永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9… 永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の裁判官、内務官僚、歴史家。官選宮崎県知事、門司市長、福岡県八幡市長、福井市長。 越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身。福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる。1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる。 以後、千葉区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長、群馬県書記官、北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任。
小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10… 小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10月17日) - 昭和19年(1944年)2月9日)は、日本の司法官僚、判事、衆議院議員。法学博士。 三河国碧海郡小山村(愛知県碧海郡小山村、刈谷町を経て現刈谷市)出身。1890年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事を歴任した。1906年より法律取調委員。1907年、司法省監獄局長に就任し、1911年に司法省刑事局長に移った。1912年に司法次官に昇任し、1914年まで務めた。 次官退任後、1914年4月21日、錦鶏間祗候に任じられ、弁護士を開業した。1917年の第13回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会の候補として出馬し、当選。
久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10… 久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10月1日) - 昭和7年(1932年)5月6日)は、日本の内務官僚、逓信官僚、農商務官僚。 東京府士族久米美由の長男として生まれる。1884年(明治17年)、東京大学を卒業後、内務省に入る。書記官、参事官、社寺局長を歴任した。のち逓信省に移り、参事官、通信局長を務めた。さらに農商務省に移り、特許局長、山林局長、農商務次官を歴任した。 特許局長を務めていた1904年(明治37年)に農商務大臣清浦奎吾とともに「工業所有権保護協会」を創設し、常務委員長、副会長に就任した。工業所有権保護協会は1910年(明治43年)に「帝国発明協会」と改称したが、引き続き副会長を務めた。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日[3])は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日[4] - 1922年(大正11年)5月27日[5])。静岡県出身。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日)は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日 - 1922年(大正11年)5月27日)。静岡県出身。 1865年9月20日(慶応元年8月1日)、後の静岡県に生まれる。大学予備門、東京帝国大学法学部を卒業後官僚となり、長野県参事官、石川県参事官、岡山県警部長、茨城県書記官、東京税務監督局長、神戸税関長、大蔵省主税局長、税関臨時工事部長、大蔵省関税局長、専売局長、大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取などを歴任。 1920年(大正9年)、名市長と呼ばれた鹿島房次郎の後任として第5代神戸市長に就任。
五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応… 五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応元年7月13日)- 1913年〈大正2年〉4月24日)は、明治時代に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト、官吏。東京通信社社長・主幹(第2代)、警保局(現・警察庁)警部。 豊後国速見郡杵築(現大分県杵築市)で杵築藩士五十嵐光彬の二男として生まれ、1890年(明治23年)4月に家督を相続した。 大阪の英和学舎(現・立教大学)で学ぶ。テオドシウス・ティングによって、先の聖テモテ学校を復興して、1879年(明治12年)に開校された英和学舎は、1887年(明治20年)に東京の立教大学校と合併して閉校するまでのおよそ8年の間に、聖職者に元田作之進、近重利澄、小林彦五郎、実業家に大塚惟明、寺岡踏正(旧・平井忠介)、的場松太郎、山根虎二郎、五十嵐光彰、土屋元作、教育者に松村松年、土生靑(土生青)、栃谷六三郎、新聞記者に水田栄雄(水田南陽)、永松達吾、粟屋関一、医師に深澤鑒十郎(深澤鑑十郎)、官吏に久芳直介など、多くの名士を輩出した。
白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 … 白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 - 1944年(昭和19年))は、日本の教育者、文部省官僚、県官吏。 熊本県蘆北郡佐敷村出身。1880年熊本県立熊本中学校に入学。1884年上京して大学予備門政治科に入学し、1889年に帝国大学に入学した。帝大入学にあたっては「旧藩主の若君の教授の任」を引き受け、この家庭教師の仕事が難物であったため、大学卒業が遅れたという。 1894年帝国大学法科大学政治学科を卒業後、教育への興味から、同年10月文部省に入省。実業学務局勤務の視学官となる。1901年岡山県に転出、内務部第三課長・県視学官を務めた。1904年、日露戦争が勃発すると、銃後の護り戦後の用意として、実科的女子教育の必要性を考え、白坂が中心となって、私立岡山実科女学校(現・就実学園)の創設発起人として名を連ねている。
有賀 長文(ありが ながふみ、1865年8月27日(慶応元年… 有賀 長文(ありが ながふみ、1865年8月27日(慶応元年7月7日) - 1938年(昭和13年)9月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、三井財閥の幹部(三井合名会社理事長)。 摂津国大坂(現在の大阪府大阪市)で代々歌道を生業とする家系に生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学政治科を卒業後、井上毅長官の下、法制局の試補を経て、貴族院書記官に転じる。その後、農商務省へ入省、農商務書記官、参事官、工務局長を歴任する。1898年(明治31年)、大隈重信が板垣退助と連合して、第3次伊藤内閣の後を受けて、隈板内閣が発足すると、行政整理の一つとして大石正巳農商務大臣が、商務局と工務局の統合を打ち出す。
西村 保吉(にしむら やすよし / やすきち、1865年8月… 西村 保吉(にしむら やすよし / やすきち、1865年8月12日(慶応元年6月21日) - 1942年(昭和17年)1月15日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選県知事。 伊予国宇和島で宇和島藩士西村景信の長男として生まれる。愛媛県宇和島区裁判所雇及び県庁雇となる。1890年、普通試験に合格。以後、同県宇摩郡書記、同県属・内務局勤務などを歴任。1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、宮崎県参事官、山口県参事官、長野県事務官・第二部長、北海道庁事務官・第六部長、同土木部長、同拓殖部長、広島県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1917年1月、島根県知事に就任。産業十年計画の策定を行った。
中谷 弘吉(なかや ひろきち、慶応元年6月16日(1865年… 中谷 弘吉(なかや ひろきち、慶応元年6月16日(1865年8月6日) - 大正12年(1923年)10月23日)は、日本の逓信官僚。 京都府に西田初次郎の四男として生まれ、中谷源吾の養子となった。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。逓信事務官となり、1893年(明治26年)には宇都宮郵便電信局長となった。さらに逓信書記官、同参事官を歴任し、東京郵便電信局長、電気局長を経て、1914年(大正3年)に逓信次官に就任した。 退官後は新たに創設された日本染料製造株式会社の初代社長に就任した。
小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865… 小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 大正5年(1916年)5月16日)は、日本の文部官僚・教育者。族籍は兵庫県士族。位階および勲等は正四位・勲四等。 兵庫県姫路市出身。姫路藩士で藩校の教官の小泉吉善と母ふさ(同藩士の白倉直記の三女。天保14年12月生)の長男として生まれる。弟に海軍少将の小泉武三がいる。姫路中学校を経て、1887年(明治20年)に東京高等師範学校を卒業。沖縄県尋常師範学校教諭、沖縄県学務課長心得、沖縄県尋常師範学校校長補、徳島尋常中学校教諭、福岡県尋常師範学校教諭、同教頭、同校長、和歌山県第一尋常中学校校長を歴任した。1899年(明治32年)、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事に転じ、1905年(明治38年)からは同附属中学校主事も兼ねた。
澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(… 澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(慶応元年4月23日) - 1927年(昭和2年)12月24日)は、近代日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。
澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日〈… 澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日〈慶応元年4月23日〉 - 1927年〈昭和2年〉12月24日)は、日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。文部次官。東北帝国大学初代総長・京都帝国大学第5代総長・成城学園創立者・大正大学初代学長。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。大学の自治をめぐり澤柳事件を引き起こし辞職した。 澤柳の最大の業績は成城小学校での〈教授の実験〉によって、「教育上の問題を実験的に研究して解決する」という近代教育学の方法を確立したことである。その結果、文字教育における「読み先習の法則」を発見した。また文部次官時代には小学校教育から変体仮名を廃止し、子どもたちの文字学習がスムーズに進むような改革も行った。
渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(18… 渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(1865年5月9日) - 昭和13年(1938年)2月9日)は、日本の文部官僚、教育者。 現在の岐阜県出身。1889年(明治22年)、帝国大学文科大学哲学科を卒業。文部省試補、視学官、参事官・書記官、参事官・図書審査官、図書監査官・図書課長心得などを歴任した後、第七高等学校造士館 (旧制)長に就任した。 その他、維新史料編纂会委員を務めた。
大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元… 大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元年4月13日〉- 1943年〈昭和18年〉7月13日)は、日本の内務官僚、政治家。日本赤十字社理事。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。 1865年(慶応元年)4月13日、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる。幼名は三熊。1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。 1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し、内務大臣秘書官に就任。
南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年… 南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年2月25日)- 1931年(昭和6年)7月3日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家、華族(男爵)。官選群馬県知事、貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧名・烏丸千佳之二。 山城国京都烏丸通中立売(現京都市上京区)出身。公家・烏丸光徳の三男として生まれ、男爵・南部甕男の養子となり、1893年(明治26年)5月23日に南部に改姓の届出を行った。 1892年(明治25年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、内務省に入省し内務省試補・土木局勤務となる。 1893年11月、香川県参事官に就任。以後、第四回内国勧業博覧会事務委員、兼内務省第二課長、内務書記官・土木局勤務、土木局長事務取扱、同局治水課長などを歴任し、1903年(明治36年)1月、内務省土木局長に就任。
金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(186… 金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(1865年2月10日) - 昭和12年(1937年)11月18日)は、日本の文部官僚、教育者。 東京府出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。一年志願兵として、1891年(明治24年)に陸軍歩兵少尉となり、1895年(明治28年)に陸軍歩兵中尉に昇進し、さらに日露戦争に出征して陸軍歩兵大尉に昇進した。その間、大分県尋常中学校校長、大阪府第一尋常中学校校長を経て、1899年(明治32年)に陸軍教授となり、さらに文部省図書審査官、大阪府視学官、学習院教授を務めた。 その後、高知県立第一中学校校長、愛知県立第一中学校校長などを経て、1910年(明治43年)に第六高等学校校長に就任した。
大庭 寛一(おおば かんいち、1865年(元治元年12月) … 大庭 寛一(おおば かんいち、1865年(元治元年12月) - 1916年(大正5年)3月)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選愛媛県知事。 長門国阿武郡萩で長州藩士の家に生まれる。父親は画家の大庭学僊(1820-1899)。1887年7月、帝国大学法科大学を卒業。1888年11月27日、内務省試補となり県治局に配属された。 以後、内務属・警保局勤務、群馬県参事官、兵庫県参事官などを歴任。1895年、李氏朝鮮の招聘を受け内務顧問官に就任。1897年まで務め、その後、佐賀県書記官、静岡県書記官を歴任。 1898年12月22日、愛媛県知事に就任。愛媛県農学校、松山・宇和島・今治の三高等女学校の設立など、中等教育の振興に尽力。
永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年)… 永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。 1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。 1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。 1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任。 1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、18… 国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、1864年12月21日(元治元年11月23日) - 1953年(昭和28年)11月26日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士(1915年(大正4年))。南満洲鉄道理事長、衆議院議員、日本通運初代社長。兄は洋画家の国沢新九郎。 土佐藩士・国沢四郎右衛門好古の子として江戸に生まれる。青木槐三の聞き取りでは、1879年(明治12年)に高知県から船で上京したという。美會神学校(後の青山学院)を経て、帝国大学工科大学土木学科に進む。在学中より日本鉄道(東北本線)の黒磯駅 - 白河駅建設に関与した。1889年(明治22年)帝国大学卒業後は鉄道技師として九州鉄道に入社し、長崎本線の佐賀駅付近の建設に従事した。
井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元… 井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元治元年10月21日)- 1932年(昭和7年)12月12日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 出羽国由利郡、後の本荘町(現由利本荘市)で井出章造の長男として生まれる。1891年、帝国大学法科大学法律学科を卒業。 司法省に入省し、司法官試補、東京地方裁判所検事を歴任。1896年、逓信省に転じ、鉄道事務官、逓信省書記官・通信局鉄道船舶課長、鉄道院参事、同理事、同北海道鉄道管理局長を務め、1915年に退官。1919年、鉄道院神戸鉄道管理局長として復帰し、東京鉄道管理局長に異動。1920年、鉄道省が発足すると監督局長に就任し1923年まで在任した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治元年10月15日〉- 1940年〈昭和15年〉12月6日)は、明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。衆議院議員。文部大臣。族籍は秋田県士族。 出羽国楢山(のち秋田県秋田市)出身。田中隆世の長男。秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、大学予備門、1889年(明治22年)7月に帝国大学法科大学卒業。農商務省鉱山局長・農商務次官を経て、その後実業界に入り秋田鉱山専門学校(現:秋田大学工学資源学部)の設立に尽力した。ついで政界に転じ、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙で当選した。濱口内閣・第2次若槻内閣で文部大臣を務め、議員を7期務めて1932年(昭和7年)に引退した。
永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治… 永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治元年9月18日) - 1924年(大正13年)12月4日)は、明治から大正期の官僚、政治家、華族。男爵、貴族院議員。 薩摩藩士・永山盛輝(のち男爵)の長男として出生。1891年(明治24年)明治法律学校(明治大学)を卒業。 1874年(明治7年)文部省に勤務し文部9等属を経て、逓信省鉄道書記に就任。父の死去に伴い1902年(明治35年)2月7日に男爵を襲爵。1918年(大正7年)7月10日に貴族院議員に就任し、1924年に死去するまで在任。61歳。
添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年… 添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和4年(1929年)7月4日)は、明治・大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家・実業家・経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。貴族院議員。筑前(現在の福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。 近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。 1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。
中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年… 中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年9月7日) - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。 三重県出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事試補、判事を務める。1892年(明治25年)、農商務省に転じ、鉱山監督官、農商務参事官・製鉄所事務官、農商務書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、東京鉱山監督署長、東京鉱務局長などを歴任した。 退官後は、東京帝国大学や秋田鉱山専門学校などで講師として鉱山法を講義した。1923年(大正12年)5月7日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治… 山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日)は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。 筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同月24日、法制局試補となる。 1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任。
笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年… 笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。 静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。 1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。その後、警保局監獄課長、山形県参事官、岩手県警察部長、高知県書記官、台湾総督府事務官、台南県書記官、岐阜県書記官、新潟県書記官、同県第一部長、熊本県第一部長などを歴任。 1907年1月、岩手県知事に就任。1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。1914年6月、岡山県知事に転じた。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日… 萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日) - 大正12年(1923年)12月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、内務官僚、検事。 薩摩国薩摩郡樋脇村(現在の薩摩川内市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、1895年(明治28年)に司法官試補となり、1897年(明治30年)より鹿児島、久留米、佐賀、宮崎、熊本などの裁判所で検事として勤務した。1907年(明治40年)に内務省に転じ、山形県事務官・警察部長、青森県内務部長、和歌山県内務部長を歴任し、1914年(大正3年)に休職となった。 その後、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元… 亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元治元年3月24日) - 1913年(大正2年)2月26日)は、日本の法制・内務官僚、政治家。貴族院議員。肥後国(現熊本県)出身。 熊本藩士・亀井忠左衛門の三男として生まれる。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学(現東京大学法学部)卒業。同年12月、高等試験に合格し法制局試補となる。1890年(明治23年)、法制局参事官に就任。 1902年(明治35年)2月、徳島県知事に就任。その後、1904年(明治37年)1月に静岡県知事、1905年(明治38年)12月、宮城県知事に就任。 1908年(明治41年)の第2次桂内閣の際に警視総監に就任。
戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元… 戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元年3月15日) - 1934年(昭和9年)12月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事、行政裁判所評定官。 長門国萩出身。長州藩士・戸田雅喬の長男として生まれる。1886年、帝国大学文科大学を卒業した。 1890年10月、石川県参事官に就任。以後、長野県参事官、長野県警部長、高知県警部長、青森県書記官、福井県書記官、茨城県書記官、静岡県書記官、同事務官・第一部長などを歴任。 1905年12月、宮崎県知事に就任。1906年7月に休職。1907年4月、行政裁判所評定官に就任。1913年6月に休職し、1924年11月に退官した。
水町 袈裟六(みずまち けさろく、1864年4月16日〈元治… 水町 袈裟六(みずまち けさろく、1864年4月16日〈元治元年3月11日〉- 1934年〈昭和9年〉7月10日)は、日本の官僚。大蔵次官、英仏駐在財務官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官を歴任。横浜正金銀行頭取。法政大学総長。 佐賀藩士水町邦実の次男として生まれる。水町家は佐賀藩の重臣の家系。佐賀変則中学校、大学予備門を経て、1891年(明治24年)に帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業後、同年大蔵省(現在の財務省)に入省。 理財局長、大蔵次官、1908年(明治41年)から英仏駐在財務官を歴任する。1911年(明治44年)に大蔵省を退官して日本銀行副総裁に就任した(1919年まで)。
磯部 正春(いそべ まさはる、元治元年3月8日(1864年4… 磯部 正春(いそべ まさはる、元治元年3月8日(1864年4月13日) - 昭和3年(1928年)10月12日)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。旧名は百輔。 山口県出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学を卒業。農商務試補、法制局試補、鉄道庁事務官、農商務省特許局審判官、農商務省参事官、同書記官、特許局長、農商務省鉱山局長を歴任した。1917年(大正6年)3月に退官し、同年6月21日に錦鶏間祗候となった。 その後、産業組合中央金庫監事を務めた。
上野 季三郎(うえの すえさぶろう、1864年4月11日(元… 上野 季三郎(うえの すえさぶろう、1864年4月11日(元治元年3月6日)- 1933年(昭和8年)2月28日)は、日本の外交官、宮内官僚。宮内大臣秘書官、宮内省式部官、大膳頭等を歴任した。 出羽国由利郡(現秋田県由利本荘市岩城)出身。亀田藩藩校長善館を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。在ドイツ公使館書記等を経て、1897年香港二等領事。1901年にサンフランシスコ領事に着任。在任中アメリカ合衆国での排日運動の高まりで日本人が公立学校への入学を拒否されるなどの事態が生じ、カリフォルニア州知事への抗議などを行い対応にあたった。1907年シドニー総領事。1909年宮内大臣秘書官兼式部官。
石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年… 石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年2月21日) - 大正12年(1923年)10月18日)は、日本の鉄道官僚、工学博士。貴族院勅選議員。 豊後国臼杵城下(現在の大分県臼杵市)に臼杵藩士石丸袈裟蔵の長男として生まれる。幼名は袈裟次郎。慶応2年1月14日、7歳の時に漢学者の菊川南峰から教えを受ける。8歳で重美に改名。南峰と共に各地を遊学し、11歳で帰郷し、藩校に入学した。1876年から洋学を志し、南峰の反対や家計の問題があったが、母に嘆願し学費を貰いなんとか上京した。 同郷の荘田平五郎の家に寄宿し、1884年(明治17年)、三菱商業学校に入学するが間もなく廃校となったため、神田区の共立学校に転じた。
石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4… 石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4年1月13日) - 1936年(昭和11年)9月4日)は、日本の内務官僚、裁判官、政治家。枢密顧問官、貴族院議員。位階勲等は正二位勲一等。 備前国邑久郡、後の岡山県邑久郡笠加村出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。岡山中学、大学予備門を経て、1889年(明治22年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。判事試補となり京橋区治安裁判所勤務となる。以後、司法省参事官試補、民事局勤務、長崎控訴院書記長、熊本地方裁判所判事などを歴任。 1892年(明治25年)10月、内務省に転じ、茨城県参事官、同県内務部第一課長兼第三課長、大阪府参事官、香川県警察部長、岐阜県書記官を歴任。
堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月1… 堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月18日) - 昭和21年(1946年)6月22日)は、日本の内務官僚、甲府市長。 富山県出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業。北海道庁属、拓殖務省参事官、内務省事務官・参事官、島根県書記官、同事務官、東京府事務官、神奈川県事務官を歴任し、1914年(大正3年)に樺太庁内務部長に就任した。退官後、中央生命保険相互会社取締役となった。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで甲府市長を務めた。
国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864… 国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日)は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。 備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した。
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3… 小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3年11月23日〉- 1932年〈昭和7年〉10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 信濃国埴科郡松代(現:長野県長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次男として生まれる。和田英・横田秀雄の実弟。同藩士小松政昭の養子となる。藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ1888年(明治21年)に卒業。 司法省参事官、試験委員から逓信省に入り書記官となる。日露戦争中には韓国へ派遣され電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官。同じくして1912年(大正元年)12月28日に貴族院議員に勅選された。
大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久… 大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久3年11月17日) - 1927年(昭和2年)6月25日)は、日本の官僚、鉄道実業家である。陸軍中将の白石通則は義理の兄弟。 宮城県出身。仙台藩士の大槻武治の次男だったが、兄の大槻栄行の養子となり家督を継ぐ。1890年に帝国大学法科を卒業した後に農商務省に入省し、1902年には参事官に任じられた。神奈川、京都、鳥取の各参事官、大蔵省主税官、長崎税関長などを歴任し、1905年に大阪税関長に就任し、1913年6月に熊本税務監督局長に就任した。 1915年から1927年までに大阪電気軌道社長を務め、債務の整理を行い、建設費の高騰で苦しんでいた大軌を再建した。
川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年1… 川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年12月12日(文久3年11月2日)- 1920年(大正9年)10月25日)は、日本の教育者、内務官僚。師範学校長、県知事。玄洋社社員。旧名・甚太郎。 筑前国出身。川島計の長男として生まれる。1886年(明治19年)、帝国大学法学部を卒業。1892年(明治25年)2月、鹿児島高等中学造士館教授に就任し、同年12月、同舎監を兼任。1893年8月、佐賀県尋常師範学校長となり、さらに奈良県尋常師範学校長を務めた。 1897年(明治30年)5月、内務省に転じ滋賀県参事官に就任。以後、三重県警察部長、佐賀県・大分県・千葉県・鳥取県の各書記官、和歌山県事務官・第一部長兼第三部長などを歴任。
白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10… 白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10月21日)- 1941年(昭和16年)4月20日)は、日本の内務官僚・実業家。官選栃木県知事、日本郵船社長、八幡製鉄所長官。 柳河藩主立花家家従・白仁成功の長男として生まれる。1883年(明治16年)家督を相続。柳河中学、共立学校、大学予備門を経て、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年7月、内務省に入り内務試補として会計局に配属された。 1890年11月、県治局勤務となる。以後、内務省参事官、北海道庁参事官・内務部郡治課長、同部地理課長、文部書記官、拓殖務書記官、内務事務官、内務書記官・大臣官房北海道課長、内務省神社局長兼総務局北海道課長などを歴任。
荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文… 荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文久3年10月15日〉- 1938年〈昭和13年〉1月29日)は、日本の官僚・政治家。新潟県士族。 農商務大臣、枢密院副議長などの要職を歴任した。 新潟県出身。高田藩士荒井直静の子。新潟師範学校(現在の新潟大学教育学部)を卒業し、一時小学校で教鞭を取った後、上京。帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)でフランス法を修める。同期には、若槻礼次郎(後の内閣総理大臣)、安達峰一郎らがおり首席を競う。 1892年(明治25年)に帝国大学を卒業した後、大蔵省に入省。大臣官房第二課に配属。主計局予算決算課長、主計局長などの要職を歴任した。大蔵省時代には、和仏法律学校(現在の法政大学)の講師も務めている。
久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年1… 久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年10月28日) – 昭和12年(1937年)5月2日)は、日本および同統治下台湾の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(立憲政友会→中正会)。福岡県若松町長。 長門国厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)出身。小学校卒業後、独学で文学、政治、経済、法律を学び1895年(明治28年)、高等文官試験に合格し、内務省、台湾総督府、地方官として勤務した。退官後は1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選、そのほか若松町長も務めた。その他に私立興風中学校理事長を務め、その後大連に渡り、大連大正米製造合資会社の代表を務めた。
西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日… 西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日〈文久3年9月9日〉 - 1910年〈明治43年〉2月2日)は、日本の内務官僚。官選県知事。号・靖軒、獅牢。 信濃国埴科郡鼠宿村(現・長野県埴科郡坂城町)で、西沢陽左衛門の息子として生まれる。慶應義塾に学び、1890年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省試補となり会計局に配属された。 1891年5月、警保局に転じ、同年10月、宮崎県参事官に就任。以後、新潟県参事官、香川県警部長、香川県・滋賀県・大阪府・兵庫県・京都府の各書記官などを歴任。 1904年11月、青森県知事に就任。1908年6月、福島県知事に転じ、産業振興に尽力したが、盲腸炎および肺炎により在任中に死去した。
林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文… 林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文久3年8月15日) - 1927年(昭和2年)12月1日)は、日本の官僚、政治家。衆議院書記官長、衆議院議員。号・雲梯。 熊本藩士・林田俊太郎の長男として現・熊本市に生まれる。大学予備門を経て、1887年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。法制局に入り法制局属として長官官房に配属された。1888年6月、枢密院属となる。 1888年11月、法制局参事官試補として法制部に配属。以後、法制局参事官、臨時帝国議会事務局秘書官、衆議院書記官、兼農商務省参事官、衆議院庶務課長、兼守衛部長、衆議院議事課長などを歴任。 1897年11月、衆議院書記官長に就任。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3… 有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3年6月10日〉- 1927年〈昭和2年〉10月24日)は、明治から昭和初期の官僚、政治家。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。 備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。
平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈186… 平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈1863年7月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。 文久3年6月4日(1863年7月19日)、播磨国印南郡志方村上富木村字横山(現在の兵庫県加古川市)で、農業を営んでいた父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。 少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。兄の萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範(御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った。
西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久… 西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久3年5月15日〉- 1930年〈昭和5年〉7月8日)は、日本の内務官僚、政治家、剣道家。 福島県知事(第19代)、北海道庁長官(第13代)、警視総監(第23代)、貴族院議員(勅選)、大日本武徳会武道専門学校校長(第5代)、東京市長(第11代)を歴任した。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子、肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現:佐賀市)に生まれる。司法省法学校予科を経て、東京帝国大学法科大学卒。 内務省に出仕し官吏として累進した弘道は福島県知事、北海道長官、警視総監を歴任する。その後大礼使参与を務め、その功により勲二等瑞宝章を受章。