坂井 英隆(さかい ひでたか、1980年〈昭和55年〉5月7… 坂井 英隆(さかい ひでたか、1980年〈昭和55年〉5月7日 - )は、日本の政治家、弁護士、国土交通官僚。佐賀県佐賀市長(2期)。父は衆議院議員を務めた坂井隆憲。 佐賀県佐賀市生まれ。佐賀大学教育学部附属小学校、弘学館中学校・高等学校、東京大学法学部。2004年、慶應義塾大学法科大学院に入学、2006年に修了し、法務博士号を取得した。2008年、司法試験に合格し、弁護士登録の後、東京都内の法律事務所に勤務した。2014年、国土交通省に入省し、大臣官房や自動車局、鉄道局、水管理・国土保全局にて勤務した。 2021年、国土交通省を退官し、10月投開票の佐賀市長選挙に出馬する意向を表明した。8月には自由民主党佐賀県支部連合会が坂井の推薦を決定したが、県連内には別の候補を推す声もあり、自民党所属の佐賀市議会議員の半数は、連合佐賀が推薦し、市長選に出馬せず引退する意向を表明した秀島敏行が支持、立憲民主党佐賀県連が支援する、元・佐賀市地域振興部長の古賀臣介の支援に回った。
一ノ瀬 裕子(いちのせ ゆうこ、本名・牟田裕子、1971年9… 一ノ瀬 裕子(いちのせ ゆうこ、本名・牟田裕子、1971年9月20日 - )は、日本の政治家、元アナウンサー。佐賀県県議会議員(2期)。 佐賀県佐賀市出身。佐賀大学教育学部附属小学校、同中学校、佐賀西高校を経て早稲田大学に進学。卒業後の1994年に地元佐賀のサガテレビに入社し、1998年にフリーアナウンサーとして独立。アナウンサーとしてはニュース番組のキャスターや情報番組のMCを務めたほか、めざましテレビでの佐賀からの中継リポーターも担当した。また自治体・企業による各種シンポジウムのコーディネーター、講演会やイベントの司会、全国植樹祭や赤十字大会など皇室が関係する行事での式典司会なども務めた。 2019年、佐賀県議会議員選挙の佐賀市選挙区に無所属で立候補を表明。
川崎 稔(かわさき みのる、川﨑 稔、1961年3月7日 ‐… 川崎 稔(かわさき みのる、川﨑 稔、1961年3月7日 ‐ )は、日本の政治家。参議院財政金融委員長、参議院議員(1期)を務めた。 佐賀県佐賀市生まれ。佐賀県立佐賀西高等学校、1984年京都大学経済学部卒業。1984年、日本銀行に入行。日銀新潟支店総務課長や本店経営企画室調査役を経て、2004年に退職。 同年、第20回参議院議員通常選挙に佐賀県選挙区から民主党公認で出馬したが、自由民主党現職の岩永浩美に惜敗し、落選。2007年、第21回参議院議員通常選挙に再び佐賀県選挙区から民主党公認で出馬し、自民党新人の川上義幸を破り初当選を果たした。佐賀県選挙区では、それまで自民党(前身の自由党も含む)が21回連続(補欠選挙1回を含む)で議席を獲得していたが、この時初めて野党系候補に敗れた。
木下 敏之(きのした としゆき、1960年〈昭和35年〉2月… 木下 敏之(きのした としゆき、1960年〈昭和35年〉2月12日 - )は、日本の政治家、農林水産官僚。参政党所属の衆議院議員(1期)。 東京大学法学部卒業。佐賀市長を2期務め、福岡大学経済学部産業経済学科教授などを歴任した。2025年3月に福岡大学を定年退職し、現在は同大学の非常勤講師として「九州経済論」と「情報社会と経済」を担当している。 佐賀市生まれ。母方の叔父2人が陸軍少佐(日華事変で戦死)と学徒動員(ミャンマーで戦死)で、父も陸軍士官学校の軍人だった。 佐賀大学教育学部附属小学校、ラ・サール中学校・高等学校、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業。1984年(昭和59年)、農林水産省に入省した。
宮島 剛(みやじま たけし、1925年〈大正14年〉9月19… 宮島 剛(みやじま たけし、1925年〈大正14年〉9月19日 - 2006年〈平成18年〉4月3日)は、日本の厚生官僚、政治家。佐賀県佐賀市長(2期)。 佐賀県佐賀市出身。1949年(昭和24年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年厚生省に入省し、薬務局長、官房長などを歴任する。1976年(昭和51年)に退官。退官後は親類が経営する会社に勤めた。 1979年の佐賀市長選挙に立候補して当選、2期務める。2期目が満了に近づいた1986年暮れ、病に倒れ市長を辞任した。翌1987年船員保険会会長に就任した。その後、日本血液製剤協会理事長を務めた。2006年4月3日入院先の東京都港区の病院で死去。
小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月… 小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月16日 - 1987年(昭和62年)12月23日)は、日本の政治家、実業家、鍼灸師。参議院議員(1期)。 佐賀県佐賀郡鍋島村(現佐賀市)で小林鹿三郎の四男として生まれた。1927年 (昭和2年)鍼灸術営業免許所得[要出典]。熊本逓信講習所を卒業し、さらに1928年(昭和3年)無線電信講習所を卒業した。 1922年(大正11年)通信事務員となり、以後、警視庁技手、国際汽船事務長、無線電信技士、山王工業社長、日本光学兵器社長、自家用自動車組合理事、官立無線同窓会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)東京都鍼灸按マッサージ師会理事長及び日本鍼灸按マッサージ師会副会長、全国鍼灸按マッサージ医法制定実行委員会書記長に就任[要出典]。
福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3… 福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3日 - 1931年(昭和6年)6月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事。 佐賀市出身。兄は佐賀商業会議所会頭となった福田慶太郎。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学卒業。司法官試補から福岡地方裁判所判事、小倉区裁判所判事、熊本区裁判所検事、熊本地方裁判所検事、福岡地方裁判所検事、仙台区裁判所検事、神戸区裁判所検事兼神戸地方裁判所検事を歴任した。1919年(大正8年)、官を辞し、海運業を営んだ。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で逓信参与官を務めた。
大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864… 大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864年6月16日) - 昭和20年(1945年)5月11日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。 佐賀藩士大石良英の二男として生まれる。藩校弘道館で学ぶが、東京に出て神田共立学校、大学予備門で学んだ。その後大隈重信の知遇を得、1884年(明治17年)に大隈の勧めでアメリカ合衆国のラトガース大学に留学した。ラトガーズ大学で学位を得た後、1889年(明治22年)にニューヨーク大学に入り、1892年(明治25年)に哲学博士号を得た。 帰国後は『報知新聞』記者や東京専門学校(現在の早稲田大学)講師を務めた。1897年(明治30年)、大隈が農商務大臣に就任するとその秘書官となり、翌年に大隈が内閣総理大臣に就任にすると秘書官となった。
狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863… 狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 大正12年(1923年)4月29日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会)。 肥前国佐賀郡赤松(現在の佐賀県佐賀市)出身。狩野玄介、タキ夫妻の長男として生まれる。西肥日報社の経営にあたった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3… 江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1910年(明治43年)1月6日)は、明治時代の政治家、衆議院議員。幼名松次郎。号は節山。初代司法卿、江藤新平の次男。次男は江藤夏雄(衆議院議員)。 江藤新平の次男として佐賀に生まれる。1874年(明治7年)に父・新平が佐賀の乱に敗れ刑死すると、新平の弟の源作に引き取られた。新作の名は父と叔父から1字ずつ取ったものである。1878年(明治11年)に佐賀県参事や水戸裁判所長などを歴任した元佐賀藩士の家永恭種が開いた戊寅義学に入学。また1883年(明治16年)に4歳年上の兄・熊太郎が23歳で亡くなると江藤家の家督を継いでいる。
武富 時敏(たけとみ ときとし、1856年1月16日〈安政2… 武富 時敏(たけとみ ときとし、1856年1月16日〈安政2年12月9日〉- 1938年〈昭和13年〉12月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。第1次大隈内閣書記官長、第2次大隈内閣逓信大臣および大蔵大臣。佐賀藩出身。幼名は元吉郎。唇堂と号した。 佐賀藩士・武富良橘の長男として佐賀に生まれる。明治維新後、一旦上京して英学を学ぶが、後に帰郷して独学の後に塾を開く。佐賀の乱に参加するものの、首謀者ではなかったために無罪放免となった。1878年(明治11年)に家永恭種らが開校した私立中学校「戊虎義学」で教師を務める。 その後、再び上京して大学南校で学んだ。副島種臣と出会い、1882年(明治15年)の九州改進党の結成に参加し、「肥前日報」を創刊。
有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5… 坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県佐賀郡北川副村新郷を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだ。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた。 1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した。
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年… 江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 1851年(嘉永4年)、肥前国佐賀郡大堂村(東川副村、諸富町を経て現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。
家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永… 家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永2年10月10日) - 1913年(大正2年)8月5日)は、明治から大正時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。新聞経営者。衆議院議員(3期)。 佐賀藩士。肥前国佐賀郡西田代町(現佐賀市)生まれ。安政3年(1856年)に藩校弘道館に入り漢学を修める。戊辰戦争に従軍し奥羽で戦傷を受けた。明治維新後、佐賀藩中学校(のち佐賀中学校、現・佐賀県立佐賀西高等学校)寮監を務めたのち明治5年(1872年)上京、江藤新平宅に寄寓し、漢学およびドイツ語を修めた。江藤と共に帰郷後、明治7年(1874年)の佐賀の乱で戦った。その後、兄の家永恭種が同志と共に興した政治結社「松風社」に参加し民権の発揚を訴え、明治8年(1875年)同社の長崎支社の支社長となり、1878年(明治11年)長崎上等裁判所より代言人の免許を得る。
相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保1… 相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保12年6月23日〉- 1911年〈明治44年〉4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。官位は従二位勲一等功三級男爵。旧名は忠一郎。 佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。 1869年(明治2年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。1873年(明治6年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。 1879年(明治12年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、1885年(明治18年)12月に海軍少将となる。
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9… 大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第26・28代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学の創設に関わったほか、長崎の私塾でチャニング・ウィリアムズに師事して英学を学び、外交的素養を培った旧誼から、立教大学の発展を深く支援した。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3… 江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年… 大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年3月23日〉- 1899年〈明治32年〉9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家。通称を幡六[要説明]、民平[要説明]。 栄典は正二位勲一等伯爵。 肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。出身家の詳細については大木家を参照。 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。
副島 種臣(そえじま たねおみ、1828年10月17日〈文政… 副島 種臣(そえじま たねおみ、1828年10月17日〈文政11年9月9日〉- 1905年〈明治38年〉1月31日)は、日本の政治家。侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 初名は二郎(じろう)、龍種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。 佐賀藩士・枝吉南濠の次男として生まれる。兄は枝吉神陽。藩校・弘道館教諭を経て、尊王攘夷運動に奔走し兄と共に「義祭同盟」に参加。
佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日〈文政5年12… 佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日〈文政5年12月28日〉- 1902年〈明治35年〉12月7日)は、明治期の日本の政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。栄典は正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。 1823年(文政6年)、佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村、現:佐賀市)に生まれる。幼名は鱗三郎。1831年(天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・弘道館に学び、1837年(天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。