川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月… 川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月22日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1923年(大正12年)9月22日に鹿児島県鹿児島市で、川久保二之介・静の五男として生まれる。家族は長男から、輝夫の後に生まれた六男まで全員が男兄弟だった。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校(海兵72期)を卒業すると、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校普通科学生へ対する発令があり、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫大尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年… 肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年)3月21日 - 2012年(平成24年)9月12日)は、元大日本帝国海軍軍人、海上自衛官。海兵第67期卒業。第9代航空集団司令官(海将)。 鹿児島県鹿児島市生まれ、日置郡串木野村(後の串木野町、串木野市、合併によりいちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)から、1936年(昭和11年)に海軍兵学校入学。1939年(昭和14年)7月25日、海軍兵学校(第67期)卒業。任海軍少尉候補生、「八雲」乗組。兵学校同期には中村悌次(元海上幕僚長)がいた。
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月1… 山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。
石田 栄熊(いしだ えいぐま、1892年(明治25年)3月3… 石田 栄熊(いしだ えいぐま、1892年(明治25年)3月30日 - 1969年(昭和44年)8月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 鹿児島県、現在の鹿児島市出身。陸軍士官学校第27期、陸軍大学校第39期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐進級と同時に留守第7師団参謀長に任官された。1939年(昭和14年)に陸軍兵器廠附となり、1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級。 1942年(昭和17年)に第3野戦鉄道司令官となり、太平洋戦争に出動。1943年(昭和18年)2月3日に第4特設鉄道司令官、8月6日に第2鉄道監を兼任し、1944年(昭和19年)に南方軍野戦鉄道司令官に転じる。
河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10… 河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10月28日 - 1942年(昭和17年)10月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級 鹿児島県、現在の鹿児島市で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業卒業。1935年(昭和10年)12月に飛行第9連隊長に就任し、1936年(昭和11年)8月に陸軍航空兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)に陸軍士官学校分校幹事に転じ、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校幹事に就任。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し、8月1日に東京陸軍航空学校長に着任。1940年(昭和15年)12月に第4飛行団長に転じ、1942年(昭和17年)8月15日に南方航空輸送司令官(南方軍)に就任。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
鎌田 弥彦(かまだ やひこ、1877年〈明治10年〉4月1日… 鎌田 弥彦(かまだ やひこ、1877年〈明治10年〉4月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれた。1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 1920年(大正9年)8月、北京駐屯歩兵隊長に就任。1921年(大正10年)7月、歩兵大佐に昇進し神戸連隊区司令官となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第39連隊長に異動。1926年(大正15年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第32旅団長に就任。 1927年(昭和2年)7月、第11師団司令部付となり、1930年(昭和5年)8月、台湾守備隊司令官に移るが、セデック族の反乱(霧社事件を指す)を鎮圧した。
大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858… 大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和15年(1940年)8月10日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。山本権兵衛の実弟としても知られる。史料によっては太田誠実とも。 大田盛実は、安政5年(1858年)10月11日に生まれ、父は山本盛珉、兄に後の海軍大将・内閣総理大臣となる山本権兵衛がいる。盛実は開拓使生徒として若くして海軍に入り、そこで才能を見込まれた。 明治15年(1882年)に鹿児島県士族・大田休左衛門の養子となり、同年に大田家の家督を相続した。妻はヨシ(元治元年生)で、長男に大田操(明治22年(1889年)11月29日生、十五銀行新橋支店長)がいる。
伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年… 伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年1月6日〉- 1917年〈大正6年〉1月23日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位は男爵、最終階級は陸軍中将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下上之園通町(現:鹿児島県鹿児島市上之園町)で、薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に選ばれて上京。陸軍幼年学校を経て、1875年(明治8年)12月に陸軍士官学校に入校。1877年(明治10年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業(旧2期)。陸士旧2期の同期生には井口省吾、大迫尚道、田村怡与造、豊島陽蔵、長岡外史らがいる。
片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6… 片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6年12月14日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正二位勲一等男爵。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下薬師馬場町(鹿児島県鹿児島市薬師町を経て現薬師)で、薩摩藩士・片岡喜藤太の次男として生まれた。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。まだ兵学寮も制度が固まっておらず、カリキュラムを修了した順に卒業させていた。日高壮之丞大将と同時に入寮したものの、日高はそのまま兵学寮で練成を終えて第2期卒業を果たし、一方で片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に随員として1年半派遣されたため、日高より1期遅い第3期卒業生扱いとなっている。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(18… 伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(1852年11月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功一級男爵。
有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年… 有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年1月26日〉- 1909年〈明治42年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名は新之丞。 薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。戊辰戦争に従軍し、1869年(明治2年)、賞典禄6石を受ける。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を首席で卒業し、少尉補任官。1884年(明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、佐世保鎮守府海兵団長を歴任。
上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(18… 上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(1849年6月20日) - 大正5年(1916年)8月8日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等功一級男爵。あだ名は「船乗り将軍」。
川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元… 川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元年11月11日〉- 1899年〈明治32年〉5月11日)は、明治期の日本の陸軍軍人。旧薩摩藩臣。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城外吉野村中ノ町にて、島津氏譜代の臣川上伝左衛門親徳の第3子として生まれる。幼名は宗之丞。母は肝付氏の五郎兵衛の娘のなか子。兄に藤七親綱、弟に茨城県警察部長となった親義がいる。その下の弟である丈一は西南の役で戦死した。川上氏は島津家一族で、その庶流であったが、数代前に家運が衰微したため、祖父の時に鹿児島城下より寒村の吉野村に移っていた。
伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永… 伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永元年10月28日)- 1922年(大正11年)9月29日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。貴族院議員。陸軍中将正三位勲一等功四級男爵。 薩摩藩士。薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で伊瀬知勇四郎の息子として生まれる。戊辰戦争に出征し戦傷を受けた。 1871年9月10日(明治4年7月25日)、陸軍少尉に任官。西南戦争に従軍。1886年(明治19年)5月、歩兵第8連隊長となり、1890年(明治23年)6月、歩兵大佐に昇進して近衛歩兵第3連隊長に異動。1894年(明治27年)9月、歩兵第2連隊長に就任。 日清戦争に出征し、旅順攻略戦に参加。1895年(明治28年)1月、大寺安純少将の後任として第1師団参謀長となった。
大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年… 大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年2月12日〉- 1895年〈明治28年〉2月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現:鹿児島県鹿児島市)で、薩摩藩士・大寺七郎の二男として生まれる。幼名は彌七。幼くして父を失う。 20歳にして造士館助教(授讀助)となった。 戊辰戦争従軍の後は陸軍にすすむ。1871年(明治4年)に陸軍少尉に任官して一番大隊分隊長、陸軍中尉として半小隊長、東京鎮台付などを経て、1874年(明治7年)2月から5月にかけて佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵に従軍した。 広島鎮台付、歩兵第12連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学ぶ。
井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年… 井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年11月3日〉- 1929年〈昭和4年〉3月22日)は、明治期の日本の海軍軍人。薩摩国(現:鹿児島県)出身。階級は元帥海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。 薩摩藩士・井上七郎の長男。幼名は直八。同郷で6歳年下の井上良智海軍中将との血縁はない。名前がよく似ている長州出身の井上馨とも関係がない。 1863年(文久3年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾り、野津鎮雄(後に陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれ、弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。
大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844… 大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844年12月24日〈天保15年11月15日〉- 1927年〈昭和2年〉9月20日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。学習院長、第7師団長等を務める。栄典は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。 薩摩国鹿児島郡薩摩藩冷水通町(現:鹿児島市冷水町)で、薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。 戊辰戦争従軍の後、1871年(明治4年)3月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み1873年(明治6年)、陸軍省八等出仕、1874年(明治7年)には陸軍大尉を命ぜられる。 1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、熊本城籠城戦に参加。
伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日… 伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1914年〈大正3年〉1月16日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。 薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主・伊東氏に連なる名門の出身である(伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫という)。開成所にてイギリスの学問を学んだ。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年1… 大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。 薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8… 樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8年11月12日〉- 1922年〈大正11年〉2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口与三次の三男。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。 天保8年(1837年)薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、覚之進(かくのしん)と名づけられ育てられる。文久3年(1863年)同藩士・樺山四郎左衛門の養子となり、樺山姓を名乗る。
川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年… 川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、日本の警察官・陸軍軍人。幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視(後に旧警視長を経て現在の警視総監)、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。 初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた。 名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名した。
池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) -… 池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) - 明治10年(1877年)9月24日)は、幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人である。名は貞固、通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。 鹿児島城下の樋之口通町(現鹿児島市加治屋町16番街区、旧地番175番地)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として生まれる。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが、医術を好まず、西郷隆盛(吉之助)・伊地知正治の教導を受け、勤王の志を抱いた。 安政の大獄(1858年)の前頃、藩主・島津斉彬の命によって江戸に遊学し、時々天下の情勢を藩主に報告した。薩英戦争(1863年)のときはスイカ売り決死隊に志願して英艦に切り込もうとしたが失敗、大門口砲台で英艦を撃退した。