山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )… 山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。1968年メキシコシティーオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得した時の選手の一人。藤枝市初代市長の山口森三は父に当たる。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校時代はフォワードとしてプレー。日本ユース代表に選出され、1962年、1963年のアジアユース大会に出場した。 中央大学に入学してサッカー部に入部し、ディフェンダーへ転向。4年次には主将を務め1966年の関東大学リーグ制覇に貢献した。 また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の東京オリンピック1次リーグガーナ戦で国際Aマッチデビュー を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。
国枝 強(くにえだ つよし、1944年9月18日 - )は、… 国枝 強(くにえだ つよし、1944年9月18日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手(DF)。 高校時代は山陽高等学校へ入学し、渡部英麿から厳しい指導を受けた。 1960年代後期~1970年代東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属、60年代後期の東洋工業黄金期を支えたフルバック。1969年、1970年の2年連続天皇杯決勝進出に貢献している。 また日本代表としてもワールドカップメキシコ大会予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。
菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -202… 菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治大学を経て、1968年に三菱重工業サッカー部に加入し、サイドバックとして三菱黄金時代を支えた。また、1969年6月19日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で日本代表として初出場した。 1974年に現役を一度引退。地元に戻り家業を継ぐ。1976年、藤枝市の志太クラブに入団。静岡県社会人サッカーリーグでプレーし、1980年には選手兼任監督に就任した。 将来の日本サッカーをリードしようと1982年に創部した中央防犯サッカー部に監督として入社。
木村 文治(きむら ぶんじ、1944年7月27日 - )は京… 木村 文治(きむら ぶんじ、1944年7月27日 - )は京都府出身の元サッカー選手、指導者。 大阪経済大学を経てヤンマーディーゼルサッカー部(現-セレッソ大阪)に入部。日本サッカーリーグで72試合2得点の成績を残した。 現役引退後、1982年に京都紫光クラブの監督に就任、1990年まで務めた。1991年から横浜フリューゲルス監督加茂周の下でヘッドコーチを務めた。1995年に加茂が日本代表の監督に就任すると監督に昇格したが、14試合で4勝しか出来ず辞任した。その後は横浜Fのフロント入りしたが、1998年シーズンを最後にチームが消滅すると京都パープルサンガ(現-京都サンガF.C.)のチーム統括部長に就任、2000年には総監督も兼務した。
水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 20… 水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 2022年4月10日)は、広島県広島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。 選手時代は、後のセレッソ大阪であるヤンマーディーゼルサッカー部の主力選手として活躍した。ガンバ大阪の前身・松下電器産業サッカー部の創設者で、ガンバ大阪の発足に向けた立ち上げに携わり、同クラブの基礎作りに尽力した。 広島県広島市出身。広島国泰寺高校から、中央大学法学部政治学科を経て1967年、ヤンマーディーゼル株式会社入社。小柄ながらボール扱いのうまさは日本最高ともいわれ、同社サッカー部の主力選手として活躍した。同い年で同期就職で親友の釜本邦茂のデビュー初得点のアシストを決めている。
桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - … 桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - )は静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現・静岡県サッカー協会専務理事、日本サッカー協会理事、日本フットボールリーグ理事長。実弟は桑原隆。 1962年度高校サッカー選手権で静岡県立藤枝東高等学校が初優勝した時の中心選手。卒業後は日軽化工清水工場、名古屋相互銀行(以下、名相銀)などに所属し、1965年には日本代表に選出され国際Aマッチ2試合に出場した。 1971年、名相銀の解散で選手は引退し、銀行の仕事に専念するつもりでいたが、日本サッカー協会の幹部・長沼健に勧められ、生まれ育った静岡に日本リーグのチームをという仕事にロマンを感じ銀行職を捨て、翌1972年、前年創設された本田技研工業サッカー部に加入。
釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年〈昭和19年〉4月… 釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年〈昭和19年〉4月15日 - 2025年〈令和7年〉8月10日)は、日本(京都府京都市右京区太秦出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者、元政治家、実業家。位階は正五位。 自由民主党所属の元参議院議員(1期)。日本サッカー協会 (JFA) 顧問。現役時代のポジションはフォワード。元日本代表。 日本サッカーリーグでは、251試合出場し、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と傑出した活躍を見せた。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコシティーオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。
泉 政伸(いずみ まさのぶ、1944年4月8日 - )は、広… 泉 政伸(いずみ まさのぶ、1944年4月8日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 ボールコントロールに優れ、技術、戦術眼に優れたゲームメーカー。トヨタ自動車工業の中心選手として1972年の日本サッカーリーグ2部、初代アシスト王となり2部優勝、翌1973年の1部昇格に貢献した。明治大学時代の1965年に日本代表入りし、同年3月25日のシンガポール代表戦で代表デビューを飾り、国際Aマッチ1試合に出場した。しかし日本リーグに加盟していなかったトヨタに進んだため、その後は代表には定着できなかった。 引退後は指導者の道へ進み、1987年に古巣のトヨタ自動車の監督を務めた。 日本サッカーリーグ1部成績
原 正文(はら まさふみ、1943年12月21日 - )は日… 原 正文(はら まさふみ、1943年12月21日 - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはDF。 新日本製鐵などに所属し、日本代表としても1970年のアジア競技大会など、国際Aマッチ5試合に出場した。 高校時代はFWを務めており、その経験を生かした果敢なオーバーラップを得意としていた。
富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は… 富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフルバック(FB)。 八幡製鉄(現・日本製鉄)サッカー部に所属。19歳にして日本代表に選出された経歴を持ち、1964年の東京オリンピック、1968年のメキシコシティオリンピックに出場。国際Aマッチ通算9試合に出場し、2得点を挙げた。主にストッパーを担当し、1対1の場面における粘り強いディフェンスを得意としていた。 2009年に開催された全国健康福祉祭(ねんりんピック)の静岡県選抜チームのメンバーとして出場したと報じられた。
森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011… 森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー。サッカー日本代表として56試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。
高橋 正弘(たかはし まさひろ、1943年〈昭和18年〉10… 高橋 正弘(たかはし まさひろ、1943年〈昭和18年〉10月10日 - 1996年〈平成8年〉8月12日)は、日本のサッカー指導者。北海道の室蘭大谷高等学校(後の北海道大谷室蘭高等学校)のサッカー部の初代監督。雪国の壁を乗り越え、サッカー無名校であった室蘭大谷を日本全国準優勝にまで導き、北海道サッカー界と全国高校サッカーの技術向上に貢献した。教え子にはプロサッカー選手やサッカー指導者の道に進んだ野田知、財前恵一、三浦雅之、交通事故のためにプロサッカーから車いすバスケットボールに転向した京谷和幸らがいる。北海道室蘭市西小路町出身、国士舘大学卒業。 高橋家の長男として誕生。喧嘩ばかりのやんちゃ坊主として育った。
二村 昭雄(にむら てるお、1943年5月2日 - )は、京… 二村 昭雄(にむら てるお、1943年5月2日 - )は、京都府京都市右京区出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者。 現役時代は、身体的には恵まれていないが、ポジションセンスと運動量の両方を伴ったMF。 中学校から大学時代まで一つ下の後輩の釜本邦茂とプレー。大西忠生、釜本と合わせて「京都三羽ガラス」として名を馳せた。 京都府立山城高等学校3年のときMFとして全日本ユース代表。その後早稲田大学第二政治経済学部へと進学。松本育夫、野村尊敬、桑田隆幸、森孝慈、釜本、大野毅らと同大学ア式蹴球部の黄金時代を創る。1963年日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。また、大学2年のときMFとして全日本ユース代表に選出されている。
大西 忠生 (おおにし ただお、1943年4月18日 - 2… 大西 忠生 (おおにし ただお、1943年4月18日 - 2006年6月29日) は、京都府京都市出身 のサッカー選手(DF)、サッカー指導者。 紫野高校時代は山城高校の釜本邦茂・二村昭雄と共に「京都三羽ガラス」と称された。1967年に京都教育大学を卒業し、JSLの三菱重工へ入部。「バッファロー」 や「ハードタックルの忠」の異名を取り、日本代表としても1970 FIFAワールドカップ・予選に出場。 引退後は日本B代表コーチ(1975年 - ?)、東芝コーチ(1980年)→監督(1981年 - 1985年)、日本電装監督(1990年 - ?)を務めた。東芝監督時代は石崎信弘・川勝良一を指導し、1年目にはJSLカップ優勝に導く。
鳥原 光憲(とりはら みつのり、1943年3月12日 - )… 鳥原 光憲(とりはら みつのり、1943年3月12日 - )は、日本の実業家で、元サッカー選手、指導者。東京ガス株式会社代表取締役元社長。 東京都出身。1967年に東京大学経済学部を卒業し東京ガス株式会社に入社。 1992年総合企画部経営企画グループマネージャー、1993年神奈川事業本部計画部長、1996年原料部長、1998年取締役原料部長。これまで商社任せだった液化天然ガス(LNG)調達に道筋を付けるべく東京電力と共にオーストラリア北部のガス田開発に出資。さらに自社LNG船を導入して輸送事業に参入。東京電力との協調体制を築いた。2000年常務取締役。 2002年取締役常務執行役員企画本部長。会社の中期経営計画をまとめ上げる強い求心力を発揮した。
横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )… 横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身(東京千代田区神田生まれ)の元サッカー選手(GK)、サッカー指導者。 現日本オリンピアンズ協会理事。 日本代表監督時代は横山兼三と名乗っていた が、後に元の謙三に戻した。 東京で生まれたが、戦時中であったため物心のつかないうちに疎開で浦和に引っ越した。サッカーの盛んな場所であったため、通っていた浦和市立常盤小学校のグラウンドにはサッカーのゴールがあった。横山は生まれた時から体が小さく、小児結核にかかったこともあったため、ちょっと走っただけで疲れたりするなど、学校に行けない時期も多かった。そのため本格的なスポーツは出来なかったが、その分、小学校の時はサッカーだけでなく、色々なスポーツで遊んでいた。
桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - … 桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - 2017年3月1日)は、広島県広島市白島(現中区)出身 のサッカー選手。実兄は桑原弘之。1968年メキシコシティオリンピック銅メダリスト。 8人兄弟で男は弘之と楽之の二人だけ。1960年代の日本サッカーのメッカ・広島に生まれ、幼少期からサッカーに親しむ。広大付属小、広大付属中学の抽選をいずれも落ちて白島小、幟町中学に進む。白島小の隣りに広島市立基町高等学校があり、5年生の時に渡辺正と佐伯博司がプレーしていて、楽之はいのまにか同校でボール拾いを始める。入学した幟町中学にはサッカー部がなかったが、桑原を中心に創部。実兄の弘之がコーチを勤めた。
小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は… 小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は、広島県広島市千田町(現・中区)出身の元サッカー選手(FW、MF、DF)・コーチ・監督。 昭和40年代を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀と共に当時のスタープレイヤーの一人。現役時代はフォワードもミッドフィルダーもディフェンダーもこなしたオールラウンドプレーヤーで、日本代表として東京五輪およびメキシコ五輪でフル出場を果たし、メキシコでは銅メダル獲得に貢献。 前広島県サッカー協会会長。 実家は材木店を営んでいたが、2歳の夏に爆心地に近い千田町で被爆。倒れた柱と柱が隙間を作り、母と姉と共に助かる。広島大学附属小学校時代はサッカーを楽しむ程度であり、ちょうど広島カープが誕生したため野球が大好きになり、体もひ弱であったため野球に興じる。
船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は… 船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は、広島県広島市草津出身の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。 広大付属高校2年の時、ゴールキーパーとして桑田隆幸や野村尊敬、同級の小城得達、桑原楽之、溝手顕正らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。 高校を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団。同チームの監督となった下村幸男の後を受け正ゴールキーパーとなる。石井義信、小沢通宏、今西和男、丹羽洋介、桑原弘之、大野毅、川野淳次、国枝強らとゴールを守り、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇と3度の天皇杯制覇に貢献した。
横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、… 横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、山梨県東山梨郡勝沼町(現・山梨県甲州市)出身の元サッカー選手および現サッカー指導者・解説者。 山梨県立日川高等学校在学中よりサッカーを始め、日本体育大学入学後もサッカー部に入部した。大学卒業後は高校教諭となり、1968年に(昭和43年)山梨県立谷村工業高等学校に赴任してサッカー部の監督に就任し、関東大会に出場した。その傍ら甲府サッカークラブで1973年 (昭和48年)6月までプレーして主将も務めた。 現役を引退した1973年(昭和48年)より山梨県立韮崎高等学校に赴任となり、サッカー部の監督に就任。1975年(昭和50年)に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝した。
犬飼 基昭(いぬかい もとあき、1942年7月5日 - )は… 犬飼 基昭(いぬかい もとあき、1942年7月5日 - )は、日本の元サッカー選手。第11代日本サッカー協会会長。埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。 埼玉県立浦和高等学校時代の1961年に日本ユース代表に選出されAFCユース選手権に出場した経験を持つ。卒業後に慶應義塾大学商学部に進学し、体育会サッカー部へ入部。4年時に主将を務める。 1965年に三菱重工業に入社し、選手として日本サッカーリーグの三菱重工業サッカー部でプレー。日本リーグ通算27試合出場4得点1アシスト、天皇杯通算1試合出場の記録を残し、1968年に現役を引退した。犬飼は、現役時代の自身のポジションについて、「今で言うトップ下。4-3-3の真ん中で前めのポジションをやっていました」と述べている。
井田 勝通(いだ まさみち、 (1942-03-03) 19… 井田 勝通(いだ まさみち、 (1942-03-03) 1942年3月3日(84歳) -)は、日本のサッカー指導者、元サッカー選手。元静岡学園高等学校監督。 満州の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)で生まれ、静岡県焼津市で育つ。高校は静岡県立静岡高等学校に進学し、サッカー部に所属し長池実の指導を受けた。1浪後に慶應義塾大学経済学部へ進学し体育会ソッカー部に所属。4年次に慶應義塾高等学校サッカー部を指導し好成績を収めた事が後に指導者を志すきっかけとなった。 卒業後は静岡銀行に就職し県社会人リーグで選手として活躍を続けていたが、堀田哲爾と長池が主催した指導者講習会を受講したことで再び指導者の道を志すことを決意。
西山 孝朗(にしやま たかお、1942年1月7日 - 202… 西山 孝朗(にしやま たかお、1942年1月7日 - 2021年2月以前)は、日本のサッカー選手。ポジションはDF。 早稲田大学在籍時の1964年に日本代表に選出され、同年2月25日のセランゴール州選抜戦で代表デビュー。3月3日のシンガポール戦で国際Aマッチ出場を果たした。また同年8月から9月のヨーロッパ遠征にも参加した。 なお、詳細な没年は不明であるが、2021年2月時点で故人となっている。
松本 育夫(まつもと いくお、1941年11月3日 - )は… 松本 育夫(まつもと いくお、1941年11月3日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本サッカー後援会現理事長。現役時代のポジションはFW。1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技で銅メダルを獲得したサッカー日本代表の一人。 栃木県立宇都宮工業高等学校時代は、清水東の杉山隆一、広大附属高の桑田隆幸とともに"高校三羽烏"と言われ将来を嘱望された。川淵三郎に憧れ早稲田大学第二政治経済学部経済学科に入学 し、ア式蹴球部に入部。1960年に日本代表として初選出された。野村尊敬、桑田隆幸、二村昭雄、森孝慈、釜本邦茂、大野毅らとア式蹴球部の黄金期を創った。1963年には日立(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。
杉山 隆一(すぎやま りゅういち、1941年7月4日 - )… 杉山 隆一(すぎやま りゅういち、1941年7月4日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元サッカー選手・監督、解説者。 袖師中学校時代からサッカーを始め、清水東高校時代に富山国体で優勝、一躍有名になる。1年次の1958年から3年次の1960年まで3年連続で日本ユース代表に選出され、AFCユース選手権に参加するなど、国際的にも活躍した。 大学浪人中の1961年に19歳で国際Aマッチ初出場を果たし、1962年に明治大学へ進学。3年次の1964年には東京オリンピックで活躍し、日本代表をベスト8へと導いた。この活躍により南米のクラブからは20万ドルの移籍金を提示され「20万ドルの左足」と賞されたが、20万ドルという金額及び移籍の申し入れに関しては、岡野俊一郎が話題づくりのために意図的に間違った情報をリークしたとされている。
上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島… 上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF、MF)・監督。 広島市立国泰寺中学校を経て、広島山陽高校では渡部英麿監督の指導を受けた。卒業後は寺西忠成監督に誘われ、1960年に八幡製鉄サッカー部へ入部。身体能力に優れ、ハードタックルと空中戦に強さを発揮。渡辺正・宮本輝紀らと共に主力選手として活躍し、ストッパーとして相手チームのエースのマークを任され、1966年と1967年には2年連続で「年間優秀11人賞」に選出される。日本代表では主にハーフバックとして活躍し、東京五輪では代表初のベスト8進出に貢献。メキシコシティ五輪は予選こそレギュラーとして出場したが、本戦では登録メンバーから外れた。
桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は… 桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者(JFA公認C級コーチ)。日本サッカーリーグ(JSL)初代アシスト王。 父親がハルビンの商社に勤務していたため満洲で生まれた。1945年終戦に伴い帰国、母の郷里・広島市で育つ。父もサッカー選手、母もバレーボールの選手で、父は後に広島サッカー友の会理事長を務め、当地の小学生のサッカー普及に尽力した。1947年、戦後復活第一回の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)で、広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校)が超中学級の長沼健、木村現、樽谷恵三の三羽烏を擁して圧倒的な強さをみせ初優勝した。
橡尾 健次(とちお けんじ、1941年5月26日 - )は日… 橡尾 健次(とちお けんじ、1941年5月26日 - )は日本出身の元サッカー選手。 古河電工などに所属。古河電工での日本サッカーリーグ通算成績は61試合1得点1アシスト。日本代表としても1962 FIFAワールドカップ・チリ大会予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。
大久保 賢(おおくぼ まさる、1941年5月5日 - )は、… 大久保 賢(おおくぼ まさる、1941年5月5日 - )は、広島県広島市矢賀(現・東区)出身の元サッカー選手(FW)・指導者。 広島市立矢賀小学校時代からサッカーを始め、広島市立二葉中学校ではFW・HB・GKと全てのポジションを経験。進学校の広島皆実高校時代は渡部英麿監督から指導を受け、HBで県下有数の選手となり、藤枝で行われた第1回高校選抜大会のオール中国の代表選手に選出され優勝。 高校卒業後の1960年に立教大学へ進学すると、関東大学リーグ1部では2度の2位を経験するなど活躍し、大学卒業後の1964年には名古屋相互銀行へ入部。大久保が2年目の1965年にチームは8チームで創設された日本サッカーリーグに参加し、大久保はエース兼CFや兼任コーチとして活躍。
坂田 信久(さかた のぶひさ、1941年2月20日 - )は… 坂田 信久(さかた のぶひさ、1941年2月20日 - )は、富山県出身の元テレビディレクター、サッカー選手、実業家。 日本テレビ放送網のスポーツ局次長、東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)社長、国士舘大学大学院教授を歴任した。 富山県立富山中部高等学校時代はサッカー部に所属し、全国高等学校サッカー選手権大会に3年連続で出場した。1959年に入学した東京教育大学(現:筑波大学)でも蹴球部に入り1年生でレギュラーとなった。同期が今西和男、3学年上に上田亮三郎、1学年上に勝澤要、1学年下に松本光弘がいる。 当初は大学卒業後教師になるつもりであったが、1961年に当時サッカー日本代表の指導のため来日していたデットマール・クラマーの講演を聴き、その講演の中でクラマーが指導者の重要性と共に報道機関の重要性を説いたことでマスメディアへの興味がわいたという。
今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - 20… 今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - 2026年4月16日)は、広島県広島市中区東平塚出身の教育者、元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはDF。 日本におけるゼネラルマネージャーの地位を確立させた人物。サッカー界では日本の元祖ゼネラルマネージャーとも称される。 マツダ/サンフレッチェ広島F.Cでのチーム作りに辣腕を振り、大分トリニータや愛媛FC・FC岐阜がJリーグ入りを目指していたころにアドバイザーとして参加もしている。 育成に実績があり、森保一・久保竜彦らの無名選手を発掘し、小林伸二や松田浩らの指導者を育成した。今西が整備したサンフレッチェ広島アカデミーは、2012年現在日本有数の育成組織の評価を受けている。
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2… 宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市宇品(現・南区宇品)出身(広島市段原山崎町生まれ)の元サッカー選手(MF)・コーチ・監督。日本代表の攻撃的ミッドフィールダーとしてメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献し、日本最初のゲームメーカーとも呼ばれる。 1945年8月6日、4歳の夏に爆心地から約2kmの段原山崎町で被爆し、一緒に遊んでいた弟を亡くした。張本勲も近所で被爆している。終戦後は宇品に引越して広島市立千田小学校に入学し、千田小の同期に岡光龍三、一学年上に後に山陽高→八幡→新日鐵と同じ道を歩む大石信幸がいた。広島市立国泰寺中学校時代に大学生にサッカーを教えてもらったことがきっかけでサッカー部に転部し、国泰寺中の一学年上に野村六彦、同期に今西和男がいた。
田村 文彦(たむら ふみひこ、1940年11月3日 - 20… 田村 文彦(たむら ふみひこ、1940年11月3日 - 2018年12月7日)は、日本の実業家で、元サッカー選手。ロシアとの民間交流団体「オーポラロシア福岡」の会長で、在日ロシア連邦大使館より名誉領事に任命されていた。 明星高等学校を経て早稲田大学第二政治経済学部を卒業。大学時代まではサッカーをおこない、ユース日本代表に選出されて1959年のAFCユース選手権1959にミッドフィルダーとして出場した。川淵三郎とはチームメイトだったという。大学卒業後はダンロップに3年間勤務したのち、父の経営する輸入車販売店に入社した。中古車オークション事業を父の知人と立ち上げて、ユー・エス・エスの創業に参加する。
松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2… 松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2017年8月11日)は、鹿児島県鹿児島市出身のサッカー指導者。鹿児島実業高等学校サッカー部総監督。鹿児島県サッカー協会副理事長、九州サッカー協会常任理事、全日本ユース選手権大会実施委員。 市立甲南中学校時代にサッカーを始める。鹿児島市立鹿児島商業高等学校2年次の1958年に高校選手権に出場したが、2回戦で静岡県立藤枝東高等学校に敗れた。卒業後は一般企業に就職するが、知人の勧めもあり無線通信士を目指す様になった。上級資格試験まであと一歩の時に、鹿児島実業高校の教員に採用。当初は国家試験までの半年間の約束であったが、サッカー部の顧問も同時に引き受け、九州大会予選で優勝したことから本格的にサッカー指導者の道へ進む事になった。
丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は… 丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は、中国上海市生まれ、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者。 3人兄弟の末っ子。父親は上水道技師で、上海で、のち広島で水道事業に関わっている。そのため上海で生まれ、1944年4歳の時から広島で生活し、太平洋戦争末期に愛知県江南市に疎開していた。そのため広島市への原子爆弾投下からは逃れている。ただ父親は当時広島で働いており、被爆者となってしまった。 広島に戻り広島大学附属小学校へ進学するとサッカーを始める。小学校の1学年上が鬼武健二、1学年下が桑田隆幸と野村尊敬、2学年下が小城得達になる。その後広島大学附属中学校・高等学校と上がる。
継谷 昌三(つぎたに しょうぞう、1940年6月25日 - … 継谷 昌三(つぎたに しょうぞう、1940年6月25日 - 1978年6月2日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手。ポジションはMF。 神戸市出身で実家は材木商を営んでいて、裕福であったとされる。関西学院中学部サッカー部では3年次の1955年に主将を務めた。関学高等部でもサッカー部に所属して関学高等部の黄金時代の中心的な役割を担った。 1959年に関西学院大学に入学しサッカー部に所属し、この年に開催されたAFCユース選手権1959の日本代表に選出された。また、大学3年次の1961年8月15日にはインドネシア代表戦で日本代表として初出場した。大学4年次は主将を務めた他、1962年のアジア大会の代表に選出され出場も果たした。
片山 洋(かたやま ひろし、1940年5月28日 - )は、… 片山 洋(かたやま ひろし、1940年5月28日 - )は、東京市目黒区(現:東京都目黒区) 出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはディフェンダー(右サイドバック)。父は日産・フェアレディZの生みの親として知られる片山豊。また、義父は元毎日映画社社長の対馬好武。親戚に森永製菓第7代代表取締役社長の矢田雅之、第14代相模鉄道社長の対馬好次郎がいる。 目黒区自由ヶ丘(現:自由が丘)で生まれ、戦時中は伊豆に疎開していた。終戦後は再び自由が丘に戻り、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)でサッカーを始めて、東京学芸大学附属世田谷中学校および慶應義塾高等学校ではサッカー部に所属したが全国規模の大会への出場経験は無かった。
野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は… 野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は、広島県広島市出身の元日本代表サッカー選手。元日立(現柏レイソル)所属。日本サッカーリーグ(JSL)初代得点王。ポジションはFW又はMF。 実家は老舗の文具店。広島市立袋町小学校を経て、広島市立国泰寺中学校へ進む。小学校6年までは野球をやっていたが、周りから、せっかくサッカーの名門国泰寺に入ったんだから男らしいサッカーをやろうと誘われ、サッカー部に入部。一年生は30数人いたが、基礎練習の反復が面白くなく3日で8人に減った。野村もその1人だったが、負けたようで悔しく再入部する。宮本輝紀、今西和男らも同中学出身。卒業後は、当時"広島三強"といわれた国泰寺高、広大附属、修道に負けないサッカー部をと強化していた広島舟入高校の校長に誘われ同校に進学。
岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - … 岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(FW)・指導者。 広島市立千田小学校時代の同級に宮本輝紀、一学年上に大石信幸がいる。 高校は宮本や大石とともに広島山陽高等学校に進学し、渡部英麿から指導を受ける。1957年、1958年国体準優勝に貢献。特に1958年大会決勝は杉山隆一がいた静岡県立清水東高等学校との対戦で、当時話題となった。 大学は中央大学に進学した。サッカー部に在籍し、同郷の野村六彦・小城得達・桑原楽之らと活躍した。第42回天皇杯全日本サッカー選手権大会で決勝進出、決勝の相手は長沼健・平木隆三・川淵三郎・宮本征勝・鎌田光夫・保坂司と日本代表を揃え三連覇を狙った古河電工で、岡光は決勝点を決め中大優勝に貢献した。
加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵… 加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 長兄の加茂豊は毎日放送元社員でゴールキーパーとして1958年アジア大会で日本代表に選出された経験を持ち、弟の加茂建は加茂商事(サッカーショップ加茂を展開、傘下にジャパン・スポーツ・プロモーション、ソル・スポーツマネージメント)の社長である。 なお、1936年ベルリンオリンピックサッカー日本代表の加茂健・加茂正五との血縁関係はない。 関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現:セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者に転じた。1974年に日本人初のプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)の監督に就任。
鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は… 鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は、広島市西区天満町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)専務理事、同第3代目理事長(Jリーグチェアマン)。 ヤンマーディーゼルサッカー部の攻撃サッカーを築いた名将で、日本サッカーリーグ(JSL)で通算93勝を挙げたJSL最多勝監督。 また、セレッソ大阪の創設、Jリーグ入りを総責任者として尽力した。 広島大学附属高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。 現役時代は162センチの俊足フォワードとして活躍、主にウィンガーとしてプレーした。高校時代の同級生は高重清純、一つ下は丹羽洋介、2つ下は桑田隆幸、野村尊敬がいた(ちなみに鬼武をサッカー部へ誘ったのが高重と野村である。
大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )… 大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島市立千田小学校の一学年下の宮本輝紀、岡光龍三らと山陽高等学校に進学し1957年、主将として国体準優勝。八幡製鉄サッカー部でも1963年、1964年度全日本実業団サッカー選手権大会2連覇、1964年度の天皇杯優勝に貢献。1965年創設された日本サッカーリーグ(JSL)一年目は桑田隆幸(東洋工業)と並んで11得点を挙げ、得点王・野村六彦(日立)に次ぐ得点2位と、初年度の得点王争いは全員広島出身者だった。
大島 治男(おおしま はるお、1939年5月7日 - )は、… 大島 治男(おおしま はるお、1939年5月7日 - )は、広島県出身のサッカー選手。元サッカー日本代表。 現役時代は、小柄ながら抜群のボールコントロールを持ち合わせた選手。 中学からサッカーを初め、広島サッカー御三家であった広島大学附属高校に入学。鬼武健二、高重清純、丹羽洋介、野村尊敬、桑田隆幸らとプレーしている。 高校卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)に所属する。1962年の全日本実業団サッカー選手権大会優勝に貢献、1965年にJSLが始まると、初年度には岡光龍三、松本育夫、桑田隆幸、桑原楽之、中村勤らとともにFWの一員として東洋工業無敗優勝に貢献、1960年代後半の黄金期のメンバーとして活躍した。
古沼 貞雄(こぬま さだお、1939年4月25日 - )は、… 古沼 貞雄(こぬま さだお、1939年4月25日 - )は、東京都出身のサッカー指導者。 東京都立江戸川高等学校を経て、日本大学文理学部体育専修を卒業後、1964年に体育教諭として帝京高校に赴任。 1965年からサッカー部監督に就任し、高校選手権6回、高校総体3回の計9回の全国制覇に導いた。 帝京では木梨憲武ら、数々の部員を指導していた。 本人はサッカーの経験はなかった。 2003年限りで一線を退き、2004年はサッカー部部長、2005年からはJリーグ・東京ヴェルディのアドバイザーに就任。育成・普及面でのサポートを行っている。 2007年に流通経済大学付属柏高等学校、2008年からは矢板中央高等学校でも指導する。
石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - 20… 石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - 2018年4月26日)は広島県福山市出身の 元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。 元フジタ工業(旧、藤和不動産/現、湘南ベルマーレ)監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。 福山市立西小学校–福山市立城北中学校–福山葦陽高等学校卒。石井らの時代に広島でサッカーが盛んだったのは広島市内だけで、福山の高校にサッカー部があったのは葦陽高校と広島大学福山分校の二校だけだった。当時の葦陽高校のグラウンドは福山城下にあり、野球、ラグビー、サッカー、陸上と共用で狭く、生徒総会で野球、ラグビー、サッカーのどのボールが一番危ないかの投票があり、断然野球が多く、野球部が潰れたという。
嶋谷 征四郎(しまたに せいしろう、1938年11月6日 -… 嶋谷 征四郎(しまたに せいしろう、1938年11月6日 - 2001年10月24日)は、京都府京都市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表として国際Aマッチ1試合に出場した。 京都の友禅の染色職人の家に生まれ、1957年に京都府立山城高等学校を卒業して関西大学へ入学。在学中はサッカー部に所属し、フルバック(今のセンターバック)の名手として活躍し、1959年に日本代表に選出された。大学卒業後の1961年より古河電気工業に入社。当時の同僚としては川淵三郎や宮本征勝などがおり、長く親交があった。これらの親交が後に京都紫光クラブが京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)へと進化していく中でも生かされていたことは嶋谷を知る人の中では有名な話である。
志治 達雄(しじ たつや、1938年10月20日 - )は、… 志治 達雄(しじ たつや、1938年10月20日 - )は、愛知県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 関西学院大学時代はFWとしてプレー。関学クラブ(現役、OBの混成チーム)の一員として1959年の全日本選手権大会の優勝に貢献した。また、在学中の1961年5月28日にマラヤ代表戦で日本代表として初出場初得点を上げた。国際Aマッチは1試合に出場して1得点を記録した。 1962年に大学を卒業後はトヨタ自動車工業に入社して、サッカー部に入部した。 1965年にトヨタ自動車工業の監督に就任。翌年には関学の後輩の西垣成美をコーチとして招き、全国社会人サッカー選手権大会優勝2回(1968年、1970年)、1972年に日本サッカーリーグ2部で初優勝し、翌1973年の1部昇格に導いた。
川西 武彦(かわにし たけひこ、1938年10月9日 - 2… 川西 武彦(かわにし たけひこ、1938年10月9日 - 2026年3月22日)は広島県出身の元サッカー選手(FW/MF)。 東洋工業に所属し、日本代表としてもワールドカップチリ大会予選など、国際Aマッチ8試合に出場した。 選手引退後も東洋工業・マツダに勤務した。
宮本 征勝(みやもと まさかつ、1938年7月4日 - 20… 宮本 征勝(みやもと まさかつ、1938年7月4日 - 2002年5月7日)は、茨城県日立市出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。サッカー日本代表として44試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。 茨城県立日立第一高等学校でサッカーを始め、1956年の第35回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝し、得点王および最優秀選手に選出された。 1957年、早稲田大学第二商学部に入学。在学中は早稲田大学ア式蹴球部に所属し、在学中の1958年にサッカー日本代表に選出され、同年12月の香港代表戦で初出場した。 大学卒業後、1961年から長沼健や大学の先輩・八重樫茂生ら代表選手の揃った古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団した。
安達 貞至(あだち さだゆき、1938年4月4日 - )は、… 安達 貞至(あだち さだゆき、1938年4月4日 - )は、日本の兵庫県出身のサッカー選手、サッカークラブスタッフ。選手時代のポジションはゴールキーパー。次男の安達亮もサッカー選手および指導者 関西学院大学から1961年にヤンマーディーゼルに入社、ヤンマーディーゼルサッカー部でプレーした。大学の後輩にあたる加茂周は、安達に誘われる形でヤンマー入りした。釜本邦茂がヤンマーに加入すると、安達はマネージャーに身を転じて裏方としてチームを支えるようになった。社業においては1986年から1995年までヤンマー東日本の代表取締役社長を務めた。 1995年から1996年まで地元兵庫県のヴィッセル神戸(当時JFL)の強化部長、ゼネラルマネージャーを歴任。