鬼 俊英(おに としひで、1914年〈大正3年〉6月3日 -… 鬼 俊英(おに としひで、1914年〈大正3年〉6月3日 - 1946年〈昭和21年〉)は昭和期の歌手。 福岡県山門郡山川村立山(現在のみやま市山川町立山)出身。神奈川県立湘南中学校を経て立教大学経済学部卒業。在学中は水泳選手としても活躍した。1939年(昭和14年)10月1日にテイチクから歌手デビュー。テイチクレコード盤の「空の勇士」、興亜行進曲など戦時歌謡中心に吹き込む。1941年にはキングレコードへ移籍。終戦後の1946年(昭和21年)、闇市に出回っていた航空機用のメチルアルコールを飲用し急逝。 妻は同じく昭和期の歌手である生島清美。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
井口 小夜子(いぐち さよこ、1914年(大正3年)4月17… 井口 小夜子(いぐち さよこ、1914年(大正3年)4月17日 - 2003年(平成15年)11月9日)は昭和期の歌手。東京市神田区出身。本名は田沼とみ子(旧姓:井口)。 生家は東京・神田の文具店。東京市立忍岡高等女学校1年生のときの音楽講師は四家文子だった。武蔵野音楽学校に進み、卒業の頃、大日本雄弁会講談社のレコード部(のちのキングレコード)の歌手募集に応募し、「赤城の子守唄」を歌って合格。専属歌手第1号となった。 童謡歌手として1935年(昭和10年)キングレコードより「ベゴニアの花」でデビュー。1939年(昭和14年)、武蔵野音楽学校本科声楽部を首席で卒業し、キングレコードより「乙女十八」で歌手デビュー。
本居 貴美子(もとおり きみこ、 1914年(大正3年)3月… 本居 貴美子(もとおり きみこ、 1914年(大正3年)3月28日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、日本の歌手。父は作曲家の本居長世。童謡歌手の本居みどりは姉である。 本居長世の次女として生まれた。昔から父の影響で人の前で歌う機会が多かった。頌栄高等女学校を卒業した。 本居長世作曲の「赤い靴」、「青い眼の人形」などがある。
志村 道夫(しむら みちお、1914年(大正3年) - 没年… 志村 道夫(しむら みちお、1914年(大正3年) - 没年不詳)は昭和期の歌手。『南から南から』の作曲者で知られる吉田信(加賀谷信)の実弟。本名は吉田義八郎。 兵庫県神戸市元町出身。関西学院中学部、国立音楽学校、日本高等音楽学校に在籍した。学生時代は、テニス選手として活躍。上京後、当時ビクターで作曲活動をしていた兄・吉田信(別名:加賀谷伸、塙六郎)の紹介で、声楽家徳山璉の門下となる。 1935年(昭和10年)ニットーのジャズ用レーベルだったクリスタルレコードからデビュー。初期の服部良一作品「流線型ジャズ」など、主にジャズ調の曲をレコーディングした。ニットーがタイヘイに吸収合併された後は、一時、マイナーレーベルからもレコードを出していた。
香取 みほ子(かとり みほこ、1914年(大正3年) - 2… 香取 みほ子(かとり みほこ、1914年(大正3年) - 2001年(平成13年))は、昭和期の歌手。本名は小島チエ(旧姓:大蔵)。 東京出身。東洋英和女学校卒業後に東京音楽学校に入学。荻野綾子とヘルマン・ヴーハープフェニッヒに声楽を師事し、1937年(昭和12年)3月に同校本科声楽部(ソプラノ)を卒業。その後、コロムビアレコードから歌手デビューした。「愛国行進曲」や「紀元二千六百年」の吹き込みに参加する。 2001年、88歳で死去した。命日は明らかになっていない。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月1… 近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉)は昭和期の歌手、作曲家。本名は、釜田 俊雄。妻は、戦前キングレコードで活躍したミッキー松山こと松山映子(1912年‐2006年)。 新潟県佐渡郡沢根町(佐和田町を経て現在の佐渡市)出身。佐渡中学校、武蔵野音楽学校卒業。1936年(昭和11年)キングレコードから「あの夢この夢」でデビュー。「ああ我が戦友」や「男なら (軍歌)」などがヒット。その後応召により出征する。 戦後は作曲に転向し、鎌多俊与の名で作曲家として活躍。1956年(昭和31年)、三橋美智也の「哀愁列車」が大ヒットとなった。その他、若原一郎「風の吹きよで」、春日八郎「玄海船乗り」、「居酒屋」、三橋美智也「俺ら炭鉱夫」などを作曲した。
江戸川 蘭子(えどがわ らんこ、1913年(大正2年)11月… 江戸川 蘭子(えどがわ らんこ、1913年(大正2年)11月13日 - 1990年(平成2年)11月5日)は、昭和期の歌手、女優。本名は大宮 まつ、竹澤 まち子。 東京市出身。1930年(昭和5年)日劇音楽舞踊学校卒業。多摩川京王閣を経て、1932年(昭和7年)10月、松竹歌劇団(SKD)に入団。歌劇「ロザリア姫」等で人気を得る。1936年(昭和11年)退団。 1933年(昭和8年)コロムビアからデビュー。タンゴを多く唄い、「タンゴ・ローザ」、「ラ・クンパルシータ」などを吹き込む。戦争に突入するにつれ、戦時歌謡を多く吹き込んだ。「たそがれの湖」や「ロッパのガラマサどん」、「船出は楽し」など東宝映画に出演する。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 200… 市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 2004年11月18日)は、日本の映画女優、歌手。出生時本名は同じ、結婚後の本名は加々良 春代(かがら はるよ)。戦前のサイレント映画時代から始まり、トーキー期に実力を発揮し、戦後も長く現役の女優だった。 1913年(大正2年)2月9日、長野県長野市の善光寺門前の西後町に、弁護士の父・喜一、母・きんの二男二女の次女として生まれる。県庁や裁判所の至近の地だった。 1919年(大正8年)、長野県師範学校附属小学校(現在の信州大学教育学部附属長野小学校)に入学。1924年(大正13年)8月3日に父が死去、同校を高等科2年で中退して、叔父が懇意にしていた日活の取締役根岸耕一の紹介状を持ち、13歳になった1926年(大正14年)6月16日に日活大将軍撮影所に入社した。
由利 あけみ(ゆり あけみ、1913年(大正2年)1月28日… 由利 あけみ(ゆり あけみ、1913年(大正2年)1月28日 - 2010年(平成22年)1月25日)は、昭和期の歌手、声楽家(メゾソプラノ、アルト歌手)。本名・窪谷梅子(旧姓・加藤)。 広島県出身。高等女学校卒業後、建築家を目指して日本女子大学に進むが、兄の勧めで東京音楽学校を受験して合格、同校卒業。卒業後は女学校の教師になるが、歌手に転向する。 1936年(昭和11年)デビュー。1937年(昭和12年)コロムビアレコードに入り「夜のセレナーデ」で歌謡界にデビュー。間もなく移籍したテイチク時代のヒット曲としては、「歌の慰問袋」、「黒いパイプ」などがある。 1939年(昭和14年)ビクターレコードに移籍。
松前 ピリカ(まつまえ ピリカ、1913年 - 1976年)… 松前 ピリカ(まつまえ ピリカ、1913年 - 1976年)は、北海道平取町出身の民謡歌手。本名、平村花子。 ピリカ(pirka)はアイヌ語で「美しい」「良い」という意味。 平取小学校を卒業後、17歳で芸能の道を志し、旅芸人の一座に参加し、ピリカ花子と名乗った。20歳から松前ピリカを名乗った。家族については詳しい記録が限られるが、民謡歌手の初代浜田喜一に関する伝記的記述では、浜田が二代目玉子と結婚する際に「松前ピリカ夫妻」が仲人を務めたとされる。この記述からは配偶者の存在がうかがえる。美声で知られ、「松前ピリカ一座」を主宰し数十名の団員を引き連れ、各地を巡業し、一世を風靡した。また、津山洋子・高樹一郎らの後輩を養成した。
滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 19… 滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 1949年8月6日)は、昭和時代の声楽家。 東京府立第二高等女学校を経て、東洋音楽学校(本科声楽科)卒。ソプラノを専攻。日本ビクター入社後、同社合唱団の一員となり、1936年(昭和11年)からビクター専属歌手としての経歴が始まる。藤原歌劇団のプリマドンナとして活躍したが、三十代で病没した。 父は総合雑誌『中央公論』の名編集者として知られる滝田樗陰で、その三女。滝田菊江の「デビューのときは、かつて樗陰の庇護を受けた文壇大家が、こぞって後援したので、舞台より客席のほうが豪華版だと評判になった」という。 1943年の東宝映画「音楽大進軍」(渡辺邦男監督)に藤原義江(本人役)の妻という設定で出演していて、藤原義江とともに「愛国行進曲」とプッチーニ「トスカ」二重唱を歌唱する姿を見ることができる。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。
古関 金子(こせき きんこ、1912年(明治45年)3月6日… 古関 金子(こせき きんこ、1912年(明治45年)3月6日 - 1980年(昭和55年)7月23日)は、日本の声楽家、詩人。旧姓、内山。夫は、作曲家の古関裕而。 1912年(明治45年)、内山安蔵・みつの六女として、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)に生まれる。家族は、長兄と女性10人(うち、長女・次女・三女・八女は早世)。父・安蔵は、豊橋市に駐屯していた陸軍第十五師団に蹄鉄・馬具・蹄油などの物資を納入する「内山安蔵商店」を営んでいたが、金子が12歳の時(1924年(大正13年)10月3日)に死去。その後は母親が家業を引き継ぎ、子育てをした。 金子は、幼い頃からお転婆で、音楽と文学が好きでオペラ歌手を目指していたという。
春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - … 春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - 1995年(平成7年))は昭和期の歌手である。 東京都出身。東京音楽学校卒業。 1932年(昭和7年)デビュー。キングレコードなどで昭和初期に活躍。次の歌などを歌唱した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 19… 高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 1998年5月19日)は、日本の俳優、歌手である。本名:梶浦 武一(かじうら たけいち)。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られる。次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、孫は同じく俳優の大浦龍宇一である。また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母である(寺田の娘が大浦と結婚したため)。 1911年(明治44年)11月7日、兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生まれる。 1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。
横田 良一 (1911年9月10日 - 1936年1月10日… 横田 良一 (1911年9月10日 - 1936年1月10日)は戦前に活躍した、日本の男性歌手である。 「天草小唄」「アリランの唄」などのヒット曲がある。本名は中道實穂。
灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 19… 灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 1982年10月26日)は、日本の歌手、ウクレレ奏者。本名及び幼名:灰田 稔勝(はいだ としかつ)。ハワイアンやヨーデル、流行歌で、第二次世界大戦前後に数々のヒット曲を飛ばして一世を風靡した昭和を代表する流行歌手である。伸びのある裏声が特徴で、日本の流行歌に都会の香りを持ち込んだ。また、映画俳優としても華々しく活躍した。作曲家でスチールギター奏者の灰田晴彦は兄(のちに有紀彦に改名)。 保谷市(現:西東京市)を気に入り、居を構えていた。 灰田稔勝(のちの勝彦)は、明治政府の移民政策によって広島(現:広島市南区)からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として、ハワイのホノルルで生まれた。
松平 晃(まつだいら あきら、1911年6月26日 - 19… 松平 晃(まつだいら あきら、1911年6月26日 - 1961年3月8日)は、昭和期の流行歌歌手。本名は福田恒治(ふくだつねはる)。 SPレコード歌謡の揺籃の時代から全盛期にかけて、「佐賀っぽ」という気質を前面に出し、青春のブリリアントな美質と野放図な大胆さでスターダムにのし上がった。芸名の「松平晃」は「松平の殿様のように豊かな生活がしたい」との思いからつけたとの説がある。 一方、歌以外でも機械いじりを得意とし、スポーツカーを乗り回し、自分で録音器を作って公演先からボイスレターを送ったり、テーブルマジックに長けていたりと意外かつ多彩な才能の持ち主でもあった。 同時期にデビューした歌手の楠木繁夫とは親友であり、1956年(昭和31年)に楠木が自殺した際には、涙ながらに「女の階級」を歌い出棺を見送ったという。
長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日… 長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日 - 1994年(平成6年)11月11日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、オペラ歌手、翻訳家(訳詞家)、歌劇団主宰者・総監督、オペラ演出家。本名は鈴木 美保。 福岡県若松市(現: 北九州市若松区)出身。3歳の時、家族とともにドイツに渡り、幼時をドイツで過ごす。小学校1年のとき帰国し、日本女子大学附属豊明小学校に半年遅れで編入。日本女子大学校附属高等女学校を経て、東京音楽学校に入学。在学中に東京音楽学校春期演奏会におけるマーラーの交響曲第2番(指揮: クラウス・プリングスハイム)のソリストとなる。1933年(昭和8年)同校を卒業し研究科に進む。
浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7… 浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7日-1997年(平成9年)1月20日)は昭和期の芸者歌手。本名は大竹ハルイ。 1911年(明治44年)5月7日、新潟県沼垂町で生まれる。家業が傾いたため福島県会津で芸者となったが、新潟に戻り15歳の6月、芸者置屋「村上家」から「〆香」と名乗って再び芸者になる。その後、新潟村上家〆香の名でコロムビアやリーガルなどで新潟県民謡を吹き込む。映画監督の斎藤寅次郎や小津安二郎らに見出され、1933年(昭和8年)、浅草〆香の名でポリドールから「柳の新潟」「雨の大川端」でデビュー。「東海の顔役」、「流れ三味線」、「大陸夫婦囃子」、「梅雨小袖昔八丈」などを吹き込む。
中原 多代(なかはら たよ、1911年(明治44年)5月 -… 中原 多代(なかはら たよ、1911年(明治44年)5月 - 没年不明)は、日本の声楽家・歌手、発声法の研究者。西洋音楽・邦楽両方の歌唱にわたる研究・実践を行い、その活動が「歌詞を大切にしている声楽家」と評されている。また、日本人の特性を活かす発声法を科学的に研究し、それを生かしたボイストレーニングも行っていた。 1911年5月 横浜に生まれる。 幼少の頃から邦楽の稽古に励む一方で、家には大型オルガン・アップライトピアノ・電蓄があった。また、叔父がヴァイオリンを弾き、叔母が賛美歌を歌う一方、母は箏・三味線と、邦楽・西洋音楽の両方から影響を受けた。 1923年の関東大震災の際、神奈川県立第一高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)から文化学院に転校後、同校卒業。
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 198… 松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。 1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽区(現・小樽市)生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)在学中、1933年(昭和8年)、コロムビアから「ミス・コロムビア」という覆面歌手として『浮草の唄』でデビューする。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために宣伝の写真にも目隠しをして彼女をデビューさせた。
秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月2… 秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月20日 - 1988年〈昭和63年〉11月)は日本の歌手、教育者。 岡山県岡山市広瀬町出身。東京音楽学校を卒業後も声楽の研究を続けるつもりでいたが、山田耕筰の推薦でコロンビアレコードに入り、青山 薫(あおやま かおる)の芸名で歌手として活動する。青山薫の芸名は西條八十によるものである。流行歌歌手を引退後はクラシック界に復帰し、バリトン独唱者として活躍した。1948年(昭和23年)には大阪音楽大学に声楽部長、教授として招かれ、教鞭をとった。 その後大学を退いて新設音楽大学の設立を計画するもかなわず、1951年(昭和26年)4月からは兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市)に居を移し、兵庫県立山崎高等学校で教鞭をとる。
有島 通男(ありしま みちお、1911年〈明治44年〉1月1… 有島 通男(ありしま みちお、1911年〈明治44年〉1月18日 - 1955年〈昭和30年〉)は昭和期の歌手。本名赤尾松三。 石川県金沢市出身。金沢第二中学校を経て1934年(昭和9年)東洋音楽学校卒業。 1934年(昭和9年)9月テイチクレコードからデビュー。「春まだ浅く」、「酒の中から」などのヒットで知られる。1936年(昭和11年)10月にコロナレコードの創設に参加。レコーディング数は多かったものの、コロナの倒産により、翌1937年(昭和12年)7月親会社のポリドール・レコードに移籍。「蒙古旅愁」など数曲が発売されるが、1940年(昭和15年)2月にタイヘイレコードに移籍。1942年(昭和17年)にタイヘイがキングに買収された後は、古巣テイチクに戻り、終戦直前まで「子宝ぶし」などがリリースされている。
日本民謡名人位 ・初代浅野 梅若(あさの うめわか、1911… 日本民謡名人位 ・初代浅野 梅若(あさの うめわか、1911年 - 2006年8月4日、本名・浅野 保二(あさの やすじ))は、秋田県秋田市出身の日本の民謡歌手、三味線奏者。 秋田県由利郡大正寺村神ケ村(後に、河辺郡大正寺村、河辺郡雄和村、河辺郡雄和町を経て、現在は秋田市雄和神ケ村)生まれ。「民謡王国・秋田」を確立させた。秋田民謡界のみならず、日本民謡界の大御所であった。日本民謡梅若流梅若会の初代宗家。 1962年に内弟子として迎え、民謡日本一となった二代目浅野梅若(旧名・浅野和子)は養女(1973年より)であり、梅若流梅若会の現宗家。2代目梅若の夫は、梅若芸能企画の代表者で、梅若流大師範、秋田県民謡協会公認教授、三味線・尺八奏者の梅若梅貢、その長女は同じく大師範、秋田県民謡協会公認助教授の浅野江里子、同長男は同名取大師範、秋田県民謡協会公認助教授で梅貢の直弟子に当たる三味線奏者の梅若鵬修である。
樋口 静雄(ひぐち しずお、1911年(明治44年) - 1… 樋口 静雄(ひぐち しずお、1911年(明治44年) - 1973年(昭和48年)1月24日)は、昭和期の歌手。 大分県日田市出身。1937年(昭和12年)、キングレコードから「満州娘」でデビュー。同年、林伊佐緒、近衛八郎と吹き込んだ「男なら」がヒットする。 彼はアメリカで流行していたクルーナー唱法を何とかして歌謡曲に取り入れようとするが、時局上軍歌などに押され、上手く発揮することは出来なかった。 1939年(昭和14年)、支那(中国)手品師を主人公にして片言の日本語で歌う、ユーモア歌謡「チンライ節」が大ヒットする。このレコードは数万枚が軍部に買われ、大陸戦線に配布されたという実績を持っている。
金海松(キム・ヘソン、김해송、1910年12月 - 1950… 金海松(キム・ヘソン、김해송、1910年12月 - 1950年)は、日本統治時代の平安南道价川市出身の作曲家および歌手。本名の金松奎としても知られる。作曲家としての代表曲『連絡船は旅立つ』(연락선은 떠난다)は、日本では菅原都々子が『連絡船の唄』としてカバーしたもので知られる。その時の名義は金山松夫。東洋大学卒。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10… 渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後の日本の歌謡界で活躍した女性流行歌手。神奈川県横浜市平沼出身。本名 加藤 濱子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。 横浜生まれで、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。女子師範学校の英語教師、渡辺近蔵(?- 1941年9月19日)と鞠(?- 1955年5月15日)の次女として生まれた。兄と姉がいた。マリの祖父が日系アメリカ人だった。1929年(昭和4)捜真女学校普通科卒業。後に川崎市に転居し、御幸尋常小学校(現在の川崎市立御幸小学校)に入学したが、3年生のときに父の勤務する横浜の女子師範学校の付属小学校に転校する。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年… 波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年)9月27日 - 1951年(昭和26年)12月10日)は、青森県八戸市出身の歌手。 青森県八戸市の大地主の息子として生まれるが、歌手になるために親の反対を押しきって東洋音楽学校に入学する。1936年(昭和11年)同校卒業後、日本劇場に出演などを経て、1937年(昭和12年)ビクターよりデビュー。「皇軍大捷の歌」、「かちどきの歌」、「大陸行進曲」、「日の丸行進曲」、「興亜行進曲」、「空の勇士」、「国民進軍歌」など、戦時歌謡を多く吹き込む。 1942年(昭和17年)にビクターのトップ歌手だった徳山璉が亡くなった事から、その後ビクターの戦時歌謡は波岡に回って来ることが多かった。
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1… 小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏む。 その後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、水の江滝子やオリエ津阪の相手役を務め、1936年に退団するまで、「タンゴローザ」「ウィンナワルツ」「蝶々夫人の幻想」等、多くの歌劇に出演する。 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビューを果たした。
伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日… 伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日 - 1983年(昭和58年)4月25日)は日本の歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。 本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。 生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。
小野 巡(おの めぐる、1910年(明治43年)3月18日 … 小野 巡(おの めぐる、1910年(明治43年)3月18日 - 2009年(平成21年)6月22日 )は、山梨県甲府市出身の元・歌手。本名は章高。妻は元・歌手の大宮小夜子。 東京・新宿の淀橋署の巡査だったが、大久保の銭湯で藤原義江の「鉾をおさめて」を唄っていたところを作曲家細田義勝にスカウトされる。当時、警察官は5年の奉職という規定があったため神経衰弱という理由で退職した。他にも、巡査から歌手になった人物にキングレコードの筑波高がいる。 1935年(昭和10年)にビクターレコードから「祖国の護り」でデビュー。芸名の小野巡というのは、巡査の巡からとられた。1936年(昭和11年)に「守備兵ぶし」がヒット。
松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 … 松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 - 1999年(平成11年)1月27日)は、昭和初期の歌手、教育者。本名は柳 歳一(やなぎ としかず)。 山口県小野田市(現山陽小野田市)生まれ。1932年(昭和7年)、東京音楽学校在学中にレコード歌手としてデビューし、パーロホン・リーガルレコード・オーゴンレコードなどにアルバイトとして吹き込んだ。1933年(昭和8年)、高橋掬太郎が作詞しパーロホンから発売した「片瀬波」が大ヒットし、パーロホンがコロムビアに吸収合併された後もリーガルレコードより再発売された。 歌手活動の期間を通して、ステージにも放送にもただの一度も出演しなかったため、長らく素性は謎であった。
大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 19… 大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 1986年)は、日本の歌手(民謡歌手)。本名は大久保 里喜(おおくぼ りき)。 大島里喜は、東京都・伊豆大島・大島町の民謡「大島節」や「あんこ節」の歌い手、第一人者で、大島節を日本全国に広げ、伊豆大島の観光資源化に寄与貢献した。また、大島民謡という郷土芸能・郷土文化を、後世に口承・伝承する役目を担った。大島御神火太鼓を創始したのも大島里喜である。 1909年(明治42年)、11月15日、大島里喜(本名・大久保里喜)は、東京都伊豆大島・元村(現在の大島町・元町)に生まれる。父・大久保虎吉、母・柳瀬志げ(伊豆大島志考記載)。 1925年(大正14年)、唄の神様と言われた柳瀬シズに唄を勧められ、大島民謡を本格的に習い始める。
水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 19… 水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 1978年2月25日)は、日本のジャズボーカリスト。鹿児島県出身。本名は永田喜子。立教高等女学校卒業。トニー相良名義でも活動していた。 日本のジャズ草創期を代表する女性ボーカリスト。また自らも歌手として活動する一方で、1957年には「水島早苗ボーカル研究所」を設立して後進の育成にも取り組み、弟子にはマーサ三宅、金子晴美、佐良直美、前野曜子、伊集加代らがいる。 死後の1985年には、ジャズ専門紙『ジャズワールド』が水島の功績を称える意味で「水島早苗ジャズヴォーカル賞」(現在の日本ジャズヴォーカル賞)を創立するなど、その功績は高く評価されている。
田中 路子(たなか みちこ、1909年7月15日 - 198… 田中 路子(たなか みちこ、1909年7月15日 - 1988年5月18日)は、日本の女優、声楽家。生涯の半生以上を欧州で過ごした。「MICHI」の愛称でドイツ語圏で有名だった。 1909年に、東京府神田区(神田鈴木町17)で日本画家・田中頼璋の一人娘として生まれる。17代目中村勘三郎とは根岸小学校の時に同窓だったことがある。小学校卒業後文化学院に入学したが、雙葉高等女学校(現雙葉中学校・高等学校)に転校。関東大震災後に母方の実家がある広島市へ移り、広島英和女学校(現広島女学院中学校・高等学校)に転学した。当時の音楽教師は杉村春子だった。広陵中学(現・広陵高校)のエース銭村辰巳に初恋をした。4年後帰京し、東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学。
中野 忠晴(なかの ただはる、1909年5月27日 - 19… 中野 忠晴(なかの ただはる、1909年5月27日 - 1970年2月19日) は、愛媛県大洲市出身の歌手・作曲家。服部良一、ディック・ミネとともに、アメリカのポピュラーソングを戦前期の日本に広め和製ポップスの基礎を築く。
小林 重四郎(こばやし じゅうしろう、1909年3月8日 -… 小林 重四郎(こばやし じゅうしろう、1909年3月8日 - 1996年6月6日)は、日本の俳優、歌手。本名は小林 義雄(こばやし よしお)。 神奈川県横須賀市汐入町出身。日本映画俳優学校卒業。新国劇出身。中里事務所に所属していた。 1924年、劇団「宝塚国民座」に入り、『砂絵呪縛』で初舞台を踏む。 1929年、日活に入社し『雲井竜雄』で映画デビュー。その後、松竹下加茂に移籍するが、1935年、再び日活へ復帰。映画『国定忠治』の劇中歌を唄い評判を得、ポリドールよりレコードも発売。歌う映画スターのはしりとなる。 1938年、一座を結成し、舞台俳優に転じ、テイチクレコード専属歌手としても人気を得る。
児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 198… 児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 1986年10月20日)は、日本の歌手、教育者。 1909年(明治42年)1月28日、広島県広島市向洋(現:広島市南区向洋新町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一中学校(現:広島国泰寺高校)を1年で中退し、15歳になる1924年(大正13年)に渡米しパシフィック大学音楽科で学び、7年間をアメリカで暮らす。21歳になる1930年(昭和5年)の帰国後、日本青年館で音楽会を開催する。その後、イタリアに留学し、在欧5年でオペラを本格的に学んだ。1933年(昭和8年)、ミラノ音楽院を修了。 帰国後、25歳になる1934年(昭和9年)、ビクターの専属となる。
ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10… ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は、徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(みね こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした。また、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ… 上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ)、1908年〈明治41年〉8月26日 - 1944年〈昭和19年〉7月29日)は、秋田県出身の歌手。 戦前に活躍した流行歌手で「妻恋道中」「裏町人生」などのヒット曲を持つが、第二次世界大戦で行方不明(のちに死亡認定)となった。最終学歴は専修大学卒業。 1908年(明治41年)に秋田県北秋田郡大館町(現:秋田県大館市)の商家「ネリヤ」で生まれる。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場している。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し、4年生では主将を務めた。
結城 道子(ゆうき みちこ、1908年(明治41年)6月13… 結城 道子(ゆうき みちこ、1908年(明治41年)6月13日 - 没年不明)は昭和期の歌手。群馬県前橋市出身。本名は由利 文子(ゆり ふみこ)。 1908年(昭和41年)6月13日、群馬県前橋市神明町で誕生。前橋高等女学校、東京高等音楽学院卒業後、奥田良三や太田恒子に師事。1933年(昭和8年)本名の由利文子でポリドール・レコードから「白帆は去りて」で歌手デビュー。後にニットーレコードを経てポリドールレコードの専属歌手となる。1937年(昭和12年)8月発売された上原敏との「裏町人生」が大ヒットした。その後もポリドールで「愛国行進曲」、「純情月夜」、「おもいで日記」、「雨の日曜日」などを吹き込んだほか、皇軍慰問団のメンバーとして戦地を訪れている。
塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治4… 塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治41年〉2月12日 - 2003年〈平成15年〉10月16日)は、昭和時代前期を代表する歌手である。 福島県いわき市出身。上田中学、早稲田大学卒業後、千葉運輸事務所に勤務する。中野忠晴が吹き込んだ『鉄道精神の歌』のその普及のため同曲を歌唱したところ、上司にその美声を認められ、キングレコードに推薦されることとなる。 1937年(昭和12年)、キングレコードから歌手デビュー。同年9月発売の「軍国子守唄」、1939年(昭和14年)4月テイチクレコード発売の「九段の母」が大ヒット。その後は、軍国調の歌を多数吹き込む。 戦後もしばらくは歌手活動を行っていたが「自分の時代は終わった」と昭和20年代後半に歌手を止め、実業家に転進。
服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1… 服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1973年8月5日)は、昭和期の日本の作曲家、歌手、作詞家、元アナウンサーである。別名をレイモンド服部、服部レイモンド、服部ヘンリー。なお、同姓の服部良一や服部正との血縁関係はない。 1907年(明治40年)12月3日、神奈川県横浜市出身。若い頃にキリスト教に入信した為、洗礼名をレイモンドという。 1931年(昭和6年)慶應義塾大学文学部卒業後に作曲家としての活動を開始。ハワイへの音楽留学から帰国した1934年(昭和9年)1月に、NHKが初めて行った全国規模でのアナウンサー採用試験に応募し、応募者728名中25名の合格者の1人として入局。
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 … 関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は、昭和期のソプラノ歌手。本名は秋山種子。 岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京府立第二高等女学校から東京音楽学校に進学。ドイツリートをマルゲレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。 「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭(もた)れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 19… 淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。
多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907年4月27日 - 200… 多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907年4月27日 - 2008年4月6日)は、阿波踊りのおはやし「阿波よしこの」の歌い手である。 また、お鯉さんの名で伝統文化の継承と「よしこの」の普及に貢献し続けた。 徳島県徳島市富田町出身。徳島市名誉市民。とくしま市民遺産選定。 日本コロムビア大阪支社、ポリドール・レコードに所属していた。2006年に『お鯉〜唄声は時代を超えて〜』のCDが発売され、2007年には徳島県民栄誉賞を受賞し、自身が目標としていた「100歳での現役よしこの歌手」を実現する。 2008年4月6日6時40分、老衰のため死去。享年102(100歳没)。晩年は公演時に車椅子で移動する姿が多くみられていた。