岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日… 岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日〈明治3年6月29日〉 - 1923年〈大正12年〉1月8日)は、大日本帝国の実業家。朝鮮勧農、東洋捕鯨(現・ニッスイ)の各社長。近代的な捕鯨船による捕鯨を日本で始めて行い、「捕鯨王」、「日本捕鯨の父」などと呼ばれた。族籍は山口県平民。 1870年、長門国阿武郡奈古村(現・山口県阿武郡阿武町)の西村利右衛門の5男として生まれた。西村家は奈古村に住し、代々農業並びに生蝋製造を業としていた。後に岡吉輔の養嗣子になった。 1868年の明治維新以降、日本の近代化が急速に進み、多くの人々が西洋の知識と技術を学ぶために欧米に渡った。当時、日本は遠東での勢力を拡大しようとしていたが、捕鯨は江戸時代以来の網取法による沿岸捕鯨が続いていた。
岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年… 岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年6月27日〉- 1946年〈昭和21年〉12月17日)は、日本の英文学者、教育者。立教大学元教授、フェリス和英女学校(現・フェリス女学院)副校長・教頭、横浜英語学校校長、立教大学学監、立教女学校(現・立教女学院)教頭。フェリスでは、ミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処するため英語師範科を創設するなど、女学校の存続と発展に長く貢献した。 福井県出身。福井の中学校を出て、上京する。当時、琢蔵が東京の学校として名前を知っていたのは、帝国大学(後の東京帝国大学)と、その予備校である高等中学校、その他には慶応義塾だけであった。
大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治… 大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治3年6月26日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月11日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。岩手県盛岡市長。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。旧姓は中村。 中村俊太郎の伯父として、現在の盛岡市馬場町(馬場小路)に生まれる。のち大矢五蔵の養子となり家督を相続する。1888年(明治21年)7月、岩手県中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、盛岡市参事会員を経て、1907年(明治40年)11月、盛岡市長に就任。1910年(明治43年)8月、市長の座を退き、岩手県会議員、岩手県参事会員、盛岡市会議員、同議長などを経て、1916年(大正5年)12月、補欠選挙で貴族院議員に当選し、同年12月26日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24… 宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24日 - 1924年(大正13年)10月14日)は、明治・大正期の英語学者・教育者。岐阜県出身。 「英文法を独自の立場で研究したことは斎藤秀三郎に次ぐもので、この二氏以外には日本人として独自の立場から英文法を研究した者はそれ迄にはなかったといっても過言ではないであろう。」と評価されている。 「卯の花庵主人」の筆名での翻訳がある。 学問以外では謡曲に精通し、観世清之、その後観世喜之に師事すると共に早大教授の多くを謡道へ引き入れた。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月… 柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月24日) - 1920年(大正9年)6月25日)は、日本のキリスト教伝道者、キリスト教史学者、キリスト教思想家、文明評論家である。大正時代の日本基督教会の指導者であった。
北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年… 北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年7月19日) - 1956年(昭和31年)10月11日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士。第2代日本医師会会長。石川県金沢市生まれ。 1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に伝染病研究所に入る。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任。伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出。伝研騒動といわれるこの間に、慶應義塾大学医学部主事になり、慶應医へ移った北里を支える。1928年慶應義塾大学医学部長。
岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月… 岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月18日)-昭和24年(1949年)7月25日)は、明治・大正・昭和期の農業技師。後に衆議院議員を務めた。 伊予国久米郡(後に愛媛県温泉郡石井村を経て松山市)出身。明治32年(1899年)に東京帝国大学卒業後、全国農事会に務めるが、家庭の事情によって1年で帰郷して農業を継ぐが、温泉郡の要請を受けて郡の農業技師となり実績を挙げ、次いで明治38年(1905年)には愛媛県の農業技師となった。明治41年(1908年)に別子銅山の四阪島製錬所からの煙害が問題化した際には、農民達とともに住友財閥の責任を追及、住友側もこれを認めて再発防止策と賠償に応じた。
鶴ヶ濱 熊吉(つるがはま くまきち、1870年7月16日(明… 鶴ヶ濱 熊吉(つるがはま くまきち、1870年7月16日(明治3年6月18日) - 1939年(昭和14年)2月6日)は、奈良県添上郡(現在の奈良市)出身で小野川部屋、八角部屋、中立部屋、再度八角部屋に所属した力士。4代伊勢ヶ濱。世話人。本名は清水 熊吉。170cm、101kg。最高位は前頭3枚目。 大坂相撲に所属していたが、同郷の司天龍政吉(北葛城郡出身)を慕い、1891年1月に八角部屋に加入。序ノ口からの初土俵となる。四股名は司天龍の前の四股名の鶴ヶ濱を名乗る 。恵まれた体格を持ちながらも昇進は遅かった。しかし、1897年1月にようやく十両に昇進すると、1898年5月には新入幕。以後18場所幕内を務め、1907年1月に引退、4代伊勢ヶ濱を襲名。
神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3… 神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3年6月19日)- 1936年(昭和11年)11月11日)は、明治から昭和前期の日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 大隅国大隅郡大根占郷神川村鳥浜(鹿児島県南大隅郡神川村、大根占村、肝属郡大根占村、大根占町を経て現錦江町)出身。鹿児島造士館を経て、1891年(明治24年)に上京し、1893年(明治26年)慶應義塾卒。農業、木炭製造販売業を営み、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙(鹿児島県郡部、立憲政友会)で当選した。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)の第14回総選挙には立候補しなかった。
今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月1… 今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月12日〈明治3年6月14日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授、日本地震学会会長。学位は理学博士(1905年・文部大臣)。 1870年(明治3年)、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。 鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年(明治24年)、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年(明治29年)からは陸軍教授を兼任し、陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年(明治32年)に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。
12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月1… 12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月11日(明治3年6月13日)- 1942年(昭和17年)11月17日)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。滋賀県蒲生郡八幡町長。西川甚五郎家山形屋12代、諱・嘉重。 滋賀県蒲生郡八幡町大杉町(現・近江八幡市大杉町)で、西川重威の長男として生まれた。1898年(明治31年)家督を相続した。大阪商業学校を卒業し、その後、東京の欧文正鵠学館(サンマー英学校)で学んだ。漢学は中村栗園、山本太造に師事した。 1902年(明治35年)以降、八幡町長、同町会議員、滋賀県会議員、大日本蚕糸会滋賀支会副会頭、同評議員などを歴任した。
渡辺 黙禅(わたなべ もくぜん、1870年7月10日(明治3… 渡辺 黙禅(わたなべ もくぜん、1870年7月10日(明治3年6月12日) - 1945年(昭和20年)11月18日)とは明治時代から昭和時代にかけての小説家。 羽前国(現・山形県)生まれ。本名は渡辺末蔵。東京専門学校を卒業の後、1890年に山形県に戻り『奥羽日報』を創刊したが、1894年に『やまと新聞』に入社している。その後は方々の新聞社において記者生活をした後、小説を執筆し始めた。その作風は従来の草双紙、講談本に似た古い形式のものであった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。 明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、隔恋坊、大江小波がある。
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(187… 井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一。 明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった。 独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に遠縁の岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた。
宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 … 宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、朝鮮総督府官僚。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。東奥義塾を経て、1891年(明治24年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1895年(明治28年)、自由新聞社に入社し、翌年に警視庁警部となり、同外事係長となった。1906年(明治39年)、統監府に転じ、理事庁警視となった。朝鮮総督府警務総監部庶務課長、朝鮮総督府事務官、群山府尹、平壌府尹、大邱府尹を歴任した。1926年(大正15年)に退官した後は、京城府の英字新聞『セウル・プレス(英語版)』の社長に就任した。 1930年(昭和5年)7月、弘前市長に選任されたが、1933年8月に病のため辞職した。
大村 貞蔵(おおむら さだぞう、明治3年(1870年)7月 … 大村 貞蔵(おおむら さだぞう、明治3年(1870年)7月 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。旧姓は勝部。島根県平民、島根県多額納税者。町会議員。平田銀行取締役。松江銀行監査役。松江銀行常務取締役。農業。 六女真佐子は坂口合名会社・代表社員会長2代目坂口平兵衛の妻。坂口合名会社・代表社員会長3代目坂口平兵衛は孫。坂口合名会社・代表社員社長坂口清太郎・山陰放送社長坂口吉平は曾孫。 島根県人・勝部仙太郎の九男。先代キチの養子となる。明治29年(1896年)家督を相続する。 松江中学、中央大学に学ぶ。農業を営む。 地方自治および産業振興に尽くした。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年6月21日)- 1924年(大正13年)4月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県北葛城郡高田町長。 大和国葛下郡疋田村(奈良県葛下郡新庄村、北葛城郡新庄村、新庄町大字疋田を経て現葛城市疋田)で生まれた。1879年(明治12年)新庄村立小学校を卒業。田中右章から漢籍を学び、さらに五十川三武郎の塾に入った。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)で法政学を1年間学んだ。 1894年(明治27年)新庄村会議員となる。1907年(明治40年)5月、高田町会議員に選出され4期在任。同年9月、奈良県会議員に当選し、同参事会員も務めた。
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明… 安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉- 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。
隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年… 隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和9年(1934年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)で旧小諸藩士隈部忠良の三男として生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科37番/103名で卒業している。1891年(明治24年)3月に歩兵少尉に任官し、歩兵第3連隊附。歩兵第2連隊中隊長、陸軍省人事課員、参謀本部副官、第1師団軍法会議判士長などを務めた。日清戦争・北清事変に出征し、日露戦争では歩兵第2連隊大隊長として転戦し、第3回旅順総攻撃に第1師団副官として参加した。
東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年… 東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年7月24日〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀 季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。 1869年7月24日(明治2年6月16日)に京都に生れ、1872年(明治5年)に東京へ移住する。1879年(明治12年)から宮内省に出仕し、1890年(明治23年)に雅楽部の伶人兼楽手に補せられる。1892年(明治25年)9月に早稲田専門学校文学科に入学したと本人自筆の履歴書に書いているが、学籍簿には記録されていない。
伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治… 伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治2年〉 - 1946年〈昭和21年〉3月3日)は、日本の思想家、教育者、心理学者、宗教学者。関西教育界の第一人者であり、特に、女子教育で定評があった。当時、菊池寛、三土忠造とともに、香川県出身の代表的な三人として並べられることもあった。甲陽学院中学校・高等学校創立者。
新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 -… 新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 - 不明)は、明治から昭和初期にかけて文部省技師として活躍した建築家。明治期の新設された学校建築を多く手がけた。
木村 清三郎(きむら せいさぶろう、明治2年6月7日(186… 木村 清三郎(きむら せいさぶろう、明治2年6月7日(1869年7月15日) – 昭和16年(1941年)2月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、新潟県長岡市長。 越後国長岡出身。太田仁平次の六男として生まれて、木村小太郎の養子となった。1900年(明治33年)、越佐新聞社を創設し、社長を務めた。長岡米穀取引所監査役、同理事、同理事長、長岡証券株式会社監査役、同相談役、長岡商業会議所特別議員、同顧問などを務めた。また長岡市会議員、同参事会員、新潟県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、1929年(昭和4年)に長岡市長に選出され、二期務めた。
久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明… 久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉- 1965年〈昭和40年〉1月29日)は、日本の実業家、政治家。 日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。 衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。 「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者(不起訴)となり、公職追放となった。 戦後は日中・日ソ国交回復会議議長などを務めた。
大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年… 大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉 - 1901年〈明治34年〉6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。 硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。 明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。
森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(186… 森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる(なお、叔父に五代友厚がいる)。学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。
白勢 文三郎(しろせ ぶんざぶろう、1869年7月4日〈明治… 白勢 文三郎(しろせ ぶんざぶろう、1869年7月4日〈明治2年5月25日〉 - 没年不明)は、日本の実業家。新発田倉庫取締役、同監査役。新発田銀行専務取締役。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢友彌の兄。兄・長衛や弟・友彌は大地主で、農業を営み新潟県多額納税者であった。1911年、分かれて一家を創立した。銀行会社の重役であった。住所は新潟県北蒲原郡新発田町(現・新発田市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野田別天楼(のだ べってんろう、1869年7月3日(明治2年… 野田別天楼(のだ べってんろう、1869年7月3日(明治2年5月24日) - 1944年(昭和19年)9月26日)は、俳人。 備前国邑久郡磯上村(現・岡山県瀬戸内市)出身。本名は要吉。1897年より正岡子規の指導を受け『ホトトギス』などに投句。教職にあり、報徳商業学校(現報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。京阪満月会では幹事を務める。松瀬青々の『倦鳥』の同人となり関西俳壇で活躍。京阪満月会から分離し大阪満月会を結集し中心的に活動した。1934年『足日木』を、1935年『雁来紅』(がんらいこう)を創刊、主宰した。俳諧史の研究で潁原退蔵と親交があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
石崎 敏行(石嵜、いしざき としゆき、1869年7月2日(明… 石崎 敏行(石嵜、いしざき としゆき、1869年7月2日(明治2年5月23日)- 1948年(昭和23年)1月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 筑前国遠賀郡、のちの福岡県若松市(現北九州市)出身。税務属、大蔵属、若松市議、同副議長、遠賀郡議、同参事会員、福岡県議、同参事会員、所得調査委員、農会議員、小作争議調停委員、九州化学工業(株)社長、九州耐火煉瓦、九州石材工業各(株)取締役、若松信用組合理事となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において福岡2区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
鈴木 義隆(すずき よしたか、1869年7月2日(明治2年5… 鈴木 義隆(すずき よしたか、1869年7月2日(明治2年5月23日)- 1944年(昭和19年)12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡代石村(大出口村、吉川村、吉川町代石を経て現上越市吉川区代石)で、政治家鈴木昌司の長男として生まれる。私塾で学ぶ。日清、日露の両戦役に参加。自由通信社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補したが落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟4区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日〈慶応4年… 花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日〈慶応4年6月12日〉- 1931年〈昭和6年〉12月3日)は、明治・大正に活躍した弁護士・政治家。第3代検事総長・中央大学教授を務めた花井忠の岳父。 1868年(慶応4年)、備後国御調郡三原町(現:広島県三原市)に士族・立原四郎右衛門の四男として生まれ、その後、分家により花井姓を名乗った。幼年期から神童と謳われ、10歳の時に進学のため上京するが、経済的に困窮し3年後に帰郷し、広島市の修道学校(現:修道中学校・高等学校)で学ぶ。その後、小学校の代用教員として勤務する傍ら、長谷川桜南の門下生となり、高楠順次郎らと桜南舎で学ぶ。その後3年間ほど教員を務めるが、高楠とともに自由民権運動に参加し、これが原因で教員を免職される。
二神 駿吉(ふたがみ しゅんきち、1868年7月27日(慶応… 二神 駿吉(ふたがみ しゅんきち、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1961年(昭和36年)10月1日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 郷土二神深蔵の二男として伊予国宇和郡城辺村(城辺町を経て現在の愛南町)に生まれる。南予中学校を経て、英吉利法律学校を卒業し、内国通訳会社員、東京モスリン紡織会社支配人となり、三井物産に迎えられ九州の石炭事業を統括した。大阪西、名古屋、門司の各支店長を歴任した後、1921年(大正10年)大日本人造肥料会社が創立すると三井系の代表として専務取締役に就任した。ついで日本油脂会社社長になった。ほか、合同油脂専務取締役を務めた。
澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応… 澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1934年6月17日)は日本の実業家、労働運動家。洋服の仕立職人としてアメリカ合衆国に在住中に高野房太郎と知り合い、帰国後の1897年に高野らとともに労働組合期成会を結成した。また、銀座に洋服店を開いた。のち、米友協会幹事として横須賀市久里浜のペリー上陸記念碑の建立に関わった。 1868年に現在の福島県須賀川市で生まれる。後述する在米時代以来の友人だった米山梅吉によれば、生家は須賀川でも有数の資産家の本家で、父は澤田喜兵衛だった。しかし、幼少期に父と死別し、遺産を欲する親族の意向から彼らの後見を受け、進学できずに寺子屋に学ぶなど不遇な環境に置かれた。
伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治… 伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治元年6月4日)- 1936年(昭和11年)10月26日)は、大正から昭和前期の大地主、政治家。衆議院議員、東京府荏原郡荏原町長。 武蔵国荏原郡下蛇窪村(東京府荏原郡平塚村、平塚町、荏原町、東京市荏原区を経て現東京都品川区)で、地主・伊藤受房の二男として生まれる。父は杜松斎景湖と名乗り寺子屋を開いていた。攻玉社中学校(現攻玉社中学校・高等学校)で学んだ。1917年(大正6年)5月に家督を相続した。 平塚村内堀普通水利組合議員、同村会議員、同耕地整理組合長、荏原郡会議員、荏原町長、東京府会議員(4期)、同副議長、土地貸借価格調査委員、品川普通水利組合会議員、東京市会議員、同参事会員、荏原区公民学務委員などを務めた。
須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月… 須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月1日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月1日)は、明治時代の漢学者、実業家、朝鮮独立運動を支援した活動家。輹斎と号した。 下野国安蘇郡天明町(現・栃木県佐野市)に豪農の子として生まれる。幼名を平十郎または平重郎という。明治19年(1886年)頃上京し、二松学舎に入り、三島中洲、岡本黄石に師事し、漢籍を修める。続いて1889年(明治22年)3月22日、慶應義塾別科独仏科に入り、大学部を卒業する。1895年(明治28年)に帰郷し、金玉均亡き後の朝鮮壮士を支援し、東邦協会や玄洋社、黒龍会の活動に没頭する。1895年(明治28年)には朝鮮に渡り、朴泳孝の旧宅に寄寓する。
岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(186… 岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(1868年7月18日) - 昭和11年(1936年)11月13日)は、日本の法学者。専門は刑法。弟子に穂積重遠など。 号は三面子、虚心。川柳の研究家としても知られ、「岡田三面子」名義で『日本史伝川柳狂句』全27巻(遺稿、古典文庫、1972年 - 1981年)などの著作がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶… 一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶応4年5月28日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、摂津国豊島郡豊中村(現・大阪府豊中市大島町)出身の大相撲力士。本名は高橋 乙吉。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 8代猪名川に入門、一の濱を名乗り1888年(明治21年)9月見習が初見。一時広角組に加わるが1894年(明治27年)4月入幕。174cm100kgの筋肉質の体格で左差しからの寄り、吊り、投げを得意とした。 1897年(明治30年)9月小結、1898年(明治31年)4月関脇。同年10月には大関となるがこの場所4勝4敗1分の五分ながら1899年(明治32年)6月は関脇に下げられた。
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7… 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年… 平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年5月24日) - 1932年(昭和7年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島中学校卒業。 麻植郡山川町瀬詰(現在の吉野川市)で生まれる。実家は代々酒造業、藍商を営んでいる。 後に鉱山業に転じ海部郡の浅川鉱山で成功し、後に三菱鉱業に譲渡した。 徳島県会議員を経て1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙に当選。その後、貴族院議員に立候補をしたが、病のため辞退した。 1932年(昭和7年)、65歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応… 武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応4年5月23日) - 1943年(昭和18年)12月14日)は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・戦間期の陸軍軍人。獣医学者・獣医師。陸軍獣医学校長、陸軍獣医総監を歴任した。最終階級は陸軍獣医中将。獣医学博士(1902年)、医学博士(1917年)。馬学の研究で知られた。 静岡県出身。静岡中学に学んだ。1892年(明治25年)、東京帝国大学農科大学獣医科卒業。1902年(明治35年)、獣医学博士(東京帝国大学)、1917年(大正6年)、医学博士を取得。 1892年(明治25年)12月20日、陸軍三等獣医。1895年(明治28年)1月8日、陸軍二等獣医。
大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7… 大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7月11日) - 明治35年(1902年)9月6日)は日本の教育者。出生名は大江磯吉(いそきち)。 1868年、信濃国伊那郡下殿岡村(現・長野県飯田市下殿岡)に生まれた。父および祖父は、殿岡、名古熊、毛賀の3カ村の警備「下役」に従事し、江戸時代は「番太」とされていた家系である。 地域最初の小学校で一年生から教育を受ける。開校された下伊那中学校の第一期生として入学する。1885年7月、改名され長野県立中学校飯田支校の第一期卒業生となる。1886年9月、長野県師範学校高等師範科第2級に編入となり、翌年7月卒業する。 1886年9月2日に、長野県諏訪郡平野小学校の訓導として赴任するが、同僚教師の間で排斥する動きとなり、7日後に辞職を余儀なくされる。
永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868… 永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868年7月10日) - 昭和4年(1929年)1月20日)は、明治・大正期の日本の海事実業家。高等商業学校(現・一橋大学)講師などを経て、日本郵船の副社長を務めた。 遠江国横須賀藩に生まれる。安房国花房藩横渚出身。高等商業学校(現・一橋大学)本科第二年生だった1889年から、村瀬春雄とともにアントワープ商業大学(Institut supérieur de commerce d'Anvers:現・アントウェルペン大学(英語版))に留学し、リサンシェ(フランス語版)(学士)を取得して卒業後、1894年に帰国し、高等商業学校講師となった。1895年に日本郵船に入社した。
本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7… 本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7月9日) - 昭和21年(1946年)3月29日)は、日本の小説家。本名は本田 浜太郎。 信濃国伊那郡山村(現長野県飯田市)生まれ。明治維新後、一家で上京。貧困により小学校を中退して丁稚奉公し、1881年砲兵工廠の職工となる。1887年砲兵工廠の火工科を卒業して熊本の第6師団野戦砲兵隊付へ赴任。「熊本忠愛新報」へ投稿するうちに認められ、1891年には同社に文芸記者として入社した。日清戦争の従軍記者をした後、1897年に内藤湖南に招かれて「台湾日報」の編集者となる。1905年「大阪新報」に「日本丸」が入選したのを機に作家生活に入り、結核の療養生活をしながら多くの大衆小説を大手新聞社やキングなどに掲載した。
石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月… 石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月19日)- 1939年(昭和14年)3月19日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員をつとめた。 肥前国小城郡、のちの佐賀県小城郡南多久村(現在の多久市)に生まれる。生家の石井家は、旧佐賀藩主鍋島家の外戚家門で、佐賀地方で繁栄した一族であった。 地元で小学校の教師として働き始めるが、郷里の先輩である大隈重信らの活躍に憧れて、政治家を志す。1888年(明治20年)には、弱冠20歳にして郡会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。10年後には佐賀県会議員に当選し、その期間、第17代県会議長もつとめた。また、小城郡是製糸、多久金融、多久土地の各社の取締役社長などもつとめた。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。