今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年… 今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1931年〈昭和6年〉)は、日本の教育者(理学士)・外交官。京都府京都中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。 安政2年(1855年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。神童と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14、5才の時に吐酔と改名。 旧暦1871年(明治4年)、福井藩の藩校明新館(旧明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。1972年(明治5年)1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)教授に転じて福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えた(教え子に松本源太郎・土肥慶蔵がいた)。
工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年… 工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年12月)は、明治時代の教育者、化学者、地質学者。開拓使派遣留学生として米国留学し、帰国後に札幌農学校(現・北海道大学)教授(助教)、立教学校及び立教大学校(現・立教大学)教授、専修学校(現・専修大学)教授を務めた。札幌農学校教員時代には、演武場(現・札幌市時計台)の時計保守も担い、運用を開始した。開拓使官員、陸軍通訳官も務めたほか、英語学習書を出版するなど、明治期の英語教育の発展に尽くした。別名、精一郎。 東京生まれ。1872年3月26日(旧暦明治5年2月18日)、17歳の時、開拓使派遣留学生として横浜港から飛脚船「アメリカ号」で米国サンフランシスコへ向けて出航。
錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈18… 錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈1855年2月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は日本の教育者。本名は久美。 竹香は安政元年12月25日(1855年2月11日)、出雲国出雲郡神庭村に生まれた。父・錦織邦臣は神代神社の神官・小学校教師・医者であり、母・登喜は小学校で裁縫を教えていた。竹香は幼いころから手先の器用なことで知られており、とくに絵画は10歳から師に着いて竹の絵を好んで描いたため「竹香」の号を授けられた。 経歴としては1873年(明治6年)に出雲郡第三番小学習字世話係を申し付けられたのに始まり、翌1874年(明治7年)には第二十中学区神庭小学三等助教、さらに翌1875年(明治8年)には同小学兼荘原小学二等助教に就く。
岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(18… 岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(1855年1月25日) - 昭和8年(1933年)5月2日)は日本の教育者、動物学者。分類学的手法に基づく貝類目録を、日本で初めて上梓したことでも知られる。東京帝国大学卒。。 陸奥国弘前(現青森県弘前市) にて、父豊吉、母いちの長男として生まれる。豊吉は貧しい表具師であったが、祖父は国文学者として津軽藩校で教鞭を執っていた。生活苦のため寺に小僧に出されたものの、叔父岩川藤兵衛の伝手を頼り、15歳で藩の海軍局へ入局、機関学を学ぶこととなる。 藩校で英語を学んだ後、当時新設されたばかりの東奥義塾(1872年11月27日創設)にて英語教師に就く。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)… 左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)は、日本の教育者、聖職者。立教学校(現・立教大学)主監、立教中学校初代校長、立教専修学校校長、東京英語専修学校校長、札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)初代校長、私立奈良尋常中学校(奈良英和学校の後身)校長、和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)校長、大阪・英和学舎教授、大阪聖パウロ教会牧師。 1855年(安政2年)6月、名古屋藩生まれ。大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)出身。英和学舎では、テオドシウス・ティングに学んだ。 その後、英和学舎の教員となるが、ティングやアーサー・ラザフォード・モリス、聖バルナバ病院創設者のヘンリー・ラニングら宣教師らに加え、英文学の第一人者の名声を得ていた清水泰次郎、洋行帰りとして大変珍しがられた山中幸平らの同僚教師とともに英語では他を圧倒した。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7… 千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7年5月24日) - 1918年(大正7年)10月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。東京高等師範学校名誉教授。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 1919年(大正8年)6月に、東京高等師範学校(現在の筑波大学)へ千本の旧蔵書192冊が収められ、現在は千本文庫とよばれている。
小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年… 小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年1月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉7月5日)は、明治から大正にかけての日本の教育者。長らく東京盲唖学校および東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)の校長を務め、盲聾教育の発展に尽力した。 1854年(安政元年)に越後で生まれる。戊辰戦争で長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年(明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。 1886年に、文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる。
石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(18… 石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(1854年1月31日) - 大正6年(1917年)10月2日)は、日本の衆議院議員(憲政党→立憲政友会)、弁護士、教育者。 丹後国加佐郡舞鶴出身。丹後田辺藩士の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、大阪兵学寮に入った。その後、法律を学び、1876年(明治9年)に代言規則が発布されると、免許を得て代言人となった。豊岡、大阪で開業した後、1879年(明治12年)に岡山に移住した。 1882年(明治15年)に山陽自由党を結成して自由民権を唱え、1885年(明治18年)には大阪事件の被告の弁護にあたった。その後、大同団結運動がおきると積極的に参加して、岡山に大同倶楽部を組織した。
後藤 牧太(ごとう まきた、1853年11月5日(嘉永6年1… 後藤 牧太(ごとう まきた、1853年11月5日(嘉永6年10月5日) - 1930年(昭和5年)3月25日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者。理科教育の先駆者で、「手工教育の開拓者」と呼ばれる。 三河国宝飯郡出身。1868年(慶応4年)に慶應義塾に入学。翌年、下谷医学校に勤めたが、ほどなく慶應義塾に戻って勉学を続け、後には義塾の教員も務めた。1872年(明治5年)生徒として通っていた英語塾のクリストファー・カロザースを慶応義塾の講師として紹介している。1877年(明治10年)に東京師範学校雇教師、次いで同校訓導となった。1881年(明治14年)には教諭に就任。物理学の著書を多く執筆しており、1885年(明治18年)には、弟子であり当時群馬県師範学校の教諭であった滝沢菊太郎、篠田利英、柳生寧生とともに、簡易器械を用いた実験を中心とする教科書『小学校生徒用物理書』を出版した。
松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独… 松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独語名: Clara Louise Zitelmann〈クララ・チーテルマン〉、1853年8月2日 - 1931年7月18日)は、ベルリン生まれのドイツ人女性で、明治時代の幼児教育者、音楽教育者(ピアノ奏者)。配偶者は農商務省官吏で林学教育者の松野礀(旧長州藩臣)。 ベルリンにて、Carl Friedrich Zitelmann(父)とEmma Pauline Ulrike (Tangermann) Zitelmann(母)の娘として生まれる。姉はEmma Maria Luise Zitelmann(1847年3月23日生)。 フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校を卒業したとされる。
飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日… 飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日(嘉永6年5月24日) - 1927年(昭和2年)8月13日)は、日本の政治家、実業家、教育者。幼名は縫三郎 1853年(嘉永6年)5月24日[要出典]、東海道常陸国の真壁郡上妻村黒駒(旧下妻藩内、現在の茨城県下妻市黒駒)の豪農の子供として誕生した。飯村家はこの地方の豪農として知られ、名主を努めていた。 幼い頃は病弱だったが、1864年(元治元年)に[要出典]天台宗東叡山千妙寺の亮天僧正に預けられる。亮天から「衆生の恩」という教えを受け、一時は僧侶を志すが、両親に連れ戻される。 1865年(慶応元年)大病を患い回復。幼名「縫三郎」を「丈三郎」に改名する。
宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6… 宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6年2月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、日本の農業経営者、教育者、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡江面村(のちの埼玉県南埼玉郡江面村、現:久喜市)で、宮内烈之助、きよ夫妻の長男として生まれる。茅野金陵、中島撫山から漢学を学び、1885年、神田秀親から田宮流剣道の免許皆伝を受けた。農業を営む。 戸長、副区長、学務委員、埼玉県会議員、同参事会員、所得税調査委員などを務めた。1893年、中島端蔵(中島撫山の二男)とともに私費で私立専門学校・明倫館を開設し、のちに館長となり中等教育に尽力した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選。
遠藤 董(えんどう ただし、えんどう ただす、嘉永6年1月2… 遠藤 董(えんどう ただし、えんどう ただす、嘉永6年1月22日(1853年3月1日)‐ 昭和20年(1945年)1月22日)は、日本の教育者。 「鳥取県教育の源流」、「郷土教育の父」とされる。鳥取県立図書館の前身となる鳥取県初の公共図書館を設立した。鳥取県立鳥取盲学校と鳥取県立鳥取聾学校の前身である鳥取盲聾唖学校を設立した。鳥取県立図書館の敷地内には遠藤の銅像(胸像)がある。 嘉永6年1月22日(1853年3月1日)、因幡国鳥取(現在の鳥取県鳥取市材木町)に生まれた。父は鳥取藩士の遠藤重嘉、母は雪であり、董は長男だった。幼名は東造。 文久元年1月(1861年1月または2月)には鳥取藩の藩校である尚徳館に入り、坂田潤蔵の門弟となる。
須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。
雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永… 雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永6年1月5日)- 1911年(明治44年)1月2日)は、明治期の政治家、教育者。衆議院議員、山形県山形市長(第2代)。 出羽国村山郡、現在の山形県山形市で山形藩士の家に生まれる。漢学、英学を修めた。 小学校教員、南村山郡学務委員、戸長などを歴任。山形市助役に就任。濱村勘太郎初代市長の辞職に伴い、1894年(明治27年)12月10日、第2代山形市長に就任し、1901年(明治34年)11月9日まで在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で山形県山形市選挙区より立憲政友会所属で立候補したが次点で落選。1903年(明治36年)3月の第8回総選挙では無所属で出馬して初当選。
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈… 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。 貴族院議員、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長・北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。 「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉… 硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉永5年12月15日) - 1931年(昭和6年)8月30日)は、明治から昭和初期の教育者、政治家。衆議院議員、第5代・10代山口県会議長、山口県玖珂郡伊陸村長、同郡神代村長。旧姓・村岡、旧名・米村平之進。 周防国玖珂郡神代村原(山口県玖珂郡神代村、由宇町を経て現岩国市)で、村岡伝左衛門の三男として生まれる。兄に村岡柳太郎。 米村家の養子となるが、その後、伊陸村の硲家の養子となる。幼くして学問を好み、藩儒の東沢瀉に学び、和漢学を修めた。戊辰戦争では精義隊に入隊し中央隊長として奥羽に出征した。 大阪開成所(のち大阪英語学校)で仏蘭西学を学び、1878年(明治11年)官立大阪師範学校を卒業した。
田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6… 田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6年4月)- 1895年(明治28年)5月8日)は、明治期の農業経営者・教育者・政治家。衆議院議員。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、代々大庄屋を務めた田江家に生まれた。大庄屋を務め農業を営む。自邸内に家塾・択善学舎を設け子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)10月、第64区戸長となり、同年12月、第16区第7小区長に就任。広正社を創立して社長となり地域の金融の便を図った。また、田江製糸の設立、ブドウ園の経営など、地域産業の振興に尽力した。 1884年(明治17年)3月、補欠選挙で鳥取県会議員に当選し、同年7月まで在任した。
櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年… 櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年8月15日) - 1928年(昭和3年)12月12日)は、明治から昭和初期にかけての日本の教育者。 学位制度草創期の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)初代所長、第五高等学校第5代校長。 1852年9月28日(嘉永5年8月15日)、櫻井甚太郎・八百夫妻の長男として加賀国加賀藩金沢馬場一蕃丁に生まれる。父・甚太郎は先妻との間に2人の男子がおり、2人の異母兄を含めれば房記は甚太郎の三男にあたる。母・八百は甚太郎の後妻。1869年(明治2年)、藩費生として開成学校(後の大学南校、現・東京大学)に入学。1870年(明治3年)、大学南校で貢進生に選ばれる。
千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(185… 千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(1852年8月2日) - 明治16年(1883年)11月13日)は、日本の教育者、自由民権運動家。私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者として知られる。 1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現・宮城県栗原市志波姫、北緯38度46分35.1秒 東経141度5分55.7秒)に仙台藩の下級士族である千葉宅之丞と妾のちかの長男として生まれる。3歳のときに母親が千葉家を去り、義母に育てられる。11歳で仙台藩藩校・養賢堂(北緯38度16分6秒 東経140度52分16秒 / 北緯38.26833度 東経140.87111度 / 38.26833; 140.87111 (仙台藩藩校・明倫養賢堂(跡地は宮城県議会議事堂)))にて大槻磐渓に師事。
矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ… 矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ暦1852年8月19日) - 昭和2年(1927年)9月21日)は、日本画家・教育者。 1852年、良吉の三男として備中国賀陽郡服部村(現岡山県総社市)金井戸に生まれた。本名は熊治(くまじ)。改号前は雲岳。字は紫竹園である。 矢吹家は屋号を「天満屋」と称し、この地方では家柄が良く名家であったが、故あって長男竹次郎は分家して、明治22年(1889年)8月18日に熊治が家督を相続し、尾張藩士族、西村竹八郎の二女たきを娶った。 若い頃から画を好み、三好雲仙に学び雲岳と号して、同門の中島雲哉らと親しく交わった。 後年、子息と共に愛知県名古屋市に移住。
沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年… 沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年5月10日) - 明治20年(1887年)3月27日)は、日本のキリスト教牧師、教育者。「保羅」は使徒パウロに由来し、本名は馬之進。日本で按手礼を受けた最初の牧師であり、梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立した。 周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。父は長州藩士沢山源之丞。父源之丞は吉敷毛利家の毛利元一に仕える下級武士であった。同郷に先輩に内務大臣の内海忠勝(豪助)がいる。 1858年に憲章館に入学し、四書五経の漢学、書道、武術、礼式などを学ぶ。同輩が服部一三で、6年後輩が成瀬仁蔵である。1867年(慶応3年)まで憲章館で学ぶ。
神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉… 神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉永5年3月5日) - 1897年(明治30年)8月18日)は、明治時代の日本の音楽教育者。名は仙三郎とも書かれる。 信濃国小県郡芝生田村(現・長野県小諸市)に生まれ、のちに神津家の養子となる。旧姓は小林。小諸藩儒の中山仙に学んだのち上京し、箕作秋坪の三叉学舎、中村正直の同人社で英語を学び、キリスト教に入信した。 1875年、伊沢修二、高嶺秀夫と共に文部省からアメリカ合衆国派遣を命ぜられ、ニューヨーク州オルバニーの州立師範学校に2年間留学。1878年に帰国すると東京女子師範学校訓導兼監事となり、次いで伊沢の元で音楽取調掛監事に就任し、西洋音楽史の講義や教材の日本語訳に努めた。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
貫 元介(ぬき もとすけ、1851年9月29日 - 1890… 貫 元介(ぬき もとすけ、1851年9月29日 - 1890年3月31日)は、日本の教育者、幕末期の長州藩士。立教学校(現・立教大学)初代幹事、立教大学校教頭。立教学校1期生。旧姓、稲田、旧名、勇次郎。 1851年、周防山口藩士の家に生まれる。 明治4年、英学修行のため東京に出て、英国人グレゴリの下で学び、2年間で読法、英会話、地理書、万国史を研究する。 1874年に米国聖公会によって築地に設立された立教学校(現・立教大学)で1期生として学ぶ。第1回卒業生。チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の下で、算術、英国史、地形学、物理学、心理学、修身学、経済学、文明史を研究する。1期生の同期には、岡本鏸太郎、岩谷松平のほか、和田秀豊、岩下清周がいた。
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月2… 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。 1861年(文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年(慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスから英語を学ぶ。
村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851… 村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851年5月1日) - 昭和4年(1929年)10月31日)は、日本の明治・大正期に活躍した日本の教育者・仏教史学者。東洋高等女学校創立者、東京帝国大学印度哲学科初代教授・同名誉教授、大谷大学学長。 明治・大正期の教育界において主として高等教育の充実に尽力。特に、仏教思想・仏教史を近代的学問体系からの批判に耐え得る形で研究するとともに、その成果を自ら整備に関与した公私の諸教育機関において公開した。 1851年(嘉永4年)、丹波国の真宗大谷派教覚寺に生まれた。本姓は広崎。幼時より父について浄土三部経を習い、漢学の才にすぐれるが、生家の寺が貧しかったため近郊の行雲寺(岡村波洲)に預けられた。
柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月… 柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家、教育者。号は天颷。 鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。 鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎、美澤進、鎌田栄吉、神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。
多治見 十郎(たじみ じゅうろう、1851年 - 没年不詳)… 多治見 十郎(たじみ じゅうろう、1851年 - 没年不詳)は、日本の教育者、英学者、聖職者。聖教社教授、聖教社及び聖教社分校女子校の設立届出人、日本聖公会の伝道師。 岐阜県の士族の家に生まれる。文久元年から慶應3年まで7年間、松苗寛一郎に従い、漢学を修める。 1873年(明治6年)から1875年(明治8年)まで、鳴門塾において、英学及び洋算を修める。鳴門塾は通称であり。1872年(明治5年)に鳴門義民が芝露月町に創設した英学と洋算の塾であり、名称は単に英学所と呼ばれていた。 1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで、米国聖公会のチャニング・ウィリアムズに従い、立教学校(立教大学の前身の一つ)で英学及び洋算を修める。
田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6… 田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6年(1917年))は、日本の教育者。 因幡国邑美郡吉方村(現在の鳥取県鳥取市吉方温泉)に田中四郎左衛門の長男として生まれた。 明治7年(1874年)東京師範学校(現在の筑波大学)卒業後、明治9年(1876年)県公立師範学校(現在の鳥取大学地域学部)校長に就任。明治14年(1881年)退職。3年後再び鳥取師範学校に勤務し明治40年(1907年)退職。県教育界のために尽くした。 明治45年(1912年)3月、国幣中社宇倍神社宮司になった。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永… 椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永3年9月4日) - 1935年(昭和10年)9月10日)は、幕末の桑名藩士、明治期の教育者・内務官僚。三重県師範学校長、官選県知事、小樽区長。旧姓・塚田、旧名・丈夫。 江戸八丁堀の桑名藩邸で同藩士・塚田長平の二男として生まれ、同藩士・椿重三郎の養子となる。藩校・立教館で学んだ。戊辰戦争では幕府方として転戦した。その後、桑名に帰るも、1973年に上京して東京師範学校で学び、1874年1月、同校を卒業。 1874年2月、文部省三等訓導任官。1875年9月、度会県師範学校二等訓導に就任。以後、同校監事兼一等訓導、三重県師範学校長を歴任。1880年2月、地方官に転じ三重県四等属となる。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 -… 木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 - 1908年(明治41年)3月2日。)は、明治時代の日本の教育者である。子訥、斉治と名乗り、北村と号した。小学校教員のかたわら仙台師範学校校長をつとめるなど、宮城県で初等教育の確立・充実に尽力した。 仙台藩士・木村景直の長男として、嘉永3年(1850年)5月18日に、木村家の領地である陸奥国桃生郡北村で生まれた。現在の宮城県石巻市北村である。弟が二人いて、木村剛は海軍の軍人、木村匡は台湾総督府の役人になった。妻にたびたび先立たれて4度結婚し、最初の妻との間に力という息子を儲けた。 慶応4年(1868年)、19歳のとき戊辰戦争に従軍し、白河口で戦った。
間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日(18… 間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日(1850年5月6日) - 明治28年(1895年)3月2日)は、駿河国沼津出身の教育者。沼津尋常小学校(現・沼津市立第一小学校)校長。 間宮家は駿河国沼津宿の下本町で本陣を営んでいた家である。嘉永3年3月25日(1850年5月6日)、間宮喜十郎は間宮家の長男として生まれた。生まれ諱は格、通称は喜十郎、後の呼び名は烟雨。父親は間宮喜右衛門。幼少時より聡明だった間宮は、西間門村の實相院の院主である西尾麟角から書法を学び、水野藩士の五十川中に経書を学んだ。 元治元年(1864年)5月には14歳(数え年15)で江戸に出て、林大学頭の門で漢学を学んだ。
伊藤 一郎(いとう いちろう、嘉永3年4月(1850年) -… 伊藤 一郎(いとう いちろう、嘉永3年4月(1850年) - 大正4年(1915年)4月24日)は、日本の政治家、教育者、哲学者である。讃岐国三豊郡財田村(現・香川県三豊市)出身。衆議院議員。 多度津藩の藩校・日新書院助教、同自明館支配などを務める。その後、大区会議員、同議長、愛媛県会議員、四国新道開鑿県相談役などを歴任。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に香川県第5区から立候補し当選し、衆議院議員を1期務めた。哲学に精通し、著書も多い。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2… 押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2年12月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月10日)は、日本人のキリスト教宗教家、教育者。東北学院及び宮城学院の創立者。日韓同志組合代表者の一人。新島襄、本多庸一、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清。 NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の登場人物・松浪毅のモデルである。 押川方義の生年に関しては諸説あったが、押川家の鎧櫃から「熊三郎 産髪包紙銘記 嘉永二年十二月五日出生 熊三郎産髪」 と記された和紙が発見され(実際に産髪が包装されていた)、嘉永2年生まれ(グレゴリオ暦への換算では1850年)であることがほぼ確実となった。
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永… 河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。 刈谷市熊野町の安養寺には石碑「河目正平先生之碑」がある。 1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。 刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた。
美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年1… 美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1923年(大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。字は業卿。 備中国三沢村(後の岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。
石坂 専之助(專之助、いしさか / いしざか せんのすけ、1… 石坂 専之助(專之助、いしさか / いしざか せんのすけ、1849年9月14日(嘉永2年7月28日)- 1915年(大正4年)10月6日)は、明治期の教育者、公吏、政治家。衆議院議員、富山県会議長。旧姓・嵯峨。 越中国新川郡東岩瀬村(石川県新川郡東岩瀬村、富山県上新川郡東岩瀬町を経て現富山市)の伝馬問屋・嵯峨健寿の三男として、金沢十三間町(現金沢市)で生まれた。その後、新川郡栗山村(中新川郡早月加積村栗山、滑川町を経て現滑川市 )の石坂太郎左衛門の養子となる。 1869年(明治2年)大学南校に入学。卒業後、大学少助教、慶應義塾教授、文部省出仕、同人社教授を歴任したが、1877年(明治10年)病のため帰郷した。
加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(184… 加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(1849年6月21日) - 昭和10年(1935年)6月17日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏、警察官、教育者、銀行家である。号は六石。 若松城下に生まれる。藩が戊辰戦争に敗れたのち、青森中学の助教となる。次いで警察官となり、千葉県警察署長に就任。明治9年(1876年)、同藩出身の永岡久茂らが萩の乱に呼応して挙兵を図り千葉へ向う途中で乱闘となり検挙された(思案橋事件)。これは千葉に加藤ら会津藩出身の警察官がいたため、永岡は加藤らの協力を期待して千葉での挙兵を計画したといわれる。 翌年生起した西南戦争において加藤は抜刀隊小隊長となり歴戦している。
山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月2… 山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)10月7日)は、日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。 福井藩の藩医・山脇立樹の長男として生まれる。福井藩の医学校・済生館で学んだ後、長崎に遊学して蘭学を学んだ。 1870年(明治3年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学び、日本人として初めてドイツ政府よりドクトルの称号を授与された。 1877年(明治10年)5月に帰国。同年8月、司法省御用掛となり民法編纂掛分科詰に配属された。以後、司法権少書記官兼太政官権少書記官、太政官権少書記官、参事院議官補・法制部、法制局参事官、兼行政裁判所評定官、法制局第一部長、行政裁判所評定官、同裁判所部長などを歴任し、大日本帝国憲法・皇室典範の草案・起草にも参画した。
永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう… 永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう、1849年〈嘉永2年〉3月3日 - 1924年〈大正13年〉2月24日)は、日本の教育者。北海道の先住民族であるアイヌのために建立された釧路市の春採小学校において、開校間もない頃からアイヌの児童たちの教育の心血を注いだ。また、アイヌを差別や貧窮から救済するために、児童の教育、住民たちの生活環境の双方から改善を目指し、アイヌたちの生活向上を支援した。その献身的な精神により、春採のアイヌの人々からの尊敬と信頼を集めた。漢詩人でもあり、アイヌの儀式(イオマンテ)をもとに描いた『送熊行』は大きな反響を呼んだ。 磐城国刈田郡宮村(後の宮城県蔵王町)で誕生した。