安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年… 安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年〉 - 1921年〈大正10年〉1月26日)は、明治期の司法官僚、大審院判事。 美濃国中島郡駒塚村(現・岐阜県羽島市)生まれ。1867年(慶応3年)江戸に出て安井息軒に漢学を学び、1874年(明治7年)慶應義塾法律科一期生として卒業する。卒業後司法省八等出仕となり長崎上等裁判所の裁判官となり大審院検事となる。1886年(明治19年)大審院法律諮問会員、1890年(明治23年)青森地方裁判所検事正、1892年(明治25年)福島裁判所検事正等、各地方に歴任し、のちに退官し京都に移る。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848… 木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848年3月21日) - 1889年(明治22年)9月30日)は明治時代の日本の裁判官。諱は祐之。従五位勲六等。旧広島藩士。兵庫裁判所検事、東京控訴裁判所検事、宮城控訴裁判所検事長、大阪控訴裁判所検事、函館控訴裁判所判事、東京重罪裁判所長、東京控訴院評定官等を歴任。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
法貴 発(ほうき はつ / たかし、1846年9月29日〈弘… 法貴 発(ほうき はつ / たかし、1846年9月29日〈弘化3年8月9日〉 - 1890年〈明治23年〉12月23日)は、明治時代の政治家、官吏、裁判官。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は篤介、信保。 丹波篠山藩士・法貴新治の二男として丹波国多紀郡篠山山内町(兵庫県多紀郡篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市)として生まれた。のち上京し昌平黌に入り塩谷宕陰、中井履軒、芳野金陵などに漢籍を学んだ。長州征討、戊辰戦争に従軍したのち開国論および佐幕主義に目覚め、各地を転々としたのち鹿児島の兵学寮に入校した。1871年(明治4年)の廃藩置県を機に篠山へ帰郷し、間もなく上京し大蔵省地租改正局に出仕し同職を5年間に渡り務めた。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 -… 芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 - 1906年〈明治39年〉8月28日)は、置賜県参事、裁判官、大審院判事。 米沢藩に生まれる。藩主上杉斉憲御近習、刑法局、藩庁大属、権小参事などを経て、1871年(明治4年)11月に権参事、1872年(明治5年)11月に参事となる。1873年(明治6年)5月、参事を免官され、1875年(明治8年)、判事に任官されると、1877年(明治10年)、名古屋裁判所判事、1882年(明治15年)、秋田始審裁判所判事長・同所長、1887年(明治20年)、第一期東京重罪裁判長、1888年(明治21年)、東京控訴院評定官、1889年(明治22年)、福井重罪裁判長を歴任し、のちに大審院判事となった。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
児島 惟謙(こじま これかた / こじま いけん、天保8年2… 児島 惟謙(こじま これかた / こじま いけん、天保8年2月1日〈1837年3月7日〉- 1908年〈明治41年〉7月1日)は、日本の裁判官・政治家。 後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候。 幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。「児島惟謙」は後述する脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。名前は「これかた」「いけん」以外にも、「これかね」などとも呼ばれる。号は天赦、字は有終。 天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の末)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、父方の親戚が営む造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。
三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月… 三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月15日)- 1901年(明治34年)5月20日)は、幕末から明治期の徳島藩家老稲田家重臣、裁判官、政治家。貴族院勅選議員。初名・直方、号・高陽間人。 淡路国津名郡洲本城下洲本紺屋町(現兵庫県洲本市)で、稲田家家臣・三田省輔の三男として生まれる。稲田家学問所・益習館で学んだ。内藤弥兵衛、立木兼善らと天誅組運動に加わり徳島藩から禁固処分を受けたが、朝廷の命により釈放された。明治元年2月(1868年)軍監役、糺問局頭取として有栖川宮 東征大総督の護衛として東征に従軍した。 明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還で稲田家旧家臣が士族に編入されなかったため、七条弥三右衛門、内藤弥兵衛らと徳島藩からの分藩運動を起こした。
巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉… 巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉 - 1900年〈明治33年〉5月24日)は、日本の裁判官・陸軍軍人。肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一。 天保元年12月(1831年)、肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。 幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。
中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12… 中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。旧名は三木永吉。明治維新後に直人、錫胤と名乗る。号は可庵、無外。 徳島藩士・三木章助の長男として、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり、のち老齢の棕隠の養子となり、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走。
小畑 美稲(おばた うましね、1829年10月22日(文政1… 小畑 美稲(おばた うましね、1829年10月22日(文政12年9月25日) - 1912年11月12日)は、幕末から明治の武士(土佐藩士)、裁判官、政治家。元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候、正二位、男爵。幼名・孫二郎または孫次郎。 土佐国土佐郡一宮村(高知県土佐郡一宮村を経て現高知市)で、土佐藩士・小畑美穂の長男として生まれる。奥宮慥斎から陽明学を学ぶ。土佐勤王党に加わり尊王攘夷運動を推進。文久3年(1863年)、土佐勤王党の獄により入獄した。 明治維新後に赦免され新政府に出仕。明治2年7月(1869年)、弾正大巡察に就任。以後、弾正権少忠、司法大解部、司法少判事を歴任。 明治5年8月(1872年)、茨城裁判所長に就任。
村木 保裕 は、元東京高等裁判所裁判官。
毛利 晴光(もうり はれみつ)は、裁判官。東京地方裁判所部総… 毛利 晴光(もうり はれみつ)は、裁判官。東京地方裁判所部総括判事を経て東京地方裁判所八王子支部部総括判事(刑事第二部)・東京家庭裁判所八王子支部部総括判事。東京大学卒業。
小川 浩 は、日本の裁判官、公証人。秋田地方裁判所所長等を経… 小川 浩 は、日本の裁判官、公証人。秋田地方裁判所所長等を経て、仙台高等裁判所部総括判事を務めた。
草野 芳郎 は、日本の裁判官、弁護士。鹿児島地方裁判所長や、… 草野 芳郎 は、日本の裁判官、弁護士。鹿児島地方裁判所長や、広島高等裁判所部総括判事、学習院大学法学部教授、日本インドネシア法律家協会理事長等を歴任した。
小坂 敏幸(こさか としゆき)は、日本の裁判官、公証人。 大… 小坂 敏幸(こさか としゆき)は、日本の裁判官、公証人。 大阪市立大学卒業。東京地方裁判所部総括判事、前橋家庭裁判所所長などを経て東京高等裁判所部総括判事。退官後、東京公証人会会長、日本公証人連合会会長、法務省検察官・公証人特別任用等審査会委員、法務省検察官・公証人特別任用等審査会公証人分科会委員。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
下山 芳晴 は、日本の元裁判官。弾劾裁判により罷免の判決を受… 下山 芳晴 は、日本の元裁判官。弾劾裁判により罷免の判決を受けた。
土肥 章大(どい あきお)は、日本の元裁判官。東京大学卒 こ… 土肥 章大(どい あきお)は、日本の元裁判官。東京大学卒 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
波床 昌則(はとこ まさのり)は、日本の裁判官。東京高等裁判… 波床 昌則(はとこ まさのり)は、日本の裁判官。東京高等裁判所判事などを経て、弁護士。東京大学卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
笠井 勝彦(かさい かつひこ)は、日本の裁判官、公証人。東京… 笠井 勝彦(かさい かつひこ)は、日本の裁判官、公証人。東京地方裁判所部総括判事などを経て、東京高等裁判所判事(第15民事部)を最後に依願退官し公証人となった。明治大学卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
水内 喜作(みずうち きさく、生年不明 - 1919年〈大正… 水内 喜作(みずうち きさく、生年不明 - 1919年〈大正8年〉)は、日本の裁判官、弁護士。富山弁護士会会長。族籍は岡山県平民。 岡山県出身。1890年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業。1893年、弁護士名簿に登録する。判事に任じ、洲本区判事に補せられる。高松地方裁判所判事に補せられ十級棒を下賜される。明治法律学校校友会富山支部幹事に当選する。 1904年5月、富山地方裁判所判事を退職した水内は新聞に「自分儀今般富山地方裁判所判事ノ職ヲ辞シ弁護士ノ業務ニ従事致候 総曲輪六五番地正七位明法学士弁護士水内喜作」と開業案内を出した。 岡用水をめぐる訴訟で、葛原村の訴訟代理人となる。住所は富山市総曲輪町。
宍戸 充(ししど みつる)は、日本の弁護士、元検察官、元裁判… 宍戸 充(ししど みつる)は、日本の弁護士、元検察官、元裁判官。横浜国立大学卒業。元日本大学大学院法務研究科教授、元西村あさひ法律事務所顧問(カウンセル)。知的財産法を専門とする。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
北代 正臣(きただい まさおみ、生年不詳 - 1908年〈明… 北代 正臣(きただい まさおみ、生年不詳 - 1908年〈明治41年〉1月25日)は、幕末の土佐藩士、明治期の官僚・裁判官。青森県権令。名・恕、幼名・忠吉。 土佐国土佐郡小高坂村(現高知県高知市西町)で、北代正親の長男として生まれる。土佐勤王党に加わり国事に奔走。藩では勘定人小荷駄高作配役、山内容堂上京の御供達御算用役并切手役、長崎出張御用金方などを務めた。 明治政府に登用され明治元年(1868年)、外国官御用掛に就任。以後、外務大禄、民部省監督権正、同省庶務正などを歴任。明治5年(1872年)、大蔵省六等出仕に就任。1873年6月、青森県で給禄について菱田重禧権令と弘前士族の間で対立が起こり、政府は北代を派遣した。
木村 元昭(きむら もとあき)は、日本の裁判官、福岡高等裁判… 木村 元昭(きむら もとあき)は、日本の裁判官、福岡高等裁判所部総括判事などを経て、福岡地方裁判所所長。
華井 俊樹 は、日本の元裁判官。岐阜県出身。大阪地方裁判所の… 華井 俊樹 は、日本の元裁判官。岐阜県出身。大阪地方裁判所の判事補(当時の担当は第24民事部合議2係)であったが、弾劾裁判により罷免された。史上7人目の罷免者となった。
井口 博(いぐち ひろし)は、元裁判官・元検察官の弁護士。 … 井口 博(いぐち ひろし)は、元裁判官・元検察官の弁護士。 京都府出身。京都教育大学教育学部附属高等学校を経て、1974年一橋大学法学部卒業、1976年一橋大学大学院法学研究科修士課程中退。1978年司法修習修了。 横浜地方裁判所判事補、法務省訟務検事、大阪地方裁判所判事を経て、1989年弁護士登録。1992年ジョージタウン大学ローセンター大学院修士課程(環境法)修了。1996年、東京ゆまにて法律事務所を開設。 2008年~2010年司法試験考査委員(環境法)。自然環境訴訟(西表島リゾートホテル建設差止訴訟、福島イヌワシ保護訴訟など)のほか、ハラスメント問題に詳しく、企業や大学のハラスメント防止対策委員やハラスメント調査委員を数多く務める。
香城 敏麿 は、日本の裁判官。主に刑事裁判を担当し、福岡高等… 香城 敏麿 は、日本の裁判官。主に刑事裁判を担当し、福岡高等裁判所長官を歴任した。
関根 小郷 は、日本の裁判官。最高裁判所判事。栃木県出身。
長 秀之(おさ ひでゆき)は、日本の元裁判官。東京地方裁判所… 長 秀之(おさ ひでゆき)は、日本の元裁判官。東京地方裁判所民事第5部部総括判事、東京家庭裁判所部総括判事を経て、青森地方裁判所所長。慶應義塾大学卒業。 『民事要件事実講座〈2〉総論2―多様な事件と要件事実』(共編)(青林書院、2005年6月) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
久我 泰博(くが やすひろ)は、日本の裁判官。東京高等裁判所… 久我 泰博(くが やすひろ)は、日本の裁判官。東京高等裁判所判事、横浜地方裁判所部総括判事を経て、仙台高等裁判所秋田支部長。主に刑事裁判を担当。慶應義塾大学卒業。 前橋地裁時代の2003年10月9日には群馬女子高生誘拐殺人事件(2002年7月19日発生)の第一審判決公判にて裁判長として被告人に無期懲役判決(前橋地検の求刑:死刑)を言い渡した。判決宣告後には被告人に「周りの人に『死刑にしなくて良かった』と言ってもらえる人間になってほしい」と説諭したほか、被告人の退廷後には被害者の両親に対し「納得がいかないと思うが、『犯人が人を殺すのは簡単だが、国家が死刑という判断をするのは大変だ』ということだ」と語りかけた。
齋藤 隆(さいとう たかし)は、日本の弁護士、元裁判官。叙勲… 齋藤 隆(さいとう たかし)は、日本の弁護士、元裁判官。叙勲 瑞宝重光章。 1973年3月に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。1974年9月に司法試験第2次試験に合格。1975年3月に慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程を修了し、1977年4月に裁判官に任官した。東京地裁八王子支部判事補、秋田地裁判事補、大阪地裁判事補、山形地裁酒田支部判事補、東京地裁判事。 1989年からは東京法務局訟務部付(検事)、東京地裁判事(東京高等裁判所職務代行)、長野地方裁判所民事部部総括判事。 1999年から東京地裁民事第49部(通常部)部総括判事、同第22部(調停・借地非訟・建築事件部)部総括判事、同第21部(民事執行センター)部総括判事。
稲田 龍樹(いなだ たつき)は、日本の裁判官、弁護士。東京高… 稲田 龍樹(いなだ たつき)は、日本の裁判官、弁護士。東京高等裁判所部総括判事や、学習院大学法科大学院教授、学習院大学法務研究所長等を歴任した。 東京都出身。1969年中央大学法学部卒業、司法修習生。1971年裁判官任官(札幌地裁判事補。長沼ナイキ事件第一審左陪席裁判官)。東京地方裁判所判事、青森地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事、大阪高等裁判所判事、横浜地方裁判所横須賀支部判事、名古屋地方裁判所部総括判事、東京家庭裁判所部総括判事等を経て、2002年札幌家庭裁判所長。2004年千葉家庭裁判所長。2006年横浜家庭裁判所長。2008年東京高等裁判所部総括判事。2011年学習院大学法科大学院教授。
星野 雅紀(ほしの まさのり)は、日本の元裁判官・弁護士。法… 星野 雅紀(ほしの まさのり)は、日本の元裁判官・弁護士。法務省東京法務局訟務部長、福岡高等裁判所部総括判事等を経て、千葉家庭裁判所所長を最後に定年退官し、日本大学大学院法務研究科教授や、法務省司法試験考査委員を務めた。 中央大学法学部法律学科卒業。東京法務局訟務部長、法務省訟務局行政第二課長、東京地方裁判所部総括判事、東京高等裁判所判事、浦和地方裁判所部総括判事等を経て、2000年7月31日には山口地方裁判所所長に。2001年9月25日には福岡高等裁判所部総括判事に、2005年12月20日には千葉家庭裁判所所長に着任し、2008年1月7日に定年退官した。 退官後は日本大学大学院法務研究科教授、第一東京弁護士会弁護士登録。
宇佐見 隆男(うさみ たかお)は、日本の裁判官。 東京大学法… 宇佐見 隆男(うさみ たかお)は、日本の裁判官。 東京大学法学部卒業。福岡地方裁判所、東京地方裁判所、広島高等裁判所などを歴任。専門は商法、民事訴訟法で、法務省(出向)時代に「実務相談 株式会社法」を設立させる。定年を待たずに退官し、公証人を70歳まで勤める。2014年(平成26年)5月他界し、天皇より正四位を贈られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡村 輝彦(おかむら てるひこ)は、明治期の日本の判事、弁護… 岡村 輝彦(おかむら てるひこ)は、明治期の日本の判事、弁護士。浜松藩出身。鶴舞藩貢進生として開成学校に学び、ロンドンに留学してミドル・テンプルでバリスターの資格を得た。帰国して東京控訴院・大審院判事、横浜始審裁判所長を務めた後、辞官して弁護士として活動し、千島艦事件で弁護を行った。東京弁護士会会長、中央大学学長も務めた。 安政元年7月20日、同年12月20日、安政2年7月2日又は同年12月20日、浜松藩士岡村義昌の子として大坂蔵屋敷に生まれた。外祖父東園基貞により東園家の通字「基」から基之助と名付けられたが、後に光之助と改め、14,15歳頃輝彦と名乗った。 7歳の時、祖父岡村義理、父義昌が国元浜松に幽閉となり、家は困窮した。
薄井 龍之(うすい たつゆき)は、江戸時代末期の志士、明治時… 薄井 龍之(うすい たつゆき)は、江戸時代末期の志士、明治時代の判事。通称は督太郎。字は飛虹、号は小蓮。 信濃国飯田城下の醤油醸造業者の家に生まれる。18歳で江戸へ出て、昌平坂学問所の学僕となり、勉学に勤しむ。上洛して頼三樹三郎に師事し、尊皇攘夷思想を吹き込まれる。江戸に戻り、野田笛浦や佐久間象山に学ぶ。安政の大獄で師の頼三樹三郎は捕縛されるが、救出を試みて失敗し、薄井も日本橋小伝馬町で入牢した。その後、脱獄して水戸へ逃れ、武田耕雲斎の元に身を寄せる。元治元年(1864年)天狗党の乱に参加。しかし途中で脱退し、越前まで同行しなかったため、処刑は免れた。大政奉還後は新政府の軍監として奥羽を歴戦した。