年)9月5日)は、長野県の教育者。長野県上田中学(現長野県上田高等学校)、長野県諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、長野県松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)校長を務めた。 長野県諏訪郡米沢村(現在の茅野市大字米沢にあたる)の鋳物師屋に笹岡初右衛門、わかのの二男として生まれる。 武平は6尺の大男でどこでも大変目立った。彼の教え子の一人元東京地方裁判所判事の樋口和博はそのエッセイ『峠の落し文』の中で、「六尺豊かな体で、街を歩かれる姿は実に威風堂々、頼もしい限りであった」と評している。しかし、気持ちはたいへん細やかで、優しいひとでもあった。
大島 金太郎(おおしま きんたろう、明治4年9月18日(18… 大島 金太郎(おおしま きんたろう、明治4年9月18日(1871年10月31日) - 昭和9年(1934年)1月27日)は、日本の農学者。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)で、先代・大島金太郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)、札幌農学校を卒業し、1895年(明治28年)に札幌農学校の助教授に就任した。 1898年(明治31年)より農芸化学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学し、アメリカでは農務省技師嘱託となった。1903年(明治36年)に帰国して札幌農学校教授となり、翌年から北海道庁技師を兼ねた。1907年(明治40年)、論文提出により農学博士の学位を得た。同年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改称し、東北帝国大学教授となる。
堀田 陽一(ほった よういち、6月30日 - )は、日本の作… 堀田 陽一(ほった よういち、6月30日 - )は、日本の作曲家、作詞家、編曲家、キーボーディスト、プログラマー、サウンドディレクター・プロデューサー。いくつかの名義で活動を行っている。現在、hotta(ホッタ)名義でi-nos(アイノス)という音楽ユニットを中心に活動中。長野県茅野市出身。 幼少の頃作曲に目覚め、その後坂本龍一関連の音楽に影響を受ける。中学生の頃、音楽の教師よりシンセサイザー、KORG MS-20を譲り受け、その道を目指すことになる。MS-20は和音の出ないモノフォニックタイプだった為、ポリフォニックシンセサイザーRoland JUNO-106を手に入れ、徐々に電子音楽のノウハウを取得。
赤羽 恒雄(あかは つねお、Tsuneo Akahane, … 赤羽 恒雄(あかは つねお、Tsuneo Akahane, 生年不明 - 2021年11月)は、日系アメリカ人の国際政治学者。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1974年オレゴン州立大学政治学部卒業。1975年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。1981年南カリフォルニア大学にて国際関係学Ph.D.取得。カンザス州立大学政治学助教授、オハイオ州ボーリング・グリーン州立大学政治学準教授を経て、カリフォルニア州モントレー国際大学国際政策学大学院教授・東アジア研究センター所長、国際連合大学客員教授、早稲田大学アジア太平洋研究センター客員教授を務めた。
五味 敏雄(ごみ としお、生没年不詳)は、日本の実業家。三省… 五味 敏雄(ごみ としお、生没年不詳)は、日本の実業家。三省堂代表取締役社長を務めた。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校卒業。三省堂出版局長、同社常務取締役を経て、同社代表取締役社長。2005年同社特別顧問。辞典協会会長。社会福祉法人多摩大和園理事長。
小平 花織 は、日本の元女子バレーボール選手。
濱 健夫(はま たけお)は、日本の環境学者。 長野県茅野市出… 濱 健夫(はま たけお)は、日本の環境学者。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1976年東京教育大学理学部卒業。1978年名古屋大学大学院理学研究科修士課程修了。1980年同大学同大学院博士課程修了。同大学助手を経て、1998年筑波大学助教授。2007年同大学大学院教授。筑波大学生命環境学群生物学類長。退官後、同大学名誉教授。獨協大学特任教授。父は教育者の濱栄助。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
土橋 健夫(つちはし たけお、生没年不詳)は、日本の実業家。… 土橋 健夫(つちはし たけお、生没年不詳)は、日本の実業家。日清製粉専務取締役、日清エンジニアリング代表取締役社長を務めた。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、東京工業大学卒業。日清製粉入社。1989年取締役。1996年生産技術研究所長、専務・エンジニアリング部門技術部・開発部・安全衛生環境担当。1999年社長補佐(エンジニアリング部門・GS〔技術・環境〕・安全衛生環境担当・生産技術研究所長)、専務。日清エンジニアリング代表取締役社長に就任。日本粉体工業技術協会会長、粉体工学情報センター理事長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
水品 善之(みずしな よしゆき)は、日本の食品科学者、神戸学… 水品 善之(みずしな よしゆき)は、日本の食品科学者、神戸学院大学栄養学部栄養学科准教授を経て信州大学農学部教授(博士(理学))。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1994年東京理科大学理工学部応用生物科学科卒業、1998年東京理科大学大学院理工学研究科、1998年東京理科大学助手、2001年神戸学院大学栄養学部栄養学科助手から講師を経て、2007年助教授、2015年信州大学農学部教授にて現職。