高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月2… 高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。脚本家の高山由紀子は長女。
職業が画家:2,021人
高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月2… 高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。脚本家の高山由紀子は長女。
髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月2… 髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月26日 - 2007年〈平成19年〉9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。 大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。 高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。
オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。
奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7… 奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7日 - 2003年(平成15年)2月15日)は日本画家。元・日本芸術院会員。1984年(昭和59年)に文化勲章受章。本名は奧田 嚴三(おくだ げんそう)。妻は人形作家の奥田小由女。 「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。 歌人としても著名で、1981年正月には宮中歌会始の召人に選ばれた。
白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月… 白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月23日 - 2007年〈平成19年〉6月15日)は、日本の画家。本名は白鳥 九寿男(くすお、九壽男)。長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)出身。日本画家の伊東深水に師事し、美人画を中心に制作。晩年、脳梗塞を患いながらも制作を続け、「不屈の画家」と呼ばれた。 1912年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)滝原で農業を営む一家の長男として生まれる。生後、間もなくして母を失う。このとき母は23歳の若さであり、生前の写真は1枚も残っていない。1919年(大正8年)、小学校入学。1920年(大正9年)、父をも失う。当時の大里村立大里尋常小学校、現在の小諸市立水明小学校で伊東深水の美人画を目にし、母親の面影を見出したことで画家を志す。
松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - … 松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。 1912年(明治45年)に東京府渋谷に生まれ、その後、岩手県で育った。17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。
塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001… 塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001年3月20日)は昭和-平成時代の日本画家。 明治45年(1912年)4月6日、広島県福山市生まれ。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科に入学。主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事し、昭和12年(1937年)より院展で活躍。
水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3… 水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3月26日 - 1980年(昭和55年)6月30日)は、日本の彫刻家、版画家。広島県呉市草里町(現東中央2丁目)出身。本名は田中六洲。なお、本名の名前読みは漢字「六洲」を「むつくに」と読む。実兄に洋画家水船三洋があり、実父も書家だった。 作風は版画にも彫刻のような力強さを求め絵画的彩色を施す独自技法を駆使したほか、1960年代以降は魚、鳥などの動物を主なモチーフに選んで制作を行った。 1912年、広島県呉市草里町(現東中央2丁目)に生まれる。中学の頃に高村光太郎訳『ロダンの言葉』(ASIN B0093E7YYY)を読み感動し彫刻家を目指した。
三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16… 三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16日 - 2005年(平成17年)6月15日)は、日本画家、江戸風俗研究家。 香川県高松市に生まれる。実家は古くから歌舞伎芝居などの背景画や小道具、看板等を描く仕事をしていた。 東京美術学校日本画科卒業。岡本綺堂「半七捕物帳」など挿絵の分野で活躍ののち、江戸時代の風俗考証画を描くことに専念する。 日本文芸家協会会員。江戸を語る「江戸会」に属した。1988年、「失われてゆく江戸風俗を四十年の歳月をかけ、『江戸職人図聚』はじめ数著に集大成、江戸風俗の”絵引き”として貴重な資料を提供」した功績により、吉川英治文化賞を受賞した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年… 丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年1月13日)は洋画家である。
古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5… 古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5日 - 2000年(平成12年)4月15日)は、日本の洋画家、前衛美術家。 1920年代から1940年代にかけて、池袋周辺に集う芸術家たちのアトリエ村「池袋モンパルナス」に参加した一人として知られている。 佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)出身。1927年に久留米商業学校中退。当時は日本統治下だった朝鮮半島の大邱に渡った後、翌1928年に画家を志して上京。岡田三郎助に師事した。豊島区で画家が集まっていた長崎アトリエ村に移って交流を広げるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年に「創紀美術協会」、1939年には「美術文化協会」創立に参加。
金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 -… 金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 - 1994年8月5日)は、大韓民国の洋画家。日本統治時代の朝鮮平安南道平壌出身。 1937年、日本の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科を卒業し、帰国後は咸興のヨンセン中学校で教員を務めた。1946年から梨花女子大学校教授、1954年以後からは弘益大学校教授を務めた。1960年からは第3次国際美術教育協会に韓国代表として参加し、約4ヶ月間欧米美術界を視察した。 モク会会員、国展審査委員を歴任し、印象主義的な写実化風の風景画を多く描いた。1994年8月5日、持病により82歳で死去した。
井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日… 井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1993年〈平成5年〉2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。 帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。 熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 - 20… 加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 - 2012年5月10日)は、日本画家。兵庫県豊岡市生まれ。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。中村大三郎に師事。日展に出品を続ける現役最高齢の日本画家として有名。朴土グループメンバー。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30… 三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。「民俗行事」をテーマにした作品が多い。 医者であった父・三橋玉見は詩歌や書画、陶芸をたしなむ文化人で、大原孫三郎に招かれる形で倉敷市に診療所を開業した。健はその次男として1912年に岡山県倉敷市新川町に生まれる。父親の影響もあり、幼い頃から画家を志した健は東京美術学校へ進学した。藤島武二に師事し、在学中に発表した作品『錨づくり』などで独立美術協会展にて入選をしている。 1939年、福沢一郎、小牧源太郎、寺田政明らを中心としたシュルレアリスムを志向するグループが新たに美術文化協会を旗揚げし、健も同協会のメンバーとして参加したが、父の病没に伴い帰省を余儀なくされ、翌年2月、第一回公募展の直前に脱会した。
桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11… 桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11日)は、主に絵本や児童書などの挿絵の執筆で活動した日本の挿絵画家。静岡県静岡市出身。
伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月… 伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月15日 - 2002年(平成14年)6月8日)は、日本画家。山形県鶴岡市七日町出身。
香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月2… 香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉3月8日)は、山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の洋画家。昭和を代表する洋画家の一人。 開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。 1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。 1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - … 糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - 2001年6月15日)は、昭和から平成にかけて活躍した日本の洋画家。シンガーソングライターの具島直子は孫。 呉服商の三男として、大分県中津市に生まれる。少年時代に骨髄炎を患うが、1927年、画家を志し上京し、川端画学校、前田写実研究所に学ぶ。その後前田寛治写実研究所に転じ、1930年、春陽会展に初入選。 1931年より独立展に出品。この頃からシュルレアリスムの影響を強く受け始め、1939年に福沢一郎、北脇昇、麻生三郎、寺田政明らとともに、美術文化協会の結成に参加。1943年には麻生、寺田、松本竣介、靉光、鶴岡政男、井上長三郎、大野五郎とともに、新人画会を結成。
川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 20… 川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 2001年6月29日)は、日本の洋画家。 現在の東京都文京区生まれ。祖父は明治期の日本画家である川端玉章、父も日本画家の川端茂章という美術家一家であった。1934年(昭和9年)、東京美術学校油画科卒業。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した『海辺』で選奨を受賞。1939年(昭和14年)光風会会員。1950年(昭和25年)多摩美術大学教授。1958年(昭和33年)以降、ニューヨークを拠点に活躍。抽象表現主義の作品を多く生み出す。1960年(昭和35年)に初個展。作品に「緑のなかのフォルム」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 20… 宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 2006年6月14日)は、日本の洋画家。広島県福山市出身。 明治44年(1911年)5月6日、広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現:福山市水呑町)に生まれる。 昭和初期、福山より同郷の彩美堂主人・土肥円修を尋ねて上京する。本郷洋画研究所、太平洋美術学校、番衆義塾に学び、安井曾太郎に師事した。新燈社展を始め、光風会展、白日会展、第一美術展、東光展、春陽展、二科展、第1回日展に入選する。 戦後は国展(国画会)及び埼玉県美術展に毎年出品し、それぞれ委員、審査員を務めた。 主に福島県の只見川に取材し、四季折々の自然に感じた生命感を、画面に形象化して制作した。
瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月1… 瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田 秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。 宮崎県宮崎市に生まれる。瑛九の生家は宮崎市内で眼科医院を営んでいるが、極度の近視のため家業を継ぐことはできなかった。1925年、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)を中退して上京。日本美術学校卒業。 1934年に生涯の友人となる画家の山田光春(当時は教員)と出会う。1935年に中央美術展に初入選した。山田らと芸術家クラブふるさと社を結成した。この頃より美術評論家の外山卯三郎や、画家の長谷川三郎と親交を深める。
大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月1… 大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月14日 - 1980年(昭和55年)7月12日)は、沖縄県出身の洋画家。二科会会員。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に入学し、在学時に美術教師・比嘉景常の指導を受ける。1934年(昭和9年)、東京美術学校を卒業する。 1936年(昭和11年)、沖縄県の私立開南中学校(沖縄戦により廃校)の美術教師となる。沖縄美術展覧会の創設に参加した。 太平洋戦争後、名渡山愛順・安谷屋正義らと首里儀保町のニシムイ美術村にアトリエを設ける。1950年(昭和25年)には琉球大学助教授に就任した。 代表作に久高島の祭事・イザイホーに取材した『神々の誕生』などがある。
坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1… 坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1987年10月14日)は、日本の洋画家。 「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。 作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。 熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。
西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 199… 西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 1994年4月2日)は、日本の建築学者で、都市計画家、建築家。住生活を科学的に研究する基礎を築き、戦後の住宅計画に大きな影響を与え、住宅問題や都市計画への視点を深めた。 大阪市此花区の安治川沿いの鉄工所の三男として生まれた。 西山一家の暮らした西九条は、重工業中心の工場地帯として発展した工場と長屋の密集地。1930年に第三高等学校理科乙類を卒業。京都帝国大学建築学科に進学し、クラスをDEZAMとし、同級生らとともにマルクス主義に共感を寄せた。またクラス会が東京の建築科学研究会京都支部となる。1931年、東京の4つの学校と共同で五大学建築展覧開会を東京にて開催。
栗谷川 健一(くりやがわ けんいち、1911年2月28日 -… 栗谷川 健一(くりやがわ けんいち、1911年2月28日 - 1999年8月12日)は、北海道岩見沢市出身の画家・グラフィックデザイナー。 観光ポスターを中心に北海道の自然・酪農・アイヌ文化をモチーフとしたイラストを数多く描き、さっぽろ雪まつりや札幌オリンピックなどのイベントにも携わり「北海道デザイン界の父」とも評される。生涯を通じ北海道を拠点に活動、独自の趣きを持ったポスター類は北海道観光の起爆剤の一翼を担い、企業のカレンダーやパッケージ、デザイン学校の経営にも携わり幅広く活躍した。 1911年に岩見沢の開拓農家、林忠太郎・たまき夫妻の第7子3男として生まれたが、生後数日で母の妹きくよと製材所職員の栗谷川衛の夫妻の養子となる。
伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 20… 伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 2001年6月5日)は、昭和から平成にかけての日本の洋画家である。白日会、日展を中心に活躍した。日本芸術院賞恩賜賞受賞者(1976年)、文化勲章受章者(1996年)。 作風は一貫して女性美を追求した。また豊岡市立美術館「伊藤清永記念館」による伊藤の人物解説によれば「繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られる」「70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了している」と説明されている。 1911年(明治44年)2月24日、兵庫県出石郡下谷(現豊岡市出石町下谷)に生まれる。
廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948… 廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948年10月9日)は、昭和時代に活動した日本の洋画家である。主に抽象画を描いた。残されている作品は少ない。 1911年(明治44年)2月21日、秋田県仙北郡中仙町字大清水(現・大仙市)に高橋幸之助、エシの二男として生まれた。本名は憲太郎である。4人兄弟である。 1918年(大正7年)に清水尋常小学校(現・大仙市立清水小学校)に入学、その後、小学2年の夏に養子話が持ち上がり、1919年(大正8年)9月19日、養子縁組の手続きがとられた。これは、母の妹で男鹿市脇本の本明寺に嫁いだ叔母のトヨに子がなかったためである。養父は廣幡耕道、憲太郎は養子に入ってから名前を憲導と改めた。
南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911… 南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は浜口 桂子(はまぐち けいこ)。
天野 節(あまの みさお、1911年2月10日 - 没年不明… 天野 節(あまの みさお、1911年2月10日 - 没年不明)は、日本の洋画家。徳島県麻植郡美郷村(現吉野川市)出身。徳島県師範学校卒業。 日本色彩学会名誉会員。奉天省美術展特選、新世紀美術展大内賞、徳島県出版文化賞などを受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年… 小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年8月29日)は日本の画家。北海道虻田郡倶知安町出身。 旧制中学(現・北海道倶知安高等学校)で油彩を始める。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。在学中に「納屋」(1933年)が帝展に入選。卒業後、福沢一郎らと出会い前衛的な美術団体「エコール・ド・東京」「創紀美術協会」「美術文化協会」などの結成に参加。シュルレアリスム絵画への道を歩んだが、軍の規制が厳しくなり断念。その後、軍の命令により戦争記録画を制作。戦後は郷里・倶知安に戻り、岩船修三、木田金次郎らと「全道美術協会(全道展)」の創立に参加。1958年、野本醇、因藤壽、穂井田日出麿らと「麓彩会」を創立。
藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年〈明治44年〉1月1… 藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年〈明治44年〉1月19日 - 1935年〈昭和10年〉9月2日失踪)は、日本の版画家。1930年代の東京下町を描いた創作版画を手掛け、隅田川周辺を題材にした長大な白描絵巻版画で知られる。24歳で行方不明となり、長い間幻の木版画家だったが、1978年の遺作展によって再び注目された。 群馬県館林市出身。藤牧家は代々館林藩に仕えた士族だが、父は明治維新後永年教職にあり、小学校長も歴任し、「三岳」と号し絵や書をよくした。2歳で実母を、13歳で父親を亡くす。父没後に家族で日用雑貨小売を自宅で始め、その二軒隣りに、七歳年上の藤野隆秋(天光)が住んでいた。 義夫は小学校時代から美術が得意で周囲を驚かせた。
今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月… 今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月4日 - 1996年(平成8年)12月7日)は、日本の官僚、都市計画家・ランドスケープアーキテクト、政治家。1981年から2期8年にわたり京都府京都市長も務める。 山口県防府市出身。岡山県第二岡山中学校(岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から再興旧制山口高等学校(山口大学の前身)を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学農学部(東京大学農学部の前身)を卒業。折下吉延に師事。卒業後内務省に入り都市計画千葉地方委員会技師。戦前は中国勤務、1939年に北京の華北政務委員会建設総省に派遣となるがそこで終戦を迎える。都市計画の専門家として暫くは北京に残り、1946年の夏に引き揚げ、翌1947年1月に戦災復興院の施設課長に就任する。
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本… 千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。 宮城県大崎市に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。 東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。
秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、191… 秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、1911年 - 1973年)は、日本の都市計画家。戦後すぐに日本最初の都市計画のコンサルタントとして活躍した人物。計画士を自称。佐賀県東松浦郡相知町生まれ。 旧制福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1936年早稲田大学理工学部建築学科に入学し佐藤武夫に師事。佐藤は戦時中満州の調査研究を熱心に行い、影響を受ける。大学卒業後、満州国民政部営繕需品局(その後建築局に改名)技師。1940年技佐。同年臨時国都建設局兼任。新京第一期五か年計画など新京の都市計画全般に携わるほか、満州における満州集団住区制理論、都市計画と集団住区制、住宅傾向などについて研究発表する。
足達 襄(あだち じょう、1911年 - 1999年)は、日… 足達 襄(あだち じょう、1911年 - 1999年)は、日本の洋画家。独立美術協会会員。 福岡市に生まれる。1928年福岡県中学修猷館を卒業。上京して、1930年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。 1931年独立美術協会が主催する第1回独立展に初入選。以後連続入選を重ね、1943年の第13回独立展において独立賞を受賞し、1948年に独立美術協会会員となる。この間、福岡独立作家協会結成にも参加している。 戦後帰郷し、郷里に近い太宰府のアトリエで36年間創作活動を行い、以降も毎年福岡から出品を続け、精力的な芸術活動を行う。地域の美術振興にも力をそそぎ、福岡県美術協会再興や筑紫芸術院結成に尽力。
佐藤 章(さとう あきら、1911年 - 1985年)は、日… 佐藤 章(さとう あきら、1911年 - 1985年)は、日本の素描画家。drawings Artist。素描画 エッチング画 スケッチ 元日本山林美術協会会員。 宮城県栗原郡高清水町(現・栗原市)に生まれる。 太平洋美術学校卒業。鶴田吾郎に師事。「素描は米の飯というべきもので、ぜいたくな料理がないときほど、日本人には飯の味がよくわかるものである」という鶴田の言葉に励まされ、戦前戦後を通じ素描画専門の制作を貫く。素描のもつ素朴さと、その直截的な表現力に惹かれ、20数年、日本の民家をモノクロームの世界で描き続けた。 発表は主に個展で戦前「川向う 素描展」など6回。戦中は「工場地帯」「裏街」等、工場地帯で働く少年工を描く。
正延 正俊(まさのぶ まさとし、1911年(明治44年) -… 正延 正俊(まさのぶ まさとし、1911年(明治44年) - 1995年(平成7年))は、日本の画家。具体美術協会の結成メンバーであり、抽象絵画を手がけた。 1911年(明治44年)、高知県高岡郡須崎町(現在の須崎市)に生まれる。1933年(昭和8年)、高知県師範学校(現在の高知大学教育学部)専攻科を卒業。 1935年(昭和10年)に東京に移り、また1940年代半ばに神戸市に移った。この間、高知県内、東京、神戸市内で小学校の図工教員として勤務し、1968年(昭和43年)まで教員生活を送った。 戦前期から具象的な絵画を制作し公募展に出品を行っていた。1948年(昭和23年)頃に神戸で吉原治良に出会い、師事するようになると、急速に抽象絵画に展開。
山岡 良文(やまおか りょうぶん、1911年 - 1970年… 山岡 良文(やまおか りょうぶん、1911年 - 1970年11月17日)は、昭和戦中戦後に活躍した前衛の日本画家である。 東京に生まれる。1931年京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)に入学。石崎光瑤の指導を受け、翌年退学。帰郷して川端龍子に師事し、青龍社展に出品した《ガソリン風景》が初入選。1934年福田豊四郎、吉岡堅二らと新日本画研究会を結成。1938年第2回自由美術家協会展にも出品し会友となる。 同1938年岩橋英遠、田口壮、船田玉樹らと歴程美術協会を結成。 また、翌年に発行された機関誌『歴程美術』の編集兼発行人となる。第1回歴程美術協会展に出品した《シュパンヌンク》は、それまでの「日本画」にまったく見られない「純粋抽象(非対象)」表現として知られる。
田栗 テル(たぐり てる、1911年〈明治44年〉 - 19… 田栗 テル(たぐり てる、1911年〈明治44年〉 - 1983年〈昭和58年〉6月27日)は、日本の洋画家である。 東京都出身。日本女子大学校卒。1961年(昭和36年)朱葉会会員、一水会会員。女流画家で、2回の受賞歴を持つ。文部大臣賞他2。選抜展出品。個展15回。欧東南ア遊。田崎広助を師とする。 小鳥や野鳥を題材にした作品を数多く遺しており、静物画の中に逢えて鳥獣等の小動物を織り交ぜる事により、従来の油彩画には無かった、斬新なイメージを画界に吹き込んだことで知られている。愛情溢れる情緒豊かな画風で、大自然のふくよかな叡智を表現する事に長けている。また、観照する者の心を優しく包み込む、温もり在る画風が特徴的で、その明るくも強烈な色使いと観る者を圧倒させる大胆な構図からは、師である田崎広助ら後期印象派の影響を受けており、独特の色使いから高い絶賛を受けた。
菊川 多賀(きくかわ たか、1910年11月16日 - 19… 菊川 多賀(きくかわ たか、1910年11月16日 - 1991年1月15日)は、北海道出身の日本画家。本名は孝子。日本画家の菊川三織子は姪。日本美術院同人。日本美術院評議員。勲四等瑞宝章受章者。 1910年に北海道で生まれる。豊水小学校卒業後北海高等女学校に進むが、一家の東京転居に伴い麹町高等女学校に転校、病気のため中退。父の友人であった日本美術院同人の清原斎に師事して絵を学んだ。戦後は堅山南風に師事。女性群像や歌舞伎・文楽などを題材とした作品を残した。日本美術院同人として、院展で院賞、文部大臣賞、総理大臣賞の各賞を受賞した。
秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 … 秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 - 2006年(平成18年)2月24日)は、日本の漫画家、画家。佐賀県唐津市出身。本名古川 善男(ふるかわ よしお)。 生涯、数多くの学習漫画を手がけた。主な作品に『よっちゃんの勉強漫画』『クラブくんの冒険』など。日本漫画家協会名誉会員。また、石川滋彦の弟子として洋画家としても知られる。 1910年、佐賀県唐津市にて生誕。 1930年、東京市教員講習所養成科を卒業し、1946年まで東京の小学校の教員を務めていた。 1933年頃から漫画を描き始め、1939年4月から『東日小学生新聞』にて『よっちゃんの勉強漫画』の連載を開始し2000年に終了するまで60年以上連載されていた。
常田 健(つねだ けん、1910年10月21日 - 2000… 常田 健(つねだ けん、1910年10月21日 - 2000年4月26日)は、日本の画家。 青森県生まれ。1928年、川端画学校入学。1930年からプロレタリア美術家同盟研究所で学ぶ。1933年、青森県に帰郷。農民運動の関係者として検挙、拘留される。1936年、第26回二科展に≪ひるね≫≪飲む男≫を出品し、前者は入選。1944年、出征。1950年、青森県美術会の創立に参加。1955年、日本美術会会員。1991年、第12回青森県文芸協会賞受賞。1997年、第39回青森県文化賞受賞。 青森市浪岡北中野には「常田健 土蔵のアトリエ美術館」がある。しかし、新型コロナウイルス禍の影響を受け、2022年5月23日から休館となる(再開時期未定)。
奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日 - 1… 奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日 - 1994年8月7日)は、日本の都市計画家。都市計画官僚、土木技師。日本都市計画学会会長(1973年-1974年)等を歴任。 父の奥田武二郎、母の愛子(男爵関義臣の庶子)の長男として東京で生まれる。弟は4人おり、二男教広はのち、奥田秀三郎の養子、教幸(1915年生)は東大医科卒の医師。教久(1919年生)は東大工科卒の技師、他に教望(1921年生)がいる。 父親の武二郎(1883年生)は農商務省の鉱山監督局技師、仙台鉱山監督局鉱業課長を歴任し、のち日鉄鉱業顧問。正四位勲四等。叔父広瀬孝六郎は、広瀬次郎の養子、東京帝大助教授兼厚生技師。祖父奥田教佶は、旧越後村松藩士で西蒲原郡立実科高等女学校初代校長、大分や兵庫、秋田師範学校校長を歴任し、伯父には旧村松藩主・奥田直賀(堀直賀)がいる。
山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 … 山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 - 1993年9月15日)は、日本の洋画家。 1910年(明治43年)9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。東京美術学校卒業後兵役に就き、戦災でアトリエを焼失。戦後は東京都・板橋区に居を構え、創作を再開。日展出品を重ね、1992年(平成4年)日展参与となる。1993年(平成5年)9月15日に死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2… 一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2010年10月1日)は、北海道小樽市に居住していた版画家。モノタイプ手法を用いた特異な作風で、国際的にも名高い。また、俳人・登山家としても知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
土橋 醇一(どばし じゅんいち、1910年(明治43年)8月… 土橋 醇一(どばし じゅんいち、1910年(明治43年)8月17日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は日本の洋画家。別名、土橋 醇(どばし じゅん)。 東京市小石川区に生まれ、1938年東京美術学校油画科卒業、1946年光風会会員、1952年光風会展特賞1953年から1973年まで渡仏、20年間パリで制作活動を送る。作品は東京国立近代美術館、パリ国立近代美術館等に収蔵されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
東 一雄(あずま かずお、1910年8月14日 - 2000… 東 一雄(あずま かずお、1910年8月14日 - 2000年10月5日)は、日本の洋画家。富山県富山市出身。紺綬褒章、元亜細亜美術交友会理事、元旺玄会会員。愛称は「カラス」。 水彩、水墨の作品もあるが中でも初期の代表的な木版画は陰刻法で戦後富山の版画の礎となる。その後、油彩でも本質や風土性は青や黒の作品が多く、海のテーマが多い。青をよく使うのは、「その色が好きだからということ、性格や体質からきたもので無意識だ」と語っている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。