高岡 大輔(たかおか だいすけ、1901年9月15日 - 1… 高岡 大輔(たかおか だいすけ、1901年9月15日 - 1992年7月10日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡十全村(村松町を経て現五泉市)で、高岡忠興の二男として生まれる。1923年(大正12年)東京外国語学校印度語部拓殖科を卒業した。 新潟新聞社員、大倉土木(現大成建設)社員を務めた。1926年(大正15年)日印協会勤務となる。参謀本部嘱託、台湾総督府総務長官政治顧問などを務めた。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に新潟県第2区から国民同盟公認で出馬して初当選。第20回総選挙でも再選され、1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選した。
川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 19… 川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 1981年7月31日)は、日本の社会運動家、著述家である。21世紀になって公開された資料により、第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)のエージェントとなっていたことが判明している。 岐阜県大垣出身。1925年明治大学専門部政治経済科卒業。 1928年中国にわたり、上海で日支闘争同盟を組織した。1931年春、同盟の会合に出席した際、満鉄調査部上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、尾崎秀実と出会う。リヒャルト・ゾルゲとも知りあい、情報活動に参加した。1941年10月22日ゾルゲ事件で検挙され、のち懲役10年の判決が下された。
海後 宗臣(かいご ときおみ、1901年9月10日 - 19… 海後 宗臣(かいご ときおみ、1901年9月10日 - 1987年11月22日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。日本教育学会元会長。 1901年、茨城県水戸市生まれ。1920年、旧制茨城県立水戸中学校卒業。1923年、旧制第五高等学校卒業。1926年、東京帝国大学文学部教育学科卒業。1932年、国民精神文化研究所所員。1936年、東京帝国大学助教授。1947年、東京大学教育学部教授。1962年、定年退官、名誉教授。1958年、日本教育学会会長。明治教育史、社会科教育などを研究。 祖父は桜田門外の変に参加した「十八士」の一人である海後磋磯之介(宗親)。弟の勝雄も教育学者で埼玉大学名誉教授・福島大学学長。
馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 … 馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 - 1979年(昭和54年)6月4日)は、日本の政治家・日本社会党衆議院議員(1期)。行田市長。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1922年東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科卒。卒業後は東京日日新聞の記者となり、モスクワ特派員、外国通信部副部長、ロシア課長、出版局編集部長、毎日新聞社出版局長などを歴任した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で埼玉県から日本社会党公認で立候補するが、次点となった。同年5月に鴻巣町長に就任する。翌1947年町長を辞任し、4月の第1回埼玉県知事選挙に社会党公認で立候補したが落選。同月末の第23回衆議院議員総選挙で埼玉4区から社会党公認で立候補して当選した。
小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940… 小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940年11月20日)は、日本の詩人、小説家、漫画原作者、画家である。筆名に、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。 1901年(明治34年)9月9日、北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1923年、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し、作品や取材記事を書いた。
飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶ… 飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶろう、1901年(明治34年)9月8日 - 1955年(昭和30年)10月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県簸川郡塩冶村上塩冶(現出雲市上塩冶町)で、飯国恒一の六男として生まれる。同郷出身の宍道政一郎(出雲製織創業者)の書生を務めながら、堺中学(現大阪府立三国丘高等学校)、関西大学専門部法律科を卒業した。 宍道が経営していた大阪帆布、出雲製織で勤務。1941年(昭和16年)、出雲製織、錦華紡績、日出紡織、和歌山紡織が合併して大和紡績が設立されると、出雲工場長に就任。戦後は、常務、専務取締役を務めた。その他、島根県商工経済会評議員、石見人絹工場取締役、島根繊維工業取締役・社長、大和工業取締役、浜田機械工業取締役、大和農機具工業社長なども務めた。
滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5… 滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5日 - 1994年(平成6年)8月3日)は、日本の政治家、衆議院議員、運輸官僚。 満尾彦吉の長男として、鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれ。4年生まで中洲尋常小学校に通い、鹿児島県師範学校附属小学校に転校し卒業する。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類卒業する。旧制鹿児島二中では、のちの鹿児島市長平瀬實武と同級となる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科に入学し。在学中の1925年(大正13年)11月高等文官試験外交科に合格する。1925年(大正14年)に卒業し。鉄道省に奉職する。その年の月に高等文官試験行政科にも合格する。
三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年… 三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年12月18日)は、日本の医学者。九州大学名誉教授。専門は消化器外科学。胆石症の権威。 九州帝国大学医学部第一外科初代教授を務めた三宅速の長男として徳島県に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制佐賀高等学校を経て、1927年九州帝国大学医学部を卒業。 大学卒業後、九大医学部の赤岩八郎教授の第一外科に入局。助手を経て、1933年1月講師となり、1934年3月助教授に就任。その後、1934年10月から1936年8月にかけて在外研究員としてドイツに留学し、キール大学のアンシュッツ(Wilhelm Anschütz)教授に師事する。 1938年7月長崎医科大学第一外科教授、1941年12月岡山医科大学第一外科教授を務めた後、1947年7月、父が初代教授を務めた九州大学医学部第一外科の第4代教授に就任。
柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 -… 柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 - 1970年(昭和45年)1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。 農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。 沼風艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、響艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 199… 木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 1991年4月24日)は、日本の民法学者。京都大学名誉教授。長女は推理小説家の山村美紗、長男は政治学者で北海道大学名誉教授の木村汎、孫は女優の山村紅葉。
山中篤太郎(やまなか とくたろう、1901年9月4日-198… 山中篤太郎(やまなか とくたろう、1901年9月4日-1981年1月16日)は、日本の経済学者。第3代一橋大学学長。日本経済政策学会代表理事、中小企業学会会長、労働省中央労働基準審議会会長等を歴任。
多久 龍三郎(たく りゅうざぶろう、1901年(明治34年)… 多久 龍三郎(たく りゅうざぶろう、1901年(明治34年)9月4日 - 1983年(昭和58年)9月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、多久鍋島家(後多久氏)13代当主。 12代多久鍋島家当主、男爵・多久乾一郎の三男として東京市赤坂区青山で生まれ、父の死去に伴い、同年12月12日に男爵を襲爵した。 2歳で父祖の地佐賀県に移るが、10歳の時に上京。学習院に入り昭和天皇の御学友となる。1922年、学習院高等科を卒業。1926年(大正15年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、さらに同経済学部を修了。1927年(昭和2年)欧米に留学した。 1932年(昭和7年)織田信託監査役に就任。
神部 孝(かんべ たかし、1901年9月4日 - 1938年… 神部 孝(かんべ たかし、1901年9月4日 - 1938年6月15日)は、日本の翻訳家、フランス文学者。 1901年9月4日、静岡県駿東郡楊原村(現・沼津市)に生まれる。 1925年に早稲田大学フランス(佛蘭西)文学科を卒業後、同学科の教員となった(1925年9月−1938年6月)。 1938年6月15日、36才で没しており、後輩である根津憲三は『サランボオ』解説に「この作品の訳者は今から十数年まへの夏、いまだ春秋に富む身を、恵まれた文才を惜しまれながら他界の人となつた」と記している。また、早稲田大学百年史には「神部孝は大正十四年の仏文科卒業生で、昭和三年『文学思想研究』に「メリメ研究」を発表、大学では「テーヌ研究」などの講座を担当、その将来を嘱目された。
横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月… 横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月4日 - 1977年(昭和52年)8月24日)は、昭和期の華族(男爵)。加賀八家横山家第15代当主。 加賀藩重臣横山家第14代当主、男爵横山隆俊の子として生まれる。1934年2月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学法学部を卒業。大学卒業後、浅野物産に入社し、重役まで昇進した。その他、小野慈善院評議員、北陸大亜細亜協議会会頭、鶴来通運社長、北陸鉄道常務、石川県乗合自動車運送事業組合専務理事などを務めた。 長隆 - 長知 - (康玄) - 忠次 - 玄位 - 任風 - 貴林 - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - (隆貴) - 隆平 - 隆俊 - 隆良 - 隆昭
劔木 亨弘(劒木 亨弘、けんのき としひろ、1901年9月3… 劔木 亨弘(劒木 亨弘、けんのき としひろ、1901年9月3日 - 1992年11月29日)は、日本の政治家、文部官僚。参議院議員(4期)、文部大臣(第88-89代)。位階は正三位。 福岡県田川郡大任村(現大任町)に、開業医・劔木元享の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1927年、東京帝国大学法学部を卒業。2年後の1929年、文部省に入省する(嘱託)。香川県学務課長、本省教学局思想課長、専門教育局大学教育課長などを務め、戦後の1947年、学校教育局次長となり、6・3・3・4制導入に伴う法整備や予算確保に尽力する。その後大学学術局長、文部事務次官を経て、1951年、周囲の推しにより福岡県知事選に出馬するも落選、首相吉田茂のはからいにより、内閣官房副長官に就任する。
青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939… 青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939年5月2日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。1920年代から1930年代前半にかけて、日本男子テニス界を代表した選手の1人であったが、腸閉塞症のため37歳で急死した。主な成績は、1924年の第3回全日本テニス選手権男子ダブルス優勝、1932年のウィンブルドン選手権男子シングルス4回戦進出などがある。彼は三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に勤務し、1930年7月から1935年3月まで銀行のロンドン支店にいたことから、イギリス開催のテニストーナメント、とりわけウィンブルドン選手権で優れた戦績を出した。青木のテニスは、フォアハンド・ストロークに多少の弱点はあったが、バックハンド・ストローク、ボレー、スマッシュのいずれにもダブルスの分野で力を発揮し、とりわけロビングの技術に優れていた。
古川 兼秀(ふるかわ かねひで、1901年(明治34年)9月… 古川 兼秀(ふるかわ かねひで、1901年(明治34年)9月2日 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。平安南道知事。 古川兼定の二男として、福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。専売局属、江原道地方課長、平安南道地方課長、咸鏡北道財務部長、黄海道警察部長、平安北道警察部長、警務局図書課長、保安課長などを経て、1942年(昭和17年)10月、咸鏡北道知事に就任した。のち平安南道知事に任じた。
小川 一雄(おがわ かずお、1901年(明治34年)9月2日… 小川 一雄(おがわ かずお、1901年(明治34年)9月2日 - 1971年(昭和46年))は、昭和時代の政治家。長野県諏訪郡ちの町長、茅野市長。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)に生まれる。1919年(大正8年)湖畔学堂を卒業、富士見銀行に入社する。ついで、永明村収入役を経て、1949年(昭和24年)ちの町助役、同町長を歴任し、1955年(昭和30年)に茅野町が成立すると同町長に就任した。この間、諏訪郡町村会長、諏訪耕地協会長を兼任し、1958年(昭和33年)茅野市が発足すると、同市長となり1967年(昭和42年)4月まで3期務めた。 市長在任中には、道路整備、学校施設の整備、市民会館(現在の茅野市民館の前身)着工などの施策を進め、茅野市森林組合長、長野県国民健康保険連合会副理事長、諏訪林業振興会長、諏訪郡市水道研究会会長、茅野市観光連盟会長、茅野市農業共済組合長、諏訪土木振興会長、八ヶ岳中信高原国定公園協議会長などの要職を兼任。
金井 喜一郎(かない きいちろう、1901年9月 - 196… 金井 喜一郎(かない きいちろう、1901年9月 - 1961年7月16日)は、日本の映画監督、映画プロデューサー、作画監督、撮影監督、アニメーション作家(英語版)であり、実業家である。出生名佐藤 喜一郎(さとう きいちろう)、養子縁組後本名金井 喜一郎、筆名金井 木一路(かない きいちろ)。 日本初のアニメーション作家のひとりである北山清太郎の助手からキャリアを始め、アニメーション映画の撮影・作画、独立後はドキュメンタリー映画の製作も行ったことで知られる。東京線画フィルム製作所、都商会、都映画社、「目黒スタジオ」として知られる東京録音現像をそれぞれ創立し、代表を務めた。 1901年(明治34年)9月、栃木県足利郡足利町(現在の同県足利市)に生まれる。
稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - … 稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - 1955年2月21日)は、日本の農民運動家・政治家。衆議院議員(5期)。本名は「稲村 順蔵」、ペンネームは「村上 進」。 新潟県三条市出身。稲村道三郎の二男として生まれた。北海道帝国大学予科から東京帝国大学へ入学するが、兄・稲村隆一の影響を受け農民運動に関わるようになり大学を中退。1926年に労働農民党に入党し、雑誌「マルクス主義」の編集者。無産大衆党書記や社会大衆党書記を務め、1927年『労農』同人。1928年に日本大衆党に参加するが翌1929年5月21日に除名処分を受ける。1932年には秋田、新潟の農民運動に参加するも、1937年人民戦線事件で検挙され、釈放の後に帝国農業会嘱託や中央農会副参事として勤務する。
大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 … 大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 - 1987年12月7日)は、日本の建築家・建築史学者。修理技術者でもある。 木造古建築の不燃化を目指し、RC造で日本の伝統様式の再現を試みている。 主要作品には浅草寺本堂(1958)や川崎大師平間寺本堂(1964)、聖光寺本堂(1970)などや、松前城本丸跡に立地する松前城資料館(1960)が確認される。 東京出身。1926年東京帝国大学工学部建築学科卒。1941年「興福寺伽藍配置ノ我伽藍制度史上ニ於ケル地位ヲ論ズ」で工学博士(東京帝大)。1927年文部省宗務局嘱託となり、のち文部技官、国立博物館保存修理課課長、法隆寺国宝保存工事事務所所長。
美川 きよ(みかわ きよ、女性、1900年9月28日 - 1… 美川 きよ(みかわ きよ、女性、1900年9月28日 - 1987年7月2日)は、日本の小説家。 神奈川県出身。大阪府立大手前高等女学校(後の大阪府立大手前高等学校)卒。本名は鳥海清子。 大正15年(1926年)『三田文学』に「デリケート時代」を発表。昭和5年(1930年)以降「父の恋愛」など女性心理をえがく短編を手がける。画家の鳥海青児と結婚。
春 彦一(はる ひこいち、1900年(明治33年)9月27日… 春 彦一(はる ひこいち、1900年(明治33年)9月27日 - 1965年(昭和40年)11月2日)は、日本の地方官僚。官選岩手県知事、東京都副知事。 福岡県出身。春米吉の二男として生まれる。福岡県立嘉穂中学校、第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、東京市役所事務員となり電気局庶務課に配属された。 以後、東京市主事、電気局庶務課長、企画局庶務課長、同企画課長、同財務課長、総務局文書課長、電気局総務課長、東京市理事・電気局電車部長、市長室企画部長、東京都交通局総務課長、港湾局長、交通局長などを歴任。 1946年1月、岩手県知事に就任。
堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月… 堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 - 1948年〈昭和23年〉9月25日)は、日本の海軍軍人、体操研究者。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。海兵50期。 御馬下尋常小、濟々黌を経て、海軍兵学校第50期入校。席次は入校時298名中283番、卒業時272名中156番。堀内は第13期飛行学生(艦上機班)となったが飛行作業中に車輪止め位置を直そうと駆け寄りプロペラ接触、2日間意識不明の重症を負い2ヶ月間程治療後、飛行場に出るも教官から次期飛行学生に編入されると告げられ憤然とし「次期編入であれば飛行学生を辞めます」と立ち去ったという。このため砲術専攻へ転科し、のち駆逐艦や巡洋艦の砲術長を歴任した。
戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945… 戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945年8月9日)は、日本の哲学者。
佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)… 佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)9月27日 - 昭和49年(1974年)7月31日)は、日本の歌人、国文学者。文学博士。 祖父は儒学者正墻適処。兄は歌人佐伯新一郎。 鳥取県倉吉市仲ノ町に教育者佐伯元吉の三男として生まれた。 鳥取師範(現鳥取大学地域学部)、東京高等工業学校(現東京工業大学)を経て1937年早稲田大学文学部卒業。新聞記者や満州国官吏を歴任し、1960年「歴代和歌の詞に関する論文」で文学博士の学位を得る。 1926年歌誌『国民文学』に入社。「論の佐伯、作の新免(新免忠)」といわれ、『短歌雑誌』の歌壇批評で中央歌壇から注目された。 1935年歌誌『槻の木』に入社し窪田空穂に師事、戦後は歌誌『珊瑚礁』『樹木』同人、また『花冠』を主宰する傍ら多くの雑誌に短歌論を発表してその地位を不動のものとした。
大越 隆三(おおこし りゅうぞう、1900年(明治33年)9… 大越 隆三(おおこし りゅうぞう、1900年(明治33年)9月26日 - 1943年(昭和18年)2月8日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。嘉義市尹 福島県出身。1925年(大正14年)3月、東北帝国大学理学部を経て、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格後、1930年(昭和5年)4月に台湾総督府警務局保安課に出仕し、1933年(昭和8年)12月に地方警視に進み、屏東警察署長を経て、1934年(昭和9年)9月に台中州警務課長となり、1935年(昭和10年)9月、同州警務部高等警察課長に転じた。 ついで、台北州勧業課長を経て、1939年(昭和14年)7月に台南州嘉義市尹に就任した。
華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月… 華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月26日 - 1972年(昭和47年)8月10日)は、昭和期の官僚、外交官、政治家。衆議院議員。旧姓・江口。 山形県で江口親明の二男として生まれ華山儀一郎の養子となる。山形高等学校を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部を卒業。同年、内閣統計局に入局し統計局属に任じられ、同年12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、統計局書記官・庶務課長、興亜院書記官・総裁官房勤務、大東亜書記官・大臣官房会計課長、北京大使館参事官兼総領事などを務めた。戦後、参議院常任委員会専門員、山形県副知事などを歴任した。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に山形県地方区から日本社会党公認で出馬して次点で落選。
梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu… 梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu Umeda、1900年9月25日 - 1961年12月7日)は日本の僧、歴史学者。 1922年(大正11年)駒澤大学卒業後、ポーランドに留学し、ワルシャワ大学卒業。同大学講師。同国の「東洋学院」の教授にも任命され、日本語、日本文化を担当した。日本大使館の文化関係の委託業務を行った。戦時中は朝日新聞社ソフィア駐在嘱託。東欧諸国語の権威。1955年関西学院大学教授。1960年「ヴォルグ・ブルガール史の研究」で関西学院大学 文学博士。 梅田良忠は日本橋槙町で弁護士、梅田貞次の長男として生まれた。生まれた時の名前は梅田芳穂であったが、これは彼の長男と同じ名前である。
荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 19… 荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 1992年3月8日)は、日本の英文学者・英語教育者。青山学院女子短期大学名誉教授。 福岡県八幡市出身。1918年福岡県立東筑中学校卒業、親を失い母校で教える。1923年東京外国語学校卒業、西南学院高等学部教授兼中学部教諭。1925年武蔵高等学校教授。1943年東海大学の創立に参加し教授。1951年青山学院女子短期大学教授。1971年定年退任、名誉教授。武蔵高等学校在職中から多くの受験参考書を執筆した。 長男の荒牧重雄(1930年- )は火山学者(東大、北大、日大教授)。
吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年… 吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年(明治33年)9月25日 - 1968年(昭和43年)1月22日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府出身。1924年(大正13年)関西大学専門部法律科を卒業した。 大阪市役所勤務を経て、映画興業、不動産業を経営し、摂津怛産取締役社長、新大阪土地開発取締役社長、阪神土地興業取締役社長を務めた。 政界では、尼崎市会議員(1940年-1947年)、兵庫県会議員(1947年-1948年)を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党所属で立候補して落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に兵庫県第2区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33… 矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33年)9月25日 - 1984年(昭和59年)3月24日)は、大正から昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。富山市会議員。富山県の農民運動、無産運動の草分け。 富山県婦負郡倉垣村荒屋(和合町を経て現富山市四方荒屋)で、海産物商・矢後六蔵、とき の12姉弟妹の第四子、長男として生まれる。1913年(大正2年)3月、倉垣尋常小学校(現富山市立倉垣小学校)を卒業。北海道寿都郡寿都町で父が経営する海産物商兼船問屋で働く。 1919年(大正8年)9月に上京し東京主計学校夜間部で学んだ。1923年(大正12年)ニシンの不漁、肥料販売不振のため東京に移ったが、同年、単身で北海道に戻る。
伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月2… 伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月23日 - 1987年(昭和62年)9月8日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(7期)。 北海道白糠郡白糠村(現白糠町)で生まれる。1927年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。横浜市総持寺高等女学校教師、釧路市文化協会理事長、中華民国新民会河南省総会次長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第二区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、北海道第5区で第27回総選挙まで連続6回当選し、その後第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算7期務めた。この間、衆議院図書館運営委員長、同文部委員長、第2次吉田内閣農林政務次官、北海道開発審議会委員、裁判官訴追委員長、自由党両院議員総会副会長、同党政調会文教部長、同党総務、自由民主党文教制度調査会副会長などを歴任した。
上山 珊瑚(かみやま さんご、1900年9月23日 - 19… 上山 珊瑚(かみやま さんご、1900年9月23日 - 1927年9月8日)は、日本の女優。本名は三田小枝子。山川浦路の実妹にして上山草人の義妹。 1900年、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、鉱物学者の守一の娘として生まれる。東京女学館へ通うが、父の事業不振のため、大阪のプール女学院に転校後、中退。姉・千枝子(山川浦路)が上山草人と結婚したつながりから、近代劇協会が上演した舞台『ヴェニスの商人』などに出演。草人の友人だった谷崎潤一郎の紹介で1920年大正活映に入社。葉山三千子主演の『アマチュア倶楽部』に出演。谷崎潤一郎脚本映画『月の囁き』に主演予定だったが企画が頓挫。代わりに、泉鏡花原作、谷崎脚色、トーマス栗原監督の『葛飾砂子』に主演。
中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月… 中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月23日 – 1949年(昭和24年)11月3日)は、衆議院議員(立憲民政党)。厚生政務次官、陸軍参与官。ジャーナリスト。 茨城県に警察官の息子として生まれる。父の配属の都合で東京・茨城を転々としながら、水戸中学校に入学するも教師を批判したことで放校処分となり、日本中学校を卒業。日本大学専門部を中退し、やまと新聞に入社し水戸支局に入り、1922年(大正11年)に報知新聞へ移って土浦支局長になった。のち茨城民報を創刊するが、茨城民報はいはらき新聞に吸収合併され、そのままいはらき新聞社の取締役を務めた。 土浦町会議員、茨城県会議員に当選する一方で、茨城県出身の民政党代議士原脩次郎が拓務大臣に就任すると拓務省嘱託となり、ついで原が鉄道大臣に就任すると鉄道省嘱託となった。
荒井 退造(あらい たいぞう、1900年9月22日 - 19… 荒井 退造(あらい たいぞう、1900年9月22日 - 1945年6月26日?)は、日本の内務官僚。沖縄戦時、沖縄県警察部長として県民の避難・保護に尽力したとされるが、近年は北部疎開・義勇隊の編成など研究者から沖縄戦において戦争責任の声もあがっている。長男は国土庁審議官などを歴任した自治官僚の荒井紀雄。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都市上籠谷町)に農家の次男として出生。鐺山尋常小学校、清原尋常高等小学校、栃木県立宇都宮中学校と進み、その後上京し高千穂高等商業学校(現高千穂大学)に進学した後、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業、1927年高等文官試験に合格、同年内務省に入省した。 1932年、麻布六本木警察署長に就任。
桐山 利三郎(きりやま りさぶろう、1900年9月21日 -… 桐山 利三郎(きりやま りさぶろう、1900年9月21日 - 1995年11月5日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正六位。 1912年に広陵中学校を卒業。 1932年に神戸屋専務を経て、1953年に社長に就任し、1971年には会長に退いた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1976年に勲四等瑞宝章を受章。 1995年11月5日老衰のために死去。95歳没。死没日付をもって正六位に叙された。
濱田 成徳(はまだ しげのり、1900年(明治33年)9月2… 濱田 成徳(はまだ しげのり、1900年(明治33年)9月21日 - 1989年(平成元年)7月1日)は、日本の元官僚、元東海大学学長(第3代)を務める。東京府出身。 日本で最初に酸化物陰極を研究し多量生産方法を1928年に完成させた。電子技術審議会会長、NHK経営委員会長、日本科学技術情報センター長、エレクトロニクス協議会長などを歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月2… 立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月20日 - 平成3年(1991年)1月12日)は、日本の実業家、技術者。オムロンの創業者。立石孝雄は長男、立石信雄は次男、立石義雄は三男。 熊本県熊本市(現・熊本市中央区)新町に伊万里焼盃を製造販売する立石熊助およびエイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し熊本に移住、「盃屋」を店開きした。 一新尋常小学校(現・熊本市立一新小学校)、旧制熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を経て、1921年(大正10年)熊本高等工業学校電気科一部(現・熊本大学工学部)卒業。兵庫県庁での勤務を経て、1930年(昭和5年)に「彩光社」を京都市にて設立。
古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月… 古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月20日 - 1987年(昭和62年)3月8日)は、日本のジャーナリスト、外交官。筆名は中馬 藤十郎。 1900年(明治33年)に鹿児島県日置郡日置村大字日置(現在の日置市日吉町日置)に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、第一高等学校を卒業したのち、島津奨学資金の援助でフランス共和国のリヨン大学法学部へ留学し同校を卒業した。1923年(大正12年)からジュネーブに駐在し国際連盟事務局情報部に勤務した。同部ではロックフェラー3世(英語版)が連盟を学ぶために配属されており、古垣は彼と同室で過ごして面倒を見ている。1929年(昭和4年)に国際連盟事務局を退職し、同年に朝日新聞社に入社してロンドンとパリに在住し、論説委員としてロンドン支局長、欧米部長、ヨーロッパ支局長などを務めた。
草薙 正夫(くさなぎ まさお、1900年9月20日 - 19… 草薙 正夫(くさなぎ まさお、1900年9月20日 - 1997年8月1日)は、日本の哲学者。神奈川大学名誉教授。 1900年、香川県生まれ。1928年、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は神奈川大学教授。1950年12月、武藤光朗・鈴木三郎・金子武蔵らとヤスパース協会創立のための準備会を開き、翌年2月23日(2月23日はヤスパースの誕生日)発足。1960年に学位論文「実存哲学の根本問題 ヤスパース研究」を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1971年に神奈川大学を定年退任し、名誉教授の称号を得る。神奈川県立外語短期大学学長を務めた。
後藤 義隆(ごとう よしたか、 1900年9月20日 - 1… 後藤 義隆(ごとう よしたか、 1900年9月20日 - 1986年1月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。参議院議員(3期)。弁護士。大豊殖産無尽(現豊和銀行)社長。 大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。1922年中央大学専門部卒。大分市で弁護士を開業する。その後大分弁護士会会長、大分市議、同副議長、大分県議を経て、戦後、公職追放となる。 1949年に看做無尽として設立された大豊殖産無尽(現:豊和銀行)を設立し、同社の初代社長を務めた。 追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に大分1区から改進党公認で立候補して当選。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選した。
岡崎 清一郎(おかざき せいいちろう、1900年9月19日 … 岡崎 清一郎(おかざき せいいちろう、1900年9月19日 - 1986年1月28日)は、日本の詩人。 栃木県足利市出身。佐野中学校を中退後、太平洋画会研究所にて学ぶ。北原白秋の「近代風景」や村野四郎らの「旗魚」に参加、1929年第1詩集『四月遊行』を刊行。のち「歴程」同人。1960年「新世界交響楽」で高村光太郎賞、1971年『岡崎清一郎詩集』で第9回藤村記念歴程賞、1973年『春鶯囀』で第24回読売文学賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山室 民子(やまむろ たみこ、1900年(明治33年)9月1… 山室 民子(やまむろ たみこ、1900年(明治33年)9月18日 - 1981年(昭和56年)11月14日)は、日本の社会事業家。文部省の最初の女性視学官を務めた。日本救世軍大佐補。 東京府出身。山室軍平、山室機恵子の長女として生まれる。東京市の女子学院で学び、東京女子大学に入学するが、病気のため南湖院に入院し2年間休学する。 東京女子大学卒業後にアメリカのカリフォルニア大学に留学する。1937年(昭和12年)9月にロンドンの救世軍士官学校に入学する。1938年(昭和13年)に万国士官学校、万国本営編集部に勤める。1939年(昭和14年)に帰国する。 1945年(昭和20年)11月、山室、羽仁説子、加藤シヅエ、宮本百合子、佐多稲子、山本杉、赤松常子、松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始。
安部 清美(あべ きよみ、1900年(明治33年)9月18日… 安部 清美(あべ きよみ、1900年(明治33年)9月18日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。参議院議員。位階は正五位。 福岡県宗像郡東郷村(東郷町、宗像町を経て現宗像市)で、安部茂実、フサの長男として生まれる。父は日露戦争で戦死し「清美は教員」との遺言を残していたため教師を目指し、1920年(大正9年)福岡師範学校を卒業した。 1920年、宗像郡神興(じんごう)小学校(現福津市立神興小学校)訓導に就任。翌年から神興小では全校挙げて郷土を愛し、土に親しむ教育に取り組み、特につづり方指導に力点が置かれ、児童は日常の体験や作業学習を作文した。その作文が『高等小学校読本:農村用』巻三(文部省編、1929年発行)で掲載されて全国に知られ、神興小には全国からの視察がしばらく絶えなかった。
粟田 賢三(あわた けんぞう、1900年9月15日 - 19… 粟田 賢三(あわた けんぞう、1900年9月15日 - 1987年2月8日)は、日本の哲学者、編集者。 1900年、長崎県で生まれた。8歳で東京に移り、幼少期を過ごした。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)、第一高等学校理科を卒業し、東京帝国大学文学部哲学科に進学。1925年に卒業した。 卒業後は教員となり、武蔵高等学校に勤務。1934年、日本共産党に数百円の資金提供を行ったとして治安維持法違反の疑いで夫人とともに逮捕された。1935年に出獄し、その後は岩波書店に勤務した。「K・P・A」の名で『思想』の「思想の言葉」を執筆していた。編集部副部長を務め、後に嘱託。古在由重などの哲学者と親しかった。
田中 松月(たなか しょうげつ、1900年9月15日 - 1… 田中 松月(たなか しょうげつ、1900年9月15日 - 1993年5月12日)は、日本の政治家、僧侶、部落解放運動家。日本社会党所属の衆議院議員(当選3回)。本名は久光(後述の叙位・叙勲での官報告示は「田中松月」で告示されている)。 福岡県嘉穂郡大隈村(現・嘉麻市)の被差別部落の出身。1925年、旧制平安中学校(現・龍谷大学付属平安中学校・高等学校)卒業。浄土真宗の僧侶となる。そのかたわら部落解放運動に身を投じ、1922年の全国水平社創立大会には福岡県からの唯一の参加者として出席。1935年には全国水平社中央委員に就任。1939年には福岡県会議員に当選、1946年まで務めたのち、1946年の第22回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選(日本社会党)。
池田 清志(いけだ きよし、1900年(明治33年)9月15… 池田 清志(いけだ きよし、1900年(明治33年)9月15日 - 1991年(平成3年)7月29日)は、日本の内務・警察官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、最後の官選栃木県知事。
安藤 楢六(あんどう ならろく、1900年(明治33年)9月… 安藤 楢六(あんどう ならろく、1900年(明治33年)9月14日 - 1984年(昭和59年)1月11日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長、同名誉会長。小田急百貨店社長。 東京帝国大学で学び、1925年小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)に入社。関連会社であった東京山手急行電鉄及び帝都電鉄、小田急電鉄(初代)、戦時統合により発足した東京急行電鉄(大東急)での勤務を経て、1946年6月に大東急の取締役となり、後に専務、副社長に就任する。1948年6月1日の大東急解体にも大東急副社長として携わり、現在の小田急電鉄発足に尽力。同年12月、東急の第二会社として分離独立した(新)小田急電鉄の初代社長となる。
高森 龍夫(たかもり たつお、1900年〈明治33年〉9月1… 高森 龍夫(たかもり たつお、1900年〈明治33年〉9月14日 - 1958年〈昭和33年〉5月12日)は、日本の編集者・挿絵画家。雅号は「猟夫(れお)」「夜江」。漫画原作者の梶原一騎(本名・高森朝樹)は長男、同じく漫画原作者の真樹日佐夫(本名・高森真土)は次男。 熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)で英語の教鞭を執っていた父・高森貞太郎(1866年 - 1946年)と、熊本藩主細川家に仕えた林氏の長女・寿(? - 1963年)の間の7人兄弟(6男1女)の長男として兵庫県に生まれる。 青山学院卒業後、山梨県都留郡の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事などに従事し、太宰治の担当編集者となる。