有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 19… 有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 1976年6月3日)は、日本のジャーナリスト。 兵庫県出身。慶應義塾大学卒。1926年朝日新聞社に入社。1942年論説委員となり「神風賦」(「天声人語」の前身)を担当。1946年時事新報に移り、編集局長などをへて常務。のち産業経済新聞論説委員。政治家伝記を書いたほか、講談にも造詣が深かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984… 門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984年10月27日)は、ジャーナリスト。 東京生まれ。1927年京都帝国大学法学部卒。東京朝日新聞入社、社会部長、学芸部長、1950年大阪本社編集局長。学生時代は、京大教授・厨川白村の息子(厨川文夫)の家庭教師をしていた。鎌倉に住んでおり、『外国拝見』には川端康成の推薦文がついた。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
西川 貞一(にしかわ さだいち、1902年2月27日 - 1… 西川 貞一(にしかわ さだいち、1902年2月27日 - 1991年9月25日)は、日本のジャーナリスト・政治家。日月荘閑人と号した。 現在の山口県美祢市出身。 関門日日新聞編集局長を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に旧山口1区から無所属で立候補し初当選。当選後、立憲政友会に入党。1937年の第20回衆議院議員総選挙では政友会の公認を得て立候補し2度目の当選。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補し3度目の当選。その後は翼賛政治会及び大日本政治会に所属。
金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月… 金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月15日または1909年2月15日または1910年2月25日 - 1977年8月26日〈陰暦7月12日〉または9月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、実業家、政治家。慶南体育会会長、国際新報(現・国際新聞)社長、第5代韓国国会議員(参議員)、東海生命保険(現・KDB生命保険(朝鮮語版))社長を歴任した。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。字は泰寛、号は一耕(イルギョン、일경)。筆名は九徳山人。元国家安全企画部長・国会議員・統一院長官・副総理の金悳(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚南道固城郡出身。日本大学専門部中退または卒業。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年また… 鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年または1903年12月17日 - 1993年5月4日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、政治家、画家。制憲韓国国会議員。 本貫は河東鄭氏(朝鮮語版)。号は元斉または元斎。 全羅北道(現・忠清南道)錦山郡出身。錦山公立普通学校、錦山簡易公立農業学校、京城普成高等普通学校、早稲田大学政経科、東京文学院(現・中央大学)または東京大学大学院卒。第3次共産党事件により1年6ヶ月間服役し、1931年に治安維持法違反により8ヶ月間服役した。朝鮮日報社学芸部長、忠南モダス会社支配人、大韓独立促成国民会文芸部長・組織部長・文教部長・全国大会議長、民族代表外交後援会宣伝部次長、民族統一総本部事務局員、独立戦取決起大会宣伝部長、工業新聞編集顧問、制憲国会財政経済委員長・交通逓信委員長、韓米経済協定韓国側代表、韓国重石顧問を務めた。
保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日… 保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1979年〈昭和54年〉3月4日)は、日本の政治家、元ジャーナリスト。位階は従二位。 衆議院議員(12期)、内閣官房長官(第8代・第33・34代)、衆議院議長(第59代)、労働大臣(第45・46代)、農林大臣(第19代)、自由民主党幹事長(第12代)、自由民主党総務会長(第7代)などを歴任した。 佐賀県東松浦郡鬼塚村(現・唐津市)の零細農家に生まれる。生家は貧しく、父親は車夫、母親や兄弟姉妹は野良仕事や養蚕、行商などで生計を立てていた。保利は家の仕事を手伝いながら小学校に通った。高等小学校を優等の成績で卒業したが、経済的な理由で中学への進学はかなわず、地元の唐津鉄工所の見習工になった。
小山 東一(こやま とういち、1901年11月11日 - 1… 小山 東一(こやま とういち、1901年11月11日 - 1985年6月9日)は、日本のジャーナリスト、英文学者、翻訳家。広島大学教授。 広島県福山市生まれ。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。中外商業新報、日本産業経済新聞学芸部長をへて、広島大学教授。 戯曲家の小山祐士は従兄弟にあたる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 … 浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 - 1981年12月23日)は、日本のジャーナリスト・登山家。 今日では本業のジャーナリストとしてよりも、登山家・山岳作家としての仕事で知られている。 1919年、旧制芝中学校卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。ロンドンに留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』((1941年刊)など、山岳紀行の分野を開拓する。 ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道・松本重治・牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - … 佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日 )は、愛知県出身の日本の政治家、ジャーナリストである。衆議院議員8期(日本社会党所属)、中央公論編集長を務めた。愛称はサトカン。
申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月… 申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月23日 - 1966年6月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第5代韓国国会議員。 慶尚北道善山郡(現・亀尾市)出身。日本大学文学部卒。故郷善山の三・一運動に参加したことや、大学在学中に朴烈や曺奉岩と共に黒涛会のアナキスト運動に参加したことにより投獄された。帰国後は朴相熙、金雨東らと共に亀尾消費組合を組織し、新聞社の支局長を務めた後、1960年の第5代総選挙で善山郡選挙区より無所属で出馬し当選、国会議員を1期務めた。
岡村 二一(おかむら にいち、1901年(明治34年)7月4… 岡村 二一(おかむら にいち、1901年(明治34年)7月4日 - 1978年(昭和53年)7月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。東京タイムズ社初代社長。財団法人新聞通信調査会理事長。 長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)生まれ。下伊那教員養成所を修了し飯田小学校の教員となる。 1923年(大正12年)に上京し、東洋大学専門部文科を卒業。1926年萬朝報、1927年新聞連合社勤務を経て、1935年同盟通信社に入社。社会部長、編集局次長を歴任し、1941年には松岡洋右外務大臣のドイツ・イタリア・ソビエト連邦訪問に随行した。 1942年(昭和17年)、特殊法人「日本新聞會」が設立されると専務理事となり、1945年3月、持分合同にあたった日本新聞公社の専任理事に就任した。
香月 保(かつき / かずき たもつ、1901年(明治34年… 香月 保(かつき / かずき たもつ、1901年(明治34年)4月30日 - 1964年(昭和39年)3月12日)は、日本のジャーナリスト。福岡県田川市長。 福岡県田川郡方城村大字弁城(方城町を経て現福智町弁城)に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を卒業、同級生には後に朝日新聞で同僚となる笠信太郎と益田豊彦がいる。1923年東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 東京朝日新聞に入社し、同社ロンドン支局長、亜細亜部長を経て、1945年朝日新聞大阪本社編集局長に就任する。 1947年4月第1回大阪府知事選挙に日本社会党公認候補として立候補するが、修猷館の同級生である赤間文三に敗れ落選する。 1951年田川市長に当選し、1955年まで務める。
井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 198… 井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 1985年2月6日)は、日本の翻訳家、ジャーナリスト。 広島県生まれ。1923年(大正12年)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語部卒業。東京帝国大学文科選科に入るが中退。1926年に東京外国語学校英語部選科を卒業、報知新聞に入社。特派員として渡米するが1927年に退社し、サンフランシスコの日本新聞の記者となる。その後パリに渡りソルボンヌ大学で学ぶ。再び米国に戻り、ロサンゼルスの日米新聞編集長を務め、加州毎日新聞の創設に参画。サンフランシスコの北米朝日新聞編集長を務めた後、1933年に帰国。外務省を経て、1936年3月に同盟通信社(以下、同盟)へ入社。
尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29… 尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本のジャーナリスト・評論家。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。共産主義者であり、ソ連のスパイ・扇動者としても活動した。 近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。 共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加。最終的にゾルゲ事件(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる)として1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。
植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月2… 植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月28日 - 1977年(昭和52年)11月16日)は、ジャーナリスト・政治家。第16 - 18代八王子市長を務めた。 1901年(明治34年)2月28日東京府八王子町元子安(現八王子市子安町)で三男として生まれる。町立第三尋常小学校(現八王子市立第三小学校)、攻玉社中学校、早稲田高等学院を経て1927年(昭和2年)早稲田大学政治経済学部を卒業。在学中に高等文官試験行政科に合格するも東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。1936年(昭和11年)には整理部長、1948年(昭和23年)には毎日小学生新聞部長、1954年(昭和29年)には地方部長兼地方版編集長となり1956年(昭和31年)定年退職。
嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6… 嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6日 - 1950年(昭和25年)6月20日)は、大正末から昭和前期のジャーナリスト、評論家、政治家。衆議院議員。旧姓・近江谷。 秋田県南秋田郡土崎港町小鴨町(現秋田市土崎港)で、実業家・近江谷栄次の三男として生まれる。暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)、第三高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 1925年(大正14年)中外商業新報に入社し経済部記者となり、のちの能代市・嶋田家の養子となる。以後、名古屋新聞嘱託、報知新聞論説委員、中部日本新聞(現中日新聞)論説委員、東京新聞論説委員を歴任。
李 如星(り じょせい、イ・ヨソン、이여성、1901年 - … 李 如星(り じょせい、イ・ヨソン、이여성、1901年 - 1958年?)は朝鮮のジャーナリスト、作家、政治家、社会主義運動家、美術史家。朝鮮日報社調査部長・社会部長、東亜日報社調査部長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議議員。本名は李命鍵(イ・ミョンゴン、이명건)。 1901年に大邱の裕福な家庭に生まれる。 その後、日本統治時代の朝鮮において言論活動や社会運動に携わる。1918年に、金若水らと中華民国・南京にある金陵大学(現・南京大学)に留学するが、翌1919年に朝鮮に戻って三・一運動に参加し、投獄される。 1922年から1925年まで立教大学に留学し、北星会や一月会といった組織に関わりながら、社会主義思想を発展させる。
笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - … 笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - 1967年12月4日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説主幹をつとめた。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月… 古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月20日 - 1987年(昭和62年)3月8日)は、日本のジャーナリスト、外交官。筆名は中馬 藤十郎。 1900年(明治33年)に鹿児島県日置郡日置村大字日置(現在の日置市日吉町日置)に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、第一高等学校を卒業したのち、島津奨学資金の援助でフランス共和国のリヨン大学法学部へ留学し同校を卒業した。1923年(大正12年)からジュネーブに駐在し国際連盟事務局情報部に勤務した。同部ではロックフェラー3世(英語版)が連盟を学ぶために配属されており、古垣は彼と同室で過ごして面倒を見ている。1929年(昭和4年)に国際連盟事務局を退職し、同年に朝日新聞社に入社してロンドンとパリに在住し、論説委員としてロンドン支局長、欧米部長、ヨーロッパ支局長などを務めた。
大宅 壮一(おおや そういち、1900年〈明治33年〉9月1… 大宅 壮一(おおや そういち、1900年〈明治33年〉9月13日 - 1970年〈昭和45年〉11月22日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。 大阪府三島郡富田村(現:高槻市富田)の醤油屋に父・八雄、母・トクの三男として生まれた。祖父の八右衛門は、嫁入りの日に差し押さえを受けるような貧しい所から富を作ったり、法廷へ出るのに衣類が無くて薦を被って行ったという者の金まで絞り取る程の残酷な人だったが、妻子には甘かった、と大宅壮一自身が書き残している。 父について大宅は『青春日記』で、「14歳より放蕩を始め、青年時代に法律を志して弁護士試験に失敗し、中年よりは選挙、警察界に足を入れて産を傾け、最後に生涯離さなかった酒の為に死んだ。
田中 慎次郎(たなか しんじろう、1900年7月28日 - … 田中 慎次郎(たなか しんじろう、1900年7月28日 - 1993年7月2日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞社取締役出版局長、総理府原子力委員会参与、社団法人日本原子力産業会議参与などを務めた。 埼玉県出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業後、1926年朝日新聞社入社。朝日新聞大阪本社経済部次長、朝日新聞社経済部次長兼論説委員等を経て、1940年から政治経済部長を務め、第二次世界大戦、太平洋戦争下の政治経済の報道を行っていたが、1942年3月15日にゾルゲ事件に関し、入社同期の尾崎秀実に対し大日本帝国陸軍の南部仏印進駐作戦を事前に漏らしたとする軍機保護法違反容疑で逮捕された。同年4月15日から休職となり、6月5日には釈放されたものの、6月15日に退社させられた。
韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年… 韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年7月17日 - 1975年5月25日)は、日本統治時代の朝鮮のジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は清州韓氏。 韓 厳回(ハン・オムェ、한엄회/韓嚴回)の表記もある。1960年代以降の報道では韓 邯錫または韓 甘錫(ハン・ガムソク、한감석)と紹介されていた。 ソウル市鐘路出身。養正高等普通学校、九州帝国大学農学部卒。日本統治時代は満州国および中華民国で活動しており、南満州農村天一農場農村振興会連合会理事、日大学院院長、上海中華日報社河南省支社長を務めた。1942年、蒋介石の統治区域で新聞の輸送をした際に日本兵に逮捕され、北京の日本軍の監獄で4か月間服役した。
益田 豊彦(ますだ とよひこ、1900年5月22日 - 19… 益田 豊彦(ますだ とよひこ、1900年5月22日 - 1974年7月11日)は、日本のジャーナリスト。
矢島 八洲夫(やじま やすお、1900年3月28日 - 19… 矢島 八洲夫(やじま やすお、1900年3月28日 - 1983年9月2日)は、日本の新聞記者、ジャーナリスト。朝日新聞社常務取締役、こどもの国初代園長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。1924年朝日新聞社入社。総務局長、取締役を経て、常務取締役。 1963年の村山事件の際、横田武夫(取締役)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職。1964年3月、元社長で大株主の村山長挙は矢島ら復職した5人の役員の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出。
渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 … 渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 - 1978年12月22日)は、日本のジャーナリスト、放送タレント、文筆家。 東京出身。杉靖三郎の兄。東京外国語学校仏語科を経て1928年東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。1924年東京朝日新聞社に入社。パリ支局長、ストックホルム支局長を務め、1955年退社して社友。戦後は、NHKのラジオクイズ番組「話の泉」に8年間休まず出演。聴取者から寄せられた難問奇問に、その博識ぶりで「物知り博士」として知られた。
竹山 晋民(たけやま しんみん、本名は竹山 晋一郎=たけやま… 竹山 晋民(たけやま しんみん、本名は竹山 晋一郎=たけやま しんいちろう、1900年 - 1969年)は、日本の鍼灸師・ジャーナリスト・政治家。 茨城県真壁郡出身。早稲田実業学校を経て1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業、大阪時事新報に入社し社会部記者となる。病を得て一時危篤状態に陥った際に漢方医の治療で一命を取り留めたことから東洋医学に関心を持ち、駒井徳三の紹介で1938年に雑誌『東邦医学』編集部入り。1939年に弥生会(現経絡治療学会)の世話人となる。1941年に漢方医学復興の理論を出版し、1942年に鍼灸師資格を取得。戦後は1953年の第26回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で茨城県第3区から出馬したものの落選した。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988… 呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988年12月29日)は、中華民国の政治家、日本のジャーナリスト。初代民選台北市長。 日本統治時代の台湾の嘉義県の寒村頭港仔出身。1919年台湾総督府国語学校国語部を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に進学。留学中日本統治下の台湾における台湾人政治運動に加わり、1920年新民会、東京台湾青年会に参加。同年下村宏台湾総督府総務長官と面会し日本の植民地政策を批判し、その後台湾議会設置運動に参加した。 1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身。卒業後大阪毎日新聞記者となる。1932年台湾新民報が創刊されると編集者として台湾に戻り、論説委員、整理部長、政治部長を兼任した。
松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10… 松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。
鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治… 鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治32年〉8月30日 - 1978年〈昭和53年〉5月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。 衆議院議員(3期)、労働大臣。 山梨県北巨摩郡出身。1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済学部を卒業。 朝日新聞社に入社し海外特派員となる。京城支局長を経て、1940年(昭和15年)、論説委員に就任し1941年(昭和16年)に退社。その後、日本印刷文化協会理事、山梨日日新聞論説委員を務める。 戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から山梨県全県区(当時)で立候補するが落選した。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山梨県全県区で立候補し当選。
今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 … 今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 - 1970年(昭和45年)12月18日)は、日本のジャーナリスト、教育者、政治家。衆議院議員、法学博士。旧姓・小林。 兵庫県加東郡河合村(現小野市)で、小林兵太郎の6男として生まれ、京都府の画家・今尾政之助の養子となる。1924年(大正13年)同志社大学法学部政治学科を卒業した。 大阪毎日新聞社に入社。その後、渡米しコロンビア大学で学んだ。帰国後、大阪毎日新聞本社、京城支局、大連支局、京都支局で勤務。東京日日新聞社に転じ、政治部副部長、事業課長、講演課長、横浜支局長、編輯局参事などを歴任。従軍記者として済南事件、満州事変、日中戦争(支那事変)を取材し戦傷も受けた。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。
金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月… 金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月24日 - 1974年4月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の警察公務員、政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道莞島郡出身。普成中学校中退(4学年在学中に三・一運動への関与により退学)。日本大学専門部政治学科卒。朝鮮独立運動により投獄されたほか、農業に従事し、莞島郡で蘆花学校、金日学校、瑞星学校を設立し、教育者としても活動した。他は莞島漁業組合理事、東亜日報・朝鮮日報支局長、朝鮮建国準備委員会莞島郡委員長、全羅南道警察庁総務課長、羅州警察署長、第8管区警察庁公報官、制憲国会外務・国防委員、反民特委特別裁判官を務めた。
吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)… 吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治3… 岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治32年)3月15日 - 1970年(昭和45年)12月1日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。カトリック教徒。 長崎県北松浦郡黒島村(現佐世保市黒島町)でカトリックの家に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。同年、母校にカトリック研究会を設立し、公教青年会のメンバーとしても活躍した。 大学卒業後、『萬朝報』の記者となり、社会部長、政治部長、整理部長、編集局長を歴任。戦時下に内閣情報部嘱託、情報局嘱託、内閣嘱託となり、情報局から日・満・支のカトリック統合の使命を帯びて北京に派遣された。
岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月… 岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月10日)は、日本のジャーナリスト。 東京府出身。1923年早稲田大学卒。 読売新聞、東京日日新聞政治部記者、満洲国情報課長、防衛総司令部調査室。 戦後、河北新報記者、1954年より著述業。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年また… 崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年または1899年4月29日 - 1979年11月30日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。制憲・第3・4代韓国国会議員。 慶尚南道陜川郡出身。釜山商業(高等)学校、日本大学社会学科卒。東亜日報・朝鮮日報で記者を8年間務めた後、治安維持会慶尚南道総本部治安部長、独促国民会陜川郡支部宣伝部長、自由党陜川郡党委員長・中央委員、第3代国会大邱毎日新聞テロ事件真相調査委員会委員長を務めた。 しかし、第4代国会議員のとき、隣の陜川郡甲選挙区選出の同じ自由党の兪鳳淳議員が滄浪号ハイジャック事件当時に拉北されて、その後また韓国に帰還したスパイだと誣告したため、2年の有期刑を言い渡されて投獄された。
織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 … 織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 - 昭和63年(1988年)3月1日)は日本の実業家、政治家、ジャーナリスト。元鳥取県会議員。 山陰のジャーナリストの大御所として、政治・経済・文化・スポーツなど幅広い分野で活動した。 鳥取県米子市東町生まれ。父・永太郎は明治37年(1904年)に『角磐日報』を創刊した米子地方におけるジャーナリズムの先駆者だった。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正9年(1920年)7月東亜同文書院卒業(第17期生)。大正12年(1923年)4月大阪毎日新聞社入社、新聞記者となる。 昭和7年(1932年)12月山陰日日新聞社主幹として帰郷。昭和12年(1937年)4月鳥取県会議員補欠選挙に初当選、以来戦後の昭和21年(1946年)公職追放になるまで県政に参画、昭和15年(1940年)12月大政翼賛会鳥取県支部が結成されると庶務部長に就任、昭和20年(1945年)まで翼賛運動に専念。
楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)… 楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)6月28日 – 1990年(平成2年)1月7日)は、大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 和歌山県日高郡由良村(現由良町)で楠山四郎右衛門の二男として生まれた。1920年(大正9年)早稲田大学政治経済学科を卒業。同年9月、大阪毎日新聞社に入社。1921年(大正10年)コロンビア大学に留学し、さらにバージニア大学で学んだ。 ロンドン特派員となり、1932年(昭和7年)リットン調査団報告書をスクープした。神戸支局長を経て、東京日日新聞外国通信部長に転じて第二次世界大戦下のヨーロッパを視察した。欧米部長、副主筆を経て、戦時中は日本タイムス社長、上海タイムス社長を務めた。
川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4… 川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1980年〈昭和55年〉10月30日)は、日本の民俗学者、民話・口承文芸研究家、口演童話家、地方史家、温泉史研究家、ジャーナリスト。青森県東津軽郡青森町(現・青森市)生まれ。20代で蘆谷蘆村に師事し、童話文学を学ぶ。1927年、子どもたちに民話・童話を語り聞かせる八戸童話会を仲間たちとともに結成。のちに同会の理事長も務めた。また十和田市(当時の三本木町、藤坂村)の郷土史も執筆した。青森県に伝わる民話や伝説を研究し、1939年には「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)に入会。ジャーナリストとしては、三本木の日刊紙『南部日報』(1927年創刊)の編集長、『東奥日報』三本木支局長などを務めた。
朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29… 朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29日 - 1972年3月2日または4月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。参議員。 漢字表記は朴讚熙とも。 漢城府出身。本籍地は忠清北道鎮川郡鎮川面。早稲田大学経済学部卒。1919年には出版法と保安法違反により起訴されたが、免訴放免の処分を受けた。時代日報記者、東亜日報地方部長を務めた後、韓国民主党結党に参加し、同党情報部長・運動部長・労働部長・調査部長を歴任した。その後は民主国民党と民主党の結党にも参加し、民主党中央常任委員を務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙ではいずれも落選したが、四月革命以後の第5代総選挙では民主党所属の参議員に当選し、国会交通逓信委員会委員長を務めた。
佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23… 佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23日 - 1948年〈昭和23年〉10月9日)は、日本の政治学者、ジャーナリスト、参議院議員。 1897年(明治30年)1月23日、衆議院議員佐々友房の三男として東京府東京市四谷区四谷箪笥町に生まれる。 東京府立第四中学校・第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学。吉野作造や美濃部達吉の薫陶を受け法学者・政治学者として将来を嘱望される。東京帝大では新人会に参加した。1920年(大正9年)卒業。 卒業後は直ちに東京帝国大学法学部副手・助手を経て、外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。特にドイツにおいては、ハイパーインフレの惨状やヴァイマル共和国の行き詰まり、そしてナチス勃興を目の当たりにし、反ヒトラー派となって帰国した。
文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または… 文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または1899年 - 1973年11月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家。東萊郡郡守、制憲韓国国会議員、慶尚南道知事。本貫は南平文氏(朝鮮語版)。 釜山蓮山洞(現・釜山広域市蓮堤区蓮山洞)または福泉洞出身。私立東萊東明学校、東京正則英語学校、モスクワ東方共産大学卒。満洲の安東で中国人貿易商会の書記を務めながら、秘密政治結社の花郎徒に参加した後、1920年に朝鮮共産党に入党した。1922年10月、ベルフネウジンスクで開催された高麗共産党連合大会に出席し、党中央委員会第3書記部(国内)委員となった。
金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日… 金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日 - 1969年9月19日または1971年1月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家、独立有功者。第2代韓国国会議員、原子力院(現・原子力安全委員会)院長を歴任した。 本貫は光山金氏。号は若嬰。キリスト教徒。 全羅南道順天出身。早稲田大学政経学部卒、コロンビア大学・ロンドン大学修学。東亜日報・朝鮮日報論説委員、ハワイ第二次汎太平洋会議朝鮮代表(徐載弼・金活蘭・申興雨と共同)、ニューヨーク三一新報主幹・主筆、ベルリン世界反帝同盟会議出席者、朝鮮興業株式会社重役を務めた。中国で金枓奉とハングル運動について意見を交わした後、1935年から朝鮮語学会に参加して辞典の編纂を財政的に支援したが、1942年の朝鮮語学会事件により3年間投獄され、1945年1月に懲役2年・執行猶予4年の刑を言い渡された。
荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日… 荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日 - 1972年(昭和47年)6月12日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡駒形村長。 福島県耶麻郡駒形村(塩川町を経て現喜多方市)で、荒木與三郎の息子として生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を中退し、その後は独学した。 18歳で福島民報記者となり、福島民友などを経て、1920年(大正9年)1月に上京し東京日日新聞の地方部記者となる。その後、やまと新聞、時事新報を経て、1925年(大正14年)4月、中外商業新報の編輯局長付となり、同論説委員を務めた。1929年(昭和4年)9月、夕刊会津タイムス社を設立し社長に就任。
木舎 幾三郎(きや いくさぶろう、1896年8月1日 - 1… 木舎 幾三郎(きや いくさぶろう、1896年8月1日 - 1977年2月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。号(別名):湘南隠士。 現在の広島県府中市出身。真言宗京都大学(現・種智院大学)を卒業後、時事新報記者を経て、1930年『政界往来』を創刊。戦後、公職追放となるが、追放解除後の1952年に「政界往来」を株式会社化し社長に就任する。近衛文麿の私設秘書でもあった。1977年に死去した。 1928年と1930年の総選挙で郷里の広島3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したがいずれも落選した。