山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 20… 山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 2000年5月26日)は、日本の経営者。ロイヤルホテル社長を務めた。静岡県掛川市出身。ロイヤルホテル創業者山本為三郎の婿養子。 静岡県の杉山銑三郎の長男として生まれる。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入社。1959年11月に取締役に就任し、1963年10月に常務経て、1968年5月にロイヤルホテル副社長に就任し、1973年3月には社長に昇格。1985年4月に会長を経て、1988年6月から取締役相談役兼最高顧問を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 2000年5月26日、心不全のために死去。91歳没。
大倉 重作(おおくら じゅうさく、1906年〈明治39年〉8… 大倉 重作(おおくら じゅうさく、1906年〈明治39年〉8月4日 - 1982年〈昭和57年〉5月7日)は、日本の政治家。位階は従五位。勲等は勲四等。 静岡県小笠郡千浜村議会議員、静岡県小笠郡千浜村助役、静岡県小笠郡千浜村長、静岡県小笠郡大浜町長、静岡県小笠郡大東町長(初~第3代)などを歴任した。 静岡県出身の政治家であり、静岡県小笠郡にて千浜村の村長を経て、大浜町の町長や大東町の町長を務めた。大東町においては全町農業構造改善事業を提唱し、全国的な注目を集めた。企業誘致や教育機関の整備などを積極的に推し進めたが、町長在任中に死去した。 1906年(明治39年)8月4日、静岡県小笠郡千浜村にて生まれた。
神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年… 神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年10月26日)は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。 静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞。
河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 … 河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 - 1973年9月18日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。大阪建物社長。 静岡県掛川市出身。東京帝国大学政治学科を1915年に卒業し、住友に入る。総本店、伸銅所尼崎工場、別子銅山を経て1925年欧米留学。1927年製鋼所、以降本社総務部部長、人事部部長、常務理事兼経理部長などを歴任。この間住友各社の役員を兼務。1946年辞任。1949年大阪建物社長、1960年辞任。 静岡県掛川市出身の政治家河井彌八の血縁者。 神宮寺(静岡県掛川市仁藤65)敷地内墓地にある墓所にて一族と共に眠る。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)… 松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)3月5日 - 1976年(昭和51年)11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県小笠郡掛川町(現掛川市)出身。漫画家の所十三は曾孫(ひ孫)。 1936年、戦艦金剛艦長に抜擢され、1937年まで務めた。 その後川棚海軍工廠長・佐世保軍工廠長などの要職を歴任し、1943年12月20日に予備役に編入される。予備役編入後は大谷重工業副社長に就任した。 終戦後の1947年11月、公職追放の仮指定を受けた。
石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1… 石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1月21日 - 1973年〈昭和48年〉1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家、出版者、曹洞宗の僧侶。化学工業新聞社、国際情報社、国光印刷、大法輪閣の創業者。 静岡県小笠郡大須賀町(現、掛川市)に生まれる。1891年、浜岡町新野(現、御前崎市)の想慈院に引き取られる。この頃、可睡斎で日置黙仙禅師に師事。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。
松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年… 松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年〉8月1日 - 没年不詳)は、明治初期から昭和初期にかけて活動した実業家。松本家第8代当主。掛川葛布商会会長。掛川銀行取締役。 松本家は江戸時代中期から掛川城下で「松屋」の屋号で葛布の販売を行っていた商家であった。松本家は19世紀には掛川藩から御用達に任じられ、帯刀と苗字の使用が許されていた。 松本義一郎は第7代松本家当主松本文治の婿養子として城東郡の名家であった黒田家(黒田源五郎3男)から1879年(明治12年)2月に入籍していた。しかし、文治が39歳の若さで亡くなると、1881年(明治14年)11月松本家当主となった。1882年(明治15年)、義一郎は城内農学社に製糸工場(資本金1万円)の設立の話が持ち上がると、6名の上位出資者に名を連ねて、豊田郡深見村の分社にも出資した。
寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦… 寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦明治5年3月1日〉 - 1937年〈昭和12年〉1月22日)は、日本のジャーナリスト、政治家。雅号は斗南(となん)。 合資会社静岡新報社での勤務を経て、株式合資会社静岡新報社主筆、静岡市会議員、静岡県会議員、静岡県会議長(第24代)などを歴任した。 静岡県出身のジャーナリストである。静岡新報社で主筆を務めるなど、地域の論壇で重きをなしていた。その傍らで、静岡市会議員や静岡県会議員など政治家としても活動した。 1872年(旧暦明治5年3月1日)、浜松県城東郡、のちの静岡県小笠郡佐束村に該当する地域で生まれた。 1901年(明治34年)2月1日に静岡新報社に入社した。
吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、187… 吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、1871年4月29日〈明治4年3月10日〉 - 1959年〈昭和34年〉5月22日)は、日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校(現・東京女子医科大学)創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。 東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。
山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈18… 山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈1868年8月3日〉 - 昭和20年〈1945年〉6月28日)は、日本の経済学者。法学博士。東京帝国大学経済学部長。専門は貨幣論、金融論。 静岡県掛川に父・徳次郎の長男として生まれる。冀北学舎を経て、明治22年(1889年)東京帝国大学政治科卒業、大学院で研究する。 東京帝大法科助教授、経済学部教授等を歴任し、のち経済学部長。社会政策学会で指導的役割をはたし、退官後は中央大学教授、日銀顧問、金融学会初代理事会長をつとめた。1913年(大正2年)5月29日、帝国学士院会員となる。 東大時代の教え子である賀屋興宣(大蔵次官、大蔵大臣)は山崎の貨幣論に感銘を受け、山崎の理論に依拠して日本銀行法を作ったと述べている。
角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1… 角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1月〉 - )は、日本の農家、政治家、銀行家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられているため、角替 九郎平とも表記される。 静岡県小笠郡土方村会議員、静岡県小笠郡土方村長、株式会社内田銀行頭取などを歴任した。 静岡県小笠郡土方村で農業を営んでいたが、政治家に転身し土方村会の議員に就任した。さらに土方村の村長に就任するなど、公職を歴任した。その後、内田銀行の頭取に就任するなど、銀行家としても活動した。 1866年(旧暦慶応2年1月)に角替九郞次の長男として生まれた。静岡県小笠郡土方村で農業を手広く手掛けており、角替家は豪農として知られていた。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日… 波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日(安政5年11月25日) - 1929年(昭和4年)9月16日)は、日本の実業家、政治家。帝国議会衆議院議員を務めた。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。『時事新報』記者、慶應義塾評議員、三井銀行理事、玉川電気鉄道取締役。 次男は波多野元武(三井物産)で、その妻は瀬下清(三菱銀行会長)の三女克、子(孫)が犬養智子である。長女みねは草間時光(草間時福次男)に、次女花は松井春生に、三女春は富井恒雄(男爵富井政章四男)にそれぞれ嫁いだ。系譜は犬養家の係累を通して正田家や天皇家にもつながっている。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
笠原 鯥太郞(かさはら むつたろう、1855年〈旧暦安政2年… 笠原 鯥太郞(かさはら むつたろう、1855年〈旧暦安政2年〉 - 1937年〈昭和12年〉)は、日本の政治家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、笠原 鯥太郎(かさはら むつたろう)とも表記される。 静岡県城東郡来福村戸長、静岡県城東郡千浜村長などを歴任した。 遠江国出身の政治家である。静岡県城東郡においては来福村の戸長を経て、千浜村の村長に就任した。来福村と成行村との合併を推進するとともに、両村の対立の収拾に成功した。また、砂地の開拓を推進し、千浜村に豊かな畑地を齎したことでも知られている。 1855年(旧暦安政2年)、遠江国城東郡来福村にて生まれた。
河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年… 河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年7月12日) - 1925年(大正14年)1月26日)は、日本の政治家。河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。 静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。 1854年、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。父である河井重高は上張村の庄屋であった。 静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山の鉱毒事件の解決に取り組んだ。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家の田中正造と知り合う。1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている。
原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年… 原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年〉 - 1901年〈明治34年〉)は、日本の政治家、銀行家、歌人。雅号は寬岡。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、原川 孫九郎(はらがわ まごくろう)と表記されることもある。 静岡県城東郡小貫村戸長、静岡県城東郡佐束村村長(初代)、株式会社佐束銀行専務取締役などを歴任した。 遠江国出身の政治家である。小貫村においては戸長を務め、佐束村においては村長に選任されていた。佐束山への植林に尽力し、豊かな美林を育てた。また、銀行家としての一面も持っており、佐束銀行で取締役を務め、地域経済の振興に努めた。
靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元… 靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元年3月13日〉 - 1907年〈明治40年〉4月18日)は、日本の銀行家、政治家。姓の「靑」は「青」の旧字体であるがJIS X 0208に収録されていないため、新字体で青野 卯吉(あおの うきち)とも表記される。 株式会社土方銀行頭取、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 遠江国出身の銀行家である。土方銀行で頭取を務め、地域振興に努めた。また、土方村においては村長に選任されていた。村境にある風吹峠が交通の難所となっていたため、これを解消すべく風吹トンネルの開通に尽力した。 1844年4月30日(旧暦弘化元年3月13日)、遠江国城東郡入山瀬村にて生まれた。
岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10… 岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10月21日(1839年11月26日) - 大正4年(1915年)1月1日)は、日本の農政家、報徳運動家、実業家、政治家、衆議院議員。遠江国報徳社社長、掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)創業者。 二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。 遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 … 成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 - 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。 遠江国佐野郡日坂(現・静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。安井の塾にいたとき、安井の作詩を代書した。明治8年(1875年)、宮中に出仕し、明治12年(1879年)、勅命によって王羲之の『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇はこれを嘉して楠木正成の遺物である尚方の硯を賜り、その居に賜硯と扁した。ついで諸葛孔明の「出師表」の真草2幅、明治14年(1881年)、十体書幅を献じた。
岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812… 岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812年8月16日) - 明治11年(1878年)3月3日)は、幕末-明治時代の農業指導者、報徳運動家。名は清忠。字は至誠。号は無息軒。 遠江国佐野郡倉真村(現:静岡県掛川市)の豪農。15歳で家を継ぐ。二宮尊徳の報徳思想を安居院庄七から学び感銘し、嘉永元年(1848年)居村に牛岡組報徳社を結社。長男良一郎と共に領内の荒地開墾、窮民救済に尽力した。明治8年(1875年)遠江国報徳社を設立し、社長となる。 大正7年(1918年)、従五位を追贈された。
西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年… 西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。初名はあい、お愛とされるが、お相が正しいとする説もある(後述)。徳川家康の側室となって以降は西郷局と称した。院号は宝台院。贈位を受けた際の名は源昌子。 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉を産んだ。 江戸後期に成立した『寛政重修諸家譜』・『以貴小伝』によれば、父は戸塚忠春とされる。母は源姓土岐氏流三河西郷氏とされ、西郷正勝の娘とされる。 幼少時、父忠春と兄の忠家が討ち死し、母とともに、祖父・西郷正勝に保護された。『以貴小伝』・『寛政重修諸家譜』では母が忠春の死後蓑笠之助正尚に嫁いだためにその養女になり、その後正勝に引き取られたとしている。
兵藤 庄右衛門(ひょうどう しょうえもん、 - 1820年8… 兵藤 庄右衛門(ひょうどう しょうえもん、 - 1820年8月7日〈旧暦文政3年6月29日〉)は、日本の葛布商。筆名は藤 長庚(とう ちょうこう)、再影館(さいえいかん)。法名は釈 静閑(しゃく せいかん)。 江戸時代に遠江国で活躍した葛布商である。一町人であるものの、本業の傍ら書道や絵画を嗜むなど、文化人として知られた存在であった。遠江国に関する名所図会である『遠江古蹟圖會』を著したことで知られている。 遠江国佐野郡掛川宿にて葛布を取り扱う商人であった。通人でもあり、本業の傍ら書道や絵画を嗜み、古銭や陶器を収集していた。また、箏や琵琶の演奏にも長けていたという。1803年(旧暦享和3年または4年)に大須賀陶山が編纂した紳士録『東海道人物志』にも、掛川宿の文化人の一人としてその名が掲載されている。
静岡の元教師すぎやま(しずおかのもときょうしすぎやま)は、日… 静岡の元教師すぎやま(しずおかのもときょうしすぎやま)は、日本のYouTuber、TikToker、教育評論家、SNSコンサルタント。教育現場の実態や先生の本音、LGBTQ+、SNS活用などをテーマに発信・執筆活動をおこなう。静岡県掛川市出身。松竹芸能所属。 中学校の音楽科教師として静岡県内で10年以上勤務、2018年に退職。退職後に起業したが、2020年のコロナ禍で収入がゼロになったのを機にYouTube、TikTokでの活動を開始。教育現場のリアル、不登校、ブラック校則などをテーマに発信し、YouTubeチャンネルの登録者数は約25万人、TikTokのフォロワー数は約40万人となった。また2021年に自身がゲイであることを公表。
大倉 重信(おおくら しげのぶ)は、日本の政治家。財団法人大… 大倉 重信(おおくら しげのぶ)は、日本の政治家。財団法人大石徳四郎奨学財団理事長。 静岡県掛川市助役(初代)、静岡県掛川市市長職務執行者、静岡県小笠郡大東町長(第9代)、静岡県小笠郡大東町助役(第9代)、静岡県小笠郡大東町議会議長(第11代)などを歴任した。 静岡県小笠郡にて、大倉重作の長男として誕生する。重作は政治家であり、大浜町の町長として城東村との合併を成し遂げ、大東町の町長に就任した人物である。重作の薫陶を受け、重信も政治を志すようになる。 1982年5月7日、父である大倉重作が現職町長のまま死去した。後任の町長には、大東町議会議員だった神谷庄平が選出された。それにともない欠員が生じ、同年6月に大東町議会議員選挙が行われた。
尾澤 聖子(おざわ せいこ)は、日本の水上オートバイ選手。新… 尾澤 聖子(おざわ せいこ)は、日本の水上オートバイ選手。新字体で尾沢 聖子(おざわ せいこ)とも表記される。ジェットスポーツにおける、日本人初のワールドチャンピオンである。 1990年代から2000年代にかけて、日本のジェットスポーツ界を代表する人物の一人である。日本ジェットスポーツ連盟のランキングでは、「PRO WSKI 800LTD」クラスで最高位1位であった。日本国外の大会にも数多く参加している。一例として、2005年10月、アメリカ合衆国での国際ジェットスポーツ協会世界選手権大会に出場し、「アマプロ女子スキー」クラスにて優勝した。その結果、ジェットスポーツにおける日本人初のワールドチャンピオンとなった。
河井 重高(かわい しげたか)は、日本の農家。通称は弥八郎(… 河井 重高(かわい しげたか)は、日本の農家。通称は弥八郎(やはちろう)。 遠江国佐野郡上張村庄屋、掛川藩人夫隊宰領、などを歴任した。 遠江国出身の農家であり、佐野郡上張村の庄屋(名主)を務めていた。掛川城に侵入して減租を直訴したことから、義民としても知られている。異国船の来航に際しては、掛川藩の領民で結成された人夫隊の宰領に任じられ、沿岸警備にも貢献した。 1834年(旧暦天保5年)、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。生家である河井家は富農であった。重高は掛川藩により庄屋に任じられ、村政を預ることになった。 安政年間になると、厳しい旱魃をはじめ、地震、台風、洪水、疫病など、さまざまな災害に見舞われるとともに、掛川藩の領内は凶作に陥った。
戸塚 静海(とつか せいかい、寛政11年(1799年) - … 戸塚 静海(とつか せいかい、寛政11年(1799年) - 明治9年(1876年)1月29日)は、幕末の蘭方医。幕府奥医師。名は維泰。 寛政11年(1799年)、遠江国掛川宿の医師・戸塚隆珀の三男として生まれる。長崎の鳴滝塾で、シーボルトよりオランダ医学を学ぶ。シーボルト事件に連座。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。同年7月3日、将軍・徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼に叙せられる。 文久2年(1862年)12月16日、竹内玄同とともに法印に昇叙、静春院と号す。将軍・徳川家茂の没後、和宮が静寛院宮と称したため、「静」の字を避けて杏春院と改名。
伏見 広綱(ふしみ ひろつな)は、平安時代末期の人物。源頼朝… 伏見 広綱(ふしみ ひろつな)は、平安時代末期の人物。源頼朝の右筆。伏見冠者藤原広綱と呼ばれる。 伏見氏は本姓は藤原氏で、遠江国佐野郡の豪族。広綱も同郡掛河(現在の静岡県掛川市)の出身。 文筆に秀で、鎌倉に幕府を構えた源頼朝が、朝廷の事に通じている者を探していた所を安田義定の推挙を受け、寿永元年(1182年)5月12日、鎌倉に参じて頼朝の右筆となった。その直後に頼朝が源義重の娘(祥寿姫)に宛てた艶書を届ける使いをしている。 寿永元年(1182年)11月10日、頼朝の愛妾亀の前を飯島(逗子市)の自邸に匿っていた事で、頼朝の妻北条政子の怒りを買い、政子の命を承けた牧宗親に邸を破壊された。広綱は亀の前を連れ、命からがら大多和五郎義久(三浦義明の子)の鐙摺(葉山町)の邸に逃れた。
村松 以弘(むらまつ いこう、安永元年(1772年) - 天… 村松 以弘(むらまつ いこう、安永元年(1772年) - 天保10年(1839年)は江戸時代後期の南画家・歌人。 名は維孝、字は以弘。 号は笠斎・小笠山房主人など。通称は奥五郎。遠州掛川 十九首の生まれ。 幼少より絵を描くことが好きだったので、伊勢の僧・月僊に学び、長じると江戸に出て谷文晁の画塾・写山楼に入門した。文晁が東海道を往来するとき、以弘の家に滞在したという。渡辺崋山にも画の指導を受けている。画力を認められ、時期は不明だが掛川藩御用絵師となった。同藩の儒者・松崎慊堂と交流した。 門下に福田半香・平井顕斎・村松弘道・僧思玄(尊永寺住持)・小栗松靄(浜松の庄屋)などがいる。
山内 政豊(やまうち まさとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐… 山内 政豊(やまうち まさとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐国土佐中村藩の第2代藩主。 慶長3年(1598年)、山内康豊の次男として遠江国掛川にて誕生した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伯父・山内一豊が徳川家に味方したため政豊が人質となり、身柄は徳川家の重臣である大久保忠隣に預けられた。慶長19年(1614年)の大坂の陣では兄・忠義に従って出陣する。 生来病弱だったため、慶長14年(1609年)には疱瘡にかかっており、寛永6年(1629年)4月8日、嗣子無く32歳で死去し、土佐中村藩は断絶した。