有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年… 有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年1月26日〉- 1909年〈明治42年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名は新之丞。 薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。戊辰戦争に従軍し、1869年(明治2年)、賞典禄6石を受ける。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を首席で卒業し、少尉補任官。1884年(明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、佐世保鎮守府海兵団長を歴任。
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4… 岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。 1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学んだ。
岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年… 岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年1月3日〉- 1910年〈明治43年〉7月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として土佐国幡多郡中村(現:四万十市)に生まれる。戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、1872年(明治5年)、陸軍中尉に進む。東京鎮台付などを歴任し、1877年(明治10年)3月から10月まで西南戦争に出征。歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、1889年(明治22年)11月、東宮武官に就任する。 後備歩兵第1連隊長、留守第4師団参謀長などを経て、1895年(明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した。
鹿毛 信盛(かげ のぶもり、1850年2月26日(嘉永3年1… 鹿毛 信盛(かげ のぶもり、1850年2月26日(嘉永3年1月15日)- 1914年(大正3年)9月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 筑後国御井郡、後の金島村(現福岡県久留米市)で、鹿毛佐金次の長男として生まれる。嘉永6年(1853年)に家督を相続した。 1878年(明治11年)以降、福岡第十七国立銀行(現福岡銀行)取締役、甘泉社社長、金島銀行頭取、福岡県御井郡農業組合長、両筑十二郡精藍組組長、久留米絣同業組合組長、久留米絣株式会社代表などを務めた。 政界では、福岡県会議員となり、また、1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1897年(明治30年)9月28日の任期満了まで1期在任した。
常陸山 虎吉(ひたちやま とらきち、1850年2月25日(嘉… 常陸山 虎吉(ひたちやま とらきち、1850年2月25日(嘉永3年1月14日) - 1915年(大正4年)11月1日)は、現在の茨城県水戸市出身で入間川部屋に所属した大相撲力士。最高位は前頭筆頭。本名は五十嵐 虎吉(後出羽ノ海姓)。4代出羽ノ海。横綱常陸山谷右エ門の師匠。 1873年(明治6年)4月入間川部屋から初土俵を踏む。徐々に番付を上げ、1878年(明治11年)5月二段目10枚目以内(現在の十両相当)昇進。1882年(明治15年)に入幕した。幕内上位から中堅で活躍し、1886年(明治19年)5月大関剣山と預かり、1891年(明治24年)1月、1892年(明治25年)1月剣山、1894年(明治27年)1月関脇朝汐を破っている。
井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1… 井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1929年(昭和4年)9月15日)は、明治から昭和初期の政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県真庭郡落合町長。 美作国真島郡西河内村(岡山県真島郡瀬田河村大字西河内、真庭郡瀬田河村、落合町を経て現真庭市西河内)で、庄屋・井手勘三郎の長男として生れた。親族の山田方谷、その他、進祥山、三島中洲らに師事して漢学を修めた。 1874年(明治7年)副戸長に任じられ、戸長、久米北条郡区長などを歴任し、1877年(明治10年)父の出身地英田郡区務所長となる。1878年(明治11年)4月、共之社に加わり、1879年(明治12年)12月、国会開設建言書提出の作州総代に選出され元老院に提出した。
平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永… 平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1932年(昭和7年)10月1日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 伊勢国朝明郡、のちの三重県三重郡大矢知村(現四日市市)で生まれる。漢学、英学、普通学を学び、1888年(明治21年)慶應義塾を卒業。農業、商業を営む。 大矢知村会議員、学務委員、三重郡会議員、三重県会議員を務めた。一貫して自由党系政党に所属し、地価修正、地租軽減に尽力した。 和波久十郎の失職に伴い、1900年(明治33年)11月に実施された第6回衆議院議員総選挙三重県第3区補欠選挙に出馬して初当選し、その後、第8回まで再選され、衆議院議員に連続3期在任し、この間、政友会院内主事などを務めた。
宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年… 宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年2月17日) - 明治45年(1912年)5月22日)は日本の政治家。中浜村長(第2代)、村会議員、郡会議員。西伯郡町村長代表を務めるほどの実力者村長だった。 小篠津村(現鳥取県境港市小篠津町)の豪農宮本家に生まれる。易孝の父宗久は茶人として知られる一方、明治初期の戸長職も務めた。 明治30年(1897年)12月、第2代中浜村長に就任した。 明治31年(1898年)小篠津村字茶苑畑に7棟86坪の避病舎を建築したのをはじめ、農友会を組織して産業の改良発達や風紀の改善につとめた。退任後郡会議員として活躍したが、2期目の在職中に没した。
漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉… 漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉永3年1月1日)- 1934年(昭和9年)1月25日)は、幕末から昭和初期の僧侶・実業家・政治家。衆議院議員、東京府荏原郡品川町長。旧姓・加藤。娘・漆雅子は品川女子学院の創立者。 伊勢国桑名郡江内村(岐阜県下石津郡江内村、油島村、海津郡大江村大字油島、海津町を経て現海津市油島)で、自作農・加藤武右衛門の二男として生まれる。万延元年(1860年)美濃国石津郡高須町(現海津市)の浄土宗円心寺に入り僧となる。明治元年(1868年)芝増上寺学寮に入り仏典を学ぶ。名字は浄土宗開祖法然の漆間にちなみ漆(うるし)と改称し届出た。1874年(明治7年)荏原郡北品川宿、法禅寺住職に就任。
丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉… 丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉永2年12月26日)- 1912年(明治45年)5月12日)は、明治期の海軍軍人、実業家、政治家。衆議院議員、米沢市会議長。 出羽国置賜郡米沢(山形県南置賜郡米沢を経て現米沢市)で、米沢藩士・丸山英造の長男として生まれた。1871年(明治4年)米沢に洋学舎が設立され諸勤学生(副舎長)に就任し、イギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスから学んだ。 五十嵐力助らと県会の開設を建議した。1879年(明治12年)海軍裁判所に出仕し、1884年(明治17年)海軍少尉に任官。東京軍法会議判士を務めた。また興亜会の中国語学校・興亜学校の初代校長に就任した。
今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850… 今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850年2月5日) - 大正14年(1925年)10月24日)は、日本の実業家。北海道の老舗百貨店丸井今井(現・三越伊勢丹ホールディングス傘下)の創業者。 1878年に今井藤七の次弟・武七の長男として新潟県南蒲原郡三条町に生まれ、子がいなかった藤七の養子となる。1898年に慶應義塾を卒業し、藤七の許しを得て渡米。帰国後は丸井今井に入り、1925年藤七の死去を受け後継。1935年に武徳殿(現・三条市歴史民俗産業資料館)の建設基金として3万円を三条市に寄付、1940年の三条商工会議所の設立には初代会頭に推薦され就任。1944年死去、66歳。定明寺に眠る。
江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月2… 江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月22日) - 1880年(明治13年)6月6日)は、文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。米国で軍事と法律を学び、教員を経て演説家として名を馳せたが、外交官として渡米後ピストル自殺した。 備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。 1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。
中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1… 中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1850年2月3日) - 昭和11年(1936年)2月6日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家・実業家。 現在の佐世保市吉井町の川崎家に生まれ、幼時に現在の同市世知原町の中倉家の養子となる。 1883年(明治16年)長崎県会議員に選出される。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、北松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦地域)の村長に選ばれた。 その後中央及び地元で長崎県農工銀行取締役頭取、衆議院議員、帝国農会議員、米価調節委員を歴任。 製茶練習所を世知原村内に開設して所長となり現在同地区の名産となっている茶作りの基礎を築いた他、北松浦郡内の道路整備や、当時栄えていた北松炭田からの石炭積み出しを目的とした佐世保軽便鉄道(のち佐世保鉄道、現松浦鉄道西九州線の一部)の設立、平戸島電燈会社の設立など、地域の発展に務めた。
永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - … 永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - 1897年(明治30年)1月28日)は、日本の武士(中津藩士)、自由民権運動家。 中津藩士・永田源右衛門の長男に生まれる。幼名は兼太郎。1871年(明治4年)、藩主奥平昌邁に続いて慶應義塾に入塾した。廃藩置県のため中津市学校の教員となるが、まもなく退任して義塾に戻り1875年(明治8年)卒業。1877年(明治10年)7月から高知の立志学舎に英学教師として派遣され、傍ら自由民権運動に没頭。1880年(明治13年)に愛国社に加わった。愛国志林記者、愛国新誌記者、山陽新報主筆、日本立憲政党新聞記者などを経て1882年(明治15年)には福井の杉田定一に招かれ北陸自由新聞主筆となり、1884年(明治17年)東海暁鐘新報の主筆となり、海南新聞、北陸公論、江湖新聞、東海新報、岡山日報を歴任。
加藤 直矢(かとう なおや、1849年2月17日(嘉永2年1… 加藤 直矢(かとう なおや、1849年2月17日(嘉永2年1月25日) - 1892年(明治25年)2月13日)は、日本の治水家。鶴岡家中新町(現・鶴岡市)出身。
桜井 直蔵(櫻井 直藏、さくらい なおぞう、1849年2月1… 桜井 直蔵(櫻井 直藏、さくらい なおぞう、1849年2月13日(嘉永2年1月21日) - 1929年(昭和4年)1月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国香取郡西大須賀村(後の千葉県香取郡滑河町→下総町、現在の成田市)生まれ。農業を営む。その傍ら、1872年に学制が発布されると、私財を投じて村内に学校を建てた。1878年に西大須賀村外二ヶ村戸長となる。また、利根川流域は水害が頻繁に起こるため、利根川の護岸工事の必要性を流域住民に戸長として訴えた。1884年に堤防が完成した。1886年に大和田村外六ヶ村の戸長を兼ね、さらなる治水事業に着手し、利根川の堤防改修工事を完成させた。1889年に町村制が施行されると初代滑河町長に就任した。
斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年… 斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年1月20日) - 1922年(大正11年)7月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級、功二級。 周防山口藩領阿武郡椿郷東分村(山口県阿武郡椿郷東分村、椿東村、萩町を経て現萩市)出身。士族・斎藤喜作の長男として生まれ、1880年(明治13年)家督を相続する。1872年(明治5年)4月、陸軍歩兵少尉に任官する。1878年(明治11年)陸軍戸山学校に入学。以来累進し、日清戦争では第2軍兵站司令官として出征。のち歩兵第1連隊長に転じ、1897年(明治30年)10月、大佐に進む。1901年(明治34年)11月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第14旅団長に補され日露戦争に出征し、第1師団と協同し203高地攻略で軍功を挙げ、その後も第3軍の主力部隊として戦った。
長郷 泰輔(ちょうごう たいすけ/なごう たいすけ/ながさと… 長郷 泰輔(ちょうごう たいすけ/なごう たいすけ/ながさと やすすけ、1849年2月11日(嘉永2年1月19日)- 1911年(明治44年)7月15日)は、明治時代に活動した日本の建築家。ニコライ堂の建設で知られる。 陸奥国会津郡(現・福島県会津若松市)に生まれる。父は会津藩士の長郷佐平で、その三男だった。戊辰戦争に従軍後、敗戦により函館に移り、そこでイギリス領事の知遇を得る。 明治4年2月(1871年3月 - 4月)に上京。上京翌年の1872年(明治5年)には、長郷(当時は古田姓を名乗る)は、ロシア正教会大主教・ニコライ・カサートキンに従者として仕え、正教を受洗して「イリヤ」の洗礼名を授かっていた。
鳴瀧 幸恭(なるたき ゆききよ、1849年2月5日(嘉永2年… 鳴瀧 幸恭(なるたき ゆききよ、1849年2月5日(嘉永2年1月13日)- 1925年(大正14年)10月31日)は、日本の政治家。初代神戸市長(在任:1889年5月21日 - 1901年5月20日)。市営の上水道事業実現に取り組み、「水道市長」と呼ばれた。京都府出身。 1849年(嘉永2年)、京都に生まれる。生家は寺侍であった。東京帝国大学卒業後、1873年から兵庫県で小学校教員、県警視課職員、検事補(1881年(明治14年))などを務める。その後兵庫県知事内海忠勝の下で庶務課長として頭角を現した鳴瀧は内海の懐刀と呼ばれるようになり、神戸区長に任命された。この時内海からは市制施行への準備を指示されており、市制施行後の1889年(明治22年)5月にそのまま神戸市初代市長に就任した。
泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月… 泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月26日)は、真言宗の僧。書家。徳島県吉野川市出身。花桝伊兵衛の五男。幼名は直蔵。号は物外(ぶつがい)。 1860年(万延元年)、12歳で出家する。1864年(元治元年)の頃より、徳島の芝「秋邨塾」で柴秋邨に漢籍を学ぶ。その後、1868年(明治元年)から1872年(明治5年)まで高野山で、1873年(明治6年)から1877年(明治10年)まで京都で仏教学を学ぶ。 1879年(明治12年)より真言宗布教師として全国を巡錫し、1900年(明治33年)に京都仁和寺の第35世門跡に就任、1908年(明治41年)に京都泉涌寺の第147代長老となる。
園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年… 園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年2月23日) - 大正12年(1923年)9月1日)は、日本の外交官、実業家。男爵。 1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動(平佐崩れ)により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。鹿児島の洋学校「開成所」で、有島武らとともに英学を学ぶ。維新後は大学南校に学んだ後、1871年10月に外務省に出仕。翌1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。1879年には一旦帰国し、卿補付書記心得として井上馨外務大臣の秘書となり、井上の紹介で富永銈子と結婚。
福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年… 福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年1月15日)- 1917年(大正6年)11月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 相模国大住郡小嶺村(現神奈川県平塚市)で、素封家・名主、福井源兵衛の長男として生まれる。宮崎拡堂の成器塾で漢学を修めた。 小嶺村総代人、神奈川県第二十二大区議員、神奈川県会議員、同常置委員、同議長などを務め、板垣退助に共鳴し自由民権運動に加わり民選議院設立運動に尽力した。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に神奈川県第六区から出馬して当選。さらに第3回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続二期務めた。議員在任中、治水対策に取り組んだ。 衆議院議員当選後に実業界に入り、神奈川県農工銀行頭取、江ノ島電気鉄道取締役、東亜火災保険監査役などを務めた。
野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17… 野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17日〈嘉永元年1月13日〉 - 1917年〈大正6年〉12月)は、日本の醸造家、実業家、政治家、地主。鳥取県会議員(憲政党系中立)。野波商店。幼名は安太郎。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町法勝寺町(現・米子市法勝寺町)の人。常重の長男。生家は紺屋業を営む。幼時、村夫子に従い、漢学句読を受け、算数習字を修学する。家督を継承し、令蔵と改め、7代の主となる。1872年以来公職公事に就いたが、1872年に法勝寺町肆長を申付けられたのを初めとする。 1886年に紺屋業を廃止し、醤油醸造業を開始する。醤油醸造業を営み、また米子米綿取引所監査役、西伯家畜会社社長、鳥取県会議員・同副議長、米子町会議員、学務委員、米子銀行監査役、米子町名誉助役などをつとめる。
肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2… 肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2月14日) - 大正9年(1920年)12月3日)は、東京府知事、新聞記者の民権活動家。 自由民権運動に関し、大胆で新しい言論活動で注目を集めていた。 中島村(現・たつの市)の農家に生まれるが、武士たちが農民・町人を罵倒する現実に疑問を感じ、僧侶として身を立てるため14歳で網干にある大覚寺に入り、小坊主になり山空和尚の指導を受ける。後に京都に行き、賀茂神社の宮司の山本硯儒、高倉西念寺の諦導和尚に師事するが、明治維新の社会変動を目の当たりにする中で、東京に出ることを決意する。 東京曙新聞を経て横浜毎日新聞で急進的な民権論を訴え言論活動で注目を集めると、国会開設に伴い代議士を志す。
熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年… 熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年2月13日(嘉永元年1月12日)- 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。貴族院多額納税者議員。 陸奥国栗原郡文字村(栗駒町を経て現:栗原市)に千葉忠蔵の子として生まれる。のち、一迫の熱海多藏の養子になる。1879年宮城県会が発足するとその議員になる。その後、栗原、志田、玉造の各郡長となり、1890年の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第4区(当時)から立候補して当選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で落選。1897年9月29日に貴族院議員に就任し、1900年8月29日まで在職した。 この他七十七銀行頭取や宮城県農会副会長なども歴任した。
青山 庄兵衛(あおやま しょうべえ、1848年2月6日(嘉永… 青山 庄兵衛(あおやま しょうべえ、1848年2月6日(嘉永元年1月2日)- 1912年(明治45年)6月4日)は、明治時代の政治家、銀行家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は伝太郎。 先代青山庄兵衛の長男として越前国足羽郡東郷村(福井県足羽郡東郷二ヶ村、東郷村、足羽村、足羽町を経て現福井市東郷二ケ町)に生まれる。14、5歳にして儒学を志す。1873年(明治6年)戸長に就任し、在任中に発生した足羽川大洪水では飢餓に苦しむ農民を救うなど復旧に尽力した。1879年(明治12年)県制発布とともに石川県会議員に当選し、のち福井県会議員、足羽郡会議員と歴任した。1882年(明治15年)に杉田定一が北陸自由新聞を発刊すると100余円に及ぶ私財を投じ、1889年(明治22年)には南越倶楽部の代表となり自由民権を唱えた。
西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年… 西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年2月24日(弘化4年1月10日)- 1926年(大正15年)10月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 下総国海上郡成田村(千葉県海上郡成田村、旭町を経て現旭市)で、呉服商、醤油醸造業「成田屋」当主・西村醇治の二男として生まれた。鹿島の儒学者・吉川松浦に師事し漢学を修め、塾頭を務めた。 1879年(明治12年)3月、第1回千葉県会議員選挙で当選し、当時の議員半数改選の制度により再選されたが、日本の府県会は有名無実で自らの意思を貫徹することはできないとして、再任を辞退し1880年(明治13年)8月に議員を退任した。 その後、1881年(明治14年)同志と東京醤油会社を設立し、醤油の共同販売と品質向上を図り、また、1883年(明治16年)アムステルダムで開催された植民地博覧会(en:International Colonial and Export Exhibition)に出品するなど、醤油の海外への販路を開拓した。
伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1… 伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、近江国出身の明治時代の実業家、第2代住友総理事である。 「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。 近江源氏佐々木氏支流伊庭氏の一族である。 1847年(弘化4年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に伯太藩代官伊庭正人の長男として、母、北脇田鶴子の実家で生まれ、7歳まで母方の実家で育つ。幼名は耕之助。 八幡町の児島一郎に剣道を、西川吉輔に国学を学んだ。
菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月… 菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月27日) - 1918年〈大正7年〉4月8日)は、日本の果樹園芸家。「青森リンゴの先駆者」や「青森りんごの始祖」と呼ばれる。 現在の青森県弘前市鷹匠町出身。家は津軽藩の武家の成田瀧弥の次男として生まれ、菊地家の養子となった。実父は儒者の工藤他山の友人であった。明治2年(1869年)に津軽藩において山林取締役を命ぜられ、樹藝方を兼務し各地の山林の樹木植付に従事した。明治4年(1871年)に家屋建築用の材木配布方を命ぜられ明治6年(1873年)まで務めた。明治7年(1874年)には青森県山林調査係を命ぜられ、翌年中調査を結了した 明治8年(1875年)に内務省勧業寮から青森県庁を通じてリンゴやブドウなどの果樹苗の下付けを受けて洋種果樹の栽植に着手した。
太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年… 太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年1月16日) - 1892年4月3日)は日本の実業家。北海道厚岸郡厚岸町の開拓に尽力し、屯田兵村、太田村の村名にその名を残した。日本人とアイヌの混血である。 1846年2月11日(弘化3年1月16日)に場所請負人山田文右衛門の番人、中西紋太郎と奔渡村のアイヌの女性であるシャリコトムの間に生まれる。庶子であった上、幼少期に父を失ったことで母親に女手一つで育てられていたが、それを不憫に思った国泰寺の住職、香山聞禅に引き取られて読み書きそろばんや農業を教わり、8年間同寺の寺男として働いている。1867年(慶応3年)には22歳でアイヌの女性、真歌と結婚する。
岩崎 小二郎(いわさき こじろう、弘化3年1月10日(184… 岩崎 小二郎(いわさき こじろう、弘化3年1月10日(1846年2月5日) - 1895年(明治28年)6月22日)は、幕末の大村藩士、明治期の大蔵・内務官僚、政治家。県知事、元老院議官、貴族院議員。旧姓・朝山。 大村藩士・朝山松台の二男として彼杵郡下嶽村(現西海市)に生まれる。藩校・五教館に入り松林廉之助に学び、藩内の尊皇攘夷派に加わり活動した。 明治2年6月(1869年7-8月)、民部官に出仕し、大主典兼監督大祐、兼庶務大祐、権少史などを務める。明治4年1月(1871年)から黒田清隆開拓次官に随行しアメリカ合衆国、ヨーロッパを訪問。同年7月から大蔵省留学生としてロンドンで学び、1874年(明治7年)7月に帰国。
大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月… 大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月5日(弘化3年1月10日)- 1914年(大正3年)1月8日)は、明治期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、初代山形県米沢市長。 出羽国置賜郡米沢屋代町下ノ町(山形県南置賜郡米沢屋代町下ノ町を経て現米沢市)で生まれた。 1873年(明治6年)置賜県学区取締・十三等出仕となる。権少属、小属、権中属を歴任し、1882年(明治15年)置賜県廃止となり失職した。その後、沖縄県三等属に発令され、租税課権勧業課長を務めた。1883(明治16年)に退官。 その後実業界に転じ、米沢元商社副社長、同社長、米沢製糸場社長などを務めた。1889年(明治22年)7月、初代米沢市長に就任し、1899年(明治32年)7月まで2期在任。
中西 光三郎(なかにし みつさぶろう、弘化2年1月15日(1… 中西 光三郎(なかにし みつさぶろう、弘化2年1月15日(1845年2月21日) – 明治43年(1910年)7月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡井ノ口村(現在の和歌山県紀の川市)の豪農の家に生まれた。1862年(文久2年)、父の跡を継いで庄屋となり、1872年(明治5年)に大区小区制が実施されると区長に就任した。1879年(明治12年)、県会制度が制定されると初代副議長に選出された(議長は濱口梧陵)。1881年(明治14年)、議長に就任。同年、木国同友会という政社を結成し、濱口会長のもと副会長に就いた。やがて松本鼎県令と対立し、松本は懐柔のため郡長就任をたびたび要請した。
東 一左右(ひがし いつそう、1845年2月18日(弘化2年… 東 一左右(ひがし いつそう、1845年2月18日(弘化2年1月12日) - 1914年(大正3年)11月22日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肝属郡高隈郷(後の高隈村、鹿屋市に編入)生まれ。薩摩藩校造士館で学ぶ。戸長、高隈村長、肝属郡会議員、同参事会員、鹿児島県会議員、同参事会員、所得税調査委員、鹿児島県教育会諮問委員、同授産学校常議員、高隈村農会長となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1914年に死去した。
島津 忠貞(しまづ たださだ、1845年2月17日〈弘化2年… 島津 忠貞(しまづ たださだ、1845年2月17日〈弘化2年1月11日〉 - 1907年〈明治40年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員。 信濃国水内郡飯山城下に飯山藩士の子として生まれる。信濃島津氏の流れを汲む。幼名は謹二。明治維新後、戸長となる。第6大学区第15中学区第4小区の取締役、長野師範学校監事を歴任し、第二十四国立銀行の取締役となる。 自由民権運動に参加し、1879年(明治12年)下水内郡選出の長野県会議員に当選した。県会常置委員に推挙された。1882年(明治15年)北信自由党を結成。自由党系地方政党としては全国有数規模であった。 1885年(明治18年)長野県産牛馬組合創立に際して本部会議長となり、翌1886年(明治19年)長野県蚕糸業組合委員会の議長となり、蚕糸業中央部会議を東京に開くにあたり、総代として上京し、副議長に推挙される。
貝島 太助(かいじま たすけ、弘化2年1月11日(1845年… 貝島 太助(かいじま たすけ、弘化2年1月11日(1845年2月17日)- 大正5年(1916年)11月1日)は、日本の実業家。筑豊御三家の一つである貝島財閥の創始者であり、筑豊炭田のうち貝島炭鉱を開発して「筑豊の炭坑王」「筑豊の石炭王」の異名を取った。 筑前国鞍手郡直方町(現・福岡県直方市)の、行商もする貧農の家に生まれた。時は幕末動乱の真っ只中で、太助の幼少時代は黒船来航、大老・井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)、尊王攘夷思想の広まりとさまざまな出来事が相次いで起こり、激動の時代を迎えていた。8歳の頃から、生活のために父とともに石炭掘りの仕事を始めた。炭鉱夫として稼いだ資金を元手に、明治3年(1870年)から炭鉱経営に従事した。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1845年2月9日(弘… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1845年2月9日(弘化2年1月3日)- 1911年(明治44年)9月5日)は、明治期の実業家、政治家。旧名・小野田久助。 三河国渥美郡高塚村(愛知県渥美郡高塚村、豊南村、高塚村、高根村、高豊村を経て現豊橋市高塚町)で、小野田久二郎の二男として生まれた。同村、小野田吉次郎の寺子屋で学んだ。1854年(安政元年)吉田(豊橋)船町の回漕肥料店・高橋小十郎家に奉公した。1870年(明治3年)主人、高橋小十郎が死去し、跡取り不在のため高橋家を継承し、小十郎を襲名した。 継承した回漕業の経営を次第に拡大し、豊橋一の回漕問屋に成長させた。また、豊橋市街第一番組長会議員、渥美郡町村連合会議員、豊橋商談会議員、豊橋町会議員、豊橋商業会議所常議員、豊橋米穀取引所監査役などを務めた。
依田 道長(よだ どうちょう / みちなが、1845年2月2… 依田 道長(よだ どうちょう / みちなが、1845年2月2日(弘化元年12月26日)- 1923年(大正12年)8月3日)は、幕末から大正期の豪農、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・熊弥太。 甲斐国山梨郡下井尻村(山梨県東山梨郡日下部村、日下部町を経て現山梨市下井尻)で、豪農・依田帯刀の長男として生まれる。元治元年(1864年)新徴組に加わるが、その後帰郷し、新徴組取締の山岡鉄太郎(山岡鉄舟)に入門し撃剣を学んだ。上黒駒村(現笛吹市)の武藤藤太と国事に奔走し、勤王運動に加わった。 明治維新後、明治5年(1872年)下井尻村戸長に、1876年(明治9年)学区取締総理に就任。1880年(明治13年)峡中同進会員となり自由民権運動に参画。
名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、弘化元年12月25日(18… 名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、弘化元年12月25日(1845年2月1日) - 明治42年(1909年)5月27日)は、日本の実業家、政治家。米子銀行、中国貯蓄銀行、倉庫会社の各取締役。元米子町会議員。鳥取県平民。 博労町に生まれた。平次郎の嫡男。幼名虎之助と称す。屋号を名和川屋と号し、醤油醸造幷に砂糖綛糸卸売業を営む。 明治22年(1889年)8月、町会議員(一級)当選。 明治28年(1895年)9月、町会議員(一級)当選。 米子銀行、中国貯蓄銀行、倉庫会社の各取締役の重任を帯び各責務に尽瘁した。 『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) なノ七十五によると、 明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町を含む西伯郡の地価一万円以上の大地主をみると以下のとおりである。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
片岡 健吉(かたおか けんきち、1844年2月14日〈天保1… 片岡 健吉(かたおか けんきち、1844年2月14日〈天保14年12月26日〉- 1903年〈明治36年〉10月31日)は、日本の政治家。 ※日付は明治5年までは旧暦 天保14年12月26日(1844年2月14日)、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男として高知城下中島町に生まれる。母は渋谷次兵衛篤輝の妹(幸)。嘉永2年(1849年)7月7日、藩主への御目見えを許される。 万延元年(1860年)8月18日、前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受けた。 文久元年(1861年)3月17日、御扈従に就任。文久2年(1862年)11月27日、御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任。
曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12… 曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日〈1844年2月13日〉- 昭和10年〈1935年〉11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。憲仁親王妃久子は玄孫にあたる。 家禄は120石の柳河藩士・曾我祐興(七郎左衛門)の次男として生まれる。兄は曽我祐正。母は国学者の西原晁樹の次女の民子。元治2年(1865年)に長崎へ出て洋学を学ぶ。学問や武道を好み、長崎では砲術も学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。また同じく長崎で、西坂にあった瓜生寅の仮塾や榎津町にあった柴田昌吉の柴田塾に学び、関沢明清らと懇意にした。
北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(18… 北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(1844年2月12日) - 大正2年(1913年)7月24日)は、初代長崎市長。 号は清華、歌仏庵。 会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれる。通称、半助。兄に神保修理がいる。母方の実家の北原光吉の養子となる。京都守護職となった藩主松平容保とともに京に上り、藩主近くで機密事項を担当しながら、禁門の変にも参加した。慶応4年(1868年)、会津戦争では、母成峠の戦いで大鳥圭介や田中源之進らの隊の参謀役を務めたのち、藩主のもとで籠城戦を指揮し降伏するまで戦った。謹慎地の東京で戦争責任者となった家老萱野権兵衛の切腹に立ち会い、遺骸を芝白金の興禅寺に埋葬する。
三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保… 三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保14年12月24日〉- 1905年〈明治38年〉8月14日)は、幕末の尊王攘夷派活動家で、明治期の外務官僚・宮内官僚。華族(男爵)に列した。幕末期には「三上兵部」と名乗った。 近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる。 幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した。1867年(慶応3年)には高野山で挙兵。戊辰戦争では各地に転戦し、功績があった。1869年(明治2年)には賞典禄として50石が与えられた。 兵部省に勤務したのち、1870年(明治3年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する。
井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844… 井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉- 明治28年〈1895年〉3月17日)は、明治期の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は正三位勲一等子爵。 肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、藩校時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後は大学南校で学び明治政府の司法省に仕官、1年かけた西欧視察におもむく。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。 安定政権を作れる政府与党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
赤星 研造(あかぼし けんぞう、1844年(弘化元年)2月5… 赤星 研造(あかぼし けんぞう、1844年(弘化元年)2月5日または25日 - 1904年(明治37年)1月6日)は明治時代の医師。 福岡藩オランダ留学生として渡欧し、ドイツハイデルベルク大学在学中、新政府に呼び戻された。台湾出兵に従軍し、東京医学校、東京大学教授を務めた後、仙台市県立宮城病院長に招かれた。一時久留米市整理堂病院教師を務め、仙台に戻り、七ヶ浜村赤星自治院を拠点に仙台や周辺各地で診療活動を行った。 1844年(弘化元年)2月5日または25日、筑前国鞍手郡金生村医師赤星見竜の長男として生まれた。 1857年(安政4年)父見竜の師武谷元立の子武谷椋亭に入門し、1865年(慶応元年)藩遊学生として長崎に派遣され、精得館でアントニウス・ボードウィンに語学を学んだ。
松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2… 松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2月1日〉 - 明治22年〈1889年〉3月4日)は、日本の医師。石川県白山市(旧松任市)出身。石川県で初めて篤志解剖を行った。 石川郡徳丸村(現白山市徳丸町)で父安右ェ門、母ヒナの長男として生まれる。松江家は徳丸村宮井甚平家の分家にあたる。宮井家は地方きっての豪農で、藩政中期より1870年(明治3年)まで村肝煎を勤めた家柄であった。甚平の二男が分家し松江安右エ門と名乗ったのが松江家の初代である。安右エ門には安見、安茂、陳好、甚作、兵二、安仁、嘉平、昇、意之の9人の子があった。 松江安見は若くして医学の道を志し、金沢医学所で、漢方医学を大益良吉に、西洋医学を石川孝恭に学んだ。
先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 … 先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 忠左衞門、1843年2月27日〈天保14年1月29日〉 - 1925年〈大正14年〉9月23日)は、日本の政治家、実業家、資産家、大地主、香川県多額納税者。衆議院議員(香川県第五区選出、当選1回)。西讃銀行取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡仁尾村(現・香川県三豊市)に生まれた。忠左衛門の長男。早くから家庭の薫陶を受け、また金光寺信元に就いて漢籍を修めた。商業を営んだ。 1874年、三野郡仁尾村学務委員となり、それ以来仁尾村会議員、三野豊田郡地位等級会議員、香川県会議員、仁尾村勧業世話係、仁尾村第六聯合会長、仁尾村家の浦聯合会議員、仁尾尋常小学校建築委員長、仁尾村長等の各公職に就任。
網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保… 網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保14年1月11日) - 1926年(大正15年)4月18日)は、明治時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 雨宮彦兵衛の二男として甲斐国東八代郡祝村(現・山梨県甲州市)に生まれる。1865年(慶応元年)同郡錦村の網野治郎右衛門の養子となり、1870年(明治3年)2月、家督を相続する。1872年(明治5年)11月、同村戸長に就任し、ついで八代郡第四区第五区蚕種製造世話掛、錦村副戸長、八代郡第五区長兼学区取締役、学区取締総理、学事会員嘱託を経て、1882年(明治15年)9月に錦村村会議員に当選した。 1884年(明治17年)9月、東八代郡錦生学校教育連合会議員に転じ、英村錦村所得税調査委員、東八代郡会議員、同郡参事会員、同郡所得税調査委員補欠などを経て、1902年(明治35年)1月、山梨県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年1月10日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天… 瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天保13年1月15日)- 1913年(大正2年)2月23日)は、幕末から明治時代の官僚、教育者、英学者、実業家である。別称は寅(とら)、通称は三寅、号は梅村・六合魁民、幼名は乕作。本姓は多部。海援隊士・瓜生震(雷吉)の兄。 日本の近代教育の起源となる1872年(明治5年)の「学制」起草者の一人で、故郷福井藩の英学教育にも大きな足跡を残した。大阪理学校(現・京都大学)校長、初代神戸税関長、日本鉄道会社幹事などの要職も歴任し、実業家としても活躍した。ホーム・リンガー商会と協同で下関に設立した「瓜生商会」は、三菱・三井の両財閥の石炭輸出の主要な仲介業者となった。