高邑 勉(たかむら つとむ、1974年5月30日 - )は、… 高邑 勉(たかむら つとむ、1974年5月30日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。鳩山由紀夫元首相が理事長を務める公益財団法人「友愛」理事。 山口県山口市生まれ。山口市立白石小学校、山口大学教育学部附属山口中学校、山口県立山口高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業(大学入学は指定校推薦による推薦入学[要出典])。 大学卒業後、日本生命保険相互会社、メリルリンチ日本証券勤務を経て、民主党参議院議員(当時)・鈴木寛の秘書を務める。2005年から北京大学国際関係学院・同大学院に留学し、修士号(国際関係専攻)を取得する。 2007年6月、次期総選挙に山口1区から民主党公認で立候補する意向を表明。
伊藤 和貴(いとう かずき、1958年〈昭和33年〉3月15… 伊藤 和貴(いとう かずき、1958年〈昭和33年〉3月15日 - )は、日本の政治家。山口県山口市長(2期)。 山口市出身。1980年、同志社大学法学部卒。同年、山口市役所に入る。職員課長、経済産業、総合政策、総務の各部長を歴任。2016年、山口市副市長となる。 2021年、山口市長の渡辺純忠が10月の市長選挙に不出馬を表明、そのため9月に出馬を表明した。10月の市長選挙では新人候補を破り、初当選した。2025年10月、市長選挙再選した。
伊藤 青波(いとう しょうは、1954年1月 - )は、日本… 伊藤 青波(いとう しょうは、1954年1月 - )は、日本の政治家である。山口県山口市議会議員(3期)、徳地町長(4期)等を歴任した。山口県立山口高等学校卒業。山口県山口市徳地町在住。
桝屋 敬悟(ますや けいご、1951年4月3日 - )は、日… 桝屋 敬悟(ますや けいご、1951年4月3日 - )は、日本の政治家。公明党アドバイザー。 衆議院議員(8期)、厚生総括政務次官、厚生労働副大臣、衆議院文部科学委員長、公明党政務調査会長代理、衆議院総務委員長などを歴任した。
小林 兼年(こばやし かねとし、1927年〈昭和2年〉6月7… 小林 兼年(こばやし かねとし、1927年〈昭和2年〉6月7日 - 1990年〈平成2年〉3月27日)は、日本の政治家。山口市長(1期)。 山口県山口市出身。旧制山口中(現山口県立山口高等学校)卒。1953年(昭和28年)、山口市役所に入る。市役所では納税、庶務の各課長、民生、総務の各部長などを経て、1981年(昭和56年)、山口市助役に就任する。 1987年(昭和62年)、山口市長選挙に無所属で立候補して、保守系無所属新人同士の一騎打ちを制して初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:78.3%(前回比:-pts) 同年4月27日に市長に就任した。 1990年3月27日、執務中に倒れ、急性心不全のため死去した。
佐内 正治(さない まさじ、1926年(大正15年)6月9日… 佐内 正治(さない まさじ、1926年(大正15年)6月9日 - 2019年(平成31年)4月24日)は、日本の政治家。山口市長(3期)。 山口県山口市出身。海軍兵学校を経て、敗戦後は山口県庁に入り、企画部長を務める。その後山口市議会議員を務め、山口県産業技術開発機構副理事長に就任する。 1990年の山口市長選に立候補して初当選、3期12年務めた。2002年に引退した。2019年4月24日で死去。92歳没。
中村 長芳(なかむら ながよし、1924年9月19日 - 2… 中村 長芳(なかむら ながよし、1924年9月19日 - 2007年10月18日)は、日本の政治家秘書・プロ野球チーム経営者。山口県山口市出身。 旧制山口中学校では安倍晋太郎と同級生であり野球部で活動、一塁手としてプレーし、甲子園を目指した。最終学歴は中央大学法学部卒業。 同郷であり、安倍の岳父であった岸信介の秘書となり、岸の内閣総理大臣在任中には内閣総理大臣秘書官を務めた。 1969年の第32回衆議院議員総選挙で、岸の側近の1人である今松治郎の秘書だった森喜朗は自由民主党の公認を得られず、無所属新人として出馬する際、岸の応援を中村に懇願した。中村は森の要望を快諾した。森を応援するため、岸は多忙な合間を縫って石川県小松市に赴いた。
柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 199… 柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 1998年)は日本の部落解放運動家、実業家、政治家、ヤクザ。小郡商事(現、ファーストリテイリング)創業者。同代表、全日本同和会初代会長、同山口県連合会会長、山口県部落対策審議会委員、総理府同和対策協議会ならびに同和対策審議会委員、山口市議会議員、山口県議会議員、田中龍夫後援会会長などを歴任した。 ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正の父である柳井等の兄にあたる。また、政雄の叔父の柳井傳一は全国水平社の創立大会の参加者で、みずから創設に尽力した山口県水平社の聯盟本部役員を務めた。 山口県吉敷郡小郡町(現・山口市小郡)で牛馬商の柳井周吉の四男として生まれる。
宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1… 宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月19日)は、日本の社会事業家、政治家。参議院議員。旧姓・植田。 山口県吉敷郡山口町(現山口市)で、植田久之丞の二女として生まれる。1914年3月、奈良女子高等師範学校博物家事部を卒業し、母校の助教諭となる。 1920年から1923年まで大原社会問題研究所で児童保護問題などを研究。1922年、旧少年法が制定されたことに伴い、同年、文部省・司法省嘱託としてアメリカ合衆国に渡り少年保護事業などを研究した。帰国後、東京少年審判所で日本初の婦人保護司に就任した。1927年、大審院検事・宮城長五郎と結婚したが、1942年に死別した。
伊藤 三樹三(いとう みきぞう、1888年〈明治21年〉3月… 伊藤 三樹三(いとう みきぞう、1888年〈明治21年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月29日)は、山口県出身の政治家。衆議院議員、山口県会議長、徳地町長などを務めた。 山口県佐波郡柚野村(現・山口市)生まれ。1907年(明治40年)広島市の修道中学校(現:修道中学校・高等学校)卒業。柚野村長、佐波郡会議長、山口県会議員、山口県会副議長、山口県会議長、徳地町長を歴任した。1942年(昭和17年)4月30日の第21回衆議院議員総選挙に山口県2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、立候補し当選。衆議院議員を一期務めた。 戦後は公職追放となった。
中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日… 中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日 - 1951年(昭和26年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、山口市長。弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1898年(明治31年)に裁判所書記登用試験に合格し、裁判所書記となった。1903年(明治36年)に弁護士試験に合格して弁護士となり、後には山口弁護士会会長に選出された。山口町会議員、山口県会議員、同議長を歴任。 1933年(昭和8年)、山口市長に選出された。その後、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、山口土地建物株式会社監査役を務めた。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月… 本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月) - 1908年(明治41年)7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国吉敷郡嘉川村(のち山口県吉敷郡嘉川村、現・山口市)生まれ。嘉川村戸長、同村長、山口県会議員、吉敷郡会議員、同参事会員、同議長となる。また、山口県農会名誉会員、同幹事、同代表者となった。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において山口1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年… 山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年10月8日〉- 1917年〈大正6年〉12月22日)は、日本の政治家。子爵。 長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現:山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。1852年(嘉永5年)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。 1861年(文久元年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。1862年(文久2年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天… 長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。 周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる。大田稲香の指導を受け、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。