山口 清一郎(やまぐち せいいちろう、1938年3月10日 … 山口 清一郎(やまぐち せいいちろう、1938年3月10日 - 2007年11月10日)は、日本の映画監督。東京・品川出身。 60年代安保世代で映画を志し、1962年に早稲田大学文学部を卒業後、日活撮影所に入社した。同期入社には、映画監督の曽根中生、大和屋竺、岡本孝二、映画プロデューサーの岡田裕、作家の榛谷泰明らがいる。監督デビュー作となる『恋の狩人 ラブ・ハンター』が警視庁に摘発され、同僚監督の藤井克彦、近藤幸彦と共に「猥褻裁判」の被告となったことで知られる。「猥褻裁判」は1980年に高裁で無罪が確定した。 なおこのときの主演女優の田中真理をその後の『恋の狩人 欲望』『-北村透谷- わが冬の歌』においても起用している。
平田 敏夫(ひらた としお、1938年2月16日 - 201… 平田 敏夫(ひらた としお、1938年2月16日 - 2014年8月25日)は、日本のアニメーター、アニメーション演出家、アニメ監督、映画監督である。ニックネームはポンさん。 山形県天童市に生まれる。武蔵野美術大学卒業の1960年、東映動画(現:東映アニメーション)に入社。東映動画時代は、森康二の班に配属されてアニメーター(原画マン・動画マン)として、同社の『わんぱく王子の大蛇退治』などの作画を担当した。4年間の動画マン生活の後、東映動画のテレビアニメ『狼少年ケン』で原画デビューし、虫プロへ移籍。虫プロではアニメーターとして原画を描いていたが、『鉄腕アトム』で演出家デビューした。演出については山本暎一から学ぶ。
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年(昭和13年)1… 大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年(昭和13年)1月9日 - 2020年(令和2年)4月10日)は、日本の映画監督。従四位、旭日中綬章。 倉敷芸術科学大学客員教授、長岡造形大学造形学部客員教授、尚美学園大学名誉教授、文化功労者。 広島県尾道市東土堂町生まれ。尾道市立土堂小学校、尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授。 妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「ハウス」の発案者である他、出演もしている)、その夫は漫画家の森泉岳土。
安藤 達己(あんどう たつみ、1938年 - 2013年2月… 安藤 達己(あんどう たつみ、1938年 - 2013年2月7日)は、映画監督。本名は安藤 達久。東京都出身。 シャープなカット構成による演出が特徴である。娘に元コスミック・インベンションの安藤聖己がいる。
小沼 勝(こぬま まさる、1937年12月30日 - 202… 小沼 勝(こぬま まさる、1937年12月30日 - 2023年1月22日)は、日本の映画監督。 1937年12月30日、北海道小樽市に生まれる。都立新宿高等学校を経て1961年、日本大学芸術学部映画学科を卒業し、日活に助監督として入社する。 1971年、『花芯の誘い』で映画監督デビューを果たす。以後、40本以上の日活ロマンポルノの作品を手がけた。耽美的な作風でSM物を得意とする。 1974年『花と蛇』での原作改変が原作者の団鬼六を激怒させ、その後は団原作ではないSM映画を数多く撮った。数年後には団とも和解して団原作映画も撮るようになっている。 ロマンポルノ以外では日本テレビ系『火曜サスペンス劇場』など、サスペンスドラマ作品の演出を手掛けたこともあった。
曽根 中生(そね ちゅうせい、1937年〈昭和12年〉10月… 曽根 中生(そね ちゅうせい、1937年〈昭和12年〉10月1日 - 2014年〈平成26年〉8月26日)は、日本の映画監督、脚本家。本名:曽根 義忠(よしただ)。 群馬県北群馬郡子持村(現在の渋川市)出身。群馬県立渋川高等学校を経て、東北大学文学部を卒業した1962年に日活に入社。蔵原惟繕、牛原陽一らに師事する。 若松孝二監督の問題作『壁の中の秘事』(1965年)の脚本を担当して注目を集める。 また脚本家集団具流八郎の中心的メンバーとして、鈴木清順監督の日活最後の作品『殺しの烙印』(1967年)の脚本を手がける。 その後、監督デビューと時を同じくして日活がロマンポルノ路線に転じたため、多くのロマンポルノ作品を監督することとなった。
田中 登(たなか のぼる、1937年8月15日 - 2006… 田中 登(たなか のぼる、1937年8月15日 - 2006年10月4日)は、日本の映画監督。 長野県白馬村出身。長野県大町高等学校を経て明治大学文学部仏文科入学。在学中、黒澤明の『用心棒』にアルバイトとして参加する。 1961年、200倍以上の難関を勝ち抜いて日活演出部に入社。フランス映画狂いで、付けられたニックネームは「ムッシュ」。助監督会の幹事も務めた。 日活がロマンポルノ路線に転向すると、1972年『花弁のしずく』で監督デビュー。翌1973年に撮った『㊙女郎責め地獄』では美術の川崎軍二と組んだグロテスクかつサイケデリックな映像美が評価され、日本映画監督協会新人賞奨励賞を受賞した。その後も田中&川崎コンビで秀作を量産、1975~1978年に3本がキネマ旬報ベスト・テン入りを果たした。
中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本… 中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本の映画監督。熊本県菊池郡合志町(現合志市)出身。 1960年、多摩美術大学付属芸術学園映画科を卒業し、日活撮影所に入所。1962年よりフリーの助監督として多数の作品に携わった。その後熊本に帰郷し、1969年に映画デビュー作「あつい壁」を監督した。ハンセン病に対する根強い差別を扱い、話題になった。 2007年『新・あつい壁』を手がける。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
大和屋 竺(やまとや あつし、1937年6月19日 - 19… 大和屋 竺(やまとや あつし、1937年6月19日 - 1993年1月16日)は、日本の脚本家、映画監督、俳優。アニメーション脚本家、中央競馬馬主の大和屋暁は息子。 1937年6月19日、北海道三笠市幌内町に生まれる。父は炭鉱労働者、母は没落旧家の出身だった。 1953年、父の停年退職に伴い、一家で上京。葛飾区青砥に住む。 1958年、2年間の浪人生活を経て早稲田大学第一文学部に入学(専攻は日本史)。在学中は田中陽造らと「稲門シナリオ研究会」に所属し、田中の脚本で16ミリ映画『一・〇五二』を監督した。 1962年、早稲田大学卒業。日活株式会社助監督部(第8期)に入社。同期に岡田裕、曽根義忠(中生)、山口清一郎らがいた。
堀川 とんこう(ほりかわ とんこう、本名・堀川 敦厚(ほりか… 堀川 とんこう(ほりかわ とんこう、本名・堀川 敦厚(ほりかわ あつたか)。1937年5月24日 - 2020年3月28日)は、日本のテレビドラマのプロデューサー・演出家ならびに映画監督である。群馬県吾妻郡中之条町出身。妻は脚本家、ノンフィクション作家の高木凛。エッセイスト・イラストレーターの中山庸子は従妹である。 群馬県吾妻郡の中之条町立中之条中学校から群馬県立高崎高等学校に進学。その後、東京大学に入学し文学部英文科へ進む。また、第84代内閣総理大臣の小渕恵三とは小、中学校時代同級生で幼馴染であった。中之条を離れ大学は違ったが、学生時代は山手線の中で時の話題や文学を語り合った。友としての親交は小渕が亡くなるまで続いていた。
櫻木 晶(、1937年〈昭和12年〉4月11日 - )は、日… 櫻木 晶(、1937年〈昭和12年〉4月11日 - )は、日本の映画美術監督。和歌山県出身。日本映画美術監督協会特別会員。 1961年に、東宝へ美術助手として入社。黒澤明や市川崑らの監督作品に携わったのち、1984年に映画『ゴジラ』にて美術デザイナーとして一本立ちした。1997年4月、定年退職しフリーとなる。 美術監督としては、セットのクオリティの高さを第一に掲げていた。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - … 実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、日本の映画監督、演出家、脚本家、小説家。元東京藝術大学演奏芸術センター教授。妻は女優の原知佐子。 現在までのところ、デビュー作(長編映画第1作)『無常』でFIAPF(国際映画製作者連盟)公認の国際映画祭(ロカルノ国際映画祭)の最高賞を獲得した、唯一の日本人監督である。海外では非常に多く見られる、映画監督から継続的なオペラ演出を手掛けた人物としても日本で唯一であった。[要検証 – ノート] 1937年(昭和12年)3月29日、東京府東京市四谷区(現・東京都新宿区四谷)に生まれ、中国青島で育つ。曽祖父は臼杵藩士であった。
村川 透(むらかわ とおる、本名:高橋 透(たかはし とおる… 村川 透(むらかわ とおる、本名:高橋 透(たかはし とおる)、旧姓:村川、1937年(昭和12年)3月22日 - )は、日本の映画監督・音楽家。別名:山形 透。山形県村山市出身。山形県立山形南高等学校、福島大学経済学部卒業。実父は教員・国文学研究者で『俳人一具全集』などの編集を手掛けた村川幹太郎。長兄は指揮者の村川千秋。姪はヴァイオリニストの村川千尋。 村山郡館林藩領内の里正の血筋であり、江戸前期に活躍した俳人・村川素英の子孫にあたる。福島大学卒業後の1959年、日活に入社し上野日活劇場の営業部で辣腕を振るうも方向性の不一致から同年に退社し、翌年に演出部へ復職し助監督となる。社内では舛田利雄、中平康、西河克己、森永健次郎、社外では貞永方久、森谷司郎らの助監督を務め、特に日米合同スタッフによる戦争大作『トラ・トラ・トラ!』では、日本側演出部総チーフ(ノンクレジット)として現場を取り仕切った。
明比 正行(あけひ まさゆき、1937年3月17日 - )は… 明比 正行(あけひ まさゆき、1937年3月17日 - )は、日本のアニメーション演出家、映画監督。 愛媛県松山市出身。9人兄弟の三男として生まれるが、兄弟は若くして全員亡くなったという。 日本大学芸術学部文芸学科卒業。同郷の佐伯清の伝手を頼り、1959年に東映に入社。東京撮影所にて佐伯清、渡辺祐介、石井輝男、今井正らの下で助監督(サード、フォース)を務める。 映画産業の斜陽化に伴い、1964年に東映動画(現:東映アニメーション)に転籍する。転籍組の同期に日大の先輩であった久岡敬史や京都撮影所から移ってきた田宮武、勝間田具治らがいる。 アニメ初仕事となった『狼少年ケン』では山本寛巳の助手に就くが、山本が組合運動のためにしばしば会社を抜け出していたため、明比が仕事を肩代わりするようになり、第46話「ジャングルの友情」で早くも演出として一本立ちする。
伊藤 俊也(いとう しゅんや、1937年(昭和12年)2月1… 伊藤 俊也(いとう しゅんや、1937年(昭和12年)2月17日 - )は、日本の映画監督・脚本家。 いとう としやと紹介される場合があるが、いとう しゅんやが正しい。 福井県福井市出身。乾徳高等学校を経て、東京大学文学部卒業。 1960年、東映撮影所に入り助監督・脚本家として活動。助監督時代の映画に『河内遊侠伝』(1967年)がある。 1970年、千葉真一主演の『やくざ刑事シリーズ』の第二作『やくざ刑事 マリファナ密売組織』を野田幸男と共同監督。 1972年、梶芽衣子主演『女囚701号 さそり』を単独で監督、本人はこれをデビュー作としている。鮮烈な様式美で『女囚さそりシリーズ』としてシリーズ化されたが、先鋭的な演出がどんどんエスカレートしたこともあり第3作で降板。
山口 和彦 (やまぐち かずひこ、1937年2月5日 - )… 山口 和彦 (やまぐち かずひこ、1937年2月5日 - ) は、日本の映画監督・脚本家・テレビドラマの監督。長崎県長崎市出身。 長崎県立長崎西高等学校を経て、早稲田大学進学。卒業後、東映へ入社。東映東京撮影所に配属され、千葉真一主演映画の助監督やテレビドラマの助監督で経験を重ねる。1970年の『ずべ公番長シリーズ』で監督・脚本を始める。シリーズ物としては任侠映画で梶芽衣子の『銀蝶シリーズ』、アクション映画では志穂美悦子の『女必殺拳シリーズ』や千葉真一の『けんか空手シリーズ』などのカラテ映画を手掛け、東映ポルノも数本撮っている。東映製作のテレビドラマでは『アイフル大作戦』を皮切りに、1984年の『スクール☆ウォーズ』以降は大映テレビでも監督をしている。
櫻井一孝(さくらい かずたか、1937年1月2日 - )は、… 櫻井一孝(さくらい かずたか、1937年1月2日 - )は、日本のテレビドラマ監督。1970年代~1980年代の刑事ドラマを多く手掛け、アクション劇に定評がある
小林 義明(こばやし よしあき、1936年9月8日 - )は… 小林 義明(こばやし よしあき、1936年9月8日 - )は、日本の元映画監督・プロデューサー。主に特撮テレビドラマ作品を手がける。東映に所属していた。株式会社自由メディア代表。 1952年 東京教育大学附属中学校(現・筑波大学附属中学校)卒業。1955年 東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。1960年 日本大学藝術学部を卒業後、東映東京撮影所に入社。 佐伯清に師事し、社員監督の立場で数々の作品に携わる。最初に助監督としてついた作品は片岡千恵蔵主演の『二発目は地獄行きだぜ』(1960年1月27日公開)、デビュー作品は1966年のテレビドラマ『刑事さん』。その後、労働組合の幹部になったことから2年ほど労働を禁じられていたが、労使交渉により復帰し、吉川進プロデューサーの招きにより、1978年の『スパイダーマン』より特撮作品の演出に進出。
金井 勝(かない かつ、本名読み:まさる、1936年7月9日… 金井 勝(かない かつ、本名読み:まさる、1936年7月9日 - 2026年4月22日)は、日本の映画監督、映像作家。神奈川県出身。 日本大学芸術学部映画学科を卒業後、大映東京撮影所を経てフリーランサーとなり、テレビドキュメンタリーの演出などをしながら「かない勝丸プロダクション」を結成して前衛作品を発表する。 受賞作は、『無人列島』がニヨン国際ドキュメンタリー映画祭:グランプリ、『夢走る』がメルボルン映画祭:最優秀短篇劇映画賞、『スーパードキュメンタリー前衛仙術』がオーバーハウゼン国際短篇映画祭:国際批評家連盟賞。 『無人列島』、『Good-bye』、『王国』の<微笑う銀河系・三部作>発表当初から、『無人列島』を中心に海外での上映も少なからずあったが、オーバーハウゼン国際短編映画祭での<回顧展>を皮切りに映画祭や学会などで<選集や全集>が組まれ、そのトークショーにドイツ、アメリカ、イギリス、ベルギー、スイス、フランスに招待されている。
牧口 雄二 (まきぐち ゆうじ、1936年6月29日 - 2… 牧口 雄二 (まきぐち ゆうじ、1936年6月29日 - 2021年12月5日) は、日本のテレビ・映画監督、プロデューサー。東京都板橋区出身。 東京都立九段高等学校を経て慶應義塾大学文学部を卒業後、1960年(昭和35年)に東映株式会社に入社。以来、京都に在住し、東映京都で山下耕作・中島貞夫作品の助監督を経る。 1975年(昭和50年)に東映ポルノ『玉割り人ゆき』で監督デビュー。『玉割り人ゆき』を当時の東映社長・岡田茂から、叙情とエログロの合わせ、その技を高く評価され、以降『五月みどりのかまきり夫人の告白』などの監督作品を発表した。 1977年の鰐淵晴子主演の話題作『らしゃめん』を最後に劇場映画を離れ、テレビドラマ「暴れん坊将軍」シリーズ、「柳生一族の陰謀」「影の軍団」シリーズ、「長七郎江戸日記」などのプロデューサー・監督業を中心に活動。
深尾 道典(ふかお どうてん、1936年6月26日 - 20… 深尾 道典(ふかお どうてん、1936年6月26日 - 2023年9月22日)は、日本の映画監督、脚本家。本名:ふかお みちのり。滋賀県神崎郡五個荘町(現東近江市)出身。 六人兄弟の三男として五個荘町(現東近江市)に生まれる。両親とも小学校教師。家は貧しかった。滋賀県立八日市高校野球部でサードを守り、二年の夏、京滋代表として第35回夏の甲子園に出場した。レギュラーとして甲子園の土を踏んだ映画監督は深尾ただ一人とされる。早稲田大学第一文学部文学科美術専攻に進学し、20世紀美術史を専攻。実家からの仕送りを米だけで、学費と生活費を東ハトの工場のアルバイトで凌ぐ。学生運動にも活発に参加、警職法反対闘争や60年安保闘争では機動隊に何度も殴打された。
山根 成之(やまね しげゆき、1936年6月14日 - 19… 山根 成之(やまね しげゆき、1936年6月14日 - 1991年12月27日)は、日本の映画監督、脚本家。1970年代に松竹の映画で活動した。 東京府東京市向島区寺島町(現・東京都墨田区東向島)で帽子屋の息子として生まれた。小学生の頃から浅草の映画館に通うほどの大の映画好きで、都立両国高校3年の時には年間800本を記録した。その一方で演劇部で活躍し、舞台俳優を目指し劇団俳優座への入団を志したが、方向転換して日本大学芸術学部映画学科に入学し、1960年に卒業後、松竹に入社。高橋治、小林正樹、中村登、篠田正浩、野村芳太郎らの作品の助監督につく。作風では、他社(日活)であるが鈴木清順の作品の影響を受けたという。
河崎 義祐(かわさき よしすけ、1936年5月20日 -)は… 河崎 義祐(かわさき よしすけ、1936年5月20日 -)は、日本の映画監督。 福井県福井市生まれ。福井県立高志高校を1955年に卒業、1960年に慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社。当初は宣伝部に勤務していたが、1962年に製作部に転属。黒澤明の『どですかでん』、加藤泰『日本侠花伝』、岡本喜八『日本のいちばん長い日』、森谷司郎『大空戦』など、約40作品の助監督を務めた。1975年、『青い山脈』で監督に昇格。同作で第1回大阪市民映画祭新人監督賞を受賞した。翌1976年公開の『挽歌』では、主演の秋吉久美子がアジア映画祭主演女優賞を受賞。以降、多くのアイドル映画を手掛けた。東宝配給ながらホリ企画制作が一貫して日活へ制作外注していた山口百恵主演シリーズにも東宝監督としては初めて招かれ、『炎の舞』で日活撮影所に赴いている。
和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 … 和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 - 2019年〈令和元年〉10月7日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。 実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる。 妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱で、その妻は上野樹里。次男の和田率は元電通勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター。率の妻は和田明日香。 父である精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市東住吉区で生まれる。
小松 範任(こまつ のりひで、1936年〈昭和11年〉4月8… 小松 範任(こまつ のりひで、1936年〈昭和11年〉4月8日 - 2018年〈平成30年〉2月22日)は、日本のテレビドラマ監督・脚本家。 香川県高松市出身。声優の小松由佳は娘。DTMerのfkomは息子。 幼少期から榎本健一(エノケン)のファンで、本人曰く、その幼い頃から劇場に行ってエノケンの映画を観て育って来たとのこと。地元・高松では無料だったこともあって東宝の映画をよく観ていたという。早稲田大学第一文学部仏文科卒業を控えた就職試験の時に、映画会社では東宝は縁故のコネが無いと受験できなかったということで、これしか募集が無かった東映を受験、しかし当時東映作品と言えばチャンバラの剣劇以外の作品を知らなかったので、口頭試問の時に困ったという。
若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年〈昭和11年〉4月1… 若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年〈昭和11年〉4月1日 - 2012年〈平成24年〉10月17日)は、日本の映画監督・映画プロデューサー・脚本家。宮城県出身。本名は伊藤孝(いとう たかし)。 宮城県遠田郡涌谷町出身。父親は馬喰で獣医師をしていたが大酒飲みで、孝は幼いときからこの父に反抗しながら育った。農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習いや新聞配達、新宿安田組の大幹部だったヤクザ(荒木恷)の下働きなどを経験。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受ける(その時の経験により後に監督デビュー作の『甘い罠』は“警官を殺すために映画監督になった”と豪語した通りに警官殺しの映画になっている)。
内藤 誠(ないとう まこと 1936年3月6日 - )は、日… 内藤 誠(ないとう まこと 1936年3月6日 - )は、日本の映画監督、脚本家、著述家。元中部大学人文学部教授。元日本大学芸術学部映画学科講師。 愛知県名古屋市出身。愛知県立刈谷高等学校を経て、1959年、早稲田大学政治経済学部新聞学科を卒業。唯一、受けた東映の入社試験に合格、東京撮影所に配属される。受験に当たっては師事する木村毅から紹介された雪代敬子に保証人を頼んだ。 佐伯清、成澤昌茂、マキノ雅弘、石井輝男らの助監督を経て1969年に監督に昇進し、主に当時の東映の主流である東映京都撮影所作品などの併映作品、俗に言う「B面映画」の職人監督として活躍した。山下耕作監督『釜ケ崎極道』のB面『ネオンくらげ』は「傑作青春ムービー」、深作欣二監督『仁義なき戦い 代理戦争』のB面『番格ロック』は「女性バードボイルド映画の傑作」と評される。
佐々木 昭一郎(ささき しょういちろう、1936年(昭和11… 佐々木 昭一郎(ささき しょういちろう、1936年(昭和11年)1月25日 - 2024年(令和6年)6月14日)は、日本のディレクター、映像作家、映画監督。NHKディレクター、文教大学情報学部教授を務めた。東京出身。 立教大学経済学部卒業後、1960年にNHKに入局し、芸能局ラジオ文芸部でラジオドラマの演出を手がけた。処女作は『都会の二つの顔』(1963年、ラジオテレビ記者会年間最優秀作品賞、芸術祭奨励賞)。 1968年、テレビドラマ部に異動し、『銀河テレビ小説』のアシスタントディレクターなどを務めると同時に多くの受賞作を生んだ。 1995年に定年もあってNHKを退局。その後はフリーディレクターとして活動。
橋本 幸治(はしもと こうじ、1936年1月21日 - 20… 橋本 幸治(はしもと こうじ、1936年1月21日 - 2005年1月9日)は日本の映画プロデューサー、元映画監督、東宝映画常務取締役。栃木県足利市出身。
川崎 軍二(かわさき ぐんじ、1936年 - )は日本の映画… 川崎 軍二(かわさき ぐんじ、1936年 - )は日本の映画監督・AV監督。 1957年、多摩美術大学在学中に日活に美術スタッフとして入社。日活黄金期から日活ロマンポルノ時代まで20年間にわたり在籍。フリーになった後は、白井伸明監督に誘われ、アダルトビデオの制作を始める。 アダルトビデオ・Vシネマにおいて大人の愛情の物語を描く作品を数多く監督している。 現在は、グラフィティジャパン(「無敵の軍二」レーベル)、ホットエンターテイメント(「軍二」「黄軍二」レーベル)から定期的に作品がリリースされている。 この項目は、性風俗関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:性/PJ:性)。
冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没… 冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没年不明)は、岐阜県出身の映画監督、助監督、脚本家。
小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - … 小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - 2020年12月13日) は、日本の映画監督・演出家・脚本家。 父は鳥取県倉吉市2代目市長の小谷善高。 東京府東京市杉並区出身で、小学校2年生まで東京で育つ。公職追放になった父の故郷・鳥取県東伯郡西郷村の村長の後釜を引き受けたため、1944年3月末、当地に引っ越す。県立倉吉東高校卒業まで鳥取で過ごし、東京に戻りたくて、一浪後東京大学文学部フランス文学科入学を機に東京へ戻る。同時期に大江健三郎・久世光彦が在学していた。この2人は東大在学中から目立つ存在で、次第に落ちこぼれて映画に方向転換した。 大学卒業後、1960年に、暮しの手帖社と東宝の入社試験を受け、東宝に入社。
大澤 豊(おおさわ ゆたか、1935年〈昭和10年〉11月1… 大澤 豊(おおさわ ゆたか、1935年〈昭和10年〉11月15日 - 2020年〈令和2年〉1月1日)は、日本の映画監督。有限会社こぶしプロダクション代表。 群馬県高崎市出身。群馬県立高崎高等学校、群馬大学教育学部卒業。太平洋戦争中の疎開を描いた『ボクちゃんの戦場』(原作:奥田継夫、出演:前田吟・藤田弓子)で1985年(昭和60年)ベルリン国際映画祭児童映画部門3賞を受賞した。 そのほか、1997年(平成9年)日本映画ペンクラブ賞を、2000年手話をテーマにした『アイ・ラヴ・ユー』で日本アカデミー賞特別賞を、2011年『いのちの山河〜日本の青空II〜』で岩手県いのちの灯文化賞を受賞した。 東京都葛飾区在住。
中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年〈昭和10年〉11… 中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年〈昭和10年〉11月12日 - )は、日本の脚本家・小説家・映画監督。京都府生まれ、高知県中村市(現・四万十市)育ち。 父は日本画家の中島敬朝。京都で生まれ、太平洋戦争の影響で1945年10歳のとき、高知県中村市へ疎開。そこでプライバシーが筒抜けな地元住民の生活に衝撃を受け、それが作風にも影響を与えたと語っている。この頃のことは『野蛮な詩』(疎開後の小学生時代)、『郷愁』(中学時代)、『祭りの準備』(20代、上京まで)で小説・映画化している。1954年に高知県立中村高等学校を卒業。家はずっと貧乏で、父が胃潰瘍で入院して金がかかり大学進学を断念し、高知相互銀行に就職し三年ほど勤務する。
高畑 勲(たかはた いさお、1935年〈昭和10年〉10月2… 高畑 勲(たかはた いさお、1935年〈昭和10年〉10月29日 - 2018年〈平成30年〉4月5日)は、日本のアニメ監督、映画監督。 畑事務所代表、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。日本大学芸術学部講師、学習院大学大学院人文科学研究科主任研究員、多摩美術大学客員教授などを歴任、紫綬褒章受章。映画プロデューサーや、フランス文学(ジャック・プレヴェール)の翻訳も手がけている。 1959年に東映動画に入社。『太陽の王子 ホルスの大冒険』で長編をはじめて演出した後、1971年からAプロダクションに移る。以後『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三千里』などのテレビアニメを経て、宮崎駿、鈴木敏夫らと設立したスタジオジブリで監督作を手がけた。
和田 嘉訓(わだ よしのり、1935年10月16日 - 20… 和田 嘉訓(わだ よしのり、1935年10月16日 - 2012年7月12日)は、日本の映画監督、脚本家である。デビュー作『自動車泥棒』で安岡力也をデビューさせたことで知られる。 1935年(昭和10年)10月16日、愛媛県松山市に生まれる。教育者である父の仕事の都合で1945年の終戦までは中国の天津で幼年期を過ごし、その後18歳の松山新田高校を卒業するまでは再び松山市で育つ。 1958年に東京大学教育学部を卒業し、東宝に入社する。1960年(昭和36年)8月14日に公開された稲垣浩監督の『ふんどし医者』で、丸輝夫、高瀬昌弘に次ぐサード助監督としてクレジットされているのが、記録に残る最初の演出歴である。
蜷川 幸雄(にながわ ゆきお、1935年10月15日 - 2… 蜷川 幸雄(にながわ ゆきお、1935年10月15日 - 2016年5月12日)は、日本の演出家、映画監督、俳優。桐朋学園芸術短期大学名誉教授。
小原 宏裕(おはら こうゆう、1935年10月10日 - 2… 小原 宏裕(おはら こうゆう、1935年10月10日 - 2004年2月20日)は、日本の映画監督。 ロマンポルノ映画『檻の中の妖精』(1977年)や『桃尻娘』シリーズ(1978年-1980年)で知られる。日活で最も多才・多産な監督の一人であり、1979年だけで8本もの映画を製作しており、文字通りの没頭さは彼を"ポップアートポルノの王"と呼ばせた。 東京市淀橋区西大久保出身。祖父が日活で監督をしていたことから映画に関心があった。彼は子供の頃に年間200本の映画を見てきたと主張している。1959年に慶応義塾大学法学部を卒業後、衆議院議員の秘書として働いていたが、弁護士試験を受けるよりも松竹の入社試験を受けた。
松尾 正武(まつお まさたけ、1935年8月15日 -没年不… 松尾 正武(まつお まさたけ、1935年8月15日 -没年不詳 )は日本の映画監督、東映俳優養成所講師。大阪府大阪市北区出身。兵庫県へ転居するが第二次世界大戦の影響で京都府に移住する。 1954年に京都府立桃山高等学校を卒業し同志社大学商学部に入学。1960年に卒業と同時に東映京都撮影所の助監督として入社。厳密に言えば第二東映(のちにニュー東映)の契約助監督。1964年2月1日に東映京都テレビプロダクションの設立に参加。同年2月16日に結婚。媒酌人は長谷川安人監督。1967年にテレビディレクターに昇進。 日本映画監督協会公式サイトの物故会員欄に名前が記載されており、現在は故人である。 井沢雅彦「お奉行様と娘たち」1961年 秋元清晴(秋元隆夫の別名義)「逆襲天の橋立」1961年 小沢茂弘「赤い影法師」1961年 内出好吉「てなもんや三度笠」1963年 (チーフ助監督 林伸憲) 佐々木康「浪人街の顔役」1963年 松田定次「血と砂の決斗」1963年 マキノ雅弘「八州遊侠伝・男の盃」1963年 長谷川安人「十七人の忍者」1963年 加藤泰「風の武士」1964年 註:B班助監督、B班監督は大西秀明 ▲テレビ映画(東映京都テレビプロダクション制作) タイトルに監督名のないものは、すべて河野寿一監督作品の助監督 「忍びの者」第一部 1964年 「つむじ風三万両」 1964~1965年 「新選組血風録」1965~1966年 「われら九人の戦鬼」1966年 「銭形平次」第13回 田坂勝彦 1966年 「銭形平次」第17回 田坂勝彦 1966年 「俺は用心棒」1967年 「剣」第29回 山内鉄也 1967年 「次郎長三国志」1968年 註:撮影は1967年、途中第10話で監督昇進。
鳥居 元宏(とりい もとひろ、1935年8月6日 - )は、… 鳥居 元宏(とりい もとひろ、1935年8月6日 - )は、日本の映画監督・脚本家。筆名は飛鳥ひろし。日本画家の9代目鳥居清光は実妹。 東京府杉並区成宗出身。京都府在住。東京都立豊多摩高等学校を経て、1959年早稲田大学第一文学部演劇科卒業。卒業後東映入社。京都撮影所へ配属。助監督となり、内田吐夢、田坂具隆、マキノ雅裕、加藤泰らに就く。1964年から脚本を執筆し、1966年、岡田茂京都撮影所長により監督昇進を認められ、『十七人の忍者 大血戦』初監督。監督として、劇場用映画・テレビドラマを合せて50本を手掛ける。脚本家としては、劇場用映画・テレビドラマを合せて約350本を執筆している 。 1990年大阪芸術大学映像学科教授に就任し、学科長になった。
堀越 善明(ほりこし よしあき、1935年7月27日 - )… 堀越 善明(ほりこし よしあき、1935年7月27日 - )は、日本の映画監督、演劇の演出家である。本名大野 裕司(おおの ゆうじ)でも活動し、別名斎藤 功(さいとう いさお)、橘 明(たちばな あきら)でも作品を発表している。 1935年(昭和10年)7月27日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月、新制高校の東京都立駒場高等学校に進学し、1954年(昭和29年)3月の卒業後に小幡欽治の劇団炎座に入団、演出部に所属する。当時の同劇団には久保田猛、清水元、石崎一正、中庸助、草村礼子らがいた。1959年(昭和34年)、テレビ映画の製作会社で助監督の職を得る。
薩谷 和夫(さつや かずお、1935年7月20日 - 199… 薩谷 和夫(さつや かずお、1935年7月20日 - 1993年1月6日)は、日本の映画美術監督。東京都出身。 永田町小学校(現麹町小学校)、麹町中学校、東京都立明正高等学校を経て、青山学院大学文学部入学後、中退。中退後に東宝撮影所美術課に入社。入社後、最初の仕事は怪獣”ラドン”の翼の操演だった。 黒澤映画の美術監督である村木与四郎のもとで美術を学ぶ。兄弟子は竹中和男。 初美術監督作品は加山雄三の「若大将シリーズ」の『俺の空だぜ!若大将』。 お酒は”サントリー角瓶”を、ミュージカル映画は『イースターパレード』(1948)が最も好き、と公言。 主に大林宣彦の美術監督として知られるが、大林とは『HOUSE ハウス』の頃に知り合い、東宝退社後フリーとなってからも『転校生』以降、『青春デンデケデケデケ』までの大林映画の美術監督を務める。
蔵原 惟二(くらはら これつぐ、1935年7月15日 - )… 蔵原 惟二(くらはら これつぐ、1935年7月15日 - )は、日本の映画監督、映画プロデューサー。映画監督蔵原惟繕の実弟。詩人蔵原伸二郎の甥。 東京・田園調布出身。高校時代を神戸市で過ごす。1958年、日本大学芸術学部卒業。日活入社後、助監督として長谷部安春らに師事し、1971年に旧日活体制最後の一般向け映画『不良少女 魔子』で監督デビュー。退社後は兄・惟繕と共に蔵原プロダクションを設立し、プロデューサーとして多くの映画を手掛ける。
小川 紳介(おがわ しんすけ、1935年6月25日 - 19… 小川 紳介(おがわ しんすけ、1935年6月25日 - 1992年2月7日)は、日本のドキュメンタリー映画監督。山形国際ドキュメンタリー映画祭創設の提唱者。東京市芝区横新町(現在の東京都港区芝)出身。
土屋 統吾郎(つちや とうごろう、1935年5月11日 - … 土屋 統吾郎(つちや とうごろう、1935年5月11日 - 2001年3月24日)は、日本の映画監督である。岐阜県瑞浪市出身。明治大学文学部英米文科卒業。 大学卒業後新東宝に入社。千葉泰樹に師事する。フリーランスになってからはテレビドラマを中心に活躍し、東宝・大映テレビ作品の全盛期の屋台骨を支えた。 特に日本テレビの青春ドラマやフジテレビ水曜20時台の大映ドラマの多くは、土屋統吾郎が監督や演出を務めた作品である。 2001年3月24日、急性腎不全のため東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センターで逝去。65歳。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
永野 靖忠(ながの やすただ、1935年3月29日 - 19… 永野 靖忠(ながの やすただ、1935年3月29日 - 1993年2月17日)は、日本の映画監督、テレビ演出家。北海道小樽市奥沢町出身。 1953年に東京都立江北高等学校、1959年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。東映教育映画部を経て東映テレビ・プロダクションに所属し、助監督として関川秀雄に師事する。1963年にテレビ朝日系「特別機動捜査隊」第80話「帰らざる海」で監督としてデビュー。 プライベートでは、監督を務めたライオン奥様劇場「罪人形」に出演していた女優の松木路子と1972年頃に結婚。 1993年2月17日、肝臓がんで死去。 特記がない限り監督のみ担当。
吉田 剛(よしだ たけし、1935年3月2日 - 2018年… 吉田 剛(よしだ たけし、1935年3月2日 - 2018年11月17日)は、日本の脚本家・映画監督である。本名同じ。大阪府堺市生まれ。 1958年、関西大学文学部卒業後、松竹大船撮影所に入社。助監督として小林正樹、篠田正浩、斎藤耕一らの作品につく。それと並行して、野村芳太郎の『おはなはん・第二部』(1966年)、小林『化石』(1975年)、瀬川昌治『哀しい気分でジョーク』(1985年)、佐藤純彌『敦煌』(1988年)や、『必殺シリーズ』(ABC)などのテレビドラマのシナリオを執筆。 1992年、野村芳太郎が急病のため、映画『復活の朝』で監督も兼任する。 1990年代の「月刊ドラマ」誌上における近況報告や随筆では、幕末におけるアメリカ人の傲慢さなども例に挙げて反米主義者を自称していたこともあった。
野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年… 野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年8月27日)は、日本の映画監督・演出家・脚本家。和歌山県御坊市出身。 代表作には『不良番長シリーズ』、『やくざ刑事シリーズ』、『0課の女 赤い手錠』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』など。 京都大学在学中に戸浦六宏の主催する劇団「風波」に参加。1958年(昭和33年)に大学卒業後、東映東京撮影所に助監督として入社し、石井輝男・佐伯清らに師事する。 1968年(昭和43年)3月、日本プロレスの記録映画である『プロレスWリーグ 血ぬられた王者』で監督デビュー。同年には梅宮辰夫主演の『不良番長』で映画の演出デビューも果たした。同作は大ヒットとなり、1972年(昭和47年)の『不良番長 骨までしゃぶれ』までシリーズ全16作が製作され、野田は11作を監督した。
吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )… 吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )は、日本の映画監督である。平仮名表記の「よしかわ いちぎ」名義で『電子戦隊デンジマン』の監督も手掛けた。京都府京都市出身。 日本大学藝術学部卒業後東映に入社。今井正に師事し、1968年に監督デビュー。以降テレビドラマ作品を中心に活動し、刑事ドラマ・時代劇・2時間ドラマと数多くの作品で現在もメガホンを執り続ける。特に1988年のスタートから足掛け20年続いた『はぐれ刑事純情派』ではメイン監督として長年携わり、その縁から藤田まこと主演の東映テレビ時代劇にもコンスタントに参加した。 瀬川昌治が塾長を務める瀬川塾では講師を務めた。
鈴木 儀雄(、1935年〈昭和10年〉 - )は、日本の映画… 鈴木 儀雄(、1935年〈昭和10年〉 - )は、日本の映画美術監督、娯楽デザイナー。東京都出身。 多摩美術大学彫刻科に在学中(1年生、19歳)の1954年に東宝のアルバイト募集を見て、開米栄三の造形助手として初代ゴジラのスーツ製作に参加する。1959年に大学を卒業し、3か月契約で東宝特殊技術課の撮影助手となる。その後、1961年より美術スタッフに転向する。 1968年に円谷英二に抜擢され、『マイティジャック』より円谷プロに美術監督(本編)として出向する。それ以降、『戦え! マイティジャック』や『恐怖劇場アンバランス』『独身のスキャット』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』といった一連の円谷プロ作品の美術監督を担当する。