岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉… 岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉6月29日 - 1984年〈昭和59年〉9月30日以降?)は、日本のマルクス経済学者、翻訳家。マルクスの大著『資本論』の翻訳で知られる。 北海道江差生まれ。第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部、1929年(昭和4年)に同経済学部を卒業。戦後、1950年(昭和25年)より九州大学教養部教授。ついで法政大学経済学部教授となる。1968年(昭和43年)法政大学教授を辞任、以降は著述業に専念した。 1983年(昭和58年)に青土社から出版した『マルクスに凭()れて六十年 自嘲生涯記』という自伝で向坂逸郎を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」という言葉を残して、80歳となる直前の翌1984年(昭和59年)6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29… 内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29日 - 1996年(平成8年)2月18日)は、日本の技術者、実業家、経営者、株式会社コロナ創業者。内田力は長男。 1904年(明治37年)新潟県三条市に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、20歳の時には逓信省電気事業主任技術者の資格を取得。その技術と知識を生かすべく富山電気(現・北陸電力)へ入社。 入社後4年程で、父に呼び戻され家業であるガソリンコンロの販売を手伝うようになる。家業は順調に進み、販売や修理を通して、燃焼効率や操作性などコンロの様々な改良点を発見した鐡衛は、徐々に自分のアイデアを活かしたコンロを自らの手で作り上げたいという思いを強めていく。
山口 左右平(やまぐち そうへい、1904年(明治37年)6… 山口 左右平(やまぐち そうへい、1904年(明治37年)6月28日 - 1949年(昭和24年)3月26日)は、昭和時代前期の政治家。衆議院議員(1期)。 神奈川県中郡高部屋村上糟屋(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業する。農業を営む傍ら、産業組合中央会に奉職し、同総務部企画課長、文書課長、満州国開拓協力協議会幹事、農林省委員などを歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第3区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。戦後、公職追放となった。
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月2… 水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した。 1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した。 1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 19… 柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 1991年8月20日)は、日本の歌人、国文学者。
滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 19… 滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 1967年11月17日)は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1926年に慶応義塾大学法学部を卒業し、1927年にエヌチーエヌ製作所(現在のNTN)に入社。1949年に取締役に就任し、1956年5月に常務、1959年2月に専務を経て、1959年4月から1964年5月までに社長を務めた。 1967年11月17日、肺癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2… 楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2001年7月18日)は、日本の美術史家、立正大学名誉教授。 佐賀県生まれ。旧制五高、東京帝国大学文学部卒業。1942年立正大学教授。1954年「近世風俗画様式史の研究」で東洋大学文学博士。1962年日本浮世絵協会を設立し理事長。1975年定年退任、名誉教授。研究活動の中で収集した美術品は、墨田区に寄贈し、現在はすみだ北斎美術館が所蔵している。
羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 -… 羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 - 没年不明)は、秋田県北秋田郡森吉町(現北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は武石 助松。身長167cm、体重90kg。最高位は西十両筆頭。 1921年1月初土俵、1928年1月十両昇進。十両では負け越したり休場したりと幕下に何度も落ちたりしたが、1931年1月に4回目の十両昇進で東十両7枚目に付いてから定着し、5月に西十両筆頭まで躍進した。この場所と翌10月場所で勝ち越し、次の場所での新入幕が確実とみられたが、1932年1月場所の新番付では入幕どころか1枚下の西十両2枚目にされた。番付発表当日に起きた春秋園事件に加担し、1932年1月脱退(番付上は削除、実質的最終場所は1931年10月)し、天竜三郎率いる新興力士団に加わった。
上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 198… 上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 1988年10月22日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1929年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1952年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1970年11月に会長に就任し、1978年6月には相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1988年10月22日に心不全のため死去。84歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 … 坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 - 1990年〈平成2年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。財政政策に詳しく衆議院大蔵委員会理事、大蔵政務次官(第1次岸改造内閣)、自由民主党税制調査会長、厚生大臣(第44代)、大蔵大臣(第81代)などを歴任。 和歌山県伊都郡出身。旧制第六高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、都新聞、東京日日新聞記者を経て、大政翼賛会財務部副部長を務める。東日の大蔵省詰め記者時代に福田赳夫と知り合い、肝胆相照らす仲となる。1942年旧和歌山1区より翼賛政治体制協議会推薦で第21回衆議院議員総選挙に出馬するも落選する。
近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24… 近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24日 - 1988年〈昭和63年〉10月23日)は、日本の詩人。 1904年東京京橋に生まれる。岐阜中学時代より短歌を作り始め、15歳で窪田空穂に年少の才能を賞賛される早熟ぶりを示した。明治大学在学中に「謝肉祭」を創刊。明大卒業後、鉄道省に入り、その一方で詩作をし、春山行夫、竹内隆二、棚夏針手、佐藤一英などと交友をもった。北原白秋に認められ、「詩と音楽」「近代風景」などで新進詩人として出発。27年上海外遊。28年雑誌『詩と詩論』創刊に編集同人として参加、以後「MADAME BLANCHE」「文学」「詩法」「新領土」と戦前戦中のモダニズム詩運動の中心で活動した。
高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 19… 高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 1980年7月1日)は、東京都出身のサッカー選手、教育者。 東京都生まれ。御影師範附属小時代にサッカーを覚え、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)時代には第1回日本フートボール優勝大会(1918年)に出場した。白洲次郎は神戸一中サッカー部の1年先輩に当たる。 1921年に神戸一中を卒業。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、快足のフォワードとして活躍。1927年10月に開催された第4回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第7回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に神戸一中および東京帝大の後輩にあたる若林竹雄らと共に神戸一中クラブのメンバーとして出場して大会優勝に貢献した。
谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月… 谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月24日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。石川県金沢市出身。
長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37… 長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県会議長、岐阜県恵那市長。旧名・俊一。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 岐阜県恵那郡東野村(現恵那市東野)で、長谷川藤藏、ひろ の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東北帝国大学法文学部法律科を卒業。さらに同大大学院で学んだ。 1932年(昭和7年)11月、岐阜県会議員に選出され、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で岐阜県全県区から日本進歩党公認で立候補(俊一名義)したが落選。
大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉… 大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 没年不明)は、日本の造り酒屋経営者。寿虎屋酒造社長(第9代)・会長。山形県酒造組合連合会会長(第3代・3期)。山形商工会議所二号議員。沖正宗酒造株式会社監査役。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
小山田 七次郎(おやまだ しちじろう、1904年(明治37年… 小山田 七次郎(おやまだ しちじろう、1904年(明治37年)6月19日 - 1976年(昭和51年))は、昭和時代の政治家。青森県十和田市長。 青森県上北郡藤坂村(後の三本木市、現・十和田市)に生まれる。 貧農の7番目の末子として生まれ、小学校3年の時、一家は北海道石狩に渡る。1927年(昭和2年)盛岡高等農林学校を卒業後、農林省に出仕し、奥羽種畜牧場勤務となる。洞内小学校(現在、十和田市立)、青森師範学校教諭、上北地方事務所経済課長、五所川原農林学校長、青森県教育委員長を経て、1956年(昭和31年)10月、十和田市長に就任する。 県南内陸部の中心都市としての地位確立や北里大学の誘致に尽力した。
内野 熊一郎(うちの くまいちろう、1904年6月17日 -… 内野 熊一郎(うちの くまいちろう、1904年6月17日 - 2002年11月14日)は、漢文学者。別名、能朗(のうろう/たいろう)。 1904年、香川県三豊郡二ノ宮村で藤川家に生まれた。1929年に東京高等師範学校を卒業し、東京文理科大学漢文学科に入学。同大学を1932年に卒業した。 卒業後は、1933年より東方文化学院東京研究所研究員。1934年に内野台嶺の長女道子と結婚し、内野家の養嗣子となった。1941年に陸軍経理学校教官となり、陸軍教授。 戦後は、1951年に母校である東京文理科大学・東京教育大学助教授となった。1950年、東京文理科大学に学位論文『今古文源流型の研究』を提出して文学博士号を取得。
池田 徳真(池田 徳眞、いけだ のりざね、1904年(明治3… 池田 徳真(池田 徳眞、いけだ のりざね、1904年(明治37年)6月16日 - 1993年(平成5年)12月6日)は、因州池田家第17代当主。 侯爵池田仲博の次男として東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で生まれた。「徳」の字は大伯父にもあたる第14代当主・池田慶徳からの偏諱である。 1921年(大正10年)1月26日、横浜正金銀行頭取の原六郎夫人である登美子から、衆議院議員の根本正が訳した『日々の力』(メアリ・ダブリュー・ティレストン著)という、一日毎に聖書の一節が書いてある本をもらい、初めて聖書の聖句触れた。このことを徳眞は、自分がクリスチャンになるための主のお導きとしている。同年2月に学習院にてクリスチャンの友人から伝道されたが、信仰へは至らなかった。
下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1… 下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1986年4月21日)は、長崎県出身の俳人、医師。本名宏。長崎市生。長崎医科大学卒。在学中、田中田士英の指導で俳句を始める。1933年、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。1947年「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰。終生まで長崎で活動したと見られ、初期より異国情緒のある句を詠む。また医師として被爆者の救済に務めた経験ものちの句作に影響を及ぼした。1977年、『西陲集』により第17回俳人協会賞を受賞。句集に『石階聖母』(1963年)『西陲集』(1976年)『西陲集以後』(1988年)。
松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - … 松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - 1983年10月10日)は、長崎県出身の俳人。本名、敦之。 1904年(明治37年)、長崎県北松浦郡生まれ。長崎高等商業学校(旧制。現・長崎大学)卒業後、英語教師となる。在学中より自由律俳句に傾倒し、24歳のとき「層雲」に入会、荻原井泉水に師事。のち「層雲」同人、1942年層雲賞受賞。。1945年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、四人の子供のうち長男、次男、次女の三人を失う。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居、公立学校教員(地方公務員)となり、旧制 佐世保第二中学校の英語教師となる。1948年に再婚、生地を離れ長野県千曲市の高等学校に赴任した。
江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 19… 江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 1963年6月27日)は、長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)出身の日本画家。本名は江崎 孝平。歴史人物画を得意とした。 1904年6月15日に長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)に生まれ、画家を志して15歳の時に東京に出た。呉服商で図案を描いて生計を立て、日本画家の蔦谷龍岬に大和絵を学んだ。1927年(昭和2年)には第8回帝展で「晩秋」が初入選。 1933年(昭和8年)に龍岬が死去すると、今度は前田青邨に師事した。1940年(昭和15年)に大礼記念京都美術館で開催された日本画大展覧会では、「雲と防人」が大毎・東日賞を受賞。1941年(昭和16年)の第4回新文展では「撃て」が特選に選ばれた。
菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月1… 菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月14日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。内閣官房副長官、国際電信電話社長。旧姓は長田。 山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる。 以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任。
鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6… 鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6月13日 - 1980年(昭和55年)6月1日)は、日本の諜報員、著述家、翻訳家。別名吉田 東祐(よしだ とうすけ)。筆名高杉 三郎。 東京生まれ。東京府立第四中学校(のちの東京都立戸山高等学校)を経て、1927年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業後、鉄鋼会社に入社。 共産主義を研究するため退社し、横浜専門学校(のちの神奈川大学)教授や、第一飛行学校理事も務めたが、教壇を追われたため、麹町区飯田町にて古本屋「三一書房」を立ち上げ、日本共産党に入党(中央委員会直属特別資金局B班)。 逮捕され執行猶予判決を受けるなどし、1936年に中国に渡り、秋草俊中佐や大使館付武官だった喜多誠一の発案で、大日本帝国陸軍の下、上海租界に潜入して情報網を築き、日中戦争開戦後は、和平交渉に従事した。
城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 197… 城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 1976年11月27日)は、日本の小説家、推理作家、詩人、編集者。本名は稲並 昌幸。 東京市神田練塀町生まれ。京華中学校4年次退学。城左門名義で詩作している。時代小説『若さま侍』シリーズは有名で、時代劇映画・ドラマ化された。江戸川乱歩は、城を「彼は人生の怪奇を宝石のやうに拾ひ歩く詩人である」と評している。またショートショートの先駆者と称される。日夏耿之介の門下。 横溝正史が創作した名探偵・金田一耕助のモデルとなった一人でもある。 1977年に東京都大田区の区立馬込図書館に旧蔵書4,750冊が寄贈され、翌1978年5月に「城昌幸記念文庫」が開設され、公開された。
栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976… 栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976年3月3日)は、北海道出身の建築家。 1904年に北海道広尾郡茂寄村(現・広尾町)で味噌製造を営む栄米蔵・ふゆ夫妻の四男として生まれ、広尾小学校を経て将来に期待を込め遊学させることとなり1916年に東京・浅草の松葉小学校に転校。 1922年に京華中学校卒業、1年浪人し1923年に東京美術学校に入学、1927年には小石川区の日本基督教団上富坂教会で結婚に向けてキリスト教の洗礼を受け、1928年に東京美術学校建築科を卒業。その後寄寓先の姪の加納春江と結婚。 東京美術学校卒業後は樺太庁に入庁し内務部土木科嘱託として建築技術者の道を歩み出す。1929年には技手に任官、大泊警察署を皮切りに10件の建築に携わる。
帯刀 貞代(たてわき さだよ、1904年6月7日 - 199… 帯刀 貞代(たてわき さだよ、1904年6月7日 - 1990年3月31日)は、日本の女性運動家、新日本婦人の会代表委員。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)出身。松江高等女学校(現・島根県立松江北高等学校)卒業後の1924年に上京、織本利との結婚をきっかけに労働運動に関わる(1929年離婚)。昭和初め、全国婦人同盟や無産婦人同盟の結成に参加した。 1929年8月、東洋モスリン亀戸工場の女性労働者を主たる対象として「労働女塾」を開いた。労働者意識と女子教育を組み合わせた教育活動を行う。1930年同工場の閉鎖を巡る労働争議に参加、その後検挙と投獄を繰り返しながら執筆活動を行った。戦後も婦人解放運動に取り組んだ。
井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1… 井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1985年9月24日)は、和歌山県出身の野球選手。
佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980… 佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980年4月23日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市生まれ。同市下荒田町出身。佐多直正の次男として生まれる。後の鹿児島市長平瀬實武は、地元の小学校と学舎の2年先輩。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1925年旧制第七高等学校造士館文科を卒業。七高時代は佐野博らとともにサークル「鶴鳴会」(かくめいかい)に参加。東大に進学し、新人会で活動。1928年東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後は「中央公論」などの雑誌に評論を書いていたが、1935年内閣調査局(内閣企画院の前身)に入り、次いで第2次近衛内閣のもとで企画院調査官に就任し勝間田清一、和田博雄とともに同政権の「経済新体制」の策定に関与するが、企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙、投獄された。
末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 19… 末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 1988年7月14日)は、日本の水産学者・随筆家・作曲家。
増田 吉郎(ますだ よしろう、1904年6月3日 - 200… 増田 吉郎(ますだ よしろう、1904年6月3日 - 2005年1月22日 )は、日本の経営者。宮崎銀行頭取を務めた。 青森県出身。1922年に函館商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1950年6月から1952年6月までに日本信用調査常務を務め、1952年8月には日向興業銀行(のちの宮崎銀行)専務に就任し、1961年10月から1975年12月までに頭取を務めた。 1974年11月には勲四等旭日小綬章を受章。 2005年1月22日、誤嚥性肺炎のために死去。100歳没。
宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月… 宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月3日 - 1975年(昭和50年)8月29日)は、日本の実業家、教育者である。平田紡績の5代目社長を務め、また暁学園を創設した。三重郡富洲原町(現在の三重県四日市市富洲原地区)富田一色出身。 四日市本社工場(富洲原の天ヶ須賀本町(天ヵ須賀5丁目)の紡績工場・富洲原の住吉町の善太付近の漁網工場)と富洲原周辺の三重郡川越町高松天神の川越漁網工場・志摩市の浜島疎開工場・東紀州の尾鷲市の尾鷲疎開工場以外の工場を建設して東日本地域やアフリカなど海外に進出して生産拠点が拡大した。 また1951年(昭和26年)11月に昭和天皇の(三重県)伊勢行幸の際、同じ富洲原地区の東洋紡績富田工場の視察後に平田紡績を視察した。
石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -… 石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。 1903年、男爵石田八弥の長男として大阪府で誕生。父の死去に伴い、1925年6月1日に男爵を襲爵。天王寺中学から東京府立四中に転校し、卒業。第一高等学校文科に進学したが、肋膜炎を患い休学。1年遅れて復学した後、菊川忠雄の勧誘を受けて一高内の社会思想研究会に入会した。 1924年、第一高等学校文科を卒業業して、京都帝国大学経済学部に進学するも京都学連事件により中退。 京都学連事件に連座したことに伴い、1926年3月24日に爵位を返上。不敬罪と出版法違反の容疑で逮捕され入獄したが、不敬罪については1927年の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 -… 久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 - 1980年3月2日)は、日本の経営者、銀行家。羽後銀行(現在の北都銀行)頭取を務めた。秋田県出身。 1925年に中央大学商学部を卒業し、同年4月に三和銀行に入行。1944年10月に羽後銀行に転じ、1956年4月に専務に就任し、1961年7月には頭取に昇格。1973年3月には会長に就任。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1980年3月2日に急性心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 198… 田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 1986年6月8日)は、日本の法学者、専修大学名誉教授。京都府出身。1925年、同志社女学校専門学部英文科卒業、1928年、同志社大学法学部法律学科卒業。旧姓・星野。田辺平学の妻。穂積重遠に師事して家族法を研究、専修大学助教授、1956年教授。74年定年退任。古代インドのマヌ法典を翻訳、ハンムラビ法典における女性の地位を研究、家族制度の復活に反対した。
松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990… 松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990年2月26日)は、日本の文学者、植物学者。 山形県出身。1928年、東京帝国大学農学部卒。日本赤十字子供の家園長、東京大学講師などを務め、日本植物友の会の設立に参加。日本の古典文芸に現われる上代の植物の研究を行ない、植物文学を提唱した。研究対象は、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『枕草子』、『源氏物語』などにわたる。 古典文学と植物との関連について、以下のように論じた。 『古事記』には77種類、『日本書紀』には85種類の植物が登場。現われている植物の大半は日本全土の山野に自生しているもので、『日本書紀』では渡来の植物が増えている。
岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 19… 岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 1964年1月25日)は、日本の宗教学者。東京大学教授、東京大学附属図書館の館長などを歴任。文学博士(東京帝国大学)。ユニテリアン主義である日本自由宗教連盟の理事長。 兵庫県明石市出身。宗教学者の岸本能武太の次男として生まれる。1916年、東京高等師範学校附属中学校に入学、同級生に美濃部亮吉、正田英三郎、芳賀檀、諸井三郎などがいた。1920年同校4年次修了(四修)で第六高等学校に進学を果たす。1923年春に六高理科甲類を卒業し、東京帝国大学へ進学する。1926年に東京帝大文学部宗教学科を卒業、同大学院進学を経て1930年からハーバード大学大学院に留学、1934年同大M.A.取得。
阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日… 阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月23日)は、日本の小説家・英文学者・翻訳家。 1903年(明治36年)6月26日、岡山県勝田郡湯郷村大字中山(現・美作市中山)にて阿部良平、もりよ夫婦の次男として生まれる。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町(ぼうずまち)に移る。父が教鞭を執っていた旧制姫路中学(現・姫路西高校)を5年制のところを4年で修了し、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類(英文学科)、東京帝国大学(現・東京大学)英文学科を卒業。兄・公平の影響で文学に近づき、短歌を学んで島木赤彦に接し、またトルストイやチェーホフを愛読する。
若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月2… 若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月26日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本の経営者。そごう社長を務めた。 千葉県出身。1927年(昭和2年)京都帝国大学経済学部を卒業後に、野村銀行(大和銀行を経て、現在のりそな銀行)に入行した。1949年に取締役、1954年11月に常務を経て、1958年4月にそごう副社長に就任し、1960年12月から1961年10月まで社長を務めた。 1963年(昭和38年)11月9日に冠動脈不全のため死去した。60歳没。
増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - … 増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - 1982年11月15日)は日本の法学者。第二次世界大戦前に台北帝国大学の助教授をつとめた頃に得た知見をもとにした台湾研究で知られる。法学のみならず、台湾における宗教関連の著作もある。 1903年6月25日に新潟県中頸城郡高田町に生まれた。第一高等学校文科甲類を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年3月に同大学院を満期退学(法理学)。 大学院を卒業後、台湾総督府嘱託として台湾へ渡った。どういうわけか法学ではなく、現地の宗教調査を任務とした。ただし、この調査は早々に中断され、1930年5月からは台北帝国大学講師となった。
森 三樹二(もり みきじ、1903年6月24日 - 1958… 森 三樹二(もり みきじ、1903年6月24日 - 1958年12月1日)は、日本社会党衆議院議員(6期)。弁護士。中央大学評議員。中央大学講師。父は徳島県議会副議長を務めた。
喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 196… 喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 1964年7月4日)は、日本の歴史学者。中央大学文学部教授。専門は日本古代史。 1903年(明治36年)6月、歴史学者である喜田貞吉の長男として、東京にて生まれる。なお「新六」の名は、彼の生誕地である「新宿六丁目」に由来する。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校文科乙類を経て、1926年(大正15年)、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業ののち、同大学大学院に入学し、併せて同大学副手になった。1934年(昭和9年)、京城帝国大学法文学部教授に就任し、1942年(昭和17年)、神宮皇學館大學学部教授に就任した。
竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – … 竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – ?)は、日本の教育者。金蘭千里高等学校校長。 鳥取県生まれ。1925年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。 旧制福井県小浜中学校、京都府第一中学校教諭、京都府福知山女子高等学校・京都府立鴨沂高等学校・大阪府立貝塚高等学校・大阪府立三国丘高等学校校長を経て大阪府立北野高等学校校長に就任。 1964年3月31日、府立高等学校を退職。私立金蘭千里高等学校長となる。
春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24… 春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、昭和期戦後の政治家。長野県飯山市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県下水内郡外様村(現飯山市)で、春日寿平、とも の四男として生まれた。1921年(大正10年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。同年、外様村小学校教諭を勤め、1931年(昭和6年)に退職。 1947年(昭和22年)4月、外様村長に就任し1期在任。1954年(昭和29年)12月には合併後の飯山市議会議員となり、1956年(昭和31年)に議長となる。1961年(昭和36)飯山市教育委員に就任し翌年まで在任した。
林 逸馬(はやし いつま、1903年6月23日 - 1972… 林 逸馬(はやし いつま、1903年6月23日 - 1972年9月2日)は、日本の作家。 福岡県出身。東京帝国大学卒。1929年「福岡日日新聞」の懸賞小説に当選する。1944年「筑後川」で九州文学賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3… 原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3月26日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。 ヨーロッパで開花した近代タイポグラフィー運動『ノイエ・ティポグラフィー』の理念を支持しながら、日本の活字文化で独自の表現の確立を志し、原はこれを『僕達の新活版術』と呼んだ。原のデザインスタイルは理論的に組立てるもので、作家性のあるものではなく、依頼者側に立ち、装幀、ポスター、パッケージなどを数多く手がけた。生涯に手がけた出版物の総数は、雑誌の表紙デザインなども含めれば、おおよそ3000点近くにもおよぶ。 特に装幀において高く評価されており、1940年代末から1970年代半ばまで装幀者として第一線で活躍。
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年… 山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名:清水 三十六(しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた。 1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある)。本籍地は北巨摩郡大草村(現:韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている。実家は武田の遺臣で、北巨摩の大草村若尾(現:韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある。
堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年〈明治36年〉6月2… 堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年〈明治36年〉6月22日 - 1982年〈昭和57年〉1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。零式艦上戦闘機の設計者として知られる。 新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。 1903年6月22日、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。 旧制藤岡中学校(現・群馬県立藤岡中央高等学校)、第一高等学校を経て1927年東京帝国大学工学部(東京大学工学部)航空学科を首席で[要出典]卒業。同期に木村秀政、土井武夫らがいる。 三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。
雨森 常夫(あめもり / あまもり つねお、1903年〈明治… 雨森 常夫(あめもり / あまもり つねお、1903年〈明治36年〉6月22日 - 1970年〈昭和45年〉12月12日)は、昭和期の農林技官、政治家。参議院議員。 福井県で雨森元成の三男として生まれる。1926年(大正15年)東京帝国大学農学部農業土木科を卒業した。 1926年、農林省嘱託となる。その後、農林技師、京都府農林技師、静岡県農林技師、高知県耕地課長、栃木県耕地課長、農地開発営団企画部調査課長、同東京事務所長、経済安定本部建設局次長、農林省農地局建設部長、京都農地事務局長などを歴任した。 1953年(昭和28年)4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で立候補して当選、その後、自由民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月2… 土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月20日 - 1974年〈昭和49年〉1月27日)は日本の実業家。名古屋鉄道社長など歴任。勲一等瑞宝章受章。 1903年6月、愛知県中島郡一宮町(現在の一宮市)に生まれる。旧制愛知県第一中学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)・第四高等学校(現在の金沢大学)を経て、1928年京都帝国大学を卒業し、(旧)名古屋鉄道(後に名岐鉄道、愛知電気鉄道との合併を経て(現)名古屋鉄道となる)へ入社。1945年11月には運輸部長、同年12月に運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長に就任。 1946年5月同社取締役、1949年6月常務取締役、1953年2月専務取締役、1955年1月取締役副社長を経て、1961年12月2日取締役社長に就任。