井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7… 井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7年2月5日) - 1927年(昭和2年)12月15日)は、日本の農学者、政治家。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選2回)。族籍は山口県士族。 長門国阿武郡萩町(現萩市)出身。山口県士族・井原勘兵衛の二男で、先代井原壽の養子となり家督を相続する。 1880年(明治13年)、駒場農学校農学科を卒業し、1883年(明治16年)には同校農芸化学科を卒業した。農商務省御用掛、山口中学校教諭、山口農学校校長、山口高等中学校教諭、宮城農学校校長、宮城県技師を歴任した。1898年(明治31年)より大阪府技師、大阪府立農学校校長を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政… 山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政4年12月23日〉- 1927年〈昭和2年〉9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。 長州藩藩士勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。明治維新の立役者の一人であった有朋には三男四女があったが、次女以外夭折して山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。 ドイツ留学後、内務官僚として徳島県知事、三重県知事、内務省地方局長、内務次官などを歴任した。1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。しかし、鉄道建設に関する予算問題をめぐって大蔵大臣の阪谷芳郎と対立した末、1908年(明治41年)1月に逓相を辞任している。
賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴ… 賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である。日本統治時代の台湾における実業界の大物。相場師「賀田金」としても知られる。 1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる。漢学を学び、やがて家業を継ぐ。 1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(185… 新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(1856年11月7日) - 昭和5年(1930年)11月7日)は、獣医学博士、下総御料牧場長、新冠御料牧場長、馬政官、農商務技師、宮中顧問官。日本の官民両面における畜産業、特に馬産事業の貢献者。正三位旭日重光章受章。 種畜の改良、繁殖、育成等を通じた飼養管理や治療法等の功績により『日本獣医学の生みの親』として知られる。 岩山敬義によって創設された駒場農学校(後の東京大学農学部)で獣医学を学び、ヨーロッパの畜産業の視察のため藤波言忠子爵に随行した。この間、ドイツ語が堪能であったことから渡欧中だった伊藤博文一行と会い、通訳や翻訳の仕事にあたり、明治憲法制定に一役買ったとされる。
片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(185… 片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。 山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。 宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。 日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。 代表作である旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年… 山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年2月15日〉- 1928年〈昭和3年〉4月4日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。勲一等受章。 長州藩士・山根修平の二男として生まれる。明倫館で学び、警視庁巡査を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校に入学。少尉試補、工兵少尉・工兵第1大隊付を経て、1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧1期)を卒業する。 参謀本部出仕(清国駐在)、参謀本部管西局、清国差遣、ドイツ駐在、ドイツ・オーストリア留学、工兵第1大隊長、参謀本部第1局員などを経て、日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征した。続けて台湾平定(乙未戦争)に臨時台湾鉄道隊隊長として従軍。
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4… 真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日)- 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。 陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850… 高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日) - 昭和6年(1931年)1月10日)は、明治~大正期の日本画家。本名は、得三(とくぞう)。なお三女に映画女優の高島愛子がいる。 父親の手ほどきもあり、幼少の頃から絵を描くことが好きであったが後、徳山(現・山口県周南市)出身の大庭学僊(おおば がくせん)に本格的に学ぶ。明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。 1990年代以降には、近代アカデミズム成立以前の先駆的な地形学者、地質学者、地理学者としての再評価が進んでいる。 長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれ、学んだ明倫館では、9歳(当時)で下郷していた後の陸軍大将・乃木希典との交友もあった。
粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 … 粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 - 1919年〈大正8年〉9月24日)は、幕末の長州藩士、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等功三級。 長門国阿武郡椿郷西分村(現山口県萩市)で、長州藩士・粟飯原衛門兵衛の長男として生まれた。四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争での奥州各地の戦闘に参戦した。 1872年(明治5年)2月、陸軍少尉に任官。西南戦争では別働狙撃大隊(長:河野通好少佐)の第1中隊長を務め、佐賀県を転戦のち熊本城下守備につく。1891年(明治24年)4月に陸軍歩兵中佐・歩兵第19連隊長に補任され、第3師団・桂太郎中将隷下で日清戦争に出征し、海城攻防戦にて奮戦した。
斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年… 斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年1月20日) - 1922年(大正11年)7月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級、功二級。 周防山口藩領阿武郡椿郷東分村(山口県阿武郡椿郷東分村、椿東村、萩町を経て現萩市)出身。士族・斎藤喜作の長男として生まれ、1880年(明治13年)家督を相続する。1872年(明治5年)4月、陸軍歩兵少尉に任官する。1878年(明治11年)陸軍戸山学校に入学。以来累進し、日清戦争では第2軍兵站司令官として出征。のち歩兵第1連隊長に転じ、1897年(明治30年)10月、大佐に進む。1901年(明治34年)11月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第14旅団長に補され日露戦争に出征し、第1師団と協同し203高地攻略で軍功を挙げ、その後も第3軍の主力部隊として戦った。
鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年… 鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年1月10日〉- 明治38年〈1905年〉4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。 弘化4年12月5日(1848年1月10日)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。安政5年(1858年)に父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ。万延元年(1860年)に帰藩して家督を相続。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた。長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。
桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月… 桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846… 正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846年12月12日) - 1896年(明治29年)4月5日)は、明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。 弘化3年(1846年)10月24日、長門国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。 安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年… 山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年5月15日〉- 1904年〈明治37年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵。 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。
国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1… 国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1915年(大正4年)12月25日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。秋田県権令。他の通称・千吉郎、号・水門。 長門国萩城下で長州藩士・国司右内、まし夫妻の息子として生まれた。安政4年(1857年)春、松下村塾に入り、安政5年(1858年)吉田松陰の野山再獄まで指導を受ける。文久3年(1863年)若殿様御前詰、元治2年(1865年)御小姓役となる。また、干城隊に入り、その後御楯隊に転じ、改組された整武隊に慶応3年(1867年)まで在籍した。慶応4年2月(1868年)、御蔵元順番検使役に任ぜられ、以後会計局検使、大坂検使役、会計局権大属などを歴任。
木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(184… 木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。 長州藩士・木梨彦右衛門(大組、63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。 長州藩兵第1大隊長を経て明治4年(1871年)に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年(1872年)の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年(1873年)8月、依願免本官となり位階の返上をした。
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844… 山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844年11月18日〈天保15年10月9日〉- 1892年〈明治25年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。 吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天… 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保1… 田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保13年9月20日〉- 1899年〈明治32年〉3月4日)は、幕末の長州藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれた。江戸に遊学し江川英龍の江川塾で砲術を学び、帰藩して萩調製方に出仕した。四境戦争、戊辰戦争に従軍した。 1871年(明治4年)御親兵として上京。佐賀の乱、西南戦争に従軍した。 1885年(明治18年)5月、参謀本部副官に就任。1886年(明治19年)5月、歩兵第6連隊長となり、1888年(明治21年)11月、陸軍歩兵大佐に昇進。近衛歩兵第1連隊長、陸軍省人事課長を歴任し、1894年(明治27年)10月、陸軍少将に進み歩兵第8旅団長に就任。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈184… 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈1841年5月12日〉 - 1885年〈明治18年〉1月18日)は、日本の武士(長州藩士)、官僚。愛知県令。諱は景孝、景廉、景行。通称は鶴之進、直之進、直人、晩年には廉平。変名は逸水清助。雅号は韓山。 天保12年3月(1841年5月)、長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた。文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる。 慶応2年正月(1865年)、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力。慶応2年5月(1866年)、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた。
国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈18… 国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈1840年11月30日〉 - 1901年〈明治34年〉10月27日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎、篤次郎。漢詩・書に堪能で、半山と号した。 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した。 維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1… 境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1900年〈明治33年〉2月9日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。島根県令(現在の知事)。旧名・斎藤栄蔵。名・建直(たてなお)、字・子(士)彦。 長門国萩土原村(現・山口県萩市)の長州藩士の斎藤貞順の二男として生まれる。当時の名前は斎藤栄蔵、のち境与三兵衛の養子となり、明治初年に境二郎と改名。 15歳の嘉永3年(1850年)藩校明倫館で教授する吉田松陰の門人となる。18歳のとき江戸に遊学後いったん帰郷、21歳の安政3年(1856年)、松下村塾に入門して門下生になる。その後、塩谷宕陰にも師事した。文久3年(1863年)、明倫館文章掛等を歴任。
木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26… 木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。雅号は松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩、会津藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らと結び、藩の尊王攘夷派における指導者的立場となった。
森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月… 森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月11日〉 - 1894年〈明治27年〉6月2日)は、日本の幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、日本画家。本姓は石田。幼名は幸吉、のち尚太郎。諱は公粛。字は子容、または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山、造化室、天開図画楼。 森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。若い頃は攘夷運動に熱中したのとは裏腹に、温和で情趣的な画風で、「明治の応挙」と評された。 長州藩士、石田傳内道政の三男として生まれる。父道政は藩の分限帳などに名が無く、家督を継いだ長兄は『金禄券根帳』に「給禄米壱石八斗」とあることから、微禄の下級藩士だったようだ。
岩崎 秀樹(いわさき ひでき)は、日本の教育学者。教育学博士… 岩崎 秀樹(いわさき ひでき)は、日本の教育学者。教育学博士(数学教育学)。広島大学教育学研究科教授。広島大学附属福山中学校・高等学校元校長。 全国数学教育学会、日本科学教育学会、日本数学教育学会
野坂 正隆(のさか まさたか) は、日本の機械工学者。宇宙航… 野坂 正隆(のさか まさたか) は、日本の機械工学者。宇宙航空研究開発機構ロケットエンジン研究開発センター長や、東京大学大学院工学系研究科教授、IHI技術顧問などを歴任した。 山口県萩市出身。山口県立萩高等学校を経て、1970年広島大学工学部精密工学科卒業。1972年広島大学大学院工学研究科精密工学専攻修士課程修了、科学技術庁航空宇宙技術研究所宇宙研究グループ第9研究グループ研究員。2001年航空宇宙技術研究所角田宇宙推進技術研究所ロケット推進研究センター長。2003年宇宙航空研究開発機構総合技術研究本部宇宙推進技術共同センターロケットエンジン研究開発統括ユニット長。2004年宇宙航空研究開発機構総合技術研究本部ロケットエンジン研究開発センター長。
吉賀 陶馬ワイス(よしが とうまワイス)は日本で活動するミュ… 吉賀 陶馬ワイス(よしが とうまワイス)は日本で活動するミュージカル俳優である。山口県萩市出身。劇団四季所属。 高校時代は合唱部に所属。エリザベト音楽大学演奏学科声楽専攻卒業後の2002年に劇団四季研究所へ入所した。マンマ・ミーア!にアンサンブルで初の舞台出演を果たした後、舞台への出演を重ねていき、2016年6月8日にはノートルダムの鐘製作発表に参加している。 父親はデンマーク人、母親は日本人のハーフである。 広島東洋カープファンであり、エリザベト音楽大学時代は旧広島市民球場の近くに住んでいた。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
奥平 謙輔(おくだいら けんすけ)は、幕末から明治時代初期の… 奥平 謙輔(おくだいら けんすけ)は、幕末から明治時代初期の長州藩士、志士。萩の乱の首謀者の一人。 天保12年(1841年)2月12日、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡、新発田、新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士・秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。またその際には秋月から会津藩士の少年2人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団の工兵大隊長を務めた小川亮である。
長井 紀幸(ながい のりゆき)は、元山口放送 (KRY) の… 長井 紀幸(ながい のりゆき)は、元山口放送 (KRY) のアナウンサー。 山口県萩市相島出身。相島に15年間住んだ後、東京都とアメリカで学生生活を送っていた。東京アナウンスセミナーの15期生。 帰郷後、2015年4月に山口放送に入社。同期に同局アナウンサーの高松綾香がいる。 2017年10月いっぱいで山口放送を退社。退社後にはアナウンサー以外の道へ進むことを公表している。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。