関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12… 関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12月11日(1855年1月28日) - 明治29年(1896年)1月8日)は、日本人初の地震学者。世界初の地震学専任教授。 安政元年12月11日(1855年1月28日)、父は美濃大垣藩士・衣斐玄助(えびげんすけ)、家は代々戸田候に仕えた、母はユキの長男として歩行町(おかちまち 現・大垣市歩行町)に生まれる。兄妹に5歳下の弟(銘次郎・歩兵第34連隊長陸軍大佐、日露戦争で戦死)と妹(美志 泉法輪に嫁ぐ)がいる。幼名は鉉太郎(げんたろう)といった。父玄助(関谷家に養子に行った)の実兄衣斐精蔵が病死し、その子が幼いことから鉉太郎が出て後を継いだが、後、養家の子の成長後本姓の関谷に戻り名前も清景に改めた。
西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年… 西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年12月10日)- 1895年(明治28年)7月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は道郎、諱は行信、通称は伝右衛門。 西尾雄一郎の子として、遠江国豊田郡友永村(三川村、静岡県磐田郡三川村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。地元の医師鈴木宗元が開いていた寺子屋で学んだところ、たちまち先輩を追い抜く才を示した。その後杉浦某に入門し漢学を、また馬杉雲外のもとで詩文を学んだ。1873年(明治6年)友永村戸長となり、1883年(明治16年)から磐田・山名・豊田郡長を務めた。「経世済民」を掲げ、1878年(明治11年)9月、遠江有志同盟会という政談社を組織し国会開設請願運動に傾倒した。
桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元… 桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元年12月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月21日)は、明治から昭和時代初期の官吏。宮中顧問官。旧姓は細迫。 長門国豊浦郡阿川村(豊北町を経て現下関市豊北町大字阿川)に生まれる。細迫礼介の長男。1884年(明治17年)5月、絶家桂庄左衛門の家を再興する。東京専門学校校外生となり、英法を学ぶ。宮内省華族局に出仕し、のち爵位局主事に就任。宮内書記官を兼ねたのち、東宮主事に転じ、東伏見宮別当を兼ね、東伏見宮別当泰宮御養育掛長兼宮中顧問官に就任した。墓所は多磨霊園。
岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(18… 岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(1855年1月25日) - 昭和8年(1933年)5月2日)は日本の教育者、動物学者。分類学的手法に基づく貝類目録を、日本で初めて上梓したことでも知られる。東京帝国大学卒。。 陸奥国弘前(現青森県弘前市) にて、父豊吉、母いちの長男として生まれる。豊吉は貧しい表具師であったが、祖父は国文学者として津軽藩校で教鞭を執っていた。生活苦のため寺に小僧に出されたものの、叔父岩川藤兵衛の伝手を頼り、15歳で藩の海軍局へ入局、機関学を学ぶこととなる。 藩校で英語を学んだ後、当時新設されたばかりの東奥義塾(1872年11月27日創設)にて英語教師に就く。
岩崎 安治郎(いわさき やすじろう、1855年1月24日(安… 岩崎 安治郎(いわさき やすじろう、1855年1月24日(安政2年12月17日)- 1919年(大正8年)4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 河内国河内郡、のちの大阪府中河内郡大戸村(石切町、枚岡市を経て現東大阪市)出身。農業を営む。大戸村会議員、中河内郡会議員、同議長、大阪府会議員、中河内郡教育会副会長となる。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から中央倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1919年に死去した。
池田 謙三(いけだ けんぞう、1855年1月20日(安政元年… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1855年1月20日(安政元年12月3日)- 1923年(大正12年)11月29日)は、日本の銀行家である。 現在の兵庫県豊岡市(旧・出石郡日高町宵田)に池田澄治の息子として生まれる。東京府庁勤務の傍ら漢学塾に通い内務省などを経て、1880年に生糸貿易に従事。1883年に原六郎に勧められ、第百銀行に入り取締役兼支配人に就任し、1912年に頭取となる。東京貯蔵銀行の頭取をかね、日本興業銀行、台湾銀行設立委員会、東京交換所委員長、第一生命保険、東京商業会議所特別委員、日進銀行各重役などを歴任した。墓所は品川区北品川の東海寺。 矢野恒太記念会は、池田の顕彰を目的とした「池田謙三翁記念奨学金」を1957年に設立し、出身地の出石にある兵庫県立出石高等学校の生徒10人を対象に支給している。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日… 上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日(1855年1月16日) - 明治43年(1910年)9月19日)は、日本の政治家。 信濃国筑摩郡南新村(現長野県松本市)に、代々松本藩主戸田氏の御殿医(眼科)を務めた庄屋の長男として生まれ、漢学を武居用拙に学んだ。1875年上京して小石川同人社や学農社で英語や農学を修め、1879年帰郷した。 1889年町村制施行により東筑摩郡新村の初代村長となる。その後は郡会議員、長野県会議員を経て、1898年第5回衆議院議員総選挙に初当選、衆議院議員(立憲政友会)を2期務めた。 1899年には信濃民報社創設に尽力し、新村銀行を創設。1907年長野農工銀行取締役に就任した。
浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安… 浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安政元年11月26日〈1855年1月14日〉 - 1915年〈大正4年〉2月16日)は、日本の産婦人科医。医学博士。東京帝国大学医科大学教授、医科大学長を歴任。日本婦人科学会初代会長。日本における産科婦人科学及び助産師(産婆)養成の基礎づくりに貢献した。 肥後国宇土郡里浦村(現・熊本県宇城市三角町大岳)において、熊本藩の医師濱田玄齊(波多村の医家からの養子)の長男として生まれた(旧名は慶吉)。数え2歳で母を、11歳で父を亡くし、父方の伯父のもとで読書習字をならい、14歳で儒医福田元澤に入門、調剤の傍ら漢学及び蘭学を兼修した。1870年(明治3年)10月開設の西洋医学の藩立病院、通称・古城医学校(熊本大学医学部の源流)への入学を許され、翌年招聘されたオランダ人軍医マンスフェルトに師事した。
安藤 政次郎(あんどう まさじろう、1855年〈安政2年〉1… 安藤 政次郎(あんどう まさじろう、1855年〈安政2年〉1月10日 - 1930年〈昭和5年〉7月18日)は、明治時代の新聞販売業者・養豚業者。現在の豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)の前身である「安藤動物園」の創設者である。 三河国渥美郡吉田紺屋町(現・豊橋市大手町)に、紺屋を営む安藤喜久治の長男として生まれる。 明治10年(1877年)に故郷を離れ、静岡で新聞販売業を始める。同13年(1880年)には横浜に移り、同地でも新聞販売を行う。 横浜時代の政次郎は刺子の半纏にわらじ履きといういで立ちで、日の丸の小旗2本を組んで飾った黒塗りの挟み箱に新聞を入れて肩に担ぎ、鈴を鳴らして新聞を売って回った。
猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年… 猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年11月20日) - 1909年(明治42年)10月9日)は越中国射水郡横田村(現・富山県高岡市横田)出身の大相撲力士。本名は江川三吉(のち八島姓)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。珍名で知られる。 9代小野川に入門。初名を小猫 三吉と名乗り1873年(明治6年)7月中相撲四段目が初見。1876年(明治9年)の紛擾で脱走、高越山谷五郎一派に参加し猫又 三吉と改めた。 1878年(明治11年)9月の和解本場所には姿を見せず翌1879年(明治12年)9月いきなり前頭筆頭に出た。1883年(明治16年)8月小結、1884年(明治17年)9月関脇、1886年(明治19年)11月31歳で大関となった。
安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安… 安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安政元年11月20日)- 1926年(大正15年)7月22日)は、明治から大正期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、千葉県長生郡茂原町長。旧姓・横堀、幼名・篤造、号・雲山。 上総国長柄郡茂原村(千葉県長柄郡茂原町茂原、長生郡茂原町茂原を経て現茂原市)で、横堀確三郎の三男として生まれる。漢学を修めた。その後、代々里正を務め、醤油・酢製造業の酢屋当主、茶園も経営していた先代安川寛三郎の養子となる。1879年(明治12年)養父の死去に伴い家督を相続し寛三郎を襲名した。 家業を受け継ぎ、紅茶をイギリスに輸出するなど茶業経営に励んだ。1884年(明治17年)茂原町用掛となり、千葉県勧業諮問会員、長柄上埴生茶業組合委員長などを務め、地域の茶業振興に尽力した。
平島 松尾(ひらしま まつお、安政元年11月17日(1855… 平島 松尾(ひらしま まつお、安政元年11月17日(1855年1月5日) - 昭和14年(1939年)8月13日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→憲政本党→憲政会)。 陸奥国安達郡二本松(現二本松市)で二本松藩士平島正就の長男として生まれ、藩校で漢学を学ぶ。戊辰戦争に従軍した後、英学を学び、1873年(明治6年)に福島小学校の教員となった。その後、大蔵省、ついで福島県に勤務するが、1881年(明治14年)に官を辞し、自由党に入党した。しかし翌年、福島事件により河野広中とともに逮捕された。1889年(明治22年)、特赦により出獄し、河野とともに大同団結運動に参加した。 福島県会議員を経て、1894年(明治27年)の第3回衆議院議員総選挙に当選。
石原 彦太郎(いしはら ひこたろう、嘉永7年11月16日(1… 石原 彦太郎(いしはら ひこたろう、嘉永7年11月16日(1855年1月4日) - 明治31年(1898年)8月30日)は、衆議院議員(自由党)、甲府市長。 甲斐国甲府柳町に父「彦太郎(光邦)」、母「たけ」の長男として生まれる。慶応4年3月5日、東山道総督参謀の板垣退助らが甲府城に入ると石原家(冨士彦)を宿舎とした。この際、彦太郎は大いに板垣に心酔し、後年に板垣が自由民権運動を起こすとこれに賛同し、自由党に入党した。1875年(明治8年)1月に山梨県第一区副戸長となり、1889年(明治22年)7月1日の甲府市制施行に伴う、同月19日及び20日の両日に渡った第一回市会議員選挙において、第一期議員30名の中の一人として甲府市会議員(1889年(明治22年)7月20日 - 1895年(明治28年)7月19日)に当選し1891年(明治24年)6月20日には議長に選出され、1893年(明治26年)1月20日まで務めている。
稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855… 稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1912年(明治45年)6月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、栃木県那須郡上江川村長。 下野国那須郡鹿子畑村(栃木県那須郡上江川村大字鹿子畑、喜連川町を経て現さくら市鹿子畑)で、豪農の家に生まれる。漢学、行政学、経済学、財政学を修めた。 戸長を務め、1888年(明治21年)立憲改進党に入党。那須郡会議員、同議長、栃木県会議員、所得税調査委員などを務め、1897年(明治30年)2代上江川村長に就任した。 1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(栃木県郡部、憲政本党)に立候補して当選し、衆議院議員に1期在任。
室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元… 室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治期の日本の教員、翻訳家、政治家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡中村(福島県相馬郡中村町を経て現相馬市)で生まれる。尺振八の塾(共立学舎)に入り英書を学び、同塾教師となる。同人社に転じ英学教員に就任。27歳で外務省翻訳局御用掛に転じ、条約改正事務を担った。1887年(明治20年)長崎県尋常中学校長に転出した。 1890年(明治23年)9月、立憲自由党に入党し、1897年(明治30年)河野広中の福島県下自由党の分党活動に反対し、目黒重真県会議長らと県下自由党組織の維持に貢献した。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で初当選し、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
釈迦ヶ嶽 清一郎(しゃかがたけ せいいちろう、1855年1月… 釈迦ヶ嶽 清一郎(しゃかがたけ せいいちろう、1855年1月1日(嘉永7年11月13日) - 1929年(昭和4年)9月19日)は大和国宇智郡二見村(現・奈良県五條市二見)出身の大相撲力士。本名は西出栄治郎(のち清一郎、一時柴田姓?)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 鏡山の弟子となり、のちに藤嶋部屋に移籍。1871年(明治4年)初土俵。初名を若柳と名乗るというが番付未確認。1875年(明治8年)6月中相撲二段目にある釈迦ヶ嶽 栄次郎が初見。1876年(明治9年)6月下の名を清一郎と改める。 1884年(明治17年)9月入幕。大柄ではないが怪力として知られた。好不調の波があり暫く停滞したが1889年(明治22年)9月関脇。
石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(18… 石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(1854年1月31日) - 大正6年(1917年)10月2日)は、日本の衆議院議員(憲政党→立憲政友会)、弁護士、教育者。 丹後国加佐郡舞鶴出身。丹後田辺藩士の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、大阪兵学寮に入った。その後、法律を学び、1876年(明治9年)に代言規則が発布されると、免許を得て代言人となった。豊岡、大阪で開業した後、1879年(明治12年)に岡山に移住した。 1882年(明治15年)に山陽自由党を結成して自由民権を唱え、1885年(明治18年)には大阪事件の被告の弁護にあたった。その後、大同団結運動がおきると積極的に参加して、岡山に大同倶楽部を組織した。
安藤 謙介(あんどう けんすけ、1854年1月29日(嘉永7… 安藤 謙介(あんどう けんすけ、1854年1月29日(嘉永7年1月1日)- 1924年(大正13年)7月30日)は、日本の検察官・官僚・政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員、横浜市長、京都市長。 土佐藩士・安藤常三郎の長男として安芸郡羽根村(現室戸市)に生まれる。1873年に上京し、ニコライ塾に入り、その後、東京外国語学校に移りロシア語を学んだ。中江兆民からフランス語も学んだ。 1876年4月、勝海舟の推薦で外務省に出仕し、ロシア帝国サハリンのコルサコフ領事館書記一等見習となる。1878年、サンクトペテルブルク公使館書記生となり、サンクトペテルブルク大学で法学、行政法などを履修した。1882年から同大学の日本語教官となった。
高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永… 高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永7年1月1日〉- 1926年〈大正15年〉11月28日)は、日本の外交官。男爵。貴族院議員等を務めた。日露講和会議で小村寿太郎とともに全権委員を務め、日露戦争後の日米関係を定めた高平・ルート協定を締結した。 現在の岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男であったが、同藩士高平真藤の養子となった。1868年の戊辰戦争には奥羽越列藩同盟側として従軍した。1870年(明治3年)貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学し、1873年(明治6年)には同校を卒業して工部省に出仕した。1876年(明治9年)以降は外務省に出仕し、1879年(明治12年)には在米国公使館在勤。
野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日… 野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日(安政元年1月1日) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の会社役員。多久鉱業、古賀山炭坑各取締役。族籍は福岡県平民。 豊前国下毛郡宮園村(現・大分県中津市耶馬溪町大字宮園)出身。朝吹泰蔵の三男。1864年に野依半七郎の養子となり、1877年に家督を相続する。会社の重役である。住所は佐賀市西田代町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月… 天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1930年(昭和5年)8月28日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県知多郡亀崎町長。 尾張国知多郡乙川村(愛知県知多郡乙川村、亀崎町を経て現半田市亀崎町)で、先代・天埜伊左衛門の長男として生まれた。1869年(明治2年6月)家督を相続した。酒造業を営む。私塾を設け郷土の子弟の教育に尽くした。 乙川村戸長となる。1884年(明治17年)愛知県会議員に選出され1892年(明治25年)まで在任。1889年(明治22年)亀崎町長に就任。所得税調査委員、亀崎教育会長も務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(愛知県第7区)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年… 大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1933年(昭和8年)4月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡浦和町長。 肥前国高来郡堂崎村(のち長崎県南高来郡有家町、現:南島原市)で、佐々木龍潭の三男として生まれ、大島命の養嗣子となる。長南梁、村上仏山から漢籍を学ぶ。その後、長崎の瓊林館で英書を学んだが、学費の工面のため長崎本獄吏員となり、入獄中の丸山作楽とよしみを通じた。1875年、丸山の密書を持参して上京し、職を転々としながら丸山の動きに備えていた。 丸山の陰謀が止むと、東京の茂松法学舎で法律学を学び、1880年、代言人試験に合格して、1882年、浦和町に事務所を開設した。
有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉… 西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉永6年12月24日) - 1932年(昭和7年)6月1日)は、幕末の会津藩士。明治期の裁判官。白虎隊士として戊辰戦争を戦い、裁判官として大審院判事にいたる。中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人。 会津藩士の子として生まれる。父、西川俊治は、禄高6石5斗2人扶持、御書簡所物書勤めである。16歳で戊辰戦争を迎え、白虎寄合二番隊士として8月より越後方面で戦ったが、退却を余儀なくされ、9月6日より会津若松城に戻り三の丸警備にあたる。 戦後静岡藩に留学し、沼津兵学校附属小学校で学ぶ。1878年(明治11年)旧東京大学法学部を卒業。西川は旧東京大学法学部の最初の卒業生の一人であり、同期生6人には河上謹一などがいる。
片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(185… 片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。 山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。 宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。 日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。 代表作である旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(… 大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日) - 1904年8月17日)は、出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)出身の元大相撲力士。5代千賀ノ浦。本名は諏訪 辯治(すわ べんじ)。最高位は西大関。 1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日)に出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から地元の土地相撲で活躍したことで村民から「鬼童」と呼ばれて評判だったが、大食漢・大の相撲好きが災いして家業を疎かにすることが多くなったために養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京、立田川部屋へ入門した。1873年12月場所において序二段で初土俵を踏むが、素行が悪かったためにまもなく脱走して新潟県を放浪し、村上の酒造家で奉公しながら再び土地相撲で活躍した。
9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月… 9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月13日(嘉永6年12月15日)- 1938年(昭和13年)8月11日)は、明治から昭和前期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・菅野。 陸奥国安達郡、後の福島県安達郡小浜村(小浜町、岩代町を経て現二本松市小浜)で菅野善右衛門の三男として生まれ、安積郡郡山村(郡山町を経て現郡山市)の商家、大地主・佐藤喜一郎の養子となる。 1884年(明治17年)7月、郡山村会議員に就任し、その後、郡山町会議員、所得税調査委員、安積郡会議員、郡山本町郵便局長、営業税調査委員などを務めた。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、研究会に所属して活動し1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6… 片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6年12月14日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正二位勲一等男爵。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下薬師馬場町(鹿児島県鹿児島市薬師町を経て現薬師)で、薩摩藩士・片岡喜藤太の次男として生まれた。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。まだ兵学寮も制度が固まっておらず、カリキュラムを修了した順に卒業させていた。日高壮之丞大将と同時に入寮したものの、日高はそのまま兵学寮で練成を終えて第2期卒業を果たし、一方で片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に随員として1年半派遣されたため、日高より1期遅い第3期卒業生扱いとなっている。
本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(185… 本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(1854年1月10日) - 大正2年(1913年)6月6日)は、日本の政治家。中浜村長(初代)、県会議員。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 寅造は、先代所十郎の長男文蔵が幼少のため財ノ木の角家より入り、同家の家督を継いで明治18年(1885年)県会議員、続いて第7連合戸長を務めた。 明治22年(1889年)11月中浜村長に就任し、小篠津尋常小学校を中浜尋常小学校と改めて新しい村づくりの中核とし、校地も拡張した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉… 鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日)- 1926年(大正15年)11月9日)は、明治から大正期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、岩手県東磐井郡生母村長。 陸奥国磐井郡赤生津村(岩手県岩井郡赤生津村、東磐井郡生母村大字赤生津、前沢町を経て現奥州市前沢生母)で肝入・鈴木兵之助の長男として生まれた。漢学を修めた。1886年(明治19年)3月、家督を相続した。 1873年(明治6年)水沢県地租改正掛勤務となる。1876年(明治9年)2月、磐井県15等出仕となり同年4月まで在任。同年8月、岩手県等外1等出仕となり、同県17等出仕、同10等警部を経て、1879年(明治12年)7月、新潟県9等属に転じ、1880年(明治13年)9月に退官した。
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈… 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。 貴族院議員、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長・北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。 「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年1… 武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年12月16日) - 1939年(昭和14年)8月15日)は、日本の陸軍軍医、郷土史研究家。 福岡藩士尾石信一(惣平)の二男尾石豊として、筑前国御笠郡水城村(現・福岡県太宰府市)に生まれる。藩校修猷館および文武館に学んだ後、1872年に金沢医学校(医学館)に入学し、オランダ人医学者スロイスに医学を学ぶ。1874年福岡藩医武谷祐之の養嫡子となり、1876年祐之の三女仲と結婚する。祐之は福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くしている。祐之の父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。
神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永… 神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永5年12月16日)– 1917年(大正6年)5月4日)は、明治・大正期の地主、政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・堀内。 紀伊国名草郡神前村(和歌山県名草郡岡崎村、海草郡岡崎村を経て現和歌山市)で堀内伊兵衛の長男として生まれ、豪農・神前吉次郎の養子となる。漢学を修めた。 1888年(明治21年)1月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選。1889年(明治22年)、1894年(明治27年)、1898年(明治31年)に再選され、1899年(明治32年)9月に退任。1901年(明治34年)5月に補欠選挙で当選し、1902年(明治35年)8月に衆議院議員に当選のため辞職した。
硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉… 硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉永5年12月15日) - 1931年(昭和6年)8月30日)は、明治から昭和初期の教育者、政治家。衆議院議員、第5代・10代山口県会議長、山口県玖珂郡伊陸村長、同郡神代村長。旧姓・村岡、旧名・米村平之進。 周防国玖珂郡神代村原(山口県玖珂郡神代村、由宇町を経て現岩国市)で、村岡伝左衛門の三男として生まれる。兄に村岡柳太郎。 米村家の養子となるが、その後、伊陸村の硲家の養子となる。幼くして学問を好み、藩儒の東沢瀉に学び、和漢学を修めた。戊辰戦争では精義隊に入隊し中央隊長として奥羽に出征した。 大阪開成所(のち大阪英語学校)で仏蘭西学を学び、1878年(明治11年)官立大阪師範学校を卒業した。
石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年… 石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年12月15日)- 1929年(昭和4年)11月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・元満。 筑前国福岡城下(現福岡市)で、福岡藩陪臣・元満元二の長男として生まれる。漢学を修めた。 維新後に商売を営むが成功せず、1874年(明治7年)博多に移転し回漕業を営む。郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎と面談して同社保有船の博多寄港の約束を取り付けた。1877年(明治10年)10月、先代石田平吉の養子となり家督を相続し旅人宿業を営む。西南戦争では陸軍物資の輸送に従事。1889年(明治22年)九州鉄道の敷設に際して建築資材の運搬を担った。
斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉… 斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉永5年12月8日)- 1912年(明治45年)2月9日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 甲斐国巨摩郡上今諏訪村(山梨県中巨摩郡今諏訪村、白根町を経て現南アルプス市上今諏訪)で、名主の家に生まれる。巨摩郡西野村の宮浦東谷から普通学を学び、徽典館で漢学を修め、さらに甲府育英舎で学んだ。農業を営む。 1873年(明治6年)10月、上今諏訪村副戸長に就任。以後、同戸長、巨摩郡第13区戸長、今諏訪村会議員、中巨摩郡豊村外三ケ村連合村会議員、同郡御影村外三十八ケ村組合村会議員、同郡在家塚村外二ケ村連合村会議員などを務めた。1890年(明治23年)末、立憲自由党に入党した。
牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5… 牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日)- 1899年(明治32年)12月20日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎。 越後国刈羽郡荒浜村(新潟県刈羽郡荒浜村を経て現柏崎市荒浜)で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき、柏崎県立学校で学んだ。 海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた。 1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた。
東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉… 東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉、1853年1月11日〈嘉永5年12月2日〉 - 1922年〈大正11年)9月25日〉)は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家・新聞記者・政治家。財務学士。陸軍大将柴五郎は実弟。代表作は政治小説『佳人之奇遇』。 会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国君津郡富津村の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。 藩士子弟の通例に従い、数え10歳より藩校日新館にて小笠原午橋・南摩綱紀に就いて漢学を修め、大学部を経たのち上洛。
十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉… 十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日) - 1908年(明治41年)8月12日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子。 涌谷伊達家家臣・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23… 阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23日) - 大正11年(1922年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。群馬県知事、千葉県知事(2期)、富山県知事、新潟県知事、東京府知事(2期)を歴任。衆議院議員(2期)、貴族院議員、日本赤十字社特別社員を務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。陸奥国岩手郡盛岡出身。邸は荏原郡大井町元芝にあった。 南部藩士阿部雄平の子として生まれる。4つ年下の原敬とはいわゆる幼馴染の間柄であり、後に原に郵便報知新聞入社を勧めたのも阿部であったとされている。戊辰戦争後に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に学び、苦学の末に卒業して1874年に岡山県職員として採用され、後に工部省職員、鉄道事務官を経て内務省に移籍して社寺局長にまで昇った。
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5… 坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県佐賀郡北川副村新郷を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだ。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた。 1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した。
日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年… 日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年1月16日) - 大正12年(1923年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。位階および勲等は正四位・勲二等。 現在の会津若松市で会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。 藩校・日新館で学び、鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月… 佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1919年(大正8年)3月17日)は、私立女子美術学校(現女子美術大学)第2代校長。 志津は1851年(嘉永4年)、常陸国行方郡麻生(現茨城県行方市)の医師山口舜海の長女として誕生した。1853年(嘉永6年)父舜海が佐倉藩御典医で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」堂主佐藤泰然の養子となり佐藤尚中と名を改めると、志津を含め一家全員も佐藤家に入った。志津は義叔父(養祖父泰然の子)董(ただす、後に林家の養子になる)と1歳違いであったことから、董と共に漢籍を佐倉藩儒者岡本道庵に、国学を浜野末束に学んだ。 1859年(安政6年)、母方の叔母の嫁ぎ先である水戸の商家(酒造)藤枝富右衛門の家に預けられ、水戸藩武術指南役より穴沢流薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めた。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉… 6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉永4年12月12日) - 1927年(昭和2年)5月27日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 加賀国、のちの石川県能美郡安宅町(現小松市)出身。先代米谷半平の三男として生まれ、亡兄半平の跡を継ぎ襲名した。 米谷銀行を経営したほか、石川県農工銀行、北陸興業各取締役などを歴任した。また、公共事業に尽くし第五回関西府県連合共進会特別委員や日本赤十字社特別委員に挙げられ有功章を送られたほか、帝国義勇艦隊建設費を寄附し、愛国婦人会に尽力し賞状を授かった。このほか、日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章した。 1899年(明治32年)石川県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月11日から1904年(明治37年)9月28日まで務めた。