上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日(天保15年… 上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日(天保15年12月1日) - 1888年(明治21年)4月11日)は明治時代の日本の外交官。通称、敬助、敬介。13歳で長崎に赴き、まず蘭学、ついで英学を修めた。 薩摩国鹿児島郡出身。英学に明るく、明治維新後にハワイの元年者移民問題などに当たり、駐米・英・墺などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。明治6年(1873年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。 天保15年(1844年)12月1日、薩摩国鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて唐通事・泰助と雪夫妻の長男として出生。
清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(184… 清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(1844年1月30日) - 明治42年(1909年)8月18日)は、明治時代の政治家、実業家。幼名は要治郎。諱は当初は宥三と称した。号は不朽軒義同。 衆議院議員を務めるとともに、地元である埼玉県入間郡地域の殖産興業に力を注いだ。川越鉄道創立委員、入間馬車鉄道第2代社長。 天保14年(1843年)12月11日(旧暦)、武蔵国高麗郡上広瀬村(のちに入間郡に編入され水富村、現在の埼玉県狭山市上広瀬)で、代々名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、父・寛一、母・勢津の間に生まれる。 生まれつき聡明で物心ついた頃から学問を志し、13歳で尊円流の大家・梅沢台陽に師事して書道と学問を学んだ。
沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月2… 沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月21日〈天保14年12月2日〉 - 1890年〈明治23年〉5月17日)は、幕末の幕臣。明治時代の政治家、ジャーナリスト。雅号は不二峰楼主人(ふじほうろうしゅじん)、弄花生(ろうかせい)。幕府軍に参加し戊辰戦争で捕縛されるも放免され、大蔵省・司法省出仕。岩倉使節団の一員であり、嚶鳴社を組織し自由民権運動を展開。立憲改進党の結党に参画し、東京府会議長も務めた。実業家としても『横浜毎日新聞』を買い取り、『東京横浜毎日新聞』を創刊した。 天保14年12月(1844年1月)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名は慎次郎。兄に銀行家の須藤時一郎、弟に高梨哲四郎がいる。
荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)… 荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)1月4日(旧暦11月15日) - 1882年(明治15年)9月19日)は、武蔵国北埼玉郡(現:埼玉県加須市)出身の元大相撲力士。本名は小室 敬之助(こむろ けいのすけ)。 幼少期から相撲好きで身体も大きく、古川藩の二人の侍と喧嘩した際には相手を掴んで拍子木のように打ち合わせたと伝わる。若藤部屋に入門し、1865年2月場所で序ノ口から初土俵を踏むと1871年3月場所で新十両に昇進、1874年12月場所で新入幕を果たした。突っ張って動き回る取り口で幕内での勝率は5割前後で推移したが、精悍な容貌で人気があり、当時の力士としては珍しく読み書きができ、数理に明るかった。
安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年… 安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年1月1日) - 1909年10月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。男爵。旧姓は林。通称は謙三。海軍の先覚者の一人。 備後国御調郡向島西村(現在の広島県尾道市)の医師・林金十郎の四男として生れる。12歳で広島に出て漢学、医学を学ぶ。1860年、長崎で医学を学び、英国軍艦に乗組んで二年間軍学を学んだ。1865年何礼之が開設した私塾で前島密らとともに学ぶ。 薩摩藩の講師として招かれた前島に誘われ薩摩藩へ移る。1866年、小松清廉、西郷隆盛に請われ薩摩藩の海軍養成に携わる。1867年薩摩藩に軍艦「春日丸」を購入するよう島津久光に進言。
蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1… 蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1843年1月27日) - 大正元年(1912年)8月29日)は、幕末から明治期の日本の航海者。函館大経・深瀬鴻堂と共に「函館三士」と称される。 天保13年12月27日(1843年1月27日)、箱館に生まれる。箱館の諸術調所で蘭学者・武田斐三郎より航海術を学び、箱館奉行企画の黒竜江出貿易及び上海出貿易航海で測量方を務めた。 大政奉還後の明治5年(1872年)正月、開拓使御用掛に任ぜられ「樺戸丸」の船長となる。その際に開拓長官・黒田清隆の指示で航海に際しての旗印として夜空に赤く光る北極星をイメージした「北辰旗」をデザインし、この旗印は1882年まで開拓使のシンボルとして使用された。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13… 下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13年12月7日) - 1898年(明治31年)5月19日)は、明治時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 近江国坂田郡長浜(現・滋賀県長浜市)出身。1876年(明治9年)以降、南新町副戸長、同戸長、長浜町会議員のほか、大阪製紙抄造場、近江製糸所などを経営した。 1890年(明治23年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天… 山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日)は日本の政治家。 衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。 1929年(昭和4年)、岐阜公園に像高2m余の台座付きの銅像が建立された。後に、太平洋戦争時の金属類回収令より撤去。 1957年(昭和32年)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が立てられ、現在も存在する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保1… 芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保12年12月10日〉- 1920年〈大正9年〉1月10日)は、日本の官僚・政治家。旧姓は原田、高橋、幼名は賢吉。号は越山。栄典は従一位勲一等伯爵。 官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。東京府知事では市区改正や築港に尽力し、第1次山県内閣の文部大臣では教育勅語の制定に関与した。 阿波国麻植郡山川町(現:徳島県吉野川市)で医師であった原田民部の5人兄弟の末子として生まれる。
石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842… 石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842年1月12日) - 大正9年(1920年)11月16日)は、尾張国大曽根出身の僧侶。 天保12年12月1日(1842年1月12日)、尾張国大曽根において出生。9歳のときに仏門に入る。長門国・信濃国・尾張国など各地で修行を積み、地元泰増寺に戻る。元治元年(1864年)には總持寺、1875年(明治8年)には豊橋龍拈寺の住職に就任。さらには彦根清涼寺、東京豪徳寺、小田原最乗寺の住職を歴任し、1905年(明治38年)には当時石川県鳳至郡にあった曹洞宗大本山總持寺の貫首に至った。翌年には曹洞宗管長となる。焼失した總持寺の再興に際して、神奈川県鶴見への移転を主導したとされる。
建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12… 建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12年12月1日) - 1908年(明治41年)2月16日)は、幕末の小倉藩士、明治期の官僚・外交官・実業家。大阪府知事、元老院議官。旧名・牧野弥次左衛門。 豊前国京都郡延永村(現:行橋市延永)に生まれる。小倉藩士・建野建三の養子となり「郷三」と改名。第二次長州征討において長州藩との戦いに従軍した。明治3年(1870年)、イギリスに留学し法律学を学んだ。 1877年(明治10年)11月、宮内省御用掛三等侍補心得となる。以後宮内権大書記官、兼太政官権大書記官を歴任。1879年(明治12年)、グラント前米国大統領の来日に当たり接伴掛を務めた。 1880年(明治13年)5月、大阪府知事に就任し約9年間在任、在任中に大阪府と堺県の合併を実現させた。
原 弘三(はら こうぞう、1841年1月21日(天保11年1… 原 弘三(はら こうぞう、1841年1月21日(天保11年12月29日)- 1915年(大正4年)7月30日)は、幕末の僧、明治期の公吏・政治家・銀行家。衆議院議員。幼名・僧云(そううん)。 越中国新川郡塚原村(石川県上新川郡塚原村、富山県上新川郡新保村、富南村を経て現富山市塚原)で、浄土真宗本願寺派教順寺・9世玄正(げんしょう)の長男として生まれた。京都の真宗学林(現龍谷大学)、高岡の野上文山の待賢堂、豊後国日田の咸宜園で学んだ。1868年(明治元年)還俗して原弘三を名乗り、東京湯島の亀谷省軒塾に入る。富山藩改革派林太仲と知り合う。 1870年(明治3年9月)太仲が富山藩大参事に就任すると、原も権小属となり、同年12月19日(同3年閏10月27日)に発せられた「合寺令」に基づき藩内400余カ寺を一宗一寺に合併を強行した(富山藩合寺事件)。
品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈18… 品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈1841年1月11日〉 - 1891年〈明治24年〉2月18日)は、江戸時代のオランダ語通訳、幕臣。明治時代の官僚。通称・英輔。 肥前国長崎で品川権左衛門の子として生まれる。兄の品川九十九は大村藩の御用商人で、義理の兄弟に石鹸工場創業の吉村又作(現在のマリンフード創業者)、甥に平野富二がいる。同族のオランダ通詞の品川徳三郎の養子となる。オランダ語をはじめ英語も習得していたため、ペリーの浦賀来港により幕臣に抜擢され、横浜で通弁となる。安政6年(1859年)に幕府が各国と通商条約を締結する際通弁を務めた。また通弁のかたわら横浜で洋学教授を行った。
竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日… 竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日〈天保10年12月26日〉 - 1922年〈大正11年〉1月9日)は、日本の実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎と寬仁親王妃信子は外曾孫。 天保10年(1840年)、土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれる。 目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど、主家の財政再建に尽力した。 慶応2年7月(1866年8月)、宿毛から16kmほど離れた阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦が停泊したことがあった。対応に苦慮した宿毛領主・山内氏理は、竹内に小銃200丁を備えた歩兵2個小隊を付けて接触させた。
岡田 逸治郎(おかだ いつじろう、1840年1月24日(天保… 岡田 逸治郎(おかだ いつじろう、1840年1月24日(天保10年12月20日) - 1909年(明治42年)10月4日)は、明治時代の滋賀県の政治家、諱は久通(ひさみち)。 1840年1月24日(天保10年12月20日)、近江国野洲郡中山道守山宿の加宿吉身郷(現・滋賀県守山市吉身)に住む岡田弥兵衛(諱は久忠)の長男として誕生。岡田家は士格に列し、宮津藩領分庄屋総代を務め、別に種油製造「大黒屋」を営んでいた。 1845年(弘化2年)、森唯楽軒の私塾に入塾。 1852年(嘉永5年)、黒船の浦賀への来航を見るため家出同然に守山を出奔。浦賀より江戸に遊学していたが、翌々年父の遣いにより連れ戻される。 1857年(安政4年)11月、近江国栗太郡辻村の木村重左衛門の五女「たみ」と結婚し、4年後家督を継ぐ。
奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1… 奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1月8日 – 大正15年(1926年)10月13日)は、幕末から明治期にかけて活動した医師・海軍軍医。幕府の歩兵屯所附医師を経て、維新後に海軍医官として要職を歴任し、のち開業医として活動した。幼名は瓊太郎、のち省吾。幕末期には玄省(げんせい)を名乗り、明治初年に虎炳と改めた。 天保11年(1840年)1月8日、出羽国上山藩医・奥山玄仲(1809-1905)の長男として長崎に生まれる。父玄仲に従って江戸に出て、林復斎・安積艮斎・安井息軒らについて儒学を学び、語学面では当初父から、のち堀達之助から蘭語を学んだ。文久3年(1863年)9月、歩兵屯所附医師となり西丸下屯所に詰め、慶応元年(1865年)5月には歩兵屯所附御抱医師・富士見御宝蔵番格、慶応3年(1867年)5月には歩兵屯所附医師取締介に進んだ。
内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保… 内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保10年12月2日) - 1909年(明治42年)1月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国下益城郡河江村(のち益南村、小川町を経て現宇城市)生まれ。戸長、下益城郡会議員、学務委員、熊本県会議員、同常置委員、郡所得税調査委員、地方衛生委員、郡参事会員、地方委員となる。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本4区から国民協会所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年… 武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年11月24日) - 1882年(明治15年)1月2日)は、明治期の日本の医師、愛知県議会初代議長、自由民権運動家。民権結社、進取社副社長。明治生命保険(現・明治安田生命保険)創立者の阿部泰蔵は実弟。 1838年(天保9年)三河国八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)の医者・豊田鉉剛の次男として生まれたが、18歳の時に、宝飯郡森村(現・豊川市)の武田家の養子となる。 江戸に出て、蘭方医の伊東玄朴が開いた象先堂に入門して医学を学び、1859年(安政6年)に宝飯郡森村に帰り開業する。その後、1869年(明治2年)修道館の教官となり、青少年の教育にも携わった。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1… 高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1839年1月5日) - 明治33年(1900年)4月8日)は、上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)出身で明治期の大相撲力士・年寄。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重100kg。本名は山崎 (後に一時今井姓)伊之助(後に浦五郎)。現在まで続く高砂部屋の開祖である。 農家の三男で土地相撲で活躍し、20代半ばで妻子ある身ながら江戸へ出て、3代阿武松庄吉の門下に入った。東海大之助の初名で1863年(文久3年)8月場所に初土俵を踏み、1865年(元治2年)に序ノ口についた。1867年(慶応3年)に三段目に昇進、ここで姫路藩のお抱え力士になり「高見山大五郎」の四股名を名乗るようになった。
西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年… 西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年12月24日) - 1917年(大正6年)4月3日)は江西山大法寺の18代住職。臨済宗の師家。現在の愛媛県八幡浜市穴井出身。 父は須賀吟助、母は徳子という。12歳の時に八幡浜市の江西山大法寺の徒弟となり、20歳頃から約10年間、宇和島市の金剛山大隆寺の晦巌について修行する。さらに久留米市の梅林寺や、岐阜県伊深の正眼寺などで座禅を習った。その後、京都の相国寺で越渓老師に参禅しようとしたがその時は相国寺を去っていたために、後継者となっていた独園につく。越渓が妙心寺の天授庵で僧堂を開いたので、同じ妙心寺の大嶺院に住み、明治元年から越渓の猛烈な指導のもと修行に励む。
和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保… 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保8年12月13日) - 1903年(明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」。 1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。
滝谷 琢宗(たきや たくしゅう、天保7年12月22日〈183… 滝谷 琢宗(たきや たくしゅう、天保7年12月22日〈1837年1月28日〉 - 1897年〈明治30年〉1月31日)は、越後国出身の日本の曹洞宗の僧侶。魯山琢宗とも。俗名は小川五三郎。永平寺63世貫首(真晃断際禅師)。
出口 なお(でぐち なお、出口 直、1837年1月22日〈天… 出口 なお(でぐち なお、出口 直、1837年1月22日〈天保7年12月16日〉 - 1918年〈大正7年〉11月6日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。大本での呼称は開祖。 出口なお(以下、なおと表記)は、江戸時代末期から明治時代中期の極貧の生活の中で日本神話における高級神「国常立尊(艮の金神)」の神憑り現象を起こした。当時、天理教の中山みきなどの神憑りが相次いでおり、なおの身に起ったことも日本の伝統的な巫女やシャーマニズムに属する。当初は京都丹波地方の小さな民間宗教の教祖にすぎなかったが、カリスマ的指導者で霊能力者である出口王仁三郎を娘婿としたことで、なおの設立した教団である「大本」は全国及び海外に拡大した。
奥 三郎兵衛(三郎兵衞、おく さぶろうべえ、1837年1月9… 奥 三郎兵衛(三郎兵衞、おく さぶろうべえ、1837年1月9日(天保7年12月3日) - 1897年(明治30年)9月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 和泉国日根郡中之庄湊村(現・大阪府泉佐野市)生まれ。深川区会議員、東京商業会議所副会頭、帝国商業銀行、帝国海上保険、東京建物各(株)監査役となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において東京5区から無所属で立候補したが28票差で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙で当選。衆議院議員は1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1897年に死去した。
阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保… 阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保6年12月13日)- 1916年(大正5年)5月12日)は、幕末から明治期の医師、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・佐渡、幼名・捨五郎、通称・正頴、字・士栗。号・酔夢、六無斎。衆議院議員としては野村脩造を名乗った。 越中国射水郡高岡(現富山県高岡市)で、漢方医・8代佐渡養順の息子として生まれる。魚津町(現魚津市)の漢方医・阿波加家の養子となる。春日寛平、緒方洪庵、華岡鹿城、山岡民部などに師事し、医学、蘭学を修めた。 1858年(安政5年)魚津で開業し、コレラの治療に従事した。1872年(明治5年)病院・好生舎を設立。1876年(明治9年)新川県新川郡医務取締に就任。
西園寺 公成(さいおんじ きんなる、天保6年12月7日(18… 西園寺 公成(さいおんじ きんなる、天保6年12月7日(1836年1月24日) - 明治37年(1904年)11月7日)は、伊予国宇和島藩出身の武士・官僚・実業家。通称は雪江、勇喜衛。幕末期に活躍、後に第一国立銀行をはじめ、近代日本の金融・産業界にも関与した。 天保6年(1835年)、宇和島藩士・松田覚之助公博の次男として生まれる。母は中井九郎右衛門の娘である。幼名は雪江。のち実兄・松田源八郎に養育された。 藩校明倫館で学び、嘉永6年(1853年)には文学出精を賞せられている。同年4月7日、儒学に秀でたため官費留学生として小松藩の儒者・近藤南海(近藤篤山の子)の塾に入門した。 安政3年(1856年)1月12日、明倫館塾長に就任。
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天… 岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 1885年〈明治18年〉2月7日)は、日本の実業家。土佐藩(現在の高知県)出身で、34歳の時、大阪府大阪市西区の土佐稲荷神社付近の堀江の辺りの大地主だった。現在の三菱財閥(現:三菱グループ)の源流企業であるが、明治政府が設立した共同運輸会社と話し合いの上合併し日本郵船が創設された。その年に岩崎彌太郎は50才で病死した。弟である三菱財閥2代目の岩崎弥之助とともに岩崎家の中心的人物であった。 天保5年12月(1835年1月)、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。
岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4… 岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4年12月16日)- 1913年(大正2年)11月21日)は、幕末の徳島藩士、明治期の政治家(衆議院議員)。通称は才二郎。 阿波国名東郡徳島城下富田浦町(現徳島県徳島市)で徳島藩士・香川周満の子として生まれ、のち岩本品蔵の養子となる。学問を新居水竹に学ぶ。明治維新後は徴士、三河県(現・愛知県)判事、白川県(現・熊本県)大参事、民政局検事助役、徳島藩権大属、名東県権大属、同大属、中属を経て、司法省に入り、少解部、権中解部、大区長兼学区取締となる。1875年(明治8年)に徳島に戻り自由民権運動に参加。その後、阿波郡長・麻植郡長・名東郡長、日本赤十字社徳島県委員長などを歴任する。
山田 十竹(やまだ じっちく、天保4年12月9日(1834年… 山田 十竹(やまだ じっちく、天保4年12月9日(1834年1月18日) - 明治34年(1901年)8月26日)は、江戸時代末期から明治時代の儒学者、漢学者、教育者。名は浩(ひろし)、字は養吉(ようきち)。号の「十竹」は広島城郭内の自宅に十数本の竹が植えられていたことによる。墓は広島市の比治山共同墓地(現・南区)。
依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24… 依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24日(1834年1月3日) - 明治42年(1909年)12月27日)は、日本の漢学者、文芸評論家、小説家、劇作家。幼名は幸造、信造。通称は七郎、右衛門次郎。諱は朝宗(ともむね)。初め字を百川(ひゃくせん)といったが後にこれを本名とした。学海は雅号で、柳蔭とも号した。
嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 -… 嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 - 明治41年(1908年)10月30日)は、日本の政治家。 熊本藩士の子として肥後国託麻郡本山村(現在の熊本県熊本市)に生まれ、横井小楠に師事した。その後、宮部鼎蔵に従って尊王運動に参加。たびたび上京して、橋本左内・坂本龍馬・西郷隆盛らと交わった。 明治維新後、熊本藩は新政府に反旗を翻そうとしているとの嫌疑をかけられたが、氏房が長崎に赴いて知事の澤宣嘉に釈明して事なきを得た。明治3年(1870年)5月、民部省に出仕し、7月に大蔵省に移った。9月に胆沢県大参事に就任し、その後、熊本県少参事、八代県権参事を歴任した。明治6年(1873年)、白川県権参事となるが、権令の安岡良亮と対立し、野に下った。
橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日… 橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日(天保2年12月15日) - 1910年(明治43年)3月15日)は観世流シテ方の能役者にして橋岡家六世。名は雅茂、號は雅雪(がせつ)。岐阜県の出身。 美濃国近ノ島村で医師・藤井平兵衛(元徳)の二男として1831年(天保2年12月15日)に生まれ、20歳頃に能役者・橋岡泰次郎の養子となる。江戸時代の能役者は若年寄り配下として幕府の保護を受けていたが、維新後はその地位が失われ職を転じる者多数。忠三郎も代書屋をして生計を立てた。 観世清孝(1837-1888年)の時代、宗家困窮のため「観世流本面」が海外に流出しかけたところ、忠三郎が神戸で買い留め流派の面目を保つ。
名須川 良平(なすかわ りょうへい、1831年1月31日〈天… 名須川 良平(なすかわ りょうへい、1831年1月31日〈天保元年12月18日〉 - 1900年〈明治33年〉2月3日)は、幕末から明治期の漢学者、政治家。衆議院議員。号・他山。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡花巻町(現花巻市)で生まれた。儒学、武田流兵法(甲州流軍学)を修めた。花巻の郷学・揆奮場の教授、また、作人館修文所教授を務めた。 明治維新後、上京して神奈川県公吏、師範学校教師を務めた。帰郷後、1877年(明治10年)私塾・他山塾を開き、1878年(明治11年)ころに花巻の自由民権結社・大有社で教えた。1887年(明治20年)郡立稗貫高等小学校長に就任した。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岩手県第3区)で初当選し、同年8月の第6回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 … 十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 - 1892年12月2日)は、江戸時代幕末から明治時代の武士、軍人、勤皇家。 肥前国大村藩士の稲垣主計の三男として大村に生まれる。通称は巳之助。諱は勝見。幼くして同藩の十九采記俊彬の養子となる。尊王を唱え、大村藩三十七士の1人として数えられ、藩の用人となり勤皇に導いた。戊辰戦争では東北に従軍し、参謀から大隊長となり、賞典禄八石を賜る。1871年、藩の歩兵中隊長に任じられ、熊本鎮台の副官となった。翌年官を退いた。東京に移り、小石川区小日向武島町の自宅で死去。享年63歳。1912年、従五位を追贈された。墓所は池上本門寺。
中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12… 中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。旧名は三木永吉。明治維新後に直人、錫胤と名乗る。号は可庵、無外。 徳島藩士・三木章助の長男として、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり、のち老齢の棕隠の養子となり、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走。
熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(18… 熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。父は賀茂[要曖昧さ回避]の神職・山本季金。幼名を藤太郎と言った。
山本 良仙(やまもと りょうせん、1828年1月26日(文政… 山本 良仙(やまもと りょうせん、1828年1月26日(文政10年12月10日) - 1903年(明治36年)1月20日)は、江戸時代後期から明治時代の天台宗僧。但馬観音寺の第16世住職。 1828年1月26日(文政10年12月10日)、山本忠右衛門の四男として丹波国多紀郡野間村(現・兵庫県丹波篠山市)として生れる。 1847年12月16日(弘化4年11月9日)、20歳の時、家督を相続し丹波国氷上郡北由良村(現・兵庫県丹波市)の福井儀兵衛長女・茂世(もよ)と婚姻するが、仏門に帰依せんと出家の志をやみ難く、親族の山本又治郎を養子に迎えて家を継がせ、自らは1884年(明治17年)1月14日、57歳の時に隠居した。
成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 … 成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 - 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。 遠江国佐野郡日坂(現・静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。安井の塾にいたとき、安井の作詩を代書した。明治8年(1875年)、宮中に出仕し、明治12年(1879年)、勅命によって王羲之の『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇はこれを嘉して楠木正成の遺物である尚方の硯を賜り、その居に賜硯と扁した。ついで諸葛孔明の「出師表」の真草2幅、明治14年(1881年)、十体書幅を献じた。
多田 宗太郎(ただ そうたろう、文政7年11月28日(182… 多田 宗太郎(ただ そうたろう、文政7年11月28日(1825年1月16日) - 明治25年(1892年)2月5日)は、江戸時代から明治時代にかけての篤農家。世襲名は助右衛門。幼名は常太郎。通称は助右衛門。号は石翁・石竜。 文政7年11月28日(1825年1月16日)、阿波国勝浦郡小松島金磯村(現・徳島県小松島市)で生まれる。 文久2年(1862年)、金磯弁財天の丘陵上に弁天山砲台(8門を備え、周囲には火薬庫、兵舎、道具舎、射撃練習場等の施設)を築いて徳島藩に私費を投じ献上した。これにより後に士分(郷士格)に取り立てられた。明治2年(1869年)まで砲台の監守をつとめた。 大正8年(1919年)、正五位を追贈された。
淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日〈1823年… 淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日〈1823年1月12日〉 - 1879年〈明治12年〉6月19日)は勤王家・文人。漢詩人の江馬天江は実弟。 本姓は下坂氏。名は緝、字は敬天。号は槐堂のほか、重涂・頑山史。近江の人。 近江国坂田郡中村(現在の滋賀県長浜市)の下坂篁斎の子として生まれる。3歳のときに京都の薬種商武田家の養子となる。安政2年(1855年)に、醍醐家に仕えて功績が認められて同家の侍となり、板倉姓を賜り、従六位下筑前介に叙任されている。 勤王の志に篤く、七卿落ちや天誅組・長州藩などを資金援助。坂本龍馬・中岡慎太郎にも惜しみなく支援を行っている。 元治元年(1864年)に起きた禁門の変後に幕府に捕らえられ3年間獄中の身となる。
若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日(1821年… 若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日(1821年1月9日) - 大正2年(1913年)9月7日)は日本の実業家・銀行家・政治家。貴族院議員、初代甲府市市長。従六位。 根津嘉一郎・雨宮敬次郎らとともに、郷土意識で緩やかな資本連合を持ち、中央経済界で影響力を持った甲州財閥と呼ばれるグループのひとりで、若尾家はその中核にあたる。 甲斐国西郡筋在家塚村(現在の山梨県南アルプス市在家塚)に生まれる。生家は百姓で、父は若尾林右衛門。逸平は長男。若尾逸平の来歴や逸話などは、1914年に内藤文治良の記した伝記『若尾逸平』に記されている。十代の頃、江戸に出て材木奉行の清水新右衛門に仕えたもののうまくいかず帰郷。
藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2… 藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2年12月11日〉 - 1916年〈大正5年〉12月23日)は江戸時代末期から明治時代の実業家。両国橋 (徳島市)の創建者。 徳島県美馬郡重清村(現・美馬市)に生まれる。 1872年(明治5年)、徳島市街に流れる新町川の両岸(現・両国橋 (徳島市))の街の賑わいにもかかわらず、渡船場もなく、橋がなかったことに着目し、徳島県の許可を得て渡し舟を開業する。しかし、両岸には道もない葦原であったため、利用者は1日20人程度と少なかった。そこで、1877年(明治10年)に自己資本で両岸に道路を完成させたことから利用者が増加、船場町濱側に住宅を建設した。
5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、181… 5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、1819年1月13日(文政元年12月18日) - 1879年(明治12年)5月21日)は、三重県四日市市の企業家。幕末期から明治初期にかけて四日市地域に近代産業を浸透させて、工業都市・四日市市の基礎を作り、貿易を重視して産業の近代化を推進した。幼名は伊藤小四郎、伊藤小平治、諱は伊藤尚長である。六代目伊藤小左衛門は息子で伊藤家の後継者であった。
佐藤 信寛(さとう のぶひろ、文化12年12月27日(181… 佐藤 信寛(さとう のぶひろ、文化12年12月27日(1816年1月25日) - 明治33年(1900年)2月15日)は、江戸時代後期の長州藩藩士。幼名は三郎、のち通称を寛作、諱を信寛と名乗る。号は蝦洲。正五位。佐藤家第10代当主。 子孫に首相を務めた岸信介(姓が違うのは岸家へ養子に出されたため)・佐藤栄作の兄弟(曾孫)、および安倍晋三(来孫)がいる。 現在の山口県熊毛郡田布施町に、萩藩士・佐藤源右衛門(佐藤家第9代当主)の長子として生まれる。源右衛門の弟には坪井九右衛門がいる。 藩校明倫館に入り山県太華に学び、江戸にて清水赤城につき長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けた。井上馨や伊藤博文、木戸孝允らとも親交があったという。
伊藤 八兵衛(いとう はちべえ、1816年1月13日(文化1… 伊藤 八兵衛(いとう はちべえ、1816年1月13日(文化12年12月15日) - 1878年(明治11年)8月10日)は、幕末の豪商。水戸藩の金子御用達(きんすごようたし)などを務めたが、為替投機で失敗し没落した。画家・淡島椿岳の実兄。大実業家・渋沢栄一の後妻 兼子の実父。 武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、豪農内田家の分家である内田善蔵の長男として生まれた。 末弟の米三郎(後の淡島椿岳)と2人で川越を発ち江戸に出て、小石川伝通院前の伊勢屋長兵衛方で奉公する。伊勢屋長兵衛は「伊勢長」(いせちょう)という江戸きっての質商であった。八兵衛はそこで頭角を現わし、伊勢屋の一族であり「京橋十人衆」と謳われた幕府の大御用商人である伊藤家の婿養子となる。
江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年1… 江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年12月22日) - 1881年(明治14年)10月8日)は、江戸時代後期から明治期の備後福山藩(現福山市)の儒学者、洋学者、開港論者。 藩校誠之館教授・医者・備後福山藩儒官。名は戩(ゆき)字は晋戈(しんか)。通称は繁太郎。号は健斎・三鹿斎。文化7年12月22日(1811年1月16日)安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)の庄屋福原与曽八(藤右衛門貞章)の三男として生まれる。 文化12年(1815年)6歳のとき父を亡くす。福山藩医・五十川菽斎(いかがわしゅくさい)および篠崎小竹に師事。福山藩医・江木玄朴の家を継ぎ江木を名乗るも、医術を好まず。
大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈179… 大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈1793年1月11日〉 - 明治4年8月17日〈1871年10月1日〉)は、幕末・明治維新期の国学者、神道家。石見国津和野藩出身。 別姓は野之口。名に一造、匠作、仲衛など。諱は秀文、秀清、隆正。字は子蝶。号は葵園、佐紀乃屋。 津和野国学の泰斗として、国学史上の四大人観を確立し、「文武虚実論」に代表される学問論を残した。神道家としては石見国に於ける大国主信仰の復興にも貢献した。 津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。 1805年(文化3年)に平田篤胤の門下となり国学を学ぶ。さらに昌平黌においても古賀精里に儒学を学ぶが、こちらは文化7年去っている。