松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年… 松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年5月2日) - 1926年(大正15年)5月15日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 駿河国、のちの静岡県富士郡須津村(吉原市を経て現富士市)出身。漢学を学ぶ。煙草製造業を営む傍ら、ツルチュック醸造監査役を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
斎藤 和平太(さいとう わへいた、1865年5月10日(慶応… 斎藤 和平太(さいとう わへいた、1865年5月10日(慶応元年4月16日)- 1925年(大正14年)9月24日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡小池村長。 越後国蒲原郡小池村(現:新潟市燕市)で、大庄屋・斎藤義範の長男として生まれる。長善館、遠藤義方(寺泊町入軽井)に学び、漢学を修めた。1881年、長岡農学校に入学。 産業の振興に尽力し、西蒲原郡会議員、新潟県会議員、小池村長を務めた。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙で新潟県郡部から憲政党所属で出馬し当選。その後、第9回総選挙まで連続四回の当選を果たした。地租軽減、行財政整理、民力の休養を主張した。1903年、第18帝国議会における立憲政友会と第1次桂内閣の妥協に反対し政友会から脱会したが、党友の慰留を受けて復帰した。
沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日… 沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日〈慶應元年4月14日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月29日)は、日本の政治家、実業家、資産家、広島県多額納税者、広島県の大地主。呉商工会議所顧問。広島県呉市長。広島合同貯蓄銀行、沢原銀行各頭取。呉私立教育会長。勲四等。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡荘山田村(現・呉市)に生まれる。沢原為綱の長男。広島英語学校に入学し、後に退学する。1889年、東京に在住し学校に入学、1890年、中途退学し帰郷する。 1896年、呉貯蓄銀行創立発起人となり、同行取締役、同行頭取となる。1902年、家督を相続する。商業、農業、貸地貸金業を営み、広島県多額納税者に列する。
岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元… 岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1941年(昭和16年)2月23日)は、明治から昭和前期の医師・政治家・実業家。衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡志布志郷野井倉村(現・鹿児島県志布志市有明町野井倉)で、岩崎宗之助、ケサヨの長男として生まれる。都城の坂本陽斉から漢方医学を学び、東京医学専門学校済生学舎で学ぶ。1885年(明治18年)第6師団に衛生兵として入隊。1891年(明治24年)に帰郷し志布志村で医師を開業する。日清戦争に衛生兵として出征し、日露戦争にも従軍し陸軍三等軍医となる。 囎唹郡医師会長、鹿児島県産業組合連合会理事、志布志漁業、志布志醸造各 (株) 社長、志布志無尽、志布志倉庫運送各 (株) 取締役を歴任する。
山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年… 山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1945年(昭和20年)3月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、銀行家、政治家。衆議院議員、福岡県筑紫郡筑紫村長。曾孫は元衆議院議員山内康一。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡筑紫村(筑紫野町を経て現筑紫野市)で、山内伊七郎、タヨの長男として生まれる。漢学を修めた。1894年(明治27年)3月に家督を相続し農業を営む。筑紫郡農会特別議員、福岡県農会特別議員、同評議員、帝国農会議員、同評議員、地方森林会議員などを務めた。 1897年(明治30年)筑紫村長に就任。1904年(明治37年)筑紫郡会議員となり同参事会員も務めた。
友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治… 友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治2年4月6日) - 1932年(昭和7年)9月17日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 安芸国山県郡溝口村(現広島県山県郡北広島町)で、農業、醤油製造業、鉱山業を営む友田幸兵衛の長男として生まれる。広島で漢学を、大阪で法律学を学んだ。その後、村吏、郡吏、裁判所吏員、広島の山陽土木会社社員などを務めた。 父の事業で財産を失ったことから、1891年に北海道移住を計画。資産が無いため屯田兵に応募しようとしたが、当時は広島県での募集はなく、岡山県で募集があり同県に転籍。屯田兵に合格して同年6月に岡山から小樽に渡航。同年7月1日、上川郡永山村(現旭川市)に入植し開墾に従事した。
江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月… 江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月25日) - 昭和21年(1946年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。 土佐国土佐郡高知城下本町(現・高知県高知市本町)出身。1887年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒、同校教諭に就任。その後、三菱合資会社入社。同社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。1925年社団法人如水会初代理事長。1931年6月、経営状態が悪化していた南満州鉄道(満鉄)の副総裁に就任し経営の実務に当たるが、就任直後に満州事変が発生。満鉄総裁の内田康哉が急進的な事変拡大派に転向し、満鉄が関東軍に協力する中で江口は事変拡大に反対し軍部に批判的な立場であり続けた。
斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう / にたろう、18… 斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう / にたろう、1865年4月12日(慶応元年3月17日)- 1933年(昭和8年)4月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮城県桃生郡赤井村長。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、農業・斎藤恒治の長男として生まれた。漢籍を修めた。農業を営む。1881年(明治14年)赤井小学校教員となる。 1884年(明治17年)広淵村外4ヵ村戸長役場筆生に就任。深谷村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。日清戦争、日露戦争に従軍。1907年(明治40年)赤井村収入役となり、助役を経て、1908年(明治41年)同村長に就任。
秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2… 秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2年3月15日) - 1943年(昭和18年)3月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 山縣銃太郎の弟、山縣昌繁の二男として駿河国志太郡島田宿(静岡県志太郡島田町を経て現島田市)に生まれ、1884年(明治17年)4月、秋山家の養子となり、同年6月、家督を相続する。1881年(明治14年)静岡師範学校高等師範科を卒業し、小学校教諭を経て、師範学校訓導となる。1887年(明治20年)10月、上京し慶應義塾に入り、1891年(明治24年)4月、同校を首席で卒業した。安田銀行に入行したのち、イーストレイクらと共に日本英学院を創立し教鞭をとる。
山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応… 山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応元年3月14日)- 1943年(昭和18年)8月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・蔵合。 伯耆国久米郡倉吉宿堺町五軒屋(鳥取県久米郡倉吉町、東伯郡倉吉町を経て現倉吉市堺町)で、蔵合家に生まれる。家が貧しく、丁稚として働いていたが、1885年(明治18年)に出奔して大阪に向かった。何も当てがなかったが、偶然に実業家・山口玄洞と出会ってその手代として働いた。その働きが認められ番頭になり、1892年(明治25年)7月、先代・山口玄洞の養子となりその長女ますと結婚して山口に改姓した。 1895年(明治28年)洋織物商を営み成功し、日本毛織監査役、東洋製鋼所取締役社長、大日本窯業取締役、日本機械製造取締役、山陰紡織取締役、倉吉紡績取締役、長門起業炭礦取締役などを務めた。
小橋 栄太郎(こばし えいたろう、1865年3月30日(元治… 小橋 栄太郎(こばし えいたろう、1865年3月30日(元治2年3月4日) - 1932年(昭和7年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 箱館で商業・小橋宗七の子息として生まれる。1882年、函館商船学校を卒業。その後、東京に出て近藤塾で学んだが、当時の自由民権運動に共鳴し政治の世界に身を投じた。1883年、先輩と共に北海自由党を結成しようとしたが、当局からの妨害を受けて実現できなかった。1889年、『日刊北辰』を創刊。1894年1月、改めて政事新聞『めざまし』を創刊し、1898年、『函館日日新聞』と改題した。 1900年、平出喜三郎に協力して立憲政友会函館支部を創立して、その幹部に就任。
安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年… 安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年2月16日)– 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県会議長。旧姓・四方。 伊勢国飯高郡、のちの三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で、四方梅次郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)安保ひさ の養子となり家督を相続した。明治法律学校で学んだ。 才賀藤吉の指導を受けて松阪電気を設立し、のち社長に就任。その他、松阪鉄道社長、勢和自動車社長、南勢新聞社長、松阪共産取締役、三重出版取締役、三重県農工銀行監査役、松阪劇場監査役などを務めた。 政界では、松阪町会議員、飯南郡会議員、三重県会議員、同議長などを務めた。
荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、186… 荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、1865年3月5日〈慶応元年2月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月24日)は、日本の商人(皮革商、皮革貿易商)、資産家、実業家。族籍は大阪府平民。 和歌山市生まれ。鍵岡惣四郎の三男。1881年、荒木栄蔵の養子となる。1913年に先代が逝去し、義弟栄典の後を襲い家督を相続する。 荒木商店という商号の下に家業を継承し、皮革貿易商に従事する。大阪皮革商同業組合組長、六甲製革取締役、西浜土地建物取締役・同社長、共榮合名会社代表社員などをつとめる。 また公共事業に尽力する。賞勲局総裁より褒章を、また日本赤十字社社長より有功章を下賜される。 『部落の人豪』によると「西浜部落の大資産家である」という。
加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2… 加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2月7日) - 1923年(大正12年)8月5日)は、戦前日本の政治活動家、実業家、教育者。 本名は加藤 正雄(かとう まさお)。石見国安濃郡(現・島根県大田市)出身。波根東村上川内本加藤家13代目当主。 明治期に石見地方で展開された自由民権運動において、明治自由党石陽部に加わり、小原鉄臣、堀哲三、米田和一らと活動を共にした。 波根八幡宮の偽党撲滅会は、社殿の中央に演台を設け壇上には緋毛布を敷き白地に赤文字で偽党撲滅怪社退治と記した幕を、社殿中は 一面に商燈を点じ聴衆数百人に演説を促がしたものであった。 『第一席には、多久礼造が偽党撹滅去の組合という題にて改進党が偽党であることを弁じ立憲改進党を撲滅するは今日の急務であると演じた。
飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応… 飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応元年1月11日)- 1938年(昭和13年)1月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国山田郡、のちの群馬県山田郡広沢村(現桐生市広沢町)で、賀茂神社祠官・飯塚二葉の長男として生まれる。群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1882年(明治15年)家督を相続。1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)英語法科を卒業した。 広巾輸出絹織物製造業を営む。桐生織物同業組合長、渡良瀬水電取締役、日本絹撚取締役、両毛整織社長などを務め、桐生の織物業の近代化に貢献した。 政界では、1893年(明治26年)群馬県会議員に選出され2期在任した。
麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1… 麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家である。 1865年2月5日(元治2年1月10日)、日田豆田町で酒造業を営む草野家に五男として誕生するが、12歳の時に家が破産。1880年(明治13年)に玖珠郡で「舟来屋」の屋号で酒造業を営んでいた麻生家に養子に入る。当時、麻生家の初代麻生東江、2代麻生豊助は家業の傍ら、私財を投げうって井路の整備に力を注いていたが、完成には至らず、麻生家は家財や山野を失い、酒造の権利も手放すことになる。 しかし、1885年(明治18年)、観八は酒造免許を取得し舟来屋・麻生酒造場(現在の八鹿酒造)を再興。
郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1… 郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1月8日) - 1942年(昭和17年)1月19日)は、日本の実業家。日本商工会議所会頭・日本経済聯盟会会長・東京電燈会長・東京株式取引所理事長などを歴任。貴族院男爵議員。 元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚郷純造の次男として美濃国黒野村(現:岐阜県岐阜市)で出生。義兄に郷温がいる。 平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後、官立東京英語学校(のち一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年(1877年)から12年(79年)まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年(1880年)には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。
西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶… 西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶応元年12月13日〈1865年1月29日〉 - 1941年〈昭和16年〉2月25日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者である。長野県長野市の人物で、家業である書籍商を営みつつ長野市を拠点とする長野商業銀行・長野農工銀行・長野貯蓄銀行で頭取を務めた。「喜太郎」を襲名する前の名は喜三郎。 慶応元年12月13日(新暦:1865年1月29日)、堀内鍋作(士族)の次男として生まれる。出身地は信濃国埴科郡屋代町(現・長野県千曲市)。1882年(明治15年)勉学のため上京し、1885年(明治18年)陸軍教導団へ入隊。翌年一等軍曹に任ぜられたが、1888年(明治21年)病を得て除隊した。
3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元… 3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)は、明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。 下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)で2代・清七の長男として生まれる。家は代々醤油醸造と米穀肥料商を生業とする。小学校卒業後、郷里の鴎村学舎で漢学を修め、1880年東京に出て岡千刃の塾で漢学を修める。この塾で片山潜と知り合い、生涯親交した。1882年より片山のいた攻玉社で数学を専修し、1883年9月慶應義塾に入学。1884年2月慶應義塾の斡旋で渡米し、1885年6月コーネル大学で政治経済を学ぶが性に合わず、ニューヨーク領事の高橋新吉から実業家に役に立つ法科を勧められ、1887年6月、イェール大学で法律学を専修し学位を得て1889年に帰朝する。
西松 喬(にしまつ たかし、1865年(慶応元年) - ?年… 西松 喬(にしまつ たかし、1865年(慶応元年) - ?年)は、明治・大正・昭和前期の経営者、実業家。綿花を扱う西松商店の創業者。美濃国安八郡大藪町出身。実業家西松龍一の父親。 18歳のときに京都に出て、慶応義塾・別科に入り、1887年、卒業する。その後洗濯業を開業するも失敗する。その後、苦しんでいるときに中上川彦次郎に出会い、中上川の紹介で第三十三銀行就職、山陽鉄道会計課に就職。1889年、24歳のとき、中上川が山陽鉄道を去るに当たり、同行し、武藤山治、和田豊治とともに三井銀行に入る。 慶応義塾草創期の功労者である。 『三井銀行案内』1895年。
岩崎 吉太郎(いわさき きちたろう、1865年 - 1935… 岩崎 吉太郎(いわさき きちたろう、1865年 - 1935年2月)は、神奈川県愛甲郡小鮎村飯山(現・厚木市)生まれの実業家。実家の雑貨店から分家し、厚木町で雑貨・食料品店を経営。片田舎の商人に満足せず、家業を家族に任せて材木業に従事。その後、水力発電事業に着目し、南豆電気㈱、河津川水力電気㈱、相模水力電気、厚木電気㈱、三浦電気、君津電気、東総電気、山田川水力、興津川水力等に出資。昭和9年、静岡県賀茂郡南中村下賀茂(現・南伊豆町)で温泉掘削。晩年、下賀茂に別邸を構え余生を過ごした。 参考文献:伊豆半島電気事業沿革史/前田実(伊豆新聞連載記事) この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没… 中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没年不明)は、日本の会社役員、地主、名望家、篤農家、政治家。鳥取県西伯郡県村長。古豊千村、八幡村組合村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。宇平の嫡男。村夫子に従い漢籍、句読、習字、算数の術を学ぶ。 1890年、自由党に入党する。政友会の組織が成立すると、その会員となる。町村制実施と共に村役場書記となり、1894年に郡書記に栄転する。 1898年、県村長に推される。郡立病院監事、米子農業倉庫監事、尾高井手水利組合管理者等を兼ねる。大山自動車取締役、県報徳社理事、保証責任製糸信用販売購買利用組合理事をつとめる。郡会議員、郡参事会員、その他の公職に就く。
沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、… 沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、1865年 - 1905年4月22日)は、日本の外交官、通訳官、教育者、実業家、ジャーナリスト。 台湾総督府調査諜報員、大日本帝国陸軍通訳官、照暗女学校(現・平安女学院)第4代校長。台湾総督府では厦門や上海から迅速かつ質の高い情報を届けるなど、外交官や諜報員として活躍し、勝海舟とも交流したほか、教育者として厦門東亜書院を設立した。その他、上海時報の記者や、実業家として横浜正金銀行北京支店副支配人を務めた。英語のほか、中国語の大家として知られた多言語話者である。 1865年、近江国彦根藩士、澤村益二郎の長男として生まれる。 1879年(明治12年)頃、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。
永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年)… 永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。 1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。 1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。 1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任。 1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
斎藤 外市(さいとう といち、1865年(慶応元年) - 1… 斎藤 外市(さいとう といち、1865年(慶応元年) - 1926年(大正15年)1月31日)は、日本の発明家、実業家、政治家(鶴岡町町議会議員)、鶴岡ガス株式会社初代社長。 出羽国田川郡長沼村上新田(後の藤島町、現在の鶴岡市)出身。 主に軍用機器と織機(織物機械)の発明に取り組み、「発明は俺の命だ。俺のひとつの病気だ」と豪語し、数多くの発明を残した。現在でもその発明は高く評価されている。 トヨタグループの創業者の豊田佐吉と共に、織機の発明王と呼ばれ、絹の斎藤外市、綿の豊田佐吉と言われていた。1912年(明治45年)には、これまでの数々の発明の功績によりトヨタの創業者・豊田佐吉と共に藍綬褒章を受章している。
田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年… 田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1931年(昭和6年)4月18日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家・漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂。 備中国浅口郡長尾村(岡山県浅口郡長尾村、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた。7歳で父を失い、母に養育され虚弱のため学校に通わず、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた。1879年(明治12年)3月、家督を相続した。 1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し、1896年(明治29年)同社取締役に就任。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え、同家の塩業事業の発展に寄与した。
国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、18… 国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、1864年12月21日(元治元年11月23日) - 1953年(昭和28年)11月26日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士(1915年(大正4年))。南満洲鉄道理事長、衆議院議員、日本通運初代社長。兄は洋画家の国沢新九郎。 土佐藩士・国沢四郎右衛門好古の子として江戸に生まれる。青木槐三の聞き取りでは、1879年(明治12年)に高知県から船で上京したという。美會神学校(後の青山学院)を経て、帝国大学工科大学土木学科に進む。在学中より日本鉄道(東北本線)の黒磯駅 - 白河駅建設に関与した。1889年(明治22年)帝国大学卒業後は鉄道技師として九州鉄道に入社し、長崎本線の佐賀駅付近の建設に従事した。
市川 文蔵(いちかわ ぶんぞう、1864年12月19日(元治… 市川 文蔵(いちかわ ぶんぞう、1864年12月19日(元治元年11月21日)- 1935年(昭和10年)5月4日)は、明治時代の山梨県の政治家、実業家である。現在の山梨中央銀行の前身の一つである富士銀行の頭取で、多額納税者として貴族院議員にもなった。また衆議院議員にも選出された。 甲斐国巨摩郡荊沢村(山梨県中巨摩郡五明村、甲西町を経て現在の南アルプス市)に市川太右衛門の長男として生まれる。市川家は山梨県屈指の大地主であり、明治16年(1883年)10月に家督を相続。明治24年(1891年)8月に中巨摩の郡会議員、郡参事会員、山梨県会議員等の職に就く。明治27年(1894年)に所得税調査員となり、数年勤務する。
堀家 虎造(ほりけ とらぞう、1864年12月18日(元治元… 堀家 虎造(ほりけ とらぞう、1864年12月18日(元治元年11月20日)- 1939年(昭和14年)5月13日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、香川県那珂郡榎井村長。 讃岐国那珂郡与北村(香川県那珂郡与北村、仲多度郡与北村を経て現善通寺市与北町)で、農業、養蚕業を営む堀家に生まれた。漢学、英学、数学などを修めた。農業を営む。 1890年(明治23年)5月、榎井村長に就任し、1898年(明治31年)3月まで在任。1892年(明治25年)香川県会議員に選出され、1898年3月まで務め、その他、同常置委員、所得税調査委員も務めた。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙(香川県第4区)で当選し、以後、第8回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算3期在任した。
牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日〈元治元… 牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日〈元治元年11月19日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月4日)は、日本の政治家(姫路市会議員)、相場師、実業家、兵庫県多額納税者、資産家。姫路商工会議所会頭。姫路水力電気、姫路信託各社長。姫路銀行頭取。牛尾合資会社代表社員。山陽商事代表取締役。族籍は兵庫県平民。 神戸銀行副頭取、中国合同電気社長牛尾健治の父。ウシオ工業社長牛尾吉朗、ウシオ電機会長牛尾治朗の祖父。 播磨国姫路(現・兵庫県姫路市)に生まれた。牛尾政五郎の二男。牛尾政次郎の弟。1882年、兄・政次郎方より分かれて一家を創立した。分家の二男だった梅吉は自分で生計をたてる必要があった。呉服の行商から始めた。
江角 千代次郎(えずみ ちよじろう、1864年12月16日(… 江角 千代次郎(えずみ ちよじろう、1864年12月16日(元治元年11月18日)- 1934年(昭和9年)6月19日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、政治家、銀行家。衆議院議員。号・楽所、有所。 出雲国出雲郡坂田村(島根県出雲郡坂田村、出東村、簸川郡出東村、斐川村、斐川町を経て現出雲市)で、大地主・江角権蔵、すい の長男として生まれる。普通学を学び、黒田龍二から漢学を、雨森精斎から和漢の歴史を学んだ。 村会議員、町村組合会議員、簸川郡会議員、徴兵参事員、所得税調査委員などを務めた。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(島根県第3区)で初当選し、その後、第9回総選挙まで3回再選され、最後は大同倶楽部に所属し衆議院議員に連続4期在任した。
岩元 信兵衛(信兵衞、いわもと しんべえ、1864年 12月… 岩元 信兵衛(信兵衞、いわもと しんべえ、1864年 12月13日(元治元年11月15日)- 1917年(大正6年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。山形屋第5代、衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下下町叶(現鹿児島県鹿児島市金生町)で、呉服商・岩元善兵衛の長男として生まれる。幼少期は亡母の実家、新町の回船業・川井田家で過ごし、漢学を修めた。1892年(明治25年)に家督を相続した。 明治維新後、没落した御用商人に代わる新興勢力の中心人物となる。1886年(明治19年)地元の実業家と南島興産社を設立し、大阪の豪商阿部彦太郎と奄美諸島の砂糖貿易の利益独占を競った。また、第百四十七銀行(現鹿児島銀行)、鹿児島貯蓄銀行、鹿児島実業新聞社の創立に参画した。
山口 熊野(やまぐち ゆや、元治元年11月11日(1864年… 山口 熊野(やまぐち ゆや、元治元年11月11日(1864年12月9日) - 昭和25年(1950年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。紀勢本線敷設の功労者。 元治元年(1864年)11月11日、紀伊国牟婁郡浦神村(現:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浦神)で山口俊道の長男として生まれる。幼名は俊太。和歌山医学校を経て東京外国語学校ドイツ語科を卒業し、東京大学予備門に転じて医学部への入学準備に専念した。しかし、当時盛んになっていた自由民権運動に共鳴して板垣退助の自由党へ入党し、議会開設の急務を提唱した。 明治18年(1885年)に扶桑政談社を設立し、雑誌通信録を発行したが、法に抵触して禁固1年6ヶ月、罰金100円に処せられて投獄された。
練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈… 練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈元治元年11月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(米穀商、伊勢屋)、実業家。練木合資会社社長。合資会社練木不動産商会の有限責任社員。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人。豪農で米問屋練木庄八の長子。年少にして経世の志を抱き、自由民権の説に心を傾け、板垣退助の自由党に身を投じ、進んで郷里に自助館を創設し推されてその館主となる。 実業界に入り、同志と共に粕壁銀行を創設し取締役兼支配人となり、郷党の財界に貢献する。1898年に居を東京に移して、実業のために尽瘁努力し、練木合資会社を創設し自ら社長となり企画経営の衡に当る。また同志会監査役、生秀館監査役・同取締役などをつとめる。
山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(… 山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(元治元年11月5日)- 1942年(昭和17年)9月28日)は、明治期の製鋼技術者、大正期から戦前昭和期に活躍した実業家。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。 肥前国(現佐賀県)唐津藩藩士の子として生まれる。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。製鉄技術習得のため官費でドイツ留学した際、鉄の技術の先端が鋼に転換する様子を目の当たりにして先進の製鋼技術を積極的に習得した。この時得た知識や経験、技術に基づく製鋼法の理解者や有力な支援者が集まり会社が設立され日本鋳鋼所(現日本製鉄株式会社関西製鉄所製鋼所地区)が創設された。
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元… 成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日)- 1916年(大正5年)1月18日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)。金山王と称された。 筑後国山門郡、のちの福岡県山門郡小川村 (瀬高町を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した。 1890年(明治23年)小川村会議員に選出され、九州改進党の結成に尽力した。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた。
発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元… 発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元年10月5日〉- 1936年〈昭和11年〉2月28日)は、日本の教育者、実業家、社会事業家。埼玉・笠幡村の大地主・発智家の27代目当主で埼玉県多額納税者。黒須銀行頭取、霞ヶ関村村長、埼玉育児院院長のほか、武州銀行(黒須銀行後身)、武州貯蓄銀行、日米生糸の役員などを務め、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設者でもある。 埼玉の黒須村(現入間市)で代々名主役を務めた豪農商・繁田家の12代繁田武平(満義)の長男・亀太郎として生まれ、親戚の発智家の養嗣子となり、埼玉県師範学校高等師範科卒業後、黒須高等小学校を設立し校長となる。 日本弘道会の西村茂樹の講演に触発されて、弟の13代繁田武平(翠軒)と同会の支部と黒須信用組合を1894年に設立、1898年には霞が関村支部も設立して西村の唱える「道徳と経済」の調和と活性化を図り、弘道会の全国集会では「農民の道徳」と題した演説も行なった。
横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治… 横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治元年9月28日) - 1945年(昭和20年)6月26日)は、明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者。アメリカの雑誌で鉄骨構造を知る。 播磨国加古郡東二見村(現・兵庫県明石市二見町東二見)で、蘭方医・横河安鼎の四男として生まれる。 帝国大学工科大学造家学科で建築学を学ぶ。1889年(明治22年)7月に卒業。卒業同期には葛西万司、宗兵蔵らがいる。卒業設計では東京の町屋を取り上げ、論文で町屋の生活改善と建物の耐震耐火性の向上をテーマとした。その後、下町の二階建ての土蔵造や煉瓦造をどうしたら簡便に耐震化できるかを考え、1891年に著書『地震』を刊行した。
夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元… 夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元治元年9月19日)- 1933年(昭和8年)5月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(立憲政友会)、松山電気軌道・海南新聞社社長。 1864年(元治元年9月)、伊予国温泉郡坂本村(久谷村を経て現松山市)で正岡権平の三男に生まれる。1884年(明治17年)に愛媛県師範学校を卒業し、小学校に訓導として勤める。その後、上京し明治法律学校に入学するも、和仏法律学校(現・法政大学)に転じ1889年(明治22年)に卒業する。1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、大阪で開業する。 1896年(明治29年)に帰郷し、松山市で開業する。
西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年1… 西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年10月3日) - 1930年(昭和5年)8月5日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 肥前国小城郡多久村(現在の佐賀県多久市)に、佐賀藩士西雅広の長男として生まれる。儒学者岡松甕谷に漢学を学んだ後、東京に出て中村正直の同人社で英学を学んだ。 小城郡会議員、佐賀県議会議員を経て、1914年(大正3年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、佐賀県農工銀行頭取、唐津鉄道取締役、肥前電気鉄道取締役、唐津製鋼所取締役、佐賀毎日新聞社社長などを歴任した。
大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(18… 大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(1864年9月26日) - 昭和25年(1950年)10月10日)は、旭川市の実業家、政治家。#大谷酒造株式会社の創業者。新潟県出身。真宗大谷派旭川別院檀家総代。旭川村(現旭川市)への鉄道誘致、日本放送協会北海道放送局開設、百貨店丸井今井旭川支店にも深く携わった。1928年(昭和3年)6月紺綬褒章。 現在の旭川市6条6丁目にあった酒造会社。 明治42年下村正之助の酒造場を買収し創業、43年度から生産を始め、同年の造石高 672 石、44年 1,051 石を生産して千石蔵に仲間入りした。 代表的な銘柄は、旭正宗・旭自慢 昭和19年企業整備令により、旭川酒類工業会社に合併され、第四工場として稼働。
岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月2… 岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月25日〈元治元年8月25日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月19日)は、明治時代から昭和初期の日本の弁護士、会社役員、資産家。族籍は三重県平民。 三重県河芸郡一身田村字上津部田(現・津市)出身。岡崎源十郎の長男。生家は代々農業を営む。1878年、新潟英語学校に入り、在学2年で4ヶ年の課程を終え学業が大に進む。1881年、大学予備門に入り、その後病気のため2年休学する。1883年、家督を相続し、前名・源之助を改める。 1886年、大学予備門の課程を終え1887年、高等中学法科を卒業する。1890年、帝国大学法科大学を卒業、法学士の称号を受く。
神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25… 神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25日(元治元年8月25日)- 1954年(昭和29年)3月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。号・鶉迫。 豊前国上毛郡四郎丸村(現福岡県豊前市山田)で、酒造家・神崎栄蔵の長男として生まれる。蔵春園で学んだ。家業の他、小倉酒精社長、角屋酒造社長、八尾貯蓄銀行取締役、築上銀行取締役、八尾銀行取締役、宇島銀行取締役、宇島鉄道専務取締役などを務めた。 1907年、福岡県会議員に当選し立憲政友会に所属。1910年から1923年まで県会議長を務めた。その他、福岡県結核予防協会長、同山林会副会長、同教育会長、同実業団体連合会長、同酒造業組合会顧問などを歴任。
添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年… 添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和4年(1929年)7月4日)は、明治・大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家・実業家・経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。貴族院議員。筑前(現在の福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。 近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。 1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。
尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治… 尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治元年8月11日)- 1917年(大正6年)3月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。従四位勲四等。貴族院男爵議員。 土佐藩士・尾崎忠治の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)10月、家督を継承し、同年11月6日、男爵を襲爵した。 東京帝国大学法科大学を修了。1883年(明治16年)前橋始審裁判所書記に就任。ほどなく退官して、日本銀行文書局書記、同検査役、都銀行取締役などを務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した。 1917年3月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町長谷の私邸で療養中に死去した。
牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元… 牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元年8月1日)- 1928年(昭和3年)5月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山市長。 越中国新川郡富山風呂屋町(現富山県富山市堤町通り)で、町年寄・牧野正貫(まさつら)の長男として生まれる。漢学、数学を修めた。家業の呉服業を営む。その他、十二銀行取締役、北陸商業銀行取締役、第四十七国立銀行取締役、富山電灯取締役、中越鉄道取締役、北陸生命保険取締役、富山鉄道取締役、富山米穀肥料取引所監査役、富山商業会議所副会頭などを務めた。また、富山実業新聞を創刊した。 政界では、1892年5月、富山市会議員に選出され、18年間在職し、同議長、富山県会議員、同議長も務めた。
樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月… 樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月27日 - 昭和23年(1948年)5月1日)は江戸時代末期(幕末)生まれで、明治・大正・昭和時代の実業家。 元治元年(1864年)8月27日、徳島県阿南市中林町に、徳島藩中老・海上方奉行で通称阿波水軍の長であった森甚五兵衛16代目村晟の家臣であった父・樫野藤蔵と母・ミツの間に生まれる。明治維新後、父が創業した石灰製造所を継ぎ、神戸・徳島など京阪神を始め、国内の石灰業界で活躍し事業を拡大した(第二次世界大戦前、徳島県南部は大理石及び石灰石の代表的産地であり、大正9年(1920年)着工、昭和11年(1936年)完成の現在の国会議事堂の3階天皇御休憩所の出入口や内部の内装及び彫刻その他の議事堂各所に使われている石材である時鳥(ほととぎす)答島(こたじま)加茂更紗(かもさらさ)などは徳島県産であり、山口県産と並んで国会議事堂の石材の主要な部分を占めている)。
羽田 貞義(はた さだよし、1864年8月10日(元治元年7… 羽田 貞義(はた さだよし、1864年8月10日(元治元年7月9日) - 1933年(昭和8年)3月11日)は、日本の教育者、実業家。号は鷲峰。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の祖父。 信濃国小県郡桜井村(現・長野県東御市)の寺島権左衛門の次男として生まれ、1880年に同郡和田村(現・長和町)の羽田三郎の養子となる。1883年長野県師範学校を卒業、1890年東京高等師範学校博物科を卒業後、長野師範教諭、1898年新潟師範学校教頭を務める。 1903年に群馬師範学校校長に就任、1912年より熊本師範学校校長、千葉師範学校校長、1919年より福島師範学校校長を歴任した。 1924年に定年後帰郷し、1927年にはバス会社「和田嶺自動車」を設立して社長となり、山間部の地方交通として貢献した。
小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864… 小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864年7月26日) - 昭和2年(1927年)11月26日)は、柳川藩士の子で、福岡県出身の財界人。ジョン・レノンの妻・オノ・ヨーコの祖父である。 筑後柳川の藩士のもとに出生した。立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の大組組頭世襲家の小野家との関係は不詳である。 地元の柳河中学校を経て1880年(明治13年)、同志社英学校2年に入学する。同級生に安部磯雄や岸本能武太がいた。1883年(明治16年)、新島襄から洗礼を受ける。同年末、徴兵令改正により私立学校は徴兵免除の特典を受けられなくなったため、官立学校への転校を図り退学する。
渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元… 渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元年6月16日(1864年7月19日) - 昭和9年(1934年)7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。UBE(旧・宇部興産)の前身である冲ノ山炭鉱組合の創業者。旧姓・國吉。 幕末の長門国厚狭郡船木宰判の小串村(現在の山口県宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣渡邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれる。國吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許された家柄であったが、祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また明治維新以降他の士族と同様に俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。