大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4… 大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。 平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で、旧名は松浦常(まもる)である。 1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。
生駒 親忠(いこま ちかただ、1871年9月1日(明治4年7… 生駒 親忠(いこま ちかただ、1871年9月1日(明治4年7月17日) - 1939年(昭和14年)12月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・池田、旧名・政謙。 元岡山藩主・池田慶政の長男として生まれる。1886年(明治19年)3月、先代生駒親承の死跡を継承し、同月19日、男爵を襲爵、同月26日、親忠と改名した。1916年(大正5年)2月26日に隠居し、同年3月23日に分家した。 学習院を経て、日本法律学校(現・日本大学)を修了。育英事業に関わり、日本大学評議員を務めた。 1897年(明治30年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1904年(明治37年)7月9日まで1期在任し、さらに、1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に再選され、1916年(大正5年)2月27日に辞職するまで通算2期在任した。
中川 久任(なかがわ ひさとう、1871年7月7日(明治4年… 中川 久任(なかがわ ひさとう、1871年7月7日(明治4年5月20日)- 1935年(昭和10年)7月14日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧姓・浅野、旧名・倉吉。 東京府出身。浅野家分家・浅野懋績の八男として生まれ、伯爵・中川久成の養子となる。養父・久成の死去に伴い、1897年(明治30年)5月18日、家督を相続し伯爵を襲爵、名を久任と改めた。学習院を卒業。 1909年(明治42年)9月16日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して1911年(明治44年)7月9日まで在任し、さらに1920年(大正9年)5月8日、補欠選挙で再選され、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日(明治4年5… 松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日(明治4年5月18日) - 1915年(大正4年)10月15日)は、明治期の武家華族。子爵。旧川越藩藩主・松井松平家14代当主。旧姓は松平(まつだいら)。 川越藩の元藩主松平康英の次男に生まれる。幼名は栄松。康英は、松井松平家分家の旗本時代(当時の諱は康直)に講武所頭取、外国奉行、神奈川奉行、文久遣欧使節の副使、勘定奉行、大目付、南町奉行を歴任、旧暦元治元年(1864年)に本家を相続の後、寺社奉行、老中を歴任、また棚倉藩を襲封ののち川越藩へ転封されたが、明治2年(1869年)に家督を養子の康載(最後の川越藩主)に譲って隠居していた。 新暦1879年(明治12年)3月15日に康載の養子となり、松井姓を名乗る(松井松平家は廃藩後に松平姓を廃して松井に復姓した)。
山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5… 山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5月29日(明治4年4月11日) - 1955年(昭和30年)10月18日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員、南邸山内家3代当主。 土佐藩南邸山内家2代当主・山内豊積(10代藩主山内豊策五男・山内豊著の三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)1月8日に男爵を襲爵した。 学習院高等科、和仏法律学校(現・法政大学)を修了。1896年(明治29年)12月、一年志願兵として歩兵第22連隊に入隊し、1899年(明治32年)2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1905年(明治38年)後備役となる。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日〈明治3… 白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日〈明治3年12月28日〉 - 1959年〈昭和34年〉6月9日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 神祇大副・白川資訓の長男として生まれる。1906年(明治39年)12月24日、父の死去に伴い子爵を襲爵した。1905年(明治38年)、東京外国語学校仏語科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学を修了した。 1914年(大正3年)以降、名誉掌典、神社調査会委員、神社制度調査会委員などを務めた。また、日本精神研修会長となり、息吹長世の行法を指導した。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9月まで在任した。
柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日〈明治3… 柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日〈明治3年12月16日〉 - 1936年〈昭和11年〉5月25日)は、日本の統計学者、政治家、実業家、華族(伯爵)。第一生命保険の初代社長。 柳沢氏傍系の越後柳沢家当主で黒川藩藩主の柳沢光昭の次男として、越後国北蒲原郡黒川村(現・新潟県胎内市)に生まれる。幼名は利丸、前名は光敏。保恵の出生前に父の家督は養子で大和郡山藩藩主の息子である柳沢光邦(高家旗本武田信之の六男)がすでに継いでいた。 柳沢一族のなかの優秀な男子ということで本家の養子に選ばれ、明治19年(1886年)、旧大和郡山藩主の柳沢保申の次女秀子と婚約し養子となった(光昭も郡山藩主家の出身であり、保申は保恵の従兄に当たる)。
酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870… 酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870年11月24日) - 昭和3年(1928年)8月1日)は、明治時代から昭和時代前期の華族。忠稠系小浜藩酒井家別家、越前国敦賀藩第8代藩主・酒井忠経の長男。幼名は松之助。正室は松平康英の娘鉚。子は酒井忠英、義男。 東京に生まれ、明治17年(1884年)7月8日の華族令により子爵となる。学習院高等科、帝国大学法科を卒業。明治34年(1901年)8月2日、補欠選挙で貴族院議員に選出され、研究会に属し常務委員を務めた。 大正2年(1913年)3月15日、伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社が設立され、取締役会長となる。東華生命保険、東北電力、横浜倉庫の社長を務めたほか、横浜正金銀行、高砂商事、海外興産等の役員を務めた。
北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月2… 北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月29日(明治2年12月28日)- 1935年(昭和10年)9月22日)は、明治から昭和期の税関官吏、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・園池。幼名・楢麿。 山城国京都で奈良県知事・園池公静の三男として生まれ、1895年(明治28年)8月、男爵・先代北大路公久の死去後に養子となり、同年9月28日に男爵を襲爵。同年10月9日、実信に改名した。 学習院、東京高等商業学校を修了。1895年、税関属に任官。その後、同事務官補などを務め、東京築港に関する貨物調査嘱託となった。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年… 金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年8月29日)- 1938年(昭和13年)3月18日)は、明治後期から昭和初期の政治家、歌人、神職、華族。貴族院男爵議員。旧名・健麿。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有卿の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)8月30日、男爵を襲爵した。 皇典講究所で学び、1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事した。その他、久邇宮家御用掛、大礼使典儀官、御歌会始奉行、同頌講、御歌所参候などを務めた。
錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日… 錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日〈明治2年7月9日〉 - 1911年〈明治44年〉11月24日)は、明治期の華族。官位は従五位、爵位は子爵。 山城国京都で式部大輔・唐橋在光の四男として生まれる。唐橋在正の弟。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。明治維新以降、子爵に叙せられた。 1897年、群馬県尋常中学校教諭に就任。1898年、叔父・錦小路賴言の次女益子の入夫、錦小路家の養子となる。同じ年、賴言の死去に伴い、家督を相続する。1899年、東宮職御用掛となる。1900年、東宮主事に就任。 1911年11月24日死去。43歳没。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明… 松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明治元年10月11日) - 1928年(昭和3年)1月12日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島、旧名・賢二郎。 肥前蓮池藩主・鍋島直紀の六男として生まれる。母は鍋島直永の娘・謁女。1896年(明治29年)10月、子爵・松平乗命の養子となる。1897年(明治30年)1月、乗長と改名。養父の死去に伴い、1905年(明治38年)12月13日に子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)東京美術学校日本画科を卒業。1915年(大正4年)皇子浴場之儀鳴弦控となる。 1910年(明治43年)8月20日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
松木 宗隆(まつのき むねたか、1868年8月16日〈慶応4… 松木 宗隆(まつのき むねたか、1868年8月16日〈慶応4年6月28日〉 - 1943年〈昭和18年〉11月16日)は、明治から昭和前期の政治家、華族。貴族院伯爵議員。幼名・保丸。 左近衛中将・松木宗有の四男として生まれる。父・宗有の隠居に伴い、1879年(明治12年)5月2日、家督を継承。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵した。 学習院、東京専門学校、日本法律学校で学んだ。 貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1904年(明治37年)7月10月から1911年(明治44年)7月9日までと1918年(大正7年)7月10日から1943年4月9日まで在任した。 Template:Normdatem
石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3… 石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3年12月25日〉 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の華族(旧常陸下館藩、子爵)。位階は正三位。幼名・重之助。 石川家の祖主殿頭忠総の二男播磨守総長2万石を分与され、後常州に移り、9世を経て総管に至る。重之は総管の長男である。学習院出身である。 1880年、家督を相続する。1884年、子爵を授けられる。1887年に都合により爵位を返上したが、1899年さらに華族に列し子爵を授けられる。 1899年、叙従五位。1917年、叙正四位。 1946年1月15日、数え80歳を迎えたことにより鈴木貫太郎・小笠原長生と共に御紋付木盃と酒肴料を下賜された。
五辻 治仲(いつつじ はるなか、1867年12月8日(慶応3… 五辻 治仲(いつつじ はるなか、1867年12月8日(慶応3年11月13日)- 1932年(昭和7年)10月16日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で大膳大夫・五辻安仲の長男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月22日、子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)7月、学習院大学科を卒業。1911年(明治44年)臨時治水調査会委員に就任。その他、大国銀行取締役、高野山電気鉄道監査役などを務めた。 1911年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。
藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3… 藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3年2月12日)- 1930年(昭和5年)10月23日)は、明治から昭和初期の華族、政治家。男爵、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。幼名は憲丸。 山城国京都で竹内治則の二男として生まれた。1876年(明治9年)2月、旧名張領主の名張藤堂家当主・藤堂高節の養子となり、1893年(明治26年)家督を相続。1914年(大正3年)9月28日、高成に改名した。 國學院で学ぶ。1894年(明治27年)神宮皇學館の舎監兼助教授に就任。1906年(明治39年)9月17日、男爵を叙爵。1910年(明治43年)6月に小栗常太郎らと設立した興業貯金株式会社では取締役社長を務めた。
舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月… 舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月29日(慶応元年6月7日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、明治から大正期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で少納言・舟橋康賢の二男として生まれる。父の死去に伴い1880年(明治13年)1月16日、家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1882年(明治15年)以降、京都宮殿勤番、殿掌などを務めた。1889年(明治22年)東京専門学校邦語政治科卒業。1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。
南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年… 南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年2月25日)- 1931年(昭和6年)7月3日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家、華族(男爵)。官選群馬県知事、貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧名・烏丸千佳之二。 山城国京都烏丸通中立売(現京都市上京区)出身。公家・烏丸光徳の三男として生まれ、男爵・南部甕男の養子となり、1893年(明治26年)5月23日に南部に改姓の届出を行った。 1892年(明治25年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、内務省に入省し内務省試補・土木局勤務となる。 1893年11月、香川県参事官に就任。以後、第四回内国勧業博覧会事務委員、兼内務省第二課長、内務書記官・土木局勤務、土木局長事務取扱、同局治水課長などを歴任し、1903年(明治36年)1月、内務省土木局長に就任。
岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月… 岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月15日)– 1938年(昭和13年)10月24日)は、日本の華族、医師。貴族院男爵議員。 明治天皇の侍医を務めた男爵岩佐純の長男として福井に生まれる。大学予備門で学んだ後、1884年(明治17年)に大山巌欧州使節団、郷誠之助、松平康荘らとともに渡欧し、ウィーンを経て、1885年冬学期にミュンヘン大学に学籍登録し、1892年(明治25年)にフライブルク大学より医学博士の称号を得た。翌年からはミュンヘン大学で内科助手を務めた。ミュンヘン時代に画家の原田直次郎、陸軍軍医の森林太郎(森鷗外)と3人で映った写真が『新潮日本文学アルバム 森鴎外』(1985年刊)に収録されている。
永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治… 永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治元年9月18日) - 1924年(大正13年)12月4日)は、明治から大正期の官僚、政治家、華族。男爵、貴族院議員。 薩摩藩士・永山盛輝(のち男爵)の長男として出生。1891年(明治24年)明治法律学校(明治大学)を卒業。 1874年(明治7年)文部省に勤務し文部9等属を経て、逓信省鉄道書記に就任。父の死去に伴い1902年(明治35年)2月7日に男爵を襲爵。1918年(大正7年)7月10日に貴族院議員に就任し、1924年に死去するまで在任。61歳。
尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治… 尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治元年8月11日)- 1917年(大正6年)3月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。従四位勲四等。貴族院男爵議員。 土佐藩士・尾崎忠治の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)10月、家督を継承し、同年11月6日、男爵を襲爵した。 東京帝国大学法科大学を修了。1883年(明治16年)前橋始審裁判所書記に就任。ほどなく退官して、日本銀行文書局書記、同検査役、都銀行取締役などを務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した。 1917年3月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町長谷の私邸で療養中に死去した。
戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月… 戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月1日〉 - 1915年〈大正4年〉4月15日)は、明治期の政治家、尋常小学校教員、華族。貴族院子爵議員。 下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった。 父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する。
有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年… 有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年6月15日〉- 1927年〈昭和2年〉3月21日)は、日本の華族(伯爵)。 旧筑後国久留米藩主・有馬家の第14代当主。昭和期の政治家で日本中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧は子。 1864年(元治元年)、久留米藩最後の藩主・有馬頼咸の子として生まれる。母は側室・金田ミヨ。幼名は和之助といった。 1877年(明治10年)3月26日、病弱な兄の13代当主頼匡に代わり家督を継承し、4月に従五位に叙せられる。 1884年(明治17年)2月、宮内省式部職御用掛として出仕する。同年7月、華族令の公布にともない、伯爵の爵位が与えられた。1886年(明治19年)9月に宮内省を辞し、義兄にあたる小松宮彰仁親王とともに欧米諸国を歴訪した。
本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元… 本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日)- 1922年(大正11年)1月14日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉。位階は正四位。勲等は勲四等。 薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、親済と改名。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した。 札幌農学校、帝国大学法科大学を修了。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業。 帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈… 北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈文久3年7月29日〉- 1918年〈大正7年〉11月9日)は、日本の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家76代、貴族院男爵議員。旧名・殿若丸。 出雲国出雲郡(現島根県出雲市大社町)で北島国造家75代・北島脩孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1893年(明治26年)4月7日、男爵を襲爵した。 1882年(明治15年)出雲大社権宮司に就任。同禰宜、大教正、神道出雲教(現出雲教)大教主を務めた。 1908年(明治41年)7月1日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、死去するまで在任した。
山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文… 山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文久3年7月30日〉- 1931年〈昭和6年〉2月18日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功三級男爵。日露戦争時の軍令部作戦班長(のちの作戦部長)、連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任した。 米沢藩士・山下新右衛門(禄高:25石)の次男。藩校興譲館、その後身の私立米沢中学校を経て明治12年(1879年)海軍兵学校に入校。明治15年(1882年)「龍驤」に乗り込み遠洋航海に参加した。翌年海軍兵学校を4位の成績で卒業(10期)。同期に首席の加藤定吉大将、17位の名和又八郎大将がいる。 帰国後は「浅間」で砲術訓練を積み、兵学校修学課程で学問を深め、明治19年(1886年)の長浦水雷営勤務から現場に出た。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年1… 伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年12月16日〉- 1923年〈大正12年〉2月7日)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院侯爵議員、宮中顧問官。宇和島伊達家10代当主。 宇和島藩主・伊達宗徳の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)12月27日に侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任し、死去するまで在任した。 明治学舎、学習院で学び、1886年(明治19年)、小松宮彰仁親王に随行してイギリスを訪問し同国に留学した。帰国して1889年(明治22年)以降、式部官兼主猟官、宮中顧問官などを務めた。 明治10年代には旧藩の困窮士族のために北海道開拓を検討し現在の江別市に150万坪の土地を貸し下げたが、結局宇和島からの入植は実現しなかった。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860… 大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。 安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が親代わりとなった。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった。
大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6… 大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6年7月7日〉- 1945年〈昭和20年〉1月20日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正二位勲三等侯爵。通称は彦熊、彦之進。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、大久保正助(利通)と満寿子夫妻の長男として生まれる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に随行して渡米し、普通学研修のためフィラデルフィアの中学校に入学。1874年(明治7年)に帰国して開成学校に入学した。 1878年(明治11年)、19歳の時に父・利通が紀尾井坂の変で暗殺される。同年、父の勲功により華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に侯爵を叙爵。
木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7… 木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7月26日〉- 1917年〈大正6年〉8月10日)は、日本の宮内官、政治家、華族(侯爵)。貴族院侯爵議員。旧姓は来原、幼名は彦太郎。 長州藩士・来原良蔵、治子(木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年(明治17年)11月18日、侯爵を襲爵()。1890年(明治23年)2月、貴族院令施行により貴族院侯爵議員に任じられ死去するまで在任した。 1871年(明治4年)、アメリカ合衆国に留学。帰国後、開成学校、東京大学理学部、大阪専門学校を修了。1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て、1902年(明治35年)に東宮侍従長兼式部官、1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。
久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4… 久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4年1月2日)- 1913年(大正2年)7月7日)は、明治期の哲学者、官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・弘太郎。 父は上総大多喜藩主・松平正義の長男正晴で、その長男として上総国大多喜で生まれる。明治4年12月27日(1872年2月5日)旧伊予今治藩主・久松定法の養子となる。明治5年8月7日(1872年9月9日)養父の隠居に伴い家督を継承。1884年7月8日、子爵を叙爵した。 漢学を島田篁村、英語を河津祐之、ドイツ語及び普通学(一般教養科目)を司馬凌海、エルヴィン・クニッピング、ルドルフ・レーマンらに学んだ。1874年11月10日、留学のためドイツ帝国へ出発し、オイゲン・デューリングなどに師事し哲学と文学について学んだ。
大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2… 大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2年12月28日〉- 1923年〈大正12年〉11月26日)は、日本の陸軍軍人、華族。 教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。 小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。明治4年(1871年)10月から召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営する。1875年(明治8年)12月から陸軍士官学校に入校し、同11年12月卒業する。翌年2月に陸軍歩兵少尉に任官される。士官生徒第2期の同期には第4師団長大迫尚道大将、朝鮮駐剳軍司令官井口省吾大将や、第11師団長の伊地知幸介中将、第13師団長の長岡外史中将がいる。
田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年… 田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年2月8日〉- 1930年〈昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。 1874年(明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。
諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7… 諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7年4月20日〉 - 1912年〈明治45年〉1月24日)は、明治時代の華族(男爵)、長崎県の大地主、長崎県多額納税者。14代諫早邑主諫早茂孫の長男。叔父諫早一学(茂孫の次々代邑主)の養子。千吉郎。勲等は勲四等。 肥前国高来郡諫早に生まれる。1871年(明治4年)にドイツに留学し、1880年(明治13年)より外務省、太政官、参事院等に勤務する。 1893年(明治26年)10月10日に貴族院多額納税者議員として、選出された。1898年(明治31年)8月4日、貴族院議員を辞任した。この時は、会派には所属せず、無所属だった。 1897年(明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。
岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日… 岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日(1852年9月1日) - 大正14年(1925年)3月25日)は、日本の医師、華族(男爵)、宮中顧問官。医学博士。位階および勲等は正三位勲一等。 津山藩士の岡清二郎の子として大坂の藩の蔵屋敷で生まれる。父は早くに死に、母は再婚したため、親戚の岡芳蔵のもとに引き取られ、養育された。 明治になり上京し、大学東校(1874年に東京医学校に改称)に入学して医学を専攻し、ドイツ帝国からのお雇い外国人医師であるレオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンに医学を学ぶ。1876年に東京医学校を第一期生として首席で卒業。翌年に東京大学医学部に改称された同校で助教授、教授を歴任し、大学病院内科部長を務めた。
有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5… 有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5年2月18日〉 - 1915年〈大正4年〉1月12日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。爵位は男爵。別名に淳蔵。 大日本帝国陸軍の国産小銃である有坂銃の開発者であり、村田経芳に次いで銃砲開発の大家と謳われた人物である。 周防国岩国に生まれた、長州藩(岩国領)吉川家家臣の木部左門の二男、幼名を四郎という。文久2年(1862年)、11歳で同藩の砲術家有坂長良の養嗣子となった。岩国藩の洋式軍隊である日新隊の一員として、鳥羽・伏見の戦いに参加している。 明治維新後の明治2年(1869年)開成学校で学んだ後、明治3年(1870年)には陸軍兵学寮に入る。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年… 内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1922年(大正11年)5月11日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 1851年(嘉永4年)高知城下築屋敷(現在の高知市)で内田茂助の子に生まれた。若くして東京遊学。1868年(明治元年)[西暦年要検証]北村重頼の砲隊に属し東征軍に従う。1871年(明治4年)8月、海軍兵学寮入学。1876年(明治9年)9月、海軍少尉補任官。「雷電丸」「金剛」乗組を経て、1878年(明治11年)7月、海軍少尉に任官。1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(3期)を卒業した。
有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年… 有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年1月26日〉- 1909年〈明治42年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名は新之丞。 薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。戊辰戦争に従軍し、1869年(明治2年)、賞典禄6石を受ける。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を首席で卒業し、少尉補任官。1884年(明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、佐世保鎮守府海兵団長を歴任。
岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年… 岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年1月3日〉- 1910年〈明治43年〉7月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として土佐国幡多郡中村(現:四万十市)に生まれる。戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、1872年(明治5年)、陸軍中尉に進む。東京鎮台付などを歴任し、1877年(明治10年)3月から10月まで西南戦争に出征。歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、1889年(明治22年)11月、東宮武官に就任する。 後備歩兵第1連隊長、留守第4師団参謀長などを経て、1895年(明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した。
川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年… 川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年2月26日〉- 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。 薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、1869年(明治2年)4月、薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。 1871年(明治4年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。1872年(明治5年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永… 近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日)- 1921年(大正10年)2月9日)は、幕末から大正期の武士(徳島藩士)、実業家、政治家、華族。男爵、日清汽船社長、日本郵船会社第3代社長、貴族院男爵議員。 阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)の医者の家に生まれる。 1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。当時出会った阿部興人とは終生の親友となる。師であった水竹が庚午事変に関係して切腹を命じられた際は、徳島市の潮見寺に遺髪を葬った。 慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)淡路出身の星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。
沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3… 沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3月3日〉- 1931年〈昭和6年〉9月11日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 岩国藩士・松浦周蔵の四男として生まれ、沖原為蔵の養子となる。精義隊士として戊辰戦争に従軍。 1871年(明治4年)、陸軍中尉。御親兵第7番大隊付、第14番大隊付、東京鎮台第1大隊付などを経て、陸軍戸山学校に学ぶ。第8大隊付、歩兵第3連隊付、歩兵第2連隊中隊長などを歴任し、1877年(明治10年)3月から11月まで西南戦争に出征した。 別働第1旅団歩兵第1大隊長、歩兵第2連隊副官、歩兵第10連隊大隊長、近衛歩兵第1連隊大隊長、陸軍省人事局次長、総務局第4課長、人事課長、第2師団参謀長、陸軍教導団長などを歴任し、日清戦争には歩兵第13連隊長として出征した。
飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年… 飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。長州藩家老福原家家臣・飯田直規(勘右衛門)の四男として生まれる。幼名は益雄。幼少期に両親を失う。豊後国の広瀬青邨に漢学を学ぶが、下関戦争の報を聞き直ちに帰国、福原越後に従って国事に奔走。その後奇兵隊に入隊し第二次長州戦争・戊辰戦争に従軍した。 1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官。1874年(明治7年)9月、歩兵中尉となり、西南戦争では歩兵第2連隊第一中隊長として田原坂の戦いに参加した。
松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4… 松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4月11日〉- 1914年〈大正3年〉3月4日)は、日本の政治家、男爵(依勲功特授)。幼名は又之輔(又之助)、大之助。号は牛州・江村など。 肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において[要出典]、小城藩士横尾唯七(岡氏より婿入り)と妻・まちの次男として生まれた。12–13歳頃におじである松田勇七の養子となるが、実際に松田家へ移る前に勇七とその妻ルイが亡くなったため、そのまま実の父母のもとで養育された。松田家が副業として営んでいた酒造業は廃業し、財産分与ののち、二町余歩が松田のもとに残った。その後、14歳で小城藩の藩校・興譲館へ入学する。