泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月2… 泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月21日〉 - 1929年〈昭和4年〉1月7日)は、北海道栗山町の前身である角田村の開祖。 1842年(天保13年4月21日)、陸奥国伊具郡角田にて、陸奥石川氏に仕える添田保の子として生まれる。幼名は拙之助。 成教堂で経史を修めた拙之助は、生徒たちに書物の読み方を教える「句読役」を命じられ、さらに仙台への遊学を経てからは、成教堂目付兼武頭役に就いた。 1864年(元治元年)8月1日、角田藩重役の泉靖七郎の養子となり、10月6日には藩主・石川義光から「麟太郎」の名を賜る。 1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩一門の筆頭格たる石川家は、はじめ仙台の警備にあたっていた。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(… 神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(1841年4月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の実業家。本姓は梅谷で、名は胤保、号は松雲。播磨国印南郡大塩村(現在の兵庫県姫路市大塩町)出身で、慶應3年に兵庫開港商社取締役世話役に就任し、兵庫運河建設に大きく貢献した[要出典]。のち、神戸市会議長を務める。「神戸発展の父」とも呼ばれる[要出典]。 播磨国印南郡大塩村(現兵庫県姫路市大塩町)の大庄屋の三男に生まれ、15歳で兵庫出在家町の素封家、第12代神田兵右衛門の養子となる。 神田家の家督を継いだ兵右衛門は、慶應3年(1867年)7月、兵庫開港商社取締役世話役に命じられた。
田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841… 田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841年4月2日) - 明治12年(1879年)10月3日)は日本の洋学者、教科書編纂者。号は天口酔史。博物学者の田中芳男は実兄。 信濃国伊那郡飯田城下(現在の長野県飯田市)に医師・田中隆三(如水)の六男として生まれた。幼名は大輔。兄の芳男とともに名古屋の伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学ぶ。安政6年(1859年)江戸に出て、林洞海に蘭学や本草学を学ぶ。また海軍兵学と蒸気機関の研究に専念し、英語やフランス語を修めた。慶応3年(1867年)に幕府に出仕し、幕府海軍士官となる。同4年(1868年)の上野戦争では彰義隊に属した。明治2年(1869年)には新政府の海軍御用掛となって海軍操練所の設立に協力し、兵学大助教に進むが、学制発布を受けて、同5年(1872年)には文部省に転属し、小学校教科書の編纂に着手し、「小学読本」を発行。
伊藤 雋吉(いとう しゅんきち、1840年4月30日〈天保1… 伊藤 雋吉(いとう しゅんきち、1840年4月30日〈天保11年3月28日〉- 1921年〈大正10年〉4月10日)は、日本の海軍軍人、茶人、政治家。海軍中将正二位勲一等功三級男爵。 丹後田辺藩の下士、伊藤勝介の長男。丹後国加佐郡田辺城下(現在の京都府舞鶴市)に生まれる。幼少より学問に優れ、藩命により江戸に遊学して大村益次郎に師事し、兵学や数学を学ぶ。 明治維新の後、兵部省出仕、海軍操練所出仕、海軍兵学寮中教授(以上は文官)を経て、1871年(明治4年)、海軍少佐(武官)に任官すると同時に「春日」艦長。 「日進」副長を経て、1872年(明治5年)に海軍中佐に進級すると同時に「筑波 」艦長。その後、海軍兵学校監学課長、海軍兵学校長代理、海軍兵学校次長、「金剛」艦長を歴任し、1878年(明治11年)に海軍大佐に進級。
籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保1… 籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保11年3月21日) - 1899年(明治32年)3月30日)は、平戸藩士、剣術家、政治家。旧名は桑田源之丞。 滋賀県知事、元老院議官、島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任した。心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた。 平戸藩家臣桑田安親の長男として肥前国松浦郡平戸村(現・長崎県平戸市)に生まれる。先祖に戦国武将の籠手田安昌、籠手田安経、籠手田安一がいる。 平戸藩(松浦静山)伝の心形刀流剣術を学び、免許皆伝を得る。幕末には藩探索方に任じられ京都で情報収集を行う。その傍ら直心影流戸田一心斎(栄之助)の道場に通い、師範代高山峰三郎と面識を持つ。
松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天… 松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天保10年3月2日) - 1913年(大正2年)9月23日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 越後国刈羽郡柏崎村(現新潟県柏崎市)の町年寄の家に生まれた。原修斎に学び漢学を修めた。町年寄を務め、その後、柏崎県に出仕し学区取締に就任。1879年(明治12年)新潟県会議員に当選し、初代議長となった。ほか自由民権を唱え、北辰自由党に加わった。実業家としては柏崎活版印刷社長などを歴任した。1889年(明治22年)鈴木昌司、西潟為蔵、山際七司らと越佐同盟会を結成し評議員に就任。1890年(明治23年)6月に県会議員を辞職し、同年7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第6区から出馬し当選。
司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839… 司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839年4月11日) - 明治12年(1879年)3月11日)は、医学者・言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。日本初の独和辞典を刊行した。 諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。他に、号に「揖軒」「無影樹下」「船楼」があった。本名は「司馬津」。 幼名、島倉伊之助(なお「島倉亥之助」の表記もある。弟に島倉家を譲り、司馬と改姓した。 語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天… 後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
鳥山 啓(とりやま ひらく、天保8年3月25日(1837年4… 鳥山 啓(とりやま ひらく、天保8年3月25日(1837年4月29日) - 大正3年(1914年)2月28日)は、紀伊田辺藩(現和歌山県田辺市)出身の博物学者、教育者、作詞家。南方熊楠の恩師であり、「軍艦(軍艦行進曲)」の作詞者としても知られる。 天保8年3月25日(1837年4月29日)、田辺の大庄屋田所佐平の次男として生まれる。幼名は象次郎。名を為助、字を明郷とした。田辺藩士鳥山純昭の養子となり、藩主安藤直裕の近従として召し出される。8歳の頃から真砂丈平から漢学を、医師石田三郎から本草学を学び、15歳からは和歌山に出て本居内遠と熊代瑞穂に就き国学を修め、その傍らで天文学や科学、地理学、英学なども幅広く学んだ。
伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう/きんぞう、天保8年3月7日〈… 伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう/きんぞう、天保8年3月7日〈1837年4月11日〉 - 1901年〈明治34年〉8月7日)は、江戸幕末から明治にかけて活躍した、上野国(群馬県)出身の実業家。横浜を開拓した代表的人物の一人であり、第七十四国立銀行の初代頭取や、横浜市会議員をつとめた。 天保8年(1837年)、上野国新田郡藪塚村(現・群馬県太田市)に生まれる。 慶応元年(1865年)に、横浜に出て商売を始めた。南京豆や蚕卵紙の取引によって財をなす。特にウォルシュ・ホール商会に重用された。 明治5年(1872年)、私財を投じ、廃絶していた郷里の岡登用水の再興を行う。この功績により、1876年(明治9年)の明治天皇東北巡幸の際には賞品の下賜を受けた。
古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3… 古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3月4日) - 1877年(明治10年)4月2日)は明治時代の日本の教育者。福澤諭吉の弟子として、日本の近代教育の礎を築いた教育者の一人。慶應義塾初代塾長。また幕末には軍艦頭並として95名を引き連れ榎本軍に加わり戊辰戦争を戦った。旧名を古川節蔵、岡本節蔵、岡本周吉といい、岡本博卿の筆名でも知られる。 広島県西中国山地に奥深い山県郡川小田村生まれ。庄屋の三男に生まれ青年期に医学を志し、広島に出て広島城下で漢学を学ぶ。 1856年(安政3年)、19歳の時、大阪に出て、当時日本中の秀才が集うといわれた緒方洪庵の適塾に入門、蘭学、兵学を修めた。この頃は岡本周吉と称した。
相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4… 相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4月7日〉 - 大正7年〈1918年〉6月22日)は、幕末期の庄内藩銃隊頭。明治期の地方官吏、郡長。通称は文八郎。 相良守峯(ドイツ文学者)、相良守次(心理学者)は孫に当たる。 天保8年3月(1837年4月)、庄内藩士相良文右衛門(守富)の3男として生れ、のちに兄八十吉(守均)の跡を継いだ。安政2年(1855年)選ばれて砲術修業のため江川太郎左衛門の塾に入門した。慶応4/明治元年(1868年)の戊辰戦争では、庄内軍の銃兵部隊を指揮する立場で転戦し、4月の清川口の戦いに銃兵指図役として従軍したのをはじめ、銃隊頭として長岡藩支援のため北越戦争にも参戦した。
三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月… 三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月15日)- 1901年(明治34年)5月20日)は、幕末から明治期の徳島藩家老稲田家重臣、裁判官、政治家。貴族院勅選議員。初名・直方、号・高陽間人。 淡路国津名郡洲本城下洲本紺屋町(現兵庫県洲本市)で、稲田家家臣・三田省輔の三男として生まれる。稲田家学問所・益習館で学んだ。内藤弥兵衛、立木兼善らと天誅組運動に加わり徳島藩から禁固処分を受けたが、朝廷の命により釈放された。明治元年2月(1868年)軍監役、糺問局頭取として有栖川宮 東征大総督の護衛として東征に従軍した。 明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還で稲田家旧家臣が士族に編入されなかったため、七条弥三右衛門、内藤弥兵衛らと徳島藩からの分藩運動を起こした。
四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日… 四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日(天保7年3月1日) - 1883年(明治16年)11月1日)は、伊勢国員弁郡(現在の三重県いなべ市員弁町大泉)出身で境川部屋、宮城野部屋、再度境川部屋に所属した力士。本名は水谷 清八。2代鏡山。身長体重不明。最高位は東前頭2枚目。 1859年11月境川部屋に入門し、故郷の大泉を四股名にしたが、伊勢ノ濱大五郎に改名。期待をされて盛岡藩の抱えになった。1871年4月、34歳で入幕。宮城野部屋に転籍して荒馬大五郎に改める(宮城野の婿になった為)。その後巡業中の女性問題から破門、同時に離縁され、四海波に改名して古巣に復帰。幕内上位を保っていたが三役昇進はならず、1879年6月限りで引退し鏡山を襲名。
伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2… 伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2月24日) - 1917年(大正6年)2月24日)は、刈谷藩士、政治家(衆議院議員2期)、実業家。別名は伊藤 三弥(いとう さんや)。 天保7年2月24日(旧暦)(1836年)、三河国碧海郡の刈谷城内に生まれた。兵庫県出身、伊勢国出身とされることもある。父は伊藤庄兵衛保秀。刈谷藩の藩校である文礼館に学び、尾張国の儒学者である伊藤両村の私塾でも学んだ。17歳で京都に出ると、頼三樹三郎の私塾で学ぶ中で尊王思想が芽生えた。 安政6年(1859年)7月にはいとを妻に娶った。同年に父が死去すると、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居していた際に岩倉邸に仕え、岩倉具視と志士との連絡役を担った。
渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4… 渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)は、日本の官僚、政治家。元は諱を武勝、通称を清左衛門と名乗った。号は東山。 福岡県令、元老院議官、貴族院議員、福島県知事を歴任した。また華族に列し、男爵に叙された。 肥前国大村に大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。早くから尊王倒幕を提唱。慶応3年には藩内の佐幕派の粛清を藩主に進めるなど弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として活動した。 鳥羽・伏見の戦いの直前、大津から京都に侵攻する旧幕府軍を阻止するために大村藩兵50名を率いて大津に入るが、他藩は出兵を躊躇したために孤立してしまう。しかし、渡辺ら大村藩兵を大軍と誤認した旧幕府軍が大津への進撃を断念したため、京都を挟み撃ちにする旧幕府軍の戦略は挫折し、その事を知った新政府から大村藩は戦後に厚遇を受けることになった。
庄司 栄三郎(しょうじ えいざぶろう、1835年4月12日(… 庄司 栄三郎(しょうじ えいざぶろう、1835年4月12日(天保6年3月15日) - 1896年(明治29年)10月21日)は、日本の政治家。鳥取県会見郡渡村長(初代)。元渡村会議員。 出雲国島根郡新庄村(のち島根県八束郡本庄村、現・松江市)出身。渡村(現・鳥取県境港市渡町)の医者門脇春哲家の奉公人であったが、同家の長男健三郎が“本庄司”に婿入りの際、その俊敏な働きぶりを見込まれて本庄司の番頭として迎えられた。後に本庄司当主の妹をめとって庄司姓を名乗り、“西庄司”と号した。 初代戸長を務め、同家の大黒柱には今なお血税騒動で受けた傷跡が残る。大祥寺北に尋常小学校を新築する等初代村長として村政の基礎を築いた。
岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835… 岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835年4月9日) - 大正9年(1920年)12月9日)は、上野館林藩士。通称は鈕吾。別名に斯波弾正。江戸で高島流砲術を学び、その後水戸に遊学し、江戸昌平黌に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係であったため、勤王活動家として活動した。尊皇派の公家高松実村(高松保実の継嗣)の家老職を名乗り、偽勅使事件(高松隊)の中心人物の一人として、信濃国や甲斐国で諸大名や町家から金品を接収した。事件後は謹慎処分で済まされた。 安政元年(1854年)から明治2年(1869年)にかけて、戦国時代から江戸時代までの192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述した。
仁木 竹吉(にき たけよし、天保5年3月17日(1834年4… 仁木 竹吉(にき たけよし、天保5年3月17日(1834年4月25日) - 大正4年(1915年)8月31日)は、日本の北海道開拓者。特に現在の北海道余市郡仁木町の開拓に従事し、その町名の由来となった。 天保5年(1834年)阿波国麻植郡児島村(徳島藩。現・徳島県吉野川市)にて、大島源左衛門の七男として生まれる。天保11年(1840年)より剣術を阿波郡香美村の佐藤丈左衛門に、漢学を麻植郡宮島村の青山賢之進と香美村の佐藤健吉に習った。大島家は徳島藩士・赤川三郎左衛門の配下であった。嘉永6年(1853年)美馬郡拝原村(現・徳島県美馬市)仁木伊兵衛の養子となる。仁木家は徳島藩筆頭家老・稲田氏の配下である郷士で、藩の特産である藍製造を家業としていた。
大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年… 大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年4月18日) - 大正13年(1924年)5月11日)は、江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家。 和歌山県平民・大井源四郎の長男として紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(三重県南牟婁郡西山村、紀和町を経て現熊野市紀和町平谷)に生まれ、1845年(弘化元年)から1848年(嘉永元年)まで、菊岡隆之助に漢学を学び、その後京都に出て医学を修め、さらに1855年(安政元年)から長崎でオランダ人、ポンペ、ボードウィンのもとで蘭学と医学を学んで蘭方医となる。 長崎に9年いたのち、1861年(文久3年)飫肥藩で1年洋医学を教え、1865年(慶応元年)に大阪で開業、1867年(慶応3年)には大坂歩兵屯営付き軍医として伏見の役に出陣。
沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834… 沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834年4月14日) - 大正12年(1923年)12月7日)は、北海道へ開拓民として渡り事業に成功した後、明治27年(1894年)に故郷より18戸を伴って移住し、雨竜郡沼田町の開祖となった人物。 越中国砺波郡新西嶋村(現在の富山県小矢部市新西)の甚三郎の三男として生まれた。12歳で大工の徒弟となり、14歳で庄下村矢木(現在の富山県砺波市矢木)の豪農「根尾家」に奉公人として入り、主人の供をして江戸に出て染工となった。26歳の時、帰郷し、農業に専心。明治元年(1868年)、新西嶋村に分家した。 明治15年(1882年)、喜三郎49歳の時、妻子を残し初めて北海道に渡った。
元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月… 元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月5日) - 1916年(大正5年)3月4日)は、日本の儒学者・法学者・法律家・教育者。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長、東京府尋常師範学校校長、東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1834年(天保5年)、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)に儒学者元田竹渓の長子として生まれる。維新の際に、藩主の嫡子松平親貴に従って京都に上り、参与広沢真臣に知遇を得て内国事務局書記に任ぜられる。度会府判事に就任し、度会府廃止後に太政官に入り、太政官記録取調掛に任ぜられ、箕作麟祥とともにフランス民法を審議する。 1874年(明治7年)に東京神田に法学塾の「法律学舎」を開設し、フランス法を講授する。
小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月… 小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月29日〈1833年4月18日〉 - 1903年〈明治36年〉7月21日)は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒。 出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した。
正阿弥 勝義(しょうあみ かつよし、天保3年3月28日(18… 正阿弥 勝義(しょうあみ かつよし、天保3年3月28日(1832年4月28日) - 明治41年(1908年)12月19日)は、明治時代に活躍した金工家。 天保3年(1832年)津山二階町に住む津山藩お抱えの彫金師・中川五右衛門勝継の三男として生まれる。幼名は淳蔵、通称は淳蔵、勝義は工名。幼い頃から父に彫金を学ぶ。江戸出府の方便として津山藩先手鉄砲隊小山家の継嗣となり、江戸の彫金家に弟子入りしようとするが果たせず、江戸から帰郷後養子関係を解消。その後、18歳で岡山藩御抱え彫金職人の名家・正阿弥家の婿養子となって、正阿弥家の9代目を継ぐ。養子入り後は、江戸幕府お抱えの彫金家・後藤家の門人で、自身も江戸幕府及び朝廷の御用職人を務めていた実兄・中川一匠や、その師・後藤一乗から手紙で下絵や脂型、或いは相互に作品を遣り取りして指導を受ける。
大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年… 大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年3月23日〉- 1899年〈明治32年〉9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家。通称を幡六[要説明]、民平[要説明]。 栄典は正二位勲一等伯爵。 肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。出身家の詳細については大木家を参照。 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。
安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年… 安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年4月17日) - 大正5年(1916年)11月19日)は、日本の武士(二本松藩士)、自由民権運動家、政治家。衆議院議員(大成会→憲政本党)。 二本松藩士安部井又之丞の子として生まれる。戊辰戦争の際には、奥羽諸藩の衆議所詰となり仙台や白石などを奔走したが、二本松城陥落の際に又之丞は自刃した。 戊辰戦争終結後、若松県に出仕し、少参事、典事を歴任したが、まもなくして辞職した。1874年(明治7年)、板垣退助らによって自由民権運動がおこると、これに呼応して一政社という政社を組織した。1878年(明治11年)、福島県会議員となり、議長に互選された。
渡辺 重春(わたなべ しげはる、天保2年3月10日〈1831… 渡辺 重春(わたなべ しげはる、天保2年3月10日〈1831年4月22日〉 - 1890年〈明治23年〉5月9日)は、幕末から明治期の国学者。通称、上野介。号は桜園、欽英書屋。国学者の渡辺重石丸は、弟である。 1831年(天保2年)、豊前国中津に生まれる。渡辺重蔭の長男で、渡辺重名の孫。18歳の時、定村直孝に国学を修め、その後、萩原広道、佐久良東雄、大国隆正らに学び、平田篤胤の没後の門人となる。 1871年(明治4年)、豊前中津藩校進脩館教授。のちに廣田神社、龍田神社、大鳥神社などの大宮司をつとめ、正七位・小教正に進む。国典に通じ、和歌・詩を能くする。 1890年(明治23年)、60歳で死去。
粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7… 粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7日(天保元年3月15日)- 1895年(明治28年)11月10日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・桜木注兵衛。 阿波国板野郡五条村(徳島県板野郡五条村、一条村、一条町、吉野町を経て現阿波市吉野町五条)で、地主・桜木忠兵衛の息子として生まれた。10歳で父が死去したため伯父、藍玉商・桜木忠次の後見を受けて成長した。農業より商業を好み大阪で藍玉、砂糖の商いを数年行って、弟・延次郎に家督を譲り大坂に移った。 幕末に剣術を習い、諸藩の浪士と交わり国事に奔走した。明治維新後、名を粟谷品三と改め、幕末に往来した防長諸州の物産を扱う防長物産会社を有志と組織して社長に就任した。
中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元… 中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元年3月10日)- 1913年(大正2年)5月21日)は、幕末から明治時代の農地改革者、技術者。 庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年(安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。 明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。
倉富 胤厚(くらとみ たねあつ、文政12年3月18日(182… 倉富 胤厚(くらとみ たねあつ、文政12年3月18日(1829年4月21日) - 明治23年(1890年)6月30日)は、筑後国久留米藩領出身の儒者・政治家。通称は八兵衛、字は士簡、号は篤堂(とくどう)。 文政12年(1829年)、筑後国三潴郡大隈村(現・福岡県久留米市梅満町)の庄屋・園田為右衛門の次男として生まれる。幼名は熊三郎。 はじめ田主丸の重富縄山に儒学を学び、16歳で豊後日田の咸宜園に入門して広瀬淡窓に学んだ。なお、重富縄山も広瀬淡窓門下である。 18歳のとき、親族である竹野郡徳童村(現・久留米市田主丸町)の庄屋・倉富又市の婿となり、その後を継ぐ。慶応3年(1867年)には藩命を受けて、当時大宰府に滞在していた三条実美ら五卿(七卿落ち参照)の警護にあたっている。
堀 安道(ほり やすみち、1829年4月11日(文政12年3… 堀 安道(ほり やすみち、1829年4月11日(文政12年3月8日) - 1875年(明治8年)9月26日)は、備中国の宗教家である。同国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)にある備中国総社宮の神主。江戸から明治へ政治が大きく変わる時期に、総社の歴史をまとめ、総社宮や総社のために大きな功績を残した。 四番目の弟は画人であり、実業家でもある堀和平である。 備中国賀陽郡八田部村(現・岡山県総社市総社)西宮本町の「志保屋」の堀和助安忠(総社市門田・満谷常観の子)の長男に生まれる。氏は堀、幼名を岩太郎、長じて清一郎また和助と改め、六友居と称した。 堀家はその家譜によると、賀陽臣の出自で、国府の西堀の地に住んでいたため、堀を姓とした。
清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(182… 清水 卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年3月4日(1829年4月7日) - 明治43年(1910年)1月20日)は、武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。母は根岸友山の妹。浅草の「瑞穂屋」として名を馳せたことから、瑞穂屋卯三郎とも呼ばれた。 酒造業を営む清水家の三男として生まれる。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作秋坪に蘭学を学んだ。1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権大使のプチャーチンに会い、臆することなく”ヒアリ・コウ”と声をかけ、返答をもらい、外国では身分の区別なく言葉を交わすことに感激した。今でいう、国際感覚の気性に富んだ人物であったことが窺われる。 1849年(嘉永2年)に江戸に出て、洋学の習得を目指し、佐倉の蘭方医、佐藤泰然のもとで蘭語のABCを教わる。
西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11… 西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11年3月13日) - 1902年(明治35年)8月18日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。道徳振興団体「日本弘道会」創設者。号は泊翁。
安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月… 安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月19日(文政11年3月6日) - 1909年(明治42年)11月23日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の警察官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称・十郎。従三位勲一等。 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。 明治維新後、新政府に出仕し、明治元年10月2日(1868年11月15日)東京府市中取締隊長に就任。以後、東京府監察、同大属、兼同第二大区総長、同第一大区総長、同権典事、同典事、同邏卒総長、警保助、司法中検事、権大警視、大警視、中警視、権中警視などを歴任。西南戦争に際し、新撰旅団の編成に尽力した。
前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828… 前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828年4月7日) - 明治37年(1904年)7月20日)は、日本の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。 夏目漱石の『草枕』に登場する「志保田の隠居」のモデルである。 肥後国玉名郡小天村(現熊本県玉名市)の豪族・前田惟鑑の第三子として生まれる。 幼名を一角、長じて覚之助を名乗る。武術に優れ、槍の名手と言われ、25歳で肥後藩士となり、細川家の槍術指南を務める。 1877年(明治10年)富岡敬明県令から熊本県第七大区(玉名郡南半分)区長に任命。小天村の男子を集めて人民保護隊と名付け、西南戦争に際しては、中立党を設けた。1878年(明治11年)に小天の山麓に温泉を発見し、別荘を建設、犬養木堂、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの活動家が訪れた(のちに夏目漱石が投宿し、ここを舞台に小説『草枕』を執筆した)。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月… 松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月15日) - 明治14年(1881年)9月3日)は、伊勢山田(現在の三重県伊勢市)生まれの書家。名は元修、字は子践、幼名は慶太郎、通称は縫殿(ぬい)、雪柯は号で、別号に澹所などがある。 幕末の三筆と称される貫名菘翁の書法を日下部鳴鶴・巖谷一六などに指導した。また、明治13年(1880年)清の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日した後、巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は楊守敬に師事して書法を研究し、六朝書道を提唱し興隆させた。 文政6年(1823年)、伊勢山田一志久保町に生まれる。家は代々伊勢神宮の祠官であり、幼少の頃から父(適翁)に書画を習い、のちに貫名菘翁などの門人となって、書画の鑑識・書法・水墨画などを学んだ。
景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4… 景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4月 - 明治5年8月18日(1872年9月20日))は、幕末の武士(鳥取藩士)、儒者。幼名は礼太郎。諱は守正。字は雍卿。号は道村。従五位。 父は医者・儒者であり優れた教育者だった景山粛。 先考氏景山、名義春、字立碩、粛之考七右衛門者其兄也、父称長三郎農夫也、性剛毅而有奇才、聞善若驚疾悪如讐、以節倹治家致貨以恵子孫、甫弱冠有高志、傷世多夭横、乃学医京千木嶋子、敏悟之質夙極其秘薀頗精干瘂科治方之活桟(中略) 時に寛政六(1794年)寅歳、先年の語り伝へ知るし置。大家と言は、先年後醍醐天皇様御こしかけ遊ばされ候家也。之により大家と言。大家の先祖影山道くわんと言人也。
田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月15日(… 田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月15日(1814年4月5日) - 明治40年(1907年)1月21日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家。日本最後期の文人画家として知られる。 田能村竹田の養継子。幼名は、はじめ松太、のち傳太。諱は、はじめ蓼、のち痴。字は、はじめ虚紅、のち顧絶。号は、はじめ小虎、のち直入。通称は小虎とした。別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。豊後直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)生まれ。 豊後国直入郡竹田町(現・大分県竹田市)において、岡藩士三宮伝右衛門の三男として生まれる。伯父渡辺蓬島が田能村竹田の幼児期の師であったことから紹介され、文政5年(1822年)9歳のときに竹田の画塾に入門。
葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812… 葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812年4月26日)- 明治15年(1882年)9月8日)は、日本の地歌箏曲家、作曲家。盲人ながら江戸後期から明治期に生き、自作の木活字を用いて『葛原勾当日記』を長年つけたことで知られる。孫は童謡作家葛原しげる。 出身は備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町、のち福山市)。庄屋矢田重知の長子として生まれた。本姓矢田、幼名柳三、諱は重美。名は琴の一、のち美濃一。雅号一泉、俳号似月。3歳で痘を病み、両眼とも失明。9歳で琴を始め、11歳で京都の松野勾当(のち検校)に師事し、生田流箏曲を修めた。14歳で座頭になり、その翌年帰郷し、備後・備中両国を中心に広く琴を教授するかたわら、たびたび上洛してはその技を磨いた。
白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1… 白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)は、奇兵隊のスポンサー、長府藩の支藩である清末藩の御用商人。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。商人の自由を求めて、家が破滅するまで奇兵隊へ財政支援し明治維新をバックアップした。明治政府より感謝を込めて正五位を贈られた。 文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月… 大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月 - 明治8年(1878年)6月17日)は、日本の江戸時代末期に活躍した町絵師。名は清光、通称は喜知松、号ははじめ蘭斎、のちに皎斎。地元・会津を題材にした郷土愛あふれる作品を数多く手掛けた。 先祖は蒲生家旧臣で、蒲生家が会津を去った後に商人となったという。清光も裕福な商人出身で、幼少から画を好み、旦那芸として佐藤香斎に書画を学んでいたが、後に画道に熱中するあまり家産を傾けたという。一方、漢学を山内穆斎、和歌を相川功垂に学んだという。 代表作としては、下記のように複数確認されている「若松城下絵図」が挙げられる。これらは作品ごとに書き込まれている武家屋敷の名称が変わっていたり、藩の施設や寺院の描写も変化が認められる。
頼 聿庵(らい いつあん、享和元年2月20日(1801年4月… 頼 聿庵(らい いつあん、享和元年2月20日(1801年4月3日) - 安政3年8月30日(1856年9月28日))は、江戸時代の儒学者。広島藩儒。名は元協、字は承緒。幼名は津具雄、通称は餘一。別号に春嶂・鶴年・迂娯軒(うごけん)・鯉城僲史(りじょうせんし)・三十六鱗魚城退士(さんじゅうろくりんぎょじょうたいし)。
岡 熊臣(おか くまおみ、天明3年3月9日(1783年4月1… 岡 熊臣(おか くまおみ、天明3年3月9日(1783年4月10日) - 嘉永4年8月6日(1851年9月1日))は、幕末に活躍した日本の国学者。石見国鹿足郡木部村(現・島根県鹿足郡津和野町)出身。 富長山八幡宮の神官・岡忠英の子として生まれる。本居宣長の影響を受け、村田春門の下で国学を学ぶ。1811年から神職自祭葬運動を展開した。1815年には家塾の桜蔭館を開いた。1849年、津和野藩校・養老館初代国学教師に就任。津和野国学隆盛の礎を築いた。 本居宣長と平田篤胤の思想を折衷し、独自の論考を構築した『千世の住処』、『古事記伝』を模した『日本書紀私伝』などの著書を著した。 1907年、従四位を追贈された。
小谷田 子寅(こやた しいん、1761年(宝暦11年)4月4… 小谷田 子寅(こやた しいん、1761年(宝暦11年)4月4日 - 1831年(天保2年)4月11日)は八王子千人同心の一人。1761年(宝暦11年)4月4日、武蔵国多摩郡川口村(現・八王子市川口町)に生まれる。通称は権右衛門、諱は昌亮。 学問を塩野光廸(鶏沢、塩野適斎の養父)に、剣術を真鏡斎(若菜主計)に、医術を岑貉丘に学んだ。また、天文学にも詳しく、西洋学を好んだという。1831年(天保2年)4月11日、死去。享年71。1964年7月23日、心源院(八王子市下恩方町)に建つ「子寅先生碑」が八王子市の文化財に指定された。同碑の撰文は塩野適斎、書は植田孟縉が担当した。
谷川 士清(たにがわ ことすが、宝永6年2月26日〈1709… 谷川 士清(たにがわ ことすが、宝永6年2月26日〈1709年4月5日〉- 安永5年10月10日〈1776年11月20日〉)は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。 伊勢国の津(現・三重県津市)の医者の家に生まれる。京都に出て医学を学ぶ傍ら、玉木正英(葦斎)から垂加神道を学ぶ。津に帰郷後、医業に精を出す一方で、家塾「洞津谷川塾」を開いて門人を指導したほか、道場「森蔭社」を設けて神道を教授した。また、有栖川宮職仁親王から和歌を学ぶなど、独学で国学を研究した。 宝暦事件と明和事件によって竹内式部が処罰されると、親しい交流のあった士清も嫌疑をかけられたが、士清は藤堂高朗の助けで事なきを得た。
えりのあ(生年非公表・4月30日生)は、日本のシンガーソング… えりのあ(生年非公表・4月30日生)は、日本のシンガーソングライター。福島県出身、栃木県大田原市在住。とちぎ未来大使、大田原市観光大使でもある。 福島県双葉郡双葉町出身。小学校までを同町で過ごし、中学は茨城県稲敷市の学校を、高校は常総学院を卒業。栃木県大田原市の国際医療福祉大学へ入学し同市へ移住。社会福祉士・介護福祉士資格取得し、同大学を卒業後は福祉施設で勤務しつつシンガーソングライターとして、2008年にメジャーデビュー。 デビューと同時に、「えりのあ福祉基金」を立ち上げ、CDやグッズの売上の一部から、車椅子や障害者用の歩行器、施設用備品などを寄贈している。 キャンペーン・ソング、ご当地ソング、ゆるキャラソングなどの作詞、作曲、振り付けなどを手がけ、福祉に関するイベントや福祉施設等のイベントでコンサート活動をしている。
国友 愛佳(くにとも あいか、4月30日 - )は、日本のグ… 国友 愛佳(くにとも あいか、4月30日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。女性アイドルグループ・ヤンチャン学園、KNU oNEWの元メンバー。群馬県高崎市出身。 モーターマガジン社RIDE-ライドル。 ※太字タイトルはBD版同時発売 ヤンチャン学園として この項目は、アイドル(グラビアアイドル・ライブアイドル・ネットアイドル・レースクイーン・コスプレイヤーなどを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル:アイドル/プロジェクト:芸能人/プロジェクト:ジャニーズ/プロジェクト:女性アイドル)。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。