岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9… 岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9年8月22日)- 1893年(明治26年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国新川郡大村(石川県新川郡大村、富山県上新川郡大広田村を経て現富山市海岸通)で、加賀藩十村役・重右衛門の息子として生まれた。 1873年(明治6年)新川県第7大区長、1876年(明治9年)石川県第2大区副区長に就任。その後、上新川郡首席書記、大村外16カ村戸長、大村外7カ村戸長を務めた。1890年(明治23年)3月、富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)2月まで在任した。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、独立倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日… 高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日(天保9年7月9日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代の政治家、実業家。新聞経営者。衆議院議員(2期)。 播磨国加東郡、のちの兵庫県加東郡永富村(上福田村、社町を経て現加東市)の大庄屋の家に生まれる。1872年(明治5年)永富村戸長に就任し、学区取締などを経て、1879年(明治12年)兵庫県会議員に当選。1887年(明治20年)まで務めた。この間、1884年(明治17年)同志と共に五州社を設立し、神戸又新日報を発刊。のち神戸相生町に神戸日報社を設立し愛国新聞を発刊した。ほか、加東郡社村長を務め、神戸法律学校や山陽鉄道の設立にも関与した。
4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8… 4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8月20日〈天保9年7月1日〉 - 1914年〈大正3年〉1月8日)は、幕末から明治時代の醸造家、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。名は正義。前名は馬之助。族籍は高知県平民。 3代目桜木嘉右衛門正利、鹿の二男として高知城下種崎町(現・高知市はりまや町)に生まれ、のち前名を改めて襲名する。藩政下、町内総組頭を務め、廃藩後は町内取締役となる。本業は酒造業で「葉柳」の醸造元。 1877年(明治10年)第七国立銀行が設立すると同取締役に就任。1881年(明治14年)帆走船運漕営業会社天佑社を設立し、相談役を経て社長に就任。1886年(明治19年)土佐郡酒造家連合会を設立し同会長に就任。
真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天… 真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天保9年6月10日)- 1906年(明治39年)4月27日)は、日本の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・増田、幼名・隼太。 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で、増田彦右衛門の二男として生まれる。その後、埼玉郡川口村(現加須市)真野家の養子となる。江戸に出て蘭学、漢学を学んだ。 明治3年3月12日(1870年4月12日)民部省に出仕し駅逓少令史に任官。以後、駅逓大令史、駅逓権少佑、駅逓少佑を歴任。明治4年7月27日(1871年9月11日)民部省が廃止され大蔵省へ異動。駅逓司四等出仕、駅逓権中属、駅逓権大属、駅逓大属を歴任。
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天… 後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月… 田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月22日) - 1910年(明治43年)10月5日)は、幕末彦根藩士、明治期代の地方官僚・実業家・漢学者。 1838年2月16日((旧暦)天保9年1月22日)近江犬上郡彦根城下上藪下町の同藩足軽谷口他三郎の次男として誕生し、同じ足軽の田部全次の養子となる。両家とも8石取りと伝えられている。通称は全蔵又は先蔵と称した。藩校弘道館で学び、特に漢学を修めた。 文久・元治より慶応・明治維新の間、藩の外交掛りに属し、諸藩の志士と交わり、大東義徹・川上吉太郎・外村省吾・西村捨三・西川吉輔・大音竜太郎等と共に活動した。特に1866年(慶応2年)第二次長州征討に際して、岩国藩用人であり漢学者であった塩谷鼎助を介し秘密裏の交渉を取り持った(『吉川経幹周旋記』)。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(18… 大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、日本の武器商人、実業家。 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。 天保8年(1837年)9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。 大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。
早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年… 早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年9月8日〉 - 明治34年〈1901年〉2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の実業家、医師、官吏。丸善、横浜正金銀行の創業者として知られる。 天保8年(1837年)、美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に岩村藩医師・山田柳長の子として生まれるが、父は有的の顔を見ることなく26歳で亡くなったため、同村の名主早矢仕才兵衛の養子となる。大垣、次いで名古屋に出て医学を学ぶ。早矢仕自身が優れた医師でもあった。安政元年(1854年)、郷里に戻り医院を開業する。 安政6年(1859年)、江戸に上り、万延元年(1860年)6月に開業する。坪井信道に学んだ後、慶應3年(1867年)、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ。
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保… 川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保8年7月10日〉- 1912年12月2日)は、日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現:川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。幼名:磯治。別名:利右衛門。従五位。隠居後は米寿まで生きることを願って「川崎米年蔵」を名乗った。 薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現:鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。父は呉服商、川崎利右衛門。15歳頃から家系を助けるため、幕末に廻船・海運業で活躍した薩摩藩御用商人・浜崎太平次の経営する山木屋の店員として就職する。17歳となった嘉永6年(1853年)に山木屋の長崎支店に赴任する。
黒須 喜兵衛(くろす きへえ、1837年7月22日 - 18… 黒須 喜兵衛(くろす きへえ、1837年7月22日 - 1887年10月12日)は、日本の実業家。江戸時代末期から明治時代初期にかけて埼玉県川越を中心に活動した。第八十五国立銀行初代頭取を務めた。 天保8年6月20日(グレゴリオ暦1837年7月22日)、武蔵国川越で呉服商「松屋」を営んでいた先代黒須喜兵衛の長男として誕生。 明治に入り、政府が国立銀行条例を制定すると、同じく川越の商家であった綾部利右衛門、横田五郎兵衛、山崎嘉七らとともに明治11年(1878年)に銀行創立願を提出、第八十五国立銀行として認可された。同年の株主総会において喜兵衛は頭取に選任された。 明治20年(1887年)10月12日、病気のため数え51で死去。
土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月… 土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月21日) - 1917年(大正6年)9月9日)は、幕末の宇和島藩士、明治時代の実業家、大阪財界指導者、衆議院議員。関西法律学校名誉校員。大阪市の本邸跡は日本銀行大阪支店になっている。 伊予宇和島藩士の大塚南平祐紀のの六男として生まれる。4歳のとき藩士・松村彦兵衛清武の養子となり保太郎と改名。少年時代には三好周伯に書道を学び、藩校明倫館で大阪の越智士亮の弟子である金子春太郎に漢学を学ぶ。12歳からは、窪田清音から免許皆伝を許可された窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に入門、竹馬の友である児島惟謙と共に剣術修業に励み、16歳正月に初伝目録を授与された。
伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう/きんぞう、天保8年3月7日〈… 伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう/きんぞう、天保8年3月7日〈1837年4月11日〉 - 1901年〈明治34年〉8月7日)は、江戸幕末から明治にかけて活躍した、上野国(群馬県)出身の実業家。横浜を開拓した代表的人物の一人であり、第七十四国立銀行の初代頭取や、横浜市会議員をつとめた。 天保8年(1837年)、上野国新田郡藪塚村(現・群馬県太田市)に生まれる。 慶応元年(1865年)に、横浜に出て商売を始めた。南京豆や蚕卵紙の取引によって財をなす。特にウォルシュ・ホール商会に重用された。 明治5年(1872年)、私財を投じ、廃絶していた郷里の岡登用水の再興を行う。この功績により、1876年(明治9年)の明治天皇東北巡幸の際には賞品の下賜を受けた。
谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年… 谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日)- 1921年(大正10年)8月3日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助。 越中国新川郡仏田村(石川県新川郡仏田村、富山県下新川郡道下村を経て現魚津市)で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた。加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任。1872年(明治5年2月)金沢県新川郡第8区租税調役、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる。その後、戸長、下新川郡書記を務めた。
対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天… 対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天保7年11月7日)- 1914年(大正3年)12月24日)は、幕末の弘前藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員(1期)、初代札幌区長。 陸奥国津軽郡弘前城下代官町(現弘前市)で弘前藩士・対馬利助の息子として生まれる。箱館戦争に従軍。弘前藩公用人を経て、明治4年7月(1871年)青森県に出仕。明治5年4月(1872年)開拓使に転じ十一等出仕となり、同年11月(12月)開拓中主典に昇進。会計整理、教育、衛生普及、商工業振興などを担当し、1878年7月に退官した。 その後、実業界に転じ、開拓使経営の醸造場の払下げを受けて酒造業を経営。また、元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。
上郎 幸八(こうろう こうはち、1836年10月18日〈天保… 上郎 幸八(こうろう こうはち、1836年10月18日〈天保7年9月9日〉 - 1916年〈大正5年〉12月29日)は、日本の資産家、実業家。族籍は神奈川県平民。 越前国南条郡白崎村(のち福井県南条郡王子保村白崎、現越前市白崎町)の農家に生まれた。新右衛門の二男。はじめ幸吉といい、後に幸八と改めた。 万延元年8月、東京日本橋木綿問屋小津清左衛門の店員となる。文久3年、横浜の西洋洗濯屋中山太郎左衛門の店員となる。仕事が終われば夜間は車の後押し、人力車夫等となり幾年か苦しい労働をつづけ、ついに両替店を開く。 国立七十四銀行取締役支配人となり、1880年には横浜正金銀行設立発起人、上信銀行顧問となる。
川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保… 川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保7年8月24日) - 1896年(明治29年)11月7日)は、日本の実業家、政治家。男爵。創業期の三菱の幹部であり、貴族院議員、第3代日本銀行総裁。 天保7年(1836年)8月24日 、土佐国土佐郡旭村(現在の高知県高知市)にて土佐藩の郷士・川田家に生まれた。正規の教育はまったく受けていないが、その理財の才を認められ、藩の会計方に登用される。藩営土佐商会で勧業・鉱山・通商の事務を担当。明治維新に際しては、難題であった伊予松山藩所有の別子銅山接収を平和裡に収拾している。 明治3年(1870年)、藩営の海運業社九十九商会の民営化に伴い、高級幹部(管事)として、石川七財と共に社主の岩崎弥太郎を補佐した。
岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4… 岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4月11日) - 1922年(大正11年)1月7日)は、明治期の政治家、実業家。第十三大区長、南魚沼郡長、衆議院議員。法師温泉創業者。その生涯から「上越線の父」と言われている。田中角栄が最も尊敬した郷土の先達と言われる。幼名は大次郎。 昭和6年には、以下のような歌が小学校で合唱されたという。 光り輝く文化の花は 上越線をば開通せしむ 花も蒔かずば咲かれもすまい 蒔いた父こそ岡村貢 明治十余のその昔より 清水、三国の草踏みわけて 一生涯と全財産を 捧げて祈る涙の跡よ
南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22… 南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22日) - 1919年(大正8年)5月13日)は、日本の建設事業者、建設指導者、実業家である。晩年は南 尚(みなみ ひさし)と改名した。豊前国宇佐郡金屋(現・大分県宇佐市)出身。 幕末から明治にかけて、大分県の広瀬井手(広瀬井路)、高森水路を開発。その後明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたった。とくに日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 ‐ 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発や月居トンネル工事(茨城県)に取り組んでいる。疏水工事のなかで、特にトンネル工事で経験を積み、この経験を生かして、後にトンネル工事を専門とする「現業社」を創設した。
伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2… 伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2月24日) - 1917年(大正6年)2月24日)は、刈谷藩士、政治家(衆議院議員2期)、実業家。別名は伊藤 三弥(いとう さんや)。 天保7年2月24日(旧暦)(1836年)、三河国碧海郡の刈谷城内に生まれた。兵庫県出身、伊勢国出身とされることもある。父は伊藤庄兵衛保秀。刈谷藩の藩校である文礼館に学び、尾張国の儒学者である伊藤両村の私塾でも学んだ。17歳で京都に出ると、頼三樹三郎の私塾で学ぶ中で尊王思想が芽生えた。 安政6年(1859年)7月にはいとを妻に娶った。同年に父が死去すると、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居していた際に岩倉邸に仕え、岩倉具視と志士との連絡役を担った。
平沼 専蔵(專藏、ひらぬま せんぞう、1836年2月18日(… 平沼 専蔵(專藏、ひらぬま せんぞう、1836年2月18日(天保7年1月2日)- 1913年(大正2年)4月6日)は、日本の相場師・実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。幕末明治に横浜での生糸取引や金融で財を成した。 武蔵国高麗郡飯能村(のち埼玉県入間郡飯能町、現飯能市)で、平沼安兵衛の三男として生まれる。7歳で足袋屋へ奉公に出る。安政6年(1859年)千住宿の材木商に移り、さらに横浜本町の海産物商明石屋平蔵商店に勤めた。 慶応元年(1865年)に独立し本町4丁目に羅紗・唐桟の取引商を始めた。1878年(明治11年)生糸売込問屋芝屋清五郎商店の業務を引き継いで、土地売買、株式投資にも事業を拡大した。
佐々木 喜太郎(ささき きたろう、1836年2月17日〈天保… 佐々木 喜太郎(ささき きたろう、1836年2月17日〈天保7年1月1日〉 - 1890年〈明治23年〉)は、日本の商人、実業家、青森県北津軽郡五所川原村の素封家。族籍は青森県平民。 五所川原生まれ。代々「布屋三之助」を名乗り、屋号を「布三」としたが、喜太郎の代に佐々木姓を名乗る。幼名を覚太郎と呼び、後喜太郎に改めた。父の代より酒造を業としたが、慶応当時に於ては田地僅に2町歩位を所有するに過ぎなかった。 酒造業を営み、米穀取引、小国(外が浜町蟹田)・今泉の鉄山経営などを手掛ける。土地投資にも乗り出す。直接国税総納額は、1890年出版の『帝国議会議員選挙者名鑑』によると「2262円2銭」である。住所は青森県北津軽郡五所川原村(現五所川原市)。
大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年1… 大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年12月22日〉 - 1901年〈明治34年〉11月3日)は、明治時代の実業家で、博文館創業者。 妻の弟は東京堂創業者の高橋新一郎。三男(長男と次男は早逝)は博文館第2代館主の大橋新太郎、四男は東京堂第2代主人の大橋省吾。長女の婿は博文館支配人で小説家の大橋乙羽、三女の婿は共同印刷創業者の大橋光吉。 越後長岡の商家に生まれ、幼時より行動力と賢明さをそなえて期待された。また母の薫陶を受けて、仏教の信仰に厚く、僧にすることも親族の間で話し合われたという。 15歳のとき、真言宗の僧籍にある叔父を頼って上京し、九州から江戸を回る大旅行を経験して見聞を広め、長岡藩御用達の家業を守りつつ、幕末激動の時代を過ごした。
西園寺 公成(さいおんじ きんなる、天保6年12月7日(18… 西園寺 公成(さいおんじ きんなる、天保6年12月7日(1836年1月24日) - 明治37年(1904年)11月7日)は、伊予国宇和島藩出身の武士・官僚・実業家。通称は雪江、勇喜衛。幕末期に活躍、後に第一国立銀行をはじめ、近代日本の金融・産業界にも関与した。 天保6年(1835年)、宇和島藩士・松田覚之助公博の次男として生まれる。母は中井九郎右衛門の娘である。幼名は雪江。のち実兄・松田源八郎に養育された。 藩校明倫館で学び、嘉永6年(1853年)には文学出精を賞せられている。同年4月7日、儒学に秀でたため官費留学生として小松藩の儒者・近藤南海(近藤篤山の子)の塾に入門した。 安政3年(1856年)1月12日、明倫館塾長に就任。
吉田 幸兵衛(よしだ こうべえ、1836年(天保7年) - … 吉田 幸兵衛(よしだ こうべえ、1836年(天保7年) - 1907年(明治40年)10月3日)は、幕末から明治にかけて活動した日本の実業家。横浜の代表的な生糸売込商人の一人である。 上野国山田郡大間々(現・群馬県みどり市)にて、地元の旧家であった吉田和五郎家の長男として生まれた。吉田家は新川村(群馬県勢多郡新里村を経て現・桐生市)の本家吉田権右衛門を中心とした有力な富農であり、吉田和五郎家はその分家である(権右衛門は和五郎の甥)。吉田家は農業のみならず商業、金融にも携わり、幸兵衛も10代の終わり頃より糸繭商をはじめ家業を手伝い商売を学んだ。家業の米や木炭の販売のため、江戸にもたびたび足を運んだ。
大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年8月21日〈… 大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年8月21日〈1835年10月12日〉 - 明治31年〈1898年〉6月7日)は日本の実業家。 信濃国埴科郡西条村(現長野市)の旧家・相沢家に生まれ、松代藩士の大里忠右衛門の養子となる。家老の真田桜山に抜擢され、戊辰戦争にも従軍し、大垣で岩倉具定に松代藩の恭順を申し出、東山道鎮撫軍の監軍岩村高俊を上田に迎えた。戦後に藩主の真田幸民より賞典禄26石を賜った。松代藩産物会所に関係し、明治維新後は松代商法社の役人となった。また廃藩置県に伴う士族授産として製糸業に着目し、明治5年(1872年)に開業したばかりの官営富岡製糸場を視察の末、明治7年(1874年)に西条村六工地籍に六工社を有志ら7名と共に設立した。
牛島 秀一郎(うしじま / うししま ひでいちろう、1835… 牛島 秀一郎(うしじま / うししま ひでいちろう、1835年6月20日(天保6年5月25日)- 1898年(明治31年)2月5日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長。 肥前国小城郡多久原村(佐賀県小城郡北多久村、北多久町を経て現多久市北多久町多久原)で生まれる。東原庠舎で学び、さらに草場船山から漢学を学んだ。 1873年(明治6年)多久原村戸長に就任。その後長崎で『西海日報』を創刊し自由民権運動を推進した。1879年(明治12年)長崎県会議員に選出され、佐賀県会議員、同常置委員、同3代議長(1887年11月-1889年10月)を歴任。1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、議員倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任した。
梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月… 梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月12日)- 1912年(明治45年)5月23日)は、幕末の武士(大聖寺藩士)、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、石川県会議長、石川県江沼郡大聖寺町長。幼名・又吉、八百吉。諱・巍。号・抜山、烟渚、煙渚。1869年(明治2年)以降、五月を名乗る。 加賀国江沼郡大聖寺鷹匠町(石川県江沼郡大聖寺町を経て現加賀市大聖寺鷹匠町)で、大聖寺藩士・梅田専次の息子として生まれた。藩学者・東方芝山から儒学を学ぶ。選抜され越前大野藩に遊学し 藩校洋学館に入り、剣術を内山介輔に、西洋砲術を小形元輔に、洋学を伊藤慎蔵から学び、蘭学七級となった。1860年(万延元年)に帰藩。
香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日(1835年5… 香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日(1835年5月3日) - 1920年(大正9年)3月8日)は、日本の官僚、実業家。元備前岡山藩士。岩倉具視に随行して、欧米を視察。大分県令(現在の知事に相当)。大分県令を退いてのち、実業界に転じ、岡山殖産協会会頭や岡山商業会議所会頭などを歴任。岡山地方の産業の発展に尽力。本姓は岡。通称は英太郎。別名は忠武。 1835年、現・岡山市北区船頭町に、岡山藩士の家に生まれ、西洋式砲術を学んだ。明治2年(1869年)、権大参事。明治4年(1871年)、岩倉使節団に先立つ半年前に第1回欧米視察団に選ばれ、津田弘道らとともに欧米を視察した。翌年に帰国した後は、伊万里県参事、ついで静岡県参事に任じられた。
岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天… 岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 1885年〈明治18年〉2月7日)は、日本の実業家。土佐藩(現在の高知県)出身で、34歳の時、大阪府大阪市西区の土佐稲荷神社付近の堀江の辺りの大地主だった。現在の三菱財閥(現:三菱グループ)の源流企業であるが、明治政府が設立した共同運輸会社と話し合いの上合併し日本郵船が創設された。その年に岩崎彌太郎は50才で病死した。弟である三菱財閥2代目の岩崎弥之助とともに岩崎家の中心的人物であった。 天保5年12月(1835年1月)、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。
関谷 源兵衛(せきや げんべえ、1835年 - 1908年)… 関谷 源兵衛(せきや げんべえ、1835年 - 1908年)は、明治時代の日本の地方政治家、実業家。東京都八王子市の前身に当たる東京府八王子町長を務めた。八王子市長の関谷源兵衛は孫。 1893年に刊行された『三多摩人物評』によると、八王子で質屋を営み、多くの土地と建物を所有する豪商であった。同書によると父の松兵衛の代から富裕な家で、明治初期には一揆に襲われる被害にも遭ったという。八王子町議会議員となり、南多摩郡所属税調査委員も務めた。 1894年に八王子商工会議所が設立された際には、発起人(第三十六銀行頭取の吉田忠右衛門以下合計8人)の一人となる。 1901年3月7日に第4代八王子町長に就任。約1年在任ののち、1902年3月5日に退任した。
中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834… 中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834年9月30日〉 - 1914年〈大正3年〉5月1日)は、明治から大正初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・桐生。 上野国佐位郡、のちの群馬県佐波郡赤堀村(赤堀町を経て現伊勢崎市)で、桐生儀兵衛の長男として生まれ、その後、中島家の養子となる。 1869年(明治2年)大蔵省に入省し、大蔵省一等属となる。牛込で私塾を開き、塾生には郷誠之助らがいた。1882年(明治15年)に退官し実業界に転じた。東京株式取引所理事、前橋電気軌道社長、東京府農工銀行取締役、同農工貯蓄銀行頭取、帝国商業銀行監査役などを務めた。 政界では、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員に在任。
増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年… 増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年8月15日〉 - 1920年〈大正9年〉9月4日)は、日本の商人(貿易商)、実業家、横浜市内の資産家。族籍は神奈川県平民。 伊賀上野車坂七面屋敷(現・三重県伊賀市)の赤貧の家に生まれる。平蔵の長男。幼くして父を亡くし、母によって育てられる。1844年、母が亡くなり、嘉兵衛は天涯孤独の身となる。魚の行商を業とする。 猪田屋に奉公する。14歳の春、大坂に出て、海産物問屋榎並屋に住み込む。文久2年、横浜で増田屋をひらき、外国糖の輸入で富をきずく。1869年、横浜為替(横浜銀行の前身)の創立に加わる。 1884年、家督を長男増蔵に譲り、分家して一家を創める。
田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年… 田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年7月11日) - 1884年(明治17年)6月8日)は、幕末・明治の相場師・実業家。開港直後の横浜を舞台に生糸・洋銀などの相場で大きな財を成して「天下の糸平」と称した。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。 信濃国伊那郡赤須村(三州街道赤須上穂宿、現在の長野県駒ヶ根市)で藤島卯兵衛と妻・さとの間に生まれる。生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。三男であった釜吉は1845年(弘化2年)に飯田城下の魚類雑貨商・万屋に丁稚奉公に出された。1848年(嘉永元年)には魚屋として独立しようと三両を手に名古屋へ出たが失敗、郷里に戻る。父・卯兵衛に金を工面してもらい大阪へ出ると、米相場に手を付けたがこれも失敗し再び郷里へと帰った。
大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年… 大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年4月18日) - 大正13年(1924年)5月11日)は、江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家。 和歌山県平民・大井源四郎の長男として紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(三重県南牟婁郡西山村、紀和町を経て現熊野市紀和町平谷)に生まれ、1845年(弘化元年)から1848年(嘉永元年)まで、菊岡隆之助に漢学を学び、その後京都に出て医学を修め、さらに1855年(安政元年)から長崎でオランダ人、ポンペ、ボードウィンのもとで蘭学と医学を学んで蘭方医となる。 長崎に9年いたのち、1861年(文久3年)飫肥藩で1年洋医学を教え、1865年(慶応元年)に大阪で開業、1867年(慶応3年)には大坂歩兵屯営付き軍医として伏見の役に出陣。
大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(… 大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(天保4年11月2日) - 1910年(明治43年)7月6日)は、日本の実業家。大原孫三郎の父。 岡山藩士藤田傳吉の三男として生まれる。1858年(安政5年)に備中国窪屋郡倉敷村の庄屋・豪商大原壮平の養嗣子となり、幼名幸三郎を孝四郎と改名。儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学んだ。呉服、繰綿、米、金融を手広く営むとともに大地主であり、学問、絵、書を好む文化人でもあった。 1888年(明治21年)に倉敷紡績所(クラボウ)の初代社長に就任すると、養父壮平が森田節斎から学んだ謙受説を社訓とした。これは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持ちで、より高いものを求めて努力すべし、という内容であった。
千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月… 千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月〉 - 1903年〈明治36年〉4月13日)は、日本の実業家、東京の金貸し。 信濃国伊那郡中沢村有賀(現・長野県駒ヶ根市)出身。貧家の生まれで、三人兄弟の内の次男である。12、3歳の頃に逃亡した実父を探しに故郷を飛び出す。江戸へ来る途中で路銀に尽き、宿屋のかまどの上に載った二朱銀一つをそっと袂へ入れ、それで芋を買ってかじりながら江戸へたどり着く。 父は両国広小路の自身番をあずかる番太郎を勤めていた。勝五郎は本町の町年寄北村市左衛門の玄関番となった。同家を出て、自立したけれど失敗をかさねて、吉原京町二丁目の姿海花屋の妓夫とまで零落したが、のちに古着の行商を行う。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保… 長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保4年5月5日) - 1896年(明治29年)5月4日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 豪商・佐藤伊兵衛の四男として出羽国村山郡天童(山形県東村山郡天童町を経て現天童市)に生まれ、のち長谷川吉内の養子となる。山形藩主秋元家に仕えたのち、実業界に入り、1888年(明治21年)7月には第八十一国立銀行頭取に就任した。ついで翌年5月、山形市会議員に当選し、所得税調査委員、山形興業幹事を経て、1890年(明治23年)山形県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1895年(明治28年)12月7日まで在任した。
岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年… 岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年6月15日〉、一説に天保4年4月8日〈1833年5月26日〉 - 1905年〈明治38年〉6月7日)は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和村(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。 幼名を辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。
石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・阪本、幼名・甚七、… 石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・阪本、幼名・甚七、1833年〈天保4年〉 - 没年不明)は、日本の商人・会社役員・慈善家。救恤を致す。 紀州の人。海草郡加太村(現・和歌山市)生まれ。阪本甚右衛門の子である。家は代々網綱を商とし、「十一屋」と称する。成長すると紀泉両州に行商し、網綱を販ぎ1日も懈怠せず、「十一屋」の名が大に揚がる。 安政5年、石橋家を嗣ぐ。当時石橋家の資産は富裕ではなく、僅かに米穀と肥物を商い唯数畝の菜園あるのみであったが、八九郎が励精刻苦、家事を見るとまもなく漸く富裕となった。紀州銀行取締役、南陽肥料取締役などをつとめる。 性格は慈善を好み、救恤を致し、官は褒賞を賜うことになったが、八九郎は固辞して受けなかった。
丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年… 丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年8月1日〉- 1896年〈明治29年〉5月1日)は、日本の実業家、政治家。族籍は静岡県平民。 浜松県民会議員、浜松県民会幹事、静岡県会議員、静岡県会副議長(第2代)、静岡県会議長(第2代)、衆議院議員などを歴任した。 遠江国出身の実業家、政治家である。大井川の渡船解禁により窮乏した川越人足らを救うため、牧ノ原台地への入植を推進した。その結果、牧ノ原台地を茶の一大産地となるまでに育て上げた。製茶業を営んだ。また、政界にも進出し、静岡県会議員や衆議院議員などを歴任した。 1832年8月26日(旧暦天保3年8月1日)、遠江国の城東郡池新田村にて生まれた。
山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年… 山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年11月18日) - 1912年(明治45年)2月25日)は、幕末から明治時代の実業家。 天保2年(1831年)11月18日、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。幼名は文次郎。生家は志義町(現在の仲町)で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業した。以来、武蔵国川越藩の御用達となった。 山崎家は代々「嘉七」を襲名し、文次郎はその4代目であった。15歳で江戸西久保の壺屋に修業し、亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革した。文久2年(1862年)7月に父である先代嘉七が死去すると、文次郎は家督を相続し4代目嘉七を襲名した。
印南 丈作(いんなみ じょうさく、1831年8月23日(天保… 印南 丈作(いんなみ じょうさく、1831年8月23日(天保2年7月16日) - 1888年(明治21年)1月7日)は、江戸期及び明治期の実業家。矢板武とともに那須野が原開拓の功労者として知られる。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。
尾高 惇忠(おだか あつただ、文政13年7月27日〈1830… 尾高 惇忠(おだか あつただ、文政13年7月27日〈1830年9月13日〉 - 明治34年〈1901年〉1月2日)は、日本の豪農、志士、実業家。富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。諱ははじめ惇孝(あつたか)、後に惇忠と改めた。惇忠の読みは「じゅんちゅう」とも。通称は新五郎、号は藍香(らんこう)。 岡部藩領の武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれた。惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一である。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。
粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7… 粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7日(天保元年3月15日)- 1895年(明治28年)11月10日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・桜木注兵衛。 阿波国板野郡五条村(徳島県板野郡五条村、一条村、一条町、吉野町を経て現阿波市吉野町五条)で、地主・桜木忠兵衛の息子として生まれた。10歳で父が死去したため伯父、藍玉商・桜木忠次の後見を受けて成長した。農業より商業を好み大阪で藍玉、砂糖の商いを数年行って、弟・延次郎に家督を譲り大坂に移った。 幕末に剣術を習い、諸藩の浪士と交わり国事に奔走した。明治維新後、名を粟谷品三と改め、幕末に往来した防長諸州の物産を扱う防長物産会社を有志と組織して社長に就任した。
清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(182… 清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(1829年4月7日) - 明治43年(1910年)1月20日)は、武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。母は根岸友山の妹。浅草の「瑞穂屋」として名を馳せたことから、瑞穂屋卯三郎とも呼ばれた。 酒造業を営む清水家の三男として生まれる。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作秋坪に蘭学を学んだ。1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権大使のプチャーチンに会い、臆することなく”ヒアリ・コウ”と声をかけ、返答をもらい、外国では身分の区別なく言葉を交わすことに感激した。今でいう、国際感覚の気性に富んだ人物であったことが窺われる。 1849年(嘉永2年)に江戸に出て、洋学の習得を目指し、佐倉の蘭方医、佐藤泰然のもとで蘭語のABCを教わる。
初代若尾 幾造(わかお いくぞう、1829年(文政12年12… 初代若尾 幾造(わかお いくぞう、1829年(文政12年12月)- 1896年(明治29年)10月10日)は、幕末から明治期の実業家。 甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡在家塚村、現南アルプス市在家塚)で、若尾林右衛門の息子として生まれる。分家して農業に従事した。 商業に興味がなかったが、異母兄若尾逸平の熱心な勧誘を受け、安政6年(1859年)横浜に出て生糸売込業、綿花・水晶・砂糖の取引業に従事。1875年、兄弟で財産を分割して、横浜本町で生糸売込業を開業した。1880年、横浜商法会議所設立に伴い初代常議員となり、1893年、若尾銀行を設立して頭取となった。
水上 善治(みずかみ ぜんじ、1828年8月11日(文政11… 水上 善治(みずかみ ぜんじ、1828年8月11日(文政11年7月1日)- 1898年(明治31年)4月28日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての、富山県東礪波郡平村(現・南砺市)の実業家、政治家。当初は水上善三郎と名のっていたが、1888年(明治21年)に善治と改めた。本稿では便宜上「水上善治」と統一して表記する。 明治維新後に五箇山地域を取り巻く環境が激変する中で、五箇山の殖産興業・交通路の開拓・文化教育の振興に私費を投じて尽力したことで知られる。『平村史』では「五箇山開発・開化の偉大なる先覚者で、その名と業績は不朽である」と評されている。 水上善治は文政11年(1828年)7月1日に高草嶺集落の藤井家に生れ育った後、安政3年(1856年)5月に下梨集落の水上家を継いだ人物である。