初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年… 初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年〉12月15日 - 1993年〈平成5年〉12月24日)は日本の作曲家・箏曲家。本名は宮下 哲郎(みやした てつろう)。三十絃箏の開発者。 群馬県高崎市(当時の群馬郡倉渕村)生まれ。旧制高崎中学を卒業後、熱病が原因で失明。箏曲家をこころざして、東京盲学校師範部音楽科に入学。古曲を初代萩岡松韻、新曲を宮城道雄、作曲を田辺尚雄から学んだ。1948年の「双調の曲」で三曲新作コンクール1位入賞。1953年の「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で 第8回音楽部門芸術祭奨励賞を受賞した。その後も芸術祭で受賞を繰り返した(大賞2回、入賞8回)ことから、「芸術祭男」とのあだ名で呼ばれた。
折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 197… 折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 1972年1月4日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家。 鹿児島県旧川辺郡知覧町(現・南九州市)出身。元衆議院議員の実業家折田兼至の五男。1927年に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業後、東洋音楽専門学校を経て東京高等音楽学院(国立音楽学校)へ進学し、アレクサンドル・モギレフスキーと芝祐孟に師事、1932年に本科卒業。新交響楽団(現・NHK交響楽団)でもヴァイオリンを弾いたが、手首を痛めて鹿児島県に帰郷。失意の中にいたが石井漠舞踊団の後援をしていた兄に誘われ、再上京して入団し舞踊に伴奏するヴァイオリニストとなる。黎明期だった洋楽界の基礎がために尽くす。
古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月1… 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月11日 - 1989年(平成元年)8月18日)は、日本の作曲家。本名は古關 勇治。1969年(昭和44年)、紫綬褒章受章、1979年(昭和54年)、勲三等瑞宝章を受章。
中野 忠晴(なかの ただはる、1909年5月27日 - 19… 中野 忠晴(なかの ただはる、1909年5月27日 - 1970年2月19日) は、愛媛県大洲市出身の歌手・作曲家。服部良一、ディック・ミネとともに、アメリカのポピュラーソングを戦前期の日本に広め和製ポップスの基礎を築く。
貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 193… 貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 1937年11月17日)は、大阪府吹田市、大阪市都島区、兵庫県芦屋市出身の作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。 母の実家である大阪府三島郡吹田町(現:吹田市)の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後にメリヤス業で成功した裕福な大商家である貴志彌右衛門(松花堂弁当の考案者)という環境で育つ。小学校5年生の時に、芦屋市に転居。14歳より、神戸市の深江文化村でミハイル・ヴェクスラーに直接ヴァイオリンを師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨーゼフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。
渡邊 浦人(わたなべ うらと、1909年〈明治42年〉3月2… 渡邊 浦人(わたなべ うらと、1909年〈明治42年〉3月2日 - 1994年〈平成6年〉10月18日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。
海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 197… 海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。 長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。 1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校高等師範科(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。 1938年に「お猿のかごや」で初めてのヒットを記録すると、以後「あの子はたあれ」、「ちんから峠」、「めだかの幼稚園」、「花やさん」、「つばめの旅」、「からすの赤ちゃん」、「やさしいおかあさま」など、数多くの国民的ヒット作品を生みだした。
越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982… 越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982年)は、日本の音楽教育家、作曲家、伴奏ピアニスト。 1931年、東京音楽学校師範科を卒業。和歌山師範学校に教官として赴任する。その後、俳優(芸名・高倉彰)を経て作曲家、伴奏ピアニスト(特に三浦環の伴奏家として著名)として各地で活躍する。第二次世界大戦後は、青山学院高等部に長年勤め、その傍ら同学院大学、短大講師を務めた。教育者としては一級であった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明… 田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明治41年)12月20日 - 1980年(昭和55年)10月14日)は、昭和期の作曲家。妻は作詞家の寺尾智沙、娘は女優の田村奈巳。 京都府中郡峰山町(現京丹後市)出身。家は、現在の田村写真館(京丹後市峰山町白銀)1925年(大正14年)地元の宮津中学校を卒業し上京。武蔵野音楽学校に入学。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震で故郷の家が被災し、財産を喪失。苦学する。 1931年(昭和6年)武蔵野音楽大学を卒業。ビクターレコードから「酔って笑って」を作曲し作曲家デビュー。翌年キングレコードの専属となって松島詩子らの曲を作曲し、さらにポリドールレコードの東海林太郎などにも曲を提供した。
木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985… 木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985年)は、昭和時代日本の作曲家、音楽研究者。 青森県出身。兄は作曲家・民俗音楽収集家の木村弦三。 1908年(明治41年)、弘前市に生まれる。東奥義塾再興後の1回生であり、1933年(昭和8年)に法政大学英文科を卒業した後は小松耕輔、近衛秀麿らの師事を仰ぐ。 1947年(昭和22年)から1969年(昭和44年)まで県立弘前高校の音楽教諭を務める傍ら津軽地方の民謡を採譜・収集し、その成果を合唱曲「津軽の旋律」として1958年(昭和33年)に陸奥新報社より刊行した。作曲家としては元青森県副知事の横山武夫が作詞したものが多く、2代目「青森市民歌」をはじめ県内各地の校歌を数多く手掛けている。
新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月… 新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月 - 1943年(昭和18年)8月)は、日本の作曲家、教師。 1908年(明治41年)、沖縄県恩納村名嘉真にて、瀬喜田、喜如嘉、宜野座、恩納の各小学校長を歴任した正成の長男として生まれる。沖縄県師範学校在学中に、恩師宮良長包と出会う。東京武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)卒業。 1938年(昭和13年)から、福岡県旧制小倉中学校・八幡中学校・門司中学校の教員となる。同年、陸軍省の愛馬進軍歌の作曲募集に応募、約5万件の応募作品の中から、一等に当選。 1943年(昭和18年)、喉頭結核にて35歳没。
服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 200… 服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 2008年8月2日)は日本の作曲家。日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めた。 同姓の服部良一やその息子の服部克久などとの縁戚関係はない。 東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、三井生命保険に入社したが40日で退社。学生時代にはマンドリンクラブに所属。1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。その後、菅原明朗に師事した。 1932年、帝国音楽学校講師となる。 1933年、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
大久保 徳二郎(おおくぼ とくじろう、1908年3月14日 … 大久保 徳二郎(おおくぼ とくじろう、1908年3月14日 - 1974年8月19日)は、日本の作曲家、編曲家、映画音楽家である。ジャズバンドのサックス奏者から転向、作詞家の島田磬也、歌手のディック・ミネとのチームで第二次世界大戦前のテイチクレコードのヒットメーカーだった。 1908年(明治41年)3月14日、東京市本所区(現在の墨田区本所)に生まれる。ジャズのサックス奏者として上海に渡る。帰国後、テイチクレコードに入社、専属バンドで演奏する。このころ結婚し、1936年(昭和11年)、のちに衆議院議員となる大久保直彦が生まれた。 1938年(昭和13年)、日活多摩川撮影所が製作したトーキー映画『指輪のワルツ』(監督吉村廉)の劇伴を作曲をし、映画音楽家としてデビューする。
長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12… 長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1981年〈昭和56年〉5月6日)は、日本の作曲家。 作曲を信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事。1931年東京音楽学校師範科卒業。1933年同研究科作曲聴講生修了、日本ビクターに所属。1937年、宝塚歌劇団作曲部に所属。1938年ドイツに渡り、ベルリン国立歌劇場でオペラを研究し、1940年帰国。1946年、東京音楽学校作曲科教授に就任。1949年、学制移行により東京芸術大学教授となる。1975年、同大学名誉教授となる。1979年、勲三等瑞宝章を受章。1981年、心不全のため死去。 音楽教育に力を注ぎ、著書に『作曲法教程』『大和声学教程』『対位法』などがある。
西田 直道(にしだ なおみち、1907年12月21日 - 1… 西田 直道(にしだ なおみち、1907年12月21日 - 1978年1月9日)は、日本の作曲家、指揮者。 北海道名寄市出身。同志社大学法学部卒業。在学中はマンドリンクラブに所属し、指揮をしていた菅原明朗から和声、対位法、管弦楽法、指揮法を学んだ。また池内友次郎からも対位法とフーガを学んだ。1941年にNHK札幌放送管弦楽団が創設されると、指揮者として招かれた。また札幌大谷短期大学(現在の札幌大谷大学短期大学部)や札幌商科大学(現在の札幌学院大学)などで指導にあたった。 1957年には北海道文化賞を受賞した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 19… 木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 1970年9月27日)は、昭和時代前・中期に活動した日本の作曲家。 本名は木野 文男(読みは同じ)。大分県出身。 1907年(明治40年)、大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)据場で木野政太の八男として生まれる。旧制中学校在学中から『大分詩人』誌へ詩を寄稿したのを始め文芸に造詣が深く、1934年(昭和9年)に大日本音楽協会が皇太子(明仁上皇)御降誕記念で作詞と作曲を懸賞募集した『吾等の日本』で作曲部門の二等に入賞する。この時に一等入選で採用されたのは広島高等師範学校教授で、戦後は木野と同じく原爆を題材とした楽曲を数多く手掛けた山本寿であった。
服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1… 服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1973年8月5日)は、昭和期の日本の作曲家、歌手、作詞家、元アナウンサーである。別名をレイモンド服部、服部レイモンド、服部ヘンリー。なお、同姓の服部良一や服部正との血縁関係はない。 1907年(明治40年)12月3日、神奈川県横浜市出身。若い頃にキリスト教に入信した為、洗礼名をレイモンドという。 1931年(昭和6年)慶應義塾大学文学部卒業後に作曲家としての活動を開始。ハワイへの音楽留学から帰国した1934年(昭和9年)1月に、NHKが初めて行った全国規模でのアナウンサー採用試験に応募し、応募者728名中25名の合格者の1人として入局。
佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - … 佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前から戦後にかけて活躍した作曲家。 福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)。東洋音楽学校(現:東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラムとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。 そして1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒットメーカーとなった。
武政 英策(たけまさ えいさく、1907年〈明治40年〉9月… 武政 英策(たけまさ えいさく、1907年〈明治40年〉9月18日 - 1982年〈昭和57年〉12月1日)は、愛媛県出身の作曲家。代表作『南国土佐を後にして』『よさこい鳴子踊り』などがある。 出生時の姓名は和気政之であったが、武政家の跡を継ぎ、武政政之となった。「政」という字が続くので、東京に出るときに英策と名のりはじめた。15歳で電機学校(現・東京電機大学)に入り、卒業後、就職せずに門馬直衛と山田耕筰に師事。耕筰の助言を受け、23歳で京都で機械設計の仕事に就く。 1937年にNHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者となる。新興キネマの映画音楽監督も務めていたが、戦争が近づき、34歳で大阪大学航空学研究所で低速飛行機やオートジャイロの研究に携わる。
竹岡 信幸(たけおか のぶゆき、1907年(明治40年)7月… 竹岡 信幸(たけおか のぶゆき、1907年(明治40年)7月31日 - 1985年(昭和60年)9月9日)は、昭和期の日本の作曲家。 神奈川県横浜市出身。 古賀政男の後輩にあたり、明治大学マンドリン倶楽部を経て作曲家になった。1934年(昭和9年)、「赤城の子守唄」の大ヒットで一躍人気作家となった。コロムビアレコードを中心に活躍し、数々の曲を作曲した。 夫人は1932年のロサンゼルス五輪水泳代表選手で、のちに宝塚歌劇団(23期生、芸名「水尾みさを」)を経て映画界入りした女優の横田みさを。 1985年9月9日没、墓所は静岡県駿東郡小山町の冨士霊園。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8… 平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8日 - 1953年〈昭和28年〉12月15日)は、日本の作曲家。 東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)生まれ。化粧品業を営む平尾聚泉の四男として育つ。家は裕福であった。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学医学部に進んだが、文学部独文科に転じ、1930年に卒業。大学在学中、ピアノをチャーレス・ラウトロプらに、ソルフェージュと音楽理論をヴァンサン・ダンディ門下の陸軍軍楽隊長・大沼哲に、和声学を弘田龍太郎に師事した。また、卒業して8ヶ月後の11月に戸沢妙子と結婚。 1931年、夫婦でパリへ渡航。始めはスコラ・カントルムでギ・ド・リオンクール(英語版)に作曲を師事して和声学課程を修了したものの、学校紛争に巻き込まれた結果、1935年にリオンクールが創設したセザール・フランク音楽学校(英語版)に転学。
松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2… 松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2001年10月25日)は、日本の作曲家、ピアニスト。 子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれる。母の治子は公爵徳大寺実則の四女。大叔父に内閣総理大臣西園寺公望がいる。 学習院初等科から暁星中学校に進む。16歳のとき生家が没落し、久堅町の邸宅を手放すことを余儀なくされ、父と別居した母に伴われ、妹とともに青山に仮寓。一高入試に失敗して2年間の浪人ののち、慶應義塾大学文学部仏文科に進む。国立音楽学校に転学したが1年ほどで慶應義塾大学に戻り、叔母の学資援助により、大学時代からピアノをチャーレス・ラウトロプに、和声学と対位法と楽式論をハインリヒ・ヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事。
深井 史郎(ふかい しろう、1907年4月4日 - 1959… 深井 史郎(ふかい しろう、1907年4月4日 - 1959年7月2日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。 秋田県河辺郡新屋町(現在の秋田市新屋地区)に医者の三男として生まれる。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を経て、1927年に旧制第七高等学校を卒業。中学校時代に、同校教諭の石田直太郎(同郷の音楽家、石田一郎の父)からレコードを聴かされたことが、西洋音楽と関わるきっかけとなり、主にストラヴィンスキー、ラヴェル、ファリャなどの影響を受ける。 当初は帝国大学理科を志すも、肺病を病んだため断念。療養後、東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)と帝国音楽学校に入学。学校に籍を置きながら菅原明朗に師事する。
小船 幸次郎(こぶね こうじろう、1907年〈明治40年〉4… 小船 幸次郎(こぶね こうじろう、1907年〈明治40年〉4月4日 - 1982年〈昭和57年〉2月17日)は日本の作曲家、指揮者である。 横浜市生まれ。出生時の名は幸太郎。父が横浜の羽衣座という演芸場に関係していたので、幼時は日本音楽と演劇が身近な環境に育った。18歳の頃に作曲を志して独学し、1936年、30歳の時にチェレプニンに指導を受けたのみである。指揮法は15歳の頃より独学し、1937年にローゼンシュトックに師事した。 1932年に八十島外衛らと共に新交響楽団を離れ、横浜交響楽団の旗揚げに踏み切った。 1938年、第6回毎日音楽コンクールに《序曲第1番》が第1位入選、同年新響第2回邦人作品コンクールに《祭りの頃》が入選、日本放送協会募集管弦楽に《組曲第1番》が入選した。
岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月… 岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月19日 - 昭和52年(1977年)10月21日)は、昭和時代に活躍した日本の音楽家(作曲家)。 1929年(昭和4年)、玉川学園教師、1940年(昭和15年) 、日本放送合唱団で指揮を5年とった後、1942年(昭和17年)からは興亜工業大学(現・千葉工業大学)の音楽担当教員(正科目)などを務めた。戦後は国立音楽大学の設立に携わるとともに文部省図書編集委員として、音楽教科書、音楽学習の指導要領の作成に携わった。また日本基督教団讃美歌委員としても活躍。多くの讃美歌を残す。父は組合教会牧師岡本松籟。教会においてオルガンの音を聴きつつ育った。
呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月1… 呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月17日 - 1971年〈昭和46年〉7月1日)は、日本の作曲家である。叔父は小説家の村井弦斎。校歌等、学校歌の作曲なども多く手がけ、代表的なものに日本体育大学の校歌や北海道帝国大学桜星会の歌等がある。 大連で実業家の次男として生まれた。家は代々雅楽を行い、父は篳篥の名人で大連雅楽会長であった。母は箏を奏した。姉はピアノを弾き、チェリストの彭城昌平と結婚した関係で、泰次郎は8歳の頃から義兄にチェロを習った。また泰次郎の家は兄弟7人とも楽器を奏し、一家で合奏することもしばしばであった。 13歳より5年間、ピアノを大連音楽学校長の園山民平に、歌を東海林久子、チェロをスカルスキーに学ぶ一方で作曲を独学し、多くの習作を書いた。
安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年… 安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年9月16日)は、大韓帝国出身の作曲家、指揮者。本貫は順興安氏。 平壌出身。崇実中学校を修了後、1921年に渡日し正則中学校(現・正則高等学校)に入学、その後東京高等音楽学院でチェロを専攻した。 1930年渡米し、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に入学、その後シンシナティー音楽学校でチェロと作曲を専攻した。1936年渡欧してウィーンへ留学し、アジア人で唯一リヒャルト・シュトラウスに学び、現在の大韓民国の国歌である愛国歌を作曲した。1939年、ブダペスト音楽学校に入学し、卒業後指揮者として各国を回り、ウィーン交響楽団、ベルリン交響楽団、ローマ交響楽団、ブダペスト交響楽団で指揮した。
池内 友次郎(いけのうち ともじろう、1906年10月21日… 池内 友次郎(いけのうち ともじろう、1906年10月21日 - 1991年3月9日)は日本の作曲家・音楽教育家・俳人。
細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15… 細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15日 - 1950年〈昭和25年〉8月21日)は、日本の作曲家。東京府出身。男性。 東京牛込に生まれる。「さるやんごとない方の落とし子」「さる帝(明治天皇ではない)のご落胤」(ごらくいん)であったとされる。 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)在学中、梁田貞に作曲を学んだ。1922年4月、東京音楽学校予科に入学。同校本科声楽部(バリトン)に進学し、ハンカ・ペツォールト、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェに声楽を、信時潔に作曲を師事し、1926年3月に卒業。進んで同校研究科作曲部で引き続き信時に師事し、1929年3月に修了した。 1929年、同校研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてウィーン市国立音楽芸術単科大学に5年間留学する。
佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16… 佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16日 - 1963年(昭和38年))は昭和期の歌手、作曲家。 北海道函館市出身。函館商業学校中退。1936年(昭和11年)末より大村能章に声楽を師事した。1937年(昭和12年)9月に発売された「露営の歌」の吹き込みに参加。 戦後は作曲家として活動。デビュー前の三波春夫などを指導した。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
山中直治(やまなか なおじ、1906年1月27日 - 193… 山中直治(やまなか なおじ、1906年1月27日 - 1937年2月13日)は日本の作曲家。童謡「かごめかごめ」を採譜して全国に広めた人物である。31年という短い生涯の中で、200曲以上の曲を残した。 千葉県東葛飾郡梅郷村(現・野田市山崎)出身の作曲家。近隣で歌われていた「かごめかごめ」を採譜し、世に広めた人物。野口雨情、斎藤信夫らとも交流があった。 千葉県野田尋常高等小学校(現・野田市立中央小学校)の教員をしながら童謡の作曲を行った。昭和7年(1932)にコロムビア・レコードの作曲部の専属作家となってからは、『こんこん小山の白狐』(作詞は野口雨情)をはじめ多数の楽曲がレコード化された。昭和12年に31歳という若さでこの世を去ってしまったものの、実に200曲以上も超える作品を作った(未発表も含む)。
金井 喜久子(かない きくこ、1906年〈明治39年〉/19… 金井 喜久子(かない きくこ、1906年〈明治39年〉/1911年〈明治44年〉3月13日 - 1986年〈昭和61年〉2月17日)は、日本の作曲家。旧姓は川平(かびら)。 沖縄県宮古郡(平良市を経て現・宮古島市)で生まれた。父の川平朝儀は沖縄県議。8歳の時には琴を、10歳の時には琵琶を学んだ。沖縄県立第一高等女学校在学中の13歳のときにヴァイオリンを学び、卒業後、1927年日本音楽学校に声楽を学び、卒業後、沖縄音楽を広く知らしめるという志を抱いて1933年に東京音楽学校の作曲科に女性として初めて入学。下総皖一および呉泰次郎に師事した。1936年に同校を卒業後、研究科に進み、1938年に修了した。
海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 19… 海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 1997年6月18日)は日本の作曲家、教育者である。宮城県において音楽教育に尽力した。また、東北地方の多くの学校の校歌や、戦後のラジオ番組において多数の童謡の作曲を手掛けた。三男の海鋒正毅はクラリネット奏者である。 海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。
池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8… 池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8日-1943年(昭和18年)11月27日)は昭和初期の音楽ディレクター、作曲家。38歳で亡くなるまでの僅かな期間であったが、戦前の日本歌謡史に残る抒情的な佳曲を多数残した。その作風はクラシックや海外の音楽を積極的に取り入れたものであり、ワルツやタンゴを好み、編曲も自らによるものが多い。ペンネームは原野為二、金子史郎、池上敏夫などがある。 1905年(明治38年)8月8日、佐賀県に生まれる。祖父は佐賀(鍋島)藩医の池田陽雲、父は蘭学者・医者・技術者の池田陽一。 佐賀県立佐賀中学校(現:佐賀西高等学校)を卒業し上京、東京高等音楽学院(現:国立音楽大学)にて矢田部勁吉、片山禎太郎に師事し、声楽を専攻。
明本 京静(あけもと きょうせい、1905年3月23日 - … 明本 京静(あけもと きょうせい、1905年3月23日 - 1972年10月17日)は、日本の作詞家、作曲家。本名は明本 教成。 青森県黒石市出身。旧制青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、旧制弘前高等学校卒業。東京帝国大学工学部中退。 近衛秀麿に師事し、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)でベートーヴェンの「第九」のテナー独唱者となる。 その後、しばらく鳴かず飛ばずの時代が続いたが、昭和14年(1939年)、朝日新聞社が募集した「皇軍感謝の歌」の当選作、「父よあなたは強かった」の作曲依頼が日本コロムビアに依頼され、専属作曲家12人の競作になり、採用されたのは最も無名に近かった明本の曲であった。
万城目 正(まんじょうめ ただし、1905年1月31日 - … 万城目 正(まんじょうめ ただし、1905年1月31日 - 1968年4月25日)は、日本の作曲家。本名は萬城目 侃(読みは同じ)。 北海道十勝支庁中川郡幕別村(現在の幕別町)出身。 旧制中学校を卒業後に上京し、武蔵野音楽学校で学ぶ。その後一時帰道するが再び上京して松竹楽団に入社し、多くの劇伴を作曲・指揮を担当。1938年の映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」など多くの映画音楽を手がけ、そのほとんどの作品はコロムビアレコードからレコードとして発売され、専属作曲家として長年に渡り活動した。 戦後は映画『そよかぜ』の音楽を担当し、主題歌の「リンゴの唄」は並木路子が歌い大ヒットした。 また歌謡曲では高峰三枝子、美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲し、戦前から多くの歌手や俳優の歌唱指導を担当した経験を活かして1957年には松竹大船撮影所の近くに「万城目正歌謡音楽院」を開校した。
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18… 古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。 1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。
深海 善次(ふかみ ぜんじ、1904年10月 - 1997年… 深海 善次(ふかみ ぜんじ、1904年10月 - 1997年)は、昭和時代日本の作曲家。新潟県出身。 1904年(明治37年)10月、新潟県に生まれる。1924年(大正13年)6月に海軍へ入隊、横須賀鎮守府海兵団軍楽隊へ配属されブラス奏法を修学、首席で卒業した。その後、軍楽隊東京派遣所へ出向し海軍省委託生として東京音楽学校でコントラバス、ピアノ、音楽理論を学び首席で修了する。軍楽隊在籍中は「日本海々戦の想ひ出」「海軍記念日の歌」「精鋭なる我が海軍」他多数の軍歌を作曲・編曲し、1936年(昭和11年)に除隊。 東京音楽学校嘱託を経て1937年(昭和12年)にビクターレコード専属作曲家となり「還らぬ戦友」、描写曲「神風」などを手掛ける。
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashi… 橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。 東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。
高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 200… 高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 2006年8月25日)は、主に昭和期に活躍した日本の作曲家。
末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 19… 末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 1988年7月14日)は、日本の水産学者・随筆家・作曲家。
城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月3… 城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月30日 - 1979年(昭和54年)3月30日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家。 三重県出身。三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)卒業。1929年(昭和4年)東京音楽学校卒業。1931年(昭和6年)東京音楽学校研究科修了。同年イタリアにわたり、1934年(昭和9年)までローマのサンタ・チェチーリア音楽院に学ぶ。船橋栄吉、スコラーリに師事。 1936年(昭和11年)ヴェルディ『レクイエム』で歌手デビュー。同年演奏会形式でヴェルディ『椿姫』アルフレードを歌い、のちベルリオーズ『ファウストの劫罰』や、オペラにも出演。
栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 19… 栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 1981年)は昭和時代日本の作曲家、教育者。静岡大学教育学部教授。 1904年(明治37年)、静岡県磐田郡山香村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。静岡師範学校を経て東京音楽学校第四臨時教員養成所で沢崎定之、下総皖一、貫名美名彦らの師事を仰ぐ。愛知県の知多郡立高等女学校教諭を経て愛媛師範学校教諭となり、1938年(昭和13年)11月に愛媛県庁が提唱した「国民精神作興週間」の一環として初代「愛媛県民歌」を作曲する。1944年(昭和19年)、静岡第一師範学校教諭兼教授。1949年(昭和24年)の新制静岡大学発足に伴い助教授となり、附属幼稚園長を経て1960年(昭和35年)より教授に至る。
長津 義司(ながつ よしじ、1904年(明治37年)3月24… 長津 義司(ながつ よしじ、1904年(明治37年)3月24日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は昭和期の作曲家。 静岡県出身。保険会社勤務後、作曲活動を始め、1936年(昭和11年)ポリドール専属となる。1939年(昭和14年)11月発売の「大利根月夜」が大ヒット。1941年(昭和16年)にテイチクへ移籍し、「十三夜」「君忘れじのブルース」「ふるさとの燈台」「玄海ブルース」「連絡船の唄」「チャンチキおけさ」「大利根無情」「元禄名槍譜 俵星玄蕃」などの作品を作曲。菅原都々子の「月がとっても青いから」では編曲を担当。 『チャンチキおけさ』では『お客様は神様です』というフレーズが生まれ、三波春夫が最後の紅白で歌った曲は「元禄名槍譜 俵星玄蕃」であった。
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
諸井 三郎(もろい さぶろう、1903年8月7日 - 197… 諸井 三郎(もろい さぶろう、1903年8月7日 - 1977年3月24日)は、日本の作曲家。
江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年… 江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年12月8日)は、日本の作曲家、海軍軍人。海軍軍楽隊員。本名江口 源吾(えぐち げんご)。 岐阜県養老郡時村大字上(現・岐阜県大垣市上石津町上)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学し、信時潔の許などでチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。 1931年(昭和6年)に海軍を退役し、翌年、亡妻をしのんで作曲した『忘られぬ花』が松平晃(レコードでは池上利夫)の歌唱により大ヒット。
飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日… 飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日‐1991年(平成3年)8月19日)は昭和期の作曲家、指揮者。妻は女優の夏川静江。娘に女優の夏川かほる。
石井 五郎(いしい ごろう、1903年〈明治36年〉3月15… 石井 五郎(いしい ごろう、1903年〈明治36年〉3月15日 - 1978年〈昭和53年〉1月22日)は、日本の作曲家。舞踊家石井漠の弟。作曲家の石井歓と石井眞木は兄・漠の息子である。 秋田県山本郡山本村(現・三種町)に生まれる。父は同村の村長であった。同地の小学校を出てから上京し、東京の大成中学校(現・大成高等学校)に入学する。同校卒業後、山田耕筰や成田為三のもとで和声学や対位法を学ぶ。1929年、第1回作品発表会を開催する。1930年、新興作曲家連盟の最初の会員となる。1931年に結婚する。1937年9月に渡欧し、主にパリやベルリンに遊学する。1938年7月に日本へ帰国する。 1939年(昭和14年)、毎日新聞音楽コンクールに「田園舞曲」で2位入選する。
伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993… 伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993年2月7日)は、日本の作曲家、トロンボーン奏者。伊藤能矛留のペンネームも用いた。次男はレーシングライダーとして知られ,ヤマハに初の世界GP優勝をもたらした伊藤 史朗。 長野県松本市出身。松本商業学校中退、各種学校アテネ・フランセ卒業。1919年から海軍軍楽隊でトロンボーン奏者として活動。除隊後は山田耕筰率いる日本交響楽協会に参加し、山田に作曲と対位法を師事した。その後、近衛秀麿率いる新交響楽団で首席トロンボーン奏者を務め、そのかたわら菅原明朗に作曲を学び、新興作曲家連盟に参加した。作風はダリウス・ミヨーの多調、アルノルト・シェーンベルクの無調、アロイス・ハーバの微分音、ジャズなどを取り入れた前衛的なものであった。