是永 瞳(これなが ひとみ、1995年7月15日 – )は、… 是永 瞳(これなが ひとみ、1995年7月15日 – )は、日本のタレント、モデル、女優。大分県豊後高田市出身。オスカープロモーション所属。福岡大学在学。
大分県 豊後高田市:25人
※有名人ナビに登録されている25人を職業別に数えました。複数の職業を持つ人は、それぞれの職業に数えています。
是永 瞳(これなが ひとみ、1995年7月15日 – )は、… 是永 瞳(これなが ひとみ、1995年7月15日 – )は、日本のタレント、モデル、女優。大分県豊後高田市出身。オスカープロモーション所属。福岡大学在学。
河野 行恵(こうの いくえ、1991年12月10日 - )は… 河野 行恵(こうの いくえ、1991年12月10日 - )は、テレビ新広島のアナウンサー。大分県豊後高田市出身。 小学校から高校までテニスをしていた。高校は元アナウンサーの青坂匠と同級生であった。大学では軽音楽サークルでSuperflyのコピーバンドを組んで歌っていた。 大学卒業後、山形テレビアナウンサーを経て2017年4月よりテレビ新広島アナウンサー。『ひろしま満点ママ!!』(火・水・木曜)や『TSSプライムフライデー』のMCを担当している。 2020年第36回FNSアナウンス大賞 番組部門 ブロック賞を「瀬戸内島さんぽ」で受賞。河野にとってFNSアナウンス大賞において初の受賞となった。 2021年7月23日放送の『ひろしま満点ママ!!』などへの出演を最後に産休に入り、2023年4月から職場復帰した。
今成 佳奈(いまなり かな、1984年12月28日 - )は… 今成 佳奈(いまなり かな、1984年12月28日 - )は、日本のシンガーソングライター。大分県豊後高田市出身。大分県立高田高等学校卒業。血液型はO型。父親、母親共に大分県出身。3歳下の妹がいる。本名、同じ。 5歳でクラシック・ピアノを習い始める。 中学ではバレー部に所属。高校ではインターアクト部に所属し地域ボランティア活動や国際交流活動を積極的に行い、部長も務めた。 16歳のとき大分市の百貨店トキハで開催された「中高生カラオケパラダイス」に友人の母親の推薦で出場。MISIAの忘れない日々を歌い、「応援頑張ったで賞」を受賞。当日審査員で訪れていた音楽プロデューサーの橋本浩克に見いだされ、後日東京のスタジオでオーディションに参加。
野間 洋子(のま ようこ、1978年11月14日 - )は、… 野間 洋子(のま ようこ、1978年11月14日 - )は、元テレビ大分のアナウンサー。大分県豊後高田市出身。血液型A型。 2001年4月2日にテレビ大分に入社。2006年3月31日にテレビ大分を退社。 趣味はドライブ、映画鑑賞、ショッピング。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。
田﨑 昌弘(たざき まさひろ、1974年9月30日 - )は… 田﨑 昌弘(たざき まさひろ、1974年9月30日 - )は、大分県西国東郡真玉町(現:豊後高田市)出身の元プロ野球選手(投手)。
笹原 廣喜(ささはら ひろき、1974年4月20日 -)は、… 笹原 廣喜(ささはら ひろき、1974年4月20日 -)は、大分県豊後高田市出身の車いす陸上競技選手である。 25歳の時、配送の仕事中の事故で脊髄を損傷。希望を失い、現実を受け入れられずにいた時、入院していた福岡県飯塚市の総合せき損センターで出会った車いすテニスがきっかけで車いすでもスポーツができることを知り、パラリンピックの車いすマラソンをテレビで見たことで生きる目標を見つけることができたという。北京パラリンピックで銀メダルを獲得した後、現在は競技の第一線を退き、トップアスリートとしてではなく、市民ランナーとして大会に参加している。太陽の家内にあるオムロン太陽勤務。 5人の先頭集団によるトラック勝負となったが、35km付近で先頭に出た笹原がトップで陸上競技場に入るとそのまま逃げ切り、日本人として初めて優勝した。
金田 政彦(かねだ まさひこ、1969年4月30日 - )は… 金田 政彦(かねだ まさひこ、1969年4月30日 - )は、大分県豊後高田市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。 高田高等学校から社会人野球の日産自動車九州へ進むと藤井将雄と投手陣の軸となる、補強選手として都市対抗野球に出場した1992年のドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブに入団。 1993年(1年目)から一軍で登板したが、制球難と単調になりやすい投球スタイルから中々定着できずにいたが、1995年にはウエスタン・リーグで最多勝を獲得した。 1996年、先発ローテーション入りしたが、6勝8敗と負け越した。日本シリーズ第4戦では2番手で登板した。 1997年、星野伸之以外に左の先発投手がいなかったチーム事情もあり、飛躍を期待されたが開幕は二軍スタートとなり、6月後半にやっと一軍初先発となり初登板初勝利を挙げたが、その後に3連敗を喫して二軍落ち。
岡口 基一(おかぐち きいち、1966年〈昭和41年〉2月2… 岡口 基一(おかぐち きいち、1966年〈昭和41年〉2月28日 - )は、日本の元裁判官(法曹資格喪失)。大分県出身。 2024年4月に裁判官弾劾裁判において罷免判決を受けて裁判官を罷免され、同時に法曹資格を喪失した(弁護士登録ができない、検察官として採用されることもない)。同制度で罷免された元裁判官としては8人目である(後述)。 岡口は、SNSの一つであるTwitter上に、縄で縛られた上半身裸の男性の画像や「これからも、エロエロツイートとか頑張るね」などの投稿を行い、裁判所から幾度も指導を受けていたもののこれに従わなかったため、戸倉三郎東京高等裁判所長官から口頭で厳重注意を受けていたと2016年6月27日に報道された。
織田 浩司(おりた こうじ、1962年5月17日 - )は、… 織田 浩司(おりた こうじ、1962年5月17日 - )は、日本のサクソフォーン・フルート・クラリネット・トロンボーン・ドラム奏者。 大分県豊後高田市生まれ、山口県下関市育ち(公式には出身地を下関市としている)。山口県立豊浦高等学校卒業後、1990年7月に米米CLUBのホーンセクション「BIG HORNS BEE」にオリタ・ノボッタ名義で参加。以後、スタジオ・ミュージシャンやサポートメンバーとしてB.B.キング、Char、TUBE、小柳ゆき、平井堅、米倉利紀、鈴木雅之らと共演する。 吹奏楽の愛好家としても知られ、吹奏楽雑誌などへの寄稿や、全国各地のアマチュアの吹奏楽団体(市民吹奏楽団のような一般吹奏楽団体や、中学校・高等学校の吹奏楽団体)との共演・ゲスト出演やクリニック指導も行っている。
是永 巧一(これなが こういち、1961年12月25日 - … 是永 巧一(これなが こういち、1961年12月25日 - )は、日本のギタリスト、音楽プロデューサー。ハーフトーンミュージック所属。大分県豊後高田市出身。 18歳でプログレッシブロックバンド・Quaserに加入。その後は山岸潤史や森園勝敏とのセッションを経て大学入学と前後してプロミュージシャンとしての活動をスタート。 1986年(レコーディングでは1985年)よりレベッカのギタリストとして、再結成後も一貫して活動を共にする。同時期よりスタジオ・ミュージシャンとして数多くのアーティストのライブやレコーディングに参加、アレンジャー/プロデューサーとしても多くのアーティストを手がけている。レベッカ解散後は、小田原豊、高橋教之、柴田俊文、宮原学とBABY'S BREATHを結成。
山田 泉(やまだ いずみ、1959年3月28日 - 2008… 山田 泉(やまだ いずみ、1959年3月28日 - 2008年11月21日)は、大分県豊後高田市出身の養護教諭。旧姓は土谷。 生家は和菓子店を営んでいた。1979年から養護教諭として大分県内の小中学校に勤務していた。 豊後高田市立田染中学校に勤務していた2000年2月、乳がんを発症し、休職して手術を受けた。2002年4月に復職し、自らの体験をもとに「いのちの授業」に取り組んだ。 しかし、2005年11月にがんが再発。再び手術を受けるために、休職。2006年10月に復職したが、体力的限界から2007年3月退職した。退職後も、全国各地の学校に招かれ講演会などを続けていたが、2008年11月21日に大分市内の病院で死去した。
方倉 陽二(かたくら ようじ、1949年〈昭和24年〉3月1… 方倉 陽二(かたくら ようじ、1949年〈昭和24年〉3月14日 - 1997年〈平成9年〉4月8日)は、日本の漫画家。大分県豊後高田市出身。 高校卒業後、大学入試には合格したが家庭の事情で進学しなかった。1969年より『COM』誌の投稿漫画で早くも漫画ファンの注目を浴びる。その後、『COM』の投稿仲間から同好会への入会を勧められたことを機に上京。 1970年4月より藤子不二雄のアシスタントを務め、1976年の独立後に『アカンベー』(『小学一年生』)でデビュー。代表作に『のんきくん』、アニメ化された『まじかるハット』など。 藤子スタジオの在籍期間が長く、1973年からはチーフアシスタントも務めた。
佐々木 敏夫(ささき としお、1942年(昭和17年)10月… 佐々木 敏夫(ささき としお、1942年(昭和17年)10月21日 - )は、日本の政治家。大分県豊後高田市長(3期)。元大分県議会議員(8期)、元大分県議会議長。2025年4月17日から全国最高齢市長。 大分県豊後高田市出身。1965年(昭和40年)3月、専修大学経済学部卒業。 1987年(昭和62年)、大分県議会議員選挙に初当選。2003年(平成15年)に県議会議長に就任。また、県議時代は自由民主党県連副会長などを務めた。 2017年(平成29年)2月13日、次期豊後高田市長選挙への出馬を表明。同年4月16日に行われた市長選に、市外在住者向けの土地代無料の分譲団地造成や、中学生までの給食費無料化、高校生までの医療費無料化などを公約に掲げ立候補。
石井 均(いしい きん、1927年〈昭和2年〉11月30日 … 石井 均(いしい きん、1927年〈昭和2年〉11月30日 - 1997年〈平成9年〉12月31日)は、日本の俳優、喜劇役者。 大分県豊後高田市是永町出身。本名は石原 仁。芸名の由来は、「〝一〟獲千〝金〟」という言葉が好きな事に由来。(一均=井均) 熊本逓信講習所卒業(昭和18年)。 1948年(昭和23年)、八幡の寿座で初舞台を踏み、以後旅回りをする。 1956年(昭和31年)、新宿フランス座に加入。体技型のコメディアンとして頭角を現す。 1958年(昭和33年)6月、軽演劇一座「笑う仲間」を旗揚げ、後に「石井均一座」に改組。主に新宿の松竹演芸場を根城にし、座員には戸塚睦夫のほか、石井の弟子の伊東四朗(当時は伊藤証)、財津一郎(当時は財津肇メ)らがいた。
水之江 忠臣(みずのえ ただおみ、1921年(大正10年)7… 水之江 忠臣(みずのえ ただおみ、1921年(大正10年)7月16日 - 1977年(昭和52年)7月18日)は、日本の家具デザイナーである。大分県豊後高田市出身。 日本大学卒業後、1942年(昭和17年)に前川國男が創設したデザイン建築事務所に入所し、デザイナーとしての活動を始める。その後前川から建築の設計を教わり、椅子やテーブル等の家具の設計に携わる。水之江の作品はこれまで以上に丈夫な材料を用いた事や斬新なデザインによって、1954年(昭和24年)に神奈川県立音楽堂や神奈川県立図書館に所蔵され、一躍有名となった。 後に公共施設のみならず、家庭向けの家具の設計にも従事する。1958年(昭和33年)には日本室内設計家協会の発足と共に理事長を務め、1963年(昭和38年)には独立して自身のデザイン設計事務所を創設した。
藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年 - 1997年9月3… 藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年 - 1997年9月30日)は、大分県豊後高田市出身の帝国海軍の軍人。最終階級は特務士官たる少尉(終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉)。 帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施するという、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行した軍人である。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズに近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略は日本の風船爆弾作戦にも採用された。 藤田は1932年(昭和7年)に日本帝国海軍に入隊し、1933年(昭和8年)にパイロットとなった。
竹田 益州(たけだ えきじゅう、1896年(明治29年)- … 竹田 益州(たけだ えきじゅう、1896年(明治29年)- 1989年(平成元年)6月20日)は、昭和を代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は土田で、のち竹田と改姓。法諱は宗進、道号は益川。室号は金剛窟。大分県西国東郡上真玉村(現・豊後高田市)出身。1954年から1989年まで臨済宗建仁寺派管長を務めた。 1896年(明治29年)7月10日、大分県西国東郡上真玉村(現・豊後高田市)で、土田忠米と妻ウメの三男として出生。進と名付けられる。父は漢籍を好み、村の寺小屋で教えていた。1902年(明治35年)、矢野要平家の養子となる。翌年、上伊美尋常小学校に入学したが、1904年(明治37年)には養子先の主人が日露戦争出征のため、矢野家を出た。
江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日… 江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日 - 1946年(昭和21年)12月29日)は、歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。 大分県西国東郡香々地町(現豊後高田市)に旧家江口家の三女として生まれる。1901年(明治34年)、大分県大分郡大分町(現大分市)の大分県立大分高等女学校で学ぶ。 1906年(明治39年)に弁護士と結婚して大分町に在住する。しかし、1915年(大正4年)に離婚すると平塚雷鳥を頼って上京。1916年(大正5年)に千葉県南葛飾郡小岩村の借家で白秋と同棲を始める。1918年(大正7年)には白秋と入籍するも、1920年(大正9年)に離婚。 離婚後は大分に戻り、別府市の伊藤家別荘に逗留していた柳原白蓮を訪ねて身を寄せた後、西国巡礼に向かい、その帰途に大分市松岡の浄雲寺や木上の少林寺を訪れた。
南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 … 南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 19… 金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万… 是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万延元年1月24日)- 1920年(大正9年)12月29日)は、明治から大正前期の警察官、農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県西国東郡高田町長。名・直房、通称・歳太郎。 豊後国国東郡、のちの大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)で、副里正の家に生まれる。漢学を修めた。 1877年(明治10年)西南戦争後に警察官となり、大分警察署(現大分中央警察署)勤務、鶴崎葉派出所詰を務めて退職。故郷の高田で書籍・文具商を経営。当時の高田警察署(現豊後高田警察署)長・赤鉾文太郎の勧誘で同署書記を務めた。 1889年(明治22年)町村制施行により高田町が発足し、同年6月、初代町長となり1899年(明治32年)8月まで在任。
曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年… 曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年) - 1917年(大正6年)1月29日)は、明治時代に活動した浄土真宗本願寺派の僧侶。1889年(明治22年)にハワイに渡航し、在留日本人への開教(布教)活動を行った最初の僧侶として知られている。この活動は、本願寺派のハワイ開教の初期の例であり、また日本仏教の英語圏での開教の先駆でもあった。別号に点紅。 江戸時代幕末期の安政2年(1855年)、豊後国国東郡にある光徳寺(現在の大分県豊後高田市臼野)の長男として生まれ、西光寺(豊後高田市水崎)の住職東陽円月が開いていた「東陽学寮」に学ぶ。蒼龍と円月は縁戚関係にあり、円月は蒼龍の伯父(円月の弟の子が蒼龍)であり、さらに蒼龍は円月の娘「すず」を妻に迎えた。
清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月… 清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月) - 1928年(昭和3年)9月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥前島原藩領国東郡高田村(大分県西国東郡高田町、豊後高田町を経て現豊後高田市)に生まれる。1880年(明治13年)高田村会議員に就任したのを皮切りに、西国東郡会議員、同参事会員、同高田郵便電信局長、大分県木蝋業組合長、西国東郡農会長などを歴任する。ほか、実業家として共立高田銀行頭取、豊州製蝋社長、宇佐参宮鉄道取締役などを務めた。 1918年(大正7年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年7月20日から同年9月28日まで在任した。
安東 九華(あんどう きゅうか、1825年5月12日(文政8… 安東 九華(あんどう きゅうか、1825年5月12日(文政8年3月25日)- 1904年(明治37年)1月8日)は、明治期の公吏、政治家。衆議院議員。名・宗明、字・子成、通称・貞五郎。九華は号であったが後に実名とした。 豊後国国東郡佐野村(大分県西国東郡河内村、高田町を経て現豊後高田市)で、旧家の安東家に生まれる。中津の藩儒・野本白巌、日出の帆足万里に漢学を学んだ。父の死去により帰郷して里正を継いだ。 1875年(明治8年)第一大区二小区戸長に就任し、次いで区長となる。その後、三潴県庁、福岡県庁、大分県庁に出仕し、1882年(明治15年)9月、西国東郡長に就任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では、元田肇の豊州会から大分県第5区に出馬して次点となったが、第1区と同区で当選した元田が第5区を辞退したため繰上当選となった。
賀来 飛霞(かく ひか、文化13年1月30日(1816年2月… 賀来 飛霞(かく ひか、文化13年1月30日(1816年2月27日) - 明治27年(1894年)3月10日)は、豊後国国東郡高田(現在の大分県豊後高田市)出身の本草学者。名は睦之、字は季和、通称は睦三郎。 1816年(文化13年)、当時島原藩領であった豊後国国東郡高田に生まれる。豊後大神氏流賀来氏の系統で、家業は医者であったが、幼くして父を失う。兄佐之とともに幼時から帆足万里に医学や本草学を、十市石谷に写生画を学ぶ。さらに京都で山本亡羊に本草学を学び、その後、九州各地や東北、北陸・甲信越地方等で植物の現地調査を行って、大量の観察記録と精密な写生図を残した。 1844年(弘化元年)には、島原藩領であった豊後国宇佐郡佐田村(現在の大分県宇佐市安心院町佐田)で医業を開業。