川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年… 川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優、殺陣師である。川島 淸と表記されることもある。本名は河島 淸三郎(かわしま せいざぶろう)。旧芸名は鵜沼 三四郎(うぬま さんしろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1905年(明治38年)11月14日、岡山県苫田郡奥津村(現在の同郡鏡野町)に生まれる。 旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)を卒業後、現在の大阪府富田林市にあった天地キネマに入社。ただし、同社での出演作品は不明である。2004年(平成16年)10月15日に発行された『日本映画人改名・改称事典』(国書刊行会)によれば、同社在籍当時は「鵜沼 三四郎」という芸名で活動していたという。
ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 197… ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 1971年〈昭和46年〉5月27日)は、日本の俳優。埼玉県草加市出身。本名・旧芸名は大川 平八郎()。娘婿に俳優の小松英三郎がいる。 1905年、草加宿開拓者のひとりである大川図書の子孫、大川家13代頭首である大川十三代の三男として産まれる。 草加尋常小学校を卒業後、郁文館中学5年進級の際に「操行丙」で落第してしまったため[要出典]、アメリカで実業家になるために1923年に渡米。ペンパル・クラブで知り合ったフロリダ大学の教授を頼って行ったゲインズヴィルで1年過ごす。翌年アトランタへ移り住んで中華料理店で1年5ヶ月間働いた後、さらにニューヨークへ移ってクラブの皿洗いのアルバイトを始める。
笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 196… 笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 1960年〈昭和35年〉4月4日)は、日本の俳優である。本名は春野 武雄(はるの たけお)。及川 武夫と表記に揺れがある。日本初のテレビ時代劇『半七捕物帳』の主役として知られる。妻は元松竹の舞台女優で、村田嘉久子、村田竹子と共に「帝劇三姉妹」といわれた村田みね子である。 1905年(明治38年)6月25日、東京府東京市芝区南佐久間町に生まれる。芝愛宕小学校を経て旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)に入学。卒業後、海軍兵学校の入学試験を受けるも不合格となり、早稲田大学に進学する。しかしそれでも諦められず、再び海軍兵学校を受験して合格したが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で実家及び学校は全焼した。
原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002… 原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002年2月7日)は、日本の俳優。1953年までの芸名は原 健作。広島県呉市出身。本名は松原 義男。時代劇を中心に脇役として活躍した。 所属は第二新国劇から千恵プロ、1937年に解散した後は日活太秦撮影所、1942年に大都京都、1949年から東映へ移り、最後の芸能事務所は龍プロダクション。 娘は女優の松原千明、孫はモデルの松原すみれ。 1923年に旧制呉港中学校を中退。新民衆劇学校(のち第二新国劇)に1期生として卒業、2期生だった大河内傳次郎とともに第二新国劇の看板役者となる。 1925年に聯合映画芸術家協会『弥陀ヶ原の殺陣』の国定忠治役で映画デビュー。
辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉… 辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1989年〈平成元年〉7月29日)は、日本の俳優。兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。本名は新倉武一。 島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。
鳥羽 陽之助(とば ようのすけ、1905年3月16日 - 1… 鳥羽 陽之助(とば ようのすけ、1905年3月16日 - 1958年10月10日)は、日本の俳優である。本名は鳥羽 輝雄(とば てるお)、高勢実乗との「極楽コンビ」で知られる。 1905年(明治38年)3月16日、東京府東京市(現在の東京都区部)に「鳥羽輝雄」として生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)を3年次で中途退学し、満17歳になる1922年(大正11年)、新劇の東京自由劇場俳優養成所の研修生となる。1923年(大正12年)に伊川八郎の「国精劇」、1926年(大正15年)には明石潮の一座に参加する。 同年、京都・御室のマキノ・プロダクションで、二川文太郎らが監督した月形龍之介主演作『修羅八荒』に出演して映画界にデビューした。
志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982… 志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982年〈昭和57年〉2月11日)は、日本の俳優。本名は島崎 捷爾()。身長163cm。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。 兵庫県朝来郡生野町出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。映画出演本数は400本以上に及び、特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。 1905年(明治38年)3月12日、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所の冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ)と、母・喜与の次男として口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父・雄次は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。
林 寛(はやし ひろし、1905年1月31日 - 1971年… 林 寛(はやし ひろし、1905年1月31日 - 1971年12月22日)は、日本の俳優である。本名稲垣 三郎(いながき さぶろう)。音読みが同一の俳優林幹、極東映画の俳優、林寛(はやし かん)とは別人である。 1905年(明治38年)1月31日、京都府京都市に「稲垣三郎」として生まれる。 旧制・同志社中学校(現在の同志社高等学校)を中途退学し、東京に移る。「東京オペラ座」、石井漠主宰の「石井漠一座」、松旭斎天華主宰の「松旭斎天華一座」等、舞台の実演畑を渡り歩く。1926年(大正15年)ころに島幹雄が設立した「日本少女歌劇団」に参加し、地方巡業に関わる。 1940年(昭和15年)、竹田モト(1915年 - 2006年)と結婚、その後2児をもうける。
藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月… 藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月21日)は、日本の俳優。本名は安惠 重男、戦時中の芸名は藤原 鶏太。身長156cm。 実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役。女優の沢村貞子は元妻。他に安恵一夫、藤原秀臣という芸名も用いた。 1905年1月15日、東京市深川区(現東京都江東区)に生まれる。家業の印刷屋不振のため、10歳で麹町の菓子屋に奉公に出る。四ツ谷第三小学校夜間部卒業。薬剤師を目指していた時期もあるが、浅草オペラ全盛時代とあってオペラ俳優に憧れ、滝野川俳優養成所に入る。 卒業後、浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。
北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 198… 龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 1983年10月15日)は、日本の俳優、演出家、俳人、文学座代表取締役社長であった。別表記に竜岡 晋。本名は岩岡 龍治(いわおか たつじ、別表記に岩岡 竜治)。元日本新劇製作者協会会長。 1904年東京・日本橋生まれ、中央商業学校卒業。 1932年に劇団築地座に入団。『カールトアンナ』の兵士役が初舞台。1934年6月、築地座を脱退し劇団創作座の創設に参加。1937年、文学座の創設に参加し、1950年に文学座が株式会社化した際に社長となり、劇団の経営も行った。また、久保田万太郎作品を発掘して『蛍』『雨空』などの久保田の戯曲を演出したり、1978年に演劇集団「円」を中心とした久保田万太郎勉強会を結成するなど久保田作品の継承も行った。
榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10… 榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍した。 東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)で生まれる。幼少期に母を亡くし、その家系の祖母が引き取るが、その祖母も死去。父親の元で育てられるものの、生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることもしばしばあった。小学校時代の通信簿に「修身」で「甲乙丙丁」の落第点である「丁」をつけられて、鉛筆で上手に丁の字に線を書き加えて「甲」に見せかけて父親に見せたが、すぐに見破られて大変叱られたエピソードがある。
澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - … 澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記沢田 敬之助。本名内山 守(うちやま まもる)。初期芸名小澤 茗一郎(おざわ みょういちろう、新漢字表記小沢 茗一郎)、澤田 敬之介(沢田 敬之介)、澤田 慶之助(沢田 慶之助)といった表記に揺れがある。日本映画データベースにおける「沢村敬之助」は誤りである。 1904年(明治37年)8月20日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。 旧制・鹿児島商業学校(現在の鹿児島市立鹿児島商業高等学校)を卒業後、東京に移り、満19歳となる1923年(大正12年)8月、山田隆也、岡田嘉子らによる新劇の劇団である舞台協会に参加、舞台俳優としてデビューする。
結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 19… 結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 1988年9月15日)は、日本の俳優、演劇プロデューサーである[3][4][5][6][7]。本名松崎 龍雄(まつざき たつお)、旧芸名結城 一郎(ゆうき いちろう)[3][4][6][7]。1930年代、松竹蒲田撮影所の青年スターであり、戦後は舞台や音楽のプロデューサー、テレビ出演に進出した。
千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 199… 千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本の演出家、俳優。東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。
笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13… 笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉3月16日)は、日本の俳優。身長171cm。 1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演した。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも、木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、貴重なバイプレーヤーとして活動した。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。 熊本県玉名郡玉水村(天水村、天水町を経て、現在の玉名市)立花で父・淳心、母・トシの次男として生まれる。
上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - … 上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - 1972年11月3日)は、日本の俳優。本名は上田 貞夫(うえだ さだお)。 アクの強めな演技で知られ、300本以上の映画に出演。愛称は「上吉(うえきち)」。 悪役・敵役を得意とし、弱者を痛めつけ、自分より強いものには平身低頭するような悪役が多く、独特なダミ声は、よしもと新喜劇の島田一の介や林家木久扇らによって度々声帯模写で取り上げられた。 1904年(明治37年)3月30日、兵庫県神戸市三宮に生まれる。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)在学中の1918年(大正7年)、神戸中央劇場で観た新国劇の舞台『新朝顔日記』での澤田正二郎の演技に感動し、彼に弟子入りを頼んで新国劇に入団する。
金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳… 金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名は金村 春夫(かねむら はるお)など。日活大将軍撮影所や日活太秦撮影所などで長く活躍した、伊藤大輔監督映画の常連である。特技は乗馬、水泳、ビリヤード。 1904年(明治37年)3月27日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。 1915年(大正4年)、11歳の時に養父である若月一郎の新歌劇の一座で初舞台を踏む。正則中学校(現在の正則高等学校)に進学し、学業の傍ら西野薫一座の芝居に参加する。 1922年(大正11年)、同中学校を卒業して日活向島撮影所に入社。金村春夫名義で数本の作品に出演。
小倉 繁(おぐら しげる、1904年3月16日 - 1958… 小倉 繁(おぐら しげる、1904年3月16日 - 1958年5月29日)は、日本の俳優。栃木県宇都宮市出身。本名同じ。喜劇映画で活躍し、和製チャップリンと呼ばれた。 栃木県宇都宮市の生まれ。劇団に入り、地方巡業を経て、1923年に国活に入社。 1925年に松竹蒲田撮影所に入社。始めは端役を演じていたが、小津安二郎監督の『女房紛失』から頭角を現していき、短編喜劇映画の脇役として活躍。1929年、喜劇の神様と呼ばれ、城戸四郎が開拓したナンセンス喜劇を多く演出した斎藤寅次郎監督の『モダン怪談100,000,000』に国定忠次の幽霊役で出演。以降、ナンセンス喜劇の代表的俳優となり、軽妙なドタバタ演技で人気喜劇俳優となった。
山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982… 山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982年)は、日本の俳優である。本名同じ。成瀬巳喜男の現存する最古の監督作『腰辨頑張れ』の主演俳優であり、戦後も東映京都撮影所の脇役俳優として知られる。 1904年(明治37年)3月4日、東京府東京市麻布区麻生竹谷町(現在の東京都港区南麻布)に生まれる。小林信彦によれば、赤坂区青山(現在の港区青山1丁目付近)出身の小林の母は、山口の従姉妹にあたるといい、つまり山口からみて小林は従甥にあたる。 麻布区内の東京市立南山尋常小学校(現在の港区立南山小学校)を卒業し、旧制・高輪中学校(かつての第一仏教中学校、現在の高輪高等学校)に進学する。2学年上にのちの俳優の江川宇礼雄がいた。
岡崎 晴夫(おかざき はるお、1904年3月 - 没年不詳)… 岡崎 晴夫(おかざき はるお、1904年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川端 淸次(かわばた きよつぐ)。岡崎 春夫と表記に揺れがある。戦前、日活大将軍撮影所の時代劇を中心に活躍した名脇役である。 1904年(昭和37年)3月、京都府京都市上京区大将軍に生まれる、とされている。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)及び1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同社)では、生年は「明治三十六」(1903年)である旨が記されている。また、1998年(平成10年)に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)によれば、出生地は京都府相楽郡木津町(現在の同府木津川市木津)の説もあるという。
浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - … 浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名浅野 信二郎、浅野 進二郎、浅野 象二郎(あさの しょうじろう)ほか、表記の揺れがある。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。 新劇を志し、開校された新国劇付属演劇研究所に第1期生として入所、澤田正二郎(1892年 - 1929年)らの指導を受け、1923年(大正12年)8月に同所を卒業している。同研究所の同期には草間実、根本淳、第2期生には金平軍之助らがいた。まもなく関東大震災を経験し、1924年(大正13年)には、水谷竹紫、初代水谷八重子らが同年に設立した第二次芸術座に参加する。
小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月… 小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月24日 - 1983年4月8日)は、日本の映画俳優、映画監督。作曲家の小杉太一郎は息子。息子の妻は漫談家の山野一郎の娘。 宮城県石巻市に生まれる。石巻商業学校を卒業後、上京し、「日本橋白木屋百貨店」に就職する。しかし、1923年、日本映画俳優学校設立と同時に入学する。同期に八木保太郎、吉村廉、島耕二などがいる。 1925年、日活京都撮影所に入社する。当時の日活は看板スターであった鈴木傳明や岡田時彦などが去り、新しいスターを必要としていた。また、左翼思想の台頭などもあり、たくましさも兼ね備えた小杉が新しい時代を象徴する存在として注目された。
ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12… ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は仁平 久(にへい ひさし)。別表記ジョウ・オハラ、ジョー・オ・ハラ、ジョー 大原(ジョー おおはら)。別芸名大原 仁美(おおはら ひとみ)、大原 譲および大原 穣(おおはら じょう)。新派俳優西田敏夫と共に小松商会の専属俳優から始まり、新興キネマ東京撮影所、大映東京撮影所などで長く活躍した名脇役として知られる。 1903年(明治36年)12月20日、秋田県秋田市に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業し東京へ移転、旧制・専修商業学校(現在の専修大学)を卒業した後に映画会社小松商会に入社している。
邦 創典(くに そうてん、1903年11月24日 - 198… 邦 創典(くに そうてん、1903年11月24日 - 1982年12月21日)は、日本の俳優。東京市深川区菊川(現:東京都墨田区菊川)出身。東京府島田町立実業補習学校(現:東京都立墨田工科高等学校)卒。極東映画、松竹、東宝、新東宝(現:国際放映)、エヌ・エー・シーなどに所属していた。本名は桑原 二郎。旧芸名は国 創典。特技は剣舞。 妻は女優の五月藤江(さつき ふじえ、1893年10月5日 - 1982年8月21日)。
竹内 良一(たけうち りょういち、1903年11月13日 -… 竹内 良一(たけうち りょういち、1903年11月13日 - 1959年1月18日)は、日本の俳優。本名は外松 良一(とまつ りょういち)。旧芸名は竹内 良作(たけうち りょうさく)。女優岡田嘉子の元夫。実妹は舞台女優の竹内京子。祖父は外松孫太郎。男爵・外松亀太郎の長男。 1903年、陸軍大尉男爵・外松亀太郎(とまつ かめたろう, 明治8年生まれ、外松孫太郎長男)と混血の声楽家で日本女子大教師の大山たま子(明治10年生まれ、明治43年離縁)の長男として東京市赤坂区青山に生まれる。1911年、学習院初等科入学。学習院中等科を経て、1922年に学習院高等科を卒業。1924年6月、築地小劇場の演技研究生となり、千田是也たちと共に演劇を学び、竹内良作の芸名で舞台に立つ。
石山 健二郎(いしやま けんじろう、本名;石山 繁一、190… 石山 健二郎(いしやま けんじろう、本名;石山 繁一、1903年10月10日 - 1976年5月10日)は、日本の俳優。広島県広島市生まれ。息子は石山輝夫。旧制私立修道中学校卒業。
小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 196… 小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月12日)は、日本の俳優。叔父に日本画家の小杉放庵、長女は元女優の小杉公子。栃木県出身。 栃木県上都賀郡日光町生まれ。日本館にいた石井漠に舞踊、松島詩子にコールユーブンゲンを習い、浅草オペラの歌手として活躍する。その後は、伊庭孝の新星歌舞劇団を経て新劇協会に入り、帝国ホテル演芸場での『桜の園』のヤーシャで認められる。 1925年、築地小劇場に入り、『どん底』の靴屋のアリョーシカで認められ、これを持ち役とし、以降はこわもての風貌を武器に脇役として個性的な演技で活躍。映画初出演は、1927年に築地小劇場の座員と共に出演した『黎明』。
横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 19… 横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。本名同じ。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。 1903年(明治36年)8月27日、東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・横田冬)である。 当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる。
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年〈… 古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。編集者、エッセイストとしても活動した。 古川郁郎は東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生まれた。嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名である。
徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27… 徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手・俳優。愛称は「徳さん」。 1903年(明治36年)7月27日、神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市)の開業医の家に生まれた。 開校したばかりの逗子開成中学校(現在の逗子開成高等学校)を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。
志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年… 志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 1903年(明治36年)7月16日、秋田県に生まれる。 のちに京都に移り、勝見庸太郎に入門、1922年(大正11年)には旧制・東山中学校(現在の東山高等学校)を卒業している。1926年(大正15年)、勝見が「勝見庸太郎プロダクション」を設立、マキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始すると、それに参加する。その後、島耕二と離婚した大谷良子と結婚している。 1937年(昭和12年)には、日活京都撮影所に入社、多く脇役を務めた。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、志茂山は同社に継続入社する。
芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明… 芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明)は、日本の俳優である。本名川上 勇之進(かわかみ ゆうのしん)。 1903年(明治36年)6月16日、北海道函館市に生まれる。 上京して早稲田大学文科卒業後、大阪市に移る。大阪松竹劇団を経て新声劇の幹部俳優となり、大阪の角座、浪花座などに出演。1933年(昭和8年)には日活太秦撮影所に入社して映画俳優もこなした。映画界入りの最初の年には主演作『峠三里』と『月光人斬橋』を残しているが、以後は脇役に専念。1934年(昭和9年)に第一映画、1936年(昭和10年)には新興キネマへの移籍を経て、のちにフリーとなる。第二次世界大戦中から終戦後にかけてはフリーとして、東宝劇団、東宝撮影所、榎本健一一座、古川緑波一座などで活躍した。
岡田 桑三(おかだ そうぞう、1903年6月15日 - 19… 岡田 桑三(おかだ そうぞう、1903年6月15日 - 1983年9月1日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサー。俳優としての芸名は「山内光(やまのうち ひかる)」。 横浜の商家の娘・よねと番頭の美平の間に生まれる。ドイツ、ソ連で舞台美術、映画、写真の技術を学んだ。日活、松竹で俳優として映画に出演する一方、日本プロレタリア映画同盟、写真・映画団体「国際光画協会」、写真集団「日本工房」、「中央工房」などに関わり、プロパガンダグラフ雑誌「FRONT」を発行する「東方社」の創設に参加。多くの映画人、写真家、美術家らに影響を与えた。戦後は、南方熊楠遺稿の出版に関わった後、東京シネマを興し、科学映画を中心とする短編映画が、内外で高く評価されたことで、そのプロデューサーとして知られた。
牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年… 牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年1月13日)は、日本のバス歌手、俳優である。 1903年(明治36年)6月2日、大分県にうまれる。 大阪に出て、関西学院大学神学部に入学するが中退し、外山国彦に師事した。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)に入学、卒業後、山田耕筰に師事した。 1930年代(昭和初年)、フランスに渡り、俳優に転向、マルセル・レルビエやクリスチャン=ジャック、フランス時代のロバート・シオドマクの作品に出演した。フランス映画『Macao, l'enfer du jeu』やドイツ映画に出演[要出典]している。 1940年(昭和15年)には帰国し、東宝映画に2作出演、いずれも歌う役である。
石原須磨男(いしはら すまお、1903年5月1日 - ?)は… 石原須磨男(いしはら すまお、1903年5月1日 - ?)は、日本の俳優。兵庫県神戸市出身。 当初は、「石原須磨夫」名義で活動しており、中学を中退した後の1921年(大正10年)に新声劇に入団。後に、女優・栗島すみ子の父にあたる栗島狭衣に師事して栗島プロに参加。1930年(昭和5年)、松竹下加茂撮影所に入社、1932年12月の『忠臣蔵 前篇〜赤穂京の巻〜』にて初出演。 1947年大映に移籍。以後、『お遊さま』(1951年)『近松物語』(1954年)『山椒大夫』(同)などの溝口健二監督作品や時代劇で高齢者役を演じ、大映倒産後は『木枯らし紋次郎』(1972年)などテレビにも多数出演。 記録上最後の出演作は『丹下左膳 剣風!百万両の壺』(フジテレビ、1982年10月22日放送)だったとされている。
片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年… 片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1983年〈昭和58年〉3月31日)は、日本の俳優。本名︰植木 正義(うえき まさよし)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1903年3月8日 - … 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1903年3月8日 - 1986年2月28日)は、滋賀県栗太郡物部村(現:守山市)出身の俳優。本名は高橋 由松。 1920年、新派の俳優・伊井蓉峰の門下生となる。 時代劇では捕り方役などで出演していた。 新派、文藝団[要出典]、マキノ撮影所、松竹、東宝、新東宝、フリーを経て、さち子プロ[要出典]に所属していた。 1986年2月28日、死去。82歳没。
岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1… 岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1903年)2月18日 - 昭和9年(1934年)1月16日)は、大正・昭和初期の日本の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優であった。 東京市神田区宮本町(現・千代田区外神田2丁目)に生まれる。父の放浪癖のため、川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とした。大正4年(1915年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、青柳信雄らがいた。旧制・逗子開成中学校(のち中退)には抜群の成績で入学したが、伊勢佐木町の映画館で観た『名金』に感動して、学業そっちのけで浅草六区に足を運ぶほど映画に熱中した。 大正9年(1920年)、4月に設立され、山下公園に撮影所をもつ横浜の映画会社大正活映(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。
石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - … 石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - 1981年12月1日)は、日本の俳優。本名は同じ。 山口県下関市出身。旧制豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)を中退。 初めは工芸の仕事をしていたが、舞台俳優を目指して1924年に松竹に入り、後に前進座に移る。1935年に『街の入墨者』で映画デビューする。 1937年、石島と同じく前進座に所属していた原ひさ子と結婚した。 1944年に夫婦揃って東宝の専属となり、後に東映などに所属、『ひめゆりの塔』(1953年)や『警視庁物語シリーズ』などの映画に出演した。またテレビドラマにも多く出演した。
嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高… 嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。
高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月… 高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月3日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の俳優、映画監督、映画プロデューサー。初期には片岡 慶左衛門(かたおか けいざえもん)、片岡 慶三郎(かたおか けいさぶろう)と名乗った。本名は慶吉(-けいきち)。身のこなしの軽さから「鳥人」として知られる。 1902年(明治35年)11月3日、長野県下諏訪町に「高木慶吉」として生まれる。神田英語学校卒業。 1920年(大正9年)、マキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事した。1923年(大正12年)6月、片岡 慶左衛門、片岡 慶三郎の名で映画に出演し始める。1925年(大正14年)の東亜キネマからの牧野の分離独立後も、東亜キネマに残留する。
鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没… 鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は恵良 俊二郎(えら しゅんじろう)で、旧芸名は鹿島 陽之助(かしま ようのすけ)。一部に鹿島 俊作という表記もみられる。 1902年(明治35年)9月25日、東京市日本橋区(後の東京都中央区日本橋)に生まれる。 旧制・大分県宇佐中学校(後の大分県立宇佐高等学校)を卒業して上京すると、相羽有が主催する蒲田の日本飛行学校に入学。航空機制作の理論や技術を学んだ。その後は欧州航路の高級船員を務めたこともあったとされる。自動車やオートバイの運転、ダンスも得意とし、変わり種と評された。牧野省三が日活から独立して設立した牧野教育映画製作所に1923年(大正12年)に入社、「鹿島 陽之助」として脇役出演を開始する。
小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26… 小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26日 - 1974年11月10日)は日本の俳優。本名は小笠原 長英(おがさわら ながふさ)。 旧唐津藩主子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将・元宮中顧問官・元学習院御用掛)・秀子(元前橋藩主伯爵松平直方の長女)の次男として東京府東京市に生まれる。学習院初等科・学習院中等科から陸軍幼年学校に入学したが病気で中退、学習院高等科卒業。 日本映画黎明期の大正時代、兄の小笠原明峰(小笠原長隆)が設立した小笠原プロダクションの専属となり、1921年に芸能界入りする。兄の明峰は長生の長男であり、第15代当主となる立場であったが、映画監督となったため廃嫡となる。
廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は… 廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名喜多 猶光(きた なおみつ)、新字体表記広田 昴のほか、広田 昂、広田 昻、広田 宏と表記に揺れがある。 1902年(明治35年)7月5日、兵庫県西宮市に生まれる。 大阪の旧制・大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築科を卒業し、喜多村緑郎、秋月桂太郎らが道頓堀の朝日座を拠点にした新派の劇団「成美団」(第2期)の俳優になる。1926年(大正15年)、御室撮影所時代のマキノ・プロダクションに入社する。1928年(昭和3年)、同社を退社、同じく同社を退社して独立した中根龍太郎が設立した中根龍太郎喜劇プロダクションに合流する。
城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代… 城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代)は、日本の元俳優、元映画監督である。本名は城田 二郎(読み同じ)。鈴木傳明、岡田時彦、高田稔ら松竹蒲田撮影所のスターが連袂退社するに伴い入社、二枚目俳優として主演を務めていたが、短命に終わった。 1902年(明治35年)7月、東京府東京市豊多摩郡千駄ヶ谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。出生地についてはアメリカ合衆国ハワイ州の説もある。 幼少期に渡米し、現在のハワイ州ヒロにあった私立学校ヒロ・ボーディング・スクール(Hilo Boarding School、現存せず)に進学する。同校卒業後、日本に帰国して慶応義塾大学に進学するが、この頃から身長173cm・体重67.5kgという体格を活かしてスポーツマンとしてならし、特に水泳と柔道に優れていた。
斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 19… 斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本の俳優、映画監督。 松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。 1902年(明治35年)6月10日、東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった。
岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970… 岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)。 1902年(明治35年)5月25日(日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。深川区で硝子腐食工場を営む中溝兵三郎の次男として生まれ、三十銀行の頭取兼支配人、中溝秀周の養子となった。祖父は佐賀藩の勘定方を務めていた。義父秀周は安政元年1月12日に生まれ、慶応2年12月に兄の権之助の後に家督を継いだ。維新後に実業家となり、千寿製紙破産後の整理委員も務めた。義母は同藩士で江藤新平の部下であった馬渡雅一の長女のうき。
江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7… 江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉5月20日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名はウィリー・メラー(後に江川 ウレオ)。愛称は「ウレシュウ」。 1902年(明治35年)、ドイツ極東艦隊海軍病院薬局長として来日したドイツ人のフリードリッヒ・ウィルヘルム・メラーと河内出身の日本女性ゑいの次男として神奈川県横浜市山下町(現在の同県同市中区同町)に生まれる。幼い時に、両親が離婚。父は長男を連れてドイツに帰国、母にひきとられた江川は本名を「ウィリー」から「ウレオ」に改名した。 1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業、同級生に青柳信雄、中田晴康(脚本家)、国木田虎雄、高橋英一がいた。
由利 健次(ゆり けんじ、1902年3月27日 - 没年不詳… 由利 健次(ゆり けんじ、1902年3月27日 - 没年不詳)は、日本の元俳優である。本名は中山 太吉(一説に中山 章、なかやま あきら)。旧芸名は中野 洋二(なかの ようじ)、中野 健治(なかの けんじ)、中野 健次、中野 健二。 1902年(明治35年)3月27日、三重県桑名郡城南村字小貝須(現在の同県桑名市小貝須)に農業を経営する父・弥太郎と母・すわの次男として生まれる。城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)卒業後、北海道雨竜郡深川町(現在の同道深川市)にあった親戚邸に移り、北海道庁立旭川中学校(現在の北海道旭川東高等学校)に進学するも、1921年(大正10年)に中退する。ただし、1998年(平成10年)に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』では「旭川中学校卒業」としている。